Home > 10 月, 2006

2006.10.29

医療機器の祭具的側面

奈良県の母体死亡事例。

  • どうして止血剤を使わなかったのか
  • どうしてCT スキャンを撮らなかったのか

医療者側と、患者側、一方が「意味がない」と断じ、もう一方が「絶対そんなことはない」と信じる、 そんな断絶の考察。

魔法使いは杖を持つ

古代ケルト魔術のドイルドをはじめ、魔法使いの多くは杖を持った姿で登場する。

杖は老人が使う道具。年長者の知恵と経験を象徴している。

杖を持つということは、知恵や権威を身にまとうという象徴的な行為だから、科学的には意味がない。

それでも、この状態でかけた魔術は効果が高くなる。

魔術も科学も、対象に「納得してもらう」ための技術という点では、そんなに変わらない。

単純に投げるとか、あるいは火薬で吹き飛ばすとか、どんな方法であれ、石が「納得する」科学理論を用いれば、 石は空中に浮く。もしも石が納得してくれるなら、その方法は魔法の呪文だって同じこと。

人に壺を買わせるのだって同じ。機能とか、美術的な価値を科学的に示せれば、その科学に対して 人はお金を払う。もっと非科学的な方法を用いれば、科学的にはゴミ同然の代物にだって、 全財産をつぎ込む人だっている。

大事なのは、「対象に納得してもらうこと」それ自体であって、その方法に科学を用いようが、 非科学を用いようが、結果が出れば、どちらだって同じ。

止血剤。茶褐色の注射薬で、「効かない薬」の代表みたいなもの。

科学的な立場に立てば、あれを用いたところで、たぶん出血は止まらない。 ところが、止血剤を混ぜた輸液ボトルは、色が茶色に変化する。 色の変化というのは、医師の「行為」の象徴。

たとえ血が止まらなくったって、「何かをやってもらった」という印象だけは残る。

それだけのことだけれど、あのタイミングで止血剤が入っていれば、 家族の心情が変化して、結果は変わったかもしれない。

防御の円=魔法陣

悪魔を召還するときには、術者を守る魔法陣は欠かせない。

悪魔は、正しく作られた魔法陣の中には入れない。

魔法陣は、一部でも間違っていると効果がなくなるし、術者がその中から指1本出しただけで、 魂を悪魔に持っていかれる。

魔法陣は単なる象徴、悪魔と術者を隔てる境界にしかすぎないけれど、 境界の内外での、悪魔と魔法使いとの駆け引きは、ファンタジー小説の一つの見せ場。

魔法陣の理屈もまた、悪魔に「こちらも一生懸命準備をしているから、 ここには入ってこないでね」と納得をしてもらうもの。

CTスキャンには治療的な効果は全く期待できないし、これを撮って原因が分かったところで、 搬送を断る病院の数は増えこそすれ、「うちが取りましょう」と助け船を出してくれるところなんて出てこない。

それでも、CTさえ撮ってしまえば、「今何がおきているのか」、あるいは 「医療者が今何を考えているのか」を画像で示すことだけはできた。

意識を失っている患者さんにとっては、それは何の意味もないことだけれど、 そのときの家族と医療者、両者の思考を一致させる効果だけはきっとあって、 それはやはり、何か結果を変えたかもしれない。

祭具の代わりになるもの

魔術の本質は強力なイメージの力だから、それがある術者ならば、杖なんか要らないし、 魔法陣をわざわざ描かなくても、同じ効果をもつことができる。

魔法陣は、本来は必ず地面に描かなくてはならないけれど、 エノク魔術においては、緊急時には頭の中に魔法陣を想像しても、効果があるとされている。

ただしその場合、術者の頭の中では、線の1本1本、文字の全てに至るまでが具体的なカタチをとるぐらいに 強力に想像されていなくてはならず、集中力が切れてしまうと、魔法陣は効果を失うという。

止血剤とか、あるいはCTスキャンという道具は、医療器具という科学の側面とは別に、 相手に「納得」をもたらすための象徴という、祭具としての側面を持つ。

祭具的な力のためだけにこうした道具を使うのがためらわれるなら、 「自分のイメージの力」を駆使して、今おきていること、自分が考えていることを 相手に納得してもらわないと、望ましい結果は得られない。

今自分が働いている病院も、夜間は一人。

CT スキャンも血液検査もろくにできないから、 「納得」をしてもらおうと思ったら、自分のイメージをどうやって相手に説明するかが全て。

けっこうな重症の人も来るから、いつもいい結果で終わることなんて決してないけれど、 何とかトラブルにはならずに済んでいる。

お前は他人を言いくるめるのだけが上手なんだろ」と言われれば返す言葉もないんだけれど、 自分は医療の科学的な側面にはあんまり自信がないから、実力のなさを祭事的な部分で 多分に補っていて、今のところはまだ生き延びている。

仮説:誠意を持ったみのもんた

みの(もんた)さん」という医師を仮定する。

  1. みのさんには医療の知識は全くないが、何か手を出そうという意志だけがある
  2. みのさんは「患者家族から自分がどう見えるのか」をよく理解していて、 信頼のイメージを裏切らないように行動する
  3. 残念ながらみのさんには運がなくて、やったことはことごとく裏目に出る
  4. みのさんは分かりやすい物語を作って、それにみんなを巻き込むのが上手

今回のようなケースで、全科当直をしていたのが「みのさん」だったなら、 事態は大分変わったんじゃないかと思う。

  1. みのさんは医学の知識がないから、患者さんの意識がなくなっても、何がおきたのかは分からない。
  2. みのさんは「患者家族から自分がどう動けば信頼されるか」は分かっているから、とにかく家族の目に見える行動をおこす
  3. みのさんのやることは絶対に裏目に出るから、「色のついた輸液」を探してマイトマイシンを注射してしまったり、 CT室の隣、ライナック室に患者を運んでしまうかもしれない
  4. 不幸な転帰になったとき、みのさんはすかさず、「生命を賭けて子供を世に送り出した母親の物語」を作って、 家族とそれを共有しようとする

医療知識のある医療従事者と、知識のない「みのさん」。

おきたことは、全く同じ。違ってくるのは、物語の受け取られかた。 残された家族は、どちらの「物語」に、より納得できただろうか?

同じ落第点であっても、0点から40点まで、「患者の死」というのは様々な点数を取りうる。

物理事象の査定が0点にさえならなければ、物語の作りかたひとつで、 認識された現実なんていかようにでも変化する。

非常識な仮定だけれど、常識で可能なことを、あえて非常識を用いてやろうとするのが祭事という試み。

科学的には意味のない行為には違いないけれど、世の中科学ばっかりが全てじゃないと思う。

2006.10.25

ウォーリーのジレンマ

一昔前に流行った「ウォーリーをさがせ」。

  1. 画面の中にウォーリーが隠れている
  2. それをできるだけ早く探す

これは特徴抽出の問題。解答に至る道筋はいくつもあるし、最適化の方向も見える。

ルールをわずかに変えるだけで、この問題は解答が極端に困難になる。

  1. 画面の中にウォーリーはいないかもしれない
  2. いるならば、それをできるだけ早く探す

「不確実なウォーリー」のルール

ウォーリーの存在が不確実になったとき、 問題になるのが「この画面にはウォーリーはいない」と証明すること。

「ウォーリー」の定義は以下のとおり。

赤と白の縞模様の服・長靴下・帽子、ジーパンを身に着て、 眼鏡をかけて杖を突いている。茶髪で、細長い体形。

ウォーリーを見つけて、「この人がウォーリーである」と証明するのは簡単。

ところが、画面内の適当な人を捕まえて、 「この人はウォーリー要件を満たしていない」ということを証明するのは、極めて難しい。

「確実なウォーリー」ルールでは、画面内のどこかには必ずウォーリーが隠れていることになっていて、 悪魔の証明に陥ることを回避している。

確実な画面の中に、1枚でも不確実な画面が混じったとき、 ルールは簡単に覆る。

西洋医学は「確実なウォーリー」ルール

昔は、本当の病人以外は病院になんて来なかった。

西洋医学は、どこかに確実に病気があって、それを探すための学問として発達したもの。

病気は押すと痛む。病気は熱くなる。病気になった部分は腫れる。

症状をみて、バックグラウンドで何がおきているのかを推定して、それを証明するという 思考過程は、「その人の身体には確実に病気がある」ことを前提にしている。

医学が発達して、病院へのアクセスがよくなった結果、 「健康かもしれない」人が病院に来るようになった。「確実なウォーリー」ルールは 不確実なものへと変貌した。

病気の人を診て、「あなたの症状の原因は○○です」と証明するのだって十分に困難だけれど、 まだまだ何とかなる範囲。

ところが、病気かもしれない人を診て、「あなたは健康です」ということを証明するのは、ほとんど不可能。 医学の発達の過程では、「健康であるとはどういうことか」なんて考える必要もなかったから、 そもそも定義が存在しない。

健康の定義なんて、「ふるい」 の粒度でいくらでも変わってしまう。

  • 問診で健康な人だって、全身の診察をすれば、古いけがの跡なんかが見つかる
  • 全身のCTを撮れば、もっと小さな病巣だって見つかるかもしれない
  • 最近流行のPET を使えば、5mm程度の癌だってみつかる

細かい検査をすればするほど、「その人が健康である」可能性は低くなり、 処理しなくてはいけないデータの量は莫大なものになっていく。

それらを見つけて除去することが、 その人を本当に「健康」に近づける行為なのかは、誰にも分からない。

不確実ルールを確実ルールへ帰着させる方法

「不確実なウォーリー」問題を解答可能な形にする方法は2つ。

  • 問題を大きくする:全ての画面をつなげれば、その中には絶対にウォーリーがいる。 マススクリーニングの発想だけれど、計算が莫大になる代わり、力技で解答可能な問題になる
  • 別の特徴を探す:ウォーリーに「極めてまれな」特徴を追加設定して、問題の大きさを小さくする

後者は、たとえばこんな設定を追加する。

ウォーリーは子供の頃、いたずらをした弟をかばって、祖母から左手の爪を剥がされた。 ウォーリーの左手をよく見ると、今でも2枚の爪が変形している……

爪を2枚剥がされた人なんてそんなにいないから、画面内の全員の爪が正常ならば、 その画面にはウォーリーはいないことになる。

一般化すると、たぶんこんな文章。

  • 問題の大きさを増す代わりに、計算の深さを浅くする
  • 計算の深さを増すことで、問題の大きさを小さくする

医療の現場の話でいくと、前者をやろうとしているのが新生児マススクリーニングや、老人検診。 あるいは、症状にかかわらず、病院に来た人は全員、頭からつま先まで、 とりあえずCTを切ってみるとか。

問題の大きさを増すためには、まずは人間の介在する判断を放棄するところから。

後者の方法が、たとえば「病気でない」証明のためにCRP を測ってみたり、 本物の狭心症をバイタルサインだけで判断しようとする試み。

狭心症は見逃すと恐ろしいけれど、胸痛を訴えて病院に来る人は多くて、全員に詳しい検査をすることはできない。 心電図が典型的でない胸痛の人を見たとき、以下の3つがすべて陰性の人は、 狭心症でない可能性が高く、救急外来から返しても大丈夫らしい…。

  • 患者の自覚症状が狭心症に典型的
  • 胸水がある
  • 血圧が100以下

どちらの方法論も、まだまだ完全には遠い。

スクリーニングは、コストとふるいの粗さの問題からは逃れられないし、 新しい特徴を探す試みは地味だから、たまに論文になる程度。広まらない。

いずれにしても、病院の中の人は、「確実なウォーリー」ルールを解く訓練を受けていても、 不確実ルールに当たるのは不得手。だから疲れるし、誤診から自由になれない。

モデル化は現実を変える

「囚人のジレンマ」や、「共有地の悲劇」。

こうしたモデルは社会の問題を一般化して、いろいろと新しい解決方法を生んできた。

ノーベル平和賞を取ったグラミン銀行なんていうのは、まさにこうした理論の申し子。

モデルは理論を作り、やがて社会を変える。

「悪魔の証明」問題、あるいは「不確実なウォーリーをさがせ」問題の解決方法というのは、 どうも今のところは「そうならないように注意しましょう」という以外に提案されていないみたい。

頭がいい人、そろそろこちらの方面にシフトしてくれないだろうか?

2006.10.23

Advovative Doctor’s Life Support

(タイトルはAdvocative の誤植)

メッセージの3要素

「正確さ」なんて2の次。誰かにメッセージを伝えるときに大切なのは、メッセージの発信者と受け手、 この両者の「思い」を共有すること。思いを共有できないメッセージは、単なる文字列。

伝わらなければ、意味がない。

思いが伝わるメッセージというのは、発信者の立場が分かりやすくて、 何かの意図そった編集がなされていて、 「受け手」の顔がはっきり分かるもの。

  • 立場: 八方美人は信用されない。発言者の立ち位置がはっきりしないメッセージには説得力がない
  • 意図: 単なる事実の羅列でなくて、それを並べることで受け手に何をしてほしいのか 意図のないメッセージは単なるデータにしかすぎない
  • 対象: 全人類対象のメッセージなんて、誰にも伝わらない。相手はどんな人で、どんな言葉を好んで使って、何を信じる人なのか。対象の顔を思いうかべないで書いた文章は、伝わらない

うちのサイトの場合。

  • 立場: そこそこ忙しい臨床べったりの医者。左団扇からは遠いけれど、免許既得権の恩恵は 当然受けていて、それは絶対に失いたくないと考えている
  • 意図: 意図することは「現状維持」。 結論は常に「昔はよかった」だし、 提案するのも「昔に戻すにはどうすればいいのか」。現状を批判した上で、昔に帰るための対案を出して、それを批評してもらうスタイル。お金が必要ならば、どこから引っ張れるそうなのかのアイデアを出して、国民負担の増加案とか、お上の批判は最小限
  • 対象: 読者として想定しているのは、「キャズム」で言うところの「アーリーアダプター」の人。 本文中には横文字を使うことを避けているけれど、「見だし」はあえてバズワードだらけにして、 「分かってくれる人」の共感を引っ張ろうと、姑息なことをしている

html を手打ちして研修医向けの文章を書いていた頃は、「伝わる」ことなんてあんまり考えていなかった。 読むのも同業者ばかりだったし、臨床の情報を発信しているサイトなんて、数えるほど。 「読みたい人だけ読んでください」。これで十分だった。

blog 時代になって、本当の専門家の先生方が何人も発信するようになって、うちのサイトもメッキが剥げた。

業界のレッドオーシャン化。同じ事をしていてもしょうがないから、変化をすることに。

他のサイトが正確なデータとか、詳しい情報などを競っているのを横目に、うちのサイトは 心理操作とか、コミュニケーションの話題に集中して、想定読者も微妙に変更。

blog を始めて1年経って、書いた文章も増えてきたころ、だんだんと「過去の自分」が現在を 縛るようになって、立場の一貫性といったものを考えるようになり、現在へ。

湾岸戦争PR の「原油まみれの水鳥」とか、掲示板上の人工ドラマ「電車男」の仕掛けに感心しながら、 一定の意図に基づいた情報の見せかたに興味を持つようになったのが、最近のこと。

メッセージに込められた欺瞞のエネルギー

  1. 分娩中に頭痛を訴え意識消失発作を起こした。
  2. 産科医は子癇発作と考えその処置を行なった。
  3. しかし経過が重篤で他院での処置が必要と判断した。
  4. 転送先を探すも18軒に断られ、19軒目の国立循環器病センターにようやく運ばれた。
  5. 患者は脳出血を併発しており死亡、子供だけは助かった。

新小児科医のつぶやき - その日が来たか・・・より引用。

医療blog 界隈には、現場を動かす専門医の、血を吐くようなメッセージが続々。

真実を伝えることはとても大切で、それはつまり、うちみたいなサイトが一番不得手なことなのだけれど、 日ごろウソばっかりついている奴からすると、どうしても「効率悪いな」と思えてしまう。

産科崩壊、医療崩壊の問題はここ2年ぐらい、もう何度も話題になってきたけれど、 医療サービスの供給者と受け手、両者の「思いの共有」は、未だに遠い。

専門の先生方のメッセージは正確さでは完璧だけれど、発信者の立場とか、 メッセージの意図がよく分からない、あるいは、 想定している読者にそれが伝わっていない気がする。

マスコミのメッセージは、不完全だけれど、伝わりやすい。

  • 彼らは「新聞や雑誌を買う」市民の代弁者として発言。彼らが信じているのは「忘却の力」だから、 一貫性はあえて捨てて、そのときの「市民の意思」を感じて、そこに立つ
  • マスコミは情報を編集する。「医師の怠慢がこの悲劇を生んだ」という物語が最初にあって、 その物語を広めるために情報を集める。一定の意図の元に編集された情報は、読者に「刺さる」。 リンク先の本文が、6400字。新聞の社説は1000字以下。読者への浸透力というのは、単純に考えて6倍以上
  • 新聞の対象読者は、みのもんたを信じてblog を見比べたりなんかしない人。うちとか、「はてな」、 ましてや「m3」あたりでいくら叫んだところで、マスコミを信じる人の耳には絶対届かない

「欺瞞」のないメッセージには力がない。欺瞞は「誠意」と言い換えたっていい。

たとえば、湾岸戦争のときの、「原油まみれの水鳥」。アメリカで撮られた写真で、そこには 何の真実も入っていなかったけれど、そのメッセージのもつエネルギーは強大なもの。

あれを発表したPR 会社は、たぶんあらゆる国民からの質問に対して想定問答集を作っていて、 あのメッセージが「ウソ」だと報道されることを避ける努力をしていたはず。ただの1枚の写真だけれど、 たぶん、あの裏でなされた「仕事」の量は莫大。

専門家のメッセージは正しい。でも、それだけ。

そこには欺瞞がないから、読者には誠意のない事実の 羅列としか受け止められない。

だから伝わらない。

クライシスマネージメントのすすめ

たぶん、「伝える」 力というものもまた再現可能な技術であって、誠実さとか、人柄とか、 そういった思考停止ワードを使った時点で負けているんじゃないかと思う。

PR 社会の現在、医療者側もまた、正しいことを追求するだけでは片手落ちで、 「伝える」技術を身につけないと、やっていけない。

ADLS:Advocative Doctor’s Life Support というのは、 標準的な心肺蘇生手段「ACLS:Advanced Cardiovascular Life Support」 のもじり。 提唱的医師防衛手段とでも訳すもの。口先で鉄火場を乗り切る、そんな方法論を学ぶコース。

基本理念は3つ。

  • 同じ落第点であっても、患者の死というのは1点から40点の間であって、0点ではない
  • 同じ事象であっても、それがどう受け取られるかで「点数」は変わる。治癒しても落第することもあれば、その逆もありうる
  • 物理事象と認識事象との境界に介入する技術を用いることで、100点を取ることは無理でも、「40点を60点に受け取ってもらう」ことは可能

想定しているのは、こんなコース。

第一日目 開場 8:30 受付開始 8:40 コーヒー&ドーナツ:Pre-test review 開会 9:00 開会の挨拶、コース・スケジュールの概略 講義1 9:25 患者対応の基本的な考えかた 実技1 10:10 Case1:クレームを訴える患者家族との対話(こちらに非がない場合) 実技2 11:05 Case2:クレームを訴える患者家族との対話(こちらに非がある場合) 実技3 12:50 Case3:合併症を生じた検査の説明 実技4 13:50 Case4:死亡症例の説明 休憩 講義2 15:00 マスコミ対応のやりかた 休憩 講義3 15:50 法廷で行われること 休憩 実技5 16:50 Case5:マスコミの取材:個人と個人の場合 実技6 17:50 Case6:マスコミの取材:記者会見 終了 19:00

第二日目 9:00 2日目の案内 実技7 9:05 Case7:医療過誤症例:患者への説明 実技8 9:55 Case8:医療過誤症例:マスコミ取材への対応 実技9 10:55 Case9:医療過誤症例:弁護士との対話 11:55 昼食 テスト 13:45 筆記試験 13:55 Case Exam(Mega Code) 15:25 結果発表、閉会の挨拶 閉会 15:35

度胸とか勇気とか、そういったものは欠片もないチキンだったから、 リスクの高い検査をやるとき、いつも責任からどうやって逃げられるかを考えていた。

みんな、医師としての勇気で持って、リスクを取って病気と立ち向かう。 自分には同じ真似なんかできなかったから、防衛手段を考えて、「トラブルがあっても、自分だけは大丈夫」と 自己暗示をかけて、リスクの高い治療に臨んだ。

ものすごく後ろ向きな発想だけれど、危険地帯では、自分を守れてはじめて体が普通に動く。

今、危険度の高い科からは人が減っているけれど、循環器とか脳外、産婦人科なんかは、ほんの少し前までは 人気の高い科だったはず。潜在的には、まだまだ行きたい人、きっといると思う。

勉強になるよ、お金になるよ、リスク低いよ、と研修医を勧誘するのも一つの考えかただけれど、 「うちはリスクは高いけれど、ちゃんと回避手段を教えているよ」というメッセージを発信するのも、 ある種の研修医にとっては魅力になるんじゃないだろうか。

プラップジャパンあたり、やらないかな…。

2006.10.22

今日この頃

ちょっと三咲町まで現実逃避してくる

某ゲーム購入。 古い同人ゲームだとおもって侮っていたら、これが極めて強力な廃人製造装置だったという。。。

睡眠時間奪われっぱなし。

感想はいろいろ。

とりあえず、今の仕事を引退したらカトリックに宗旨がえしてイタリアに渡り、 神父として孤児院を手伝いながら、銃剣投擲に邁進する余生を送ることは確定した。

2006.10.17

資源分配の第3の選択

  1. 今までどおり集めて、みんなに薄く分配する
  2. 多く集めて、みんなに今までどおり分配する
  3. 今までどおり集めて、「みんな」を放棄する

限られた資本をどうやって有効に分配するのか。

今までどおりやってたのでは破産するなら、何かをあきらめる選択肢は3つ。

低福祉。高負担。あるいは、「みんな」。

マイクロクレジットの成功

今年のノーベル平和賞は、バングラディシュのグラミン銀行と、その主催者に与えられた。

非常に貧しい地域。生活するのがやっと。お金を融資しても、 ほとんどの場合かえって来ない。

誠実な借り手と、最初から逃げるつもりの借り手。

それを見分ける術はなかったから、お金を貸す側にできるのは、金利を高く設定して、 数少ない誠実な借り手から、より多く儲けることだけ。

バングラディシュの年金利は100から200%近く。そんな状況だから、誰もお金なんか返せないし、 借りたところで踏み倒して逃げてしまう。お金が回らないから、いつまでたっても貧困がなくならない。

誰が誠実な借り手で、誰が違うのか?

グラミン銀行は、「相互選抜」というルールを導入して、両者を見分けようとした。

  1. お金の借りるには、まず責任を連帯するグループを組む必要がある
  2. 連帯グループは、3人から10人くらいの借り手でグループを結成し、 支払いを連帯保証することを条件にお金を借りる
  3. 借り逃げをたくらむような危険な相手とは誰も組まないので、 安全な借り手が銀行にくる可能性は高まる

銀行側の安全を確保するルールはもう一つ。それは、「繰り返し」。

  1. グループができたら、最初に7日間のコースで銀行のルールを覚えてもらい、 まずはグループのうち2人に12~15ドル程度を貸し出す
  2. はじめの融資が6週間以内にきちんと返済されてから、次の二人に融資する
  3. グループの代表は、最後にお金を借りられる。

不誠実な連中が口裏を合わせてグループを作っても、銀行に何度も来ないと、 グループは満額を受け取れない。これは「繰り返し囚人のジレンマ」ルールそのものだから、 裏切りは双方に不利益になる。

相互選抜と、繰り返しルール。ネットワーク科学とゲーム理論のいいとこ取りをしたようなこの制度は うまくいった。グラミン銀行の融資返済率は90%にも達し、年利も20%と、この地域にしては画期的に 低く抑えることが可能となった。

グラミン銀行が成し遂げたこと

バングラディシュには、お金があっても、それを誠実な借り手に分配することが できなかったので、社会が発展しなかった。

グラミン銀行がやったことというのは、「誠実な借り手」と、「不誠実な借り手」との選別。

いわゆる「慈善活動」というのは、人を区別しない。

  • 慈善活動団体が優先するのは「みんな」。だから、たいていは不誠実な人から幸福になる
  • グラミン銀行が優先したのは、「誠実な人から幸せに」。「みんな」はその後の話

どちらが正しいのかは分からないけれど、今年のノーベル平和賞は、後者の考えかたを支持した。

福祉という資本の分配問題

グラミン銀行は、限られた資本を誠実な人に優先して分配することで、今まで成し遂げられなかった 成果をあげた。

もちろん、日本に生まれた以上は「日本国との契約」というものがあって、 国民はみんな平等に生存権を持つから、バングラディシュのルールは当てはまらない。

「公平」ルールに基づいた分配には、避けられない欠点がある。

  • 一人あたりに分配される金額は不十分なものとなり、 みんなが不満足な状態になるだけで、社会が発展しない
  • ウソをついて、お金を多くせしめるのはたいてい不誠実な人だから、 結局「正直者」がバカをみる社会になってしまう

どこかの国に、よく似ている。

医療資本が足りない。

本当はそれなりに足りているのだけれど、一部の人がいっぱい使うから、結局足りない。

  • タクシーがわりに、飲み屋に救急車を呼びつける酔っ払い
  • 「待たなくて済む」という理由だけで夜中にくる、救急外来の常連さん
  • 入院費を踏み倒すことが分かっていても、入院を要求するアル中の人
  • 親の介護が面倒という理由だけで、2年もの間急性期病棟のベッドを独占させた、某国会議員

みんな不誠実で、力が強くて、弱さを売りにして、正直者よりもはるかに多くのものを持っていく。 その中には「本当の弱者」も少なからず入っているのだけれど、見分けるのは本当に難しい。

だから足りない。

誰かが「第3の選択」を提案するとき

国民であるというだけで、誰にでも生存権を与えることは、本当に正しいのだろうか?

こんな疑問に「ノー」を唱えた国家は、時として大躍進を遂げている。

開拓時代のアメリカ。カーストを維持しているインド。 江戸幕府。ナチスドイツ。大躍進著しい、最近の中国。

社会が不安定になると、真っ先に割りを食うのは、正直さ以外に売るもののない、誠実な人。

こういった人は、生存競争になると真っ先に弾かれるから不満をもつし、 物事を斜めに見るのが苦手だから、指導者がハンドリングしやすい。

  • 誠実な人から、あるいは指導者が「誠実だ」と思った人から、まずは幸せになろうよ
  • 国民には、うまいことをやる不誠実な人と、まじめにやって割りを食う人と、2種類の人がいて、 政府はもちろん後者の味方

こういうメッセージは、タイミングさえ間違えなければ、一国をして簡単に戦争に突っ走らせるぐらい の力を発揮する。

福祉の業界には、本当にお金がない。で、いろんなところからお金を引っ張ってきても、 まず真っ先にいい思いをするのは「不誠実な人」からで、正直者が「高負担による高福祉」を 実感できることは、たぶんない。

政府はたぶん、それを分かっているから、医者が唱えるような、安易な高負担路線を取らない。 やったところで、絶対に支持なんて得られないから。

高齢者は増え、「弱者」もまた増える。資本の総和が横ばいの中、福祉の受け手が増えれば、 当然それだけ薄くなる。

今までを知っている人には、今以下になることもまた、耐えられないだろう。

正直な人の不満はたまる。

そのタイミングをはかっている誰かが日本にもいるならば、第3の選択、「みんな」の放棄 を唱えて支持を得る政治集団が、そのうち出てくるかもしれない。

福祉を不公平に分配する2つのやりかた

たとえば国民総背番号制。

  1. 総収入とか、税の支払額とか、保険の利用率とか、なんでもいいけれど国民に序列をつける
  2. 現行の福祉水準を維持する前提で、その年の税収でまかなえる範囲まで、上位から順番に福祉を配分する
  3. 下位グループに入ると福祉が無くなるから、ここで「誠実な国民である」報酬が生じる
  4. 下位グループに入った人は、保険から外れてしまう。このグループの医療は、国民健康保険に属さない医師の担当
  5. 健康保険で働かない医師というのは、たとえばオリックスみたいな日本を代表する大企業からの寄付で運営される有償ボランティアみたいな形で、無償の医療を提供する
  6. 無償医療は、あくまでもボランティア。結果責任のないボランティア医療を受けるか、責任を問える保健医療(ただし無保険) を受けるのかは、その人の選択肢第

あるいは、グラミン銀行ルール

  1. 人々は、親しい人同士、あるいは志を同じくする人どうしが5~10人ぐらいのグループを作る
  2. グループごとに、1年間に使える医療資本の上限が決まっている
  3. グループ内に年に100回救急車を呼ぶ人とか、治療費が年に数千万円かかる人がいて、割当を使いきってしまうと、他の人は医療保険が使えない
  4. 病気の人は、健康な人と「友達」になって、負担をシェアしないとやっていけない
  5. 隣近所なんかじゃなくて、政党や宗教団体が恣意的に決めたグループでもかまわない
  6. あぶれた人、あるいは上限を使いきったグループは、やはり無償医療を提供するシステムを利用する

社民党とか、民主党とか、高福祉をスローガンに反対意見ばっかり出している政党は、 「負担」が自分達に回ってきたときどう振舞うのか。地金が現れて、面白いかも。

宗教団体にしても、果たしてその宗派が本当に信者のことを考えているのかどうか。 グラミン銀行ルールというのは、そんなところを明らかにする。

ネット時代は、人と人とをつなげるコストが劇的に安くなる。 必要なインフラは、そんなにお金がかからないはず。

医療ボランティアに参加する人

こんな2階建て制度ができたとして、 「寄付領域」で働く医者は、 案外多いような気がする。

実際運用すると、きっと問題続出だろうけれど、「世のため人のために働くカッコイイ俺様」を 満喫できる立場に魅力を感じる医師というのは、きっと多いはず。

みんな、基本的には仕事バカだから。

お金はきっと集まる。

「正直な人」というのは、払ったぶんだけ見返りがくる立場に支持を表明するけれど、たぶんそれ以上に、 「大企業は、困った人に寄付をするべき」という立場を支持する。

大きな企業というのは、世論の支持がなければ成り立たないから、嫌でも寄付をせざるを得ない。

報酬なんか、適当でいい。企業の論理で医療改革とやらを進めようとする オリックス宮内氏のポケットから、 思う様札束をつかみ出して、ねずみ小僧よろしくばらまけるんなら、こんなに楽しいことはない。

タイミングは10年ぐらいあと。医療改革が成功する可能性は 残念ながら低いから、どこかで絶対、 誠実な人の不満が臨界に達する。

乱暴な読みだけれど、だいたい、医者は「革命」が好きなんだ。

ゲバラだって孫文だって、はじめはみんな医者。

誰かが「第3の選択肢」を示したとき、きっと何か転がりはじめる。

2006.10.15

NHK「日本の、これから」

総括

「医療、安心できますか?」という副題。

医療者、厚生労働事務次官、患者代表、メディアがそろう討論番組とあって、興味があった。

舞台立てとしては、真ん中に司会者、タレント、厚生労働事務次官氏、医師代表の本田先生、 医師会長、医療ジャーナリスト氏が集結。 それを取り囲んで、患者代表、地方自治体代表、医師代表がそれぞれ15人ぐらいずつ集まる。

結論は、厚労省の完全勝利。医師全面敗北。

  • 番組開始と同時にドレスコードの違いが目に付く。患者、医師、 司会者まで含め、登場者はみんなノーネクタイで、 ラフな格好。髪型もバラバラ。そんな中で、厚生省事務次官だけがネクタイにスーツ。
  • ホームページを見ると、司会者も普段はネクタイをしている。 今回のノーネクタイは、たぶん意図的なもの。
  • 番組冒頭、救急の話題。患者代表が「ドイツでは、開業医もみんな救急をやる。満足度は90%近く。 なぜ日本の開業医は救急医療に参加しないのか?」と、 いきなり外国の数字をあげて開業医を刺す。 医師側反論できず、画面には目線を泳がせる開業医の先生と、 「開業医」の文字が入ったネームバッジ。カメラマンはいい絵撮りすぎ
  • 救急の話題。事務次官が止めを刺しにくる。「日本の勤務医の先生方の頑張りには、我々は 本当に頭が下がる思いです。だからこそ…」。勤務医だけをほめ殺す。分断工作。
  • 中盤。産科医療の話題。「なぜ、日本の産科医が減っているのか?」 という質問。 「足らないんじゃない、婦人科だけやる医者ならたくさんいるんです」ジャーナリスト氏がすかさず、横から質問を奪う。 本来なら「たくさんとはどのくらいですか?」と反論しないといけない場面。医師側の反論なし。
  • 前半の終盤。医師代表の本田氏、いろいろなデータをあげて反論を試みようとするけれど、 途中でタレントが「私の家族の話では…」と、的確に話の腰を折る。 完成した議論をほとんど展開できず。
  • 後半開始。ようやく、医師側も議論のルールが間違っていることに気がつきはじめる。 ジャーナリスト氏が医師の意見と称して、「現場の意見では…」とミスリードを誘ったとき、 すかさず本田氏が「伊藤さんは勤務医じゃないでしょう。 我々勤務医はみんなうなずいて居るんですよ。 なぜ現場のことがわかるんですか、伊藤さんは。」と刺しにいく。 下品だけれど、これが本来求められていた戦いかた。
  • 終盤。医師代表本田先生、ようやく「厚生省の無策が医療をここまで駄目にした」 という論を張る。 地方自治体代表がそれに賛意。ところがその矢先、 厚生省事務次官氏が「地方公共団体の頑張りで地域医療が回っているのは、 我々も本当に頭が下がる思いです。 それを無駄にしないためにも…」すかさずほめ殺して自治体を刺す。 長い話なのに、司会者もそれを止めない。自治体側からの攻撃は、1回で沈黙。
  • 終盤。本田先生が何とか気を吐いても、多勢に無勢。番組のエンディングを締めたのは、 スーツにネクタイの事務次官氏。

誰が勝ったのかは明らかだった

ファシリテーターのいない議論=潰しあい

司会者の態度によって、議論というのはルールが変わる。

  • 結論があって、よりよい意見を求めるための議論では、正しい論を張る人が求められる
  • 結論のない、楽しい泥仕合の絵が欲しいだけの議論では、相手の意見を潰して、時間が終了したときに喋っていた人の勝ち

この討論番組のルールは後者。

参加者は、司会側、厚生省、患者側、ジャーナリスト、 医師の大きく5系統。

  • NHK の司会者は、明らかに結論の誘導を放棄していた。 医者側に問題提起から結論までを含んだ論理を展開されてしまうと、 後の話題が続かなくなるから、「空気の読めない人」としてタレントが呼ばれ、 論理が張られるたびに特攻してきた。 あのタレントの人は、「自分の仕事」を分かっていて、あえて突っ込んできていた。
  • 厚労省側には、たぶんPR 専門の会社が入っていて、想定質問のリハーサルをこなしている。 相手をほめて刺したり、医師側を分断したりするのは高度な技術で、 アドリブでやるのは無理。シナリオがあったか、少なくとも相手をきっちり潰す意図をもったやりかた。 医師側の想定したルールとは、あきらかに違った戦法。
  • 患者側、ジャーナリスト氏のいずれも、「番組のルール」をちゃんと理解してあの場にいた。 みんなバラバラに発言するだけだったけれど、医師側の発言を殺して、 ジャーナリスト氏の論をサポートする 役割は十分にこなしていた。
  • 番組前半の時点では、医師団は番組のルールを読み違えていた。 みんな、「相手の話をまず聞いて、それから 自分の論理を展開する」つもりでいたから、様々な立場の医師が片端から刺され、 発言できなくなっていった。
  • 医師代表の本田氏は、後半になって「下品な」戦略に転換して、 積極的にジャーナリスト氏を潰しにかかって いたけれど、その意図はたぶん、最後まで全ての医師には伝わらなかった。

たとえば、柔道の試合をやるつもりで会場にいってみたら、柔道着を着ている人なんて誰もいなくて、 みんな思い思いの凶器を持って、プロレスをはじめていたという…、 今回の番組は、そんなかんじ。

論旨はさておき、 事務次官氏の議論の技術はすごかった。たぶん、あの人はもっと下品な戦いも想定して 現場にきていたけれど、そういう戦いを予防する腕前があまりにも見事で、 誰も事務次官氏を刺しに行けなかった。

自転車置き場の議論

原子炉の建設のような莫大な予算のかかる議題については誰も理解できないためにあっさり承認が通る一方で、 市庁舎の自転車置場の屋根の費用や、果ては福祉委員会の会合の茶菓となると、 誰もが口をはさみ始めて議論が延々と紛糾する。(中略) FreeBSD のコミュニティでは、この現象は自転車置場の議論 (bikeshed discussion) として呼ばれている。 いやなブログ: 自転車置場の議論

今回の番組は、まさにこれ。

原子炉をどこに作るのか。本当にそれが必要なのか。代替案は何かあるのか。

そういったことを 検討するためにみんな集まったのに、市民団体は原子力発電所の自転車置き場の屋根の費用を論じ、 ジャーナリスト氏は発電所の外壁を彩るペンキの色の効果を論じた。

医師団は、原子炉の話をしようとしたけれど、その青写真を展開する前に、 タレントやジャーナリスト氏に図面を破かれてしまった。

NHK と厚生省は、問題の中心が原子炉だと分かっていたけれど、 たぶん分かってて議論が紛糾するに任せ、 最後の最後で「本当に問題を把握しているのは、厚労省だけ」というアピールをして、 番組を締めた。

そのための、会場でただ一人のネクタイ。政治集会のとき、ヒトラーだけがナチスの 帽子をかぶらないのと、意図するところは同じ。

政治家の討論番組では、みんなてんでばらばらに喋りだして、品のないことおびただしい。

でも、まずあれをやって、議論の場に党の政策を展開しておかないと、 議論が相手の土俵の上で進行してしまう。

俺の原子炉を見てくれ……こいつをどう思う?

医師代表の先生が「医師の考える理想の原子炉」の論を展開できていれば、後半の患者側からの 突っ込みは、全部この一言で返せたはず。ところが、論を展開するだけの時間は、 与えられないまま番組が終わってしまった。

第2ラウンドがあるとすれば

メディアと手を組んだ厚生省なんて、限りなく無敵に近い存在だけれど、 医師側ももっと品の無い戦いかたをしていれば、あるいは結果を曲げられたかもしれない。

  • チームプレーの徹底。ワールドカップのオーストラリア戦。ジーコジャパンは11人で戦ったけれど、 オーストラリアは最初から選手を入れ替えるのを前提に、「15人」で戦おうとしていた。戦略面では、 日本は最初から数の上で劣勢だった。今回の反省点もそれ。
  • 具体的には、善なる医師を代表する論を張るのは本田先生に任せ、後ろに控える医師は、 厄介な相手を潰す「悪役」に徹する。
  • 「開業医は救急やれ」といわれたら、「自分は年老いた両親を介護するため、開業しました…」 という老医師とか、「救急当直をしていた晩、父が亡くなりました。 生きていればあなたぐらいの年です」という 研修医とかがすかさず反論する。 たぶん、会場の全ての開業医は老親持っていて、全ての若手医師の両親は当直中に亡くなっていたり することになっちゃうけど、そんな些細なことを気にしてたんでは喧嘩に勝てない。
  • 「婦人科医はサボって産科をやらない」は、最初から想定されるべき質問。 婦人科の女医さんをメンバーの中にいれて、お腹の中に丸めたタオルでも突っ込んでおけば、 悪者になるのはジャーナリスト氏。女医さんが泣き出せば、たぶん二度と発言できない。 NHK も、まさか女医さんを捕まえて「スーツの腹をまくってください」とは言わないはず。
  • まともな論を張るのには、どうしても時間がかかる。 NHK 側は、相手を潰すために「高負担にあえぐ老人」とか、 「難病で苦しむ若者」を刺客として仕込んできている。 そういう人に「あなたが1ヶ月生きるのに何百万円かかるか、 知っていますか?」なんて身も蓋もない正論で反抗する、「空気を読まない若い医者」が、身体を張って 本田先生が攻撃論理を展開する時間を作る。
  • できれば、「医師会が考える理想の医療制度」みたいなものを立体もので作って、 会場の真ん中におく。 どかすのはNHK側の人物。 「NHKが医師の考えを排除した」みたいなビジュアルイメージを作れれば、つけいる隙が できるかもしれない。

いずれにしても、こんな番組は印象操作の戦いなんだから、 医師会ももっとPR の手段を考えてほしかった。負けっぱなしはとてもくやしい。

まじめ一辺倒なんじゃなくて、勝てないならば、まじめな議論をお笑いにしてしまうような やりかただってできたと思うし。

2006.10.14

介護はこの先生きのこれるのか

現状と将来

  • 介護病棟は減っていく。現在25万床あるある介護病棟は、 2011年度までに15万床まで減らされる。行き場のない人が10万人増える
  • 福祉に回される予算は、減らされることはあっても増えることはまずありえない
  • 入院できる施設が作られたとしても、補助はないから高額になる。 人件費とか食事代とかを考えても、補助なしだと、月に20万円ぐらいもらっても、たぶん全然足りない
  • 家族の労働対価は、今後も「ゼロ円」として査定され続ける。タダより安いものはないのは真実

10年前から状況は同じ。

高齢の人が入院するとき、一番問題になるのは「行き場」がないこと。

介護の問題は突然やってくる。入院前までは家族の中で空気みたいな存在だった人が、 本当に些細なことで寝たきりになる。

寝たきりになった人は、「寝ている」という事実だけで、 残りの家族に「介助者」としての役割分担を迫る。

体験したことのない役割には、誰も覚悟なんかできない。大体2週間の入院期間。 家族だった人は急激に他人になり、「うちでは看られませんから、どこかの施設へ…」という 返事になることがほとんど。

「どこかの施設」なんか、どこを探したって満員。

これからは、その状況がもっとひどくなる。

「ハコの介護」のリスク

医療機関付属の介護施設とか、介護保険に乗っかった施設じゃなくて、 国の懐が痛まない、老人を収容してくれる施設を民間が作るというのは、 リスクが大きい。

  • 建物を作るのが難しい。補助が出ない割りには、 施設の基準だけはやたらと厳しいから、建築コストが膨大になる。 郊外型のショッピングモールみたいなわけにはいかない
  • 局所人口の増減は激しい。総人口の変化は穏やかだけれど、 市町村単位の人口変化は、3年ぐらいで激変する。 先が読めないから、設備にお金のかかる介護ビジネスはリスクが高い
  • そもそも対価が少ない。1枚の絆創膏を4つに切って使って、やっと赤字にならないぐらいの、 薄利多売の世界。 クレームひとつで100人分の利益が消し飛ぶ。中学生の万引きで本屋が潰れるのと同じリスク
  • 絶対に悪くなる人を看る商売だから、顧客満足度はどうやっても上がらない。クレーム対策必須

ハコを作って商売になるのは、高所得層向けの高級老人倶楽部みたいなものだけ。

もともと、老人保健施設というのは、そこそこ成功した私立病院の「道楽」で建設されたものが多い。

自分達の終の棲家とか、医師を引退したあとの引退先とか、理由はいろいろ。儲け度外視。

大手が大規模に展開して高齢者ビジネスを巨大市場に仕立てて…なんていうのは、たぶんありえない。

介護病床が減って、あぶれる10万人。高齢者人口が増えるから、本当はもっと多い。

そのうち1万人ぐらいは「民間」のお客になる可能性はあるけれど、 月に30万円ぐらい「ポン」と出せる人じゃないと、商売にするのは無理。

残った9万人、人口増加分足して、結局もとの10万人をどうするのかが、今後の課題。

残った人にサービスを供給するには

生活なんて、みんなぎりぎり。介護に新たな負担をするなんて、実際ムリ。 こんな層から何とか対価を集めて、ビジネスとして成立させる。

所得が比較的低い層を相手にして、競合者のいないサービスを展開するには、 以下のような注意が必要。

  • 価格を極端に低く、できればゼロにして、サービスからの対価は何か別の分野からもらう
  • 対価をなくすことで、有償サービスに伴う責任を回避する
  • システムの中に「すっぱいぶどう」を排除する機構を組み込む

サービスの中心になるのは、訪問看護と、ボランティアのネットワーク。 これを「無償」で行う。

会社が対価として得るのは、介護保険を通じて得た代金と、オムツなどの介護用品、 給食のサービス、生活必需品などを、訪問看護を通じて購入してもらった料金。

別の分野に競合者を求める

このサービスの本当の競合者は、スーパーマーケットとか、 コンビニエンスストアなどの流通業者。

病人を抱えた家では、誰かが買い物にいくのも困難だから、品物を選んでもらって、 これを配達するついでに、介護のサービスを一緒に提供する。

料金を無料に設定できれば、表面上の競合者である、その地域の訪問看護ステーションは全滅する。

地域の流通インフラを乗っ取れれば、広く、薄くのサービスが可能になる。

訪問看護の人を受け入れるというのは、その家の「ポートを空ける」行為。 家に何があって、何が足りないのか、その家の介護の問題点は何で、それに対してどういう商売が できるのか。そういったものは、定期的に訪問看護をすればすぐ分かる。

訪問セールスは、相手に「家のドアを開けてもらう」のが仕事の全てだけれど、 訪問看護の人達は、「介護」の一言でこれをクリアできる。

看護の知識を持った人というのは、病人を抱えた人にとっては一種の権威者だから、 そういう立場の人がものを売るのは、一般のセールスの人に比べて、相当楽。

無償ルールによる責任の回避

医療の分野は、「責任」がかかってくると天文学的なコストがかかる。

医療用の様々な物品は、市販の同等品に比べると、本当に高価なものばかり。 価格差のほとんどは、「信頼性」という万が一の時に備えたコスト。 中身の部品の性能自体には、多分そんなに大きな違いなんかない。

薄利多売でビジネス展開を挑むときには、「有償」による利益よりも、 「無償」によるリスク回避のほうが、より大きな価値が出る可能性がある。

このあたりはリスク回避の契約が本当に交わせるのかどうかで変わってくるけれど、 介護の世界というのは、有償の職員によるサービスよりも、 無償の職員によるボランティアのほうがうまく行くような気がする。

もちろん、無償なのは介護レイヤでの話で、他の分野から対価をもらう必要はあるわけなんだが。

「すっぱいぶどう」を排除する村八分システム

アメリカの民間健康保険では、「さくらんぼ摘み」という行為が横行した。

民間の健康保険は、始まった当初はけっこううまく機能した。 ところが新規の保険機構は、既存の保険者の中から健康な人を対象に、 よりよいサービスの保険を安価で 提供してしまい、もともとの良心的な保険には、病人しか残らなくなってしまった。 結果として、病人だらけの既存の保険は赤字になり、従来の金額を維持できなくなって撤退した。

集団の中で、より「よい」人達をターゲットに商売するときには、こうした「さくらんぼ」がどこにいるのかを 探す必要があるから、後発のほうが有利になる。

最初から第2グループをターゲットに商売を計画しようと思ったら、これとは逆の発想をする。

  • 最初から「おいしくない」人達しかいない業界には、競合者はいない
  • 一人から得られる利益がごく少ない業界では、「ただ乗り」に伴う不利益が非常に大きい

無償訪問看護のビジネスモデルというのは、たとえば1ヶ月に10万円分のサービスを無償で 提供する代わりに、その家から10万1000円の品物を買ってもらい、一軒1000円の利益を 地域ごと総取りしようというもの。

このやりかたには競合者がほとんどでないけれど、サービスだけ「もらいっぱなし」で、 生活雑貨を近所のコンビニで買われたりすると、1件あたり10万円の損益が出てしまう。

かといって、「月10万円の買い物」を契約すると、その時点で介護にも責任が発生する。

こうしたただ乗り屋を排除するための、「村八分」のシステムを最初から組み込んでおかないと、 たぶん失敗するだろう。

このために、「世間」というシステムを作る必要が出てくる。

「世間」を強制するボランティア

世間とは、社会を構成する個人をお互いに査定しあうシステムのことだ。

人が集まれば、そこに「その集団の中の平均的個人」とでも表現するしかない、 メンバーはかくあるべきといった不文律のようなものができて、 メンバーはそれから大きく外れないように しないといけない。

規則は明文化されてはいないけれど確実にあって、 これに抵触したと判断された場合は、問答無用に「世間」から排除される。これが村八分。

「世間の不文律」は、外からは分からないし、作れない。企業の訪問看護の人は「外の人間」だから、 「世間システム」を動作させるには、どうしても地元の人の協力がいる。

具体的には以下のようなことを考える。

  1. 看護行為は地域のボランティアの人がやる。ボランティアは企業に登録していて、 訪問先までの交通の便を計ってもらったり、あるいは企業からなにがしかの対価を受け取ったりする
  2. 病人を持つ家庭と企業とは、ネットワークで結ばれる。 家族は「こういうボランティアがほしい」という依頼を 出して、一方ボランティアは「こんな家に行きたい」という要望を出し、両者が合致した時点で 訪問先に行き、家族の人を手伝う
  3. 家族とボランティアは、お互い匿名で、相互評価ができる
  4. 「ただ乗り」ばっかりだったり、あるいはボランティアに対する扱いが悪い家族は「嫌われる」。 申請を出しても、なかなかボランティアがみつからないから、排除されることになる

結局何をしたいのか

こういうビジネスは、大手の医療用品メーカーが参入できるかもしれないし、あるいは セブンイレブンみたいな流通組織が、あらたに介護分野に参入してくるときの 戦略に使えるかもしれない。

個人的にはどっちだって全然かまわないのだけれど、とにかく数年以内に何とかなってほしい。

今いる地域は土地が安いからなのか、急性期のベッド1床に対して、 慢性期のベッドが多分8床ぐらいある。老健施設の町。

これだけあると、救急車でくる高齢者を断らなくても、何とかベッドが回るし、 家族の人もすんなりと退院に同意してくれる。

前いた地域はもっと都市部だったけれど、もうめちゃくちゃ。

  • 主訴「食欲不振」を受けたら負け
  • 寝たきり老人を救急車から降ろしたら負け

医学的には「軽症」な寝たきり老人だって、病院以外の場所では生きていけない。

一生入院させて下さいとごねる家族と、そもそも入院の必要なんてありませんから…と説得する医者。 歩み寄るなんて最初から無理。ストレスいっぱい。

今いるのは小さな病院だし、何でも診なきゃ行けないから忙しいけれど、 「寝たきり老人の入院希望をそんなに断らなくてもいい」というだけで、気分的には本当に楽。

この地域ですら、もう近くの施設は身動きが取れないぐらいにいっぱい。患者さんの回転は だんだんと悪くなって、入院を取るのにストレスがかかるようになって来ている。

今度の「10万床削減計画」の煽りで、事態はもっと悪くなる。

何とかして、介護というものを何らかのビジネスにして、そこに多くの人を引っ張れないと、 老人というのが、本当に単なる荷物になってしまう。自分も年をとるし、 仕事柄、それは絶対にいや。

普通に忙しく働かせてくれれば、もうそれで十分満足なんだけれど。

2006.10.11

影踏み鬼の2つの顔

影というのは、呪術的には本体の延長。

影踏み鬼という遊びには、「その人を捕まえる」「影の中の魔を払う」という2つの呪術的な意味がある。

文章化されて没落する企業

「エクセレントカンパニー」とか、「社長の成功法則」みたいな、提灯持ちの評論でもてはやされた 企業というのは、没落してしまうことが多いのだそうだ。

没落してしまった企業は、今度は「○○の失敗の研究」みたいな文脈で、 評論家の人の懐をもう一度潤すことになる。

  • 経験の蓄積を一般法則へと文章化する過程で、経験の大部分は単純化され、 最初からなかったことにされる
  • 出版された「自分達らしさ」のイメージを見せられてしまうと、 それに引きずられて、現実に即した自由な戦略を立てられなくなる

たぶん、こんな理由で企業や社長さんは不完全な形で文章化され、 自由を奪われるから、競争においていかれる。

影踏み鬼では、踏まれるのは本体でなくて、ただの影。それなのに、本体の自由もまた奪われて、 その人も鬼の仲間になってしまう。

文章化した考えかたというのも、本体とは関係ない、ただの影。それなのに、影は本体の動きを縛る。

概念の文章化という行為

頭の中にあるあいまいな概念を文章化するのは、本当に難しい。

「こんなはずじゃないのに」。いつもそう思う。

いろいろな人から「文章長すぎ」と指摘を受けてはいるけれど、 まだまだ全然言い足りない。

言いたいことが全部かけたと思ったことなんて、本当にわずか。 逆に、書いているうちに自分の中に何かの法則を「発見」して、はじめに想定した内容と、 全く異なった展開になったこと、何回か。

概念の伝達とは何か。こんなおしゃべりになったことがある。

もしも完全な記憶の伝達というものがありうるならば、 当然それには身体記憶や「カン」みたいなものも含まれるはず。 たとえば、研修医が内視鏡をするときに、事前に「消化器部長の○○先生」の 記憶を注入すれば、次の瞬間にはベテランの動作ができるといったように。

伝わりやすさと、頭の中の概念からの隔たりというのは、たぶん反比例する。

部長の弟子として一緒に仕事をすることと、その消化器部長の本を読むこととの間には、 すごい隔たりがある。本をいくら読んだところで、動作のコツなど分かるわけもない。

文章化する前の「概念」というものは、文章で表現できるもの以外に、 たぶん動作とか、音声とか、視覚とか、どうやっても文章で表現できない「何か」を 大量に含んだ、混沌としたもの。

頭の中身の文章化という作業は、その「概念」に強力な光を当てて、 地面に写ったの輪郭をなぞる行為だ。影は2次元情報だから分かりやすいけれど、 その過程では大量の情報が失われてしまうし、 影から本体を再現するのはまず不可能。

一貫性の罠

影はしばしば、本体を乗っ取る。

頭の中にある概念の劣化コピーにしかすぎないのに、カタチを持った文章というのは、 無視できない存在感を持つ。

方法論が文章化されて、そこから導き出される結論が一般化されるとビジネス書ができるけれど、 それにもっとも強い影響を受けるのは、たぶん取材を受けた企業であったり、社長さんであったり、 その本の取材対象となった人そのもの。

影が本体にとって代わることなんてあるはずがない。

ところが「影」の主となった人、あるいは企業が、何かを迷って自信を失ったとき、 文章として実体化された影は本体の思考を支配する。

  • 「今まで自分はこんなふうに考えて来た」
  • 「こんなとき、全盛期の自分達ならきっとこうするだろう」

一度文章として実体化した考えかたは、一種の契約として、その人の行動を後々まで縛ってしまう。 自由さを失った本体は、競合者との競争にはどうしても不利になる。

矛盾のないきれいな結論

概念というのは形を持たない。

決定というのは本来、その概念と、その場その場の状況との相互作用で生まれてくる。 そこには一般法則なんてなくて、個々の事例の積み重ねがあるだけ。

事例の蓄積には矛盾が多いし、理想的に展開した事例もあれば、グダグダの展開になった事例もあって、 きれいな結論を見出しにくい。

ところがそれでは文章にならないし、ましてや売れる本にはならないから、 評論家の人は、取材を通じて強引に結論を見出そうとする。

「踏む」という行為のもうひとつの意味は浄化

本の作者にとって、一番大切なのは取材対象の真実なんかじゃなくて、 自分の頭の中に作った必然と、そこから見出された結論。

「企業の成功法則」は、たいていの場合は取材者の頭の中に最初から出来上がっていて、 取材を通じてその結論に当てはまる事例だけを拾い上げているだけ。

だから、出来上がった本は矛盾が少なくて、分かりやすい。

真実は、作者の創作したイメージにより踏みつけられて、焼却される。

そうして出来上がった本は分かりやすくてよく売れるけれど、 その中には真実なんてほとんど残っていないから、あんまり役に立たない。

衝突するイメージの争い

たとえば医療過誤報道の取材のときなどは、病院側が述べた「事実」なんかには、 取材する側は興味がないのだそうだ。

みんな、最初から「事故に至った必然」と「そこから得られる結論」とのイメージを持って 取材に臨むから、病院側が伝えたいことは無視されるし、インタビューに答えたところで、 使われるのはそのうちの「イメージ」に合致した部分だけ。

「影踏み」のルールは、鬼が一人しかいないから、鬼の力は一方的。 ところが、「鬼」が複数になると、影踏みのルールは複雑になる。

取材を受ける側とマスコミとの間に立つ存在として、PR会社というものが注目されている。

彼らの戦略というのは2つ。

  • 取材者の持つイメージに対して、こちら側も最初からイメージを作って、 取材しやすい物語を作ってしまうこと
  • 相手の持つ取材イメージを補間する材料になるような答えかたを避けたり、 取材の会場をうまく仕切ることで、取材者のイメージが一人歩きするのを避けること

「PR会社の時代」という本の中では、こうした行為は 「真実を正しく伝える」ためのものと書かれていたけれど、 悪い言いかたをすれば、これはやはりイメージ操作の争い。生データは 別にあって、真実は公表されない。

データサーバーとしての出版社

「鬼」役の人がもっと増えて、ついには「人」と「鬼」との人数が逆転すると、 影踏み鬼はもはやゲームとして成立しなくなり、人と鬼との立場の逆転がおこるかもしれない。

文章の流通に問題のあった昔は、表現自体に「感染力」を持たせないと広まらなかったから、 どんな本でも、こうした単純化のジレンマみたいなものからは自由になれなかった。

ネットワーク時代の昨今、文章の流通コストは信じられないぐらいに下がって、 誰が書いた文章でも、数千人オーダーの人に読んでもらうのなんて簡単になった。

出版に「次世代」があるとしたら、感染力と引き換えに 創作せざるを得なかった結論とか、単純化といった行為を廃止して、 「感染作業」は思い切ってネットに任せ、面白い事例を蓄積して、 それを安価に配信するような伝えるようなやりかたができるかもしれない。

同じデータを目にしても、立場が変われば、データから見出す「必然と結論=イメージ」は みんな異なる。

取材した人は今までどおり本を出すにしても、出版社側は、取材した生データを管理して、 それに検索機能を持たせたりして、生データを参照可能にしておく。

本の作者は、もちろん自分の意見にそったデータを引用して本を書くけれど、 出版者に対価さえ払えば、他の誰かが同じデータを使って、全くちがった文章を発表したり、 あるいは本を出版したり。

データから対価を得るモデルさえうまく作れれば、ネット上の「」のエネルギーを お金に変えることができたり、出版された本に対して異論が続出しても、そうした意見の 全てから対価を得るということができるかもしれない。

本の作者というのは、主に生データの「変換」という部分で報酬を得ていたけれど、 ネットでは誰もが、同じ行為を無料でやる。質はピンからキリまでだけれど、 平均コストは間違いなく下がった。

生データ自体から対価を得るモデルが本当に可能ならば、作者の報酬というのは、 たぶん生データの面白さ自体から得られるようになる。

その流れというのは、たとえば戦場カメラマンみたいな現場仕事の人には福音をもたらすかも しれないし、生データを作れない、評論だけやっていたような人の一部を失業に追い込むかもしれない。

現場をやっているぶんには、その流れというのは決して悪いもんじゃないと思うのだが…。

2006.10.10

それはまた別の話

新聞記者の文章は技術のたまもの

短い文章を書くのは本当に難しい。

なあに、かえって免疫力がつく」の名フレーズを産んだ東京新聞の社説。 あれだって生半可な技術では、絶対に書けない。

たかだか1000字ちょっとの分量で問題を分かりやすく解説して、 作者の経験に照らした感想を結語に入れて、あまつさえ 読者の想像を刺激する突っ込みどころを作っておいて、 いろいろな人から反響をもらう文章にする。

はなれ業。よほど訓練を受けた人でないと、ああいう結果は作れない。

新聞記者の文章というのは、無駄のない文章を書くという技術においては最高峰だ。

文豪ヘミングウェイは、かつて何年間か新聞社に弟子入りした。

見てくれ!!一片の脂肪もない、100% 筋肉だけの文章だ」と、 そのあと書き上げたのが、かの「老人と海」だった(うろ覚えだけど)そうだ。

従来の文章作法では、必然性のない動作やセリフは「脂肪」であり、 削ぎ落とすべき悪だった。

ところが、こうした文章作法を継承するのには経験が必要で、新人は、ベテランには絶対勝てない。 短い文章を書くのは難しくて、その技術を磨くのには相当な努力がいって、 よほど優れた人でないと、社説を書く論説委員にまで登りつめるのは難しい。

社説じゃなくて、小説の世界なんかでも、たぶん同じ。

物語に対する必然性

従来型の物語にとって、必然性というのは絶対にはずせない要素だった。

登場人物の台詞や動作というのは、物語の流れが作る必然によって規定されていて、 そこから外れた要素は全て無駄。

いい文章、名作と呼ばれる文章には無駄がない。文章を解読して、そこに隠された 作者の意図を読み取る技術は再現可能なものだから、国語の教育とか、 現代国語の試験といったものが成立する。

世界中の作家が同じ土俵で勝負して、みんなが 従来の文章作法を継承して競争する世界では、「いい」文章と「悪い」文章の 序列もはっきりしている。新人がベテランを打ち負かすのは難しい。

文章の短さとか美しさ、必然性や感染力みたいな属性での競争は厳しい。 パイの大きさは限られているし、洗練された文章は、それについていける読者が少ない。

従来の競争から外れた世界を開拓しようと思ったら、 従来必要と思われていた何かを削って、別の何かを加え、 全く新しい読者層を開拓しないといけない。

変化させるパラメーターは、以下の2つ。

  • 削るものは、物語に対する必然
  • 代わりに加わるものは、自由さと可能性

従来の名作文学、たとえば太宰の「斜陽」のキャラクターを使って2次創作をしようと思うと、 とても不便な思いをすることになる。

「斜陽」の登場人物、没落貴族の主人公とか、自殺する弟にも、 物語では語られない私生活は当然あるはず。ところが、あの物語の中での人物の「動き」や 「語り」には必然性が高すぎて、自由度がまったくない。

従来の名作文学の中では、登場人物の動きや動作は、物語の必然性の中に刻み込まれている。 それがあまりにも強いから、物語のバックグラウンドの「世界」を想像することがしばしば 難しくなったりするし、物語に対して自由な想像力を働かせることが難しい。

世界に対する必然性を持った物語

  • 従来の文学は、物語に対する必然性を重視する
  • それを放棄する変わりに、世界に対する必然性を強めた物語は、読者に自由を与えるかもしれない

物語にとっての必然を放棄して、代わりに世界に対しての必然を強力に打ち出したのは、 エンデの「はてしない物語」が最初なんじゃないかと思う。

あの長い長い物語には、「それはまた別の話」というフレーズがたくさん出てくる。

物語世界では、主人公と別れたキャラクターにもその後の生活があるし、 目的を達成した主人公にだって、その後の生活というものがある。

従来の物語の文法では、そうしたものは無駄なものとして省かれ、また物語の必然を乱すものとして 書かれなかったから、それを想像することは難しかった。

「はてしない物語」は、あえて「別の話」を想像してもらう余地をたくさん残して、 読者にその世界を想像してもらうための材料をたくさん詰め込んだ。

物語に対する必然性を放棄した物語は冗長になるけれど、 その代わりに「リアルな世界」と、「自由なキャラクター」との2つを手に入れる。

ミヒャエル・エンデは、従来の物語ルールとは違った側面を打ち出すことで、 競争相手のいない、新しい読者の開拓に乗り出そうとしたんじゃないかと思う。

この本は、厚くて硬くて高くて重い。 ハードカバーのほうなんて、撲殺用の凶器に使えるぐらいに硬い。

映画化もされたぐらいに有名なわりには、高価だったからかそんなに 本が売れている印象はなかったけれど、 それでもきっと「はてしない物語」は、想定した新しい読者層の開拓には成功した。

冗長な台詞回しと、必然性の少ない、状況を楽しむためのたくさんのセリフ。

読者の自由な想像を刺激して、活発な2次創作が行われる文学領域。

つまり、こういうこと。

kibayasi.jpg

結論はネットのどこかに

小説に「次世代」があるのだとしたら、 ライトノベルというのはその先端にあるのだと思う。

作者は世界観の設計と、登場人物の造形を担当して、主要なエピソードの 間隙を補間したり、あるいは登場人物の心理の解釈は、 読者の自由な想像にゆだねるやりかた。

そんな物語は、たぶん無数の解釈を生み、それが面白ければ、 ネット上で議論を生んでも、統一した答えなんか出てこないはず。

当然、現代国語の試験問題なんか作れるわけもない。「そのとき、主人公の心理を述べよ」なんていう 設問があったところで、こうした物語には無数の解釈が可能だろうから。

全文を見せないで、途中で「続きを読む」というリンクを張ってあるブログがあるけれど、 次世代の文章というのは、きっとリンクの先にあるのは、2ちゃんねる掲示板だったり、 はてなブックマークのコメント欄だったり、作者が管理するページ以外のどこか。

もしかしたらリンクした先には文章すらなくて、画像であったり、Youtubeの動画であったり。

作者の提示した世界観に対して、実世界のさまざまな立場の人が、思い思いに結論を考察する。

そこでは作者すらも「その他大勢」の一人となって自説を展開して、 正解が誰なのかなんて、誰にも分からない。

従来の文章メディアは、結論まで含んだ「完成品」を作って、水平展開した広さを競う。 次世代の文章メディアは、むしろ縦方向に展開する。

作者や、その周囲の人がお互いに相互作用して、巨大な情報ツリーを作る。

筆者に対する評価は、どれだけ大きな木を作ったか、あるいは、どれだけ「幹」に近い体験を 記載することができたのかに寄せられる。

なあに、かえって免疫力がつくの社説というのもまた、 従来の文脈では失敗なのかもしれないけれど、 読者に「東京新聞」という世界を提供した、大成功した文章であるとも言える。

あの言葉を黒歴史化しないで、「東京新聞というのは、こうしたスタンスから情報を発信する プロの記者集団です」というメッセージを象徴する言葉として大々的に用いていれば、 きっとみんな絶賛したと思うんだけれど。

2006.10.08

陰謀論の怪物

怪物不在の陰謀論

「Web2.0が殺すもの」という本を読んだ。

最近流行のWeb 2.0 とは、google や梅田某をはじめとする一部の人々の陰謀であり、 みんな彼らに踊らされ、搾取されている

こんな内容。陰謀論は昔から大好きだし、作者の論理も分かりやすくて、 ごまかしも少ないような気がしたけれど、陰謀論特有の「やっぱりそうだったのか!!」 という感激はなかった。

国際ジャーナリスト、落合信彦氏のドキュメント「20世紀最後の真実」 を貫く論理もまた、陰謀論。

これは、ナチス残党が今でも潜伏する証拠をつきとめた落合氏が、彼らの姿を求めて 単身アルゼンチンの危険地帯に潜入、ナチス残党との接触に成功して、 南極にあるUFO の秘密基地の存在を明らかしていく物語。

今でも全部実話だと信じているけれど、あの本が出版された当時、 その内容の信憑性をめぐって、同級生の間で議論になった。

  • Web 2.0 という言葉を弄して、一儲けたくらもうとしている連中がいる
  • ナチスドイツの生き残りが、再び世界征服を計画して、南極にUFO 基地を作っている

実行しやすい陰謀は、圧倒的に前者。ところが、「ああ、なるほどな」と感覚できて、 物語として納得しやすいのは、圧倒的に後者のほうだ。

梅田望夫氏とナチスドイツ。2つの陰謀論で悪役として語られる「怪物」。

存在としてリアリティが高いのは、もちろん実在する梅田氏のほう。 ところが、陰謀論世界に君臨する「怪物」としてのリアリティは、 ナチスの残党の方がよっぽど高い。

陰謀論を成功させるには、論理なんて二の次。なによりも、怪物のリアリティが大事。

怪物が怪物であるための条件

  • 怪物は言葉を喋ってはならない
  • 怪物は正体不明でなければならない
  • 怪物は不死身でなければ意味がない

…某小説から。

陰謀論物語の説得力を背負う「怪物」がこの定義を外してしまうと、 怪物はただの人間となり、陰謀論は説得力を失う。

ナチスの残党。ユダヤ人やロックフェラーの陰謀。 NHK や、霞ヶ関の住人、あるいは、悪徳医者。

悲観的な話を作って、それは全部「○○が悪い」という陰謀論が流行ってる。 悪役の「○○」が怪物らしくあることで、物語はリアリティを増す。

厚生省の官僚は、毎夜真っ裸のお姉ちゃんの大腿にむしゃぶりつきながら、 ノーパンしゃぶしゃぶに舌鼓を打つそうだ

毎晩税金で遊び呆けている官僚の図というのは、しゃぶしゃぶ肉の1枚に至るまで、 リアルに想像できる。下衆な遊びにうつつを抜かす怪物としての「厚生省官僚」という存在は、 それだけリアルだからだ。

怪物認定された側の反論は、たくさんあるだろう。実際のところ、霞ヶ関は 忙しすぎて、肉喰うどころじゃないらしい。

ところが、「嘘で固めた反論」というのもまた、 みんな怪物としての存在の中に折り込み済みだから、官僚や医者がいくら反論したところで、 観客の耳には、怪物の雄叫びとしか届かない。

同じことを、たとえば「梅田望夫氏が…」なんて陰謀めいた都市伝説をでっち上げて、 ネットに発信したところで、[これはひどい]のタグをつけられて終わり。注目エントリーの端にも かからないような気がする。

Web 2.0 にはなぜ楽観論が似合うのか

「Web2.0が殺すもの」の中で悪役とされたgoogle や、梅田望夫氏には、怪物としての条件が 決定的に欠けている。

  • よく喋る。ネットを通じて、あるいはblog を通じて、常にいろんなことを主張しているし、 いろいろな人とつながっている。id:umedamochio のRSS リーダーに登録されているblog 管理人、 けっこういるんじゃないだろうか?
  • 正体が分かりやすい。本で指摘されているとおり、 みんな崇高な理念じゃなくて、ビジネスで行動している。 ところが、そもそもそれを隠していないから、怪物の正体不明感には結びつかない
  • 刺せばたぶん死ぬ。官僚一般、医者一般といった一般概念で括られると、 なんだか一人や二人倒したぐらいでは、何のダメージにもならないような気がしてくる。 犬を飼っているとか、散歩をしたとか酒を飲んだとか、そうした記載というのは、 人間としてのリアルさを強め、怪物のイメージを遠ざける

ネット世界では、NHKや朝日新聞は、ほぼ例外なく叩かれる。

あれは、「お遊び」の要素もあるのだろうけれど、 たぶん原因になっているのは、彼らが「怪物」へと変貌しやすい要素をたくさん持っているからだ。

彼らは個人個人が何を考えているのか分からないし、「公平」とか「正義」とか、 実世界にはありえない立場から現実を論評しようとするから、 言葉がリアルでなくて、正体が分からない。 一般概念化した集団だから、なんとなく不死身っぽい。、

「秘書がやった」という政治家の発言も、政治家に不死性を与えることで、 その存在を怪物化させるきっかけになっている。

怪物性は、「やっぱりあいつらが世の中悪くした」 という陰謀論を広がる原動力になる。

Web 2.0 。この言葉が多分に広告的な意味あいが強いのは確かなんだろうけれど、 この世界にはやっぱり楽観論が似合ってる。

その理由というのは、結局のところ「人間がリアルな言葉を喋っている」という、 すごく素朴なものなんじゃないかと思う。

リアルな言葉が作る通じ合う空間

ネットでは、「きれいなジャイアン」は嫌われる。

  • 表裏がない人、「リアルな」言葉を喋る人は、たとえ悪いことを考えていても支持される
  • リアルさのない人、過去の自分の発言と矛盾したり、きれいな理念を口にしながら、 汚い面を隠す人は嫌われる

ネット時代で敵を作らないために大切なのは、自分の立ち位置をはっきりさせることと、 その場所からリアルな言葉を発信することだ。

倫理的な善悪とか、使命感とか正義感とかは、たぶんそんなに重要じゃないか、 もはや意味をなさない。

むしろ大事なのは、自分がどんな立場の人間で、何を求めて言葉を発信するのかを はっきりさせること、何を考えていて、それが実現するとどんなメリットがあって、 誰が割りを食うことになるのか、そんなことを美麗な言葉で隠さないこと、 どうやってそれを実現するのかだけじゃなくて、 自分はなんでそれをやりたいのかを一緒に語ること、そんなことなんじゃないか。

意見の集積コストがゼロに等しいネット世界では、「無難で、支持を得やすい」意見というのは、 もしかしたら全く力を持たなくなるかもしれない。

マスからニッチへ。無難さと、支持の強さとは反比例する概念となる。

それぞれのニッチにあった、 無難さから離れた意見は、強い支持を集める。 ところが、いくつものニッチをまたぐ際にその意見が変われば、 その人は瞬く間にリアルさを失い、誰からも支持されなくなってしまう。

楽観論が支配するWeb の空間でも、支持される人もいれば、叩かれる人もいる。 叩かれる人というのは、悪い連中の集まりではジャイアンになり、いい連中の集まりでは 「きれいなジャイアン」を演じようとして、 結局のところ両方の陣営から「リアルでない奴」と叩かれる。

怪物にならず、人としての自分を発信すること、リアルな言葉を発信しつづけて、 その蓄積の果てに、多くの人と通じ合うこと。

通じ合ってさえいれば、きっと本物の怪物とだって分かりあえる。

エイリアンVSプレデター。

公開されたのは深夜のロードショーだったけれど、 あの時はたぶん、県内のSFホラーファンがみんな集まった。

深夜の映画館。年齢30代後半から50台の男女ばっかり。 もちろん、邪魔な子供なんか一人もいない。

スクリーンの中も外も、みんな「分かっている人」だけ。 笑うところも驚くところも、みんな一緒。

まるで、映画監督から「おかえりなさい」といわれているようだった。

内臓を撒き散らしてエイリアンに引き裂かれる人間達を 見物しながら、みんなでなんだかなつかしいような、暖かいような、 不思議に安心した空気を共有できた。

あれだけ幸せな映画体験というのは、そんなに多くはない気がする。

あのときはたぶん、スクリーンの内外では、「種」の壁すらもこえて、きっと何かが通じあっていた。

2006.10.05

blogの書きかた

普段気をつけていることとか。

数字的なもの

XREA のアクセス解析では、調子のいい日はこんな感じ。

リクエスト成功件数: 43,599 異なるサービスホスト数: 6,525 データ転送量: 1.00 ギガ (10億) バイト

ディレクトリごとのアクセスは以下のとおり。

リクエスト数: バイト数の割合 (%): ディレクトリ ————: ——————: 15708: 35.40%: /blog/ 8641: 16.90%: /man_2004/ 2353: 9.77%: /monitor/ 2374: 8.03%: /echo/ 1220: 7.82%: /stecg/ 3274: 6.39%: /kokyuukannri/ 871: 3.82%: /kidoukakuho/ 555: 2.36%: /wave/

サイトを作って大体5年。

平日はこのぐらいで、日曜日になるとこの2/3ぐらいのアクセス数。

総はてブ数が2000 程度の、 中堅どころのサイトで分かったこと、気をつけていること。

長すぎると読んでもらえない

文章は、あるていど短くしないと読んでもらえない。

普段はエディタで文章を書いていて、最初の段階では、 1 エントリーあたりだいたい6000 字から10000 字程度。

それを削って、短いのは3000 字後半、長いのは8000 字ぐらいにしてアップロードする。

文章を書いている側の感覚としては、「言いたいことを言った」と満足できるのが、 7000 字を超えたぐらい。 文章量が3000 字ぐらいになると、不安なぐらいに短く感じる。

どうやったらブックマークをもらえるのかというエントリーがいくつか出たとき、 「とにかく長い文章を書くとブックマークがつく」という指摘が出たけれど、そうでもない。

長い文章というのは、それだけ「思い入れ」は強い文章だけれど、 文字数が5000 を越えると、全くブックマークが伸びなくなる。

逆に、ブックマークが伸びて、人気エントリーに名前を載せてもらえるような文章というのは、 いつも文字数が3000 から3500 字程度のもの。

「なんでこれが?」と、書いたほうがびっくりすることは、結構多い。

エントリーを読む時間はだいたい4分

最近、google のアクセス解析を入れた。

これをみてみると、一つのエントリーに目を通す時間の平均値は、3分から5分の間。

エントリーを上げてから数日すると、この時間はだんだんと短くなって、2分ぐらいになってしまう。

たぶん、新しいエントリーをアップした最初の数日は、ほとんどの人が文章を最後まで読むのに対して、 数日経った文章というのは、書き出しがつまらなければ、すぐに閉じられてしまうのだろう。

自分自身、他人様のエントリーを読んでいて、同じ場所には3分といない。

普通の人の平均読書スピードというのが、1分間に800 字程度と言われている。

自分の読書スピードを計測すると、だいたい1分間に1500 字から2000 字程度だから、 3分間で5000 字前後。

忙しい人相手に最後まで読んでもらうには、「5000 字以下、できれば4000 字以下」 というラインを守らないといけないらしい。

「起」と「結」はいらない。

エントリーの中に「起承転結」を全部入れようとすると、3000 字では絶対おさまらない。 5000 字以内でも相当苦しい。

ある程度の物語の面白さを残しつつ、文章量を削ろうと思ったら、文章の導入部分と、 結論部分は省かざるをえない。

当然、文章としては未完成になる。

題名のあと、いきなりエピソードが始まって、作者が考えた内容がいくつか書き綴られて、 エピソードから導かれるテーマは、書かれずに終了。

3000 字で文章を書こうとすると、こうなってしまう。

少し前までは、こうした未完成品の文章を書くのには抵抗があって、 長くなろうが、面白さが落ちようが、導入と結論とを必ずつけていたけれど、 最近は考えが変わりつつある。

大切なのは「気づき」の過程やその感激を伝えることで、 一般化した結論なんかには、意味がないんじゃないか?

以前書いた「部長のみっともない治療」というエントリーに対して、 自動ニュース作成Fというサイトで、 「こんなにいい尽くされたテーマを言うために、このバカは何文字費やしてるんだ?」 という感想があったけれど、たしかにそのとおりだと思った。

演劇の世界では、演劇を通じて「テーマ」を伝えるという考えかたは前時代的な手法なんだそうだ。

世界平和とか、恋愛最高とか、そうしたテーマはもう言い尽くされてしまって、 主人公がそんな結論を叫んだところで、しらけるだけ。

テーマはもはや言い尽くされたけれど、それでも劇作家には「伝えたい思い」というのが まだいくらでもあって、それを観客と共有しようというのが、現代劇の思想なのだという。

結論とか、テーマといったものは、きっと読者の中に自然発生する。

「起承転結」全てのコンポーネントを文章の中に内包させることをやめて、 特に結論部分は読者にゆだねてしまって、その前の体験や発想の段階の ディティールを伝えることにエネルギーを使ったほうが、 blog の文章としては正しいような気がする。

出来の悪い完成品よりも、出来のいい未完成品を目指すような。

読者を信じる

昔、はてなブックマークを意識して書いてた頃の文章には、「このあたりを引用するだろう」という 思惑で、20字程度の「言いきり」の文章を入れてあった。

引用したいという心があれば、きっとブックマークもしてくれるに違いない…という 下心の産物だけれど、そうした部分のほとんどは、全く省みられなかった。

みんな、作者が思いもしなかったような場所を、「興味深い文章」として引用した。

読者は本当に多様で、多様な読者が集まってできた「集合知」の鋭さは、作者の想像を簡単に越える。

誰が、どんな部分に興味を持つのかなんて、本当に分からないし、 作者の思いいれなんて、読者になってくれる人には全然関係がない。

ステレオタイプ化した読者を想定して、 「あなたがた、こういった文章が好きでしょう?」なんて発想はたぶん読者を どこかで見切った発想で、それはあんまり正しくなくて。

作者が自分勝手に面白いと思ったことを書き散らしても、 読者はきっと、その中から作者が想像もしなかったような有益な部分を勝手に抽出して、 何かの結論を見出してくれる。

読者を信じるというのは、たぶんそんなことを信じることなんだと思う。

2006.10.03

自由のためのパターン化

同じ動作を繰り返して、自分がだんだんと頭を使わなく なってきているという危機感を感じたならば、たぶんその「学び」というのはうまくいっている。

パターン化した動作は、動作が意識に上ることがなくなるから、頭を使わない。 頭を使わないことは、決して悪いことではない。

エチオピアのマラソンランナー、「裸足の英雄」アベベは、 土人だから裸足で走ったわけではなく、 ローマオリンピックの競技コースを下見して、それを踏破するのに 最適なのが裸足であると見抜けたからこそ、裸足で走ることを選択したのだそうだ。

東京オリンピックの時は、アベベも靴を履いて走ったらしい。

アベベは走るということに熟練していて、戦略を変化させることを恐れなかったから、 裸足で走るという大胆な戦略を発想することが出来た。

同じ頭を使わないのでも、動作が熟達してパターン化するのと、 野生の感覚だけで動作することとは、意味が全く異なってくる。

  • 野生が研ぎ澄まされると、戦略は一つの焦点に向かって収束していく
  • 熟達者のパターン化した動作は、無数に変化した戦略へ拡散していく

終盤に変化するスポーツ選手

オリンピックの走り幅跳びの選手は、踏み切りの3歩手前ぐらいまでは、 全く同じ歩幅で走れるのだそうだ。

一歩目から踏み切り3歩前までは、何回計測してもほとんど誤差がない。 もはや機械同然。

ところが、踏み切り直前の「最後の3歩」に入ると、一歩ごとの歩幅がバラバラになり、 計測ごとに全然違う走りかたになる。

大リーグのイチローのバッティングも同様。バットに球があたる直前までは 同じフォームで、最後の瞬間になると、フォームが球種にあわせて大幅に変化するという。

個人競技のスポーツの世界では、記録につながるもっとも大切な瞬間というのは、 動作の終盤にあって、そこで選手の動きは大きく変化する。

将棋は序盤が大切

様々な戦略が研究されている現代将棋の世界では、序盤の勝負がもっとも大切なのだそうだ。

少し前までは、序盤で劣勢に立たされても、中盤以降に盛り返すことが出来た。 ところが、みんながお互いの棋譜を研究するようになって、将棋の戦略は洗練を増し、 その結果、中盤以降に逆転することが難しくなってきたらしい。

チェスはもっと極端で、現在プレイされているチェスのオープニングは、研究し尽されている。 序盤戦の有効な駒の動かしかた知らない人は、それを全て暗記した人とは勝負にならない。

終盤に「その瞬間」が来るスポーツとは逆に、戦略が洗練されて、 相手の一手に対する最善手が決まってくるような勝負事の世界では、 もっとも大切な「その瞬間」は、むしろ序盤にやってくる。

確率論と決定論

スポーツとゲーム。

「その瞬間」の場所の違いというのは、勝負事に対する考えかたの違いから来るんじゃないかと思う。

  • 勝負事を確率論的にとらえる人は終盤に命をかける
  • 勝負を決定論的に考える人は序盤に全てをかける

スポーツ選手は、勝負を確率論的なものと考える。

走り幅跳びで踏み切る瞬間のグランドの状態や風の具合、 バットがボールにあたる瞬間の風向きや球威 といったものは、本質的に予測不可能なものだ。

スポーツ選手は、大切な決定を最後の最後まで遅らせることで、確率による誤差を減らし、 結果がぶれることを防いでいる。

プロの棋士は、たぶん人間の意志は決定論的なものだと考えている。

お互いの戦略が洗練されているゲームの名人同士は、将棋盤を通じて、 お互いにコミュニケーションを行っている。

棋士が将棋を指しているのか、将棋盤が棋士に将棋を指させているのか。

そのあたりの境界は、序盤以降はあいまいになっているんじゃないかと思う。

名人同士の試合は、序盤以降は決定論的な振る舞いが支配的になるから、 初期値に対する敏感性が増している。

だからみんな、序盤に全力をあげる。

技術革新は論理を循環させる

個人競技のスポーツの世界では、たとえば風向きを予想するモデルを作るのは 不可能だから、その勝負は確率論的な振舞いに支配される。

ところが遠い将来、踏み切りの瞬間のグランドの状態とか、その瞬間の風の方向なんかを スタートの段階で予想するモデルが発見されれば、勝負を支配する論理が変わる可能性がある。

将棋の世界では、逆の現象がおきている。

誰もが過去の棋譜を研究するようになって、みんなの振る舞いが決定論的になってきた世界では、 今度は意図的に「想定外」の状況に引きずり込んで、そこから勝ちを拾いにいくという 戦略が出現している。

「私は、早い段階で定跡や前例から離れて、相手も自分もまったくわからない世界で、 自分の頭で考えて決断していく局面にしたい思いがある。」

将棋の羽生名人は、こんなことを言っている。

自分の動作に自覚的であること

時代は読めない。

発明王エジソン。たとえば発電から送電、電球にいたるまでのほとんど全ての システムを発明しながら、「これからは交流の時代」という変化を読めなくて失敗したり、 蓄音機を発明しながら、ロウ管録音にこだわるあまり、円盤レコードへの変化を読み誤り、 後発他社においしいところを持っていかれたり、読みを誤って失敗すること、多数。

それでもエジソンが生きているうちに成功したのは、自分が発明したものに対して 自覚的で、どんな些細なものでも特許をとって、後発メーカーとの訴訟合戦に、 それを縦横に駆使したことが大きい。

時代の変化についていこうと思ったら、 常に自分のやっていることに自覚的になることというのは大事だ。

自分の動作に自覚的になるのも難しいけれど、 時代を読むのに比べれば、まだ自分の努力で何とかなる範囲。

日本人が箸を使って食事をすることを初めて意識したのは、 ナイフとフォークが入って来た明治時代以降なのだという。

場所を移ったり、いろいろな流儀に触れるのは大切で、 他の人の動き、自分とは微妙に違った動きに触れて、そこで「こいつらダメだ」と思考停止しないで、 自分の動きの中の合理性と不合理性、他の人の動きの中から学ぶべきこと、 自分が学んできた動きの言語化などを出来るようになると、きっと何かの役に立つ。

認識のレベルをWhat からHow のレベルへとブレークダウンさせておくということは、 勝負でもっとも重要な「その瞬間」に至ったとき、 変化に対して意識が柔軟に対応できるように準備しておく、 そんな意味があるんじゃないかと思う。

2006.10.01

凄いのにそう見えない人

本当に仕事ができる人というのは、一見すると何も仕事をしていない ように見えるのかもしれない。

できるほど透明になる

最近、ベテランの医事課のスタッフが一人、退職された。

適当にやっておいて下さい」が通用した、数少ない人だった。

何か特別な資格を持っているとか、ものすごく大きなプロジェクトを成功させたとか、 そういう武勇伝みたいなものはなんにも無くて、淡々と医療事務をこなすだけの人。

でもすごい。仕事が快適。

事務仕事というのは複雑怪奇で、医者をやっている側からすればできれば近寄りたくない。

ああしたい、こうしたいという思いが医療者側にあっても、行政側にはその制度が無いとか、 それをやるためにはなにか特別な申請が必要とか。医療事務は、 そのあたりをすり合わせる能力が問われる。

医療と行政。

2つの世界の「橋渡し」をする仕事というのは、それが上手な人であればあるほど、 その人の存在が透明になっていく。

ああ」したいとか「こう」したいとか、医療者側があいまいな概念を放り投げても、 上手な事務方は、それを行政に伝わるように言語化してしまう。 あんまりスムーズだから、医事なんかいないように仕事がすすむ。

上手でない事務方が間に入ると、その人の「活躍」が、嫌でも目に入る。

あいまいな言葉を放り投げても、「具体的に、どうすればいいんですか?」なんて返事が返ってきたり、 行政からの返答も、こちらの意図とは微妙に異なってみたり。

概念の言語化や、行政サイドとの折衝。

こういう仕事は、お願いする側からもよく見える。 「この人、使えねぇな」と思うよりは、「この人は仕事ができる人なんだな」とか、誤解しやすい。

本当に上手な人は、このあたりの「仕事」が、ごくわずかしか存在しない。 医者からすると、「ほら、俺の言ったとおりになっただろ」という気分になるから、 快適なんだけれど、その人の活躍は感覚しにくい。

乱暴な人は評価される

一時期評判になった、病院再建のプロ。

あの人の「再建戦略というのは非常に簡単。とにかく急患を受け入れて、 病院の窓口をきれいに改築して、職員の給料を引き下げて…といったもの。

どこの病院にいっても、やりかたはだいたい同じ。

現場は大混乱。その人の「仕事」ぶりというのは嫌でも感覚される。 「使用前、使用後」の違和感がものすごいから、その人はたしかに大活躍して いるように見える。

実際には、その人が去ったあとの病院は、もう悲惨なことになっているらしいけれど。

「病院をなんとなく改革したい」という、病院経営者のあいまいな概念と、 再建請負人が実際に施行する、現場を変える様々な戦略。

あいまいな概念を単純化して考えるとき、そこに情報の欠落が生じる。本来は不都合な欠落。 ところが、依頼人に感覚される仕事の量というのは、たぶんこの欠落の大きさに比例する。

本当に上手な再建人がいるとしたら、その人が現場にはいっても、 一見何も変わらないように見えるはず。 再建人の考えかたは、ウィルスのように感染する。 中の人も気がつかないうちに、現場の空気はだんだんと変わり、 業績が上がる。そんなふうに「効果」が現れる。

現場はきっと、「その人がいなくても、自分達だけでも同じことがやれた」と錯覚する。 再建人に依頼した県の役人も、たぶん「わざわざその人を呼ばなくても、 現場が変わるのは時間の問題だった」と総括するだろう。

認知的複雑性の定量化

あいまいで複雑な概念を、単純化しないでそのまま処理する力というのは、 こんなふうに評価が表に出てこない。

退職してしまった事務の方も、たぶんその人の優秀さみたいなものは分かりにくくて、 たとえば転職するにしても、その力を分かってくれる施設は少ないのかもしれない。

たぶん、ある種の職業では、本当に優秀な人というのは空気みたいな存在で、 あんまり目立たなかったりするのだろう。

今流行の成果主義なんかは、こうした人の「凄さ」を発揮する場を奪い、 組織内の空気がますます殺伐としたものになっていく。

会社や組織、個人といった機能単位には、「複雑なものを複雑なまま処理する能力」 というパラメーターがあって、それは、中の人には評価ができない。

それを評価するのには、組織の外にあって、集合知の力を借りることができる存在でないと、無理。

株式相場というのはたぶんそのひとつ。

投資家という職業に何か社会的な役割を求めるとしたら、こうした外からは見えにくい、 「分かりにくいけれど結果を出す」能力や存在を可視化するという部分なんだと思う。

プログラマーで投資家のDan さんが以前、 たぶん同じことを書いていた気がするけれど、 会社ごとの評価単位を個人のレベルにまで解体して、 こうした能力に正しく価値を付加して、「頑張っている人が正当に評価される」 社会を作ろうなんて思ったら、たぶんこういう人があと10万人、日本で実働している 医者の数と同じぐらいは絶対必要。

ところが、誰かの能力を査定するには、査定者にはその人以上の能力がいる。

で、それだけの能力を持った人を10万人も集められるなら、 日本政府も「いい社会」なんか目指さないで、 さっさと世界征服でもはじめたほうがよっぽど簡単に 理想郷が作れるかもしれなくて…。