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2006.09.27

お受験 2.0

前提条件として以下のことを想定した場合の、新しい入学試験形態の提案。

  • 格差社会という現象が今後も続く
  • 「勝ち組み」といわれた人も、先のことが全然読めない状態は続く
  • 少子化は進み、大手学校法人でも、生徒を集めるのに苦労するようになる

こんな前提が続くのならば、「入学希望者を試験で選抜する」という従来の制度を止めて、 「受験を本人にやらせるのではなく、その子供の推薦人を試験で選抜する」という 試験制度を提案する大手私学が出てくるんじゃないか、という話。

高校生のころ

通っていたのは結構有名な私学。総生徒数 8000名を数える、マンモス校なんて言葉を通り越した、 ひとつの町みたいな学校。

朝夕の国旗掲揚なんていう習慣があって、世間からは保守的な学長だと思われていたみたいだけれど、 結構時代の先を読んでいた。

  • 創立当初から野球に力を入れて、まず野球で有名になって、次に受験に力を入れた
  • J リーグが誕生する前から、「これから流行るのはサッカーだ」と、サッカー推薦の学生を多く取った。 今もこの学校出身のJ リーガーは何人かいる
  • 「社交の技術として、テニスとスキーは絶対に欠かせない」というのが昔からの方針で、 この2つのスポーツは必修科目
  • 「社会人として、歌舞伎とオペラを語れないと恥ずかしい」というのも昔からの方針で、 学校の中に演劇用のホールがあったりする
  • 「女子高生制服図鑑」なんていう本がベストセラーになったあと、「これからの学生は制服で学校を決める」と 予想し、女子部の制服を全面的に変更、それに合わせて男子部の制服も変わった。OB 会を含め、 全校生徒が反対したこの「制服改革」の結果、入学希望人員が大幅に増えたらしい

入学試験の選抜基準を大幅に変えたのも、自分達の頃。

ただでさえ人数の多かった学生数が、ある年いきなり2倍に増えた。

教えきれないとか、学校全体のレベル低下を招くとか、みんな猛反発。 それでも強行。

入学試験の時は、誰でも緊張する。実力がありながら、緊張のために普段の実力が出せない学生と いうのは、たいていは合格ラインぎりぎりのあたりで落ちてしまう。 そうした学生を拾えれば、レベルが下がることはありえない。

学長の説明は、たしかこんな話。

実際そうなった。

マスの中から目的の小数を見つける技術

あの頃はバブル前だったから、「定員2倍」なんていう力技は有効だった。今なら絶対無理。 実際、けっこう無理もきているらしい。

ネットワークばやりの昨今、たとえば疫病の予防線を張るときなどに使われているのが、 「感染者の友達はやはり感染者」という方法。

疫病のワクチンは、自宅に引きこもっている人よりも、 何百人もの友達と接する人に接種したほうが、 より予防効果が高い。

ところが、何万人もの中からそうした人を探すのは大変な手間がかかるし、 エイズみたいな病気だとそもそも聞けないから、 ワクチンを打ちに来た人に、「あなたの友達を紹介して下さい」とお願いして、 その人にもワクチンを接種する。

友達の多い人は、そうでない人に比べて、友達がワクチンを接種される確率が高い。 だから、紹介された先に「何百人もの友達を持つ人」がいる可能性は高い。

学生のパイは年々小さくなるし、優秀でない生徒が増えれば、学校のブランド力も落ちていく。

入学生をたくさん取って、ブランド力を「東大合格者数」だけに求めるようなビジネスモデルが 今後通用しなくなるなら、「受験」というリクルートの考えかたを変えなきゃいけない。

富裕層は不確定要素を嫌う

流動性が高まって、先の全く読めない時代。

富裕層にだって、「国家100年の計」なんて、未来を考える道楽をする余裕なんかほとんどないはず。

今度の内閣のテーマはチャレンジだけれど、 今「上」にいる人達が望んでいるのは、チャレンジャーが成功できる世の中でなくて、 たぶん「勝者が勝者でありつづけられる」ためのシステム。

どんな優秀に育った子供だって、「一発勝負」には不確定要素がつきもの。 受験というのも十分に不確定な要素だから、それを嫌う富裕層は、きっと多いと思う。

「不公平ルール」による入試の提案

不確定要素が少なくて、十分に「優秀な」生徒を集めるための方法というのは、以下のようなもの。

  1. 子供の親は、その子を推薦してくれる、身内以外の「推薦人」を探す
  2. 推薦人は、自分の履歴書と、その子供を推薦する文章を書いて、学校側に提出。 これが1次試験になる
  3. 2次試験は、子供本人ではなく、推薦人が試験され、合否判定が下される
  4. 子供の質については、入学まで一切問わない。推薦人は、「面子を失う」という社会的ペナルティのみ下される
  5. 推薦人は何人用意してもいいルールにすると、もっと不公平感が高まって面白いかも

昔からある大手私学で、いわゆる「ブランド力」のあるところであれば、 結構うまく行くような気がする。

根拠になっている理屈は2つ。

  • 優秀な人の友達は、やはり優秀である可能性が高い
  • 頭の中身に関係なく、優秀なネットワークに接続されている人は、社会的に成功する確率が高い

「社会的に…」というのがごまかしを入れているところで、こういうやりかたをすると、 東大合格者数とか、塾の偏差値といった、数字で評価できる要素は間違いなく下がる。

だから、古くからある私学みたいな、数ではなく、ブランド力を維持することに 力を注げるところでないと、たぶん失敗する。

このシステムは、まず推薦人を用意できないと始まらないから、 すごい人を雇えるぐらいに裕福か、すごい人に知りあいの多い親でないと、 まず受験の入り口にすら立てない。

推薦人の社会的な信用も試されるから、推薦人になるのだって度胸がいる。

推薦人に心当たりのある家庭に育って、その推薦人が自信を持って推薦できる子供であれば、 その時点で「外れ」は相当少なくなる。

このシステムは、ノードとしての子供を評価するのではなく、その子供がつながる ネットワーク全体を評価する。

仮に、その子供がそんなに優秀でなかったとしても、その子の身内には、 高い確率で優秀な人がいるし、学生生活を通じて「親のネットワーク」に みんなが接続される。

だから、その子供が社会的に失敗する可能性は相当低くなる。

公平さを全く欠いたルール。日教組系の人が発狂しそうで、ちょっと面白い。

「公平」ルールの生み出したもの

公平なルールの最たるものが、神奈川アチーブメント方式だった。

これもまた、一発勝負の受験から、なんとかして不確定要素を減らそうという 発想から生まれた方法。ところが、優秀な人の「優秀さ」を殺して、 落ちこぼれを選抜して隔離するためのやりかたになってしまった。

神奈川県内の全ての中学生は、2年生の頃に同じ試験を受ける。

その結果と、学校の教員の内申点で、高校の合否のほとんどが決まる。

県内は、だいたい5校ぐらいの「学区」に分けられて、成績のいい順に受験校を 割り振られる。倍率は1倍ちょっと。入学試験は、ほとんど飾り。

成績上位校から4番目の学校までは、入学試験なんて無いも同然。 その代わり、中学生時代の素行ひとつで内申点が上下するから、 中学生には自由なんて無い。

「内申書が悪くなるぞ」というのが、当時の公立中学の先生の殺し文句で、 これひとつで授業を静かにしたり、女子中学生を暴行したり、何でもあり。

最悪なのが「成績下位校」と呼ばれる存在。

成績上位から学生を人数ごとに区切っていくと、どうしても でてくる「最後に残る」学生の一群。

当時の神奈川方式では、試験の倍率が一番高いのが、それぞれの学区内で一番成績の低い学校。 他が1.02 倍程度の倍率なのに、ここだけ倍率が3 倍とかあって、受験は大変。

仮に入学できたところで、入学した時点で「下位校」のレッテルが張られるから、 やる気なんか出るわけがない。

高校数学で最初にやるのが「掛け算の九九」だったとか、みんな中途退学しちゃうから、 卒業までにはクラスの人数が2/3 に減っていたとか、都市伝説的な噂が山ほど。

あんまりいい結果が出なくて、いろんな不祥事が報道されたりして、 「神奈川方式」は立ち消えた。今はどうなっているんだか。

教育は投資

「教育は投資です。この学校の授業料は高い。しかし、大学受験が近くなって、 塾だ何だと投資をすることを考えれば、トータルの出費は決して高くない。 結果を出せるように頑張りますから、余計な出費はしないで下さい。」

入学したときの父母会で、担任の先生からこんなことをいわれた。

入学以後も、「君達は投資物件」だとか、「戦略物資」だとかいわれたこと、何度か。

仕方ねえな。俺達はモノかよとか思ったけれど、それでも結構面白い学生生活。

超人的な体力を誇った野球部の連中とか、10万年以上生きている悪魔の先輩の伝説とか、 お笑い要素もたくさんあったし。

当時みたいに、今も教育というものが投資なら、リスクを避けて 高いリターンが望めるものに人気が集まるのは当然で、 その「リターン」を評価するのが「東大合格者数」だけというのは、いかにも寂しい。

営利団体としての学校が、教育という商売のタネをはみ出そうとしたとき、 その人その人が属しているネットワークの格付けと、ネット同士の相互作用の場の提供 という2つの側面を打ち出してくると、面白いような気がする。

格差維持装置としての私学と、格差是正装置としての公立学校との争いなんかも あったりして…。

2006.09.26

交渉の技術がきかない人

無重力では歩けない

自由は何も生まない。

重力が無ければ、人は立てないし、歩けない。 重力や地面といった制限の無い、無重力の空間というのはもっとも 自由な状態だけれど、この空間におかれた身体は、「歩行という動作」を発見することができない。

動作というのは、中枢神経系が創作するものではなく、「身体」と「環境」との関係の中から、 中枢神経が発見するものだ。

地面を移動するには、どんな動作が最適なのか。

自由な状態、無限に近い動作の選択肢の中から、脳が「歩く」という動作を生み出すのは困難を極める。

地面は、重力という形で身体に「不自由さ」を付与し、 その結果として身体は「歩行」という動作を発見する。

身体は自分の意志で歩行しているのではなく、地面と重力によって「歩かされている」。

返報性というルール

好意を受けた人は、相手にそれを返さなければならない。

返報性というのは、「人間関係」という場が持っている、重力のような不自由さ

人間関係という場は、返報性によって心の動きを制限する。

これは不自由。その代わり、みんながその「不自由さ」を獲得することで、 お互いに殺しあいをすること無く、協調する社会を作りあげてきた。

自由空間では、人は動作の認識が出来ない。

宇宙空間では、宇宙飛行士が様々な作業をしているけれど、 あの動作は地球重力が教えてくれた動作の再現。

無重力空間が、その空間にとっての最適な動作を教えてくれることはない。

返報性というのは、人と人との間隙にあって、 様々な情報をやりとりするための基本になる感覚。

これが感覚できない人というのは、歩きかたを知らない人と同じ。

様々な交渉のテクニック

  1. 返報性:相手の好意や譲歩に対する、「お返しせねばならない」という気持ち
  2. 一貫性:自らの言葉、態度を一貫性あるものにしたいという想い
  3. 好意:好感ある知人に対しては、人はイエスという傾向がある
  4. 社会的証明:「赤信号も皆で渡れば怖くない」。他人のやっていることに従いたくなる気持ち
  5. 権威:権威者の言葉に対して、思考せずに服従する傾向
  6. 希少性:機会を失いかけると、その機会が本来の価値以上に貴重に思える

マインドコントロールとか、霊感商法なんかで用いられているテクニックというのは、 だいたい上記の6つの応用。

その中でも、好意を返したい、他人から好感を持たれたい、 他人の好意を無にしたくないという人間の「返報性」というのは、 全ての交渉のテクニックの基本中の基本。

  • たとえば「おはようございます」とにこやかに挨拶をされたら、たいていの人は挨拶を返すし、 それを無視する人は、周囲からはつきあいにくい人だとか、偏屈な人といった印象を持たれたりする
  • 募金活動で赤い羽根や花を配ったりするのも同じ。それをもらうことで、相手に何かを返したいという、 返報性を利用した基本的なテクニック
  • 感じのいいセールスマンが100万円の壷を売りに来たとして、それを断る代わりに1万円の英会話セットを 買わされた人というのもまた、返報性の罠にはまっている。セールスマンは、最初から100万円の壷など 売るつもりは無く、英会話セットを売りに来ている

霊感商法なんかじゃなくても、このあたりの技術は、 退院したくない患者さんを退院させるときなんか、当たり前のようによく使う。

たとえば、靴を脱いでもらったときなどは、患者の靴を医者がそろえるのがそれ。 これをやると、その後のコミュニケーションがうまくいくし、地雷を踏んでも許してくれる公算が高くなる。

ところが最近は、靴をそろえたら、今度は着替えをさせる、さらには診療費をただにする…と、 どんどんエスカレートする人がいる。

相当困ってる。

返報性を忘れた人

マインドコントロールの技術というのは、格闘技の「柔道」にたとえられる。

柔道は、重力によって発見された武道だ。 相手の体重を利用することで、小さな人がより大きな人を投げることができる。

無重力空間では、柔道の技で誰かを投げ飛ばすことは出来ない。

宇宙空間では、打撃や関節技は有効であっても、投げ技を利用するのは難しい。

マインドコントロールという技術もまた、人は誰かと交渉したい、誰かの恩には報いたい という、人間関係の基本的な性質をうまく利用する。

だから、返報性を持っていない人に対しては、この方法論は全く無力。

最近は、今までの常識の通用しない人が増えている。

病院の多くは大部屋だけれど、廊下側よりは、窓側のほうがみんな気分がいい。 どこにいても治療は同じだから、窓側のベッドというのは、前から入院している人が、 順番に利用する。その人が退院したら、ベッド移動をして次の人へ。 この順番を飛ばそうとする人が増えている。窓際の人が退院すると同時に、 「私が窓側がいいので、ベッドを移動して下さい!!」と大部屋中に宣言する。

みんな病人で、それに逆らう元気のある人はいないから、たいていは言ったもん勝ち。

声の大きな人は「強い」のか

病院という閉鎖環境の中では、今のところはこうしたわがままな人、声の大きな人、 返報性を無視する人の一人勝ち状態。

罰則規定なんてないし、退院すれば、たいていは二度と病院には来ないから、 そういう人が失うものなんか何もない。

声の大きな人達にとっては、病院というところは要求する場所であって、 そもそも交渉なんかする場所じゃない。

インフォームドコンセントなんて、彼らから見れば、インテリのままごとみたいなものだ。

人と人との関係、あるいは「返報性」の存在を知覚しない人というのは、 それを意識する人に比べて本質的に自由であるのは 間違いない。

だけれど、返報性のない自由意志というのは、はたして意味があるものなのか、 それともそれは、単なる他の人の模倣にしかすぎないのか。

人間同士の意思決定空間という、返報性の支配する世界の中で、 それを軽々と乗り越えられる彼らというのは、 果たしてそうでない人達に比べて「優れている」人たちと言ってしまっていいものなのか。

正直分からない。

「ごね得」の人とのつきあいかた

結論から先にいうと、自分にはどうしていいのか分からない。

ごねるだけごねて、自分だけいい思いして、あまつさえ料金踏み倒して 二度と病院に帰ってこないような人に対して、田舎医者風情が一矢報いる方法があるのなら、 ぜひとも知りたい。

自分の交渉のテクニックというのは、あくまでも相手が交渉をしたがっているのが前提だから、 交渉の欲求がない相手には全く効果がない。

「欲しい」だけで、「返したい」欲求が全くない、 息子が万引きをしてつかまっても開き直る親とか、 喧嘩で相手を半殺しにするような子供でも「個性」の一言で罰しない親とか、 そんな人達がゴロゴロいるようなグループというのは確かにあって、たぶん増えている。

こういう人達は、内科や外科にはあんまり多くなくて、 やっぱり産科や小児科に、すごく多い。

あのあたりの科に人が集まらない理由というのは、 仕事がきついとか、責任がとても重いといった理由以外に、 本当はこのあたりの要素がとても多いと思うんだけれど、あんまり大きくは語られない。

自分の持っている技術なんて、笑っちゃうぐらいに無力。

こちらは「繰り返し囚人のジレンマルール」なのに、相手は「1回きり囚人のジレンマルール」で 攻めて来るんだから、その非対称性はひっくり返せない。

何か全く新しい観点から見た、別の交渉の方法論が必要なのは分かってる。 でも、まだ何も思いつけない。

強弁や恫喝、警察権力に頼ったりするのはたぶん正解なんだろうけれど、 出来ることならそれだけは避けたい。

ムツゴロウさんあたりなら、案外いい答えを知ってるんじゃないかと思うのだが…。

2006.09.23

道具バトン

Dan さんから受け取った道具バトンなるものを書いてみます。

医者の仕事場というのは、たぶん想像されている以上にモバイル要素が強くて、 一箇所にとどまって何かするということがほとんどありません。

そんなわけで、普段使っている道具というのも白衣に収まるものばかりです。

1. 万能バサミ

研修医の頃にもらった、ごっついハサミをまだ持ち歩いています。

本来の用途は、心臓が止まった人の衣服を切り裂くためのもので、 厚い生地などでも4~5枚、まとめて一息に切れます。 どこのホームセンターにも売っていて、大体500円程度。

丈夫で良く切れる」が表の意味、「安くていつでも取替えがきく」というのが 裏の意味で、病院に就職したとき、研修医という存在の象徴として、 病院長からこのハサミをもらったのです。

亡くなった人の服からお菓子の袋まで、みんなこれで切っていました。

研修期間を終了すると、修了記念として、メッツェンバウム筅刀という、 繊細で高価なハサミをもらえます。

2. ボールペン

医師の仕事の半分ぐらいは、カルテや書類などの「記録」に費やされます。

複写の書類が多いので、筆記具はほぼ100% ボールペンです。

軽くないと仕事にならないので、100円程度の使い捨てのやつを 何本も持ち歩きます。最低3本。

たとえば、外来をやりながら隣で包帯交換を するときなど、やりかけのカルテにボールペンを挟んでおいて、 一度に2つ3つの仕事を並行してこなしていくわけです。

ノック式の3色ボールペンは、患者さんに絵を描いて説明する時の必需品。

バイアグラとか、オメガシン(抗生物質)なんかの「強そうな」名前の入った 製薬会社のボールペンが人気なのは、この業界がまだまだ男社会だからでしょうか。

メモは使いません。ほとんどは暗記。

研修医は、ボールペンで左手の甲にメモを取ります。ボールペンのインクは、 病院にはどこにでもあるアルコール綿で消せるので、ホワイトボード感覚で 自分の手を汚します。

3. Palm

Tungusten|c に薬の本と、抗生物質の使用ガイド、英語の辞書を入れて使用中。

これを使うようになって、白衣が劇的に軽量化されました。

その場しのぎを繰り返す仕事なので、PIM機能はほとんど 使っていません。

昔はとりつかれたように palmware を探しては入れて遊んでいましたが、 今使っているのはメモ帳だけに落ち着きました。

Treo700 が日本で使えるようになるといいのですが。

4. 聴診器

代表的な医師の仕事道具ですが、いまだに現役。

ハイテクの医療機器が次々出ていますが、「立ち上げ時間ゼロ」という、 この道具のメリットを凌駕できるものはいまだにありません。

昔は循環器用の高性能なものを使っていましたが、 重いので、いまは汎用品。

5. 蛍光色鉛筆

教科書を読むときには、必ず線を引きます。

洋書は安いのですが、装丁も紙質も悪いものが多いので、 蛍光マーカーを使うとにじんだりします。

蛍光色鉛筆は文字どおり鉛筆なのですが、銘柄によっては 蛍光マーカーとまったく同じ発色が得られます。

LYRA のFLUORLINER99 というのがとてもよかったのですが、 今は手に入らなくなってしまい、今はSANFORD のPRISMACOLORの ネオンイエローを使っています。

番外:デバイダー

科によっては、自分の所属を象徴する道具があります。

神経内科なら打鍵器、眼科なら眼底鏡など。持ち歩ける大きさで、 その科しか使わない道具。

循環器科は心電図を読むので、不整脈の診断をするのに デバイダーを使います。

今はもう、自分は循環器ではなくなってしまったのですが、 出自に対する思いを忘れないよう、今でも必ず持ち歩いているのです。

御礼

「ネット時代の帝王学」なるエントリーに、久々に反響をいただきました。

まなめはうす様、RinRin王国様、404 Blog Not Found様、 明日は明日の風が吹く様、とりあげていただき、ありがとうございました。

文章はあんまり深く考えていなくて、「すごく…」「大きい…」あたりで、 誰かから「ウホッ」という反響がもらえればいいな、 というのが、当初自分がこの文章を書いた意図だったのですが。

文脈の壁を越えるのはまだまだ遠いな、と実感した次第です。

今後とも、よろしくお願いします。

2006.09.22

没入感のもたらすリアル

たぶん「リアル」と認識される根拠というのは、感覚の中心として認識される場所には無くて、 むしろ視野の端、意味をなさない言葉や音、感覚の外の「気配」みたいな場所から知覚されるのだと思う。

銀河鉄道の夜

映画銀河鉄道の夜が面白い。

プラネタリウムでしか上映できない特殊な映画。 関東だと、サンシャインシティのプラネタリウムで上映中。

スクリーンはドーム。天井いっぱいに画像が広がるから、上映が始まると、視野の全域が コンピューターグラフィックスでいっぱいになる。

これが滅茶苦茶リアル。

3D 画面になっているわけでもなく、 画像の質感も、CG らしいつるっとしたものなのに、 「凄いCGを見た」ではなくて、「別の現実を見せられた」ように感覚される。

目の前を銀河鉄道が横切る画面とか、星が自分達にむかって降ってくる場面とか、 ありえないぐらいに説得力を持って、 「今見ている風景は現実だ」と認識させる。ありえないのに。

上映内容が宮沢賢治の童話だからいいようなものの、毎年アニメ映画を作ってる 某宗教団体あたりがこれで映画を作ったら、間違いなく信者が増えそう。

周辺視野と没入感

この映画にリアルさを付加した仕掛けというのはいろいろあるのだろうけれど、 たぶんもっとも貢献が大きいのが、上映場所がプラネタリウムであるということ。

映画館なら、スクリーンの中がどんなにリアルな画像であっても、 スクリーンには「端」があるし、視野の中には他の観客の頭も見える。

自分の意識が認識する「スクリーンの中」と、周辺視野が認識する「映画館の中」の 出来事とは、本質的に矛盾があるから、頭は「これは現実ではない」と判断する。

プラネタリウムの「スクリーン」の範囲は、上下左右とも180°。

視野の周辺、自分では意識していない部分にまで 作者の意図が入った画像が映されているから、自分の視覚認識の中に矛盾が生じない。

そうなると、どんなにありえない画像が上映されていようが、意識は「リアルである」と認識してしまう。

自己のイメージと周辺環境との間に矛盾が無いと、 意識というのは、どんな「リアル」でも簡単に受け入れる。

  • 私服を着ているときには元気だった人は、点滴がつながって、病衣を着せられてベッドに横になると、 とたんに「病人」となり、なんとなく元気が無くなり、 医師-患者の独特の人間関係を積極的に受け入れるようになる
  • どんなにしっかりした高齢者であっても、 施設なんかで「おじいちゃん、○○でちゅね~」なんていう 子供言葉で話しかけると、急速に痴呆が進むという
  • 手足に麻痺を生じると、患者の脳は「他人の手足がついた自分」というモデルを作って、 現実世界に適応しようとする。これが作られる前にリハをはじめないと、 麻痺した手足の回復は悪くなる

病院や施設という異質な場所と、自分の衣服や言葉といった自己認識との間にある 矛盾が外されてしまうと、意識は即座に「新しいリアル」を受け入れる準備をはじめる。

舞台におけるリアル

演劇の舞台で「リアル」を表現するには、いくつかの手順を踏む必要があるそうだ。

  1. 俳優どうしが対話をしても不自然ではない舞台を設定する
  2. 自分が行いたい「表現」をするのに必然性のある登場人物を設定する
  3. 最後に、「リアル」を表現しうる台詞を考える
  4. 台詞の順番は、「遠いイメージ」から

演劇空間での「リアル」というのは、必然性のようなものらしい。

たとえば、美術館の中という設定の舞台を作るとき、最初の台詞が 「美術館っていいなぁ」だと説明的になってしまい、観客はリアルを感じられないという。

演劇空間で美術館を表現するためには、まずは「美術館」からイメージされる言葉をいろいろ考える。

絵を見るところ。静かなところ。デートスポット。絵に群がる大勢の人。

こうしたイメージの中から、「美術館」という言葉にもっとも遠いものを選び、 そこから役者の台詞を作っていくと、自然な感じになるのだそうだ。

たとえば、カップルが黙って歩くところから舞台を開始。次に、舞台の中に絵を登場させ、 役者に「たまにはこういう所もいいだろう?」みたいな台詞をしゃべってもらい、 最後に「美術館って…」という台詞に持っていく。

平田オリザの「演劇入門」という本の中に、こんな言葉がある。

私たちは、主体的に喋っていると同時に、環境によって喋らされている。 この「喋らされている私たち」をいかに表現するか。 そこに着目したのが、新しい演劇の流れの、大きな一つの特徴だろう。

主張したいことは真ん中にあっても、それが空虚なものではないと信じられる根拠は、 むしろ周辺にこそある。

よく出来た演劇や、周辺視野の感覚をしっかり作られた映像の没入感を見せつけられると、 たとえばハイビジョンみたいな精度の高い画像を作る努力というのは、 一体何なんだろうと思ってしまう。

自分にとっての「リアル」とは

病気の状況をどんなに正確に説明しても、分かってくれない人は全く分かってくれないし、 あまつさえ「そんなこと言われても知りません!!」と怒られたりする。

医者側が「あなたにとってのリアル」を力説すればするほど、 たぶん患者側にとっては「私にとってのリアル」と、 医師が認識してほしい事態との乖離を生んでしまい、うまくいかない。

現実と非現実の境界というのは、意識の中心から境界までのどこかにあって、 たぶんそれは技術的に移動することが可能だ。

対話をしたり、あるいは誰かを説得しようと考えるとき、 「中心」のクオリティを上げる努力をする代わりに、「境界」を移動する努力、 意識の周辺のさらに外側、感覚できる限界のそのまた外まで「境界」を追いやることに 力を注ぐと、案外うまくいくのかもしれない。

表現者と鑑賞者の間での「リアル」の共有が行えるのならば、 表現者の主張したい意図というのは、たぶん鑑賞者の心の中に自然発生する。

それが、たとえば「私は癌で、もう治らないんですね…」なんかだと困るのだけれど、 最近は「うちのばあちゃんは、一生この病院で入院できるわけではないんですね…」とか、 「日本という国は、真夜中には健康診断をしてくれないんですね…」とか、 現状と、「俺様のリアル」との乖離がぶっ飛んでいる人が、相当増えて困ってる。

そんな人の「リアル」に生身で付き合うのは大変で、 病院の中にもプラネタリウムが1台あると、そのへん楽になるのかなあ…なんて思ったり。

2006.09.21

ネット時代の帝王学

昔の王様というのは、祭事から政治、裁判に至るまであらゆることを 仕切っていたから、この世のあらゆることに精通している必要があった。

帝王学というのは一般教養のこと。よい王様になってもらうために、 国中のあらゆる学者が王のまわりに集まった。

城の中庭には学者が集まり、王様の興味のおもむくままに 講義が進む。ある専門家の守備範囲を越えてしまったら、別の専門家が話を 引き継ぐ。

専門家どうしで意見が違う問題については、王様の目の前で 議論をして、王様が正しいと思うほうが「正しい」意見になる。

興味を持てば、すぐに答えが返ってくる。王様の周りには、王権がおよぶ範囲の あらゆる専門家が集められるから、その様子は膨大な知識を蓄えたインターネットと同じ。

お城の中庭にあってネットにないもの

検索エンジンが発達した。

今の時代、その気になれば誰だって、昔の王様以上の知識を引っ張れる。 議論だって活発。WebLog の時代。いろいろな分野の人同士、今は世界中で議論が続く。

ところが、世の中はそんなに変わらない。ネットをさまようことで知識は身についたけれど、 自分が帝王になったような気分、あんまりしない。

昔の帝王学と、現在のインターネット。お城の中庭にあって、ネットに欠けているのものというのは、 「王様」というわがままな権威の存在。

ネット上の議論がリベラルアーツの構築へと昇華しないのは、 それが「コンテクストをそろえた議論」になっていないからだ。

絶対王政の時代。

王様というのは神様だったから、その人を敵に回すのは死ぬのと同じ。

お城の庭では、王様を囲んで学者たちが議論をしたけれど、 学者は常に、「王様という観客」を楽しませることを考えなきゃいけなかった。

王様の興味と、自分達の学閥と、自分の信じる「真理」との両立。

たとえば王様が「地球は動いているのか?」という疑問を持ったとき、 尋ねられた物理学者は「動く」といい、 居合わせた天文学者と神学者は「止まっている」と思っていたかもしれない。

「○○だから動いています」と物理学者が持論を述べ、「ですが王様…」と、神学者が反論する。

両者は議論をする。その議論には、きっとこんなルールがある。

  • 議論には勝たなくてはならない。負ければ、自分の学問は立場を失う
  • 議論は噛み合わなくてはならない。噛み合わない議論はつまらない。つまらない学者は、お城の中に居場所は無い
  • 議論は分かりやすくなくてはならない。王様そっちのけで議論を戦わせた2人の学者は、2人ともお城には居られない

「噛み合いやすく」と「分かりやすく」。

この2つの条件を満たすには、対立する学者同士の言葉を、 王様の言葉にそろえる必要がある。

同じ日本語だって、話し言葉はみんな違う。「大きな…」とか、「すごく…」とか。 同じ言葉であっても、「大きさ」や「すごさ」を感覚する量は、みんなバラバラ。

だから議論が噛み合わないし、それを聞く第3者には、もっと分からない。

言葉を合わせた議論から生まれるもの

議論をする学者と、それを聞く観客。

その場に居合わせた全ての人が、同じ文脈で会話をして、お互いの感覚を 共有しあうことが出来たなら、問題に対する解答を与える作業が無意味になる。

数式を解くという行為と、数式の意味を理解するという行為とが等価なように、 正しい問題というものの中には、最初からその解答が内包されている。

問題の完全な理解は、その必然として頭の中に解答を呼び起こす。

王様の尋ねた問題を学者が考え、その理解の過程を解体して、 王様が共有可能な言葉に置き換えることが出来たのであれば、 「問題の答え」というのは王様の心の中に自然に出来上がってくる。

識者に問題の解答をせがむ人というのは、本当は回答がほしいのではなくて、 理解のプロセスを共有したくて質問をする。

理解が得られない状況で与えられる解答というものは、それをもらったところで 消化不良の不快感しか得られない。

インターネットは答えをくれる。ところが、画面の向こうの誰かは、 自分と同じ言葉をしゃべってくれるとは限らない。

理解は常に、中途半端な形でしか共有されない。

google はまだ帝王を生み出せない。

文脈をすり合わせるのに必要なもの

演劇なんかの世界で使う「文脈」という言葉の意味は広くて、 「絶対」とか「大きな」といった言葉の感覚を共有することから、 文章のリズムや、方言の差異を吸収することまで、いろいろ。

議論する相手と、それを見守る観客。お互いの文脈を共有するためには、 結局のところは、対話を通じてでしかありえない。

昔ながらの掲示板文化。

掲示板に生息する常連の人達がお互いに対話を繰り返すことで、 その掲示板独特の「文脈」というものを築き上げ、共有してきた。

掲示板文化特有の、ネットの向こう側の匿名人に対する信頼感とか、 古参の人が言うところの「空気嫁」というのは、みんなで共有してきた「掲示板の文脈」と いうものに対する信頼による。

病気の説明なんかでも同じ。

「患者の理解力不足」と実感する出来事のほとんどは、要は医師-患者間で「文脈」というものを 共有できなかったという敗北宣言みたいなもの。

患者-医師同士で文脈を共有するには、残念ながら医学の話だけでは不足で、 むしろ相手の得意分野、 医学とは離れたおしゃべりを、どれだけ一緒に話せるかによるところのほうが大きかったりする。

たぶん大切なのは、説明の正確さや誠意といったものよりも、単純にお互いに交わした言葉の量と、 相手に対するサービス精神とか、相手の持つ「文脈」を理解して、 積極的にそれに合わせて行こうという意志 みたいなもの。

本当は、リベラルアーツとしての統計学というものを必須にして、 中学生あたりでこれを必須にすべきなのだろうけれど、 統計というのは、とにかく難しいうえにつまらない。

自分などは、もう統計で勝負することを最初からあきらめているから、 統計学なんていうものは、もっともらしくウソをつくための学問だとしか認識できない。

統計を信じられないし、それを人に説明するのはもっと無理だから、 とにかく会話の量で勝負していくしかない。

オブジェクト指向は文脈の壁を越えるのか?

ところで、「言語」以外の言葉、たとえば perl みたいなプログラム言語にも、 「文脈」みたいなものは存在するのだろうか?

「あの人の書くプログラムはどうも感覚にあわない」とかいったことはあっても、 そのプログラムの出力する数字が処理可能なものであるならば、それを 共有するのに問題はないはず。

オブジェクト指向というのは、 たぶんこういったプログラムごとの文脈を共通化することで、 コードをみんなで共有しましょうといった考えかた。

もしも、プログラム言語が「文脈(コンテキスト)」に相当する概念を 技術的に解決しているのであれば、その考えかたの一部はたとえばコミュニケーションの手段とか、 あるいは演劇論の中などに応用できるものは無いのだろうか?

プログラマーの人達の間にも、きっと人間関係のゴタゴタというのはあるのだろうけれど。。。

2006.09.11

劇的空間としての書店と病院

書店にあって Amazon に無いもの

たぶん、読書量はそこそこ多いほうだと思うけれど、 Amazon.com ではあんまり買い物をしなかったりする。

Amazon.com には、情報はあっても、出会いがない。

本屋さんで本を買うという行為は、単なる情報の購入とは、少し違う。 情報を買うというよりは、本を探しにいって、本屋という空間の中で、 新しい本に出会うというその体験そのものにお金を払う感覚。

本屋さんという職業は、宣伝もせず、客引きもせず、 ただ単に本を並べる。その行為だけで商売をする。

1冊の本それ自体はたしかに商品かもしれない。

けれど、優れた本屋さんの手で配列された本の山があって、 それが客の前に現れるという現象面を捉えるならば、 それに出会う客との関係というのは、演劇的なものであるとも言える。

本の積みかたには、模範解答に相当するものがあるという。 同じ本を平積みにするにしても、優れた書店員と、何も考えていない人とが同じ本を並べると、 その売上げは全く違ってくるのだそうだ。

優れた本屋さんは、ベストセラーを並べるだけではなく、その作家の過去の本を並べてみたり、 その本に興味を持ちそうな読者に、少し経路の変わったジャンルの本を紹介してみたりする。

誰でも知っているような本ばかり並べられても、本屋のあざとさに興ざめするだけ。

ところが、自分が思いもしなかった「関連図書」がそこにあると、本屋さんに「1本取られた」 感覚が自分の中に芽生える。

リアル書店の醍醐味というのは、こういう部分にあると思う。

生鮮食品としての本

書評で紹介された本や、ネットで評判になっている本をAmazon で購入するのと、 本屋さんで「出会った」本を購入するのとでは、読みかたが異なってくる。

  • 通信販売で購入した本は、どちらかというと分析的に読む
  • 「出会った」本は、その場の勢いで一気読みすることが多い

本屋さんで買った本は、生鮮食品だ。

だから興味が長続きしない。「積ん読」になってしまう本は、 むしろこちらのほうが多いかもしれない。そのかわり、勢いで一気に読める本もまた、 やはり「出会った」本のほうが多い気がする。

地方には、いい本屋さんが少ない。

土地の安い場所だけに、大きな本屋さん自体はいくつかあるけれど、 残念ながら、「出会い」を体験できる機会はそんなに多くない。

そのあたり、東京の大きな本屋さんというのはさすがで、神田の三省堂や東京堂なんかにいくと、 いつも手提げかばんいっぱいになるまで本を買ってしまう。同じ本、地元の本屋でも いくらでも手に入るのに。

最近、mixi の掲示板で、「最近の医者は、医学書を購入するのに、 わざわざ書店員に尋ねる。勉強が足りない」 という書き込みがあって、掲示板が少しばかり騒がしくなった。

こういう意見を読むと、本屋さんは、演出家としての自分の仕事に、 どこまで自覚的なんだろう? と 考えてしまう。

神田の本屋(たしか書泉グランデ)では、店員さんが、違うフロアの本の位置を把握していた。 2階で「○○ありませんか?」と書名を尋ねると、「それは、5階のここにあります」と即答されて、 感激した。

検索機能完備という本屋も地元にあるのだけれど、それだと求めているものとちょっと違う。

最近はもっぱら絨毯爆撃。本を買うときは、とりあえず「両手で持てるまで」と決めて、 内容を見ないで背表紙買い。本屋さんにとっては模範的な客なのかもしれないけれど、 客としてはやっぱりつまらない。

いろんな人の weblog で紹介されている本にははずれが少なくて、それはたしかに効率的 なんだけれど、効率がよすぎて今一つ。それだけ読んだって、その人と同じだけの 経験しか積めないんだから。

wema みたいなスクリプトを使って、書店の平積み配列を見せてくれる ネット書店ができると、面白いかもしれない。

医療が印刷物になる時代

書物というものが貴重品から一般印刷物になって、 書店という「本の演出家」としての仕事が登場したように、 自分達の仕事、医療というものもまた、個人のアートから、一般印刷物への道を歩みつつある。

乱発される診療ガイドライン。老人医療の定額ルールへの変更。こうした流れは、 医師の個人の裁量による診療範囲を狭め、医療行為というものを、 より定型的なものにする。

医療にかけられるお金が、今後増える見通しはまずないから、 医者にできる行為というのは今後絞られ、ごく一部のスタープレーヤー以外、 可能な治療は限られてくる。

使える薬も一緒。経験年次に関係なく、病気に対してできる治療は一緒。

医者年ての「腕の見せどころ」がますます減って、評価されるのが病院の規模だけになると、 恐らくは大規模病院一人勝ちの時代がやってくる。 ちょうど、Amazon.com が小規模書店を駆逐したように。

小規模の病院が生き残りをかけて勝負しようと思ったら、 たぶん演劇的側面が重要になるような気がする。

大規模な設備を持っているとか、○○専門医を何人そろえているとか、 そういう機能要素とは別に、あの病院にかかると、なんだか健康になったような気がするといった、 「病気との出会いかた」みたいなものの演出。

口先だけといわれれば、たしかにそのとおりなんだけれど…。

2006.09.09

病状説明のやりかた

夜間によく来るめまい発作の患者さんで、プラセボに依存している人がいる。

気分が悪い、動けないといいながら、スタスタ歩いて外来に来る。 生理食塩水を筋注すると、症状はすぐにおさまる。 時々、眼振を伴った本当のめまい発作をおこすことがあって、そういうときには治療の手段を 変える必要があるのだけれど、本人は「筋注してほしい」の一点張り。 他の治療薬とか、内服薬などを勧めても、「それは効かないから嫌だ」と拒絶。

生食注射したって、治るわけないのに。

この患者さんの本当の訴えは、「めまいを治してほしい」ではなくて、 寂しいとか、話を聞いてほしいとか、たぶんそういうもの。

ところが、病院には、薬だけは売るほどあっても、時間は全然ないから、 症状にかこつけて治療を開始してしまう。本人にはもともと症状なんてないし、 「本当の訴え」は解決されていないから、体よく「治された」ところで、 すぐまた救急外来にやってくる。

治療には、実務的側面と、祭事的側面との両方の要素があるけれど、 両者に乖離ができてしまうと、こんなことになる。

この人は、注射の効果は信じていても、医者のことは基本的に信じていない。 あるいは、今までの経過から、信じられない。

だから、本当に病気になったところで、もはやそれを治せる人は病院にはいない。

見たいものしか見たくない

患者の権利団体の人なんかは、 夜中でも医者が1時間ぐらい暖かく話を聞いてくれれば、 そもそもこんな状態にならないと批判するかもしれない。

研修医時代、有名な患者の権利団体の代表の方が、講演に来たことがある。

関西の方の団体だったけれど、当院の病棟や、救急外来、医療の取り組み方なんかを視察して、 そのあとで、スタッフを集めて講演をした。

批判された。

この病院は暗くて汚い。みんな白衣を着ていて、意味もなく尊大に見える。 寝ている患者さんが多くて、みんな暗い顔をしている。 患者は、もっと暖かい雰囲気の病院を求めている。 努力をして、みんなが明るい闘病生活を送れるようにしてほしい。

この団体がいろんな病院を視察した中で、理想的な医療を体現していた施設というのは、こんな工夫をしていたそうだ。

  • その病院では、誰も白衣を着ない。スタッフはみんなジャージで、職種に関係なく同じ格好をしている
  • まるで体育館のような広い部屋で、何人ものスタッフが、患者さんを囲んでミーティングを行っている
  • リハビリテーションに熱心に取り組んでいるので、寝たきりの老人なんかいない
  • 合併症が少ないから、点滴をしている患者なんかいなくて、みんなよくなって退院する

「それは、リハビリテーションの専門病院じゃないですか?」と誰かが突っ込んだら、 やっぱりそうだった。

スタッフがみんなジャージなのは、理学療法士の人がほとんどだから。体育館のような広い部屋で… というのも、リハビリのための病院なんだから、みんながリハ室に行くのはあたりまえ。

みんな元気になって退院するのも、リハビリ病院というのは、そもそもよくなる人しか取ってくれないし、 状態が悪くなった人は一般病院で引き取るから、悪い人がいないのもあたりまえ。

みんな、汚い物なんか見たくもないし、自分がそうなりたいとは思わない。

リハビリテーション専門病院というところには、たしかに「汚い」人は一人もいないから、 そこはたしかに理想の病院だった。

  • 見たくないものが見えない人と、見たくないものを何とかしなきゃならない医者。
  • 見えないものを診てほしい患者と、それを分かってて見えないふりしている医者。

相互理解は、難しい。

あなたは絶対悪くない

治療者がまずやるのは、「自分が悪い」モデル、 あるいは「その病名は汚い病気」モデルを否定することだ。

これを放置すると治療がうまく行かなくなる。

  • タバコをすったから肺がんになった
  • 自分がダメだからこんな病気になった

病気というのは理不尽なものだから、みんなどうにか理由をつけようとする。

最初に責めるのは自分。

自分を罰するモデルを作ったり、自分がその病名であることを否定しようとして、 全然違う症状を訴えてみたり。

これを否定しないと治療が始まらないのだけれど、 ところが、このモデルを否定すると、 今度はその思いの行き場が治療者の方に向かってくるから大変。

患者の思いを受け止めるのが治療者の度量だったけれど、訴訟社会の昨今、 気合だけでは受け止めきれない。

みんな医者がわるい

思いは何かに依り憑いて具現化する。

「みんな公務員が悪い」とか、「やっぱり教師が犯人か」とか。

自分の理解できない、あるいは受け入れたくない「何か」を受け入れなくてはいけない人は、 その存在の「依代(よりしろ)」になるものをさがして、 その「何か」を実体化して、責任をそいつに押し付ける。

  1. 最初は「自分」。病気になったのは、自分が悪いから
  2. 否定されたら、今度は「医者のせい」。それで、少しだけ安心できる
  3. その段階をジャンプできれば、相互理解の道が開ける

余計な思いは、実体化なんてしないで「理解」して、分解してしまうのが一番正しい。

ところが、病気になったとき、「そこで何がおきているのか」を説明することは容易でも、 「どうしてそうなるのか?」あるいは、「どうして私なのか?」を説明するのはとても難しい。

専門分化と、インフォームドコンセントの時代。病気の説明はますます煩雑になり、 その理解は困難になっている。

よいアナロジー

  • あなたの胃の中に「いぼ」のようなできものができていて、放置すると体のあちこちに転移する可能性があります
  • 癌という怪力乱神が、あなたを殺そうと画策しています

医学的により正しいのは前者。

ならば、「説明として正しい」のはどちらだろうか?

病状説明とは、医者と患者との間にバーチャルな共同体を作ることだ。

共同体を作るためには、お互いの病気のイメージや、会話の中の単語の文脈、 行間の意味のようなものをそろえて、当事者同士で共有しなくてはならない。

早期胃がんの患者と、医者。

初対面の相手同士、「胃の中のいぼ」という言葉の意味は、たぶん全くかけ離れて理解される。

「癌という悪者」という言葉は、医学用語としては今一つだけれど、 医者から見ても、患者から見ても、なんだか悪そうというイメージは共有しやすい。

たとえ話には、「距離」という概念がある。

  • 医者と患者、お互いの最短距離を結ぶ「近いアナロジー」というのは、お互いに正確で鮮明なイメージを 喚起する反面、医者は病気の悪い面、患者はよい面しか見られない危険がある
  • 病気と全く関係ない言葉を使った、「遠いアナロジー」というのは、イメージの喚起力はあいまいで、 ぼやけているけれど、医者からも患者からも遠い風景だから、イメージを共有しやすい。

説明は、遠いアナロジーから初めて、だんだんとお互いの距離に近い話、 具体的な病名や、臓器名を使った話へと距離を近づけていくとうまくいく。

ガスモチンを内服している、86才のうちの外来の患者さんは、5-HT のサブタイプを理解している。 「よく効く便秘の薬」からはじめて、セロトニンの作用のお話に至るまで、月一回の外来で、だいたい半年。

段階を踏めば、あるいは段階を踏むだけの時間的な余裕があれば、 医者のイメージの共有は、決して難しくはない。

会話のしかた

筋書きのない、即興劇の舞台を続けるコツは、相手の台詞を絶対に否定しないことなのだそうだ。

相手を叱ったり、相手の考えを否定してりすると、その時点でコミュニケーションが止まる。 言葉を反復して共感を示したり、あるいは相手の文意やたとえ話の土俵の中で、自分の考えを 伝えてみたりすると、会話がつながる。

患者さんはお客さんだから、基本的には患者さんの言葉でしゃべるようにする。

  • その検査はしたくないという人がいたら、「じゃあ出ていけ」じゃなくて、 それをやらない前提で何ができるかのプランを示して、 その検査を行ったときとの比較を示す
  • たとえば、一緒に料理をしようとして、相手がこちらの思うとおりに野菜を切ってこなかったとしたら、 その野菜を捨てるんじゃなくて、「その切り方」でカットされた野菜を用いてどんな料理が作れるかを考える

大事なのは、「なんでこんなことしたんですか?」なんていうふうに、 病人に疑問を返さないこと。

なぜ」には、疑問と否定の2つの要素が含まれている。

患者は、自分の「なぜ?」「どうして?」だけで手一杯のところに、 医療者側から「なぜ」という否定要素を突っ込まれてしまうと、 もう相手を信用できなくなってしまう。

正確と社交性

治療の方針や、患者さんの将来のボディイメージといったものは、 医者から与えられるものではなくて、お互いの関係が作り出す「場」の中から発見されるものだ。

病気に対するイメージがうまく共有されれば、その時点で大まかな治療の方針は決まる。

お互い共有できた「場」の中に内在されている治療方針が発見されて、それをお互いの言葉を使って 探索して、改変していくことで、納得できる治療の方針が固まってくる。

感覚的だけれど、教科書的に正しい治療のガイドラインの束を渡して、 「あなたの身体です。勉強して下さい」では、絶対にうまくいかない。

インフォームドコンセントの向こうにあるもの

結局のところいいたいのは、大事なのは医学的な大切さだけではなくて、 世間話のようなものも結構大事なんだということ。

本当に親密な関係になる必要は全くないけれど、病棟という劇場の中では、 お互い「役者」として、良好な関係を演じて、お互いの言葉の文意のずれを極力少なくして、 病気の先にある身体イメージを共有する。

時間さえ十分に与えられれば、決して難しくはない技術。

ところが、忙しい病棟でそれをやるのは結構大変で、とくに相手が「社会性」という仮面を 被っていないときは、逃げ出したくなるぐらい大変。

日常を社会レイヤに依存している人との会話は、非ゼロサムゲームだから、 必ずどこかに「落としどころ」があって、会話を通じてお互いにそれを探す。

ところが、そうでない人にとっては、世界というのは常にチキンランの度胸競争。 ごねたもん勝ち。なめられたら負け。 負けたら、国や地方公共団体にごねて、セーフティーネットで救ってもらう。

こういう系統の人達と、何かのイメージを共有するのは本当に難しくて、 いつも苦労する。苦労するというか、一番最初の「自分のせいだ」という本人の自責の念を増幅して、 自分の身を守るので精いっぱい。

霊感商法の人達は、こういった人をもターゲットにして壷を売ったりしているから、 あなどれない。

医者の口先なんて、まだまだ全然追いつけない。

2006.09.07

現実は夢

時を越える血統の力

みんな自分自身を信じられるほど強くはない。

だから、伝統を信じ、血統を信じる。 そして、未来を信じようと試みる。

成功する人、失敗する人。

「血統書付きの一族」というのは本当にいて、一族郎党みんな大学教授の一家があったり、 頭のいい人の息子さんというのは、やっぱり頭がよかったり。

成功するにしても、失敗するにしても、現在を耐えて未来につながるための努力が 必要なのは、どちらも同じ。

今の苛酷な生活というものが、先の見えない苦労なのか、未来へ至る途中経過なのか。

時を越えるために必要なのは、狂気をはらんだ空想の力だ。

未来への確信がある人というのは、現在を耐えられる。

ところが、何がおこるかなんて誰にも分からないから、「確信」なんて、現実には存在しない。

存在しないものを信じるためには、狂気の力を借りなきゃいけない。

そのよりどころになるのは、自分達が今まで歩んできた過去に対する、熱狂的な信頼。

「血統書つきの一族」の末裔というのは、信念の力がとても強いから、 未来を信じ、現在を耐える能力が高い。苦労を苦労と感じないから、行きつくところまで行ってしまう。

失敗するか、成功するのかは、最後のところは運。 努力は、突き詰めるほど極端な結果を招く。努力しつくした人の末路は、大成功か、大失敗か。

そこまで努力を突き詰める人はほとんどいない。普通は「そこそこ」で止めておく。 結果として、「血統書」を持った人の身内というのは、やっぱり大成功する確率が高くなる。

大学の持つ歴史の力

大学医局。

あの建物の古さ、働きにくさ、時代の変化に対する頑固さというのは、 変わらない未来を信じられる原動力になる。

医局の歴史というのは、大きな大学ならば100年に近い。

歴史には力が蓄積する。

変わらない体制を批判して、体制を変えようと努力して、最後に体制に屈服して。 変わらない歴史を受容することで、その人は時を越える力を得る。

みんな大学病院を批判しながら、それでも大学医局に入局する。

研修システムだけで見れば、民間病院のほうが優れているのに、 大学には凄い医師がいる。

変わることのない、蓄積した歴史の力のなせる業だ。

祭りを放棄した大学

大学が合理化しつつある。

この数年、教授回診も簡素になったし、研修医にも親切になった。 サービスの向上とか、きれいな建物とか。民間施設を見習った「改革」が打ち出されている。

「改革」の結果、研修医は大学離れをますます加速し、 中の人も元気を失っているように見える。

「祭り」と「政(まつり)」とは、どちらが欠けてもうまく回らない。

  • 祭りとは、過去の伝統を保証して、そこから演算した未来への確信を深める手段
  • 政りとは、未来に至る道筋をどう乗り切るかという、現在を生きる実践の知恵

過去と現在。2つの点が決定されて、進む方向は初めて見えてくる。

過去を反省して現在を改革しようとする人達は、施設に伝わる「祭り」を壊そうとする。 それがどれだけ犯罪的なことなのか、絶対に分かっていない。

夜の夢こそ真実

まっすぐ細い道を歩く。

部屋の畳のヘリを歩くのか、落ちたら死ぬ高さにある細い棒の上を歩くのかでは、 意味あいは全く異なってくる。

それでも、人体の動作としては、両者は同じ。たとえ状況が危険であっても、 「危険である」と意識が認識しなければ、現実問題として危険は生じない。

畳のヘリを外す人はいない。認識さえされなければ、高さがどうなろうと一緒。

現実なんて、意識の見る夢にしかすぎない。

先の見えない絶望的な努力だって、それを絶望的だと認識しなければ、 未来に来るすばらしい結果に至る通り道にしかすぎない。

夢は現実を変える。

働きにくい、古い施設の強みというのは、なんといってもその働きにくさ、 古さそのもの。

世間一般的に「悪さ」に見える要素を、考察なしに消してしまってはだめだと思う。

2006.09.04

記号になった医師の価値

ずいぶん前、島の診療所に派遣されていた医師の話。

僻地の医療に熱意があって、大学から離島の県立診療所へと派遣されていたその医師は、 あるとき学会への出張を県に願い出たらしい。

本土の学会へ出張したいので、その日1日だけ、代理の医師を派遣してもらえませんか?と 県の担当部署に申請を出したところ、出張許可自体は即座に下りた。

代理の医師の派遣は、全く決まる気配がなかった。

許可だけもらったところで、代わりの人が来なければ、島には医者がいなくなる。

その医師が県庁に問い合わせたところ、課長さんの返事はこんなものだったらしい。

「先生の役割は、書類上、その島の医師定数を『ゼロ」から『1』にすることであって、 毎日医療活動を行うことまでは期待していませんから、 休みを取っても大丈夫ですよ。」

その時は大学からの派遣だったから、そのときはそれ以上、何もいえる立場じゃなかった。

その医師は後年、義務年限が明けたあと、 今度は「ものをいう医者」として、もう一度その島の診療所へと戻っていったそうだ。

役所は査定を放棄する

世の中には、評論家とエンジニアとの2種類の人間しかいない。

父親の口癖だった。

技術系の典型のような人だったけれど、自分の研究所に「P&I Labo」 なんて 横文字つけて喜んでたから、案外文系萌えの属性もあったのかもしれない。

エンジニアという人種は、要は道具がたまたま呼吸していたようなもんだから、 「役に立ったよ」といわれるのが一番うれしい。感謝なんて大それたもんじゃなくて。

評価を行うためには、成果を数値化することは欠かせないのだけれど、 役人様の評価というのは「0」と「1」の2つの記号だけ。

よくやったとか、どれだけやったとか、そういう評価は全くなし。 その時間、そこに「いた」か「いない」か。

医者の仕事なんて、たしかに「そこにいる」ことが仕事の大部分だけれど、 国家機関の「個人の努力を一切査定しない」という態度は徹底していて、 今の時代、これをやられると本当に腐る。諸悪の根源。

ところが、性善説的に考えると、この評価システムというのは、 現場を本当に信頼しているシステムであるともいえる。

昭和50年ごろまでは、現場で働く技術者の数というのは本当に不足していて、 みんながベストを尽くすのはある意味当たり前だったのだそうだ。

「天下り」という言葉も、現代でこそ悪い意味で使われるけれど、 昔は本当に神様が来てくれたような歓待ぶりだったらしい。

優秀な技術者というのは中央官庁にしかいなくて、その人が現場に降りてきてくれると、 現場の生産性というのが、本当に上がったそうだから (第5世代コンピュータとかシグマ計画とか…何だったんでしょうね)。

厚生労働省。

厚労省は病院の査察と指導を行うけれど、昔の査察官というのは、 病院から出された食事には絶対に手を出さなかったのだそうだ。

病院側がどんなに豪華な食事を用意しようと、昼休みに入ると、査察官は 駅前の立ち食いそば屋まで歩いていって、そこで昼ご飯をかき込む。 それがキャリア官僚の美学だったらしい。

今はみんな、当然のように病院内でお食事。

昔はみんな、プライド高かった。悪くいえば、バカ正直すぎた。

絶対だれも信じてくれないだろうけれど、個人的には、 いまだに世の中には悪い人なんていないと信じてる。

分かってくれない人、自分と合わない人というのは絶対いるけれど、 純粋な悪人なんて、絶対いない。

「ゲド戦記」には納得がいかない。

あの話、悪役が本当の悪人。何の魅力もない、単に主人公に殺されるためだけに存在する 悪役なんて、世の中にいるわけがない。

ジャーナリスト。医療評論家。県の役人。厚生労働省。

医師という主人公を取り巻く「悪役」はたくさんいるけれど、やっぱりコミュニケーションの チャンネルだけは閉じたくない。いやマジで。

いずれにしても、役所サイドは、今も昔も評価方法を変えていない。

むしろ、変わったのは現場のほう。

自分も含めて現在の医師は、自分が単なる数字でいることに、 何で耐えられなくなってしまったのだろう?

数年で変わった空気

医療の崩壊という現象は、この数年で一気に進んだ。

たしかに、象徴的な事件はいくつもあった。30年ぐらいあとになったら、 歴史家はその事件をきっかけに、医療の崩壊が一気に進んだと記録を残すんだろう。

でも、現場の空気は、世間のそれとは少し違う。

研修医を指導する立場の医師も、彼らの空気が急速に変わりつつあること自体は感じてる。

それでも、たとえば「○○のような事件はどうなんですか?」とか、具体的な形での 不安の声というのは、そんなに多くない。ただただ、なんとなく熱意が感じられないとか、 臨床の泥沼に首を突っ込んで働こうとか、そういう泥臭さが感じられないとか、 漠然とした「変化」だけ。

「これだから若い奴らは…」と言っちゃうと、自分も若い人の群れから外れてしまうから、 これだけは口が裂けても言いたくないのだけれど、 とにかく急速に空気が変わった。

  • 何でもできる医者、ボロボロになって働く医者に対する視線が、急速に冷たくなった
  • 少ない労働時間でいいとか、責任が発生しにくいとか、悪い意味で「クレバー」な選択肢が、おおっぴらに語られるようになった
  • 循環器内科とか、消化器外科とか、主流派だった医師が、廊下の真ん中を歩けなくなった
  • 現在、廊下の真ん中を闊歩するのは、皮膚科や眼科

患者さんのため

若い人は笑っちゃうかもしれないけれど、ほんの5年ぐらい前までは、日本中の医者というのは 本当にこのお題目を信じていて、それを達成するためだけに命をかける人までいた。

どこの科に進むのかという問題も、労働時間とか、収入とか、そういう本当の理由じゃなくて、 みんな「これが患者さんのためになると思ったから」。こじつけだろうがなんだろうが、 その理由、または言い訳を、必死になって探したもんだった。

拘束時間の長さ。感染の危険。私生活の犠牲。

こうした要素は、厳しい科の「魅力」にこそなれ、 それが理由で人が集まらないなんていうことはありえなかった。

「医師は聖職」なんて、今では地域医療を叩き潰したくてしょうがない政治家の常套句に なってしまったけれど、ほんの少し前までは、誰よりも医師が、この言葉を信じてた。

まだそんなに昔の話じゃない。

小さくなる世界

医師、あるいは医学生個人の気質というのは、たぶんそんなに変わっていない。

相変わらず、誰もがブラックジャックを読むし、スーパードクターK の連載だって、 まだ続いてる。

この数年で、何よりも一番大きく変化したのは、 個人と個人の「隔たり」が急速に緊密になったことだと思う。

手紙や電話、電子メールや、インターネットの掲示板。

個人と個人とを結びつける手段というのは、時代とともにだんだんと増える。

個人同士の隔たりというのは、定量化できる。連絡を取れる知人は「1」。そのまた知りあいは「2」。 全ての組み合わせを計算すれば、ネットワークに参加する個人間の隔たりの平均値というものもまた、 計算できる。

通信手段の進歩とともに、個人の隔たりの平均値は小さくなる。

ここまではみんな理解していたけれど、読みが外れたのは、その速度。

世界の小さくなる速度というのは、みんなもっとゆっくり来るだろうと予想していた。現実は逆。

エンデルシュとレニエの「ランダムグラフ理論」によれば、ネットワークに参加する人の数が十分に 多いとき、「世界の隔たり」の平均値は、ある臨界を境に急速に小さくなるという。

この現象、「ネットワークの相転移」が生じると、個人の行動や決断が、 他の人に与える影響力が突如として大きくなる。

この数年間で起きた「新人の空気の変化」というのは、個人一人一人が変わったというよりも、 個人の集団であった新人医師が、この数年間を境に、急速に「一つの巨大生物」へと変貌した と理解したほうが、正しいような気がする。

以前は別の大学の噂にしかすぎなかった訴訟事例なども、 ネットワーク化した集団では、その隔たりが少なくなった。 今は、「友達の話なんだけど…」で始まる悲惨な話がゴロゴロ。 これなども、訴訟の実数が増えただけではなくて、 たぶん「友達」の数が飛躍的に増えているから。

緊密なネットワークを持った集団には、「同調圧力」が生じる。

飛びぬけてダメな人間も救済されるかわりに、飛びぬけて優秀な人間もまた、集団からは疎まれる。 集団は、一定の「模範解答」を志向する。その解答が「苦労する奴はバカ」であれば、 その意思に反して忙しい医局に進むには、従来以上の意志が必要になる。

何のことはない、公務員というのは未来の自分達だった。

自分たちが敵視してきた公務員の業界というのは、 医師が追いつく何年も前からネットワーク化が行き届いていて、 今のような「役所仕事」の体質を作り出した。

もともと競争を行う必然性が存在せず、個人個人がいい意味で「独り善がり」の 努力を続けてきたことで何とか均衡を保ってきた医療業界は、 今ネットワークの力を得、ようやく公務員のやる気のなさに「追いつこう」としている。

医療が急速に崩壊している。

現場の実数は、実はそんなに減っていなくても、今までは優秀な人なら 無理して1人でやっていた仕事も、 今は2人そろうまでは絶対に始まらない。

現場で必要な実働人数というのは、この数年、 加速度的に増加している。10人やそこらの定員増加では、間違いなく全く足らない。

医師が記号になった後

社会は変わる。あと30年ぐらいしたら。

  • たぶん、「一つの日本」はもうすぐ終わって形骸化して、社会は100人から10000人程度の 見えない「部族」ごとにまとまって、国家というものは象徴としてそれを統治するようになる
  • 雇用の形態は今までどおり残る。それとは別に、政党を選ぶように、 誰もが自分の入っている「部族」を持つ
  • 大きな部族は、その中に医療、法律の機能を内包しており、さらにその一部は 国会へ議員を送り出すだけの力を持つ
  • 部族にとっては、医師は査定が難しく、投機性の高い機能単位として取引される
  • 医師は相変わらず病院に勤めるだろうけれど、それとは別に、自分の「医師」という記号を どの部族にくっつけるか、その寄生先を探して右往左往するようになる

競争は厳しくなる。人件費の安い、海外の企業の参入も増える。

単細胞生物と、多細胞生物。

役割を分担して、大きくなれる多細胞生物というのは、生存に競争が必要で、厳しい環境に 対する適応状態として生まれてきた。

従来型の政党とは、少しだけ意味が違う。政党の目標というのは、 一種の社会革命。「部族」の目標というのは、 「生存」そのもの。それは、身内の生存を補償するための集まりだけれど、 同時に身内以外の人からは機会を奪う。この時代、機会というのは少なくて、 もはや公平なんてないだろうから。

世界はネットワーク化して、小さくなる。医師の業界もそうだけれど、他の業界はもっと 何年も前からそうなっている。

決定的に違うのは、他の業界には「競争」と「失業」というルールがあって、生存競争を 行いつつ、個人間のネットワークを維持しなくてはならないこと。

医師は今のところ、医師免許さえ持っていれば、一応失業とは無縁だから、 そのあたり決定的に違う。 一番似ている業界を探すと、たぶん弁護士と公務員。

ベンチャー企業をおこす人の間では、「起業するときには、 公務員と弁護士、医師の3つの職業に 知人を作っておけ」というのが鉄則なんだそうだ。

ベンチャー企業を成功させる人というのは、今の時代一番「目効き」の上手な人たちだから、 その人たちが公務員、弁護士、医師という3つの仕事を並列的に扱うということは、 医師の仕事というのも、もはや「記号化」しているということなんだろう。

冒頭の、島の医師を「1」という数字で査定した公務員というのは、たぶん正しいことをしている。

1年365日、その日だけ医師がいなくなったところで、島の死亡率なんて変わらない。

その島にいるのが研修医だろうが、ブラックジャック級のスーパードクターであろうが、 やっぱり島の死亡率は変わらない。

ネットワーク化した社会では、医師の能力は個人では終わらず、「誰かに紹介する」ことで、 自分の能力を補うことが可能だ。

診療所の医師がたとえ研修医だろうが、 来る患者全てを本土に紹介すれば、死亡率はそんなに変わらない。助かる人は本土で助かるし、 島で亡くなる人は、漫画みたいな名医だって、たぶん半分ぐらいしか助けられない。

伽藍からバザールへ。

これから先、国家とか、企業とか、そうした大きさ組織の力というのはだんだんと小さくなって、 いくつかの会社を転々とする人が増える。会社を離れて、「部族」の仲間に別の話を紹介して もらって、また仕事して。そんな感じ。

個人の「属性」の持つ意味は薄れる。ちょうど、フリーマーケットのように、 社会はネットワーク化して、みんな自分の技術とか、 作ったものなどを、思い思いに出品して、「現物」を評価してもらう時代。

バザールの時代というのは、技術系の人に有利だ。

「○○を作った実績」とかフリーソフトとか。農家や漁業なんて、 そもそもが物を生産する技術者だから、 出品物は収穫物そのもの。

機能が記号化してしまった職業というのは、このあたり、結構つらい。

みんながフリーウェアを発表する昨今、医者として、 自分がバザーに出品できるものというのはなんだろう…と 考えてみると、これがもう何にもないことに気づく。

  • 医療の技術というのは国家がスポンサーだから、実際に病院に来てもらわないと使えない
  • 医療相談なんて、メールだけじゃ危なっかしくて無理。「医者に行ってください」としか返事できない
  • 「ボランティア医者」なんて、責任取れるの?なんていわれたら無理。無補償の医療なんてありえないから、責任取れない
  • 人によって手を抜いたりまじめにやったり…なんてやったら、単なる犯罪者

結局のところ、自分たちが「売りに出せるもの」というのは、医師としての機能に由来した 品物ではなくて、「医師と友達になれる」という、その事実だけ。

医師が記号化する時代。技量が査定されない組織の中での自己表現とは、「早く帰ること」。 余計なことをしない。責任を背負い込まない。自分の優秀さを表現しようと思ったら、 5時になったらダッシュで病院を後にする以外に方法がない。

今多くの医師がやっている余計なサービス精神に根ざした医療、 時間外に回診するとか、夜中に病院に行くといった行動は、たぶんことごとく行われなくなる。

案外、それでも大丈夫なんじゃないかという気もするけれど。

どこかの「部族」に医師が入るとき、そのコミュニティの人達は、顔見知りとして認知され、 一種の信頼関係が生まれる。このコミュニティ相手の仕事をするときだけは、 医師は「記号」の仮面を脱いで、昔ながらのスタイルで仕事ができるようになるかもしれない。

普段手抜きしているつもりはないし、知りあい相手の診療というのは滅茶苦茶に緊張して、 必ずしもそれがベストなわけじゃないんだけれど、「売りもの」になりそうなのはこれぐらい。

「いくら頑張ったって、つけこまれるだけで評価されない。努力するだけ無駄。」

今の時代、本当にそのとおりで、どう転んだってその傾向はもっとひどくなるんだけれど、 それでも頑張ることというのは、最後は自分の身を助けるんじゃないかと思う。

医師のネットワークの中に、常に自分をおいておくこと、医師のコミュニティとは別に、 将来「部族」を率いそうな人というのを、なんとなく予想しておくことは、 何かの役に立つかもしれない。

大分先のことではあるだろうけれど。

2006.09.02

おいしゃさんとおにくやさん

  • お医者さん
  • お肉屋さん

先頭に「お」がついて、最後に「さん」がつく職業。たぶん探せばいろいろあるんだろうけれど、 すぐに思いつくのはこの2つだけ。

「お」と「い」の音というのは、口の運動を考えるとつながりやすい。

この2つの職業に「」がつく理由というのは、意味論的なものとか、歴史的なバックグラウンド といった問題ではなくて、単純に「」の音で始まる職業だからなんじゃないかと思う。

子供があらゆる職業に「さん」をつけるのも、大人に敬意をはらうという意図があるんではなくて、 単純に「ん」で終わる単語は発音しやすいからなのではないだろうか?

10年ぐらい前に『人麻呂の暗号』という本がちょっと流行った。

『万葉集』にでてくる和歌は、古代朝鮮語の読み方で解読できるという趣旨だったけれど、 今では「そんなことはない」という結論になっているようだ。

昔から、「トンデモ系」として括られる本の中には、こうした「日本語を外国語として読む」、 あるいは「外国語を日本語として解釈し直す」という趣旨のものがけっこうあって、 少なくとも1冊の本を作れるぐらいのサンプルは集められるようだ。

言葉というのは、抽象的な意味を表現する一方で、その内面には身体的な要素を内包している。

言葉を発音するという行為は、単なる知的活動ではなく、 身体の問題と切り離して考えることはできない。

発音のしかた。母音のつなぎかた。こうした行動は、 顔面の筋肉や、顎関節の機械的な構造に、少なからず制約される。

  1. 全ての母音の発語に要するエネルギーを調べる
  2. それぞれの母音から、次の母音へと口の形を変化させるときに必要なエネルギーを調べる
  3. 各国の単語の意味論的な重要さと、それぞれの単語発音に要するエネルギーとを比較してみると、 何か面白い発見があるかもしれない。

日常用いられている単語というのは、どの国でもエネルギー的に一定の消費量以下におさまるように 作られているとか、特定の重要な意味を持った単語というのは、消費エネルギーがより大きいとか。 あるいは、「言葉の信頼性」といったあいまいな概念というのは、案外しゃべっている人の エネルギー消費量で定量化できるのではないかとか。

誰か調べている人、いそうなんだけれど…。