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2006.12.31

「ゆく年くる年」その裏側

今泊まっている病院からさらに1時間ぐらい山のほうに入ると、 全国的にもそこそこ有名な神社があって、 毎年大勢の人が訪れる。

そこに行くには途中から完全な1本道になって、細い橋を3箇所渡らないといけないから、 必然的に一方通行。神社に向かう方向には行けても、そこから町には帰れない。

山の奥の小さな村。駐車場なんかないところに何百台もの車が路駐。

村は閉鎖されたような状態になって、今から朝まで、急患が出ても救急車だって入れない。

日中、そこから「脱出」してきた高齢者が入院。息子さんが「もう今から明日の朝まで、 何があっても村から出られません」と、なんだか覚悟していた。

今から朝まで、寒風吹きさらしの中で神事と初詣、振舞い酒。

「ゆく年くる年」の番組も終わる頃、やっとみんな開放されて、当直医にとって 一番おこされたくない時間になる頃、冷え切った人たちがみんなで暖まりにくるんだと。病院に

今年は紅白だって見てないし、楽しみだった年末格闘技だって、今年は2ちゃんねるで 結果を見ただけ。まだ引越しの荷物だって解いていないし、まだもう一回、1月4日の 当直だって残ってる。

田舎のひなびた神社とかお寺とか。マスメディアが地元のふれあいを放映する影では、 きっと何人もの当直医がふるえてる。

小便はすませたか? 神様にお祈りは? 外来のスミでガタガタふるえて命ごいをする心の準備はOK?

本番はこれから。

せめて数時間の睡眠ぐらいは。

お願い神様。

当直入り

大晦日の午後から正月まで一人当直。

病院にきた時点でもう患者さん用駐車場は満車

自分に一体何をしろと…?

2006.12.30

針の上には天使は何人?

グローバル化と専門化

いろんな業界のグローバル化が喧伝された今年。

電話回線は国境を軽々越える。シリコンバレーのプログラマの競争相手がインドにいるとか、もう滅茶苦茶。

自分達の業界は、幸いにしてまだ大丈夫。それでもフィリピンから看護師がやってくるとか、 安価な中国人医師が解禁になるとか。

免許仕事は保護されている。学生時代、たまたま受験校にいて、医学部を出たから今の暮らし。 もちろん忙しいし、社会的な地位は地に落ちたけれど、それでもまだまだ余禄は残ってる。

ネットの医者は、みんな愚痴って世の終わりを叫ぶ。それでも、「じゃあ、免許いらない?」と聞かれたら、 10人が10人、間違い無く「No」という。みんな世間知らずだけれど偏差値高いから、免許がなくなったら「どう」なるのか、 それぐらいは分かってる。

日本語で授業を受けてる中国人医師とか、石原都知事の「文系のマインドを持った医師」構想というのは そんなわけでものすごい脅威。

できるもんならやってみろ、とは思うけれど、技術的には十分可能。簡単な病気、ただの風邪とか、 誰かに診断してもらって、薬を渡すだけの仕事なら、医学部出てなくたって大丈夫。 安価な人件費と優しい応対とを武器に、風邪の人にPL顆粒を渡すだけの仕事を「新世代医師」に 総取りされたら、旧世代医師の下位グループは路頭に迷う。

グローバル化は中途半端な奴を破壊する。自分みたいな。

キャリアアップという血の海

グローバル化に対抗するのは専門化。

専門医を取って、様々な資格を身につけて、中途半端でない、特別な自分を売りにして。

これは王道。時代の先端を突っ走る、シリコンバレーの技術者なんかは確実にこの路線。 大学院なんか出ているの当たり前だし、博士号を持っている人もまた、多い。 競争相手は全世界のプログラマ。インドや中国の同業者は圧倒的に低コストで 働いてくれるから、専門性を持たない技術者は淘汰される。

専門性は、「狭い」からこそ発揮される。誰にでも必要な能力というのは、専門能力ではなくて 「常識」になってしまうから、その能力を持っていても食べていけない。

専門科が専門家になれるのは、その分野の「パイ」が大きくなくて、そこだけに「深く」なった 人でないと手が出ない分野。

そんな場所はごく一部だし、その分野が陳腐化したら専門家は居場所を失う。

シリコンバレーの技術者は、用が済んだらすぐに解雇される。それでは困るから、 技術者同士のネットワークがあって、いろんな会社を短期間で転々とする。

専門家が専門家でいられる期間は短い。技術者の能力には限りがあるし、年齢が上がれば 単価も上がるから、競争力はそれだけ落ちる。みんな40を回る頃には仕事が無くなって引退を 考えるとか。

高リスク、高コストで短期間に大きく稼ぐ。かっこいいけど、せわしない。

グローバル化、フラット化の先にある専門家の社会。たぶん、今後はどの分野もこの路線に 行くんだろうけれど、疲れそうでちょっと嫌。

医者の世界とプログラマの世界

医療の分野は、まだまだそこまでいってない。

ごく一部、学会で誰もが知ってるビッグネームの人達は、内視鏡片手、カテ片手に全国の病院を 回って、コンサルタントやデモンストレーターとして活躍しておられるけれど、まだまだ そこまでいっている人はわずか。

専門医をはじめとした様々な資格取得はブームになっているけれど、 そういうの持ってなくても、僻地でひっそり仕事をする分には、まだそんなに困らない。

天使が本当に神の使いなら、針の上では何人の天使が踊れるのだろうか?

神学上の「正解」は、世界中の天使全部らしい。天使は存在だけを持っていて、形や質量を 持たないから、「踊る場所」の大きさというのは関係ないのだという。

医師が「躍る」のは、病気になった患者さんの上。ベッドの大きさなんて畳1畳ぐらいしかないから、 その上に集まれる人数が、医師が集合できる限界。

技術者の「質量」みたいなものが人間サイズの仕事というのは、「中途半端に何でもできる人」が 活躍できる場所が残ってる。

一般内科一人よりも、10人の専門家のほうが、はるかに豊富な知識と経験をもっている。 ところが、ベッドサイドに10人の専門家が集まって、患者さんを同時に診察するなんて 無理だから、そもそもこんな比較自体が無意味。

プログラマの世界は、たぶん技術者の「質量」が限りなく天使に近い。 全世界から集まった専門家の集団が、ネット上の「針先」で議論をすることすら十分可能。 こういう世界では、中途半端な人間は淘汰され、専門性がないと生きていけない。

自分の属する世界は、「針」の先に何人まで乗れるのか

自分の競争力や商品性というものを考えるとき、こんな観点を考えるのは、役に立つかも。

アフガニスタンとイラクの違い

アメリカ軍。山岳地帯のアフガニスタンでは 苦戦して、砂漠戦になったイラクとの戦いでは大勝利をおさめた。

最新の兵器で武装したアメリカ軍は専門家の集団だから、本気を出せば圧倒的な戦力。

ところが、軍団が同じ場所に集結できない、山岳地帯や都市部といった環境では、専門家集団が その力をフルに発揮するのは難しい。

プログラムの世界や医療の世界と同様、「戦争」という業界にもゼネラリストとスペシャリストとの 葛藤みたいなものがあるんだとしたら、「どんな業界なのか」という戦略な視点とは別に、 「どこで戦うのか」みたいな戦術的な視点も大切なのかもしれない。

医療の業界ならば、たとえば学会であったり、コンサルタント的な仕事であれば、これはもう 専門資格を持った者の圧勝。学会会場で専門医の先生が演台でスポットライトを浴びるかたわらで、 田舎から出てきた一般内科は、お昼ご飯を求めてすいているランチョンセミナーを探すのに必死。

舞台が田舎の小さな病院になると、状況が少しだけ変わる。 以前飛ばされた小さな病院にいたとき、華々しい履歴書と共に登場した専門医氏はひどかった。 経験年次豊富、留学経験たくさん。でも、風邪や腹痛の患者さんをさばけない。

専門医というのは、「何でもできて、専門領域はもっと何でもできる」ことを証明するための 資格なのだけれど、その人にとっては「それ以外は何もできない」という 証明書みたいなものだった。

「天使度が高い」業界と「人間度が高い」業界と。

世界はフラクタクル。業界の違いとは別に、同じ業界の中にもまた、 天使度を活かせる場所と、人間度を活かせる場所みたいなものはきっとあるのだろうと思う。

あなたの技能は検索可能ですか?

  • ○○大学出身
  • JAVA が使える
  • 博士号や専門医師格を持っている

こんな資格を持っている人は「強い」。そうでない人は、グローバル化で淘汰される。

分かりやすいすごさを持った人というのは、「ネットで検索をするのが簡単な」技能を持っている人。

今年に入って、蔵書の多くを処分したけれど、捨てた本というのは売れた本、有名な本。 そういった本の内容はほとんどがネットに出回っていて、今さら現物を持っていなくても、 十分に代替が可能なもの。大まかな筋を覚えていれば、あとはネットでいくらでも 検索して引用できるから、「現物」を手元に置く必要がなくなった。

なんとなくなんだけれど、ネットで検索可能な「すごさ」というのは、 同じような危険を持っている気がする。検索可能な資格を持っているということは、 「自分の代わり」を探すのが容易であること。そうなると、最後に待っているのは価格競争の血の海。

考えすぎだろうか?

検索できない技能というのは、たとえば「いい医者」とか、「おもしろい奴」。

google には、まだこんな「技能」検索の方法は実装されていないから、こんな人を集めようと思ったら、 知りあいのつてを探して「誰かいい人、知りませんか?」とやるしかない。

SEOを駆使した履歴書でグローバルな社会にうって出るのはかっこいいけれど、 ベストセラーは飽きられて、まねされて、捨てられる。

検索エンジンで引っかからないものは、内容が今一つでも捨てられない。 全人類に訴える資格もいいけれど、「よく分からないけれどいい人」を目指すのも、 生存戦略としてありなんじゃないかと思うこの頃。

夢を見ましょう生き延びるために

つきあっていて面白いのは、楽しく生きること自体が目的化している人とか、 今やっていることというのが、何か大きな経路の途中である人とか。 刹那的なんじゃなくて、戦略があって楽しそうな人。

目的が「資格を取って楽症人生」とか「専門医になって人生ウハウハ」とか、 その人の勝ちぐみ人生のプランを聞いても、あんまり楽しくなかったり。

夢なんて見るヒマないし、実際にそれが実現する人なんてわずかしかいやしないんだけれど、 それでも夢を見続けるのは、たぶんけっこう大切。

検索可能な技能、属性を身につけるんじゃなくて、その人の固有名詞を 磨くのに賭ける生存戦略をとるときに鍵になるポイントは2つ。

  • 居心地がよくて面白い物語を紡ぐ能力
  • 相手の物語を気分よく、面白く聞く能力

人間関係を居心地よくする、こんな能力を身につけるには、 会話する相手を「目的」にするんじゃなくて、 その人を「手段」にしてしまわないとダメ。

知り合うことや仲良くすることが目的化してしまう関係は、続かないし、なんとなく利権が透ける。

やりたいことは個人個人で別にあって、その過程で誰かと交わって、いろんな会話を交わすのは、 薄いつながりにしかならないけれど、何年かたってばったり会っても、また会話が始まる。

将来自分がドツボにはまったとき、助けを出してくれるのは、たぶんこんな人なんじゃないかと思うし、 自分に余力ができたなら、できればそんな人の手助けをしたい。

今自分を取り巻く世界は本当に小さくて、中途半端にある程度のことができる自分を生かすには、 そこそこいい場所。地方というのはしょせんは都市の寄生虫みたいなもので、自分達の地域だって、 いつ夕張みたいになるかも分からない。

いつまでこんなことができるのかも分からないけれど、 もうすこし、何でも屋としてバタバタ働きながら、 いろんな業界の様々な立場の人と交流をもてたら、きっと今よりもっと楽しいだろうなと思う。

来年もよろしくお願いします。

2006.12.28

医療費について

「この病院はすばらしい。営利主義でないところがいい。」

………いやそれ単にあなたにお金を払う意志が無いだけだから。

「前の病院の主治医はひどかった。支払いをしないというだけの理由で紹介状一つ書こうとしない。」

………お客さん、食堂でお金踏み倒したとき、店長から挨拶無かったら怒りますか?

「先生は謙虚だ。自分にできる事とできない事をちゃんとわきまえて、大きな病院に紹介してくれる。」

………回収できる見込みのない赤字が膨らむと、病院潰れちゃうからなんですけれど…。

「あぁ、ついでに湿布10パックと軟膏50g、一緒に出しといて下さい。」

………お願い勘弁して下さい(泣)。。。。

「ア○ラックの書類、受付に出しとくんで後から郵送してもらえます?」

………(・∀・)カエレ! 

「お腹すいたよ!でもお金払う気全くないからね!!チャーシュー麺とギョーザ大至急で!!」

こんな人にも笑顔で応対する義務があって、なおかつ料理を出さなきゃいけないみたいな。

苦しくなって入院して、ちゃんと症状が取れて退院。

保険もあって、収入もあって。でもその患者さんは、医療にはお金を払う必要性を心から感じてなくて。

何で?

ため息の年末。

2006.12.27

よいものと残るもの

引越しをきっかけに、部屋を占領していた書類や本の山を半分近く処分したときに 考えたこと。

ネット以前

学生の頃に愛用していたのは、袋ファイルと製本機。

パソコンはまだ普及してなくて、部屋の壁は全部本棚。 机2つと、業務用のコピー機と製本機が家財道具の全て。

いちいち本を開くのは非効率。調べ物をしたり、何かを書いたりするときは、 必要な部分だけをコピーする。角をホチキスで止めただけの紙の束と、 背表紙をつけて製本した資料とでは、生産性が全然ちがう。

大事な資料は製本して保管して、そうでもないのは袋ファイルにインデックスをつけて保管して。

就職してから何回も引越しを重ねたけれど、資料の山はずっと一緒についてきた。

ダイアルアップ時代

インターネットができても、状況は一緒。

ネット上のデータの永続性なんて信じられなかったから、 部屋の中には加速度的に増えていくコピー用紙の山。研修病院の医局は恵まれていて、 1人で2本の本棚を勝手に使えたから、袋ファイルの置き場には不自由しなかった。

大学医局に入って唖然としたのが、個人スペースの少なさ。

大学には広大な敷地があって、みんな自由に空間を使える。

子供の頃に遊びに行った工学部の父親の部屋は広かったから、医局に入るまではこんな先入観。 実際は本棚1本どころか、棚一つもらうのがやっと。病院には自由な空間なんかほとんどなくて、 みんなスペースの節約に必死。

本も資料も置けなくなって、資料の電子化を真剣に考えはじめたのがこの頃。 それでもパソコン上で見る資料というのは本当に読みにくくて、検索も面倒だったから、 あいかわらず印刷してばかり。

医局では、レーザープリンタだけは自由に使えた。論文雑誌を引っ張って、PDFを印刷しては 自宅に持ち帰って保管する日々。

google 以降

ブロードバンドとgoogle の出現が、うちの地域では大体同じ頃。

ハードディスクの容量が10倍以上になって、タブブラウザを導入して レンタルサーバーを借りるようになったのも、大体この頃。

ネット上で何かを発信するようになって、ネットで何かを検索する頻度が増えた。

検索エンジンの反応速度が上がると、同じ概念を何回でも検索できる。

以前なら「このキーワード」というのを思いつくまでは頭で考えて、 その後ネットで検索して…という手順だったのが、google 以降は まず適当な言葉で検索して、画面に出てくる単語の中から自分の問題に近い言葉でまた検索…という やりかたが快適にできるようになった。

十分広い探索空間と、適切な検索手法の組み合わせというのは、ほとんど知性として近似できる。

快適な検索エンジンの出現というのは、単に便利になったというだけではなくて、 ネット空間を「知性」として、自分の対話の相手として利用できるようになったという意味で、 とても大きな進歩だった。

日常生活とか、本を読んだりした経験から何かを発想して、そこからの連想を ネットで検索して、何か面白い話題につき当たったら発信して…というのが 生活サイクルに入ってくるようになったとき、保存されている資料を見る機会が減ってきた。

そんな流れで、今回の引越し。

書類や論文を捨てた

袋ファイルと製本機を併用して、 ずっと上手くやっていたけれど、壁一面がA4封筒の山になったらもう限界。

医学論文は全部廃棄。図書館経由でログインしないと閲覧ができなかった医学雑誌も、 最近はバックナンバーを公開しているところが多くなった。論文のPDF配信ができたばかりの頃は、 このサービスがなくなるのが怖くて全部印刷していたけれど、たぶんもう大丈夫。

PubMed の検索システムも進化した。

PubMedの”limits”で、”Links to free full text”にチェックを入れれば、 全部読みできる論文に絞って検索できる。

検索したキーワードを経時的に追っかけたかったら、論文の一覧が出た画面の一番下、 “Send to”と書いてある窓から”RSS feed”を選択して、出来上がったRSS フィードを 適当なRSSリーダーにそれを登録しておけば、あとはPubMed 側から勝手に情報を送ってくれる。

今は core clinical journal に限定して、”heart failure”"stroke”"clinical guideline”を チェックしているけれど、送られてくるのが週に20本ぐらい。

無料公開しているあまり有名でない論文雑誌の記事と、4ヶ月ぐらい前の有名どころの論文雑誌の 記事が混ざって送られてくるけれど、このぐらいの量なら何とか追っかけられる。

捨てられなかったのが、論文以外の資料。

  • 東医体評議委員会の議事録とか、国試対策委員会の資料とか、今後絶対にネット上に出てこないもの
  • 寄せ書きとか、誰かの手書きの文章とか、情報よりも情緒が大事なもの
  • 研修病院時代のカンファレンス資料みたいな、書かれた内容よりも、書式みたいなものが参考になるもの
  • みんなの名刺。防衛医科大学の学園祭委員会の名刺には「地球防衛軍No.○」と通し番号が入ってるとか、 実物がないと楽しくないもの

内容じゃなくて、実物があることに価値がある。そういう資料は使い捨てられないし、 たぶんこれからも手元に保存する。

blog もそうだし、論文もそうなんだけれど、「かたち」の価値は変わらない一方で、 「内容」の消費スピードというのは、この数年どんどん早くなっている。

臨床系の大きな論文を1本作るには数千万円オーダーのお金がかかることすらあるけれど、 それが論文雑誌に載って、いろんな国の医師がそれを読んで、話題になるのはその日だけ。

今はもう、「臨床の流れ」みたいな大きなものはもうなくなっていて、 みんなが適当に、「ここは当たりかも」という場所を 好き勝手に掘っているみたいなかんじ。

そんなわけで、蓄積した資料は放棄。そのつど調べて考えることに。

本を捨てた

本の山も、「それを読んで何かを書きたい気分になる」 ものを残して半分ぐらい処分した。

  • 「内容が面白い」小説、筋回しが面白いとか、読んだ体験それ自体に意義があるような小説は全滅
  • 「部分が面白い」本は、たとえつまらない筋書きでもけっこう残った

みんなが読んでいるような小説とか、部分じゃなくてあらすじが面白い小説なんかは手もとに 残す必要がない。みんな読んでるし、あらすじ引っ張ろうと思ったら、誰かがネット上で 公開したり、評論したりしてるから、それを引っ張れれば十分。

ところが、たとえつまらない本であっても、言い回しをまねしたい文章とか、 引用したい台詞の入っている小説なんかは、実物が手放せない。 小説の引用というのは、前後の筋を細かくよんで、「ここ」という場所に入れないとかっこ悪い。 著作権なんて、確信犯的に無視して引用するんだから、せめて実物ぐらい持っていないと、 なんだか作者の人に悪い気がするし。

大雑把には、引っかかるところのない名作は廃棄して、 何か尖ったところのある駄作は手元に残すみたいなポリシー。

小説以外の本、ルポルタージュも同じ。情報の古さはあんまり関係ない。

昔の立花隆の本、たとえば「電脳進化論」とか、「アメリカジャーナリズム報告」あたりの文章は、 今読んでも「何かやりたくなる」感覚いっぱい。内容はもう古いんだけれど、それでも読み返すと 元気が出る。最近のは、本当にもうどうしちゃったんだか…(泣)。

最近の科学読み物は、カオスとネットワークが全盛。

一般向けに売られたネットワーク科学関係の本は、たぶんほとんど手元にあるけれど、 読み返す必要をほとんど感じない。

ネットワーク科学は面白すぎて、たぶんみんなが「何かいいたい」分野。本の内容や、 有名な実験の結果なんかはいろんなblog に少しづつ 引用されたり、あるいは解説されたりしているから、何回か読んでしまうと、 「ああ、あの話題ね…」と元ネタが割れる。

自分の文章に複雑系の話題を引用しようと思ったら、手元の本を写すんじゃなくて、 その話題でgoogle を引っ張る。自分で書く必要がないくらいに「そのもの」を引用して いる人がいっぱいいるから、そこをコピーして、適当に切り貼ってしまえばくれば十分。

そういう意味では、複雑系やカオス、あるいは物理や進化論系の解説書は もう手元になくてもかまわないのだけれど、 さすがに投資金額が馬鹿にならなくて、今回は捨てられなかった。 1冊4000円とか、医学書じゃないんだから…。

漫画も減らした。

「星の時計のLiddle」「イティハーサ」「ヘルシング」「ディスコミュニケーション」「夢使い」「エイリアン9」 「陰陽師」「夢幻紳士」あたりは、たぶん今後も捨てずにとっておく。もっとメジャーなものは処分。

「ファイブスター物語」「アップルシード」は、追っかけて18年目にして力尽きた…。もう無理。

いいものと残るもの

検索という行為が日常に組み込まれて、 捨てるものと、残すものとの価値判断が変わってきた気がする。

nature に載った論文なんて、世界中の研究者が読むものだから、 放っておいても誰かが要約するし、本当に価値のある論文ならばすぐ常識になってしまう。 いいものは、それだけ消費のスピードが速いから、 あえて今自分がそれを残しておく必要なんかない。

多くの人が参加して、要約や翻訳とか、意義付けとかを多くの人がやってくれるものについては、 今さら自分が参加するよりも、自分以外の「誰か」の善意を信じて待っていたほうが楽。

みんなが読んでいるものであっても、あえて原著に当たって、その文章の持つ意味を考えて、 それからみんなの意見を聞いたほうが、たしかにそれだけ頭に入る。

問題は、それに消費する時間コスト。

内容が消費される速度は上がる。人の思考速度には上限がある。全部の話題についていこうと思うと、 もう何も考えられなくなってしまうから、情報量を制限して、自分のリソースを節約することは大切。

自分の考えというものを、自分が物理的に手が届く範囲で閉鎖するのか、 それとも頭の「ポートを開いて」、集団意識みたいなものの演算能力を積極的に取り入れるのか。

引越し。残すべき本をダンボールに詰めて、最後まで手元に残しておいたのは、 ギブスンの「ニューロマンサー」。

やっぱりこれが原点。

2006.12.21

老人医療の話題とか

老人医療というのは、乾いたぞうきんを絞る世界になっていて、 一食230円の食費を何とかして220円に絞れるよう、 栄養士さんが頭を抱えて苦しむ状況。

介護保険の範囲で医療行為をやろうものならすぐ赤字。 まともなケアなんかできない。

元気の無い高齢者は、手間ばかりかかって利益がでない。

元気があって、ついでにお金を持っている人相手にはいくらでも 豪華な施設が覇を競っているけれど、そういうところに入れる人はごく一部。

そうでない人を相手にしようと思ったら、人員を限界まで削って、 ケアの質を「死なない程度」まで限界まで落として、少ない予算で やりくりする。民間の力を導入するというのは、 要するにそういうこと。

老健では、点滴一本でも施設の持ち出し。そういう人はみんな「入院希望」で病院に紹介。

食事が取れなかったり、なんとなく元気がなくなってしまったりといった人を治すのは 大変で、本当は「暖かい家庭で」看るのが一番の薬。老人保健施設に入る人達には、 家族はいてもそれが「暖か」だったためしがないから、家庭にそんなもの求めるの無理。

「暖かく」するには人手がいる。

島の医療は暖かかった。大部屋入院でも、近所の人が交代で24時間看護。 検温とおむつ交換はデフォルトで地元の人がやってくれたから、 医療者サイドの仕事は監督指導だけ。 暖かい近所の人のおかげで患者さんが不隠になることもなく、転倒も事故も無かった。

離島医療の「暖かい」医療を支えていたのは、高い失業率。 補助金ぶち込んで、漁業を滅ぼして、島中の道という道を舗装して、それでも 仕事なんかみつからないから、若い人は本土に 行って帰ってこない。町には仕事のない、暇を持て余している人ばっかり。だからみんな 病院にきて、看護手伝いで時間を潰す。

「ドクターコトー」の脅威的な診療実績を支えていたのは、 主人公の脅威的ながんばりだけじゃなくて、北海道沖縄開発庁からの膨大な補助金。 札束燃やして「暖かく」して、医療者の負担を減らして診療所を維持する。 本土の施設でそれを再現するには、人件費かかりすぎて、やっぱり無理。

お金を取れない人は、施設も看たくない。病院だってベッドないから、軽症の人は、 やっぱり取れない。

お互い騙しあい。押し付けあい。

  • 全く普通に歩いていた人がちょっと具合悪くて…という紹介の人が、外来で挿管
  • 痴呆も不隠も全くなくて…で、来て診たらそもそも意識がなかった
  • 寝たきりの人をやっと治して元の施設に紹介。「寝たきりの人は、 最近は看ないことになっているんです…」と受け入れ拒否

余裕があったときには笑い話だった化かしあいも、余裕がなくなると喧嘩になる。

病院にはもうベッドなんて残ってなくて、施設に引き取ってもらわないと、 次の急患が入院できない。施設は施設で、この界隈でも高齢者を自宅で看る人なんて ほとんどいないから、入所待ちリストは1ヶ月先までいっぱい。

けんか腰のやり取りが何回かあって、もともと細かった信頼関係がもっと細って、 施設同士をつないでいた橋は落ちた。

うちの病院では、そこからの紹介患者は、もう取らない。 その施設もまた、うちからの紹介患者さんは 断るだろう。

うちだけではないはず。

民間の力を導入するというのは、要するにこういうこと。

瓦礫の下にはお金が埋まってる

橋がかかると世の中便利になって効率が上がり、 橋が落ちると瓦礫だけが残って、それだけ効率が落ちる。

旧来の「橋」がかかっている上から、もっと効率がいい大きな橋を作って、 「効率の差分」を収入として総取りするのが Google みたいなネットワーク企業のやりかただけれど、 壊れた橋の瓦礫を掘って、そこから利益を出すやりかただって残ってる。

交渉人、あるいは入所請負人というビジネス。こんな人たちが民間から出てきたら、 病院側は最悪。

医療施設間の公的なネットワークが破綻したところで、病院に入院したいニーズは残るし、 施設に入所したいニーズも残る。需要があれば、商売が生まれる。

  • 救急車を呼んだら、どんな「主訴」を訴えれば病院に入院できるのかのレクチャー
  • 急性期病院に長期間入院するための交渉術
  • 「患者の親友」として有償で病状説明に同席、入院期間の延長を請け負う仕事

ニーズはいろいろ。やりかたは簡単で、何の資格も要らない。 弁護士資格なんか持ってたら、もう無敵。

病院という場所は、こんな人達に対してはほとんど無力。 医者が交渉の席に臨んだって勝ち目なんか無いから、 今度は病院側にも「交渉人」に対するニーズが発生する。

公的な橋は落ちて、患者側、病院側双方にビジネスが生まれる。 これもまた、民間の力を導入した成果。

医療施設のネットワークは、一種のスモールワールド。

どんな老健施設だって、本当に大きな病院とはまだ切れていないから、 ネットワークは歪にはなっても機能する。

本当に怖いのは、「ハブ」に相当する病院がが落ちたとき。

公的な総合病院が、老健施設からの患者を 断るようになると、たぶんそこに入った患者は行き場がなくなる。 公的病院だって、最近は厳しい。採算を考えるようになったし、なんと言ってもスタッフが 減っているから、ベッドが十分に回せない。

地域によっては、ネットワークは落ちる直前。たぶん、「落ちる」前日までは、 誰もそうとは気がつかない。

いろんなところに民間の力が導入されて、ネットワークが腐った先には暗い未来。

「民間」ばっかり強調されているけれど、この業界の経済的な実装はでたらめもいいところ。 消費者側に選択の幅がほとんどないし、お金を払うのはあくまでも「国」。 ルールはフィギアスケートと一緒で、信頼の置けない、理不尽なもの。 審査員の気分ひとつで「採点」なんてコロコロ変わる。

まともな競争原理なんて働かないし、競争がいい方向には流れない。

「消化器」になる老人医療

老人医療とは何なのか。医療従事者だけに、臓器のたとえ。

  • 循環器仮説:患者さんは血球。末梢循環で疲弊したら病院という 「肺」に帰ってまた酸素をもらい、また全身を循環する 疲弊が限界に達したら、網内系に取り込まれて循環から外れる
  • 消化器仮説:患者さんは食物。病院という「口」に取りこまれた患者さんは、 消化管の中を一方向に進み、 「消化、吸収」をうける

本来の医療が志向するのは、もちろん循環器。誰だって治そうと努力はするし、 治せない施設は淘汰される。 いろいろ厳しくはなったけれど、今も同じ。

ところが老人医療。

この3年ぐらいでどんどん「改革」が進んでいるけれど、流れは「消化器」を志向しているように見える。

直して循環させる施設から、ある「段階」に入った高齢者を、「消化、吸収」するシステムへ。

循環にはエネルギーがかかる。老化した「血球」は、もはや何も生まない。 「心臓」たる政府には、循環血液量をこれ以上増やすインセンティブは存在しないのかもしれない。

本気で「消化、吸収」をやろうと思ったならば、この業界のパイはとてつもなく大きくなる。

患者さんは、みんな自分が「循環」すると信じてるからお金を離さないし、蓄えをする。 国が主導して、偉い人達の間で「大丈夫、循環なんかさせないから」という合意が作られれば、 施設は「循環の義務」というリスクから開放される。

それを知る立場の人達は、この業界に大挙して入ってくるだろう。

医療の業界も、相当様変わりするような気がする。

老人医療のパイが民間に移れば、一般内科の仕事は大幅に減る。自分なんかは路頭に迷うかも。 消化管の「流れ」に逆らうニーズはものすごくたくさんあるから、 それを仲介する業者、急性期病院への入院を請け負う業者に対するニーズも高まる。

内科の仕事には「交渉」が大きな割合を占めるようになって、 いろんなことがますますやりにくくなる。内科、外科を目指す人は 今よりもっと減る。

美しい国は家族再生の夢を見るか?

労働に対する対価がますます厳しい若い世代と、充実した社会保障で ぬくぬく暮らす団塊世代と。

両者の対立があれば、「上」の人の勝ち。逆に、世代が歩み寄れば、もしかしたら 「下」の勝ちが拾えるのかもしれない。

家族の血はつながっているから、社会保障で高齢者に流れたお金は、結局は所得の低い 若い人達の世代へと流れる。ところが病気になったとたんに「消化」されちゃう 世の中になると、そのお金はダイレクトに企業の「上」の人達へ。

ちょっとの妄想力があれば、誰でも見える「経済隔離」社会。対抗手段は、 若い人と高齢の人とが寄り集まって、お互いに対立しないで協力して、 「消化」されるのを回避すること。

こんな流れが、実は「古典的な日本の大家族」を復活するための「美しい日本補間計画」の 壮大な伏線だったりしたらすごいんだけれど、 最近はこんな「官僚の陰謀」を信じにくくなった。

「世界が滅ぶのはユダヤの陰謀」みたいな陰謀論者というのは、「黒幕」の頭のよさを 絶対的に信頼する人。大学卒業して、医者7年目ぐらいまでは、ユダヤの陰謀とかX51の UFO疑惑とか、全部真実だと考えてたから、官僚の陰謀も折込済み。

日本というのは官僚の陰謀で全部動いていて、 グダグダな今の世の中というのもまた、 何か大きな目標に到達するまでの途中経過にしかすぎなくて…

けっこう本気で信じていたのだけれど、やっぱり厳しい。 もう現場維持するの無理。官僚の人達、みんな「決定」から逃げちゃうんだから。

トップダウン的な陰謀なんてなくて、なんとなくの「流れ」みたいなもので「老人医療の消化器化」 が進んでるんだとしたら…信じるに足る未来なんて、何か残るんだろうか?

2006.12.20

年末進行

先週末から病棟がいっぱいになっていてベッド奪いあい。

昨日患者さん挿管して、その人が亡くなってエンゼルケアしている間に 下痢の外来診て、お見送りして病棟に戻ったらそのベッドには発熱 した子供さんが寝かされていたりとか、もうありえない。

アジャイルとか言ってる場合じゃなくて、ベッドが空いていたらとりあえずそこに誰かを埋める。

誰がどこにいるのかも良く把握できないから、診療も必然的にイベント駆動型。何かおきるまで、何もできない。

XPったって、あるのは「シンプル」と「勇気(無謀)」だけ。コミュニケーションとフィードバックは どこかに忘れた。

進歩的な開発手法というのは、グダグダの現場を生き延びた人達が、 後からかっこつけてカタカナ振っただけだったんだと 今さら実感。

いま空きベッド4つ。これで夕方診療->当直。今から涙目。

なんにも悪いことしてないのに。

病院長に直訴したら、「いざとなったら、院長室に入院させてもいいよ(笑)」だって。。(泣)

2006.12.15

結束力の武器

価値の多様化が進むほど公○党の力が強まる件

Web がこれだけ普及しても変わらないのが、選挙制度と間接民主制。 数の多さと声の大きさとが 同じ価値を持ってしまう、そんな制度。

国会議員だって忙しいから、国民の意見を聞けるのは、平日の昼間ぐらい。 で、その時間に国会議員に会えるのは、その時間に思いっきり時間が取れる、 プロの市民団体とか、宗教団体の人とか、「普通でない」人達だけ。

会社を経営していようが、アルバイトをしていようが、 普通の社会生活を送っている人は、平日の昼間に議員に会って、声を伝えるなんて無理。 今の議員制度には、「みんなの声」が反映されることはない。

Web 時代。ネット上にはいろんな意見が飛びかって、価値観は本当に多様になった。

1.0 から2.0 へ。未来がそこに見えているのに、政治の世界はあいかわらず。 マスの意見を集約する手法は効果がないどころか、逆に意見が黙殺される原因にさえなる。

価値の多様化は歓迎すべきこと。特に、旧来の価値観を引きずっている人達にとっては。

現状の間接多数決ルールで戦うときには、旧来の価値観を引きずった集団のほうが、 戦いの効率が圧倒的にいい。意見が多様化して、「マジョリティー」が より分裂してくれれば、古い価値観でまとまった集団には、より大きな利権が 転がり込んでくる。

間接民主主義ルールでは、 「人数」と「団結力」という2つのパラメーターが、お互い置換可能なものとして 効いてくる。

絶対的な人数が少ない意見であっても、それを叫ぶ集団の結束が十分に高ければ、 政治の場では「大きな声」として通ってしまう。

カトリックとプロテスタント

神父と牧師。どちらもキリスト教の聖職者だけれど、立場は大分異なる。

カトリックや正教の神父は、使徒の継承者という位置づけであり、 組織も軍隊的な性格を持っている。

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手元の資料(某漫画と某ゲーム)にある典型的なカトリックの聖職者は、剣を使う人が多い。

神父は伝統的に終生独身を守り、所属の教区の司教によって職場に派遣され、 その人がいなくなれば、教会から他の人が派遣される。

引退した神父にも「予備役」としての 義務が残る。カトリックには、「教区あたり何人」という人数配分が決まっているのだそうで、 戦争とか、何らかの非常事態がおきてその場所から神父がいなくなってしまったとき、 その地域の信仰の引き受け手として、引退した神父が召集されるのだという。

プロテスタントの牧師は、地域のリーダーとしてその場所にある共同体から招かれる。 牧師はあくまでも人間のリーダーであって、使徒から代々受け継いできた聖職という概念はない。 その地域の意志がボトムアップして招聘されるもので、トップダウン的なカトリックとは逆。

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牧師さんは銃で武装する。銃社会のアメリカは、プロテスタントの国。

剣から銃へ。時代が進んで、カトリックの考えかたに疑問を表明する人が増えて、 従来の組織を批判する 形でプロテスタントが生まれ、新世界を席巻した。

プロテスタントは、そういう意味ではより「進化した」考えかただけれど、 カトリックとプロテスタントとが日本の政治の世界で競争したなら、 今の選挙ルールではカトリックが圧勝する気がする。

ボトムアップ的な価値観というのは、中心を持たない。指導者の人格による制限が ないから、しばしばその地域を熱狂に巻き込んで、 高い支持を勝ち取る。

ところがそこに「選挙」というルールがかぶさると、「多数である」ということは、 必ずしも「多数の議員が当選する」という結果に結びつかない。

同じ得票数であるなら、ある地域で圧勝して、1位当選の議員を一人作り出すより、 投票者を効率よく配分して、いくつかの地域で2位とか3位で当選した議員を 多数送り込んだほうが、議会での発言力は強くなる。

ボトムアップの欠点というのは、それが生じる場所をコントロールできないこと。

税金の無駄だから、国会議員を減らそうという動きがあるけれど、 その流れで一番徳をするのは、たぶんトップダウン的なシステムを持つ集団。

新しい世代の人達が発言力を持とうと思ったら、非効率を承知で、 国に「国会議員をもっと増やしましょう」と働きかけたほうがいいのかもしれない。

結束力を高める「罰則」と「権威」

結束力の強い、トップダウン型の組織を維持する原動力になっているのは、 「罰則」と「権威」 という2つのメカニズム。

同じ学会であっても、内科学会なんかには罰則なんかないし、 入会も大会も自由。

むこうはそうは行かない。上層部の方針に逆らうことなんか許される雰囲気ではないし、 退会しようと思ったら、いろんな方面からの圧力や、罰則は必至。

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司教は罰を下す。カトリックを題材にした物語では、 指導者は厳しい人物として描かれる。

求心力を増すためのもう一つの機構が、権威が付与する正当性。

医師や公務員が叩かれて、現場がどんどんやる気を失ったりしているれけど、 あれはある意味マスコミのせいなんかじゃなくて、上層部の責任。

医療の偉い人とか、あるいは公務員を統括する官僚なんかが 「我々が正しい。外野は放置しておけばいい」と言い切ってくれれば、 現場の士気は保たれる。上層部さえブレなければ、外野の声というのは むしろ集団の結束力を強くする。

今の医師会とか、単純に兵隊の位が上になっただけの普通の人が統率している印象。 たしかに立場は「長」なんだけれど、それが宗教的権威として正当化されていないから、 末端もまたトップの言葉を信じられない。

医師会長とか、事務次官の人とか、もっと「儀式」の力を信じて、引継ぎなんかを もっと派手にやったほうがいいと思う。

今の選挙ルールでは、「マス」を求める戦略と、「結束力」を求める 戦略とがあって、たとえ数で圧勝できたとしても、 結束力の戦いでひっくり返されてしまうから、どうしても旧勢力に負けてしまう。

医療過誤裁判とか、最近のWinny判決とか、ネット世界では様々な角度からの批判が とりあげられているけれど、政治世界との乖離は大きくなる一方。 時代が進んで、世論が多様化すればするほど、 政治の世界で力を増すのが単一の志向性を持った少数意見。

選挙制度が画期的に変更されるのでない限り、力を持ちつづけるのが、泥臭い、伝統的な 選挙戦術。時代には逆行してしまうけれど、先祖返りをして、あえて結束力を求める戦略、 裏切りの罰則とか、宗教的権威といったものを、偉い人はもっと考えてもいいと思うんだけれど。

2006.12.13

シンガポールの夢の医療制度

破綻寸前のわりにはまだまだ無駄が多いのが日本の医療。

  • 朝の4時に風邪薬をもらいに来る人
  • 湿布だけもらいに来る生活保護の老人
  • 訴訟回避のためだけに行われる、山のような検査
  • 主に世間体とか、年金確保のために生かされる、ほとんど意識の無い痴呆老人

どこまでが必要な医療で、どこまでが「無駄」なのか。倫理とか、政治とか、 いろんな立場で線引きのラインは違ってくるけれど、みんな他人事。

日本では、空気と水と医療はタダ同然。

社会保険は「みんな」のお金だから、「どう使うべきか」の議論は盛んになっても、 「どう制限するべきか」の議論というのは、あんまり盛り上がらない。

シンガポールの医療制度

経済学的に「もっとも成功している」と評価されているのが、シンガポールの医療制度。

日本の医療は健康保険という大きな資金のプールがあって、国民の医療費はその中から 補助を受けるけれど、シンガポールはそれが個人単位。

シンガポールでは、収入を持つ国民は、 全員CPF(中央年金基金)という、医療のための強制的貯蓄制度 に加入する義務がある。積立金は毎月の給与から個人負担20%、会社負担16%の割合で 天引きされて、政府がそのお金を管理する。

法律では、55歳までに貯蓄しなくてはいけない額というのが決まっている。 収入が少なくて、この金額を貯蓄しきれなかった人については、 政府から補助が出て、経済格差を埋める。

医療は、基本的には自由診療。高価な私立病院から、政府の安い病院まで様々。

国民が病気になって、どこかの医療機関にかかることになったときは、 自分の財布からお金を出すのか、CPF から医療費を払うことにするのかを選択できる。

CPF に積み立てられたお金は、健康保険と年金との両方に使われる。

医療費を使いこんだ人は年金が少なくなり、逆に医療費を使わない人は 年金を多く支給してもらったり、余分な貯金を親族の医療費として引き出すこともできる。

どんな医療を受けたいのか。厳密な検査をしてほしいのか、それとも最低限の検査で、 とりあえず治ればいいのかを選択するのは患者さん自身。日本とちがって、 「できるだけのことをやってください」をやろうと思ったら、自分の貯金をそれだけ 多く食いつぶさないといけない。

糖尿病の患者さんが節制したり、肺の悪い患者さんが禁煙を続けたりといった行為にも、 健康のためだけではなくて、経済的な動機が発生する。

問題点は残っているものの、20年近く続いていて、けっこう上手くいっているらしい。

日本の医療保険というのは、集めた保険料を「みんなのお金」としてプールするから、 「共有地の悲劇」に陥りやすい。

シンガポールの制度は、「共有地」として使われる土地をとりあえず一人一人に切り分けて、 「この中で好きなようにやってください」と、国民に選択と思考を迫る。

肺高血圧症の人とか、天文学的にコストのかかる(県の医療予算が傾くぐらい) 人の医療については別立ての健康保険制度があるみたいだけれど、 よっぽど不幸な例以外は、上手く行きそうな気がする。

日本でこれができるのか?

この制度になると、医療の方針は変わる。

  • 医療費には強制的に上限が発生するから、国民総医療費は確実に安くなる
  • 今まで「弱者である利権」を持っていた人は明らかに損をする
  • 医療は「安い値段でやりくりする」病院と、「値段は張るけれど何でもやる」病院とに二極化する
  • 医療を受けることによる自己負担が嫌でも意識されるようになり、病院受診の敷居は上がる

セカンドオピニオンとか、「ガン難民」としてよりよい医療を求める人達とか、 「よい」に比例してコストが増大する現実を突きつけられると、相当不機嫌になりそう。 個人的には、「高度な」医療は不得手だけれど、「やりくり」は得意だから、 こんな制度になってくれると、それなりにありがたかったりする。

日本は多数決。

シンガポールみたいな「自己責任ルール」を本気で導入しようと思ったならば戦略が要る。 このルールで得をする人、普段からあんまり病院にかからない、健康な若い人達と、 「命だけは平等」ルールの恩恵を受けてきた人。両者を対立させる、 そんな方法を考えないといけない。

具体案

今の政府が選挙で勝ちつづけながら、医療費を全体に縮小しつつ、「自己責任ルール」を 日本に導入する、そんなやりかた。

前提条件は2つ。

  • 自分よりも無様な境遇の奴がいれば、人間はたいていの悲惨な状況を受け入れる
  • 対立しあう2つの勢力は、お互いに「横」を見ることはできても、「上」を見ることはできない

「横」で対立するグループは3つ。老齢者と、団塊世代と、若い人。 「上」にいるのは企業と政府、あと病院。

老齢者は今までどおりの保険制度を続けてもらう。変化が激しすぎるし、 どうせあと10年ぐらいで世代交代だし。 たぶん、選挙にもそんなに影響は無いはず。

団塊世代の人達は、自分達が今まで払ってきた年金額と健康保険額に、 政府が決めた一定の補助金を合計したお金で、残り何十年かの医療費と年金とを捻出してもらう。

たぶん、本来受け取るはずだった年金額より少なめになってしまうけれど、 そのあたりは補助金の額を調整して、落としどころを探る。自分達より若い人よりは、 それでもましな暮らしはできるだろうし。

ある程度貯蓄のある人であれば、 あるいは今現在病気になっていない人であれば、生涯つかえるお金は、むしろわずかに増える。 今病気になっている人は地獄をみるだろうけれど、その数は相対的に少ないはずだから、 選挙には影響ないはず。

若い人達は、これから払う年金と、健康保険料との合計額を積立金に回して、 これからの医療費と 年金とを捻出する。

次の世代を当てにできないから、年金額は今よりもっと減ってしまうし、 病気になったらさらに苦しくはなるけれど、 そこは「苦労して働いた若者の稼ぎが、楽してきた団塊世代においしく食べられる」 というアングルを強調することで対立を煽って、未来から視線をそらしてもらう。

「若者世代の年金は団塊世代から取り戻せたんだから、自分達の年金も自分達の力で」と 声をかければ、政府の支持率はそんなに落ちないんじゃないだろうか?

大切なのは、対立を煽ること。

  • 昼間から飲酒を止めない、生活保護のアル中
  • 年金生活で贅沢三昧の高齢者
  • いくら働いても団塊世代の年金に消えていく若者の収入
  • 「どうせなら使わないと損だしー」と他人事で大量の薬をもらっていく糖尿病患者

ありえない設定の人もいるけれど、いなくても「作る」ことなんか、今の時代いくらだってできる。

世代ごとの対立。弱者と勤労者との対立。不摂生な人と、まじめな人との対立。

そんな対立の構図をNHKでたくさん報道して、問題の本質から目をそらしてもらうように努力する。

「上」は何ができるようになるのか

年金と健康保険を一括にしたお金は政府の手元に残る。 全部ごっちゃになってしまうから、官僚の今までの失敗もチャラ。

積み立てたお金は、国債のように自由に運用できる。市場にお金が回るから、企業は喜ぶ。 運用が破綻したところで、インフレ導入しちゃえば、損失埋められるし。

社会保障のレベルが全体に下がるから、企業の健康保険負担も減らせるかもしれない。

  1. 官僚の人達の顔を立てて
  2. 経団連に入るような人達の懐を潤して
  3. その他の人達はお互いにいがみ合って、問題の本質が見えないようにして
  4. 社会保証のレベルを全体に下げて、寿命を少しだけ短く設定する

荒唐無稽な案だけれど、「ドイツの二の舞にはならない、絶対に破綻なんかしないと」 あれだけ明言していた介護保険のタネ銭だって、厚生労働省の人たちが 5年で溶かしちゃって、もう国庫は空っぽ。

「シンガポールルール」というのは夢なんだか悪夢なんだかよく分からないけれど、 今後はどうやったって悪い方向にしか行かないのは確実。

今のうちに何か対策、考えておいたほうがいいと思う。

2006.12.11

経済と心理

トラックバックをいただいた記事について。

経済学畑の人というのは、心理というものの影響をどのぐらいに査定しているんだろうか?

過去に起きた出来事の説明なら、たぶん心理はおり込み済み。

その時の人間がどう考えようと、その結果は全て経済活動に現れてくるから、 数字だけを追っかける経済学の結論の中には、きっと人間の心理が考慮に入ってる。

ところが、起きてしまったことを説明するには経済学の手法は有効であっても、 それを用いて未来を説明しきることはできるんだろうか?

「見た目」はけっこう大事

人間の心理というものは、刻一刻と変化する。

時代の要請があって、何かすばらしい経済政策が出来上がったとして、 それを発表する役人の見た目が「悪役」だったとしたら、それだけで有効性激減。

竹中大臣とか、最近引退した日銀総裁とか、たぶんこのあたりでものすごく損している気がする。

心理は読めなくて、理不尽で、またこちらの観察と予測という行為に応じてまた変化する。

相関関係と因果関係ではないけれど、 過去の因果が説明できたからといって、それが未来の因果をも説明しうるというのは、 変化するのが前提の人間の行動を読むには無理がある。

「半減期を持つ通貨」のこと

医師が生命倫理について語るのは、売春窟の主人が恋愛を語るようなもの。 だからいつもお金のことを考える。

医療、特に介護の現場にお金が足りない。

老人介護の現場なんか、経済世界の末端も末端。今はどこもお金が足りないから、もう奪い合い。

こういうのは、たぶん分配の問題なんかじゃなくて、単純な量の問題。

砂場のどこかに大きな山を作ろうと思ったら、直感的にはまわりから少しづつ砂を集めて、 高い山を作ろうなんて考えるけれど、経済世界にはたぶん「まわり」なんていう 手つかずの場所が存在しない。

経済で「山を作る」というのは、シャベルカーから大量の砂を砂場に落として、 一番高く積みあがった場所を 「ここが僕の山」と宣言するような、そんなやりかた。

余ったお金なんかどこにも無いけれど、みんな貯金は持っている。

「タンス預金として死蔵されているお金が市場に出回って、世の中がものすごいインフレに 傾いてくれれば、きっと介護にも少しはお金が回るはず貨幣に「半減期」を設定できれば、 みんなお金を使うようになるから、きっとうまくいく」なんて考えていたのが最近のこと。

専門家の方からの解答は、こんなかんじ。

(実際に「半減期のある紙幣」政策があったことに言及をいただいた後半) 皆がいっせいに期待インフレ率を高め、消費・投資判断を変える必要はありません。 目端の利く人間から順次変わっていけばよいわけで、 重要なのは最初に判断を変える者のインパクトということになります。 (中略)したがって、インフレターゲティングの含意が広く周知されることは、 その有効性の必要条件ではありません。最初の段階においては、 少なからぬ企業経営者の将来予測を変えることができるかどうかが勝負の分かれ目になるのです。 リフレ政策の波及経路より改変引用

このあたり、「なるほど」と思いながらも、けっこう違和感があった。

経済学の未来予測というのは、遅れてきた人の「あいつらずるい」という 思いまで織り込んでいるんだろうか?

トラブルを生む「遠い」人

病院でトラブルの種になるのは、近くにいる人なんかじゃなくて、 むしろ遠いところ、普段は病院になんか来ない人。

たとえ医療過誤すれすれ、あるいはもろにブラックゾーンの症例であったとしても、 いつもついている家族の方からクレームが出ることは、まずありえない。

遠方の親族の方は、たいていは休日に病院に来る。主治医だって休んでる。 日曜日の午後に病棟にきて、 「話を聞かせて下さい。○○県からわざわざ出て来ました」と言われて、主治医が呼ばれる。

面倒くさい。でも、これに対応しないと、後が本当に怖い。

こういう方の「わざわざ」の前には「患者さんのために…」という言葉が入ると思っていたのだけれど、 そうではなくて、「主治医のためにわざわざ来てやった」と 本気で思っている人が多いことにやっと気がついた。

「わざわざ」来て下さった方に、「後日来て下さい」とか、 「詳細は他の親戚の人に聞いて下さい」なんて応対をすると大変。

苦労には報いる必要がある。

こっちはそう思わなくっても、相手は絶対そう思ってる。

遠くから、休日を潰して、はるばる出てきた人に対しては、病院スタッフは「迷惑だな」なんて思わずに、 「大変な思いをして、(医者の)休日を潰してまで、わざわざようこそおいで下さいました」なんて、 そんな対応をしないといけない。

理不尽だけれど、どうにもしかたが無い。

集団の中の「平等」ルール

親族は、みんな平等である必要がある。

出遅れた親族の人は、出遅れた時点ですでに負い目を持っている。 こういう人に対しては、医療者はより多くの情報を出さないと、 その人はたぶん、家族の中で「平等」になれない。

不公平感というのは、元情報からの距離に比例して強くなる。

もはや医学でも何でも無くて、本当に他人事なんだけれど、 医療従事者が家族内の情報バランスをうまく調整できないと、 誰かの中に「あいつらうまくやりやがって」という不満足が 残って、話が予想もしなかった方向に展開してしまう。

自らを悪役にしないで、より線形な未来予測をしようと思ったら、やっぱり情報分配を より公平に、「遠い人ほど詳しく分かりやすくていねいに」を徹底しないといけない。

経済政策というのが、素人目に見て必ずしも予想通りに行っていなかったり、 あるいは政策を作る人たちが「成功であった」と総括したプランというのが、 下々から見て必ずしも「成功」を実感できなかったりというのは、 きっとこんな部分、「情報伝達の不公平感」というものが関与している。

持っているお金の額面が下がるのも、物価が上がるのも、原理的には全く同じ。

物価の上昇はその場では分からないけれど、近所のスーパーマーケットで買い物をすれば、 その時点で実感できる。

インフレの到来を、財布を見て実感するのか、それともスーパーのレジで実感するのか。

それだけのことなんだけれど、「スーパーまで歩いてもらう」その手間を惜しむこと自体が 予測の非線形性を生み、未来予測の限界を生んでいる気がする。

医学も経済も。

そんなこと以前に、お前ら医者のやっている営為なんて無駄そのものじゃないかと 言われてしまえば、本当にそのとおりなんだけど。

2006.12.09

納得してもらう方法

アナロジーやたとえ話の学びかたと大切さについて。

合意と納得

単純に「イエス」をもらいたいだけならば、それはむしろ簡単。

基本的なやりかたというのは、相手の見たいものが何なのかを推測して、 それだけを見てもらうこと。

合意を得るのに理解や納得はいらない。それは不必要どころか、むしろ有害でさえある。

ところが、相手から「ノー」をもらって、それを通じて何か有益な体験がしたい、 あるいは何かを学習したいと思ったならば、納得の問題は避けて通れない。

相手の立場からみて、自分の意見の欠点はどこで、改善するにはどうすればいいのか。

こうした疑問に答えをもらおうと思ったならば、 自分の抱えている問題点がどういうもので、それに対して自分がどう考えているのか、 相手に理解してもらわないといけない。

「生データ」は役に立たない

事実をありのまま伝えただけでは不十分。

たとえば「先週箱根に紅葉を見にいったとき、ある一枚の葉だけが緑で、それに強い印象を持った」 というイベントを写真で伝えようと思うと、相当厄介なことになる。

ものすごく解像度の高いデジカメを使えば、「箱根に行った」という情報と、 「一枚の葉に興味を持った」という 情報とを1枚の写真におさめることは可能。

ところが、箱根に焦点を当てれば葉が霞み、 葉に焦点を当てれば箱根が失われてしまう。デジタルデータは無限に細かく再現可能であっても、 頭が一度に処理できる情報は有限だから、「思い」を伝えきるにはデータ量が大きすぎる。

個人の考えを相手に理解してもらおうと思ったら、 変形の効かない写真よりも、むしろ絵のほうが 有利かもしれない。下手すると、統合失調症患者の 心象風景みたいなものになるかもしれないけれど。

なんとか「箱根」と「緑の葉」とを伝えられたところで、それでもまだまだ足りない。

同じ「緑の葉」を見ていても、それをどう認識するのか。それを共有するのは画像だけじゃ無理。

「同じ世界」という幻想

箱根にいった自分と、話を聞く相手。同じ世界を「見る」ことができたところで、 2人が同じ世界を「認識」しているのかどうかは全く別の問題。

その人が認識している世界と言うのは、生い立ちとか、文化背景、興味の対象がちがってしまうと、 全く異なってしまう。

大人というのは、数字が好きだ。 あなたが新しい友だちのことを話すとき、大人たちは大事なことは絶対に質問しない。 「その子はどんな声? その子はどんな遊びが好き? その子はちょうちょを集めてる?」などとは絶対に言わないのだ。 彼らが言うのは 「その子は何歳? 兄弟は何人? 体重はどのくらい?お父さんはいくら稼いでいるの?」 そうやって大人はその子を分かった気になるだけなのだ。 ……星の王子さまより

「緑の葉」というものに対して、たとえばしゃべる側が闘病中の親友のことを考えている一方で、 それを聞いている側は、地球温暖化の問題とか、あるいは環境ホルモンの話題なんかを考えていたり。

みんなが見ているのは、一人一人が意味を与えたものだけから構成される世界。 全人類共通の「客観的な世界」などというのは、その人の認識現実の中には存在しない。

違いの中に同じを見る

たとえ話、アナロジーというのは、相手に納得をしてもらうための手段。

「緑の葉っぱに闘病中の親友のことを思った」という思いを伝えたかったのならば、 相手の立場に応じて、たとえば太陽黒点の話をするとか、 心停止後もなお生きている細胞の話をするとか。

アナロジーというものは、そもそもが自分の言葉で作り出すものではなく、 相手の持っている「体験の部品」を使って、 自分の思いを組み立て直す行為なんだと思う。

萩尾望都の名作SF「スターレッド」の中で、 「火星人はそもそも目を使ってものを見ていない」という話題が出てきた。

「彼らみんな生まれながらにして超能力者だから、視覚を用いなくても外界を直接感覚できる。 眼はついていても、それは単なる飾りにしか過ぎない。」 「ほんの4世代前までは同じ人間であったものが、今では全く違った世界を見ている。 そんな相手と、今さら対話なんかできるのか?」

地球のエスパーが、そんなことを思い悩んでいた。

物語の本筋とは離れるけれど、超能力を持った彼らと、何も持たない地球人との コミュニケーションを成立させたのは、絵や言葉なんかじゃなかった。

役に立ったのは、「子は親から生まれる」「人間は世代を重ねる生き物」という、 同じ種としての人間の共通体験。

争いは止んで、全てを次の世代に引き継いで、物語は終わる。

アナロジーの学習

アクセス厨だ。

一番大事なのはアクセス数と反響で、内容なんて2の次。

これもアナロジーの学習のため。

アナロジーには、「理解と納得とを助ける有効な手段」としての側面と、 単なる形容詞、会話を面白くするための手段としての側面とがある。

独り善がりなたとえ話ならいくらだって作れるし、昔から「分かりにくいたとえ話」で 他人を煙に巻くのが好きだったのだけれど、これは単なる形容詞の延長。 ウケを取れればとりあえず成功だし、それで十分。

ところが、意味や概念の伝達手段としてのアナロジーというのは、 それが「いい」のか「悪い」のか、 自分だけでは検証ができない。

会話というのは、最終的には「合意」で終わってしまう。

合意形成のプロセスには、「納得」という行為は必要で無いか、むしろ有害ですらあるから、 アナロジーが優れているかどうかの評価には使えない。

面と向かった相手との会話には、 ただでさえ同調圧力がつきもの。いいたとえ話であっても、そうで無くても、「そうだね」という 返事しか返って来ない。

検証を行うためには人数を集める必要、それも匿名の「忌憚の無い」意見をたくさん集める 必要があって、それにはどうしても多くの人に呼んでもらう工夫が必要。

内容のほうが大切とか、アクセス厨になるなとか異論はたくさんあるけれど、 こうした行為を一種の学習であると考えると、アクセス数は多くなければ意味がない。

とにかくたくさんの人に読んでもらって、できればアクセス可能な場所で「陰口」を叩いてもらって、 それを読んでまた表現を修正する。

そんなことの繰り返し。

相手の頭で考えて自分の言葉で話す

体育会的な社会、あるいは病院みたいな「退院したらおしまい」みたいな場所では、 「納得してもらう技術」なんてあんまり役に立たない。

反乱分子は潰せばいいし、大切なのは合意形成までに要する時間であって、 合意の深さなんてどうだっていい。

これから先、ネットワーク化が進んで世界が小さくなって、 一つの問題に多くの意識が集中する時が来ると、たぶんこういった技術が役に立つ。

外圧を使って合意に導く方法というのは、表面張力を使ってシャボン玉を維持するようなもの。

小さなシャボン玉はいつまでたっても消えないけれど、それが大きくなればなるほど、 一つの球を維持し続けるのは難しくなる。

集団をまとめる力、表面張力=同調圧力を強化するには、「水」の集団に対して敵対する「油」を 導入することが欠かせないから、争いは避けられない。

これから先、水と油との共存を嫌でも考えないといけない時代。

それは若者世代と団塊世代との確執であったり、医師-患者間の確執であったり。

アナロジーでまとめて、お互いが納得するというのは、水と油とを卵でまとめて マヨネーズにしてしまうようなもの。

顕微鏡レベルでは、水と油とは全然混じっていなくても、全体としては混和している。そんなイメージ

合意の技術や印象操作の技術をいろいろ調べてきていて、どんな方法論があって、実際 どこまでできるのかはなんとなく見えてきた気がするけれど、「納得の技術」はまだまだこれから。

教科書とか、あるんだろうか?

2006.12.07

労働運動のフリーウェア化

準備が進む美しい国づくり。

審議会の面々がキ○ガイ発言を連発してみたり、説明会の壮大な自作自演が 発覚してみたり、なんだか出だしからグダグダだけれど、とにかく前に進んでる。

反対意見はあんまりでない。

ネット界隈ではいろいろ騒がれてはいるけれど、実世界は静かなもの。

政府は支持率を下げているけれど、対抗馬もいないから、なんとなくこのまま進んじゃいそうな気がする。

国が「美しく」なったところで、田舎で医者をやっているぶんにはあんまり変わらない。

仕事は忙しくなって、たぶん今より訴訟ももっと増えるだろうけれど、たぶんそれだけ。 もう十分お腹いっぱいになるぐらいに悪いから。

どこもかしこも、救急病院のベッド数はもう限界。

あと何年かすると、精神科と老人病棟のベッドが大幅に削減される。 行き場のない人が増える。

そうした人たちがそのまんま「退院」できるわけがないから、たぶん残されたベッドをめぐって 苛酷な「椅子取りゲーム」がおきて、あぶれた人は施設や病院じゃない、どこかに行く。

たぶんそれは、役所からは「解決」案件として処理されて終わり。それだけ。

もっとみんな、現状に対して怒ってもいいと思うんだけれど、明確な反対意見を唱えているのは 共産党と民社党ぐらい。

どうやって声をあげるのか? 今は組合もなけりゃデカイ団体もない 政治家に訴えるしかないと言っても、聞くやつなんかいるかな?

ネット社会の現在、「サヨク」は本当にかっこ悪くて、時代遅れ。

「サヨク」の思想に迎合するぐらいなら自民党に投票したほうがまだましだけれど、 あの人達の持っていた技術、デモを組んだり、不正を暴いたり、 世論に訴えたりといった「労働運動の技術」は大切。

技術が先か思想が先か

最初は「技術」から始まったんじゃないかと思う。

労働者が苛酷だった三池炭鉱。エネルギーの持って行き場が無くて、とにかく暴れたかった学園紛争。

最初にあったのは「現状を何とかしたい」という需要。 それを何とかするための技術として組合が生まれ、 団体交渉が生まれ、オルグの技術や組織術、ゲバ棒やヘルメット、 火炎瓶みたいな「闘争」の技術が生まれ…。

みんな何とかしたかった。技術は広まって、最初はみんなそれを学んだ。

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思想はそのあと。

炭鉱労働者に資本論を教えたのは、後から来た社会運動家の人だったし、 マルクス経済学を否定した毛沢東思想なんて、 あれは暴れた若者を正当化するためのあと付け。

時代は変わった。技術は隠され失われ、思想だけが残った。

  • 技術というのは知っている人に力をもたらす。技術が拡散すると、それに反比例して力は落ちるから、技術を習得した人はそれを隠そうとする
  • 思想もまた、知っている人に力をもたらす。思想は拡散すればするほど力が強くなるから、みんなが広げようとする

総和が一定の「技術の政治力」に比較して、「思想の政治力」というのはねずみ講的な性格を持つ。

時代が進んでも、技術を知っている人の数は増えない。 ところが思想を語る人の数だけは加速度的に増えつづけ、 そのうち思想は一人歩きをはじめる。

革命をおこすための技術がなくなっても、革命をおこすための思想だけは残った。

「反革命的である」というよく分からない理由で殺された人が出て、 ついには「サヨク」はかっこ悪いものになり、 「サヨク」の持っていた技術もまた、かっこ悪いものとして葬られた。

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「怒るための技術」は継承されずに思想だけが残って、 元革命家の人達は現在、政府じゃなくて成人病と戦う日々。

Old soldiers never die

どうすればいいのか?昔の活動家は、その答えを知っている。

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時代は変化する。変化を拒む思想は消える。

でも技術は死なない。それは継承されて、新しい状況に適応して進化する。

組合の作りかた。仲間の増やしかた。上層部の不正の暴きかたや、 分断工作の防ぎかた。いろんな嫌がらせ。恐喝のやりかた。

団塊世代といわれる人達のどこかには、まだこうした技術を継承している人、 きっといるはず。

「技術が知りたかったなら、まずは我々の思想を受け入れよ」という立場はやっぱり 技術屋的な見かたからすると間違いで、技術と理念とは、本来が分割可能なもの。

ネットでいくら怨嗟の声をあげたところで、いまの政府には届かない。

今の政府がやられて一番嫌なことというのは、たぶん葬ったはずの「昔の技術」が再開発されて、 それがばら撒かれてしまうこと。

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支持する思想がバラバラであったとしても、「現状を何とかしたい」 「経営者がおいしい思いをするのはとりあえず腹が立つ」という思いだけは、みんな同じ。

「サヨク」の思想がかっこよかった時代は終わり。サヨクの技術拡散を防ぐ理由も無くなった かわり、その技術を利用したい需要だけが残った現在。

需要があって、そこを何とかする技術があるなら、それを「フリーウェア」の形でばら撒けば、 それはたぶん政府に対する最高の嫌がらせ。

時代に対する思想の弱さ、時代を超えた技術の恐ろしさというのは、たぶんそういうこと。

まず理念ありきじゃなくて、まず方法論。思想については多数決を取ったり、 それこそgoogle さんにおまかせ、というスタンスで、まずは方法論を広める。

今の若者は怒らない、理念が無いと嘆く前に、大人の人達、もっと技術の継承を考えるべき なんじゃないだろうか?

今の「教育基本法」を審議する人たちが、セルパンテスの『薔薇の詩』見たいな冊子を 復刻配布して、 「できるもんならやってみな」とテレビで大見得を切ってくれたなら、 それはもう熱狂的に自民党を支持するんだけれど。

12月13日追記。挿絵を入れた。

この神漫画、本当に平野耕太の作品?

2006.12.06

「最初の1回だけ無料」ルール

トイレに入るときの救急隊ルール

  1. トイレに入ったら、まずトイレットペーパーを手にとる
  2. それから便器に座る

消防や救急、レスキューというのは いつ呼ばれるから分からない仕事。呼ばれたらすぐに尻を拭いて、現場に飛び出せるように。

地元の救急隊にも確認したけれど、これは全国ルール。もっとも、今はトイレの中にも無線が 入ったから、「慌ててトイレットペーパーをとる」ぐらいの時間はできたらしいけれど。

感染性腸炎が流行して、今すごいことになっている。

療養病棟2つは満床。急性期病棟の利用率は、この3日ぐらい9割越え。身動き取れない。

救急隊も休めないらしい。

日中は、食事が取れなくなった老人の搬送で手いっぱい。夜になると、日中がまんしていた 若い人が耐えられなくなって、朝の4時とかに「昨日からの吐き気」で救急搬送依頼。

救急勤務は24時間交代。

何もないとき、救急車は消防署にいて、搬送要請があったら、そこから出動する。 この前聞いたら、「今日はもう、17時間乗りっぱなしです…」と。

警察と消防隊の鍛えかたは人間レベルじゃない(制服の下は全部筋肉)から、 たぶん17時間ぐらいの勤務では全然何ともないんだろうけれど、 その日はさすがに疲れた顔をしていた。

流行性腸炎は、やっとピークを越えつつあるけれど、ここにインフルエンザがやってきたら、 たぶんこの地域の救急は終わる。

有料ルールは最適解か?

救急車を有料化しようという話は前からあるけれど、あんまりうまくいかないような気がする。

実費でやると、1回の救急搬送代金というのは、たしか7万円ぐらい。

救急車事態がとても高価なものだし、訓練を受けた専門家が24時間待機してるんだから、 あの制度にはものすごいお金がかかってる。

そのまま請求するのはどう考えたって無茶。せいぜい取って 1000円とかそのぐらい。

「美しい国」には、そもそも税金を使って救急車に乗る非国民なんて 想定されていない存在なんだろうけれど、政府だって世論を気にするだろうから、 たぶんタクシー代よりも安い程度。

有料化の厄介なところは、不利益を生じる人がまちがいなく出る反面、 本来使用を抑制してほしい人に対する抑制効果はあんまり無いこと。

「救急車に乗ってきて欲しい人」というのは、要するに重病人。老人の多くはこれだし、 がまんする人今でも結構多いから、「有料化が原因で亡くなった」という叩きは避けられない。

医療者側のやる気をそぐ原因になっているのは、救急車をタクシー代わりに使う人。

某市では、改革派市議のシンパの人たちが「病院を監視しよう」という運動を 展開していて、夜中にわざわざ救急外来を「視察」する。 朝の4時。3日前から風邪を引いているという子供を連れた親御さんが救急搬送。 帰り際に一言「我々は税金を払ってますから、あなた達には感謝しません」とにっこり。

改革派に泣かされた看護婦さんはそこを辞めて、今うちの病院にいる。

こういう人達はお金持ってるし、そもそもがタクシー呼ぶのが面倒だから119番をかけるわけで、 抑制するには、相当な金額を吹っかけないと無理。

で、こういう人達は「払った分だけ元を取ろう」とするから、 病院にきてからのトラブル必至。

早く診ろとか。金払ってるんだから、それだけのサービスしろとか。

現場の士気はまちがいなく低下する。

「1回まで無料」ルール

  • 地域の住民に、1年間有効、1回限り使用できる「救急車利用券」みたいなものを毎年配る
  • 利用券は、お互いに交換したり、他人に券を譲ることも可能
  • 2回目以降、あるいは券を持っていない人が救急車を使うには、ある程度の金額負担が必要

「救急が崩壊しかかっています」とか、「利用を抑制して下さい」とかアナウンスしたところで、 しょせんは他人事。

共有地の悲劇というのは、みんなが共有地の崩壊に無関心だからこその「悲劇」。

前提としては無料を維持しながら、救急車の利用を抑制しようと思ったら、 こんな「1回まで無料ルール」の導入は無理だろうか?

「券」をもらったところで、ほとんどの人は救急車なんか使わないから、実質無意味。

本当の病人は自分の券を使うだろうけれど、たいていは家族とか、親戚とか、その人の病気の「重さ」を 理解している人がまわりにいるから、その人から券を融通してもらう。あるいは、医師の判断で、 病院、あるいは役所から券を新たに発行する。

で、救急車をカジュアルに使っちゃう人というのは年に何回も救急車に乗るのが前提だから、 嫌でも「次の機会」を考える。

今救急車を呼ぶのが本当に一番「いい」機会なのか。

2回目からは有料。考えるから、無料券は使わないで取っておこうという動機が働く。

報酬の即時性

共有地のジレンマ的な問題に対処する一つの方法が、それを利用する人に 「即時的な報酬」を付与すること。

未来に生じうる悲劇とか、みんなが救急車の利用を抑制した先に広がる「美しい国」とか、 「今ここ」にあるもの以外のもので人を説得しようとしても、みんなを納得させるのは無理。

たとえ意味がなくても、とりあえず「モノ」をあげて、「利用すると、これがなくなっちゃうんですよ」と やったほうが、ある種の人にはたぶん効果的。

経済活性化のために「インフレターゲットを設定しよう」なんていう意見があるけれど、 あれもまた、反応できるのは経済学に詳しい人だけ。自分も含めたほとんどの人は、 「そうなると、何がおきるの?」と他人事。

同じことをやろうと思ったら、たぶん貨幣の価値に「半減期」みたいなものを設定して、 「使わないで持っていると、お金の価値はなくなっちゃいますよ~」とやったほうが確実。

国滅ぶだろうけれど。

救急制度が吹っ飛んだ先にあるもの

救急体制が何とかなったところで、患者を受ける病院側には 何のメリットもないのだけれど、制度を維持する意味はある。

最悪のシナリオは、マスコミが救急隊を叩くこと。

たらいまわしの問題、搬送判断のミスみたいなものを叩いて、「救急車は信用できない」という 空気をマスコミが作り出したら、病院にはもう後がなくなる。

医者を叩きおこすのに最凶の方法というのは、「自分で直接病院に来る」こと。

救急車を使った場合は、それでも救急隊とのコンタクトが可能。専門外だったり、 自分達の施設で手に負えないようなケースは、他に行ってもらえる。責任は発生しない。

ところが、自分の足で来た患者さんに対してはルールが変わる。

アメリカンフットボールのタッチダウンよろしく、病院の門をくぐった時点で患者さんの「勝ち」。 初診の人であろうが、専門外の患者さんであろうが、病院が責任を持って治療する 義務が生じる。

「駄目な救急隊は放っておいて、近所の病院に直接行きましょう」

こんなキャンペーンが張られて、民間の寝台タクシーみたいな制度が安価に開始されたら、 もう当直なんてできない。

救急を断ろうが、当直医が眼科だろうが、門をくぐった時点で生じる診療義務。 自分で治療できなくても、その医師には患者さんを専門病院まで搬送する責任が生じる。

そんな時代、リスキーな飛び込み患者の転院を受ける病院なんかあるわけないから、 当直業務は命がけ。

急患取った時点で負けどころか、泊まった時点で負け。

こうなると、もう内科なんかやる奴、絶対いなくなる。

その一歩手前、救急体制の崩壊を止めるのは結構大切。 お互い喧嘩している余裕、 ないはずなんだけれど。

2006.12.01

ストップウォッチひとつでできる簡単! 医者潰し

病棟潰しのストップウォッチメソッド

難病の患者さんを病院で受けた。

いろいろな病院を転々としてきた人。家族の方が、病棟を評価する基準も独特。

ご家族は、ナースコールを押してから、 実際に病棟ナースが駆けつけるまでの時間をストップウォッチで記録する。

点滴が終わったと言ってはカチリ 食事を片付けてほしいと言ってはカチリ

家族の手元には、今までの記録が全部ある。前の病院も、そのまた前の病院も。

遅いとか。前の病院なら何秒だったとか。そういうことは一切言われない。

ただ「カチリ」。記録だけ。

淡々と記録を取られる毎日が1週間も過ぎたころ、病棟の空気が厳しくなってきた。

医療者サイドは日常業務をこなしているつもりだったけれど、あのとき病棟を支配していたのは、 「カチリ」というストップウォッチの音。

みんな押し潰された。

技術者を潰す方法としてこれを一般化するならば、たぶんこんなかんじ。

「正しくないパラメーターでその人の仕事を評価すると、評価を受けた技術者は潰れる」

たとえば、プログラマの人が仕事をしている後ろで、ストップウォッチ片手に陣取って、 伸びをしたらカチリ、タバコをもみ消したらカチリ、 トイレにたったらカチリとやったら、たぶん相当な嫌がらせになる。

そんなやりかた。

「正しい評価」は可能なのか?

たとえば株式のトレーダーの人とか、販売業の人とか、お金のやりとりを仕事にしている人ならば、 「売上げ」というのが評価の全て。

相手を騙してでも短期利益を重視するのか、人間関係重視で、そのうち大きく当てるのか

評価を行うのが1週間毎なのか、1年毎なのかで戦略は変わってくるけれど、 時間軸さえ変えなければ、評価はいつも「正しい」。

スポーツ選手なんかでも、たぶん同じ。 活躍する選手や人気のある選手は生き残るし、そうでない選手は不遇なまま。

エンジニアになると、このあたりが難しくなってくる。

「いい製品を作った」というのはもちろん評価の対象になるのだろうけれど、 その「良さ」が理解されなければ、その成果物は「いいもの」とは認定されにくい。

病院はもっと悪い。

「いい結果」を出すだけなら、むしろそれは簡単。特定の病気、それも死ぬような合併症のない病気 の治療に集中して、こじれそうな人からは逃げ回ればいいだけの話。

「神の手」で有名な脳外の先生だって、基本的には「良性」の腫瘍を合併症なく治す専門家であって、 悪性腫瘍患者を救う神様なんかじゃない。それであっても、十分神様だけれど。

いい結果をほめるだけなら簡単だけれど、いい結果、 悪い結果を含めたその人の仕事を「評価」するのは 本当に難しい。

正しい評価をやってもらうには、評価される側が「正しいやりかた」を示さないといけないけれど、 今の医療従事者には、この「正しいやりかた」が何なのか、たぶん示せない。

このあたりはたぶん、学校教師の人たちなんかも、同じ感想を持っているかも。

「正しい評価」が維持する士気

研修医のころは、よく本拠地から田舎の病院へ飛ばされた。

不慣れな施設で、いきなり救急業務。バックアップ体制なし。 もし万が一のことがあっても、自分をカバーしてくれるスタッフはもちろんいない。

600キロ離れた本院に泣きついても「がんばれ」の一言だけ。

歴代の先輩医師も、地方への派遣は皆「きついよ~」と言う。

つらい、厳しいと分かっている僻地医療の現場に派遣されるのは、地雷を踏むようなもの。 吹っ飛ぶと分かっているものを踏む奴はバカ。

でも踏む。

「ほら、地雷だよ。前から踏みたがってたろう?君なら踏めると思うんだ。」

内科部長はこう言って、新人の前に「地雷=派遣辞令=」を目の前に置く。

で、半泣きの研修医がそれを踏んで吹き飛ばされて、 しばらくしたらボロボロになって帰還する。

地雷が地雷であることを隠さない方法論は、それでも強力に人を動かす。

病院内では、地雷を踏んで怪我をした奴は「地雷を踏んでも生き残った奴」として名誉と賞賛を得る。

みんな地雷を踏んだ仲間。その評価はいつも「正しい」から、怪我をしてもまた地雷を踏もうと思う。

「正しく失敗した物語」を伝えること

医者叩き。

医療者側に怠慢があったとするならば、それは「成功した医師」の美談が放映されていた時代、 それに対して「現場は正しい成功だけじゃない」ということを訴えてこなかった部分なのかもしれない。

結果には「成功」と「失敗」とがあるけれど、評価には、「間違って成功した事例」と、 「正しく失敗した事例」とがあって、「間違って成功した事例」に対しては、本来医師が その人を批判的に評価するべきだったのだと思う。

マスコミが美談にするのは、正しく成功した事例と、間違って成功した事例の両方。

今批判にさらされているのは、「正しくやって失敗した事例」。

だから、それに対して医療従事者が これだけ声を上げているのだけれど、本当は、 「間違って成功した事例」に対しても医療者が批判の声を上げないと、 お互いフェアではないと思う。

  • 美談系の番組であったり、あるいはがんばって働いている医療従事者の番組であっても、 その人が「間違って」いい結果を出していたら、誰かが問題点を指摘する
  • 上手くやらないと問題になるだろうけれど、「正しく失敗した事例」というのは 医療者側がもっと公開して、 「これは悪い結果になったけれど、我々は正しくやったと評価する」と総括した物語を、みんなに示す

正当な評価の基準が自分達でも定義できないままにここまで来てしまったというのは、 やっぱり医療者側にも責任の一端がある。

信頼というのは、結局のところ過去の蓄積で生み出されるもの。

偉い人達、有名な先生方が「正しく失敗した」物語、あるいは「間違って成功した」物語を もっと伝えてくれれば、 あるいは事態も変わるんじゃないかと思うんだけれど。