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2007.01.31

怠惰な内科はイベント・ドリブンで病棟を回す

朝回診

医局を出て、いつもすぐに病棟。急変があれば、夜でもすぐに携帯電話が鳴るので、 前情報なしでもそれなりに何とかなる。

「今日はこの検査しましょう」とか、「薬出しときますね」とか。患者さんを回りながら、 いろいろ約束。メモしないから、2割ぐらい忘れる。

患者さんには、あらかじめ「忘れるかもしれないから、話が動かなかったなら、 看護婦さんにも確認して下さいね」と 「頼れない医者」をアピールしておく。そうすると、昼までには「あの話どうなりました?」と ナースルームに問い合わせが入るから、病棟で「またあいつかよ…」と毒づかれながら、 ドクターコールが入る。

入職して半年、看護婦さん達もようやく、 「この医者全然信用できない」というのが浸透してきて、 主治医の頭を補ってくれるようになった。

回診の後、ナースルームでオーダー出し。

  • ○○さんは吐き気があるそうです
  • ○○さんが3日排便がないそうです

患者さんとの約束をロストしても、看護婦さんサイドからこんな声を聞けば、やることは一緒。

特定の症状や要望に対して、1人の医者の医者が取る行動なんて2パターンぐらいしかないから、 かなり高い確率で行動は一致。外れたとしても、患者さんに「主治医は頼りにならないよ」と 保険をかけて、冗長性を確保してあるから案外大丈夫。

昇圧薬の調節とか人工呼吸器の調節みたいに間違えると危険なものは、 オーダーだけじゃなくて自分でやる。

自分でやっておいて、メモを張ったり、患者さんと看護婦さんとに後から報告したり。

仮に報告を忘れたとしても患者さんが知らせてくれたり、みんなが忘れたとしても、 とりあえず「量を調節する」というタスクだけは果たされる。

報告を忘れると、外来中にも「○○さんの薬の量が変わっているんですが、知りませんか?」という 問い合わせがガンガン入る。ここで逆切れするとイベント駆動はできないから、 「すいませ~ん」なんて軟らかく謝罪。

外来

朝からけっこう忙しい日に限って、「今日必ず検査のフォロー」なんて記述をカルテに見つける。 1ヶ月前の自分からのメッセージ。聞いてねぇよ、ていうか今日忙しいんだから最初から 先月やれよ>俺。

過去の自分に悪態つきながら検査。そういえば先月も忙しかったんだよな、やる気ない時期で、 今月に飛ばしたんだよな、とか。余計なことを思い出しながら検査。

外来も何十人目かでいいかげん疲れてきて、お昼も目前になってくると、 やっぱり「来月の自分」へのメッセージ。

  • 次回コレステロールをフォロー
  • 次回家族を交えてムンテラ
  • そろそろフォローの紹介状を
  • 次回までに診断書

どうせまた来月ドツボって、過去からのメッセージ読みながら一人怒り狂うのは分かってるけど、 これをやると「今の自分」は大助かり。ごめんね>来月の自分。

お昼休み

「○○さんと○○さんと○○さんの御家族がお見えです」

いきなりPHSが鳴る。トリプルブッキングとか、全然聞いてないよ。

これもまた、3日前の自分と、2日前の自分と、昨日の自分のしわざ。 お前らいいかげんにしろとか怒ってもしょうがない。自分のせいなんだから。

看護婦さんが気を利かせてくれて、みんなの時間を微妙にずらしているから大丈夫だけれど、 そこまで気が回るんだったら、トリプルブッキングになった時点で一言あると、 もっとありがたいんだけどな。

昼休み全滅のまんま、午後回診。

午後のカルテ書き

デューティーがない日は、夕方の回診済ませて、カルテ書き。

温度板見て、カルテをみると、昨日の自分からのメッセージがいろいろ。

  • 右脇腹の皮疹のフォロー
  • 頭痛2日め。3日続いたらCT
  • 次腹痛あったら胃カメラ勧める

回診でみてない事ばっかり。そのつど病室とナースルームとを往復。

病棟で、整形外科に入った下級生から「先生、○○さんみておきました」と呼びとめられる。 何のこと?知らない。と思いながらカルテを見直すと、「本日セ外依頼を」なんてメッセージ。

依頼だけ出して、紹介状書いてないや。依頼したことすら忘れてた。温厚な後輩を持てて幸せ。

気がついたことをカルテにメモしながら、思いついたことは翌日の自分への手紙にしてカルテに記載。 そろそろ面談組もうとか、まだ早いけれど、熱下がったら検査を組もうとか、そんなこと。

明日の同じ頃、それ読んだ自分がまた「聞いてねぇよ」と驚いて、そしてまた同じこと の繰り返し。

まとめ

記憶力が無いに等しいので、昔からこんなやりかた。 ルールは4つ。

  • 過去からのメッセージには絶対従う
  • ちょっとでも気がついたことは必ず未来に手紙を書く
  • その日宛の「手紙」は絶対その日に消化するか、翌日宛に手紙を書き直す
  • みんなとうまくやる

普段の仕事は反射神経で対応するし、何か気がついてもすぐ忘れちゃうから、 それはカルテにメモをする。記憶を保持するのは自分以外の誰か。いつも自分は誰かから 何か「シグナル」を入れてもらって、受動的に行動して病棟を回す。

経過で見ないといけない人は、たいていは病棟の主任クラスの看護婦さんが把握しているから、 相談しながら経過を討論。コメディカルの人の言うことは、当たっていることも、外れていることも あるのだけれど、相談しないよりは相談したほうが何倍も正確。

「この医者は信用しちゃいけない」ということを周囲が分かってくれるという前提があって、 自分的に理不尽な呼ばれかたをした時にもキレたりしないで、医師、コメディカル、患者さんの 交渉チャンネルがちゃんと確保されてさえいれば、こんなやりかたはけっこううまくいく。

2007.01.30

デスマーチなんだろうか?

久しぶりに喧嘩を売ってみる。

♪デスマーチったらチッタカタァ行進だ  デスマーチったらチッタカタァ行進だ  新人くん派遣くん かわりばんこ かわりばんこ  吐いて寝込んで チッタカタッタッタァ  病院へ連れて行け チッタカタッタタァ

♪デスマーチったらチッタカタァ行進だ  デスマーチったらチッタカタァ行進だ  上司くんシスアドくん ザックザックボッコボッコ  ザックザックボッコボッコ

 いい音鳴らして チッタカタッタッタァ  病院へ連れて行け チッタカタッタタァ

 か か 変わる 仕様書  み み 未曾有の 修羅場  あるのか ないのか なくても あっても おしまいだ

♪デスマーチったらチッタカタァ行進だ  デスマーチったらチッタカタァ行進だ  マウスくん 端末くん ひだり みぎ ひだり みぎ  0 1 10 11  ぼくも倒れて チッタカタッタッタァ  病院へ連れて行け チッタカタッタタァ   ……デスマーチのうた。

IT 業界と医療業界

新小児科医のつぶやき - デスマーチ・プロジェクト がずいぶん盛り上がっていて、コメント欄がなぜか富士通叩きでお祭り騒ぎ。

IT業界のお話というのは本当に参考になることばかりで、このblog でもいつも引用させてもらってばかり だけれど、プログラマの人達と、我々医療者とはやっぱり別世界。

  • 仕様書は変わらない:糖尿病の人が「やっぱり腕もう1本増やしてよ」なんていわないし、 基本的にはみんな「よくなって、歩いて帰る」のが要求仕様の全て
  • カットオーバーがない:プログラムは、動いてみるまで動くかどうか分からない。人体はいつも動きつづけるから、 よくなれば「よくなって」見えるし、進捗状況は一目瞭然。プログラマの業界では「動かないこと」が問題だけれど、 我々の業界は「動くのに帰るところがない」こと
  • プロジェクトが複数:1つの大規模プロジェクトでドツボにはまるのがデスマなら、 我々の業界は小規模プロジェクトを複数同時進行するようなもの

Yosyan 先生の引用先 では、「医療全体」をひとつのプロジェクトにたとえていて、これはたしかにデスマーチなのだけれど、 現場で実感しているのはもっとローカルで、切実な問題。

顧客の要求水準は上がってきたけれど、それはまだ十分に予測の範囲だし、 医療者側の技術水準だって、この10年ぐらいでそれなりに向上した。 デスマーチプロジェクトの顧客というのは もっとうんとわがままだから、医療が現状を「顧客」のせいにするのは、まだちょっと甘いと思う。

デスマというよりサーバー負荷の問題

問題が増えてきたのは、単純にお客さんの数が増えたから。

顧客一件一件が医師に要求する処理というのは、決してそんなに大きくなってはいない。 ところがアクセスがよくなって、病院に殺到するお客さんの数が増えてしまったから、 それをこなす「サーバー」たる医師がパンクした。

IT のたとえでいうなら、これはデスマーチではなくて、「C10K問題」。

個々のクライアントがサーバに要求する処理量は小さなもので、 ハードウェアの性能上は問題がないにもかかわらず、 あまりにもクライアントの数が多くなるとサーバがパンクする。

これが最近Web開発者の間で話題となっている「C10K問題」(クライアント1万台問題)。

手続き型医療の限界

今までの医療というのは、手続き型のやりかた。

人間は、一つの仕事を処理するときには、それを小さな仕事に分割して、順番に処理する。 「話を聞いて、診察をして、検査をして薬を決めたら伝票を書いて、 あとは3日待ったら検査を再検して」みたいなやりかた。

それぞれのプロジェクト―病名―ごとに手続きはある程度決まっていて、 医師は複数の手続きを頭の中で 同時進行させながら、日常業務をこなしていく。

手続きは日々改良されているけれど、それでもひとつの「流れ」であるという部分は一緒。 人間の頭を駆動するOS はバージョンアップされていないから、 複数のプロジェクトを同時進行で流すと、必ずどこかに無理がくる。

仕事は忙しくなる。それを何とか乗り越えようとして、ガイドラインや新しい教科書が作られて、 医師の負担を減らそうとしてきたけれど、 そうした努力は「手続き駆動型」の枠を出るものではなかったように思う。

人間の脳がこなせるスレッド数には限界がある。手続き駆動型のままで 多すぎるスレッドを同時にこなそうと思ったら、 入力を絞るか、寝ないでがんばるか、どちらか。

医療をデスマーチにたとえる行為は、 たぶんこんな考えかたの延長なんだと思う。

優秀な主婦はイベント・ドリブン方式でパンを焼く

多重処理の問題を解決するひとつの方法が、イベント駆動型のやりかた。

Life is beautiful: 優秀な主婦はイベント・ドリブン(event-driven)方式でパンを焼くに書かれていることが全てだけれど、そのまま引用する。

(パンを焼きながら洗濯をしたり、掃除をしたり…という複数の仕事をこなす主婦の話) 複数の仕事を同時にこなしている彼女たちにしてみると、自分がそれぞれの仕事のどのステップにいるか (つまりcontext)を常に完>璧に把握しておくことは不可能に近い。 手続き型のレシピのままで作業をしようとすると、それぞれの仕事において自分が何をして おくのかを把握しておくだけで頭がパンパンになってしまうし(memory overflow)、 頭の切り替え(context switch)にやたらと時間>がかかって作業効率が落ちてしまうからだ。

解決策として文中で示されているのが、タイマーを使って手続きを分割するやりかた。

そこで、パンの発酵中にはタイマーをしかけておき、タイマーが鳴ったところで 「あ、キッチンでタイマーが鳴ってる。えっと、何のタイマーだっけ。 そうだ、そうだ、パンの二次発酵中だったんだ。じゃ、次はオーブンの温度を上げてと…」 というイベント・ドリブンな仕事のしかたをしているのだ。

言い換えれば、彼女たちの頭の中では、上の「手続き駆動型のレシピ」が、 以下のような「イベントに応じた作業(event handler)」の集まりである 「イベント・ドリブン型のレシピ」に変換されて実行されているのだ。

手続き型の問題解決手法は、スレッド数が増えれば増えるほど切り替えの オーバーヘッドが増えてしまって、どこかで破綻するのが避けられない。

イベント・ドリブン型は、 それぞれの「イベントに応じた作業」が規格化・単純化されてているため、 仕事の量に応じて人を増やすだけで、 スケーラビリティーの問題が発生しないのが最大の利点。

作業の単純化、規格化がなされるならば、次にくるのは分業の可能性。 業務の一部を看護師に委譲するとか、準医師みたいな資格が将来的に できることになっても、規格化さえなされていれば、対応は可能。

医療者側の反省点はひとつ。ベテランの先生がたは、 みんな手続きを洗練することに淫して いただけで、手続き型のプロセスをイベントごとに ブレークダウンする行為を放棄してしまったこと。

忙しい病院の現場では、イベントドリブンで仕事をすることはよくあって、 それは「汚いやりかた」として敬遠されるけれど、案外うまくいく。

ところがベテランの先生方が集まる世界では、汚い物よりきれいなものが好まれるから、 イベントごとに細分化されたやりかたが広まらない。

病院の現場は、ここに来て忙しさが切迫している。多重処理のスケールが大きくなりすぎて、 従来の手続き型のプロセスではいよいよ追いつけなくなったから。

病院の集約化は、たぶん破滅的な結果を招く。

医師が集約すればするほど、どこかにボトルネックを生じる可能性が高くなるし、 手続きの実行待ち時間、検査の予約とか、書類仕事なんかが膨大になって、 集約化に逆比例して仕事の効率が落ちてしまう。

2人集まれば2倍の仕事ができる医師でも、5人集まれば3人分、 10人集まったって5人分の仕事をこなすのがやっと。

手続き型のプロセスの限界から目をそむけて、 集約化に伴う非効率を何とか根性で誤魔化そうとしているのが 今の流れみたいだけれど、手続き型からイベント駆動型へのプロコルの書き換えをやらないで、 集約化なんてできるはずがない。

大学にいた頃、イベント駆動型の内科マニュアルを作って公開したことがあった。

こういう大きなものを作るときは一種の「ハイ」の状態。それこそ、デスマーチの真っ最中みたいな。 「これがウケなきゃウソだ」とか、「俺って天才?」とか思いながら勇躍公開したけれど、 反響はさっぱり。

某FMJ の某氏からは「あんな匿名のマニュアルには何の意味もないですね」なんて メールをもらったりして、「じゃああんたもっといいもの作れよ」とか思ったけれど、結局それっきり。 こういう作業こそは、やっぱりベテラン勢がきっちりやらないと無理。

受診抑制とか、患者教育とかいろんな「解決策」が提案されているみたいだけれど、 あんなの技術者の解答じゃない。医療者側にもまだまだ技術屋として やっていないことがたくさんあって、 それをやらないでIT に学ぶとかいっても、 たぶんデスマってるプログラマの人達は笑うと思う。

臨床の知恵を我々「下々」にブレークダウンして、 診療スタイルを手続き駆動型からイベント駆動型へと変更できるのは、 現場を生き延びてきたベテランの先生方だけ。

JBM とかやってる時間があるなら、 ぜひともベテランの「守りの知恵」と「攻めの技術」を次の世代に伝えて欲しい。

現場はきっと、何よりもそれを望んでいる。

2007.01.29

対話の論理と劇場の論理

  • 立場の違いによって最適な議論手法は異なる
  • 立場の強い側は対話的な、立場の弱い側は劇場的な議論手法が最善手
  • 対話の論理は原因を人間に求める。「悪い人間は誰か」「どちらが悪なのか」が争点になる
  • 劇場の論理は原因を構造に求める。問題は悪人が生じる「構造」であって、人間それ自体ではないと考える
  • 対話の論理では「正義か悪か」が大切なのに対して、劇場の立場は「悪」であることを受け入れるところから議論が始まる
  • 劇場論理を行使する者は、まず悪であることを容認して、その上で悪役を作らざるを得ないシナリオの問題点を指摘する
  • 片方が対話の論理を取り、片方が劇場の論理を取った議論は全く噛み合わないか、泥仕合になる
  • 相手を自分のフィールドに引きずり込むところから議論は始まっている

強者の論理=対話

強い立場の人、あるいは正義の側が用いるのが対話の論理。

強い立場の人達は、社会の構造というものは、 自分達を強く保つのに有利に働いているから、 できればそれを壊したくないと考える。

社会に何か問題がおきたとき、「構造」に手をつけないで問題だけを解決するのにいちばん 簡単な方法は、「誰かのせいにする」こと。

問題をおこしたのは、あくまでもその人個人の資質が足りなかったり、 その人が「悪」だったからであって、社会の構造自体には何の問題もない。

自らの正義を保証してくれるのは、社会の構造。社会を構成している大勢の人、「みんな」 の理性にはとりあえず眠っていてもらって、悪役を振られた誰かにだけ犠牲になってもらう。 マスコミであったり、司法であったり。世の中の正義を維持する側の人達が使っている、 そんなやりかた。

  • レッテル―攻撃対象となる人にネガティブなイメージを押し付ける。相手を「男性」でなく「男」と 表現したり、攻撃対象が「やっちゃった」「最悪」と発言していたなどと報道したりする
  • 普遍化―多くの人が普遍的価値を認めているものを利用する。「命は地球より大事」「健康は国民の権利」とか。 異を唱える連中は絶対悪になる
  • 権威―多くの人が認めやすい権威を味方につける。「テロリストがお父さんを殺したんだ」 と子供に泣いて訴えさせたり、原油まみれの水鳥を「イラクの犯罪」として公開したり。 「権威」は大人である必要はなく、人間である必要すらない
  • 平凡化―正義の側に親近感を持たせる。 「遺族の目線で捜査をしていきます」と検察が宣言するのはこれ。 「捜査」が「操作」になったところで、「庶民の味方」ならしょうがない
  • バンドワゴン―その事柄が世の中の権勢であるように宣伝する。みのさんの得意技

対話ルールに必要なのが、わかりやすい悪役の存在。

悪役の中から「正義に目覚めた例外」が出てくることは、正義にとっては必ずしも成功を意味しない。 こうした例外は味方になる反面、「悪の中にも善がいる」というシナリオを駆動してしまい、 善悪の2元論的対立というシンプルな物語を分かりにくくする。

国家同士の戦争では、たとえ敵対関係にあっても、敵国民全員を例外なく憎むことはたいてい 不可能であるため、 敵国の指導者という「顔の見える悪役」を用意して、 その人格の醜さを強調することで「例外」を国民から隠す。

隠された「例外」は無かったものとして処理される。

弱者の戦略=劇場型論理

対話型論理にはめられると、立場が弱い側が勝つ見込みがほとんどなくなる。 弱い側が生存率を上げようと思ったら、相手の論理から脱出することを考えないといけない。

劇場型の論理というのは、「悪」が生じた原因を、人ではなく「構造」にあると訴えるやりかた。

構造主義的な立場は、立場の善悪と、人間の善悪とを区別して考える。

どちらか一方の立場を「悪である」と正義が認定するのも、その立場を受け入れるのも、 社会の構造がそう決めたからであって、その人自身が悪いのかどうかは、全く別問題。

社会の構造自体に問題や矛盾があるからこそ、叩く側と叩かれる側とが生じる。 問題なのは悪役が必要なシナリオの不備であって、その人自身ではない

劇場型論理では、議論の場には3人、「悪役」として叩かれる側と、「正義」の立場から叩く側、 そして、両者を上から観察する「観客」との3つの立場の人がいると考える。

  • 対話論理は、観客になるべく眠ってもらっていて、その間に悪役を叩く
  • 劇場論理は、「役」としての悪の立場を受け入れて、その上で観客に訴え、 台本の不備に気がついてもらう
  • 物語の台本こそが、正義を正義たらしめているから、 対話論理を支持する側は、台本が書き変えられるのを好まない

立場の弱い側は、どんな戦略を取ったところで勝率は低いのだけれど、 対話ルールから劇場ルールへと転換することで、少しだけ生存確率を上げられる。

独裁国家の秘密警察は、政治犯を政治犯罪者として逮捕することは避けるのだという。

政治犯罪者が政治犯として逮捕されるというのは、そのこと自体が政治犯の勝利。 秘密警察はそれが分かっているから、政治犯を万引きとか痴漢とか、もっと矮小な犯罪で検挙して、 その政治犯の人格を貶め、対話ルール内での勝負を続けようとする。

福島県の事例では、検察側はこんなコメントを発表した。

我々としても医療関係者が日夜困難な症例に取り組まれていることは十分認識している。 しかし、今回の事件は、医師に課せられた最低限の注意義務を怠ったもので、 被告の刑事責任を問わなければならないと判断した

このコメントは、「我々は対話ルールで物事を進めるから、 みんなバックグラウンドの構造に立ち入るような真似をしないでね」 という検察サイドからの牽制に思える。

のび太と次元とゴルゴの決闘

劇場型の勝負を仕掛けるときには、戦わないことすら勝利戦略として機能しうる。

  1. のび太と次元とゴルゴ13 がピストルで決闘する
  2. のび太の命中率は 30% 、次元は 60%、ゴルゴ13 が 100%
  3. 弾を撃つ順番はのび太、次元、ゴルゴの順
  4. 生存確率を最大にするには、のび太は誰を狙うべきか?

最適戦略は、のび太は「パス」すること。空に向かって撃つとか、狙わないとか。

  • もしも次元を射殺すると、のび太は100% の確率で ゴルゴに殺される
  • ゴルゴの射殺に成功すると、のび太は60% の確率で次元に殺される
  • ゴルゴと次元の最適戦略は、お互い「のび太以外を狙う」ことだから、初弾を外せばお互い殺しあう

初弾を外したとき、のび太の生存確率は46% 程度まで上昇しうるという。

対話ルールというのは、決闘場にのび太と次元しかいない状態。 のび太がこの世界で生き残ることは難しい。

うまく理由を見つけて、ゴルゴ13を決闘に引っ張り込むことができるなら、 ルールはそれだけ複雑になって、のび太の生存確率が上がるケースも出てくる(のび太が何人いればゴルゴ13に勝てるか?より)。

「のび太―次元―ゴルゴ13 」の関係というのは、 たとえば「医療―司法―国民」であったり。自分がどの立場なのか。引っ張り込むべき「上」が 実体として存在するのか。状況によって取るべき戦略は変わってくる。

我々はマスコミもまた話し合えば分かり会えると信じている。 ○木記者ですら、その立場上暴走するしか選択の余地がなかったのだと思う。 ならば、記者の暴走を許すような甘い監視体制、 真実を曲げてまでも新聞者に売上げ強要する、「広告主-新聞社」の構造には、 改善すべき問題点は無いのか?

こんなやりかた。弱さを認めて、悪である立場をとりあえず受け入れて、 その上でもっと「上」の人達、新聞社なら広告主の人達を議論の場に引っ張りこんで、 医療者と新聞社とどちらが悪いのか、それを一緒に考えてもらう。

福島県の裁判では、事実関係の応酬の後、弁護側が「憲法38条と医師法21条の違法性について」 という議論を展開したらしい。

これは「対話ルール」から「劇場ルール」へと議論のルールを変更しようという動きで、 検察側はこれに対して「弁護人の陳述は本件と全く関係ない事柄です」という反論を行い、 議論のルールが劇場型に流れるのを阻止しようとしている。

自分達にできること

劇場型の戦略は、話がどんどん大きくなるから、問題解決までに時間がかかる。

一度切り出した話題は引っ込められないし、「観客からどう見られるか」が とても大切になるから、一度劇場戦略を開始すると、 相手側とは妥協できなくなってしまう。泥沼化必至。初回から弁護側が憲法問題に 話を振ってきたというのは、泥沼に足を踏み出す覚悟をみんな固めてきたという 意思表示なんだろう。

これは実存主義と構造主義との争い。

論争の中心を「人間」から「構造」へと変更するのは難しくて、 「構造」の矛盾を誰にでも分かりやすく解説することと、 「人間」の話題をなるべく小さく維持することと、両方が必要。

色あせた事実に判断の色をつけて、構造の問題点を人間中心に再構築するのがマスコミのやりかた。

マスコミの描いた絵から余計な色を抜いて、事実が生まれた構造を分かりやすく広めることが 医療者側の戦略で、弁護側の人たちはそんなプランを持っているはず。

外野ができることというのは、弁護側の「構造解析結果」が公開されるまで、あんまり騒がないこと。

相手の人格攻撃とか、「国民に思いしらせる」とか、そんな騒ぎかたというのは「対話ルール」を 進める人達にとってのプラスにこそなれ、医療者側には利益がない。

医療者側が劇場論理で戦うことを決めていて、それを支持する立場をとろうと思ったならば、 みんなが常に「観客」というものを意識しながら行動することと、 長期戦に対しての支援を止めないことだと思う。

分析と発信とは、専門の先生方がきっとこれから進めていくはず。進めてくれないと困る。 誰もが納得するような「構造の矛盾」が発信できないならば、そもそも劇場型戦略なんて まったく機能しない。

今自分にできるのは、だまって寄付を続けることぐらいだろうか…。

追記:「ものすごく恥ずかしいことに完璧に間違っている」「頭使おうよ!!」という批判をいただきました。非常に真摯に書かれている文章で、本当にありがたいのですが、私の限界なのでしょう、残念ながら後半部分がよく分かりませんでした。読者の方は、ぜひともリンク先を一緒に見ていただき、判断をしていただきたいと思います。

2007.01.24

平均と累積との隔たりが主流派の場所を見失わせる

累積するランダムウォーク

  1. 飲み屋さんから酔っ払いが出て来て歩きだす
  2. 酔っているからどちらにむかって歩くか分からないし、いきなり Uターンをはじめることもある
  3. 酔っ払いは疲れを知らないから、朝になるまで無限に歩き続ける

100万人の酔っ払いを道路に放して、たとえば朝になったときのみんなの位置を平均すると、 たぶん飲み屋さんの位置からほとんど動かない。酔っ払い一人一人の位置はバラバラだけれど、 その数が増えれば増えるほど、平均の位置は原点に近くなる。

ところが、一人の酔っ払いに100万人分歩いてもらうと、その酔っ払いが最後に立っている位置は、 元の飲み屋さんとはかけ離れた場所になってしまう。

プラスとマイナス。平均すると「ゼロ」に収束する変化であっても、 それが累積すると、極端な場所に偏ってしまう。

見えない主流派

南京虐殺というのは「あった」のだそうだ。

ネットでは、あれは中国の陰謀だとか、そもそもあんな人数当時の南京には存在しないとか、 そんな意見が主流になっているけれど、歴史をやっている人達の「主流派」の意見とは 異なるのだとか。

小学校の学級委員会みたいな「みんなの顔が見える」議論では、主流派の人達というのは、 もっとも声の大きな人たち。裏ではいろいろあるにしても、担任の先生が見たみんなの意見と、 クラスの主流派の意見とは、たぶん一緒。

ネット世界では、一番見えにくいのが主流派の人たちの意志。

南京大虐殺の話題なんて、 右か左か、どちらかに偏った極端な意見しか目に入らなくて、「学会の多数派はこう考えている」 といった意見を探すのはとても大変。主流派の人達から言わせれば、きっと探しかたが足りないとか、 「リテラシーが低い野郎はこれだから…」とか言われるんだろうけれど。

抗生物質の使いかたなんかでも、同じ経験。

研修医の頃は朝の4時でも検体のグラム染色が義務で、眠い目こすりながら顕微鏡のぞいて、 患者さんが発熱してから薬が入るまで半日とかザラ。

日本にたくさんいる「悪い医者」は、こんな正しい検査を全部飛ばして、 みんな抗生剤を考えなしに使いやがる…

こんな話を上級生から聞かされては、「正しいのはやっぱり自分達なんだ」なんて カルト的なかん違いをしていたのも今は昔。

いろんな病院を転々としたけれど、主流派のはずの「悪い医者」なんてどこにもいなくて、 みんな自分達なりに診断したり、考えたり、抗生剤を選んだり。

自分達が主流派ではないのは確かな事実だったけれど、その当時の自分達から見て「主流」だと 思ってた「悪い医者」というのは単なる憶測。「主流」はどこにもいなかった。

累積していく悪魔の証明

お互いの顔が見えない議論が白熱してくると、どうしても悪魔の証明の蓄積が生じてしまう。

相手が「ある」という証拠を持ち出して騒ぎはじめたとき、それに対して「そんなでもないよ」という 反論をして、それを証明するには莫大な労力がいる。

ネット議論は時間勝負みたいなところがあるから、 相手の「ある」に対抗しようと思ったら、「ない」ではなくて、別の「ある」を持ち出すほうが簡単で 確実。議論はしばしば「ある」証拠や、憶測の応酬になってしまって、収拾がつかなくなる。

あらゆる証拠を平均して、議論の「原点」を定められれば建設的な流れを作れる。

ところが、平均という操作を行うためには上からの視点、学校の先生みたいな人とか、 あるいは歴史の真実を知っている神様的な視点、証拠の重み付けをして、 憶測を排除する上位の存在が欠かせない。

町をさまよう酔っ払いは、自分の場所も把握できなければ、相手の場所も 憶測するしかない。みんなの居場所を平均して、元の飲み屋さんの位置を 推定するには、GPSみたいな機械が必要。

「普通の医師」はどんな人なのか

医療の崩壊が臨界点を超えたらしい。全然実感できないんだけれど。

情勢が悪くなっているのはもう間違いなく、紹介できる病院はますます減っているし、 近所の公立病院からも内科が撤退したりするし、悪い話ばっかり。

実際本当に崩壊しかかってているんだけれど、それでも地域は回っているし、 今も働いている医者はいっぱいいる。臨界はもう少しだけ先。

医療崩壊がらみのネット議論は、「もう崩壊だね」という証言、 「もう滅ぶしかないね」という憶測が積み重なりすぎてしまって、現時点での「普通の医師」が 平均してどんな暮らしをしていて、自分達はどのあたりを目指せばいいのか、見えずらい。

今の仕事辞めたとして、じゃあ開業したり、廃業して株式投資だけで 人生満喫できちゃったりする医師なんて、実際のところ何人いるんだか。 崩壊だ何だいったって、自分にやれることなんて、結局医療行為だけ。

開業しましたとか、今海外でMBA取ってますとか、ネットにはいろんな選択をした先生方の コメントが載るけれど、自分にはとても真似できないし、むしろ生き延びるためには 現状を何とか維持する方法を探す以外、ちょっと思いつかない。

様々な意見の累積は、その平均値である「主流」が今どこにあるのかを見えにくくする。

今の自分が「主流だ」なんていう気は全然ないけれど、大学を含んだいろんな病院を回って、 そんなに極端な立場を取ってるわけでもない。 中心ではないにしても、そんなに離れてはいない立場のはず。

「どうやったら生き延びられるのか」というのはとても大事なテーマで、 ぜひともそれを知りたくて、いろんな人の意見を聞いて回っているけれど、 まだ答えがよく分からない。

サバイバルというのは戦争と一緒で、今までどおりまじめにやるだけでは 無駄死にするだけ。正しい情報に基づいて、 正しい計画を立てることがとても大切。

極端な意見の応酬になって、極端な憶測の元に計画立てても、 「平均」の人達が引いてしまうだけ。たぶんうまくいかない。

「主流」の場所を見失わない議論のやりかた

軍隊では、「狼が来た」という言いかたはしないのだそうだ。

軍隊語は日本語ではなく、更に言えば日本語で戦争はできない。 我々は「狼が来た」と言う。 たが軍隊語では「狼らしきもの発見、当地へ向け進撃中の模様」となる。 彼が見たのは一つの形象であり、彼はその形象を一応狼らしいと判断し、 そしてこちらへ来ると推定したに過ぎない。 REVの日記- “軍隊語と日本語の違いは「事実」と「判断」が峻別されているという事”

戦争というのは正確な通信が命綱だから、その人の言葉の中で、 どこまでが事実で、どこまでが自分の意見とか、事実から判断した憶測なのかを 言葉の中で明示する。

これが守れない軍隊というのは、毎日新聞の論説委員が将軍をやるようなもの。 戦争になっても、相手に秒殺されておしまい。

医療崩壊の流れは真実で、それもどんどん悪くなっていて、何かの対策を 立てる必要は間違いなくあって。

戦略を立てるには正しい情報が欠かせなくて、また情報を正しく評価するためには、 「原点」のキャリブレーションという行為を行う必要があって、その部分で今の ネット議論は、残念ながらあんまりうまく機能していない気がする。

「医療の明日」を論じているいくつかの有名blog で「もう崩壊」みたいな流れで 議論が熟して、「国民よ思い知れ」的なコメントが出ているのを 読んだけれど、お客さん敵に回した時点で、 やっぱり作戦としてはもう「負け」確定なんじゃないかと思う。

沈黙している「主流」を引っ張り込んで、みんなの力を集めるためには、 言葉尻はきっと、けっこう大切。

2007.01.22

症例報告のソーシャルブックマーク化

水痘肺炎の患者さんのこと

水痘肺炎の若い方を診療する機会があった。

水痘の発疹が全身に出ていて、40度以上の高熱があって、単純写真真っ白。 そのレントゲンを見た主治医の頭も、同じく真っ白。

成人の水痘は肺炎を合併する可能性があることは知っていても、 本当にそうなった人をみたのははじめて。

とにかく具合が悪くてすぐに入院、空気感染だから個室隔離、ナースのシフトを 水痘既感染者に限定してもらって、とりあえずゾビラックス点滴。 そこまでは手持ちの知識で時間稼ぎ。

状態は相当悪くて、このまんま何もしないで診るの無理。教科書調べても、水痘肺炎のことは ほとんど書いていなくて、ゾビラックスと水痘免疫グロブリンと、あとは致命率が高いことと。

経験の裏づけがない知識なんて、現実の前には何の役にもたたない。 嘱託で来ていただいている呼吸器の先生も経験は無く、大学の 呼吸器の先生に聞いても、やはり「診たことないなぁ…」との返事。 大学のベッドもいっぱい。

ここまで1時間。

google さんに聞いてみた

分からないときはネット。

  1. まずは「水痘」「肺炎」で検索。いきなり死亡症例の報告が続いてドン引き。とりあえず、日本語で 参考にできる情報はなくて、「水痘」は「Chickenpox」だということが分かった
  2. 英語が分かれば、次に引くのはPubMed。「Chickenpox」「Pneumonia」で検索をかけて、 Limits に 「Link to free full text」を追加すると、田舎の病院からでも全文が読める ジャーナルにたどりつける。「全文に当たれる」ものでないと役に立たないから、 この限定はとても便利。論文の題名をみると、 引くべき単語は「VARICELLA PNEUMONIA」であることが分かった
  3. もう一度、VARICELLA PNEUMONIA でPubMed 検索。 検索ワードに「treatment」を追加すると臨床論文 だけになる…なんていう小技を使うまでもなく、臨床系の論文ばっかり出てくる。 印刷する時間がないので、全部モニター上で読む
  4. 大雑把に、ゾビラックスと免疫グロブリン、あとステロイドを使うといいらしい。 ウィルス感染にステロイドなんて、本当にいいのか? 量も分からない。まだ情報不足。 今度は「VARICELLA PNEUMONIA」「steroid」で検索をかけると、そのものずばりの論文が引っ張れた。 比較的少量で効果があって、使ってから4時間ぐらいで熱が下がって、 呼吸も改善するらしい。「これはいけそう」と期待が高まる
  5. 大学の呼吸器チームともう一度電話。「やっぱりステロイドだね」

ここまでやって30分。ブロードバンドは本当に便利。

それでもまだまだ不安

教科書ベースの知識に決定的に欠けているのは、知識を実世界に展開する感覚。

単なる知識と、知識化した経験との決定的な差。

薬を使ったとして、何時間ぐらいで効いてくるのか。 薬の使用期間。患者さんを入院させておくべき期間。絶対安静をお願いする期間。 何がおきたら「うまくいった」と安心していいのか。「失敗した」ら、次に何をするのか。

こんな情報は、教科書や論文にはほとんど書いていなくて、症例を経験した人の 話を聞いたり、症例報告を調べたりしないと分からない。

とりあえずの指示を出した時点で、あとは待つことだけ。ここから先は日本人のデータでないと。 医学中央雑誌のデータベースを調べたら、日本内科学会雑誌に2例だけ、症例報告があった。

当院にも過去10年分ぐらいの日内会雑誌は置いてあるので、今度はそれを探す。

医中誌のデータベースは腐っていて、日内会に至ってはネットで調べることすらできないので、 本当に不便。見つかったのはたったの2例だったけれど、それでも本当に貴重な情報。

考えていた治療はほとんど同じで、症例報告に載っていた画像所見も、入院患者さんとそっくり。

今度こそ、少しだけ安心して待つことができた。

患者さんは比較的いい経過で回復して、歩いて退院された。

「教科書・論文・症例報告」

  • 教科書は、まとまっている代わりに時間の概念が薄くて、作者の思考をトレースできない
  • 論文は、作者の思考過程が反映されているけれど、知っている事の確認にしか使えない
  • 症例報告はすぐに役に立つけれど、信憑性を保証できなくて、検索も不可能

経験も大切だけれど、やっぱり知識はもっと大切。 それぞれ一長一短があるけれど、一番現場から遠いのが教科書で、現場に一番近いのが症例報告。

教科書の問題点

教科書というのは、知識のエッセンス。いろんな症例報告とか、論文などを参照して、 現時点で正しいことをまとめて記載する。

残念ながら、エッセンスを薄めたところで、それを原液には戻せない。

ヒヨコを1匹ジューサーにかけると、ヒヨコの成分からできた液体になる。 ジューサーからは何の物質も失われていないのに、液体がヒヨコに戻ることはない。

きれいにまとめられた教科書からは、それを臨床に応用するための「何か」が 失われてしまう。それは薬を投与したあと、反応が出てくるまでの待ち時間であったり、 不完全なデータだけで緊急の事態を乗りきる方法であったり。

教科書の知識というのは、現場で経験したことをあとからまとめるのには 役に立つけれど、全く経験したことがない状況を乗り切る武器としては、少し足りない。

コアダンプを読む重要性

教科書の大きな問題点が、「あまりにもまとまりすぎてしまっている」こと。

臨床の現場では、みんな迷走する。迷走の中で、何かきっかけがあって 答えを見つけたり、時々「力技」を使って、答えが分からなくてもゴールに 突っ込んでしまったり。いろんなやりかたをするけれど、最後は患者さんが治りさえすればいい。

教科書というのは、そのあたりの「汚い」部分が整理されてしまっているから、 作者の人がまるで神様みたいに迷いがない。

神様は顔を見せない。「○○らはこう報告している」みたいな記載は医学書の定番表現だけれど、 こちらが知りたいのは「こんなときあなたはどう考えるんですか?」ということ。

臨床の勉強というのは、自分よりもできる人の思考をトレースする行為。 「この場面でこの人ならどう考えるんだろう?」という感覚を身につけるのは、 一種のリバースエンジニアリングだけれど、 教科書を読んで、作者の思考をトレースするのはほとんど不可能。 顔の見えない相手の思考なんて、読めるわけがない。

中身がのぞけないプログラムがどう動いているのかを観察しようと思ったら、 プログラマの人達は、アプリケーションの動作中に強制終了をかけて、 そのコアダンプを解析する。

コアダンプというのはパソコン用語。プログラムの実行を中断させて、 強制的にそのメモリ空間やレジスタの内容などを読めるファイルに書き出したもの。

症例報告とか、論文の考察部分は、作者の思考のコアダンプ。思考過程がよく見えるし、 良い意味で準備が足りていなくて、発表者の思考の「穴」が見えたりもする。

穴があっても正解にたどりつけるなら、その知識は病気の治療にとって本質的でなかったということ。 教科書はこの「穴」が最初からふさがれてしまうから、何が大切で、何がそうでないのか、 案外分からなかったりする。

基礎体力の必要な論文

「何かを知る」のは簡単。「自分が何を知っているのか」を知るのも簡単。 難しいのは、「自分が何を知らないのか」を学ぶこと。

論文は知識を拡大するための道具。作者と読者とが莫大な基礎知識を共有しているのが前提条件に なっているから、その分野で「既知」になっている内容は記載されない。

自分の知識に多少の穴があったって、論文自体は頭に入るし、実地に応用することもできる。 ところが、論文は「読者の穴」の存在を教えてくれない。

  • 論文を読んでいる自分が、想定読者として要求されている知識を全て持っているのかどうか
  • 実は重要なコンポーネントが足りていなくて、「足りない」奴が論文そのまま実行したら 大惨事になったりしないのか

論文がそのあたりを保証してくれることはない。

良くも悪くも論文は劇薬。研修医の頃、足らない知識で患者さんに劇薬突っ込むような真似を しょっちゅうやってたけれど、あれは部長級の先生がたの強力なバックアップがあったから。

今の自分に同じことやるの無理。

「穴」を潰そうと思ったら、知っていることから順番にたどっていって、 網羅的に穴を探すこと。具体的には教科書を読む。症例報告をあさる。 全分野を通し読みするのは大変だけれど。

検索できない症例報告

現場の感覚に一番近いのが症例報告。

自分の患者さんと同じ病気を扱った 症例報告を読めたなら、自分の「穴」を探すのに本当に役に立つ。

日本では、症例報告の種にはこと欠かない。内科の地方会は毎週のように開かれているし、 研究会というものもまた、基本的には症例報告を行うための集まり。

過去の症例報告は役に立つ。 ところが、この貴重な情報を検索する手段はほとんどなく、また 症例報告の信憑性を担保するシステムが全く実装されていない。

  • 行き当たりばったりで探すしかない
  • その情報が信じられるのかどうかは運次第

症例報告の集積は、この問題があるから学習の対象にはならず、毎週のように 症例発表が行われては捨てられ、生かされない。

症例が気軽に検索できて、症例の信頼性や新しさ、報告のまとまりかたとか、「情報の重みづけ」が 何かの形でなされるならば、教科書ベースの勉強とは別に、患者さんを診察しながらの勉強、 症例報告ベースの勉強という展開が期待できて、とても面白いことになると思う。

何をしたいのか

  • 学会誌とか、地方会の症例報告がネットで全文検索できること
  • それぞれの症例報告には「肺炎」「胃がん」「手術」みたいな単語で 検索できるように「タグ」がつけられること
  • 単純に検索できるだけではなくて、勉強になる症例報告はどれか、信憑性の高い治療法を紹介している症例はどれか、 「情報の重みづけ」をするシステムを実装することが必要
  • 病名で検索する「問題オリエンテッド」な検索手段以外に、 「○○教授が今月参照した論文」みたいな、 勉強に役立つ検索手段も別途用意すること

………何のことはない、「ソーシャルブックマーク」を内科学会内部でやればいいだけのこと。

はてなブックマークをはじめ、ソーシャルブックマークのサービスはもう運用されていて、 運用に必要なノウハウとか、問題点なんかももう出尽くした。

すでに出回っている技術、あるいはサービスを利用するだけで、かなり面白いものができると思う。

  1. まずは内科の関東地方会あたりで発表された症例報告のパワーポイントファイルをネットに上げて、 検索可能にする
  2. 内科学会員の会員番号あたりで認証して、医師にIDとパスワードとを発行する
  3. ログインした会員は、検索した症例報告に投票したり、「肺炎」「糖尿病」「鋭い考察」「よく気がついた」 みたいなタグをつけたり、簡単なコメントを加えることができる
  4. 「全文検索」「タグで検索」「今週の人気症例」などの入り口とは別に、 「○○先生が今週読んだ症例」の検索も可能にしておく
  5. 会員は、外部リンクを利用した症例を投稿をすることも可能
  6. 面白い症例や、役に立つ症例に対しては、会員はひとり1票ずつ投票を行うことができる
  7. 検索結果は、日付順、検索ワードに合致した順、投票の人気順の3通りを表示可能にしておく
  8. 特定のIDを持った医師がどんな症例を読んだのか、どれに投票しているのか、 ログをたどる手段を実装する

だいたいこんなかんじ。

可能になること

医師の学習形態が変わる可能性がある。

「問題発生 => 論文で確認 => 誰かの経験で確認 => 実践 => 教科書で確認」が いままでの流れであったが、 これが「問題発生 => 同じ症例を検索 => 実践 => 論文や教科書で確認 => 参考になった症例報告に投票」になりうる。

今までは他の医師との学習結果を共有することは出来なかったけれど、投票システムを実装すると、 全ての医師がデータベースの洗練に貢献できることになる。

症例の投稿が可能になるなら、自分が経験した症例を投稿して、誰かの反応を得るという 生活サイクルが出来上がるので、医師の学習意欲が増すかもしれない。 投稿の量が増えて、それを評価するサイクルが確立すれば、 結果として症例報告の質も向上するだろう。

日本の中での自分の立ち位置や、知識の「穴」を確認するには最適な手段になると思う。

自分が共感できなかったやりかたの症例報告に多数の支持が集まっていたり、 あるいは自分が知らなかった知識でもっとエレガントな治療を行った症例報告を 発見できれば、「他人の目から見た自分」を嫌でも意識できる。 自分で症例報告を投稿する機会があれば、なおさら。

矛盾した意見を参照できるのも大きな魅力。

検索が充実すれば、同じ病気を治療した症例報告でも、 全く異なる経路を取ったものが複数見つかるはず。

症例報告というのは実世界での臨床をコアダンプしたものだから、 本質的に矛盾を内包している。矛盾を解決したり、「どちらが正しいのか?」という疑問に 答えるためにも、会員による投票とコメントのシステムが必要だと思う。

できないこと

「症例報告データベース」の学習は、穴を埋めるためのものであって、 そこから新しいことを生み出すことはできないと思う。

できることは、あくまでも過去の経験を効率よく参照することだけ。 自分の知識をより完全にすることはできても、 新しい「何か」を思いつくのは、たぶん何か別の手段が必要。

それでも、そもそも「過去を知らない人間が、未来に切り込んでいけるのか?」 という疑問は常にあるし、 効率よく過去を学習できるデバイスが実装できるなら、それはそれできっと便利。

「行儀正しい自由」を担保する「世間の狭さ」

コミュニティに参加するモチベーションは、ルールの自由さに比例する。

  • 厳格なルールで運営する集団には、新参者は入りにくい
  • 匿名掲示板みたいなコミュニティには誰だって入っていけるけれど、無法地帯になやすい

ルールが自由になればなるほど無法化の危険が増すけれど、 「内科医しかいない」という極端な世間の狭さは、 このデータベースの安全さを保証してくれると思う。

  • IDは匿名でも実名でもいい
  • どんなものでも投稿可能。「昨日見たアダルトビデオの感想」みたいなものでも許容する
  • 信頼性は投票システムで保証する

匿名運営か、実名運営かは意見が割れるだろうけれど、原則として匿名を許可する。 匿名可能ルールを原則にしても、大学の教官とか、大病院の部長級は基本的に 実名を出すのを「暗黙のルール」にして、「役職付きなのに実名を出さない奴はチキン野郎」 だという場の空気を作ってしまえば、「えらい人は実名」というルールは実装できる。

実名ID持ちの人の行動は、たぶん多くの匿名読者に影響を与える。 その一方で、えらい人の行動は、多くの匿名若手医師から監視されつづけることになり、 コミュニティに緊張感を付加するだろう。

投稿された内容の保証は、「複数の医師が確認した」という事実で行う。

ウソ症例を投稿されたり、抗がん剤の容量を1ケタ間違えた症例報告が一人歩きしたら大変だから、 投稿する際には作者と他の医師のダブルチェックを義務にする。

インターネットでは「ゼロ票」の情報も検索されるけれど、このサービスでは「2票以下」は 最初検索の対象に含めない。下らない投稿をするのも自由だけれど、作者以外にもう一人、 それを「下らなくない」と保証する人間をつけないといけない。

たとえ匿名IDであっても、たかだか1万人ぐらいのコミュニティでは「笑いものになる」というのは 恐怖だから、相当しっかりしたチェックが入るはず。

投稿症例のスタートは「2票」でも、たとえば地方会での発表症例ならば 他にも査読者が複数いるのが当たりまえだから、最初から「4票」とか「6票」とか、 得票数の多いところからスタートでき、検索の上位に上がる可能性が高くなる。

ネット投稿が可能になっても、実世界での発表に一定のインセンティブを付加することができるから、 投票システムはうまくいくんじゃないかと思う。

「エレガントでない治療」を学ぶ夢

個人的に一番興味があるのが、エレガントでない解法が公開される可能性。

  • 「何がおきたのかわからないけれど力業で解決した一例」
  • 「診断からして間違えていたのに、結果として治癒退院した一例」

汚い治療。無様なやりかた。今までなら恥ずかしくて発表なんかできないような、 こんなやりかたがネット世界で公開されて、そのやりかたを学べるようになると、 本当に面白い。

その方法が本当に参考になるのかどうか、医学的にそのやりかたは「あり」なのかどうかは、 それこそ投票で決めればいいし、コメント欄で簡単な議論だって可能。

偶然の成功と意図した戦略は紙一重だし、単なる手抜きと、分かった上での省略だってしかり。 正しいのか間違いなのか、じゃあどうすればよかったのかも含めて、グダグダな経過の症例を みんなで議論できたら、こんなに楽しいことはないと思うんだけれど。

2007.01.19

メディアの読みかた

  1. 報道されていないことが大切
  2. その報道で誰が得をするのかを考えるべき
  3. その人、その企業だけが叩かれるのには何か理由がある
  4. どこまで分かった上で報道しているのかが分かれば反論できる
  5. 「みんなの意見」は中立ではない
  6. 「無視」という最強カードを切られたら負け

何が報道されていないのか

報道された事件をみるときには、「報道された事実」を検証する作業とは別に、 「報道されていない事実」が何なのかを調べるのは大事。

どんな事件でも、報道には一定のパターンがあって、ある報道がそのパターンから外れたときは、 たぶん何か報道できない事情があると考える。

たとえば殺人事件。

最初の日は、犯行の手口、犯人の氏名や生い立ち、被害者との関係から殺人の動機。 何日かすると、今度は被害者の番。最後は、どちらが加害者なんだか分からないぐらいに 執拗なプライバシー暴露大会に至って、みんなが飽きたら次の殺人を探すのが、普通の報道パターン。

犯人の氏名や加害者家族のプライバシー暴露が遅れたり、 あるいは報道が「手ぬるい」ように見えたときには、たぶんそこに大切な事実が隠れている。

立花隆が、以前インタビューの中でこんなことを言っていた。

歴史上の人物を調べるときは、「空白期間」に注目すると面白い事実が見えてくる。

真言宗の開祖「空海」は、中国に渡って密教の修行を積む直前の行動はよく分かっていないそうだ。 若い頃の空海が何を考え、どうやって中国渡航の算段をつけたのか、そのあたりに注目すると、 いろいろ想像が膨らんで面白い。

得をするのは誰なのか

納豆万歳の健康番組にしても、食品会社の不祥事叩きにしても、 報道の先には「それによって利益を得る人」が必ず存在する。

どんな情報であっても、他の人よりも先に知ることができれば利益が上がる。 報道されて、不二家の株価は下がったけれど、ゴールドマン・サックス証券は 不二家株を空売りして、相当儲けたらしい。

マスメディアの「中の人」だって、得をする側の人。

朝日に嫌なことを聞かれたときは、「御社の月給はいくらでしたっけ?」と聞けば、 彼らはたいてい黙るんだ

そんなことを言っていたのは、誰だか政治家の人だったはず。

何故その企業なのか?

もちろん不祥事をおこしたから叩かれるんだけれど、 同じ業界の中では、同業他社だって同じようなもの。

ひとつの企業が不祥事をおこしたら、その業界全体にだって 同じような不祥事のタネがあるかもと考えるのが自然。

その企業だけが悪者の集団みたいな報道がされているときは、 何でその企業だけが叩かれるのか、 他の企業はどうして報道も取材も入らないのかを考えるべき。

マスコミに絶対叩かれない某病院は朝日新聞が経営参加しているとか、 製薬メーカーの大株主になっている国務長官の話とか、 そんな話題はきっとどこの業界にもあるはず。

同じような仕事をしているほかの企業、あるいは同じような立場の人物を挙げて、 「その人と、叩かれなかったその他大勢との違い」みたいなものを探していくと、 何か分かるかも。

叩かれて潰された企業や人間が新参者だった場合は、その業界の既得権者にとって、 何か相当に「痛いところ」をついていた可能性がある。

どこまで分かった上で報道しているのか

断片的な情報だけでトバシ記事を書いたのか、全部分かっていた上で、 何かの意図の元に断片だけ報道しているのか。

毎日新聞が西日本の医療を壊滅させた報道なんかは、 断片的な情報だけを元にしたみたいな印象。

マスコミ各社の報道姿勢を比較して、それが横並びならば何か「意図」があって、 どこかが突出して突っ込んだ記事を書いていて、足並みがそろっていない印象が あるならば、たぶん出回っている情報自体が足りていない。

  • 利権の絡んだ「意図」を見抜く
  • 足りていない情報の存在を指摘する

どちらかが達成できれば、マスメディアの不誠実さを効果的に指摘できるかもしれない。

「みんなの意見」は中立ではない

ランダムな要素は、いくら重なっても中立に戻ることはない。

世論はランダムな意見の集積だけれど、ランダムウォークは中立性を担保してくれない。 ランダムさの集積は、むしろ「極めて高い確率で、中立以外のところに落ち着く」 可能性が高い。

道の上をフラフラ歩いている酔っ払いは、ランダムに歩いているけれど、 永久にまっすぐ歩けるわけがなく、いつか道を外してドブに足を突っ込む。

ランダムさが支配する世論には、自然治癒力はない。

メディアが発信する情報は歪んでいることが多いけれど、 「歪み」に対して「正しさ」で対抗したところで、 できることは歪みの希釈だけ。是正は不可能。

歪みを残した単なる希釈では、世論は中立に戻らない。

歪んだ報道を是正して、世論に公正な判断を仰ごうと思ったら、 対抗する側が報道の歪みを打ち消す「歪み」を持っていなくてはならない。

無視をされないために

マスメディアは報道して火をつけて、飽きたらそのまんまどこかにいってしまう。

圧倒的に力が強いマスメディアは、たとえ反論が可能であったところで、 事件自体を無視する、そんな話は最初から無かったことにするという最強カードが切れる。

マスメディアがつけた火は、マスメディアの力でしか消すことは出来ない。 相手に交渉の土俵に乗りつづけてもらう努力は欠かせない。

意図に反した報道に対して「あれは誤りだ」と攻撃的な反論を行っても、相手の 意欲を減らすだけ。無視されればおしまい。

  • 報道の間違いを笑いの対象にする
  • 不完全な報道の意図や、見逃されたもっと面白い話を公開する

「火消し」をお願いするときの基本的な戦略は、 マスメディアが自分の力で幕引きを考えざるを得ない構図を 考えて、相手をその構図にはめること。

意図の作る物語

コミュニケーション能力とは、本質的には単なる多数決システムか、あるいは行動支配手法の別名でしかない。字面から「自分の意図を正確に相手に伝える能力」などと思い込んでしまったら終いである。この言葉に限った事ではないが、本質が汚い物ほど美しい名前が付き、何者かの意図によって意味が曖昧に「され」やすい点に注意すべきだ。 言霊の怨霊はいつでも殺意に満ちた目でこちらを見つめている。 文系はコミュニケーション能力という名の処刑斧を振るった - うさだBlogより引用

やっぱり「意図」というのは存在するんだと思う。

マスコミ人には、正義感の強い人がとても多いのだそうだ。彼らはきっと、自分達の考える「正義」 というものがしっかりあって、その目標があまりにも力強いから、 目の前の汚い事実に「色をつけ」たくなるんじゃないだろうか。

母集団を恣意的に操作すること。選択肢や設問を工夫して、結論を誘導すること。 相関と因果とを選別しないで、特定の結果が出るまで「調査」を繰り返して、 意図に反した結果を無視すること。

事実の価値なんて、意図の前にはかすむ。 科学的な事実と創作とは、「意図」の前では等価になる。

絵を書くのに鉛筆を使うのか、 それとも筆を使うのか。事実を少しばかり曲げることなんて、その程度の些細な問題。

意図に基づいて作られた物語に対抗できる部分があるのだとすれば、 「マスメディアの考える正義」と、「社会正義」とが必ずしも一致しないこと。

今まではその不一致を「メディアが作る物語の面白さ」が力技で埋めていたけれど、 ネット社会になって、社会正義が実体を持つようになって、 2つの正義が乖離するようになった。

もっと面白い物語を取材された側が供給してしまって、 コモディティ化の泥沼に相手を引きずり込むことができるなら、 メディアに対抗することもできるのかもしれない。

実際のところ、事実を面白く並べる手法はメディアの専売特許だから、 対抗するのは本当に難しいけれど。

2007.01.18

土木の言葉で経済を喋る

組織や経済を土木の言葉で表現する、そんな妄想。

組織を砂山で近似する

一つの会社組織なんかで、中の人達をお給料の高い順に並べると、ちょうど砂場の山みたいな 形を作る。

mountain.jpg

山のような形に必然性があるのだと妄想できるなら、土木をやっている人達の言葉が、 組織あるいは経済を説明する言葉として使えるようになるかもしれない。

山のパラメーター

  • 高さ:山の高さは、組織内の最高給与額。普通は会社で一番偉い人の年棒
  • 角度:山の斜面の立ち上がりかた。社内での給与分布が平等なのか、格差上等なのか
  • 底辺の大きさ:会社の中で「下層」を作る人の人数

param.jpg

山の形を安定させるには、この3つのパラメーターをバランスさせるのが大切。

山の大きさ、山を作るための土や砂の性質が変わると、このパラメーターの「臨界値」 みたいなものがどんどん変わって、それを超えると山が崩れる。

山には3つの形がある

  • 普通の山:一番安定した形。最初は全てこの形から
  • ボタ山:お碗を伏せたような形。膨らむように大きくなる。役員の多い会社とか、お役所的な大企業とか
  • 剣ヶ峰:真ん中が突出した形。ベンチャー企業とか、振興著しいIT企業なんか

3type.jpg

最初はどの山も「普通の山」型をしているけれど、成長の早い段階で運命が分かれ、 ボタ山になるか剣ヶ峰になるか、どちらかの形をとるようになる。

山の形に応じて、成長のしかたとか崩壊のしかた、最大成長量とか、 山を維持するために必要な戦略なんかが 異なってきたりする。

ボタ山の一生

ボタ山が大きくなるときは、中心から「膨らむ」ような成長圧力が働く。

公立病院組織はボタ山の典型だけれど、 一番の高給取りである医師の給料は案外安くて、給食のおばさんとか、掃除一筋何十年 なんていう人がものすごい高給をもらっていたりして、侮れなかったりする。

ボタ山組織の特徴は、「○○さんの決済がないと何も始まらない」みたいな、 中の人同士の相互作用が非常に強いこと。

誰か功績のあった人に報いようと思っても、「その人の給料だけが上がると、 この人の顔が潰れる」みたいな同調圧力が強いから、山は風船みたいに膨らんでいく。

bota.jpg

がんばった人がそうでもない人を引っ張らざるを得ない組織。膨らみきったボタ山の頂点が 嫌になって抜けてしまうと、ボタ山は風船が破裂するように崩壊する。

剣ヶ峰は周囲から崩れる

個人同士のつながりが比較的弱くて、がんばった人がそのまま報われるのが、剣ヶ峰。

大きな功績を上げた人は賞与で報われる半面、そうでない人もどうしたって出てくるから、 失敗した人、結果を出せなかった人はいなくなっていく。

組織は「真ん中」が上を目指す形で大きくなる。

頂点が突出すればするほど、それ以外の人の「高さ」は減って、組織は鋭い頂点と、 広大な裾野を伴った形へと変貌していく。

turugi.jpg

剣ヶ峰が尖れば尖るほど、山を構成する「中の人」どうしのつながりが弱くなる。

山を構成する土が乾いて、サラサラに変化してしまうと、剣ヶ峰は元の形を維持できない。 裾野が自然崩壊して、頂点がいよいよ尖った後、山は一気に崩れる。

山の将来を決めるもの

山の運命を決めているのは、たぶん中の人の「つながり」の強さと、社会正義という 環境要因。

つながりの強さというのは、誰かが何かを決断するとき、 その影響を受ける組織の「中の人」の人数。

つながりが強い組織は、たぶんボタ山型の運命を取って、 つながりが弱い組織は、剣ヶ峰の運命を取る。

流体力学のレイノルズ数みたいに、同じ「つながり次数」であっても、 山が大きくなればなるほど「つながり」の相対的な力は小さくなって、 土がサラサラの砂になる方向に変化する。

会社組織が大きくなったり、小さくなったりするという変化は、 必ず内部の質的な変化を伴う。

山には常に、それを「崩そう」という力が働く。それが社会正義の力。

  • 目立ち過ぎたり、漠然とした「世論」を敵に回すようなことをした会社には、社会正義が強く働く
  • つながりが弱くなった組織には社会正義の圧力が働いて、剣ヶ峰の裾野を崩していく

ボタ山組織は崩す力に対する抵抗力が高いけれど、変化に対する対応は遅い。

剣ヶ峰にとっては、社会正義は天敵そのもの。内部告発で崩れる会社が典型。

会社への忠誠心と、「ユー、密告(コク)っちゃいなよ」みたいな社会正義に対する 同調意識とのバランスが崩れたとき、組織は根元から崩される。

機能が要請された結果、組織の形が変わるのか、それとも形は機能に影響するのか。

  • 社会正義に逆行するような会社組織とか、わずかなミスが命取りになるような仕事をする 組織は、複雑な手続きや書類の山でボタ山型に固めないと維持できない
  • 組織を大きくするときには、「つながり」を強くする手続き、意味のない役職を増やすとか、 書類に要求するハンコの数が増えるといったものは必然で、それをしないと 「剣ヶ峰の罠」にはまって崩壊する
  • 剣ヶ峰は小さくなったり、組織内同調圧力を高める戦略をとったり、 ボタ山は頂点を作る戦略を取ることで生存率を上げられるかも

答えなんかもちろん知らないけれど、 形から組織を考えたりすると、けっこう面白い読みができるかもしれない。

2007.01.17

信頼性と冗長性

ネジやビスみたいな部品から電子機器まで、メディカルグレードというのは いつも一番の高級品で、それに続くのが軍用規格。大分安くなって、汎用部品。

現代の宗教「ピュアオーディオ」業界では、医療部品がよく使われる。 昔、アンプの入力段にNECが出していたメディカルグレードの トランジスタが「音がいい」という評判になって、それが1個1500円だか、1800円だか。 同じ型番の汎用品だと、1個当たり30円ぐらい。

信頼性には本当にお金がかかる。

壊れる人工呼吸器

人工呼吸器というのは、医療機器の中では安いほうだけれど、 高信頼性部品の固まり。呼吸器1台600万円とか、800万円とか。

この数年、技術的には相当進歩した機械が出回るようになったけれど、信頼性は落ちた。

内科が昔から信用しているのは、ベネット7200という呼吸器。 旧式で、大きくて重くて使いにくいことこの上ない機械だけれど、 何があっても動きつづける。

「自分が挿管されたら、この機械をつけてね」という呼吸器の先生、けっこう多い。

最新の機械は壊れる。

壊れるといっても2年に1回とか、ごくまれな頻度ではあるけれど、 それでも「壊れたのをみたことがある」 というだけで、今までからするとありえないぐらいの高頻度。

  • 古い呼吸器は構造が簡単で、そもそも壊れない
  • 世代が古い機械は「枯れて」いるから、壊れそうなところは改良済み

原因はいろいろ。いずれにしても新型の呼吸器は本当に便利になったけれど、 出回って10年ぐらいたった奴のほうが、やっぱり安心。

人間というセキュリティホール

機械に責任はなくても、呼吸器を分解洗浄して、もう一度部品を組むのは人間。

昔病棟で使っていたのは、ドイツ軍のガスマスクなんかも作っている 某社の呼吸器。800万円ぐらいした、今でも最新スペックのやつ。

病棟で使おうとすると3回に1回は絶対に動かなくなって、 「ユダヤ人の呪い」なんていう不謹慎な冗談の種にしていたけれど、 呼吸器を使うときというのは病棟がパニクってる時だから、 機械に裏切られるとダメージ大きい。

「この機械、絶対呪われてるから調べて下さい」

何回か業者の人に調べてもらっても、機械はノートラブル。

不具合というのは、分かってしまうと単純なことなんだけれど、事前に予見するのは本当に困難。

原因になっていたのは、呼吸器回路の部品が正しく組まれていなかったことだった。

使い終わった呼吸器回路は、医療材料部のオバチャンたちが洗って滅菌して、もう一度組み直す。 部品は中に隠れてしまって、外からは確認できない。滅菌から帰ってきた回路は「きれいに」 見えるから、病棟側も無批判に信頼してしまう。で、鉄火場になってこの回路を使って、 大騒ぎになっていた。

「裏切る」機械であっても、裏切りかたのパターンが見えたり、 「こいつは裏切る」というのが分かってしまえば対策はできる。

試運転を最低10分ぐらいやっておくとか、急変の時には常に2台の呼吸器を準備して、 1台目が今一つだったらすぐに次をつなぐとか。使いこなしで、「呪い」は解けた。

価格と信頼性は比例する

アメリカで企業の再編があって、呼吸器は相当安価になった。

技術的に進歩したものは価格が上がって当然なんだけれど、最近の呼吸器は どんどん安くなっている。以前より小型軽量になって、性能そのまんま、値段半分なんてザラ。

何がそうさせたのかを聞いてみると、部品のグレードを抑えたらしい。

部品の信頼性というのは、一種の宗教。「この部品は10万回に1回しか誤作動しません」と 言われたって、そもそも汎用品が誤作動するところだってみたことがない。 「壊れません」の言葉ひとつで値段100倍とか、医療用の高信頼部品にはよくあって、 新しい世代の呼吸器はそのあたり、割り切っているらしい。

今いる病院の呼吸器は安くなったものばかりだけれど、今のところは壊れていない。 もともとが壊れにくく作っている機械だけに、一人の医者の経験程度では、 部品のグレード差を実感できるのかどうか。

信頼性と冗長性と

100回に1回故障する機械の信頼性を、1万回に1回レベルにまで向上させようと思ったら、 取れる戦略は2つ。

  • 個々の部品の信頼性を上げて、「1万回に1回」を達成する
  • 同じ機械を2台セットで販売して、「壊れたらもうひとつを使ってください」とお願いする

部品一つ一つを改良するのは大変。機械の信頼性は、それを構成する全ての部品の中で、 一番壊れやすい物が決定してしまう。機械の信頼性を上げようと思ったら、 全部の部品に「高級品」を使わないと、コンポーネントとしての信頼性は上がらない。

冗長性戦略は簡単。同じ製品2台で、値段が2倍になるだけ。

たぶんどこかにカットオフがあって、 あんまり高価な機械とかではこんなやりかた不可能なんだろうけれど、 うちの病院では今年、安い呼吸器を2台買った。

冗長性戦略のいいところは、目で見て分かりやすいところ。

信頼性はしばしば宗教だけれど、冗長性は数学。

誰かに安心してもらうという意味では、分かりやすさは大事。

伝えられない冗長性

手技中の急変。

現場はみんな浮き足立ってしまって、部長以外はみんな真っ白なんていう場面、 時々あって。

そんなときでも一人落ち着いていたのがトップの人。超人にしか見えなかった。

部長と「その他大勢」とを分けていたのは、「腕の良さ」以外に頭の中身。

  • 鉄火場になったとき、下々の頭の中は「203高地」の戦い。目の前の問題を解決するのに 全兵力を投入してしまって、他の戦略をとることを考えられない
  • 鉄火場で落ち着いている部長は、今やっているやりかた以外に何通りかの方法を考えていて、 「これがダメならこうしよう」とか、いろいろ考えているらしい

鉄火場で他の戦略を考えるためには、経験が必要。

ところが、経験を積んだベテランがいる現場では、ほとんどの場合その人が問題を解決してしまうから、 「他の戦略」があったことすら知らないまま、急変した患者さんが回復して、歩いて帰る。

冗長性を身につけるためには、乗り切らないといけない問題に直面して、 そのときに聞ける人がまわりにいなくて、自分で何とかしないと人が死ぬ、 そんな状況に直面することが必要。

今の時代、新人をそんな状況に置くことなんて 許されないから、冗長性は伝えられない。

技術が継承されていく中で、冗長性戦略は失われてしまう。今まで冗長戦略が可能で、 低コストと高信頼性を両立できた場面でも、次の世代では信頼性戦略がそれを置き変える。 コストはどんどん高くなり、外から見た信頼性は分かりにくくなり…。悪循環。

たぶん、臨床研修の中にスタートレックの「コバヤシマル」試験みたいなものを 組み込んでやると、このあたりの考えかたが伝わるんだと思うのだけれど、 シミュレーションを本気でやるのはお金がかかるし、 それを誰がどう評価するんだか。

こういうの、医療情報の人とか、 医学教育の人達とか、なんかカリキュラム考えないんだろうか?

2007.01.15

家の改装歴史の階層

家具を直してる。

引っ越しのあと。大量の本とか、いろんな荷物とか。ダンボール箱の山。 新しい住処には、うまく収納できない。大量の本を処分したけれど、それでも足りない。

生活が変わって住居を変えて、以前と違う形の住居は、今度は生活スタイルの変更を要求する。

住居と生活。2つは相互に影響しあって、「建物」という大きな構造を作る。

建物の6つの階層

建物という社会構造は、6つの層でできている。

  1. 敷地:これは地理的条件であり、都市のなかでの位置関係であり、 法律的に定義された区画で、建物が世代交代しても変わらない
  2. 構造:基礎や荷重を支える構造物を変えるのは危険であり、 費用が高くつくので、普通は変えない
  3. 外装:流行や技術の進歩などから、外装は平均して20年程で取り替えられる
  4. 設備:建物の内蔵にあたる電力・通信などの配線、配管。 これが建物に深く埋め込まれすぎていると交換が難しく、 建物自体が取り壊されることになる
  5. 空間:ドアや壁など。変動の激しい商用スペースでは 3年ごとに変わったりもするが、平穏な家庭なら30年もつこともある
  6. 生活:椅子、机、電話、絵画、台所用品、毎月のように動かされる ありとあらゆるものと、「中の人」の生活スタイル

今は「生活」レイヤを変更して、それだけでは全然追いつかないから家具を作り変えて。 たぶんそれだけでは変えられなくて、たぶんドアを外したり、 壁に棚を作りつけたり、「空間」レイヤに手を加える予定。

人を取り巻く社会が変わっても、建物は変化する。

家族が増えて、生活が車中心になって、パソコンなんか使わなかった時代から、 今ではこれが無いと生活すらできない毎日へ。

部屋の隅で埃をかぶっていたパソコンは、今はモニター2台つながって部屋の真ん中に。 テレビを見なくなって、MP3 が普及して、引越しをきっかけにオーディオセットも処分。 空いたスペースは全部本棚に。

消防法の改正とか、地震や台風、地球温暖化などの気候変動が 今後生じたら、住居は「構造」レベルで変化を迫られる。 住居は元の形を保てないかもしれないかもしれないけれど、 それでも「建物」という大きな構造は壊れず残る。

「その場所での生活」に需要があるかぎり、たぶん誰かが「建物」という営為を続ける。 構造を壊しても、設備を壊しても営みは続くし、中の人の生活が変わっても、 構造に需要があるならば、他の人が内装を変化させて、建物は別の誰かに受け継がれる。

建物が終焉を迎えるのは、「層」が離開したとき。

社会や環境が変化して、「その場所での生活」というもの自体に需要が無くなって、 その住居の構造で生活を維持する理由が消滅したとき、建物は役割を終える。

ローマ帝国は何故滅んだ?

ローマ帝国の興亡については、塩野七生が「ローマ人の物語」でやったような英雄史観、 「人の物語」という視点とは別に、ローマ帝国の滅亡というのは単なる気候変動の 結果であって、環境の変化に「帝国」という社会モデルが耐えられなかったという見かたもあるらしい。

実はローマ帝国崩壊の大きな原因に「3世紀以降北半球の気候が寒冷化した」という話があります。 この時期はローマ帝国に限らずあちこちで戦乱が記録されていて、 例えば中国では漢が滅びて三国志の戦乱が起きてます。日本だと倭国大乱の頃だから 「古墳寒冷期」て呼ばれてる。(中略)寒くなって食えなくなった北方民族がみんな移住しようとした。 寒冷化による農業の不振から税収も落ち込み、あちこちで国が滅びたわけです。 (中略)環境問題ってえやつは、キャラクタとしての登場人物の視点からは出てこない。 「人間も環境を構成する要素の一つに過ぎない」っていう自然科学的な視点が必要になる。 (中略)我々が未来をかけるべきは、物語じゃなくて、サイエンスですよ。 raurublockの日記 - 「ローマ人の物語」シリーズに欠けているもの より引用

たぶん「帝国」にも建物みたいなレイヤ構造があって、 人の層では人の物語が、構造の層では気候変動とか、 民族大移動とか、もっと別の物語が進行している。 帝国の瓦解という現象は、この「層」どうしの歪が大きくなりすぎて、 「帝国」という一つの構造を保ち切れなくなってしまった結果なのではないかと思う。

救急崩壊と老人医療と

  • 研修医が内科に来なくなった
  • 産科や小児科の問題
  • 僻地医療の問題
  • 訴訟社会になった現代医療の危険
  • 老人医療の問題
  • 医療保険制度の崩壊

こうした諸問題をパラレルに論じるのはたぶんあんまり正しくない。

「建物」とか「帝国」みたいに、医療もまたレイヤ構造をとるならば、 それぞれの問題が「どの層の問題なのか」 を一緒に考えないと、うまく行かないような気がする。

  • 医師の心境変化とか、「人の層」で進行する問題ならば、それは人のレベルで解決可能
  • 高齢化の問題とか、不景気に伴って国家予算がなくなって…とか、「環境の層」で進行する 問題については、解決するよりは適応する術を探ったり、 あるいは「人の層」とは別の方法を使わないといけない

言葉の使いかたは、たぶん「層」が変わると異なってくる。

「人-人」レイヤの問題に対して役に立つのは誠実さ。 嘘を言わないこと、論理を重ねて正しい答えを 探すことが大切だけれど、「人-環境」レイヤの問題に対しては、「正しさ」は無力であるか、むしろ有害。

産科の問題とか、救急医療の問題を突き詰めると、ネオコンの思想に行きつく。

人は「自分でできることは自分でやる」。 どうしてもできないことだけ国家が助ける必要がある。 知識人はそのことを分かっているけれど、知的水準の高くない一般大衆はそれが理解できないし、 また大衆に迎合したネオコン以外の知識人が「タダなんだからどんどん使いましょう」とやるから国が滅びる。

ネオコンの立場をとる知識人は、何かを発言する場合、 大衆がそれを受け止めて、どう行動するのかまでを含めて 戦略的な発言を行う。要は「嘘をつく」わけだけれど、それは決して不誠実な態度ではなく、 「発言の結果に対して誠実な態度をとるのだ」と考える。

人殺したり、戦争したり。ネオコンの人はろくなことしてないように見えるけれど、 「言葉で社会を動かす」ことを 世界で一番真剣に考えているのは、ネオコンの人たち。「正しさ」だけでは、まだまだ不足。

世代を超えて生き残る構造

あいかわらず本を読む。生活スタイルがどれだけ変わっても、本だけは不変。

いつでも読めるとか、パソコン無くても読めるといった利便性以外に、本が便利なのはその自由度。

ページを折るとか、線を引くとか。本には「目次」という基本構造があるけれど、 読者の興味に応じて、あるいは本を読む目的に応じて、その内部構造はいくらでも変えられる。 1回読んだ本は、2回目以降は大事に思った場所から読めるし、 もちろん最初から読み直すのも自由。

他人が読んだり、線を引いた本を読むのも楽しい。

誰が何をしようが、ページを破くような真似さえしなければ、 本の基本構造は変わらないから、誰かが読んだ本でも最初から読める。

自分が思いもよらないところに線が引かれて いたり、何かの書き込みを見つけたり。そうした自由さは、 所有者の「世代」を超えて、楽しさとして 受け継がれていく。

  • 外側の構造が硬いこと
  • 内側の構造が変更可能で、その自由度が高いこと
  • 構造の「外」と「内」との乖離が激しくなっても、その影響が構造に及ばないこと

世代を超えて続く「構造」の条件というのは、たぶんこんなこと。

人間が作る組織で長持ちしているのは、公務員組織。

書類ひとつ回すのに20も30もハンコを要求する、非効率の代名詞みたいな組織構造は、 それでも世代を超えて受け継がれて、みんなの恨みを一心に受けながら、今も変わらず続いてる。

もちろん、公務員組織を維持するために莫大な国家予算が突っ込まれているのだろうけれど、 公務員組織というのは「外からは硬くて、中は意外に自由度が高い」という、継続する構造の 条件を満たしているようにも見える。

  • バッドノウハウの蓄積が可能:書類のハンコをあらかじめ押しておくとか、 書類の内容に応じて巡回ルートを決めてしまって、意味の無い会議をパスするとか、 面子にこだわる変な上司さえいなければ、たぶん状況に応じた業務の効率化が可能
  • 外乱からの安定性:意味不明な法律の山とか、ハンコの山は、 ノウハウを知らない「外」から見たとき、強力な「壁」として機能する
  • 「内」と「外」との整合性:役所内のバッドノウハウというのは、 あくまでも「法律を変えないで」蓄積されるから、 内層と外層との整合性が高く、外部構造が破壊されにくい

役所のいいかげんな上司というのも、言いかたを変えれば組織の自由をヘッジする存在。

ものすごくまじめな、不正を許さない公務員の上司がいて、 「自分が目の黒いうちは法律違反は許さない」とか、 「全ての書類は自分を通してほしい」とかやったりすると、 役所という組織は動かなくなるような気がする。

今は政治家の人たちが中途半端にクリーンになって、法律が分かりやすく、 厳密な解釈がされるようになった。その影響で「構造」が透明化して、 外乱がもろに役所の組織内に入ってきて、 官僚組織がまともに機能しなくなったなんていう要素、ないんだろうか?

医療組織は、「中の人」が医療従事者。 「外乱」要素を与えるのがマスコミや政治家。 最近は外乱が激しくなって、もう揺らぎまくり。

医療組織の「構造」部分を守ってきた医師会の偉い人とか、 あるいは学会の偉い人なんかが、今はすっかり市民の味方。

偉い人達は何もかも公開して、正しいことを重ねることで「誠実さ」でもって 「外乱」に対抗しようとしているけれど、やっぱり道具の選択を誤っている気がする。

「正しさ」という道具は「内層」に働きかけるには有効だけれど、 「外乱」に抵抗するには無力。

偉い人たちが「正しく」なったおかげで、医療という組織には、 建物でいう壁や屋根に相当する「構造の固さ」が失われ、 中身むき出し。雨や風がダイレクトに現場に当たって、 もう家具の移動で何とかするとかそういうレベルじゃなくて、 逃げ出す算段をするしかなくて。

「中身」が自由に変化して、時代に対応していくためには、 「構造」が十分固いのが必須条件。

偉い人の邪悪なロビー発言、けっこう大事だと思うんだけれど。

2007.01.11

「集合知」を意図した発信

せっかくこれだけの人が集まったんだから、なんかやりましょう…といったご意見に対して。

「集合知」の楽しさと「祭り」の怖さ

ネット世界で話題になっている「集合知」。

多様な意見の集積というものは、しばしば優秀な個人の能力をも超える

ネット世界では、これが本当に実現するときと、単なる衆愚になってしまうときと、 両極端。集合知が成立する要件のなかで、 けっこう大切なのは、「違いが楽しい」と思えることだと思う。

集合知の代表例としてとりあげられるのが、牛の体重当てコンテスト。

「大きな牛を連れてきて、会場に集まったお客さんが思い思いの体重を書き込んで集計すると、 その平均値は牛の体重を極めて正確に当てる…」というあれ。 対照的なのが、blog の「炎上」なんかに代表される強烈な同調圧力。

「祭り」と形容される集団行動、「同調知」と、「集合知」を実現する牛の体重当てとの違い。

  • 牛の体重当てというものは、自分の予想が当たっていようが、大きく外れていようが、あくまでもその「違い」が楽しい
  • 掲示板炎上騒ぎでは「ひとつの正解に同調すること」が求められ、それから外れた人は叩かれる

「当たりはずれに対する期待感」の差。 外れることが面白い「集合知」ルールは必然的にまとまらないから、 何らかの集積装置が必須。同調圧力ゲームでは、ルールの中に 「ひとつの答えに行き当たること」が組み込まれているから、 自己創発的に回答が出る。

世間の「何か」に肩入れして、人を集めて何かを動かそうという考えかたは、同調知の考えかた。 散逸こそが本質の、集合知とは相容れない。

何かの目的があってみんなの知恵を集めるのと、個人の最適行動が集まった結果、何かがおきるのと。

順序の差にしか過ぎないけれど、個人的には譲れない。

脳の知性とネットの知性

仮説でも何でも無くて、単なる妄言レベルだけれど、 「脳の中の意識」とか、実世界で作られた叡智の成果というものは、 集合知よりは「祭り」に近いプロセスで作られるんじゃないかと思う。

感覚器を通じて頭の中に情報が入って、莫大な数の細胞に、 同じような情報が渡される。細胞個々の様々な反応は集積して、それが「認識」とか「意識」 と呼ばれるものになる。それは集合知みたいなエレガントなものではなくて、 むしろ「脳内2ちゃんねる」。大きな「祭り」が連発しているような状態。

実世界の成果物、たとえば「言語」なんかも、たぶん「祭り」の産物。 言語生成にはコミュニティの存在が不可欠で、みんなが思い思いの「意志発信」 をしていく中で、実用的な言語系がだんだん支配的になって、周囲の個体に 同調圧力をかけて「言語」としてまとめられていったんじゃないか。

  • ノード間の同調圧力「祭り」が支配する実世界
  • 個々のノードは独立していて、 google みたいな意見の集積装置が別に実装されるネット世界

より生理的なのは同調圧力が作る「祭り」世界のほうで、判断-集積の2元論的な「集合知」 世界というのは、たぶん相当に非生理的。

集合知というのは、生理的でないからこそ面白いのだけれど、その状態を維持するのには エネルギーがいる。ちょっと油断するとどこからか同調圧力が顔を出して、衆愚に陥る。

同調圧力を排するために

この blog というのは、もともとが関係各位に対する自分なりの生存報告とか、読書日記。

何かを変えたいとか、社会的な目的意識を持って文章を書いたことは あんまり多くなくて、ここにあるのはあくまでも「自分なりのバカ話」。

気をつけているのは、以下のような部分。

  • 文章内の「事実」には何も語らせないこと
  • 体験した部分と引用した部分、管理人が考えている部分とを明示的に分けること
  • 自分のスタンスとか、自分で管理できる範囲は「嘘をつかない」こと
  • どこかに肩入れする文章を書かないこと

事実といっても、このblog に書いてある「事実」は全部作り話。

もとネタはあるけれど、時制や病名を変えてみたり、 いろんな病院で体験した話を混ぜたり。事実上の創作。

こんな「事実」だから、一番恐れているのはそれが 「医師の体験した話」として一人歩きしてしまうこと。

「医師の意見」なんて同調圧力の塊だから、これが「歩けないように」するには、 事実に何かを語らせるような書きかたを避けないといけない。

うちの文章では、「事実」パートは笑いをとったらそれでおしまい。 筆者の感想とか、考えとかは明示的にわけて書く。 文章内に、うっとおしいぐらいに「…と思う」とか、「…なんだと思う」といった言葉が出て くるのは、一応そのため。

嘘をつかないこと。

実際問題書いているのは嘘話ばっかりだけれど、自分の立ち位置をコロコロ変えてみたり、 自分の心情を曲げて、別の話題を書いたりすることはほとんど無い。

自分の立ち位置というのは、倫理的にはどちらかというと「邪悪」。 それでも、それを隠して正義の立場をとるメリットはあんまり無くて、 むしろ何かを隠すデメリットのほうが、圧倒的に大きい。

嘘をつかないで誰かに嫌われて、それはしかたがないことだけれど、 嘘をついて誰かに味方になってもらったとき、その嘘がばれたりしたら、 世界全部が敵に回る。嘘をつかないのは、ネット世界で生きていくための知恵みたいなもの。

社会参加しないこと。

ただただ「俺様がどうやったら幸福になれるのか」、いつも考えているのはそればっかり。 日本がどうなるとか、格差がどうとか、そういうのは後回し。 まずは自分の食い扶持を維持する方法論があって、その結果として全体がよくなるならなお幸せ。 そんな立場。

老人内科とか、地域医療とか。ただただそれが楽しくて、 なおかつ仕事としてそれなりに「食える」ものなので、結果として続けているだけ。 誰かのためとか、地域のためとか、そんなんじゃなくて。

「あなた」は誰のものか

完成されたプログラム言語は、それ自身を記述することができる。

C言語なんかはそれができて、コンパイラとかOSみたいな言語が動くのに必要な部品を 自分で作れるから、「世界を書くための言語」として通用するのだとか。

「集合知」というプログラム言語は、残念ながら自分自身を記述することは不可能で、 我々の言葉とか、ものを考えるのに必要な意識とかはもっと不恰好な言語、 「同調知」で記述しないといけない。

その代わり、集合知が作る未来というのは魅力的。

「部分最適」でない、本当の最適解を探すためには、集合知の力というのは絶対に外せなくて、 同じことを同調知を使ってやろうとすると、これはもう進化論的なスケールの時間がかかる。 集合知の作る未来を信じてるし、自分自身、それに最適化したサイトを作りたいと思ってる。

Weblog というのは、一人の意思ではなくて、そこにいる「みんな」の意志で書くもの。 筆者がいて、無数の読者がいて、その相互作用の結果として一連の文章が作られる。

文章化されたコメントやブックマークはもちろん、「ただ見に来るだけ」という無言の読者の方々もまた、 筆者の思考に大きな影響を与える。つまらないならば、あるいは読むに値しないと多くの人が 判断するなら、こんなサイトにはそのうち誰も来なくなる。

読者を意識しないで文章を書くなんて無理。

書き手のスタンスとしては、「私」と「あなた」が集まっているんじゃなくて、 ここに「みんな」という漠然とした集団がいるだけ。うちのサイトに来た以上、 「あなた」の意見ですらここにいる「みんな」のもの。 コメントを書いていただいた時点で、それを含めてひとつのエントリー。

意見の集積と合意形成というバックエンドはやがて現れるであろう「誰か」に任せて。 この場所は、フロントエンドを意識して、「誰か」の検索可能空間を大きくするための場所と 割り切っている。

まとめ

反応をいただけるのは本当にありがたいものです。このサイトをはじめたばっかりの頃は、 掲示板を作ったって、コメントをいただけるのは2ヶ月に1人とか、寂しいかぎり。

今みたいに返信が追いつかないなんて、考えてもみませんでした。

コメントをいただける機会は増えましたが、自分のスタンスはこんなかんじで、 昔からそんなに変えていないつもりです。

ただ、そんなわけで、この場所から何か、具体的な行動を…とか、ちょっと考えられません。

ポリシーの無いあいまいな態度や、真偽のはっきりしない話に基づいた放言。質よりも量で、 重み付けとか集積とかは、他の人任せ。そんなことこそがこのサイトの 強みでもあり、同時に限界でもあるからです。

2007.01.08

天秤の反対側に企業が乗る日

今年は皮膚科大人気。某大学の皮膚科医局には30人以上の入局希望が殺到して、 半分近くを断ったとか。景気のいい話。

内科は悲惨。外科はもっと悲惨。

大学院生とか、定期的な収入のない医師は、当直のアルバイトをして収入を得る。 割りのいいアルバイトは取りあいになったりしたものだけれど、今は逆。

大学に人がいなくなってしまって、それでもOBが作った病院とか、断るわけにはいかない 「アルバイト」だけが残って、みんな「お金はいらないから寝かせて下さい…」と 悲鳴をあげる毎日。

医局サイドもいろいろ考えてはいるみたいだけれど、名案なんかない。

忙しいこと、リスクが高いこと、 眠れないことそれ自体がメジャー科の「売り」だったんだから、 いまさらそれに人気がなくなったからといって、捨てるわけにはいかない。

新卒の医学生は、自分の進路を天秤にかける。

  • 臨床と研究
  • やりがいと自分の時間
  • 大学病院と市中病院

いろんな選択。「大学の内科」がぶら下がる天秤の、反対側にぶら下がる相手もいろいろ。

今のところ、天秤は反対側に傾きっぱなし。内科や外科は、天秤からずり落ちる寸前。 産科や小児科は、もはや天秤に乗っかる以前の問題。

いろんな相手。まだまだ少ないけれど、天秤棒をへし折るぐらいに 破壊的な力を持っているのが、「白衣を着ない医者」という選択肢。

白衣を着ない医者

昔は厚生労働省の医系技官。

基礎だろうが臨床だろうが、どの科に進んでも「白衣を着る」という言いかたをしたものだけれど、 唯一の例外が官僚になる道だった。

この方向に進むのは、本当に数年に一人。臨床はやらないで、医療行政にかかわる仕事。 病院に進む進路と、厚生省に入るのと、 両方を経験した人なんていないから、その分野が果たして「いい」のかなんて、誰にも分からない。

最近話題になっているのが、民間企業やマスコミ方面への就職。

いわゆる「大手企業」の中のいくつかは「医師枠」というのを設定していて、 医学部を出た新卒が、他の学部の新卒と一緒に就職するらしい。医師免許を持っていると、 他の学部に比べて就職が有利だったり、一般企業の中でもいろいろ便利なときがあるのだとか。

医学部を出たのに病院に就職しないで、一般企業に就職する

自分達の世代の感覚ではありえないし、今の世代の人達に聞いても「都市伝説では?」というぐらいに 少数派らしいけれど、こういう人がわずかずつ出てきているらしい。で、この分野に進む人が これから増えて、医学部の中でも優秀どころがこちらに動くと、たぶんすごいことになる。

そもそも研究は趣味

もともとが、研究職なんて趣味人の遊びみたいなものだった。

寺田寅彦あたりが現役だったときの「教授」なんて、自宅に弟子を何人も住ませていたり、 ポケットマネーで誰かを留学させてみたり、もともとが大金持ちの人ばかり。

林望のエッセイにも出てきたけれど、大学教授がスーツを作るときは、銀座の「英国屋」が定番。 一着30万円近く。こんなのを年に何着か新調するのが昔は当たり前だったとか。

自分が小学生だった頃の年始回りもそんなかんじ。

当時はまだ、父親みたいな「普通の人」が研究方面に進むのは例外中の例外。

うちは2間のアパートだったけれど、年始回り先は、どこも東京の真ん中、 「屋敷」といったほうがいいぐらいの大きな家ばかり。 やたらと毛足の長い絨毯とか、ジャングルみたいに大きな木の生えた庭の真ん中に、 巨大な池があったりとか、そんな断片を覚えている。

最近のオーバードクターの問題とか、ポスドクの問題とか、本当に深刻だけれど、 日本ではそもそも「研究で食べていく」ことなんて想定されていなかったんじゃないかとも思う。

優秀な人は実業を目指す

アカデミックポストの暮しむきは相当に悪い。

うちの実家は、その地区半分ぐらいが「元○○大学教授」の地域で、 地域のの平均学歴みたいな統計を取ったらすごいことになるんじゃないかと思うけれど、 これも土地が安くて、みんなそこしか買えなかったから。今はよくなったけれど、 昔は台風がくるたびに地域が水没したりして、大変だった。

研究職についても経済的には幸福になれないのは、洋の東西を通じて同じ。 数学とか、物理の研究者の人も、3年ごとにポスドクの仕事を転々として、 成果を出せなければ「次」がない世界。

貧すれば貪す。論文データを捏造してみたり、基礎系の成果の「産学共同プロジェクト」の産物が、 「○大の先生ご推薦の健康ドリンク」だったり、なんだかグダグダ。

アカデミズムの世界が苦しい一方で、「実業」の世界は華やか。 優秀な人達は、最近は金融方面に進出したり、google みたいな新興企業に応募してみたり、 流れが変わってきているらしい。

医学部だって一応理系の端っこだし、 東大や慶應、京都大学あたりの医学部生は超絶に頭いい人ばっかりだから、 こんな流れがきたっておかしくないはず。

「外」を伝える大人の存在

自分達の学年にも10人ぐらいいた、「大人」の人達。

外の企業を出てきたり、薬学部を卒業してから医学部に入りなおしたり。

学部卒の人達というのは経験があって、時間の大切さを知っていて、 新卒の連中が馬鹿をやるのを生暖かく見守る、そんな存在。

高校を出て医学部経由で病院に入ってしまうと、他の人達がどんな働きかたをしているのかとか、 「外」の話なんか全く聞こえない。大人達からいろんな話を聞いたり、彼らが「やっぱり臨床をしたくて」 みたいなことを言うのを聞いて、「やっぱり俺ら、正しいんだ」なんて安心したり。

自分達の世代の「大人」というのは、白衣を着て病院に就職する流れを補強する存在だった。

でも、もっといろんな大人がいてもいいはず。

たとえば一般企業に就職して、 「ここで医師免許があれば、わざわざ医者に頭下げたりしなくても簡単なんだけど」 なんていう場面が何回かあったとして。

海外留学してMBA を取る企業人が増えているけれど、あんなのを受験するぐらいの実力があれば、 同じ4年間で医師免許を取るのだって不可能ではないはず。

企業側にそうした需要があって、「医師免許を取る」のがゴールではなくて、 それを単なる通過点としか思っていない「大人」がどこかの医学部にいて、 その人が新卒に対して「外」を語ったら、我々の世代とは相当異なった印象を受けるだろう。

  • 厳しいけれど華やかそうな、外の世界。同級生にそれを体験してきた人がいる
  • 厳しい上に危なそうな、病院世界。ネットの情報は悲惨だし、上級生はみんな疲労困憊

こんな「天秤」を想定している医学生がどこかにいて、そのうち優秀どころが研究職じゃなくて、 企業への就職を考えるようになったりしたら、相当おもしろいことになる。

レッドオーシャンに残されるもの

優秀な人たちがタコツボ化した業界内での苛酷な競争を放り投げて、競争相手のいない 「ブルーオーシャン」に乗り出していった後は悲惨だ。

ブルーオーシャン戦略のひどいところは、成功した「ブルー」側がもてはやされる影で、 苦労しまくっていた「レッド」側が笑いものになってしまうところ。 最近だと、任天堂にこれを仕掛けられたソニーとか、ソニーとか、ソニーとか。

進路の天秤に乗っかる相手に「外の企業」という選択肢が当たり前になる日がくると、 今まで大学でがんばってきた人達の立場が無くなる。

  • 優秀な人は、企業で全然違う仕事についたり、「マネージャー」として現場に戻ってきたり
  • 「医療界で競争する」というのは、しょせんはトップになれなかった人達の小さな世界での競争

医師を取り巻く世界観がこんなふうに変化すると、たぶん現場の医師の心は折れる。

医師免許というのは、企業から見れば「30兆円市場に参入するためのパスポート」みたいな ものだから、たぶんそれなりに使いようはあって、「使いこなし」の競争を仕掛けられたら、 しょせんは中小企業の集まりにしか過ぎない病院なんて、絶対勝てない。田舎の商店街が、 ダイエーやジャスコと競争するようなもの。

「ブルーオーシャン戦略」の怖いところは、旧来の「レッド」側にできることがほとんど無いこと。

「企業に就職する医師」というのが選択肢として考えられるようになって、 いろんな企業が本格的にこの業界に参入するようになって、伝統的な病院は「グループ」として 企業に買い上げられて、「社員」となった医師が、企業主導で地域に再配置される。

こんな未来図を考えている個人とか、大企業が世界のどこかにあったとして、 それに対して自分達の世代ができることはほとんどない。

今の医療界はそれはそれで、お互いの競争に必死。法律に追いつかないと 病院潰れるし、勉強しないと取り残される。

「医者らしく生きたい」とか「白衣を着る夢を実現したい」とか、そういう感覚が当然なんじゃなくて、 それを「馬鹿じゃないの?」と言い切る感覚。それは自分達の世代からみると 明らかにずるくて不都合で悪いことだけれど、今はそんな感覚の方が「古い」といわれる。

「企業に就職する医師」の夢は、若い人達の独壇場。

あとは「向こう側」に移るために必要な資質と、「パイの大きさ」の査定。

未知の大陸が測量されて地図ができて、そこで生きていくための知恵が蓄積されてしまえば、 そこはもはや新大陸なんかじゃなくて単なる新興住宅地。お金のない、優秀な人たちは 嫌でもそこに殺到する。

最初のうちは、毎年のように水没したりするだろうけれど。

2007.01.05

皮下注射を用いた維持輸液

点滴ラインがとれない高齢者とか、認知症がひどくてすぐにラインを抜いてしまう患者さんなどに 輸液を行う、もうひとつのやりかた。

歴史

皮下に大量の輸液を行うことは100年来行われているらしい。

1950年代、高張液を輸液したり、あるいは大量の低張液を輸液した際に血圧低下などの トラブルが報告されてから下火になったが、最近になってみなおされるようになった。

急速輸液はできず、また使える輸液性剤は限られるものの、皮下注射は穿刺部位を選ばず、 簡便で、低コストな輸液方法として、緩和ケアやナーシングホームの現場で広まっているという。

利点と欠点

利点

  • 安価
  • 末梢静脈輸液に比べておおむね快適
  • 肺水腫や輸液過剰を起こしにくい
  • 穿刺が簡単で、静脈輸液に比べてわずらわしくない
  • 針が抜けても水が漏れるだけなので、スタッフが監視したり、手足を縛る頻度を減らせる
  • 末梢静脈炎を起こしたり、輸液ラインから全身の感染症に発展する可能性が低い
  • ラインが凝血する可能性がほとんどないため、クランプを閉じるだけでいつでも中断できる

欠点

  • 最大でも毎分1mlの速度でしか輸液できない
  • 1日に輸液可能な最大量は、2箇所の穿刺部位を併用しても3000ml程度
  • 特定の電解質輸液や、栄養点滴を行うのは難しい
  • 注射部位の浮腫が生じる

適応と禁忌

適応

  • 軽度から中等度の脱水患者
  • 認知症や高齢者など、通常の点滴が難しい患者
  • 高齢者や末期がん患者など、長期間の輸液が必要な患者は、皮下の方が合併症を減らせる可能性がある
  • 在宅輸液や訪問看護などでも有効

禁忌

  • 急速輸液が必要な患者では有効でない
  • 重症心不全や、出血傾向のある患者などでも用いないほうがいい

やりかた

  1. 穿刺部位をヨードで消毒する
  2. 23~21ゲージの翼状針か、テフロン針を用意する
  3. 消毒した部位を45~60度程度の角度で皮下に穿刺
  4. 1日量はだいたい500から1000ml程度。これを24時間で輸液

部位

  • 歩ける人なら腹部、前胸部、肋間、鎖骨下などの皮膚を用いる
  • 歩けない人ならば、大腿部、腹部、腕の外側などを用いることもできる
  • 穿刺にテフロン針を用いたときの平均使用期間は11日、 金属翼状針を用いたときの使用期間は5日前後

量と速度

  • 皮下注射では、毎分1ml、1日量で1500mlの輸液まで注入することができる
  • 2箇所の穿刺部位を併用した場合、輸液量は最大3000ml/日
  • ヒアルロニダーゼを併用すると吸収が早まるらしいが、 用いても用いなくても変わらないという報告もある

使用できる輸液

生食を用いるのが基本で、1号液や、もっと低張な輸液を用いてもいい。

かつては5%糖液を用いた際に血圧低下の合併症が報告されたが、 最近の報告では、合併症の発生率は他の輸液製剤と大差ないらしい。

ヒアルロニダーゼを輸液に混ぜると吸収が早まるらしいが、アレルギーを生じたり、 局所反応を起こす可能性もある。必ずしも必要な物として推薦されているわけではない。

カリウム製剤については、輸液に混合することも可能。 KCLで20~40 mmol/L ぐらいなら大丈夫らしいが、個人的にはすごく

3号液なら、そんなに気にしなくても大丈夫か?

モルヒネの吸収についてはデータがないらしいが、普通の麻薬静注と同じ感覚で 用いてほぼ大丈夫なはず。

Letter のほうに投稿されていた「皮下輸液可能な静注性剤」として、 メトクロプラミド、ロラゼパム、ジフェンヒドラミン、 デキサメサゾン、プロメタジン、ミダゾラムなどが挙げられていた。

その他

editorial のコメント。

  • 持続皮下注は、だいたい20ml/h ~75ml/h 程度の速度で行うのがいい
  • この方法は背中でも穿刺できるので、点滴を引き抜いてしまう人でも、 手のとどきにくいところに点滴をできるのが利点
  • 穿刺部位が赤くなったら抜き時なので、透明なフィルムドレッシングで穿刺部位を覆うのが望ましい

夜間寝ているときに輸液しておいて、日中は皮下に入った分から水分を補給するやりかたとか、 皮下注製剤に鎮静薬を混ぜておいて、夜間に適切な沈静を得るやりかたとか、 いろんな応用ができるらしい。

昔は子供の輸液方法として皮下注射が用いられていたそうだけれど、 やったことのある先生の話だと、「あれは色素沈着するから、親御さんうるさいよ」とのこと。

一応「24時間持続点滴」という事で療養病棟の加算が取れるから、 これから広まるかも。

参考文献

Hypodermoclysis: An Alternative Infusion Technique

Editorials - November 1, 2001

Letters to the Editor - July 1, 2002

2007.01.04

指揮者のいない交響楽団

マスコミの人達に「自分が取材対象となったらどう振る舞うだろうか」という 問題意識を持っていただく、 そんな方法論。

交響楽団の2人の指揮者

指揮棒を振る指揮者と、コンサートマスター。

交響楽団では、第一バイオリンの人が「コンサートマスター」として交響楽団を 統率して、指揮者の意志をみんなに伝えたり、逆に楽団の意思を指揮者に伝えたり、パイプ役をする。

演奏中は、指揮棒の動きだけでは細かい情報が伝わりきらない。楽団員は、 細かな音の出だし、微妙なニュアンスといった情報を、指揮者からではなくて、 コンサートマスターの演奏を通じて受け取る。

コンサートマスターと指揮者とはしばしば対立する。お互いのの仲が悪いとき、 コンサートマスターはしばしば指揮権を奪ってしまう。

指揮者は外様コンマスは仲間

学生の部活動とプロの交響楽団を一緒にすることはできないだろうけれど、 楽団にとっての指揮者というのは「外の人」で、「仲間」の最上位、 交響楽団の主将をやっていたのは第一バイオリンの男だった。

演奏会が近づいて、指揮者は指揮者なりの演奏プランを考えて練習に臨む。 主将がそれを気に入らないと、指揮者を無視して演奏が進む。みんな コンサートマスターに従うから、指揮者は楽団員に引っ張られて指揮棒を振る。

練習が終わって、反省会を兼ねた話し合いを何回もやって、指揮者のプランに 全員納得がいったところで、指揮者はようやく「指揮棒を振れる」ようになる。

題名のない音楽会のこと

指揮者 -> コンサートマスター -> 他の楽団員

こんな面倒な情報伝達経路を取るのは、たぶん伝送容量の問題。

交響楽というのは、「指揮者の意志」という莫大な情報を、 リアルタイムで伝えないと成立しないもの。

「題名のない音楽会」という番組で、指揮者の人をカプセルに閉じ込めて、 マイクを通じた声だけで演奏をやってもらおうという企画があった。

指揮者カプセルの中にはマイクが一つあって、楽団員は全員、 イヤホンで指揮者の指示を直接受ける。演奏自体はうまくいっていたみたいだけれど、 指揮者の人は汗まみれ。通常の何倍も疲れたそうだ。

声による指示というのは、いわば情報を無圧縮で伝送するようなもの。 みんな自分の持つ「帯域」を使いきってしまうから、集中力がいるし、周りを見る余裕すらない。

情報というのは、お互い共有しているものならば、「あれ」という言葉で省略できる。 情報の圧縮幅は、お互いが共有しているものの量に比例する。

本来の交響楽団には、指揮者の他にコンサートマスターがいる。

指揮者とコンサートマスターとは、お互いに十分多くの情報を共有した者 どうしだから、両者の情報伝達には「圧縮ファイル」、指揮棒の動きだけで 十分。

コンサートマスターは、指揮者から渡された圧縮ファイルを「解凍」して、 自分の演奏を通じて楽団員に指揮者の意志を配布する。

トップダウン型ネットワークの問題点

実世界でのマスコミの立場というのは、ちょうどカプセルの中に入った指揮者のようなもの。

  • 楽団員はみんなイヤホンをつけているから、団員相互のリンクは不十分で、 指揮者のいうことを信じるしかない
  • カプセルの中に入った指揮者はどんな表情をしているのか、 そもそもカプセルの中に人はいるのかすら、楽団員には分からない

力関係は一方的。

マスコミの人とか、政府の人とか、あるいは厚生省の思惑があんまり上手く 動作しなくなった昨今というのは、 楽団員がイヤホンを片方外して、お互いの音を聞き出したような状態。

楽団員が聞いた自分達の演奏と、指揮者がマイクで怒鳴る指示の内容と。 ずれがあっても、確認はできない。カプセルの中にいる指揮者の顔は見えないし、 情報伝達経路は一方向。 不満もたまるし、従わない人も増える。

オーケストラという世界においては、指揮者と楽団員とは、 コンサートマスターを通じて双方向に対話する。

交響楽団にあって社会にないもの、社会から双方向性を奪っているのは、 「コンサートマスター」に相当する役割の不在なんだと思う。

本田勝一はサングラスを外さない

朝日新聞の有名な記者で、今でも左翼系の論客としてよく登場する本田勝一は、 常にかつらとサングラスで変装して、人前には絶対素顔を晒さない。

昔の取材は命がけで、どこで襲われるのか分からなかったから今でもそうしている らしいのだけれど、この方はたぶん、「カプセルに入る」ことの力をよく理解していて、 今に至るまで絶対に素顔にならないのだろうと思う。

オーケストラの楽団員が指揮者に従うのは、観客の前で無様な演奏をしたくないからだけれど、 それは指揮者だって同じ。演奏はちゃんとしているのに指揮棒の動きがあからさまにずれていたなら、 みる人が見れば(たぶん)何が行われているのかばれてしまう。一種の運命共同体。

「指揮者がカプセルに入る」ことは、楽団員に対して指揮者への盲目的な信頼を強要する。 観客の目に入るのは、楽団員だけ。指揮者は安全地帯から、指示を出すだけ。

マスコミと、一般社会人との関係も一方向的。取材を受けても適当なことだけ 書かれて氏名を公開されて、身内の住所から何から 関係ないことまで全部公開されて、表を歩けなくなったり生活を滅茶苦茶にされたりしても、 相手の「顔」がどこにあるのか、全く見えない。そんな「指揮者」、信用しろったって無理。

社会におけるコンサートマスターの役割

コンサートマスターというのは、基本的には誰がなってもいいらしい。

社会に「コンサートマスター」という機能を実装して、 マスコミに双方向性を求めようと思ったならば、 必要なのはこんなこと。

  • コンマスは実体を持たない存在であるか、あるいは自分のメディアを持っていること
  • 匿名性か、メディアに拮抗しうる発信力のどちらかは必須
  • 取材を受けたら、取材のログや経過、約束事などを全部自分のメディアで公開したり、 匿名掲示板で、たとえば「TBSアナの○○、 こんな手続きで行けば、身内の住所晒せね?」みたいなやりかたをしたり

アイデアが十分に「クール」で、方法と得られるものとが具体的であるならば、 誰かが調べて、誰かがまとめて、誰かがそれを公開して、 アイデアは自己創発的に実現してしまう。アイデアが屑なら、発表されても無視されて終わり。

「なんとなくおもしろそう」

十分な力を持ったアイデアは、コンサートマスターとして 一人歩きをはじめる。ネット社会の「仲間意識」というものは、 何の見返りがなくっても、人にすごい行動力を喚起する。

取材された内容を公開したり、相手の個人情報を晒したり。

そんな行為は「正義に反する」ことも多いけれど、正義の名の元にむちゃくちゃしてきたのがマスコミを 代表とする「上」の人達。彼らの方法論が正義なら、「おもしろさ」というのはそれに 対抗する動機としては十分に強力。

マスコミの巨大さ、強力さというのは、こうしたボトムアップ的なやりかた に対しては弱点にしかならなくなる。 晒し上げるようなやりかたを、彼らは「卑怯だ」と叩くだろうけれど、 叩かれることそれ自体が、たぶん創発のエネルギーを加速する。

改変前の取材内容が誰でも閲覧出来たり、マスコミ人の個人情報、 たとえばニュースキャスターの親御さんとか、 子供や孫の通学先やクラスといった情報をまとめたリストがネットのどこかに公開されたり、 あるいは「そんな物が出回っているらしい」という噂が流れた時点で、 マスメディアにはものすごい足かせになる。今まで「タブー」とされてきたいろんな利権集団なんて、 そもそもこうしたリスト、最初から持ってるんだろうし。

マスメディアで活躍するプロのジャーナリストは、たしかに実名で活動しておられるけれど、 それは単に「名前」だけのこと。実体はカプセルに入って指揮をしているのと一緒。

指揮者にカプセルから出てきてもらって、楽団員と一緒に演奏に参加してもらうには、 ネットのどこかにいる「コンサートマスター」がカプセルのドアを叩いて、 指揮者に指揮棒を振ってもらうこと。

実世界の交響楽団にだって「帝王」と呼ばれた指揮者がいたように、 実力のある表現者ならば、たとえカプセルの中から出てきたところで、やはり社会で 超越した立場でい続けることは、きっとできるはず。

アイデアひとつで世界を転がす。そんな機会と可能性とは、 たぶんネットにつながった人が全て平等に持っている。

いつかできるはず。

2007.01.01

テロルのやりかたと生態系

地域医療や、産科小児科。以前からヤバいヤバいと言われていた状況が、 一気に動いた昨年。

福島県で産科の先生が逮捕されたのをはじまりに、年末には墨東病院と豊島病院、 東京都内で年間分娩件数1000人級を誇っていた2つの中核病院が産科を閉じた。

年間の訴訟件数とか、たぶんそんなに劇的に増えたわけではないし、 裁判というのは3審制。全ての訴訟が有罪になるわけではないけれど、ダメージ深刻。

法律なんかどうだっていい。大事なのは、マスコミ様がどう思うのか。

たとえ完全無罪が決まったところで、 報道なんてマスコミ様の胸先三寸でどうにでもなる。 1人を殺した殺人犯は血も涙もない極悪人として報道されるけれど、100万人を殺した人が 国を救ったヒーローとして祭り上げられたりするのはいつものこと。

医療を取り巻く「世間」というのは、マスコミ様を頂点にいただく生態系。我々は単なるエサ。

有効なテロのやりかた

  • 安保闘争
  • 中国共産党
  • 日本の某宗教団体
  • イラクのテロリスト

テロの定義ははっきりしなくて、とりあえず「小さな力しか持たない勢力が、 大きな力を持った勢力に対抗する手段」としておく。 「戦い」の規模としては、オ○ム真理教とベトナム戦争の間にあるもの。

安保闘争は失敗。

60年安保なんて、100万人オーダーの人を集めて、一時は政権の交代まで成功したのに、 結局大きな流れは何一つ変わらなかった。総括してしまえば「団塊世代のお遊戯」。 全共闘白書なんて、みんな「いい思い出だった」とか、当時の指導者までもが 「下らないことだった」とか、信じられないことを書いていて唖然とする。

中国共産党の革命とか、創○学会の発展なんかは、大成功したテロル。

「テロ」と定義するのは報道する側で、マスコミなんて常に成功した側の味方だから、 誰もこの2つを取り上げて「テロ」なんていわないけれど、戦いをはじめたのは、 最初は本当に少数の人。 仲間を集めて、当時の大きな流れに逆らって、時には喧嘩も辞さない態度を貫いて、 ついには国家を転覆したり、政権で重要な地位を占めるようになったり。

イラクもそうなりつつある。

犠牲者の比でいったら、イラクで行われているのは 戦いなんかじゃなくて単なる虐殺。それでも、イラクの兵士は、無敵を誇ったアメリカの政府を たしかに転覆しつつある。

何が違うのか。

  • 「種火」の大きさでいったら、安保闘争とか、天安門事件みたいな学園紛争が最強で、 イラクなんかまだくすぶっているだけ。それでも前者は失敗して、後者は成功しつつある
  • 革命を駆動する「理念」の中身は、みんなバラバラ。安保と共産主義はほとんど同じ方向だけれど、 宗教と政治理念とは対立する概念

成功したテロルと失敗したテロルとを分けているのは、たぶん社会という生態系の「キーストーン」に 影響を与えることに成功しているのかどうか。

テロリズムと生態系

生態系というのは重層的な考えかたで、サンプリング範囲を大きく取れば地球は一つの生態系だし、 そのへんの野原にだって、小さな生態系が回ってる。

「系」に共通する特徴はこんなもの。

  • 「系」の中には、餌を食べる支配する強い種と、餌になる弱い種とがいて循環している
  • どんな種も複数の餌を食べるし、複数の種に食べられるから、いくつかの種がいなくなっても、「系」は維持される
  • 「系」の中には「キーストーン」と呼ばれる種がいて、これがいなくなると、「系」は崩壊する
  • キーストーンは、捕食者の場合もあるし、餌になる単なる雑草のこともあって、外からそれを同定するのは難しい

テロリズムというのは、「系」の中で餌にされる側、弱いものが強いものに挑むための手段。 弱いものが強いものにつけいる隙があるのだとすれば、「強いものが必ずしも生態系の キーストーンではない」という部分。

挑むといっても、たとえば牧場という生態系の中で、牧草が手足を生やして 牛に戦いを挑むなんて現実的ではないから、 実際には牧草が「苦く」進化してみたり、草にとげを生やして、牛に食べられにくくしてみたり。 すごく地味な変化。

牧場の中に、他に食べる草がたくさんあれば、「ある草が苦くなること」はたんなる嫌がらせ。 一生懸命苦くなってみたところで、牛には他にも食べ物はたくさんある。 牛が食べなくなった場所には糞が落ちないから、 結局そこには栄養が回らなくなって、苦くなった草はやがて枯れる。これが失敗したテロル。

牧場という生態系を支配しているのは間違いなく牛だけれど、この生態系を「維持」しているのは、 たぶん牧草の中のどれか特別な種。

たとえば、牛がそれを食べないと、特定の栄養素が取れなかったり、ある草が害虫の侵入を 抑えていて、他の草がなくなって、それが食べられるようになってしまうと、牧場全体が 枯れてしまったり。

そんな草がもしも「苦く」進化して、牧場の生態系を維持できなくなってしまったら、 「草が牛に勝つ」ことなんてしなくても、牛は牧場で生きていけない。

草が苦くなる。そんな小さな変化をきっかけに、社会というネットワーク全体を巻き込んで落とす。 そこから先は運次第。テロリズムというのは、そんな考えかた。

  • 学生運動。そもそもが直接政府転覆を狙いに行ったのが間違い。60年安保が部分的にも成功したのは、キーであったアメリカの外交官に「嫌がらせ」ができたからだった。選挙に行く「ふつうの人」を巻き込めなかったから、運動は大きく広がったけれど、たぶんあの頃「キーストーン」になっていた人達は、現状維持を選択した
  • 中国共産党とか、某宗教団体が成功したのは、 取り込んだ層がそのまま社会のキーストーン種だったから
  • イラク紛争。「イラク-アメリカ」という大きな生態系を支配しているのはアメリカ政府で、 キーストーンになっているのは「かわいそうな若いアメリカ人」というマスコミが括った一群の人。 イラクでは、もちろん対立して殺しあっている関係だけれど、イラクのゲリラ兵と、アメリカの軍人 というのは、ある種の協調関係を持ってアメリカ政府を転覆させる方向に動いている

医師はどうするべきなのか

大マスコミ様を頂点とする日本社会という生態系では、現場の医師というのはどう見たって 単なるエサ。

ネット社会ではマスコミはもはや笑い者になっていて、朝日や毎日が何を書こうが、 みんなそれを冗談と受けとるけれど、ネットでマスコミを笑う「みんな」と、 実際に社会という生態系を維持して、医療が滅んでいくのを傍観している「みんな」とは 全く別物。

マスコミが支配する「言論」世界や、ネットの中でいくらマスコミの非を叫んだところで、 マスコミにとっては「エサが苦くなった」感覚は全くないはず。笑いというのは痛くないから。

マスコミに「医者は苦い」という感覚を持ってもらうには、 やっぱり「マスコミの中の個人」を攻撃すること。

マスコミを構成する個人をいくら潰したところで、マスメディア全体が潰れることは絶対に無いけれど、 それでも彼らはわざわざ「苦い草」を食べにくることだけはしなくなるはず。

  • 医師会が音頭をとって、「悪い報道」をした記者を「個人名」で訴訟
  • マスコミ全体を敵に回しても無駄なので、医師会がメディアを敵に回すのは止める
  • 賠償金なんて個人の生活を潰せる程度で十分。とにかく訴訟の数を増やして、目に見える「刺」をたくさん作ること
  • たまには身内にも刃を向ける。迎合的な発言をした医師とか、 ミスリードに荷担した医師なんかは身内で 処刑して、医師の結束力を力で固めて、マスコミ様に「医師という餌の苦さ」をアピール

我々は牛に食われる草なんだから、牧草の分際で、牛を倒そうとか考えるのが間違い。 刺を持ったり、ちょっと苦くなるだけで十分。

メディア一辺倒だった社会も少しづつ変わって来ていて、 単なる報道機関だったマスコミも、自分で火をつけて、それをエサにするという新しい ビジネスモデルを組み立てつつあって。医者は叩かれて一儲けされて、 今度は危機を煽られてもう一儲け。やられっぱなし。

ネットメディアではみんなマスコミを笑うけれど、それでも朝日はみんなが読むし、 亀田家のボクシングはものすごい視聴率を稼ぐ。ネット世論は何も変えていないし、 キーストーンはまだ「維持」を望んでる。

現状変えるには、遠回りだけれど生態系全体を巻き込んで「落とす」しかなくて、 それはとても難しいようでいて、もしかしたら案外簡単な手段でできるかもしれない。

我々がキーストーンなら、ネットワークは「落ちて」再起動されるだろうし、そうでなければ マスコミからみた「医師という牧草」は枯れて、代替手段がどこかから出てくるだろう。 どちらに転んだって大丈夫。少なくとも、 苦くなった医師が、これ以上マスコミ様に喰われることだけはなくなるから。

マスコミ様がいよいよ凶暴さを増す昨今、いろんな分野の「エサ」が苦くなる戦略を とり始めれば、きっとどこかでキーストーンに当たる。キーが抜けて系が「落ちた」時、 世界はきっと、とんでもなく面白いことになる。

そんな初夢。