2006年11月29日

誰かが壊れる物語

西尾維新「戯言シリーズ」。今さらながらの感想。

作家は現実を負い越せない

ありえない状況におかれたとき、人間はどう行動するのだろうか?

人種差別。障害者とのつきあい。資本分配や、社会の様々な格差。

実世界の微妙な状況を議論するのは難しい。倫理とか、「常識」とか、いろんなしがらみから 逃れられないし、極端な論を張ったら批判の嵐。

人の幸せってなんだろう?

こんなテーマをリアル世界でまともに議論すると、科学哲学から宗教、オカルトに至るまで、 いろんな分野の専門家が乗り込んできて、騒がしいことこの上ない。

大きな本屋さんの片隅、一番暗いところには、たいてい「精神世界・宗教」というコーナーがある。

ドーキンスや宮沢賢治、五木弘之、いろんな宗教の本、細木数子の占い本、最近流行の スピリチュアルカウンセラー氏の本までごちゃ混ぜ。

1冊あたりの値段が3000円越えなんてザラ。テーマがテーマだけに、どれが当たりで どれが地雷なんだか、立ち読みで見切るのは不可能。

万札飛んで、全部地雷で涙を飲んだこと、何回か。

その棚の前にずっと立っていると、自分まで「そういう人なんだな」と思われかねない、 ある意味ライトノベルコーナー以上の地雷原なんだけれど、 時々本物の当たりがあるから、ここは外せない。

小説家は現実を負い越せないけれど、非現実を作り出すことなら誰にも負けない。

実世界ではありえない設定を物語世界に導入することで、作家は実世界の束縛から自由になる。

極端な天才。現実にはない何かの技術。そういうものを物語に持ち込んで、 実世界で語るには微妙な問題を極論で語る。「人間を描いた」といわれるSF 作家は、 たぶん確信犯的にこれをやる。

ロボット三原則や「冷たい方程式」問題、スタートレックの「コバヤシマル」問題なんかで 論じられている解決方法というのは、実世界のいろんな問題を考えるとき、けっこう役に立つ。

「アルジャーノン」状況

リアル議論の地雷原ぶりに比べると、SF 小説のコーナーは本当に平和。

「本当の幸せとは何なのか?」「天才になる事は本当にその人にとって幸せなのか?」

SFの古典「アルジャーノンに花束を」は、このあたりのテーマを論じた代表。

  • 画期的な手術で強制的に天才にされた主人公の孤独
  • せっかく得られた能力がだんだんと失われていく恐怖
  • 最後の最後、「本当に大切なもの」というのは、一体何なのか

ダニエル・キイスは心理畑の作家だから、たぶん痴呆老人の自験例を参考にしてあの小説を書いた のだろうけれど、あれを「心理学」の本として出版したりしたら、たぶん批判が出ること必至。

「アルジャーノン状況」というのは、普通の人を主人公にしてしまうと、 痴呆が進行する患者の症例報告にしか過ぎないから、物語化が難しい。

壊れていく人の心理なんて、当の本人が壊れているから想像するしかないし、 作家の想像なんて異論を持つ人たくさんいるから、実世界での議論が不可能。

人間の心は、技術的に破壊できても中身が読めない。 脳もコアダンプがとれると便利なのだけど。

「アルジャーノンに花束を」は、「主人公は人工的な天才」という設定を導入することで、 そのあたりをうまく回避している。

アルジャーノン状況というのは、老いとか病気とか、実世界の中でも相当微妙な問題を 扱えるテーマなのだけれど、この世界観を設定すること自体が難しいからなのか、 あの作家があまりにも上手くやりすぎたからなのか、 あんまりそういったテーマのSF を読んだことが無い。

ここまで前書き。で、以下「戯言シリーズ」の感想文。ネタバレあります。

「人が壊れる物語」としての戯言シリーズ

まなめはうすで、 西尾維新という作家が高い評価を受けていたのをみて購入。

とりあえず代表作みたいなこのシリーズを9冊買って、今2周目と少し。

ちょっと肩透かし。

ライトノベルというのは、登場人物の性格描写とか、人物造形をとても大切にする分野。

戯言シリーズ。

  • 全9冊の大作で、どこか歪な「○○の天才」がやたらと登場する舞台設定
  • 新しい登場人物が次々と登場しては殺されていく中、9冊を通じて舞台に立ちつづけるのが 主人公の「僕」と、相方の天才「玖渚友」
  • 物語の終盤、玖渚の成長の歪みが限界に達して、 能力を手放すのか、それともこのまま突っ走るのかの選択を迫られる場面

これは「アルジャーノン状況」じゃないか。

読みながら期待していたのは、壊れていく天才の心理描写。 ところがそんな描写は無し。物語は、現代版の「甲賀忍法帳」だった。

作中の「玖渚友」という人物の造形は秀逸。「壊しがい」を感じる。

  • 演算能力最優先の怪物。品種改良的な作業の果てに作られた人間
  • 人格も人造のものなら、恐怖や喜びといった感情もまた、本人による後付け設定

本人の天才ぶりが、前8冊を費やして延々描かれた挙句、最後は出自の歪みから、 その能力を手放さざるを得ない主人公という図式は、「アルジャーノン」テーマを 現在の知見で再現する最高の機会。

自分の意思で、今まで築いた能力や記憶を手放し、 今まで日常であった世界は失われ、目が覚めたら毎日が知らない異世界。

天才的な能力を失うかわりに恐怖を得、後悔を得、最後には、そうした恐怖や後悔の 記憶をも失ってしまい、また能力ゆえにそうした未来の自分を正確に予見できてしまう主人公。

ここから先がつまらないわけがない。

そう期待して終盤を読んだのだけれど、終盤は延々と続く超人バトル。

で、壊れた後の青い天才が出てくるのは、最後の3行ぐらい。

作家の興味がなかったのか、そんな描写に興味を引かれる読者なんかいないのかは 分からないけれど、せっかく「アルジャーノン状況」を無理なく引っ張る舞台ができたのに、 それを描いてくれなかったのは、相当残念に思ったところ。

こうしてほしかった

以下妄想。

  • 日ごと失われていく自分という恐怖に責めさいなまれ、 最後にはその記憶すらも失ってしまった代わりに 得られたものは「心」と「伴侶」だった…なんていうのもベタだけど人魚姫風で面白いかも
  • 天才だから末期になるまで日記が書けるはず。過去に作り上げた能力を壊すくやしさ。 わずかに見える未来への希望。 はるかに多くの絶望や、選択肢を決定した後の不安や後悔。 そんなものを延々と日記型式で描写するのも、 読者を鬱の底に叩きこんでくれそうで吉
  • これは貧弱になった環境へ、自らの資産を移植する物語。知性がまだ残っているうち、 どの記憶を「次の自分」に引き継いで、どの記憶や技能を捨て去るのか。人類を超えた 知性が本当に「大切」と思い、残したものは何なのか
  • 後悔や絶望、恐怖といった呪いにも似たそうした感情の集積はやがて「人格」となり、 かつて人間を超越していた 主人公は、失った能力の代わりに人格と感情とを得て人間として再生した… おとぎ話にも似たテーマだけれど
  • かつて人間の超越者であった「モノ」が、自己進化の果てにたどりついた先が、 ただの人間の子供であった…というオチもありかも。ソマティックマーカー仮説に絡めて

本編はそのまんまでも、本編の中には「壊れる」描写は全くないから、 今出版されているシリーズに矛盾することなく、物語を作るのはまだ可能だと思う。

圧倒的に優れた能力を持つ人がそれを失うとき、何を考えるのか。
とっくに追い越したはずの世界から追いつかれ、また追い抜かれるのが回避できないと 分かったとき、優れた知性の持ち主は、世界に対してどう行動するのか。
優れた知性の持ち主にとって、それを失うこと以上に大切なことというのは何なのか。

作者が考える「天才が壊れる」というのはどういうものなのか。

人間を超越した者は、その力を失ったときに何を考え、何を得るのか。

作家の想像力が生んだ超人、その理想像が壊れる情景、 さらにその先にあるものを見せてほしいという読者も、 きっといると思うんだけれど。

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2006年11月26日

正義の利権技術屋の利権

正義のお金の作りかた

  1. 正義の名のもとに、何でもいいから大きなものを揺さぶる
  2. 揺さぶられたものを一定の方向へコントロールする
  3. その方向が制御されていれば、その先にお金が降ってくる

ハコモノ利権。病院機能評価機構。

僻地振興を振興したい、あるいはだらしのない病院組織を監督したいという「正義」がまずあって、 それが議会とか、あるいは病院組織に揺さぶりをかける。

正義を制御できる人はいろいろ。政治家であったり、官僚であったり、あるいは弁護士であったり。 技術屋でないことだけは確か。

揺さぶられた先、「じゃあどうすれば正義はなされるのか?」という疑問には、 何故か最初から答えが用意されている。それが「ハコ」を作ることであったり、 国家の監督組織を作ることであったり。

お約束で、議会からは反対意見は出ない。みんな正義の仲間。お金は大事。

建物を作ろう、組織を作ろうという機運が(最初から)十分に高まった先には、 正義に参加したい人たちがたくさん待っている。

正義は成され、予算はばら撒かれ…。

で、世の中は何も変わらない。

正義は誰のものか?

医療裁判にだって利権めいた構造が透ける。

  1. 患者側弁護士は、とりあえず高額の慰謝料を請求する
  2. 世の中には「患者側を必ず勝たせる裁判官」という装置が存在していて、その人に必ず裁いてもらうよう、 訴状の動きをコントロールすることは可能
  3. 地裁レベルでは、患者側が勝つ。1億円の請求に、7000万円くらい勝てる。家族大喜び。 患者側の弁護士が弁護士報酬を手にする
  4. この裁判官の判決は、たいてい高裁レベルでひっくり返るのはみんな知っている。病院側が控訴すると、 患者側の逆転敗訴になり、賠償金は大きく引き下げられる
  5. 病院側の弁護士は、賠償金を引き下げることができれば、その引き下げた割合が報酬になる

行われているのは正義。その流れがコントロールできるなら、正義は利益を生む装置と化す。

弁護士は増える。「法律のパイ」というのは案外小さくて、企業の顧問弁護士とか、法律事務所の 専任弁護士の枠などは、もういっぱい。新しい人を迎え入れようと思ったら、こんなことをして、 パイを大きくしていかないと、喰いっぱぐれる。

訴訟は増え、正義は成される。なんだか誰も幸せになっていない気もするけれど、 正義を執行する側には、この制度を維持する大義も動機も十分。

身内を殺した張本人である医師と、「そいつは犯罪者だ」と声高に叫ぶ家族との争い。

「正義」という賞品をかけた争いは、いつも審判たる法律家の一人勝ち。

「審判」を入れた時点で負け確定。

少しくやしい。

「みんな」がいなくなった後

何か大きなもの、予算とか世論とか、「みんなの意見」を代表する何かが 正義に引っ張られて大きく動いた後には、何も無い原野が残る。

競争者がいなくなった場所。技術屋の利権はこういうところにあるんじゃないかと思う。

確信は無いけれど、皆の意見が単純な解答に収束する状況においては、 そこを外した「どこか」に利権が生じる。

集合知的な立場が正しいならば、同じ条件に皆が殺到しなくてはならない時点ですでに 何か間違っているのだが、あんまりこれに突っ込む人がいない。

地域医療はおしまい。救急はおしまい。産科はすでに滅んだ。

今、地域医療と救急を主にやっているけれど、そんなに滅んで無いし、がんばってもいない。 まぁ病院にはずっといるんだけれど。

それでも、昔は月10回だった当直はだんだん減って、今は月4回ぐらい。

昔は日が変わるまで帰れなかった病院も、だんだんと慣れてきて、 今はもっと常識的な時間に家に帰れる。

全体を見ると状況は悪くなっているように見えるけれど、もっと短い時間軸、 もっと小さな地域ごとにみていけば、「良く」なっているところと 「すごく悪くなっている」ところが混在しているだけで、みんなしぶとく生き残ってる。

いつか泣くんだろうけれど。

ネット時代が来る前。Win95 が普及する前までは、まわりなんか全く見えなかった。

インターネットを見るようになった10年前。掲示板を見るようになった7年前。 PDFなんて便利なフォーマットが あることをはじめて知って、論文をネットで検索するようになったのがそれから数年後。

まだ本当に最近のこと。

今は最初から「全体」が見えてしまうから、逆に局所が見えにくい。

もう1世代前の技術者は逆。全体なんか知らなかったし、局所を最適化して、その場を乗り切って 生き残るのが上手。

今の病院は自分が最年少。

僻地医療なんて悪い話ばかりだけれど、現場はブレていない。

技術継承とレッドオーシャンのジレンマ

大局を操作する正義の利権と、すばやさを武器にその場を生き延びる技術屋の利権と。

病院評価機構。産科事故の無過失補償制度。

「良さ」なんて相対的なものにものさしをつけたり、正しく行われるのかどうか分かるわけがないものに 「正しさを保証する」なんて主張してみたり。

お上は今日も、利権の確保に熱心だ。

  • 「正義」なんて相対的なものの絶対性を主張する、相対と絶対との差分の中に存在するものこそ正義の利権
  • 相対的に変化する「もの」に対してすばやく立ち回って、そのわずかな変化を全て利益に変えることが技術屋の利権

技術屋が正義に「勝とう」なんて思ったら、これはもうすばやく立ち回るしかないんだけれど、 技術の継承がきちんと行われないと、たぶん技術系の負けは確定。

技術屋には、それが生まれてから一般化するまでの第一世代と、それが一般化したあと、 「洗練の競争」を勝ち抜いてきた第二世代とがいる。

この道具はなぜこの形をしているのか。これを変えたときに何がおきるのか。

そういう逸話を伝えられるのは、第一世代の技術者の特権。

第二世代の人達も、もちろん師匠からそういう 話を聞かされただろうけれど、技術はもう完成しているし、 舗装されていない道なんかより高速道路のほうが早い。 そんなヨタ話に耳を傾けていては競争に勝ち抜けないから、 みんなムダというものがない。

西洋医学の業界は、第一世代の人達が、今50代。それより新しい世代の人達は、 みんな第二世代。自分は寄り道ばっかりしてきたから、第二世代の落ちこぼれ。

第一世代の技術者から受け継いだ技術というのは、遅い代わりに汎用性が高い。 いろんな失敗経験の上にある知識というのは、他の分野にもいろいろ応用が聞いて、相当便利。

第二世代の人から習うと、余計なものは身につかないから早いし上手。 その代わりに、汎用性がなくなってしまうから、必然的にレッドオーシャンでの競争から逃れられない。

正義を世界から追い出すために

道産子馬とサラブレッドの違い。

競馬場で走るのが嫌になったとしても、サラブレッドは足が折れると死んじゃうから、 農耕馬に転職することはできない。

若い専門家の人たちとか、みんなすごいな、うらやましいなと思いながらも、同時に大丈夫かな?と 思ってしまうこと、時々。考えていることに無駄がなさ過ぎて、なんだか折れそう。

無駄の無い生きかたを完遂するには、「世界は変わらない」という正義側の人達の前提にすがらないと いけないから、こういう技術者というのは、案外「正義」の側に立っていたりする。

法曹亡国とか、医療の崩壊とか、別に自分が楽しく忙しく働ければどうでもいいけれど、 他人のふんどしの中から勝手にお金をつかみ出す連中がいるというのがどうしてもむかつく。

技術屋さんがみんな一定程度の「幅」を持って、ブラウン運動みたいに中心を持たないランダムな 動きを繰り返して、正義なんて胡散臭いものが介入する余地の無い世界。

コミュニケーションコストがこれだけ下がった昨今、 正義なんかいらない世の中、作れないだろうか?

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2006年11月25日

「話が見える」ためには記憶の想起が必要な件

話が見えない理由

「先生、403号室の○○さんの検査のことなんですが…」

病棟からのPHS が鳴って、その「○○さん」の件が全く分からなくて、 「話が見えません」と聞き返すことしばしば。

その患者さんの主治医は自分。検査をオーダーしたのは、もちろん主治医。でも「見えない」。

なんでなんだろうと思っていたら、「記憶の想起」のしかたというのが、 職種ごとに違うためなんだと気がついた。

  • 医師は、患者さんを経過で記憶するから、「病名」と「今までの出来事」で想起する
  • 看護師さんは病棟の住人だから、患者さんを「名前」と「部屋番号」で想起する

医師は人につくけれど、看護職の人は場所につく。

時間軸を重んじる歴史的な理解のしかたと、属性や部屋番号のような地理的理解。

同じ患者さんを見ていても、その理解のやりかたは異なる。

だから「見えない」。

記憶をアフォードしてくれるもの

同じ病人であっても、医師と看護師とでは同じものを見ていない。

「患者さん個人」という一つの概念。

人間一人をありのまま記憶するのは無理。頭のメモリーは少なすぎるから。

たぶんみんな、誰かを記憶するときには、 その人が「何かの不自由さ」に対してどう反応するのか、 それを想像して記憶の引き金に利用している。

  • 医師の診る患者さんというのは、「医師の場所」という不自由さに対応して、時間軸を泳いでいる
  • ナースの見る患者さんというのは、「時間が限られる交代勤務」という不自由さに対応して、同じ場所に立っている

泳いでいる患者さんと、立っている患者さん。

同じ個人に対してであっても、立場が違えば、その人に対して付加される「不自由さ」はみんな違う。

泳いでいる人をみて、その人が立っている情景を想像するのはけっこう難しい。

「コミュニケーション能力」という言葉にはいろいろな意味があるけれど、分かりやすい話をする、 あるいは「話が見えやすい」という意味でこの言葉を用いたときには、記憶のしかたと、 編集力みたいなものがかかわってくる。

  • 会話している相手は、泳いでいる人を見ているのか、それとも立っている人をみているのか、 それを察することができるかどうか
  • 自分の頭の中で「泳いでいる」話題を編集して、相手に「立っている」話題として提供できるかどうか

「話を見せる」ためには、情報の共有だけでは全然足りない。 情報は、その人ごとに興味が持てる形で、頭の中に再構築できなければ意味が無い。

話が見える人、あるいは意味の共有が上手な人というのは、 誰がどんな形の情報理解のしかたをするのかを理解して、 その人の好む形に情報を編集するのが上手。

正しい想起の生む記憶

記憶が不自由だ。

30人持ち。誰がどんな病気を持っていて、どんなことで悩んでいるのか。

意識がアクセスできる記憶の量というのは本当に少なくて、30人分の記憶を置いておくなんて無理。

じゃあどうしているのかといえば、この数年は「忘れる」ことにしている。

一人の患者さんと会って、いろいろ話を聞いたらすぐに忘れて、次の○○さんのベッドに行ったら、 「○○さん専用の主治医」であったときの自分を思い出して、またおしゃべりして、また忘れて。

研修医やカルテを使って、記憶を徹底的に外部化すれば、30人ぐらいまでならメモなしで行ける。

記憶というのは不思議なもので、意識のメモリを空けて、想起のトリガーさえきちんとしておけば、 気持ち悪いぐらいにいろんなことを覚えてる。

今いる病院の年配の先生方も、「先生が10年前に脾弯曲部の結腸切除を行って、横隔膜浸潤があって 剥離に難渋した…」なんてやりかたをすると、その人の術後経過から家族背景、 化学療法の量から病理診断名まで、すごい量の情報を記憶していて驚かされる。

その代わり、想起のやりかたを間違えてしまうと、今受け持っている患者さんの名前すら出て来ない。

最近、特に記憶が不自由。今までは、研修医の人たちが、自分の記憶を想起する役を 負っていてくれたらしいことに気がついたのは、大学を離れてからのこと。

おかげで今、すごく大変。

今やっていること

もともとカルテというのは「未来の自分に対するお手紙」だと思って書いている。

昔からの習慣で、患者名と病名、検査や点滴のオーダーとは別に、オーダー用紙には「方針」 とか、「戦略」を付け加えて、そこにいろいろ書くことにしている。

  • 5日以内に○○病院に転送させます
  • 家族が納得してくれたらお看取りで行きます
  • 要注意家族なので、できることは全部やる方針で
  • 抗生剤点滴5日間、以降内服に切り替えて11月中にリハ棟、だいたい1ヶ月で在宅へ

こんな内容。

研修医がいなくなった今、自分の記憶をサポートしてくれる人がいないので、 今は暫定的に、看護師さんにここを読みあげてもらっている。

電話口であっても、病名と「戦略」を読んでもらうと、たいていの患者さんは何とか思い出せる。

残念ながら、それだけでは医師個人の需要は満たしても、相手に理解をしてもらっているわけでは ないから、まだ片手落ち。

どうすればいいのか

本当の専門家。単に詳しいだけではなくて、いろいろな人から頼られる役に立つ人。

こういう人は、いろいろな知識を可能な限り「不自由さ」を付加しない形で記憶していて、 その話題が「泳いだ」姿、「走った」姿、「思いものを持ち上げている」姿というのを リアルに想像できて、相手にそれを伝える能力が優れているのではないかと思う。

昔、ムツゴロウさんのエッセイか何かで、「鯨の種類を100種類いえる子供よりも、 本物の鯨を1種類見たことのある子供の方が、何倍も貴重で、面白い話を語れる」 なんていう内容のことを書いていた。

当時は厨房だったから、「どう考えたって知識100倍持ってる奴の勝ちだろ」なんて 考えてたけれど、やっぱり逆。

鯨の知識をネットで調べるのは簡単だけれど、本物に出会うというのは「どう」なのか。

検索しても分からないことを語れる人こそが専門家。人を集められるのは、そういう話ができる人。

閉鎖に対する、開放。閉ざされたサークルに対する、徹頭徹尾わからない人々に向けて開かれているコミュニケーション。そこがオタクとスペシャリストを分ける分水嶺だと千住さんは言うのである。
スペシャリストとオタクはどこが違うかより引用

医者は、患者さんのことを経過で記憶していて、過去のことから未来のことを予測して、 それに応じていろいろな検査や治療を組んでいく。そういう「歴史の面白さ」、医師のそうした思考過程 を他の職種の人に面白がってもらって、理解してもらうのが正解なのだろうけれど、やはり難しい。

みんな忙しいし、自分の「面白がりかた」というものが、決定的に足りていなくて、 会話の相手を自分の土俵に引っ張る力がまだまだ足りない。

効率を追求していくと、結局突き当たるのが「面白がる力」の壁。

もっと面白がっている人は、きっとどこかにいるはず。

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2006年11月21日

風の谷大学付属病院

宮崎アニメの台詞いろいろ。

2ちゃんねるプログラマー板「天空のプログラマ」より改変引用。

天空の研修医

読める!私にも部長の文字が読めるぞ!

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パズー(研修医): 「おばさん!」
ドーラ婦長: 「婦長とお呼びっ!」

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病院長、見て!療養病棟の底が抜ける・・!!

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パズー「教授、ぼくも医局の仲間に加えてくれ。大学病院を助けたいんだ」
ドーラ教授「いいのかい、二度とカタギの生活には戻れないよ」

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機関長:「受け持ち患者さんが燃えちゃうよ!」
ドーラ婦長:「泣き言なんか聞きたくないね、なんとかしな」

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シータ先生「サマリーが欲しいならあげます、だからお家に帰して… (泣)」

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パズー:「小児科の教科書だね。何が書いてあるか読めるといいんだけど。」    
シータ:「あなたが小児を診るの? あっ!パズー!」   
パズー:「さっきの先生じゃない!・・・ずっと前に壊れたんだ。  
           きっと、小児科の先生だったんだ。  
           地域医療が崩壊してからも、ずっとここを守ってたんだね・・・。」

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パズー:「あの書類の書きかたを教えて。ぼくも一緒にやる」
シータ:「えっ」
パズー:「ぼくの左手に、手を乗せて」
シータ:「院内PHSは、切ったよ」
教授:「時間だ!答えを聞こう!!」
二人:「辞めます!!

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滅びの急患を受けたんだ・・・。
可哀想に・・・。
あの産科医達は病院を守ったんだよ・・・。

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「研修医をのせて」
作曲・編曲/久石 譲

あの地平線 輝くのは
どこか急変 かくれているから
たくさんの灯が なつかしいのは
あのどれか ひとつに 家があるから

さあ でかけよう ひときれのパン
コーヒー セデス 医局で 詰め込んで

部長が 残した 厚い病歴
患者さんが くれた あのクレーム

地球はまわる 病気かくして
回る赤灯 きらめくモニター
地球はまわる 君をのせて
いつまでも 続く 当直のせて

注:病院用セデスはもう販売していません。

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クシャナ教授の産婦人科学教室

研修医「前置胎盤…か。」
クシャナ教授「わが産婦人科学教室に参加するものは、さらにおぞましきものを見ることになるだろう。」

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クシャナ教授「クロトワ!研修医に食事を摂らせろ!15分後に緊急オペを開始する!」
クロトワ部長「飯ねぇ…ゆっくり食うとしますか…(鬱」
ポム手術室婦長「外科部長… すまんが、その手術申込書をしまってくださらんか…。
ワシには強すぎる…」
(最後は「ラピュタ」の人)

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研修医:「待合室があふれる…うわぁ…逃げろー!!」
クロトワ部長:「馬鹿野郎、逃げるったってお前、どこに逃げるんだよ」

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ナウシカ:「あなたは研修医を酷使し過ぎた。もうコーヒーもリタリンも効かない。」

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クロトワ「我が科へのクレームではありません!」
クシャナ「あのローテーターだと思うか…?」
クロトワ「おそらくは……。お、救援を求めるPHSです、間違いありませんな」
クシャナ「一時間経った、忘年会に行こう」
クロトワ「待たないんで?」
クシャナ「所詮、血塗られた道だ」

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トルメキア大付属病院長「どのくらいの研修医を失った?」
部下「現在集結中でありますから・・まだ正確には解りませんが損害は軽微かと・・・」
病院長「三分の二が軽微か・・・それは全滅というのだ!!」
部下「しかし教授、救急輪番日だったのであります!!恐ろしい夜でした」

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研修医「おぉ…怒りで真っ赤だった子宮口があんなに青く…」
研修医「姫様が妊婦(王蟲)の怒りを鎮められた…!」
研修医「奇蹟だ…。我々は助かるのか?」
クシャナ教授「お前らさっさと心マ!

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風の谷病院のナウシカ部長

研修医「部長様ぁーー!!もうだめじゃーーーー!!!」
研修医「これ以上の徹夜は嫌じゃーーーー!!!!」
研修医「部長様ぁーお元気でーー!!」
ナウシカ「思 考 を 止 め ろ ーーーーーー!!!!
研修医「もうだめじゃーーー!!!」
ナウシカ「みんな、必ず助ける!私を信じて、考えるのを止めなさい!」

マスクを取り、微笑んでみせるナウシカ

研修医「見ろ!部長さまが笑っておられる」
研修医「・・・わしら、助かるんじゃ!!」
ナウシカ「くっ、少し長く休暇を取りすぎた・・・」

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アスベル「すまない、妹を看取ってくれた人を僕はあやうく殺してしまうところだった」
ナウシカ「いいのよ、仕事さえ続けてくれれば。はいこれ」
アスベル「~~~~~不思議な感じのする薬だねぇ」
ナウシカ「リタリンというの。とっても滋養強壮にいいのよ」
アスベル「感覚はともかく無性に仕事がしたくなってきたよ」
ナウシカ「うふふ」

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おいで…可哀想な研修医(キツネリス)。
そんなにを目を血走らせて…。
大丈夫…平気よ…そう、怖くない…徹夜は怖くないのよ。
もう自宅になんて帰らなくてもいいの。
怯えていたんだね。でも、もう大丈夫。…ね。
ほら、怖くないでしょう?

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「ローテーターは、スタッフが汚したこの病棟をきれいにする為に生まれてきたの。
カルテの毒を取り込んで、きれいなサマリーを残してから、消えて砂になってくんだわ・・・。」

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ミト部長:「姫様無茶だ! このままじゃ研修医が燃え尽きちまうーっ!」
ナウシカ婦長:「次の申し送りまで持てばいい!!」

――――――――――――――――――――――――

アスベル「そうかなぁ、僕にはいつもと同じ病棟にしか見えないけどなぁ」
ナウシカ「急変コールがない。なんだろう、胸がドキドキする」

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ナウシカ「アスベルあなた知ってるのね?教えて!」
医事課のアスベル「妊婦さんに…襲わせるんだ。ここの病院なら、妊娠9ヶ月目でも分娩予約できるって。」
ナウシカ「!!なんて酷い事を…!うちの産科を襲わせたのも貴方たちなの!?」
アスベル「病院経営を守るためなんだよ、わかってくれ」
ナウシカ「その為なら同僚を犠牲にしてもいいというの?貴方たちはマスコミと同じよ!」
アスベル「我々はマスコミとは違う!彼等は医者叩きに使うだけだ!」
ナウシカ「嘘だ!…貴方たちも話を捏造をしたでしょう…?
誰がそれの尻拭いをしていると思っているの…?」
アスベル「じゃあどうしろというのだ!このまま社会保険局の言いなりになれというのか!」
ナウシカ「違う、違うッ!」

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ナウシカ「綺麗な制度と患者では、訴訟は出ないとわかったの。  
             汚れているのは司法なんです。何故こんなことに…」  
ユパ病院長「そなた、それを一人で…」  
ナウシカ「病院長や皆の鬱を治したくて。でも、もう止めます。さっき辞表を出したから。  
              いい条件のお話をいただいたんです」

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爺婆

「あんたらは話を作る…そりゃあわしらもちっとは誤魔化すがの」
「多すぎる報道は何も産みやせん」
「あの書かれかたを見たら姫様悲しむじゃろうのう…」

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「ババさま(婦長)!有給が!」
「いいんじゃよ、あんな物に頼って生き延びてなんになろう・・」

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「大ババさま(総婦長)、雇用契約変更するの?」
「定めならね」

――――――――――――――――――――――――

医者叩きが始まってより10年。
病院は幾たびも、関係を改善しようと試みてきた。
じゃが、その度にマスコミの群れが大群となって押し寄せ
病院を飲み込み、自らの使命が果たすまで、怒鳴り続けた。
やがて、記者の骸を苗床にし、弁護士が根回しをし、強大な賠償金が
闇へ没したのじゃ。産科に手を出してはならぬ。

――――――――――――――――――――――――

研修医「あんたも婦長さんだろうが…わしらの部長と随分違うの」
研修医「この白衣を見てくだされ…もう1ヶ月も洗っていない…
放置して15分もすりゃ石みてぇに固まっちまう」
研修医「わし等の部長はこの白衣を好きじゃと言って下さる」
研修医「働き者の綺麗な白衣だと言ってくださりましたわい」

ナウシカ部長:「風呂入れ

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(高齢者の退院のムンテラ中に)
研修医「婆様(婦長)、耳が痛いわ」
婦長「大気が怒りに満ちておる」

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研修医「う…うわぁだめだこりゃ!!」
研修医「産婦人科死んじゃった…」
婆様「そのほうがいいのじゃよ。マスコミの怒りは大地の怒りじゃ。がんばって生き延びてなんになる」

――――――――――――――――――――――――

国立病院機構「貴様、それ以上赤字を出すと許さんぞ!」  
婆様部長「おや?どうするんじゃ?…ワシも解雇するのか!?
            …っするがいいっ。 ただの医者さ!かーんたんなものだよ!
           小児科を解雇したようにねぇ…」  
他の医師「ざわざわ…なんだって!?小児科を!?あの科は医局の方針で!」  
医事課「座らせろ!赤字を出すやつは容赦するな!」  
ナウシカ「みんな待って!私の話を聞いて…これ以上犠牲者を出したくないの。  
            医事課の人達に従いましょう……」  
医師等「うっ…うう…うううっ…」

――――――――――――――――――――――――

天空の行政官シータ

シータ:「あたし、保険局長からたくさんの告示を受け継いだわ。
          …絶対出しちゃいけない告示もあるの。」  
パズー:「出しちゃいけない告示?」  
シータ:「滅びの告示。これを出すと、亀○総合がまた潰れるって。 だから決して出すなって。  
          教わったとき、怖くて眠れなかった… あの告示は出しちゃいけないものだったのよ。   
          だから書類箱の奥に隠してあって、医療制度改革のときも先送りしてきたんだわ。   
          前の局長も、前の前の局長も、みんなそうしてきたんだもの。  
          あんな告示、早く捨ててしまえばよかった! 」

……平成17年度診療報酬改訂。初診料の病院紹介患者加算・診療所紹介患者加算…廃止

――――――――――――――――――――――――

ムスカ「厚○連は滅びぬ。何度でも蘇るさ!おらが村の病院こそが農家の夢だからだ!」  
シータ「これが病院ですって?これは墓標よ、あなたと農○の。  
         医者がいないのに建物だけ美しいなんて滑稽だわ。
         あなたに厚生○は救えない。  
         あなたは、この病院から出ることもできずに○協と死ぬの。

         「今は○生連が何故衰退したのかわたしよくわかる。  
           徳○会の歌にあるもの。  

           地域に根をおろし病院と共に生きよう、   
           病気と共に夜を越え患者と共に朝を歌おう。 

       「どんなに素晴らしい建物で飾っても、可哀相なたくさんの農家を操っても、    
         睡眠なしでは医者だって生きられないのよ!! 」  

ムスカ「ああぁ~、稲が、稲がぁ~!!」

――――――――――――――――――――――――

いつも何度でも(千と千尋のエンディング)

♪呼んでいる 病棟のどこか奥で
いつも背筋凍る PHS を聞く
眠たさは 感じられないけれど
その向こうで きっと検事に会える

繰り返す医者叩きの そのたび 医師は
その青い顔色の 青さを知る
果てしなく 徹夜は続くけれど
この当直は 訴訟で終わる

さよならのときの 静かな外来
ゼロになる利益に 病院傾く
生きていく記者 灰になる医者
産科も小児科も みんなおなじ

呼んでいる 病棟のどこか奥で
いつも何度でも 残業増やそう
徹夜する数を 書き留めるより
同じ指先で 意見書を書こう

閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れられない クレームを聞く
こなごなに砕かれた 胃壁の上にも
新しい潰瘍が 映される

月曜の朝の 静かな医局
ゼロになる やる気充たされてゆけ
最適な解は もう探さない
何をしても いつも病院が
不可避の責任を 取らさるから

 ララランランラランラーーーランランララン
 ララララランランララランラララランラララララ
 ホホホホホホホホルンルンルンルフフフフフ
 ルルルルルンルルルーンルルルー 

                                                    ちょっとブラックになりました。。。。

nausica.jpg

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2006年11月16日

理解と信仰

オカルトというのは、現象の理解に科学を用いるのではなくて、非科学を用いる体系のこと。

その目的は、怪しげな魔術とか、神話の盲信ではなくて、あくまでも現象の理解。

ここを間違えると、おかしな方向に突っ走る。

信仰も理解の手段

オカルトも科学も同じ。

術者のやったことが無効なら、その行為に意味はないと判断されるのは、科学と同じ。 失敗した術者は立場を失うから、その失敗はしばしば「信仰の不足」のせいにされるけれど。

誠実な術者は、常に自分の体系を信じているし、失敗の原因を他人に求めるような真似はしない。

フィリピンの有名な心霊治療師の女性で、あるとき「パワーが出なくなった」から、 斧で自分の手を切り落として しまった人がいる。そうしたら、断端からまた出るようになったとか。

彼女のやったことは狂信から来た行為だけれど、自分の引きおこした神秘を 現象として体験して、それを誰よりも理解していたのも、彼女自身だったのだと思う。

信仰というのは、神様という現象を理解するための手段であって、 誰かに盲信を強要するものではないはず。

宗教を主催する人へ

癌を治すと謳う新興宗教に財産を捧げたあげく、癌が悪くなって入院してくる人がいた。

「信仰していたのになぜ?」と問うても、「あんたの信仰が足りなかったから」と 教団の人からダメ出し。

落ち込んでいた。

同じ信用商売として、これはやっぱりひどいと思う。

同じ効かない言い訳であっても、「私のパワーが不足していた。 まだまだ修行が足りない。一緒に祈ろう。」 とでも言ってくれれば、こちらにも慰めようもあるのだけれど。

真○教のトップの人は、ぜひとも一度、放射線医学総合研究所の 重粒子線加速器と真っ向勝負をして、自分に向かってくる重粒子を光の力ではね返してみせてほしい。

西洋医学に喧嘩を売る宗教家ならば、やっぱり一度は医学と対決すべき。

最大出力の加速器から飛ばされた炭素原子を、教祖が信仰の力で止めてみせる。

止められた重粒子から放たれる電子は、たぶん教祖の手のひらを青く輝かせるはず。

手からチェレンコフ光を発する者」に対してなら、どんな学者もその前にひれ伏す。

不信心な医者だって、きっと奇蹟の力を信じるよ。

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2006年11月15日

美しい道具

道具の美しさや洗練というのは、その代償に進歩を放棄しないといけないのかもしない。

内視鏡黎明期

今胃カメラを習ってる。

師匠は、もう70近く。NHK「プロジェクトX」に内視鏡の特集があったけれど、 あれに出てくる先生方を素で知っている世代。

昔の胃カメラはひどかったのだそうだ。

形は今の内視鏡に似ていても、ただ先端にカメラがついているだけ。 検査中は、もちろん胃の中がどうなっているのかを見ることはできず、 フィルムを現像してみないと、自分達が何を見たのかすら分からない。

不細工な道具。

昔は、オリンパスの技術者と、現場の医師との会合が定期的にあったそうだ。

  • この使いずらい胃カメラをどうやって現場で使いこなしているのか
  • どこをどう改良すれば、もっと使いやすくなるのか
  • それは技術的に可能なものなのか

連絡を密にとることで道具が進歩し、胃カメラが日本のお家芸になったころ、 実際の映像を目で見ながら検査ができる内視鏡が開発され、現在のCCD 内視鏡へ。

道具は進歩したけれど、もう技術者と医師とが対話を持つ機会は ほとんど無いらしい。

昔の心カテ

昔のカテーテルはまっすぐだった。

患者さんの胸部単純写真を見ながら、「たぶんこんな感じだろう」 とカテをドライヤーであぶって曲げて、それを検査に使う。

非常に使いにくかったのだそうだ。

不細工な、使いにくい道具を使いこなしていく中で、 「このあたりがもっと硬ければ」「ここがもっと柔らかければ」といった要望が いくつも出され、メーカーの方がそれを受けて、カテーテルを改良していった。

一見すると単なる管だけれど、今のカテーテルは、手元から先端に行く間に 材質が変わっている。だいたい3種類から4種類。過去の改良の積み重ね。

研修医を終えて後年のとき、今まで以上に細いカテーテルをメーカーが試作してきた。

内科と小児科が全然別物なように、スケールダウンという行為の先には 全く別の世界が広がる。

最初に作ってきたのは、今までのカテーテルをそのまま細くしたもの。

これは心臓からの血流に負けてしまい、心臓に届かせることすら難しい代物だった。

どうすれば、これが「使いもの」になるのか。

結局役に立ったのが、心臓カテーテル検査を黎明期からやっていた、ベテランの先生方の アドバイス。

最終的に出来上がったのは、今までのカテーテルの延長には全く無いもの。

見た目は全く一緒で、少し細いだけ。でも、シャフトの材質とか、カテの「」の硬さとか、 カテーテルに込められたノウハウは、全く別物。

若手は見てるだけ。

自分達の世代は、すでに出来上がった道具を使う。より上手に使ってみようという、 「洗練」の努力はできても、道具はすでに使いやすく改良されているから、 「使いこなし」の努力はできない。

もっと良くしてよ」とは言えても、「ここを治せばもっと良くなる」という台詞がいえるのは、 不具合だらけの道具を使いこなして改良してきた、ベテランの方々だけだった。

世代は交代しつつあって、たぶん手技なんかも若手のほうが洗練されているのだろうけれど、 道具を改良できる人は、もう少ないかもしれない。

改良されて困ることをけなしていないか?

洗練をきわめた医師は、しばしば道具の進化を疎外する。

道具の進歩が落ち着くと、今度は「いかに上手にそれを使うか」という、 洗練の競争だけが残る。

現場のレッドオーシャン化。

こうなってしまうと、道具がより使いやすく進歩することは、今の場所に安住している 医師にとっては脅威にすらなってしまう。

心音図。

もう誰もやらなくなった検査だけれど、昔はどこの病院にもこの検査をする機械があって、 朝一番に患者の心音図を用意するのが、レジデントの習慣だったりした。学会だってあった。

原始的な心エコーが開発されて、当時の心音図の権威の先生方にこの機械を見せたときには、 「こんなもの必要ない」と一笑に付されたそうだ。

そのうち、何人かの医師は心エコーの可能性に気がついてそちらに移り、最後は 学会が分裂する騒ぎになって、心音図は滅んだ。

うちの県内でも、たぶん大学に1台残っているのが最後。

技術革新は技術者ではなくマーケットが起こすのか

ダブルバルーン内視鏡。

「小腸までのぞける胃カメラ」として最近マスコミに取り上げられているけれど、 アイデア自体は昔からあったもの。

単に、みんな「必要ない」と思ったから、作らなかっただけ(追記:実際のところ、 「小腸を見たい」と言う欲求自体が普段の臨床でほとんどありません。小腸内視鏡は、 べつに消化器の先生の怠慢から作られなかったんじゃなくて、単純に需要が少なかったから 作られなかったといったほうが正しいです)。

この「必要ない」という感覚というのが、すでに進歩に対して抵抗勢力化している医師の陥る罠 なのだろうけれど、この内視鏡を実際見ても、あっけないほど簡単な構造をしていて、 正直あんまり「かっこいい」道具には見えない。

内視鏡の分野で、「洗練」の競争が一番激しいのが、大腸内視鏡の世界。

いわゆる「胃カメラ」は、道具が良くなって本当に誰でも出来る検査になったけれど、 大腸を観察するのはあいかわらず難しい。

術者ごとの「腕」の差がもろに出て、上手な術者とそうで無い人、検査時間からして全然ちがう。

本当は、「もっと挿入しやすい大腸内視鏡がほしい」という要望が現場から出たって不思議は 無いのだけれど、そういう声は無い。

今内視鏡を習っている師匠にいわせると、ダブルバルーン内視鏡の技術を使うと、 たぶん大腸内視鏡は相当簡単になる(もの自体はある)だろうけれど、 たぶんそれが現場で広まることは 無いだろう…と。

大腸カメラの挿入法というのは、大学ごと、 あるいは術者の「流派」ごとに洗練された作法みたいなものが もう出来上がっていて、それを修行することで、医師は大腸カメラを扱えるようになる。

大腸カメラは「プロのためのツール」としてすでに完成しているから、 「あえてそれを使おうという術者は、たぶん出てこないでしょう」とのこと。

ダブルバルーン内視鏡は、見た目は不恰好だけれど、もしかしたら 「研修医でも使える大腸カメラ」となる可能性がある。

ところが、そんなものには「マーケット」たる医療現場からの需要がないから、進歩がおきない。

もしも近い将来、何かのきっかけで「大腸カメラブーム」なんていうものが おきて、日本中でカメラが3ヶ月待ちなんていう事態になれば、 あるいは道具の進歩が進むのかもしれない。

ドリルを買いにきた客が本当に欲しいのは、ドリルじゃなくて「穴」

使い古された有名な言葉。

現状に満足している自分というのは、「ドリルの使いかた」には 習熟したけれど、その一方で「穴を開けてどうしたいのか」という欲求を忘れてしまって、 何かを使いこなしたり、改良したりする目を曇らせてしまっているのかもしれない。

臨床の現場には、きっとまだまだ「穴」に対する需要が落ちているはず。

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2006年11月14日

社会の自然治癒力

万象すべからく数理上に在り

正しい理論を重ねた先には、正しい結果が待っている。

「打ち上げの全ては方程式で導き出せる」
「飛ばなくなる要素を付け加えない限り、絶対に成功する」

漫画「なつのロケット」で、液体燃料ロケットを選択した主人公達は、こんな宣言をした。

これは従来からの科学理論。

物理化学や数学、工学やコンピューター科学あたりまでは、たぶん科学というのは 決定論的な性格を持つ。正しいことをやれば正しい結果にたどりつくし、 間違った要素が入れば、失敗する。

医学も一応科学。でも、「正しい結果」にたどりつくための道筋は、他の分野とは大分異なる。

  • 正しいことを積み重ねても、それが正しい結果にたどりつくとは限らない
  • 適当にやっても、案外正しい結果になることが多い
  • 結果は「だいたいこのあたり」という範囲に落ち着くところまでは読めても、「ここ」 という正確な場所までは分からない

時間軸の問題も大事。

短期的に最善な結果を出せる治療は、しばしば長期的には悪い結果を生んだりする。

極端な話、予防医学をいくら一生懸命行ったところで、人はいつか死ぬ。 だから、予防に力を入れる態度は、総医療費の抑制には全くつながらない。

予測不可能性。拡散散逸系。ストレンジアトラクタ。

複雑系科学のこうしたバズワードは、病院で仕事をしていると、 けっこうリアルに実感できたりする。

「正しい結果」に至る道筋

だいたい問題なんてひとつで終わる人のほうが少ないから、 プランはいくつも候補が上がる。

患者さんを診察して、解決しなくてはならない問題点を洗い出して。

一つの臓器の問題を解決するための手段は、大きく「松竹梅」の3コース。

  • 「松」コースは、その臓器の問題解決に全力をあげて、他の臓器への負担を容認する
  • 「竹」コースは、全身に負担をかけない範囲で、問題解決の方法を探る
  • 「梅」コースは、とりあえず患者さんが死なないように、その問題を先送りする

何とかしないといけない問題が2つあったとして、考えられる「プラン」というのは、 3×3で9とおり。

「松-松」とか「梅-梅」プランなんていうのはありえないから、 実際に使えるプランは、9のうち5つぐらい。

他の科学分野だと、「正解」は一つなんだけれど、医学の分野は逆。

プランが5つあったとして、そのうち4つは、だいたい「正解」にたどりつける。 それぞれのプランには患者さんとの相性みたいなものがあって、たいていどれか一つは全然ダメ。

どのプランが駄目なのかは人によってバラバラ。考えても無駄だから、候補の中から 適当に選択して、無理そうならばさっさと別のプランに変える。

距離が変われば、最適なプランもどんどん変わる。目標が遠いときには理想的だったプランも、 目標が目の前に迫ってくると、どうも上手く行かなかったりする。最後は現物あわせ。

お祈りの必要なとき

正解にいたる道筋が思いつくまでの時間というのは、ごく短時間。 考えつくと言うよりは思い出す作業だから、そんなに頭は使わない。

「正解」というのが治癒でなくて、どこか専門機関に紹介するとか、他の先生に問題を押し付けるとか、 そういう後ろ向きな解答に至ることも含めて、「自分にできることとそうでないこと」それさえ 把握できていれば、そんなに迷わない。

怖いのが、「プラン」が全く浮かばないとき。

自分の頭の調子が悪かったり、何か必要なデータが欠けていたり。 こんなときには、一度仕切りなおして、自分が信仰する「確率論の神様」に 祈りを捧げてから、もう一度ベッドサイドへ。

医療の分野では、「生データ」は本当に生きている人だから、 やっぱりそれに当たるのが確実。こんなときばかりは、生化学検査の数字とか、 画像診断をいくらながめていても、あんまり上手く行かない。

自然治癒力というやっかいなもの

厳密な化学の分野と、あいまいな医学とを分けている原動力になっているのが、 「生体は自然治癒する」という要素。

正しい手術さえできれば正しく患者が治る、医療の分野では比較的厳密な、 「外科」においても、その治療というのは組織を切除して、適当に縫いあわせてくるだけ。

細かい隙間は残るし、糸なんかも放置したままだけれど、生体はそうした隙間を勝手に埋めて、 異物を受け入れて、「新しいバランス」を見つけて、そこで落ち着く。

6気筒の乗用車のエンジンを、「ノミと金槌」で2気筒削って安静にしておいたら、 いつのまにか排気系が順応して、「4気筒の乗用車」として落ち着いた。

自動車工学なんかではありえない現象は、医学ではあたりまえ。

自然治癒力は本当に便利なんだけれど、これがあるからこそ結果が読めず、 最後の「詰め」が失敗することもしばしば。自己免疫疾患とか、喘息の人なんかは、 この力こそが敵だったりするし。

「波動理論」とか全然信じる気はないのだけれど、生体には「周期」みたいなものがある。

原発巣の切除後に転移巣が急に大きくなる、俗に「癌が怒った」という表現は 全国区のスラングだし、上手な、あるいは「引きの強い」医師というのはやっぱりいて、 見た目に同じ事をしているし、それを本人も認めているのに、何故かその人が処方した 薬というのは治癒率が良かったり。

オカルト8割だけれど、たぶんやっぱり「何か」あるんだと思う。

ここから先は妄想。

自然治癒力というのは非常に勤勉に見えるけれど、たぶん案外「飽きっぽい」。

細菌感染にしても、人工血管なんかの異物にしても、何とか体を維持して一定期間が過ぎると、 生体はそれをむしろ受け入れるような振舞いをする。

実際問題、ある種の疾患の「治療」というのは単なる対象療法でしかないのに、 たしかに患者さんは退院にまでこぎつける。それは自然治癒力のおかげともいえるけれど、 むしろ「自然治癒力が自分をいじめるのに飽きた」から退院できたともいえる。

「分からないときには現状維持」というのは内科の鉄則。

「分からなさ」の原因になっているのは たいていはこの自然治癒力だから、そいつが飽きると、やっと問題解決の道筋が見えてきたりすることもある。

社会はどちらに近いのか

医療崩壊の話。

理論的には、もう医療崩壊への道筋というのは「明らか」で、マスコミも、専門の先生方の Weblog でも、「崩壊以後」の話題が取り上げられていたり。

状況はたしかにどんどん悪くなっていて、世の中明らかに間違った方向に突っ走っていて。

でも、本当に滅ぶんだろうか?

たとえば、自動車のエンジンの中にネジを1本忘れてきたら、たぶんその車はすぐに壊れる。

ネジはピストンの内面を傷つけたり、歯車の間に挟まったりして、エンジン全体を破壊してしまう。

ところが、同じ「ネジ1本」を、人体の中に落としてきても、案外大丈夫。

骨折はネジ止めするし、腹腔内に落ちたネジだって、異物反応の末に線維芽細胞が被覆して、 たぶんそのまま。感染さえおこさなければ、たぶん大丈夫。

打たれようが、刺されようが、とりあえずの「止血」さえできて、急性期を乗り越えられれば、 生体は丈夫。場当たり的な、その場限りの治療を重ねさえすれば、勝手に「治癒」が見えてくる。

自動車と人体。

「社会」、あるいは医療という大きな物体は、どちらに近いのか。

医療崩壊の話題というのはもうずいぶん前から言われていて、 以前はうちも「日本の医療はもう駄目だ」とさんざん煽ったけれど、 今でも何とかなっている。

2ちゃんねるの医療崩壊スレッドも、以前よく見かけたハンドルネームの先生方は少なくなった。

病院を移ったとか、大学院を卒業したとか、理由はきっといろいろあるのだろうけれど、 「飽きた」というのもきっと大きな理由。

状況はたしかに悪くなった。

ちょっと前まではそんなに忙しくなかったのに、今では常時30人持ち。 病棟の充填率は90%を割ることは少なくなり、土日も無いも同然の週、しばしば。

先週末から今週にかけて、けっこう大変だった。

それでもけっこう何とかなってる。使命感だとか、名誉だとか、そんなんじゃなしに、 単に仕事として、「こんなもんだ」という気分で淡々と。

自分の意思をネットで表明する人なんて本当にわずかな割合だから、 「サイレントマジョリティーの意見を考慮すれば」、もっと忙しくなってもそのまんまな人、 本当はものすごく多いんじゃないだろうか。

実際のところ、産科や小児科をはじめとした医療制度は明らかに崩壊しかかっていて、 みんなのやる気が地に落ちていたり、何よりも後継者がもう育っていなかったり、問題山積み。

医療という制度が工業製品に近いものならば、とっくに崩壊していてもおかしくないレベル。

でも、「社会」に対する「絆創膏」の効果というものもまた、 たぶん人体以上に強力。

全ては絆創膏の導くまま

絆創膏というのは、本当に場当たり的な、表面だけ取り繕う治療手段。根本的な解決には程遠い。

それでも、絆創膏でベタベタに表面を固めてしまえば、形だけは取り繕える。 医療制度の「自然治癒力」の担い手たる医師は、そのうち「飽きて」、 きっとその形の中で、淡々と中身を治す。そんな気がする。

制度は変化したり、あるいは崩壊していったりするのだろうけれど、その速度はきっと穏やか。

「穏やか」という言葉もまた、時間軸をどう取るかで受け取られかたが全くちがう、卑怯な言葉。

劇的な崩壊が生じる可能性ももちろんあるのだろうけれど、 そこは「人体にはアナフィラキシーがある」 と逃げておく。

怖いのは、厚生省が「絆創膏」に飽きたらず、「注射」を使って医療制度を根本的に改めようとしたとき。

絆創膏を何百枚張ったって「かぶれる」だけだけれど、注射は別。 蜂に刺されたって、人間は運が悪ければ本当に死んじゃう。

制度の抜本的な改革というのは効果よりもリスクのほうが高い。

たぶん、正解は場当たり的な局所の対策の 積み重ねのその先、絆創膏でベタベタに固めただけの、 汚らしく仕上がった、古臭くて不細工な制度の継続。

「エレガントな解法一発で完治」というのは気分がいいけれど、 「人体」に適用するのにはどこか無理があって、 どうしても「汚く」アレンジすることが欠かせない。

最後はきっと、厚生省の人達が、自分達が築いてきた医療制度と、 その「自然治癒力」をどこまで信じきれるかどうか。

何とかなるんじゃないか。

最近はバカみたいに信じてる。

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2006年11月 7日

鎮火のための爆破メソッド

原油火災を消火するには

イラクがクウェートに侵攻したあと、撤退したイラク軍は、油田に火をつけた。

燃料の上におきた火事。こうなると、水を撒いたって消えない。

こうした火災を消すのには、爆薬を使う。

炎上している原油井戸の周囲に爆薬を置いて、炎ごと爆破する。

爆発の瞬間、燃料と酸素と、両方の供給が一瞬途絶えるから火は消える。 そのタイミングを見計らって、井戸のバルブを閉鎖すると、消火できるのだという。

炎を維持するのは、意外に難しい。

  • 燃料や酸素の供給が少なすぎれば、火は消える
  • 燃焼速度が上がりすぎたり、酸素の供給が過剰になったりすれば、炎は「爆発」して、燃焼を維持できない

炎を維持するには、燃料の供給や燃焼速度を、一定の範囲内に保ちつづけないといけない。

「爆発」鎮火する掲示板

ずいぶん前、2ちゃんねるにペット大嫌い板、通称「動物虐待板」という掲示板があって、 動物虐待を肯定する「黒ムツ(黒いムツゴロウさん)」さんたちが、「愛誤(動物愛護)」の人達と、 24時間ぶっ通しで罵倒合戦を続けていた。

「臨界」の範囲なら、燃焼温度は高ければ高いほど面白い。

動物虐待板は、人間の悪意だけでディベート合戦を楽しむ場所で、 「ネタをネタとして」楽しむ空気。

状況が変わってしまったのは、本当に「猫殺し」をする人が出てくるようになってから。

逮捕者が出る前からいくつか出回っていたけれど、あれで一気に熱が冷めた。

「黒ムツ」だって、みんな「黒じゃない」と分かっていたからこそめちゃくちゃなことが言えたし、 掲示板もいい感じに炎上を続けた。

ところが、「黒ムツ」の中に「本物の黒」が一人でも入ってしまうと、 あとはみんな同類扱い。

本当の「黒」になんか誰もなりたくなかったから、あの掲示板からは一気に人が減ってしまって、 当時の雰囲気なんてほとんど残っていない。

グロ画像掲示板。あれも「世の中には殺人現場をおさめた動画があるらしい」という都市伝説があって、 あたかも「ツチノコ探し」みたいなノリで、「俺見たことある」とか、 「ロシアのサイトに公開されたらしい」とか、そんな楽しみかたをするところだった。

戦争が起きて、生きてる人の首を切られる動画が当たり前のように全世界に発信されて、 もうグロ画像なんて珍しくも何ともなくなってしまって、みんなの熱は冷めた。

Dan's Gallery of Grotesque やFreak Show Case、Ogrish やGoregasm 。 海外のグロ画像サイトのフォーラムで、 海を越えた同業者同士の活発な討論会が行われたりしたのも、今は昔の話。

掲示板鎮火のための爆破メソッド

炎上したblog や掲示板の鎮火は難しい。

「無視する」のは最上の方法の一つだけれど、後に残るのは焼け野原。 どうしたってダメージは残るし、そこから何事もなかったように再生できる人は限られる。

水をかけるのは最悪。炎上の勢いが強くなると、筆者側がかける「水」すらも燃料になってしまう。

「炎上」を維持するためには、炎上に参加するみんなの罪の意識が、 ある一定の「グレーゾーン」に保たれていることが必要。

本物の炎と、原理は一緒。炎を消すには、燃焼温度を炎が維持できないぐらいに下げてしまうか、 燃焼速度を上げて、「爆発」にもっていってしまうか、どちらか。

炎上に参加する「みんな」は、グレーの範囲で限りなく「黒」に近い発言をしようとして競い合う。 鎮火をしようと思ったら、この温度を一気に上げて、 みんなを「黒認定」してしまうのがひとつの方法になる。

  • 掲示板が誰かの中傷などで盛り上がったら、筆者自らが自分を罵倒する競争に参加して、 「みんな」が引いてしまうようなひどいことを積極的に書き込む。 祭の場に「こいつと同類扱いされたくない」という空気が流れたら、自然に鎮火していく
  • 医師のWeblog での主張に反対意見が殺到したときなどは、相手を論破しようとする代わりに、 話題を筆者の人格否定とか、下衆な中傷発言などに持っていく。医師なんてみんなお上品だから、 流れが下品になれば、みんな去っていく
  • 集団の中で誰かを保護しようと思ったら、その場の制空権(空気の流れを作る権利)を持っている人が、保護したい誰かに関するひどい陰口の口火を切る。それが十分に「ひどい」話なら、 誰もそれ以下にはなりたくないから、自然にみんな口を閉じる

実績はある。「上手くいった」という伝聞いくつか。自分でやったこと、何回か。

誰かの悪口とか、「炎上」というのは一種のチキンレースで、 「グレー」が「黒」に変わる境界、その境界にもっとも近づいた者が、 その場の空気を決める。

残念ながら、罵倒される側が「白」の立場に固執していては、 いつまでたっても制空権が取れないから、 炎上はいつまでたっても止まらない。

制空権を取るというのは、その場の「悪意の引き受け手」になること。

匿名世界でそれをやるのは簡単だけれど、実世界では相当に難しい。 「公平」ルールが蔓延して、弱者の権利なんていうものが強い昨今、 それはますます困難になっている。

絶対的な悪人、あるいは権力者がいて、それに対する反発でみんなまとまって、 その「悪」を何とかするというのが昔の学園ドラマの基本だったけれど、 今の公立学校にそんな「悪」が君臨したところで、朝日新聞への投書一発で即死。

みんなそれが怖いから、「悪意の引き受け手」なんかになれず、燃焼速度がいつまでも 臨界以下にしかならないから、一度火のついた「いじめの炎」を止める術がない。

やっぱり「みんな公平」という概念は、発明としては今一つないんじゃないかと思う昨今。

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2006年11月 6日

夢見る企画屋

えらい人の思い出

ずいぶん前、東北に飛ばされていたときに、大手銀行の会長さんを診察したことがある。

田舎の一人当直。

50も半ばを越えたようなお供の人を3人ほども従えた、ずいぶん立派なおじいさんだった。

高齢でもあり、一応入院を勧めたのだけれど、断られた。

「車であと1時間も行けば、「私の造った病院」があるから、入院が必要なら、そこでする。」
「そこなら、私の名前でいつでも入院できるから、絶対大丈夫。」

病院の表玄関には、貫禄のある大きな車。病人を運ぶには十分だったけれど、そこは病人。

「ああそうですか」と返すわけにもいかず、まずは当直医同士で連絡をとりあうことに。

ところが相手が電話に出ない。

いろいろ聞いてみると、「私の造った病院」というのは、 ずいぶん前に開業した都市部の診療所で、その人が開業するとき、 銀行がお金を貸したらしい。

「あの院長は、私の話なら必ず従うから」

あれこれと電話を続けていたみたいだけれど、結局その人はつかまらずじまい。 「あの院長」に毒づきながら、しぶしぶ入院に同意してくれた。

「お金持ちって、時々かっこ悪いな」

社会的にも、経済的にも、自分なんかとは比べ物にならないぐらい「上」の患者さんだったけれど、 そんなことを思った。

愛犬団体の話

捨て犬保護団体の代表の会長さんが、最近迷走しているらしい。

広島で大規模な捨て犬騒動があって、その団体の活動が、マスコミに広く報道されて。

寄付が相当集まったのだそうだ。

寄付金で犬は保護され、近隣のボランティアの家へ。

事件の発端となった場所からは犬がいなくなり、めでたしめでたし…になるはずだったのが、 最近になって、その会長さんから「犬を返却するように」との命令。 「なぜ今になって?」と尋ねても、理由を教えてくれないとか。

どうも、マスコミ報道の第2波がきて、捨てられた犬が大量に集められている「絵」が欲しくなったらしい。

犬の本拠地は広島。

今度は、その犬の引き取り手を探しに、犬ごと東京→青森→北海道へとキャラバンをする計画が持ち上がった。

  • なんでそんなことを?
  • 犬の安全管理は?
  • 移動手段の手配は?

ボランティアの人達からの疑問が上がる中、キャラバンの開催日だけが決定され、 指摘された問題点への返答は無し。

会計報告もグダグダ。団体崩壊寸前。

この会長さんの「夢」というのは、愛犬保護団体の活動を続けていって、捨て犬のための シェルターを造ることだったのだそうだ。

  • 当面の目標は、広島の犬の救出
  • 将来の目標は、お金を集めてシェルターを造ること

活動が報道されて、予想以上に寄付金が集まって。

もしかしたら、将来の目標が予想以上に近くに見えて、 今やらないといけないことが、見えにくくなったのかもしれない。

行き当たりばったりのかっこ悪さ

  • 銀行の会長は、何年も前に終わった成果、それも個人のお金でなくて、銀行のお金で成し遂げたものを、 「私の病院」とこだわりつづけて、見知らぬ病院でドツボにはまった
  • 愛犬家団体の会長さんは、ちょうど寄付金が集まった頃から計画が迷走して、その過程を 誰にも公開しようとしなかったから、仲間からの信頼を失った

どちらの人も、なんだか「行き当たりばったり」で、かっこ悪かった。

銀行家の人。何年も前の話を蒸し返す前に、たぶん他の選択肢はいくらでもあったはず。 頼りなく見えたかもしれないけれど、目の前には病院の専門家もいたわけで。

「年寄りには君じゃ不安だからさ、どこかもう少しいい病院、紹介してくれないかな?」

こう言ってくれれば済んだ話。もっと「いい病院」を探して、救急車の移動を手配したら終わり。 そのときはこちらの腹も立つだろうけれど、意思表示がはっきりしている人の応対は、非常に簡単。。

愛犬家の会長。なにか腹づもりがあるならば、それをさっさと公開したってよかったのだと思う。 あるいは、全面的にマスコミに乗っかって、もっと大規模にお金を引っ張って、 一石二鳥を狙うとか。

「行き当たりばったり」には2種類ある。

  • 悪いやりかたは、遠い夢だけあって、そこにたどりつく道筋が見えない。 道がないからフラフラするし、不確定要素が入ると、余計に迷う
  • いいやりかたは、確実な道筋を歩くことを考えていて、不確定要素が入ると、 それを含んだ新しい道筋をすぐ考える。大事なのは「確実な道筋」だから、 時として目標は変更される

過去の夢にこだわって迷走するのは、単なる迷惑。

計画がコロコロ変わっても、その変遷の中に「計画」が見えれば、その企画に乗っかる人は 必ず残るし、きっと新しい仲間も増える。

企画力のかっこ良さ

学園祭実行委員会の頃。

どこの大学にも「アイドル担当」という世襲制の仕事があって、これは歴代の体育会キャプテンの仕事。

たまに「今年の学園祭はお笑いタレントを呼ぼうか?」なんて 話が出ても、「○○先輩の目の黒いうちは、アイドルを呼ぶのは本学の規定事項だ」と会議の席で 机を叩かれる。

アイドル担当の仕事というのは、ステージ企画一般。最初にやるのが、マネージャーさんとの交渉。

お金のない大学だったから、まだ売れていないアイドルを「目効き」してくるのがアイドル担当の 重要な職務。先輩方がかつて、本当に「大物」を当ててしまったときがあった。

マネージャー:うちの○○は、今だと2000人以上集まりますから、警備の人間を最低20人はそろえて下さい。
アイドル係:この地域の田舎度を考えれば、集まるのはせいぜい数百人単位だと思います。いずれにしても、 ステージの位置を図書館前に変更して、空間を空けます

こんなやりとりがあったらしい。ふたを開けてみれば、アイドル担当の先輩の読みどおりだったとか。

両方ともプロ。アイドルの人気がどうとか、何を歌うかとかじゃなくて、 どうやったら安全なステージが運営できるのか。そのために必要なのは、アイドルの資質とか、 人気とかではなくて、「どれだけの人数が集まるのか」の読み、その一点。

人数さえ決まれば、あとはそこから計算が進む。どのぐらいのステージを用意して、 PA はどの程度の規模にすればいいのか。そんな規模のステージを安全に運営するには、 何人の人間を集める必要があるのか。

相手のマネージャーさんは、誰でも知っているようなアイドルを抱える事務所の人だし、 こちらはいくら20年近い世襲の伝統があるとはいえ、大学3年生の学園祭実行委員。

立場は全然違うけれど、お互いの企画力、 計画力を信じた会話というのは、なんだかかっこ良かった。

夢と企画は両立するのか?

捨て犬保護団体の話の続き。

東京→青森→北海道へと犬のキャラバンをする計画を出したのは、どこかの学生さんなのだそうだ。

企画が出たときから、反対意見続出。

対案も、たくさん出たらしい。

  • 関西圏で犬を連れ回せば、安全なんじゃないか?
  • 広島の犬でなくても、東京にも青森にも捨て犬はたくさんいるんだから、同じ団体の主旨で、 捨て犬の引き取り会を開けば、同じ結果になるんじゃないか?

完全に部外者の邪推なのだけれど、こうした「現実的な」提案というのは、 たぶん主催者の「夢」を汚すものとしか受け取られないんじゃないかと思う。

過去にそういう経験、何回か。

中学校以降、学園祭委員会一筋だったから、「○○人規模の祭を開きたい」 と言われれば、まずこんなことが思いつく。

「模造紙○枚、ガムテープ○巻、テント○張り、パイプ椅子を最低○脚レンタルして…」。

こういう計算、相当得意。

「相談に乗ってください」と言われれば何でもくちばしを突っ込んだけれど、 なぜか「この祭の意義は…」とか、「目標は…」とか、企画屋からみると「どうでもいいこと」にこだわる人、 けっこう多くて、どうでもよさそうな顔をしていると、なんだか空気が悪くなってくる。

手を抜いてもかまわないところで手を抜けなくてドツボにはまる「誠意ある医師」とか、 「患者さんのため」に家族を地獄行きにする「誠実な先生」なんかを見ていて、 自分からはそうした立場に違和感を覚えたり、相手方からは「お前もっとまじめにやれ」と怒られたり。

目標と計画。夢と現実。

なんだかいつも宗教戦争。

分かりあえない対立概念なのか、それとも単純に慣れの問題なのか?

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2006年11月 4日

「みんなの声」実装イメージ

概要

Weblog 時代になっても、ユーザーの多くは沈黙し、発信者は「沈黙のオーディエンス」の罠から 逃れることが難しい。

コメント欄、掲示板といった文字メディアの敷居の高さを補間する、筆者-読者間のコミュニケーション メディア、その実装方法を提案する。

はじめに

blog 時代になり、筆者-読者のコミュニケーションはより容易になったが、 Wiki をはじめとする多くのオンラインシステムでは、ユーザの90% は読むだけで行動しない。 9%は、ほんの少し書き込みをする。 目だったアクションのほとんどは、残る1%のユーザによってもたらされるという。

全読者の90%は、何か意見を持っていても、それを筆者側に発信することはない。

「ネット上の意見」というものが、読者の全ての意識の総和を反映しているものなのかどうか は誰にも分からない。掲示板やコメント欄といった、従来のテキストメディア だけでは、「サイレントマジョリティーの声」を集める手段としては不十分。

提案

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図のように、各エントリー上に3つのボタンを配置する。

それぞれのボタンをクリックすることで、blog は以下の3つのモードに変化する。

pres2.jpg

  • 標準モード:従来どおりのエントリーの閲覧、コピー、リンクのクリックが可能なモード
  • 編集モード:マウスを左クリックしながらドラッグすることで、エントリー中に自由に線を引くことができるモード。 編集モード中は、コピーやクリックといった動作はできない
  • 集合知モード:読者は、今までに他の人が引いた「線」を全て閲覧することが可能

「集合知」モードで描かれた線は、人の数に逆比例して薄くなる。読者一人当たりの「線」の濃度は、 10人描いたら1/10、100人描いたら1/100になるので、みんなが一致して線を引いた場所だけが 濃く残り、他の場所はノイズになって消えていってしまう。

  • 多様性
  • 独立性
  • 分散性
  • 集約システム

これら「集団の叡智」成立に必要な条件は、「集合知」モードには最初からそろっている。

「線」の使いかた

pres3.jpg

  • 線を引く:重要と思った場所に下線を引く
  • 印をつける:印象深い個所、あるいは段落などに印を描く
  • 囲む:重要な個所、興味を持った場所を線で囲む
  • 落書き:悪口を書いたり、エントリー自体をグシャグシャに荒らしたりすることも可能

固定したルールは、一切提案しない。

読者は各々の「属性」や、掲示板の「空気」を意識することなく、勝手に線を引くことができる。

文字や絵を書きこむこともできるかもしれないが、マウスだけでやるのは難しいかもしれない。

利用目的

pres4.jpg

  • アンケート:箇条書きにしたり、複数の結論や予測を書いたエントリーには、読者の興味のより強いほうに「線」が集中する。
  • 筆者-読者間のずれの可視化:筆者が興味を持った結論と、エントリー内に「線」が集中する個所が異なっていたとき、 読者が本当に興味を持った話題はなんだったのか、筆者への自然なフィードバックが可能になる
  • 「炎上」の可視化:「炎上」しているエントリーは、コメント欄の荒れ具合を読まないとその「炎上ぶり」がわからないが、 「線」の集合を見ることで、より直感的に炎上の空気を共有できる

こういった健全な(?)使いかたよりも、たぶんいろんないたずらを考える人がきっと出てくる。

  • 「大変よくできました」「がんばりましょう」みたいなハンコを作る人
  • 「お願い私を消さないで!!」みたいな吹き出しをつけた萌え絵を描く人

そういった愉快犯的なメソッドを考える余地があると、きっと盛り上がると思う。

やりたいこと

  • 不均衡の是正。本当の「みんなの意見」というものを見てみたい
  • 筆者-読者でのコミュニケーションをより緊密にはかりたい
  • 読者の意思をより効率的に吸収することで、発信するモチベーションの維持をしたい
  • テキスト以外の新しいコミュニケーションを提供することで、たとえばみんなで絵を完成させるような、 新しいWEB 文化を作ってみたい

普通の使いかた以外にもたとえばこんなことができるかも。

  • 中川秀直自民党政調会長のblog で ⊂二二二( ^ω^)二⊃ ブーン を完成させるオフ

みんなで少しずつ「線」を描いていって、硬いページにふざけた絵を書き逃げするみたいなイメージ。

あとは、誰か嫌いな奴のblog 上で、線を使って勝手に交換日記をはじめてみるとか。

やりたくないこと

  • 線の太さや色の指定機能は実装しない。機能が増えれば増えるほど、参入する人の数は減る
  • 線の削除機能は実装しない。書きこむ人の数に応じて「線」の濃度は薄くはなるが、 筆者側から特定の線を消す機能は実装しないほうが面白い

できることなら、なるべくシンプルな実装を。問題も多いかもしれないけれど、 シンプルなほうが、きっといろいろな「使いこなし」を提案する人が出てきて面白い。

実装案

  • 現状のシステムのプラグイン、あるいは既存のサービスに競合する、新しいblog サービスとして実装
  • 読者が「編集モード」を選択した時、その線の情報がサーバー側に送られる
  • 読者が「編集モード」から離脱したとき、その情報は、他の人の「線」と加算平均されて、 「集合知モード」で閲覧可能な線の集合として保存される
  • 読者個人が引いた「線」の情報は、クッキーの形でローカル側に保存してもらう
  • たとえば10人の人が線を引いた後、11人目として線を引いた場合、その人の線は1/11の濃度で「集合知」に加わる。 残り10人の線の濃度は10/11になり、11人目の線と加算される

荒らし対策として、たとえば「線」の長さに比例して、 「集合知モード」で反映される線の濃度は薄くなるとか、 何か条件をつけたほうがいいかもしれない。

大手サイトで、一度に100人が線を引いたりしたらどうなるのか分からないけれど、 そこはプログラマの人が適当にすごい魔法を使って、何とかがんばる。

サーバーサイドに保存されるのは、各エントリーごとに1枚の画像だけだから、 情報量としては、そんなにすごいことにはならないはず。

ビジネスモデル

blog サービスがどこからお金を取っているのかはよく知らないけれど、 こうしたサービスを実装してやると、たぶん筆者側の更新意欲も多少上がり、 また「集合知」が見たくてリロードを繰り返す読者の数も増える。

結果として、そのサービスの総PV数は、既存のサービスよりも増えるはず。

「線」に参加したいならば、サービス側から何らかのプログラムをダウンロードするのが 必須になるだろうから、たとえばjword をくっつけるとか、どこかのプロバイダーの ツールバーをくっつけるとかすれば、そこからお金を取れるかもしれない。

絶対やってほしくはないけれど。

アイデア料なんてもちろん請求したりしませんから、誰か作って…。。

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2006年11月 3日

救急当番日

昔いた病院では、一日の外来患者数が1000人越えすると「大入袋」をもらえた。

外来17ブース。1000人を乗り切った17人は、一人当たり300円、病院内の売店で 好きなものを買える。

病院売店も侮れなくて、島の病院なんかに飛ばされていると、 生卵が手に入るのが、毎週木曜日の病院売店だけ だったりして、その日は朝から島民と卵の奪いあいになったり。

昔の話。

救急当番日。

休日なのに、小児科外来30人待ち。

ガキ騒ぎまくり。

発展途上国の保育園みたいな惨状を呈している待合室を横目に、 その中に「病気の子供」なんか一人もいそうにないのに気がついて、 なんだかうっへりとした気持ちになった。

これから病棟。

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2006年11月 2日

「サイレントマジョリティーの声」の実装案

反響をもらえるのはごく一部

いろいろな文章を書いていても、反響をもらえるのは一部。

自分の議論展開というのが、本当に賛同を受けているのか、あるいは単なるトンデモとして 笑われているのか?

今はもう開き直っているけれど、こういうものを書きはじめた頃は怖かった。

掲示板を作って、コメント欄を作って、ブックマークへのリンクをはって。

いろいろな筆者-読者間のコミュニケーションチャンネルを作っても、 実際にそれを利用してくれるのはごく一部。

blog の表ページを見に来てくれる読者の人が、だいたい1日 2000人ぐらい。

実際に反響をもらったり、ブックマークを張ってくれる人というのが、そのうち40人ぐらい。

これでもこの1年ぐらいで、「声」は画期的に多くなった。html を手打ちしていた頃は、 書き込みなんて、年に10件ぐらい。

それが賞賛であれ罵倒であれ、本当にうれしかったものだ。自分と意見の合わない人の コメントを削除する贅沢なんて、それが許されるようになったのは、本当に最近の話。

多くのオンラインシステムでは、ユーザの90% は読むだけ。9%は、ほんの少し書き込みをする。 目立ったアクションのほとんどは、残る1%のユーザによってもたらされるという。

文章を書き込む必要のあるメディアでは、この割合は、たぶんそんなに大きくは変わらない。

もっと大勢の意見を聞くには

blog とソーシャルネットワークの時代。反響をいただける機会は本当に増えて、 個人で何かやるぶんには、もう十分。

問題なのは、政治的な問題とか、医療従事者が何かまとまった態度を示さないといけないような問題、 それこそ僻地医療の問題とか、産科崩壊の問題とか、そういったもの。

様々な立場の専門家の先生方が状況を分析して、確かにコメント欄もにぎわっていて。 ネット上には、たしかに「医療従事者一般としての立場」みたいなものは 出来上がってはいるのだけれど、 それが本当に全員の意見の反映なのかどうか。

今の時点では、誰にも分からない。

「ネット上ではこんな意見が大勢だが、サイレントマジョリティーの意見を総合すると、きっとこうだ」

最近流行の「サイレントマジョリティーメソッド」に正面から対抗するには、 無理やりにでも「もの言わない人々」の意見を聞き出す方法論が必要。

「物言わない」原因

大多数の人が沈黙してしまう理由というのは、たぶんこんなもの。

  • 単に面倒くさい
  • 無名の個人が常連の意見に反対すると、何か仕返しされそうで怖い
  • ネット世界はローカルルールが見えにくいので、「空気読め」と言われるのがいや
  • コメント欄の文脈を外れた意見は言いにくく、総論賛成、各論反対のような立場を書きこめない

文字のような面倒なメディアを使わない、 ルールというものを徹底的に放棄する、個人の属性要素を消して、読者一人一人の立場を 公平に保つ、そんな実装。

実装案

  1. blog のエントリーを読んだ人は、誰でも「文章内に線を引ける」機能を実装する
  2. 線の種類は1種類、マウスを右クリックしながら、面白そうな場所をなぞるだけ
  3. blog には「閲覧モード」「編集モード」「集合知モード」の3つを選択できるようにしておく。 最初の状態は編集モード
  4. 閲覧モードは筆者のエントリーだけが読め、編集モードで線を引き、 集合知モードはみんなが引いた線を全て重ねて見ることができる

ものいわない人の意見を集めるためには、今までの文字文化では無理。

「エントリー内に自由に線を引いてもらう」というやりかたは、 コメント欄の文脈とか、コメントをする人の属性といった ものを表現できない。

重要なところに線を引こうが、印をつけようが、 あるいは同意できないところをグシャグシャに塗りつぶそうが、 それは読者の自由。

「それはルール違反だ」と反論しようにも、ルールなんてなければ、 そもそも反論の方法が用意されていないから、 やられたらやられっぱなし。

その代わり、多くの人がなんとなく線を引くことで、「みんなから逸脱した人」の 行動は、集合知的に是正される。

「集合知モード」でblog のエントリーを見ると、 文章の中にはいくつかの印が固まった「」と、それをつなぐような形で 何本かのが引かれているように見えてくるはず。

この「点」や「線」というのは、筆者の意図した結論とは独立した、「みんな」が重要と思った部分。

たとえ筆者の結論が変わらなくても、この点や線の部分を文章から除いてしまうと、 「みんな」の立場からはその文章は意味を失ってしまう、そんな部分。

「みんな」に対する反論を行うためには、あたらなエントリーを立ちあげるか、あるいは コメント欄で反論するか。いずれにしても、そこにもまた「みんなの線」が引かれるから、 物言わない大勢とのコミュニケーションが成立しうる。

いたずら書きもひどいことになるのだろうけれど、そこは数を重ねて平均することで、ノイズを排除する。

反響の大きなエントリーは落書きだらけでグシャグシャになり、明らかに筆者の意図とは別のところに 「線」や「点」が集まったりする一方で、みんなからの注目を集めないエントリーは、 たとえコメント欄が盛り上がっていたところで、「集合知モード」はきれいなまま。

こんなサービスがあると面白いと思うんだけれど、どんなものだろうか?

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