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2006.08.31

文系亡国

何もかも文系が悪い。

技術系はみんな頑張ってる。文系は余計な足を引っ張って、 全てを台無しにする。

医者も理系。みんな一生懸命頑張ってる。

法律家や市民団体は文系の巣窟。連中が、日本の医療を駄目にした。

王監督が退院しない。

プロ野球ファンもそうでない人も、みんな監督の病状を心配している。

全国の消化器外科医も。

腹腔鏡手術というのは、 最近の消化器外科領域の、技術の頂点。

技術を作ったのは、技術者と医師。技術の未来を握っているのは、 退院後の王監督の一言

王監督は文系じゃなくて体育会系だけれど。

対立する文系と理系

文系と理系、2つの学問。

どちらのルールも、「学会でどれだけ多くの支持を集めるか」が 勝利条件になるという点では、全く同じ。

違うのは方法論。

  • 文系は、ある質問に対応した答えを探す
  • 理系は、ある結果を見たとき、結果としてそのような状況を生んだ質問は何なのかを知りたがる

文系の思考回路は演繹的だ。

たぶん、こうだろうという仮定を考えて、人間というあやふやな集団の中から、 仮定に当てはまる人の数を数える。当てはまる人が多ければ、その仮定はそれだけ正しい。 文系にとっては、「正しさ」というのは相対的なものにしかすぎない。

理系は帰納的に思考する。

まずはデータを集めて、そのデータの合理的な解釈を考える。 時々「ずる」をして、まず仮定から入る人がいるけれど、 あれは本来の技術者のやりかたじゃない。

理系の理論は単純だ。「正しい」か「間違っている」か。 例外の多い解釈は、「あまり正しくない」理論ではなく、「間違っている」理論と呼ばれる。 文系じゃないから、そのあたりシビア。

政治が真理をひっくり返している情景、理系でも、最近はなんだかよく見るけど。

理系同士は仲がいい。

たとえば、実験物理屋さんと理論物理屋さんというのは、たいへん仲がいいらしい。

お互いに意志の疎通があって、お互いの進歩が相補的である場合、 理論と実験とはお互い協調して、すばらしく上手くいくらしい。

法律家と医師というのは、とてつもなく仲が悪い。

お互いに意志の疎通はある。法律が変われば、医師はそれに追従する。 なのにお互いに協調は生まれず、仲は一向によくならない。

悪いのは全部文系だ。

世界を信じる際の基礎

「世界が昔からここにある」と証明するのは、実は案外難しい。

理系は調査する。

宇宙が昔からあった証拠。古い化石や、地層の調査。細かい証拠を重ねれば重ねるほど、 理系的には「世界の証拠」はより確かになる。ところが、証拠の「正しさ」に逆比例して、 それはどんどん分かりにくくなる。

文系は物語を語る。

いい文化人というのは、間違っていても分かりやすい説明を作る名人だ。 文系の価値観は、正しさよりも分かりやすさ、浸透しやすさを重視する。

世界の実在を信じる際の基礎を、調査におくのか、あるいは信心におくのか。

語らないデータ自身に語らせるのは理系の得意分野だけれど、 文系は、データなんかなくても、もっと面白い物語を作り出す。

南海にはカーゴ・カルトを信仰する人々がいる。 戦争の間,様々な物品を積んだ飛行機が現れるのを見た彼らは, また同じことが起きて欲しいと考えている。そこで彼らは滑走路のようなものを仕立て上げて, その脇にかがり火を焚き, 木の小屋の中に人を座らせ,頭にはヘッドフォンのような木片と, アンテナのような竹の串を立て ― 要するに彼は管制官なわけだ ― そして飛行機が訪れるのを待ち続けた。 彼らは全てを正しく行っている。 形は完璧だ。以前見たものと全く同じに見える。しかしそれは上手くいかない。 飛行機は降り立たなかった。 Radium Software Developmentより引用

正しいことを言ったって、それがつまらなければ無視される。

こんな宗教が発生した1910年代のメラネシアにも「理系」がいて、 文系の連中が起こしたカーゴ・カルトを非難したり、島民から裏切り者あつかいされて 迫害されたりといった黒歴史があったはず。

やっぱり悪いのは全部文系だ。

主導権を奪う文系

黎明期、新しい技術を知っているものが少数しかいない時代には、 その場所には厄介な文系なんて一人もいない。 技術の進歩も、その方向も、決定権は全て理系のものだ。

ところが、技術が進歩に応じて、文系の力がだんだん強まる。

技術屋がどんなに頑張ったって、その成果を査定するのは文系。

技術を作るのは理系だけれど、マーケットを作るのは文系。どんなに優れた技術だって、 マーケットに受け入れられなければ、存在しないのと同じ。

新しい技術が広まって、相手にするコミュニティが大きくなると、 技術屋的な「よさ」というものすら、必ずしもプラスにならない。

「プロジェクトX 」。

あの物語は、技術屋さんから見れば「失敗」にも等しいプロセスで 成功にこぎつけた話ばっかり。誰かの失言、あるいはマネージメントの失敗を、 現場の技術者が倒れそうになりながら「尻拭い」した物語。

文系バカ受け。理系ドン引き。

無難であること、堅実であることは、文系的な価値観では短所ですらある。

広げる文系と積む理系

  • 理系は砂を積む。
  • 文系は砂をならして広げる。

砂時計のように砂が降り続けると、そこには ある一定の形の砂山が出来る。 砂が降り続けて、砂山がある臨界の大きさを越えたとき、砂山には雪崩が起きる。 雪崩を起こしたあと、砂山は裾野が広がり、再び砂は降り……。 局所局所で堆積と崩壊とを繰り返しながら、砂山はどんどん巨大になる。

砂を高く積むにはコツがある。崩れるまえに山をならして、砂山の裾野を広げてやれば、 砂は崩れることなくより高く積み上がる。

ならすのは文系。理系の本能は「とにかく上へ」。

砂山がまだ小さなうちならば、ならさなくったって砂山は自然に積み上がる。 砂山は、小さな雪崩を繰り返しながら、それでも確実に大きくなる。 文系の手なんて必要ない。

ところが、山が大きくなると、話は変わる。

砂山は、理屈の上ではいくらでも高く積み上がる。 そのかわり、砂山がある程度大きくなって臨界を越え、 今までの裾野の大きさでは山の形を維持できなくなると、 砂山は一気に崩れてしまう。

技術には「臨界」と「限界」という2つの側面がある。限界はまだまだ先のほうにあっても、 臨界にぶち当たって進めなくなっている技術がたくさんある。 限界を高めるのは理系の力だが、臨界を超えるのは理系ではなく文系の力だ。

こんな考えかたが成り立つのならば、やはり世の中には文系と理系、両方の人種が等しく 存在する理由があって、お互いに手を取り合わなきゃいけない…なんていう結論に なるのだろうけれど、本当かどうかは分からない。

「大きな崩壊が発生する前に山をならす」者として、文系人間には存在価値があるのか、 そもそもが重力に任せていれば山は勝手に大きくなって、やっぱり文系というのは邪魔をする だけなのか。

自分にできることといえば、理系っぽく、他の人と一緒になって砂を積むだけ。

いま医者にできること

技術の進歩というのは、理系と文系とが主導権を争う歴史物語だ。

哲学と数学の時代から宗教の時代へ、科学の時代を経て、法律と訴訟の渦巻く現代へ。

理系の辺境にある医療の分野もまた、理系がリードしていた時代がそろそろ終わり、 今再び文系がリードする時代が来ているように見える。

この数年の変化というのを、もっと大きな変動の前触れと取るべきなのか、 それともほんの一時の変化にしかすぎなくて、医者はまだまだ安泰なのか。

このあたりは地球温暖化の議論に似ていて、時間軸をどう取るのかによって、 議論の状況は異なってくる。時間軸を1000万年単位に取れば、 地球というのはむしろ冷えているし、時間軸を100年単位に取れば、地球は温暖化している。

温暖化の議論と異なるのは、時間軸を長期に取ろうが短期に取ろうが、 いずれにしても「次は文系の番」だということ。

文系の時代。理系の人間が生き残る術というのは限られてくる。

  1. コミュニティを理系制御可能な大きさに保つ :有名な医師や、病院の友の会のような コミュニティにこもって、「分かってくれる人」だけを相手に仕事をする。 たとえばグーグルという理系の会社は、 極めて大きな理系向けのコミュニティを作り上げて、それを制御しようとしている。
  2. コネクターに訴える物語を作る :技術的に優れていても分かりにくいものと、 技術的には劣っていても見通しのいいものとがあったときは、後者に乗っかる。 何か「進歩」を導入したとき、その必然性を説明しうる物語のない技術は、文系の時代には失速する。 レクサスが大失敗したのがいい例。物語が作れなくて、ただ「いい」だけなんて、もう広まらない。
  3. 偉くなる :文系世界では、その人の社会的な属性と、論理の明快さとは、同等の力を持つ。 理系は論理の明快さで文系に負けるから、とにかく「偉い」属性の人になって、文系の言論に対抗する。 「偉く」さえあれば、肩書きの真実性なんて、ある意味どうでもいい。

「変わらない世界」を夢見て専門性を高める人、世界がどう転んでも「潰し」が効くように、 中途半端な立場を維持する人、理系的な立場を止めて、 ブラウン管の向こう側から同業者を非難する「患者の味方」の先生。

立場はいろいろ。考えかたはみんな同じ。

潰れたくないし、できれば努力したぶん、いい思いしたい。

文系の時代。いずれにしても、医学の分野は臨界が来ていて、 今までどおりに限界を押し上げる仕事につける人の数は減ってる。

泣くのが嫌なら、どこかの方向へ歩いたほうがいいと思う。

2006.08.27

愛媛県のひみつ

みかんを常食にしている愛媛県民は、体内に大量のビタミンCが含まれていて、 亡くなった後も遺体が腐敗しない。 愛媛大学の解剖実習室には、だからホルマリンの臭いが一切しないらしい。

愛媛県の蛇口には、水とお湯と「ぽんジュース」の3系統があるそうだ。

県の都市伝説としてこんなものを 思いついたのだが、西日本ではもはや常識?

物語創造の文法

物語だけじゃなくて、たぶん現実も。

何もないところから全く新しい文章を書くのは難しいから、 何かを書くときは、過去に他の人が書いたものを参考にする。

一つの文章というのは、書くきっかけになる「発想」の部分と、 その文章で作者がいいたかった「結論」からなる。

発想も結論も同じ文章というのは、単なるパクりになってしまうから、 そこは工夫して新しく見せる。「工夫」のしかたというのは、 だいたい以下のようなパターンに分類できる。

  • 演繹 :発想を借りてきて、そこから結論を変える
  • 帰納 :結論は同じでも、そこに至る道筋や、書くきっかけになったイベントを変える
  • 補間 :全く別の分野から発想と結論をもらってきて、その間を自分の知識で埋める
  • 生成 :新しいモデルを発想して、それを膨らませて文章にする。本当の創作

発想を借りてくる

アイデアは大事だ。

完全にオリジナルのものを発想するのは本当に難しいから、 誰かが思いついたアイデアは繰り返し流用される。

たとえば、古典的なSF のテーマ、「人工知能に感情が芽生える」というアイデアも、 そこに様々な結論をくっつけて、ちがう物語として繰り返し再生されている。

  • 人間に学ぶ :非合理的な行動なのに、なぜかうまくいく地球人の行動をトレースした結果、感情が生まれる。 「スタートレック」では、ミスタースポックをはじめとしてこのパターンが何度も語られる。
  • ソマティックマーカー :多すぎる情報の中から強引に意思決定するため、自然発生的に感情が生まれる。 脳化学の分野で語られている、ダマジオの「ソマティックマーカー仮説」そのもの。 「涼宮ハルヒの憂鬱」のシリーズで作者の人がやろうとしているのは、たぶんこのテーマなんじゃないかと思う。
  • SQL インジェクション :エラー情報を突っ込むことで、物語の誰かが人工知能をハックしようとする。 主人公たちは、機械に「感情」を教えることでそれを回避する。手塚治虫の映画の中で、 これをテーマにした奴があった気がする。

基本的なアイデアは全部同じ。「なぜ機械に感情が必要なのか?」という質問に対する答えを 変えるだけで、ずいぶん違ったお話が作れる。

「なぜ」の説明を放棄してしまえば、たとえば「ターミネーター2」の中などでもこのテーマが使われていた けれど、必然性のない感情の芽生えは、アイデアとしては今一つ。シュワルツェネッガーはかっこよかったけれど。

結論をいただく

  • ライフハック系の結論を、医療現場のエピソードから導いてみる
  • ネットワーク科学やゲーム理論のテーマを、僻地医療や産科医減少の話題の説明として使ってみる

Weblog 時代。いい結論の文章というのは世の中に多くで回っていて、 自分もあんな文章を書いてみたいなとよく思う。

書いてみたいなら書けばいいのだけれど、そのままやると丸写しにしかならないから、 そこに自分の「色」をつける。

いちばん簡単な「色」の違いというのは、作者と自分の属性の違いだ。

相手は作家だったり、プログラマーの人だったり。自分は医者。

現場からでてきたいい結論というのは、気がつかないだけでどの職場にも共通して「あった」ものが 多い。だから、他の現場から書かれた結論に、医療という自分の属性を付加してやると、 一見新しい文章を作ることができる。

相手が心理学者とか、カウンセラーといった「その道のプロ」だと、なかなかうまく行かない。

あの人達は、まず結論ありきで現場の空気を抽象化しちゃうから、 現場からボトムアップ的にアイデアが立ち上がってくる過程、 あるいはそれを発見した作者の興奮を無視してしまう。

書いている人の情熱が伝わってこない文章は、読んでいてつまらないし、 ましてや同じテーマで自分の話を書いて見たいなんて、思わない。

自己啓発系の人達の本というのは、目次は面白いんだけれど、 中身はたいてい期待はずれ。

補間の技法

自分には新しいものを生成する能力はないから、もっともらしい文章を書いているときは、 たいていは何か別の世界のアイデアを「補間」して、新しい文章をでっち上げている。

補間の基本は、観察だ。

やり方は、こんな感じ。

  1. 他の分野、たとえば新興宗教の教義とか、ファンタジー世界の魔法のルール や「奇跡」が生まれるまでの物語といったものを観察する
  2. それが始まった「起源」と「結果」を抽出する
  3. その間を、現実世界の知識、医学や心理学、ネットワーク科学の知識など、自分の得意分野で強引に埋める
  4. ほとんどの人は、もとネタの教義なんて知らないから、全く新しい文章に見える

異分野で、結論に至った過程を物語にするやりかたというのは、小説の多くで目にする。

たとえば、現代文学やSF、ミステリーといった様々な小説のジャンルというのは、 お互いに読者が重ならないから、補間しあう関係の小説がけっこうある。

カズオ・イシグロという英国の作家が人気だけれど、あの人の小説というのは、 SFやミステリーの分野の作家が幻視した結論を、現代文の言葉で補完した物語だ。

だから、現代文学読みの人には大いに受けるけれど、根っからのSF読みには今一つ。 「これ○○そっくりじゃん」と指摘するのは、読者としてはあまり行儀がよくはないけれど。

補間をするには、何かモデルになるような発想をした人の文章を探す。 これがけっこう難しい。

たとえば宗教書。

教祖にあたる人が「勉強」をして作り上げた教義は、あんまり役に立たない。

その人の努力とか、意図が透けて見えてしまって、「ああ大変でしたね」という感慨はあっても、 その人の発想と結論をもらおうという気にはなれない。

面白いのはむしろ、伝統宗教の人達の逸話とか、新しいところではシュタイナーの神智学とか。

「面白い」と感じる人達の物語というのは、何の意図も計算もそこにはなくて、 「とりあえず見えちゃったから、 あるいは神様がこう見せたんだからしょうがない」という意志が感じられるもの。

過去の有名な宗教家には、莫大な勉強量が逸話として伝わっている人が多い。

そういう人達は、勉強しておもしろい教義を作り出したのではなくて、何か「見えてしまった」ものが あまりにも想像を絶していて、それをみんなに説明するために勉強をせざるを得なかったんじゃないかと思う。

縁起から結論へ。

宗教家が「ジャンプ」して省いた部分には、どんな思考過程があったのか。 それを考えるのが面白くて、いろんな科学書を読みあさって、調べて文章を書く。

地震雲が発生すれば地震が起こる。関連性を科学的に証明出来ないからといって 簡単に切って捨てているから、地震予知の発達が遅れる。 科学的に証明できなくても、関連性が有るという事象はあるのだ。 映画「日本沈没」より引用

「関係」を説明する道筋というのは、科学の世界では常に一本、 あるいは政治的に一本しか許されないけれど、 創作の世界では無数。

だからおもしろい。

生成~本当の創造活動

生成に必要なのは、モデル化の能力だ。

現実世界を観察したり、あるいは作家が自分の過去の経験を観察したりして、 その膨大なデータの中から、何かの関係を説明するモデルを作り出す。

これがアイデアになって、全く新しい文章ができる。

モデル化がうまくいかないと、そのモデルが説明する現実世界は例外だらけになる。 そういうアイデアを読んでも、自分の身の回りの出来事として実感できないから、 あんまり刺激を受けない。

洋の東西を問わず、昔の薬というのは、とりあえず「効く」ものを集めて、 それから何がおこっているのかを考えた。

そのモデル化が正しいのかはさておき、 「薬が効く」というのは観察に基づいたものだったから、実際古い薬はよく効くものが多い、 というより、効く薬しか現代まで残っていない。

今の薬があんまり効いた気がしないのは、モデル化が十分でなくて、不十分なモデルから 薬を作り出して、現実をそれにあわせているからなんじゃないかと思う。

最近だと、SSRI に効果があったと「証明」した科学的研究に、スキャンダラスな疑問が 投げられているけれど、製薬メーカーとしては「作ってみました、効きませんでした」 じゃ商売にならないから、こうした結果はある意味当たり前。

心臓の領域なんかでも、1990年代までの論文というのは、当時すでに発売されていた薬の効果を 「再発見」したものが多かったから、すぐに試せたし信用できた。

そのスタディが証明されても、 ウハウハになる人は、そんなに多くはなかったから。

いくつものスタディが重なって、「たぶん、人体の中ではこういうモデルで物事が進んでいるんだろう」 という合意が出来て、それに基づいた薬が作られるようになったのがこの10年ぐらい。

新しい薬は、そんなわけで怖くて使いにくくて、うちのお客さんに出しているのは古いものばっかり。

思考停止の先にあるもの

物理学者によれば、モデル作りという行為は、レンガで家を造るようなものではなく、 星から星座を作るようなものなのだそうだ。

はじまりはいつも実世界から。

星の位置というのは変わらないけれど、変わらないデータをみて、そこから何かを発想する。

データの絶対量は変わらないけれど、その間の物語を発想することは可能だ。

物理学者は物体を見て、原子を想像した。

一般人が「原子って硬ぇ、すげえ」と思考停止している間、物理学者の人達は、「原子の物語」を さらに発想して、電子や陽子の世界を経由して、今は世界を振動させる紐の正体を捜してる。

大事なのは、仕事の中で「遊ぶ」ことなんだそうだ。

実験計画を提出して、あらかじめどんな「発見」が行われるかを申請してから予算がつくような、 今のやりかたからは、全く新しいアイデアを生成するのは難しい。

本当は、新しい星座を作るみたいに、昔の人と同じ「生データ」を何度も解釈し直して、 新しい説明モデルを作ってみるような試行錯誤も必要なんだろうけれど、 その行為は傍からみると遊んでいるようにしか見えないから、予算がつかない。

遊びのない仕事は歪む。

高校野球児は、野球という誰かが作ったモデルの中で一生懸命にやりすぎるから、 「見返り」を他に求めざるを得ない。だから、リンチとか不祥事といった事件をおこす。

「演繹」や「帰納」といった創造の方法論は、 過去の誰かが作ったレンガを重ねて、新しく家を建てるようなものだ。

とりあえずは確実に新しいものができるけれど、もともとのモデルや結論だって完璧ではないから、 自分達の実世界とは微妙にずれたものにしかならなくて、どうもうまくいかない。 新しい発想が欲しい。

普段臨床をやっていて、実際のところ、そんなに困っていない。治る人は治るし、 治らない人は、やっぱり何をやっても治らないし、治し方が分からない。

「分からない」で止まらないで、あるいは分からないことをいたずらに神格化しないで、 医学は奥が深いとかじゃなくて、もっと他の発想を動員できると何かが生まれるんだろうけれど、 うちの業界は「成功」を保証することが求められているから、なかなか難しい。

臨床医学それ自体の分野の中で、「生成」という行為を行うのはそんなわけで相当困難に なってきたから、最近興味があるのは「補間」ばっかり。

TRIZ (創造的発明手法)なんていう方法論があるとおり、他の業界の創造のプロセスというのは、 自分達の業界でも類型化可能なことが多いから、医学以外の本を読むことが多くなった。

「臨床医学の知識なんて、もうガイドラインだけでいいや」なんて思考停止しちゃうと、 もう医者として終わっちゃうからそれでは絶対いけないんだけれど、 最近は論文を読む量が減っている…。。

2006.08.25

僻地に医者を増やすには

昔から人の少ないところでしか働いたことがなかったから、 実は「人不足」というのはあんまり実感がなくて、 今も僻地の一般内科をやっているけれど、そんなに危機感はなかったりする。

悪いものでも評判は評判

最近のボクシング中継とか、映画「ゲド戦記」とか。

ネットの評判はもう最悪に近くて、八百長だとか、あんな映画は見るもんじゃないとか、 ネガティブコメントばっかり。

否定的な評判のわりには、企画としてはどちらも大成功。

亀田戦は視聴率は凄かったみたいだし、映画も売れている。ネットで叩かれれば叩かれるほど、 視聴率はうなぎのぼりで、映画館に行く人も増える。

同じアニメ映画でも、おなじ時期に公開された「時をかける少女」の方は、 ネットでは大絶賛。ゲドのほうはひどい評判だけれど、 笑いが止まらないぐらいに売れているのは、やっぱり ひどい評判のほう。

いいものは売れるのか?

映画「時かけ」。

一番近い映画館でも、うちから100km 以上離れたところでしか公開されていないから、 見に行くことはそもそも不可能。田舎暮らしが恨めしい。

完成度が高い。感動できる。もうみんな大絶賛。実際興行成績もいいらしい。

「ゲド」は駄作。ジブリ作品というブランドが後押ししてるから、あれだけ売れる。

ならば、こちらが「ジブリ作品」として公開されていたならば、今公開されている「ゲド」を 突き放すような売上げが期待できただろうか?

なんとなくなんだけれど、そうならないような気がする。

完成度の高さ、誰が見ても感激できると言う確実性というのは、 多様なコミュニティに属する大人数を相手にしたとき、本当に強みになるのだろうか?

ツッコミどころという武器

昔のミドル級の試合というのは、盛り上がらなかった。

「いい試合」という意味では、今よりもっと激しかったかもしれないけれど、 その「よさ」というのは分かってる人のものであって、一部の人の絶賛を浴びるだけだった。

コミュニティの壁を越えるには、「よさ」以外の何かは欠かせない。

K1 ミドル級は、良くも悪くも魔裟斗が一人で頑張った。

優勝してからも「悪役」に徹して、メディアに顔を出して、努力を売らずに顔を売った。

努力もしないのに大きな顔をしている悪役に、まじめに頑張っている選手が挑む

初期のK1 ミドルは、努力しないのに強い悪役、魔裟斗を誰が倒せるのか? という筋書きで盛り上がった。

たぶん、選手の中で一番苦労していたのは当の悪役で、主役と悪役、宣伝役から 盛り上げ役まで一人でこなして、その上「強い悪役」をやるためには 本当に強くなきゃいけないから、見えないところで練習だってしなくちゃならない。

コヒのコメントがもう少し面白かったら、武田幸三があと5歳若ければ、 たぶん魔裟斗の「仕事」はもっと楽だったはず。

単一のコミュニティ、たとえば格闘技が昔から好きな人のコミュニティを相手にするなら、 「いい試合」を続ければそれで十分。

ところが、コミュニティの壁を越えて、もっと多くの人を「感染させよう」と思ったとき、 特定の人にとっての「よさ」というのは足を引っ張る。

誰かにとっての「いい」ものというのは、 他のコミュニティに属する人にとってはツッコミどころがなさすぎて、 自分達のコミュニティでのおしゃべりの話題にすることが出来ないのだ。

ベクトル量とスカラー量

  • スカラーとは方向を持たず大きさだけ持つ量のこと
  • ベクトルとは、大きさと方向との両方を持つ量のこと

ベクトルというのは方向を持つ量のこと。方向を決めるためには、 観測者の位置を決めなくてはならない。

スカラー量というのは単なる大きさだけれど、 ベクトルを定量するには「向き」の評価をしないといけないから、 それを評価する観測者がどこに立つかで全然違う。だから、 ベクトル量には、常に観測者の認識が内在している。

「よさ」というのはベクトル量。「いいもの」を最大限に「いい」と評価できるのは、 それを観察するコミュニティの中の人の特権だ。

コミュニティの外にいる人にとっては、どうあがこうとも、中の人より劣った評価しか出来ない。

だから広まらない。

悪意というのは、言語やコミュニティの壁を軽々と越えて感染する。 「悪い噂」や「ツッコミどころ」というのは、観測者の立ち位置を問わない量だ。

水に落ちた犬を叩くのは、万人の楽しみ。だからみんなで盛り上がれる。

集団の叡智と衆愚

どの科にいくのが「勝ち」なのか、学生諸氏の間での解答ははっきりしつつある。

産科や小児科に進む選択なんか、もうツッコミどころ満載。 負け組みとか、イラクに首切られに行くようなものとか、言われっぱなし。

「正しい」選択とされている医師像も、またステレオタイプ的。

都市圏の市中病院で研修して、さっさと専門医を取って速めにリタイア。

同じ条件に皆が殺到しなくてはならない時点ですでに間違いなのだが、 あんまりこれに突っ込む人がいない。

皆の意見が単純な解答に収束する状況というのは、何かが間違っていることが多い。

みんなの合意で「正しい」と思われる意見に集約されるのと、集合的にベストな 意思決定が、集団により下された状態とは全く異なる。

集団の叡智というのは、みんなの意見の平均値が、ときに極めて正しい意見となるという 現象だけれど、集団の生み出した「正しい答え」というのはあくまでも平均値であって、 一人一人が出した解答はみんなバラバラになる。

標準偏差の少ない「集団の解答」というのは、 集団の叡智が発現したのではなく、衆愚が生んだ妄想である可能性が高い。

医学生がそういう解答をだすようになってしまった理由というのは、 たぶん「みんな平等」という教育のせいなんじゃないかと思う。

均質な集団は「よい」ものを好む

集団を「いい集団」として成立させるために必要な条件は3つ。

  • 集団を構成する人たちが独立していること
  • 多様な個性を持った個人の集団であること
  • 中心となるリーダーを持たないこと

これら独立性、多様性、分散性という条件がそろって、はじめて集団は叡智を持つようになる。

受験勉強や、公平な教育内容、ローテーション研修といった医学生を取り巻く制度は、 すべて集団を均質化し、多様性を無くすように働く。

多様性を無くした集団の中では、一人一人の立ち位置が皆同じ。

均質な集団は、ベクトル的に「よい」ものしか評価しない。

「よい」ものとは欠点の無いもの、ツッコミどころの少ないものだから、 その「よさ」は、他のコミュニティには伝わりにくい。

新人医師になる人と、市民感情とのギャップはこうして拡大する。

コミュニティの中の人が志向する「よい」選択肢というのは、外の人から見るとリスクの少ない、 つまらない選択肢にみんなが殺到しているようにしか見えないのだ。

医師は叩かれ、市民は怒る。お互いどんどん不幸になる。

僻地に医者を増やすには

具体的にはこんなことをする。

  • 教育や実習は、たとえば埼玉県人会とか北海道軍団といったチーム対抗の型式で行う
  • チームを分ける基準には、年齢別や出身県別、趣味や性別といった様々なものを用い、得点は全てチームに入り、メンバーに公平に分配する
  • みんなで同じことをやるよりも、うまく分業をしたほうが得点効率がよくなるように、課題の種類を工夫する
  • 進級試験は総合点で。外科の失敗を小児科で挽回するといった行動を「あり」にする
  • 医師国家試験は今までどお行い、全科の最低限のクオリティを確保する
  • ローテーション研修期間は自由行動。僻地に飛び込もうが、都市部の有名病院に入ろうが自由。 その間の給料はどこかが保証する。2年の間は、何回転職しようが、病院を移ろうが、自由。 その代わり、その後の人生は自己責任。

要は、医学生という小さな集団の中に多様性を育てるルールを導入することで、 様々な価値観を作りだそうという提案。

今のルールのまんまで人数を増やすとか、成績順に進路を決めて、 下位グループを産科や小児科に回すといった 提案は逆効果だ。間違いなく現場の士気を下げてしまう。

大事なのは絶対数でなくて、少数であってもやる気のある人が増えてくれること。

そのためには、いまの「○○やったら負け組み」という、失敗したコミュニティ特有の 単一化圧力を、何とかして一度ゼロにしなくちゃならない。

みんなの評価軸がバラバラになって、その立ち位置あいまいなものになれば、 「欠点だらけ」という評価を受けた科の、その欠点こそが強みになる。

ツッコミどころの多いものには、「感染力が強い」という武器がある。

不人気科の魅力のなさは、様々な医学生に訴える「感染力の強さ」によって、わずかだけ補償される。

医学生が多様化しても、不人気科はやっぱり不人気科なんだろうけれど、 たぶん今よりは少しはましになると思う。

鍵になるのは、医学生の集団の中に、多様な価値観を作り出すこと、 絶対に成功しそうもないような 進路選択のアイデアであっても、それをためらわないように後押しして、 失敗してもいいんだというセーフティーネットを構築することだ。

起きたとしてもわずかな変化だろうし、あるいはこんな提案なんて、 何の役にも立たないかもしれない。

フェルミ研究所の創設者、物理学者のウィルソンは、 「粒子加速器が、国防上なんの役に立つのか?」という質問に、こう答えたのだそうだ。

そういう目的のためなら、この加速器には何の価値もありません。 そうではなく、我々がお互いを尊敬しあう心、文化への愛に関してだけ、それは意義があるのです。 そういう意味で(この機械で得た)新しい知識は、わが国を防衛するだけの価値のある国家として育てる以外に、国家防衛には何の効用もありません。

なんだかんだいわれても、やっぱりこの仕事は面白くて、その面白さを知ってもらう以前から、 「負け組み」あつかいされるのは、やっぱりあんまり面白くない(産科医療だけは、もう挽回不可能になってしまった…)。

多様な選択肢の中で、100人のうち一人でも騙されて、僻地の内科に来てくれるなら…。

一人ぐらいなら、きっと地域医療の面白さを伝えることも、できると思うんだけど。

2006.08.24

出産数日本一の病院で摘発

横浜市瀬谷区の産科・婦人科・小児科病院「堀病院」(堀健一院長、病床数77)で、助産師資格のない看護師らが妊婦に「内診」と呼ばれる助産行為をしていた疑いが強まり、神奈川県警生活経済課は24日、保健師助産師看護師法違反の疑いで病院と院長宅など十数か所の捜索を始めた。 看護師らの助産行為を受けた女性は女児を出産後に死亡していた。助産師不足を理由に、より給与の低い看護師らに助産行為をさせているケースが多くの産院であるとされ、県警は、“氷山の一角”とみて押収したカルテなどを分析し、実態解明を進める。 2006年8月24日 読売新聞

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やっぱり、神奈川県産科婦人科医会の抗議声明に 対する報復なんだろうか。。。

年間3000人というと、田舎のちょっとした医療圏一つ分以上の出産件数だから、 いくら神奈川県でもこの人数を吸収しきれるのか?

産科医療をとりまく現実世界の状況の進行が速すぎて、もう想像力が追いつかない状態。

米軍のやった「衝撃と恐怖」作戦みたいなものだろうけれど、 これから先はイラクみたいに泥沼化するんだろうか…。

なんとなく、警察病院の産婦人科の先生方のコメントが聞きたいと思った。

2006.08.19

言葉のはじまり 神代のおわり

魔術師は古いものを集める

古い祭具。古代の呪文。

時の試練を経たものには、古いというだけで神秘的な力が宿る。

ものの進歩の歴史というのは、魔術師にとっては堕落の歴史。

技術が進化し、学習可能なものとなり、それを使える人の数が増えるとともに、 神秘は単なる道具に成り下がる。太古の知恵は失われ、その力は衰える。

科学と魔術とは、考えかたが全く違う。

科学は「学ぶ」ものだけれど、魔術は「分かる」ものだ。

魔術というのは、神代に使われていた技術を再現する試みだから、 必要な知恵はすべて古代に「あって」、それが時代とともに失われていったと考える。

神代の言葉は、根源の言葉。

全ての根源となったその言葉は、 それを唱えることができれば、強力な力を行使できる。

古来、根源言語の探求というのは、 魔術の重要な研究分野の一つだった。

根源の言葉

言葉というものは最初から「あった」もので、 目的があって作られたものではなかった。

  • 何かを伝えるために、誰かが言葉を発明した
  • 原始的な言語が、だんだん複雑に進歩してきた

そういう考えかたは言語学者の妄想で、魔術の真理とは違う。

言葉は堕落した。神代に使われていた「根源の言葉」から、現在使われている言葉へ。

もともと一つだった根源の言葉は、バベルの時代に乱された。 いくつもの言葉に分かれて、巨大な系統樹を作り出した。

時代は進んだ。

秘儀の力は失われ、 言葉をしゃべる人が増えて、言葉は単なる伝達手段になった。

失われた神代の言葉を再現しようとする試みは、古くから行われている。

幻視や降霊を通じて、古代の人々に接触してみたり、ルーン文字や神代文字のような、 使われなくなった古い言語を用いてみたり。

業界では様々な努力が続けられてきたけれど、まだ試みは成功していない。

系統樹を遡る試みとは別に、昔から注目されていたのが「言葉が見える」人々の存在。

言葉が視覚に反映される共感覚者の人達は、聞こえたものがそのまま見える。

共感覚者とは、神代の能力を現代に受け継いだ人々。 神代言語とは、古代の共感覚者が幻視した文字のことである。

共感覚者に様々な言葉を聞いてもらい、見えたものを記号にした「根本文字」が作られ、 魔法陣に応用されたが、神の召還に成功したという話は伝わっていない。

まだまだ何かが足りない。

「黄色い声」は何故黄色いのか

共感覚とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚などの感覚が混ざり合う状態で、 一つの感覚刺激によって、他の感覚が引き起こされる。

音の刺激によって色覚が生じる「色聴」が代表的だが、様々な組み合わせが報告されている。

共感覚という現象は古くから知られていて、 昔は脳の機能異常から生じる現象であると 考えられていた。

研究が進められるにつれ、考えかたは変わってくる。

この感覚を持つ人というのは脳に異常な興奮を生じているというよりは、 感覚系からの入力の一部に抑制をかけられない状態であることが分かってきた。

共感覚という現象は、脳の皮質の下にある海馬を中心に、 誰にでも起こっている神経プロセスだが、 通常は脳の最終処理を行う器官である辺縁系を通過すると、意識から失われてしまう。

辺縁系レベルまでは、全ての人々が共感覚を感覚している。共感覚者とそうでない人との 違いというのは、「その感覚に気がつけるかどうか」、その部分らしい。

現在では共感覚者は、異常な人物であるというよりは、 原初的な神経プロセスをありのままに感じてしまう人たちであり、 「認知の化石」と言えると結論されている。

共感覚の名残のようなものは、実は多くの人に残っている。

「黄色い声」は、世界の誰が聞いても「黄色く」聞こえるのだ。

共感覚を否定する「意識」

音に色がついて見える現象というのは、子供ではしばしば認められる現象だが、 その多くは成長とともに失われてしまう。

人間の様々な感覚というのは、辺縁系のレベルまでは「共感覚」の形で脳が処理する。 ところが、その感覚をそのまま認識することを、意識が邪魔をする。

共感覚を持っていた古代の人々が感覚していたのは、 音が視覚に反映されるのが当たり前だった世界。

音を聞いて、そこから文字を連想するのは必然であって、目的など必要なかった。

時代の変化とともに、人間の意識は何故か、その世界を「非常識である」と認識した。

視覚と聴覚の混在する世界は、意識にとっては存在を許されないものになり、 共感覚を持った人はごくまれにしか存在しなくなってしまった。

昔はそこに神様がいた

意識という不恰好な代用品がとって代わる前には、 全ての人の頭の中には神様がいた。

古代、人々は自分の感覚した世界を、「神の囁く言葉」として認識していた。

すでに文明と呼べるものをもっていたにもかかわらず、 大昔の人々の頭の中には、「自意識」という概念はなかったらしい。

  • 今から8000年ほど前に書かれた文章を読み解いていくと、 「牛が2頭いる」「太陽がのぼった後に雨がふった」というような、 即物的な記述しか見当たらないという
  • 次に、4500年前ごろの文章を読み解いていくと、 「神が収穫しろと言った。」「天が言うとおり殺した。」 というように神が登場する
  • そして3000年前ごろにいたると、 「私が牛を見つけた。」「私が王に贈り物をした。」というように、 「私」が登場するのだという

「意識」が頭の中に登場したのは、今から3000年ぐらい前の比較的最近の話。 それ以前の人々には意識は存在しなかった。

人が意識を持つ以前の時代には、感覚系の入力は、意識による抽象化を受けることなく、 直接頭に入ってきた。情報は「神様の囁き」として感覚され、直接その人を動かしていたという。

たとえば、意識が発達していなくても、精巧な絵画を描くことができる。

3万年前に書かれたラスコーの動物壁画は、 極めて写実的な筆致で描かれたものとして知られている。

ところが、その描きかたはいきあたりばったりであったり、 以前に描いた動物の上に、無造作に新たな動物を描いたりと、 おかしな部分も多い。

ラスコー壁画の主は、その技術のわりには、意志の存在が希薄で、 ちょうど自閉症患者が描いた絵のようだという。

「神様」によって動かされていた当時の人々は、 感覚された視覚情報をそのまま書き写すことには優れていても、 感覚情報を認識して、「これは牛の群れである」などと抽象化することは できなかったからではないかと考えられている。

神様は囁き、感覚されたものを画像化してくれる。 そこには思考のプロセスなど必要ない。

アプリケーションとしての意識

脳のシステムの中では、意識が占める役割というのは意外に小さい。

意識というものは、脳のカーネルなどではなく、単なるアプリケーションだ。

脳というシステムのOS を動かすのに、Windows のようなGUI を用いるのか、 それともUNIX のようなコマンド入力を用いるのか。

  • 「神様」というアプリケーションのもたらす世界は、豊かである反面、抽象化の機能に乏しい
  • 「意識」は、抽象化を通じて一覧性に優れ、思考をもたらすが、情報の欠落を伴う

神様を選ぶか、自意識をとるかという選択肢は、単なるシェル選択の問題。

世の中を知覚するのに、「意識.exe」を用いるのか、「神様.exe」を用いるのか。

脳のアプリケーションとして意識を選択しなかった人、 映画「レインマン」のモデルとなった自閉症患者、 キム・ピークは、驚くべき記憶力を持つ。

彼は、常人の20倍近いスピードで本を読み、今までに読んだ本9000冊あまりの内容の ほとんどを記憶しているという。

その莫大な記憶は、まるでインターネットの検索エンジンのように、 正確無比に、彼の脳の”ライブラリ”から瞬時に取り出すことができる。

たとえば音楽の一節を聞いたときには、その音楽の題名、その音程と同じ モールス符号の持つ意味、その符号が使われた歴史的な状況など、 聞いた音に関連した膨大な事項が同時に想起され、眼前に展開するという。

「神様の囁き」アプリケーションの力だ。

その代わり、普段の日常生活は、全介助。

膨大な記憶を思い出すことはできても、 それの意味するところを認識することはできない。

神を殺した私の意識

人が出現してから数万年もの間、神様は常に頭の中に実在したから、 人間の社会には王も権力者も出現しなかった。

たとえば、縄文時代の日本の集落には、 まるで都市のように発達したものがみられるけれど、 そこには王は存在しない。

ところが、人の心に意識が出現して、「神の囁き」を邪魔するようになってから、 神様の声はだんだんと聞こえなくなった。

同じ頃、人間の中に「自分が王である」と称する人々が出現しはじめ、 人の中に階級ができ、集落は国家になった。

かつて人は、王のいない大集落を作っても、神様の声に従ってさえいれば、 その集落を平和に維持することができた。

人々の頭の中に意識が芽生えて、脳の中に神様の居場所が失われたとき、 神話の時代は終わった。

もはや共感覚が見せる美しい平和な世界はそこになく、 権力をめぐって人々が争う、醜い現代社会がはじまった。

言葉を乱した神

バベルの塔の逸話では、いい気になった人々を諌めるために、神様が 塔内の人々の言葉を乱し、お互いにコミュニケーションを取れないようにして、 最終的に塔を破壊してしまう。

「言葉が乱れた」現象というのは、言葉を「感覚」していればよかった 神々の時代から、それを「認識」しなくてはならなくなった意識の時代への、 過渡期の出来事だった。

神々が囁いていた根源の言葉というのは、外界を感覚した情報そのもの。

視覚や触覚、味覚といった感覚は統合されて、 「神の言葉」として感覚されていたから、 神の囁く言葉は皆共通。

神が囁くことのなくなった世界では、感覚された情報を、 意識による処理なくしては認識できない。

意識というアプリケーションが処理できる情報量は、悲しいぐらいに少ないから、 辺縁系を上がってきた情報は、必然的に抽象化され、情報の取捨選択が行われる。

抽象化の工程がばらばらだと、お互いコミュニケーションを取るのが不可能になるから、 民族単位、国単位でその工程を約束して決めておく。

こうして、言葉は「カタチ」を持った。

言葉は内的に感覚されるものから、お互い取り決めた「形」に従って認識されるものへと変貌した。

「形」を得た言葉が失ったもの

言葉の処理方法を取り決めることで、言葉は学習可能なものとなり、 意識が支配する社会においての情報伝達の手段となった。

現在の人間社会で使われる言語というのは、記号によるコミュニケーション体系で あるという点で、独特のものだ。

人間以外の全ての動物は、記号を用いないコミュニケーションを行う。

鳴き声などのシグナルや、身体の色や臭い、複雑なダンスや、様々な行動というのは、 全てがコミュニケーションの手段となる。

神代の人間もまた、言葉に加えて、こうしたシグナルを、 「神様の言葉」として統合的に感覚することができた。

意識には、そんな芸当はできない。

こうした「形を持たない言語」の特徴というのは、 そのシグナルを出すのに要するエネルギーが、 そのままそのシグナルの信憑性を保証してくれるという点。

あらゆる動物は、シグナルを出すときに命の危険を冒す。派手な鳴き声は敵を誘うし、 孔雀の大きな羽というのは雌を誘惑するけれど、普段の動作を鈍くする。

強力なシグナルを出す動物というのは、常にそれに引き換えるハンディキャップを負う。 「ハンデを負える」というそのことが、形を持たない言葉の信憑性を保証する。

人の頭に意識が出現する前。頭の中で神様が囁く言葉というものもまた、 あらゆる感覚入力を統合した音声として出現する、形を持たない言葉だった。

意識が神様を追い出して、言葉に形を与えたとき、 言葉は単なる記号となり、人の言葉からは信憑性という大切な要素が失われた。

社会でおきているあらゆる事件は、つまるところ「他人の言葉を信用するかどうか」が全ての 発端になっている。詐欺や殺人、戦争に至るまで。ことのおこりはすべて「信用」の問題。

コミュニケーションをいくら重ねたところで、ゼロはゼロにしかならない。 記号には信憑性を保証する機能がないから、「話せば分かった」のは神代までのこと。

その人の言葉が信用できるのかどうか。人間は言葉だけからは判断できない。 バベルの塔の災いは、人々の間に不信をもたらした。呪いは今でも続いてる。

私はただの銃剣でいい 神罰という名の銃剣でいい 私は生まれながらに嵐なら良かった 脅威ならば良かった 一つの炸薬なら良かった 心無く涙も無い ただの恐ろしい暴風なら良かった そうなれるのなら そうしよう

ロンドンで悪魔と対峙したローマの神父、アレクサンド・アンデルセンは、 聖遺物の力で自分の心を失う前に、こう語った。

意識が支配する世界では、聖職者ですらもはや神様の言葉を聞くことはない。 神の声を再び聞けるなら、心なんていらない。

その人の立場や属性、社会的な地位や収入なんていうものにしか信憑性を求められない社会、 それらを鵜呑みにして過剰な期待をかけては、「裏切られた」とまた傷つき騒ぐ現在というのは、 人々に心なんてなかった神々の時代と比べて、どれだけ幸福なんだろうか?

神様が見捨てた、意識の時代。

他人を信じ、他人に信じてもらうという行為は、なんだか本当に難しい。

2006.08.16

疫病のこと

ほとんどの病気は他人には伝染しない。

針刺しなどによる感染の危険というのはあるけれど、 医者の仕事というのは見た目以上に安全だ。

自分自身は安全地帯にいて、そこから病気に対してできることをやる

これが医者の仕事の基本。

伝染する病気を診察するときは、この「基本」が簡単にひっくり返される。

大前提として、疫病は医者にもうつる。最悪死んだりする。そのくせ、病気に対して医者ができる ことというのはそんなに多くなくて、薬も内服薬ばかり。

人から人に伝染する病気に対しては、極端な話医者なんか必要ない。 内服薬を飲んでもらったら、あとは現場に突っ立っているしかない。残るのは、 感染のリスクだけ。

仲間が倒れるのは怖い

麻疹が流行したのは研修医の頃。

子供の頃にみんな予防接種をする病気だけれど、その効果は20年ぐらいで減弱する。 本格的に流行する年は、成人でも発症する。

成人の麻疹は怖い。40度近い熱が出るし、脳炎に発展するケースもある。 感染した人に言わせると、そのつらさはインフルエンザの比じゃないらしい。

麻疹は空気感染する。だから、入院した患者さんは、個室へ隔離する。

医者は一応感染対策をする。けれど、普通の病院には陰圧室なんてないから、やっぱりうつる。

仲間が倒れるのは、本当に怖い。

自分達は普段、病気になった人しかみない。病気になった人の健康だったときなんて、 知らないから、冷静に診療ができる。

同僚が病気になると、その人が健康だったときと、つらそうに横たわっているときとの ギャップがイヤというほどよく分かる。麻疹は体中に発疹が出たりするから、なおさら身にしみる。

当時、200人ぐらいの職員がいる病院で、1回の流行で、感染して入院した人2人。

わずかに1% の感染率。

研修医を振るえ上がらせるには、それで十分だった。

知らないということはそれだけで怖い

市内でのHIV 症例の第一例目は、自分が当直の時に肺炎で来た人だった。

若いのにやたらと具合の悪い人が来て、酸素濃度を何度測定しても、 「本当?」というぐらいの悪い値。

本人は顔色のわりに元気そうだったけれど、今から思えばタイから来た人だったから、 気合で何とかがまんしていたのかもしれない。

もちろん入院。夜中に人工呼吸器をつないで、朝の申し送りへ。

これ、カリニ肺炎じゃね?

翌朝、アメリカ帰りの感染症科の先生に指摘されて、ぞっとした。

今から見ると単なる笑い話だけれど、当時はまだAIDS なんて遠い国の話。 自分の病院に来るなんて考えてもみなかったから、前夜は観血的な処置をやりまくり。

ガス取ってA line いれて、たしかスワンガンツカテーテルまで入っていた気がする。 当時はなんだか、そういうのが楽しかった頃だったから。

HIV 対応用の施設は、当時の市立病院。

うちみたいな私立の病院は、そもそもこうした疫病に対応する病院には指定されていなかったのに、 その施設は引取りを拒否。

「法律上はうちに決まっていますが、まだ何の準備もできていないので…。」

市内では引き取ってくれず、県内の大学病院にかけあっても、やはりダメ。 せめて移動手段の確保だけでもと、救急隊にあたったときも、 「やったことが無いから分かりません」とつれない返事。

法律はできていたけれど、実際にそれを運用したことのある人がいなかったから、 現場は全く機能しなかった。

結局、当時未発売のST 合剤の注射薬をどこからか譲ってもらって、 その人は成田経由で本国送還になったはず。

当時から、HIV はめったなことでは感染しないと分かってはいたけれど、 それでもやっぱり怖かった。

たぶん、他の施設の先生がたも、みんな怖かったんだと思う。

なにせそれまでは、誰もAIDS なんて見たこと無かったんだから。

ベテランがいない現場には保証が無い

結核のアウトブレイクというのは、いつも見逃しから始まる。

高齢者の肺炎。若い人の不明熱。よく分からない症状で発症した人を 調べてみて、あるいは何の疑問も持たないで治療したのによくならなくて、 どこかのタイミングで喀痰を検査すると、 「ガフキー陽性でーす」なんていうコメントが返ってくる。

結核は空気感染する。この時点で、患者さんが大部屋でゴホゴホ咳こんでたりすると、 病院中が大騒ぎになる。

昔地方の病院で一人内科をやっていたとき、人工呼吸器が必要なぐらい悪い肺炎の人が、 結局結核による肺炎だったことがある。

ICU だから、そこら中重症だらけ。呼吸器ついてたから、患者さんの呼気はダイレクトに ICU中にばら撒かれていた。当然、自分達も看護婦さんも、その空気吸いまくり。

人工呼吸器の呼気フィルターなんていうハイカラなものが普及したのは、 アルカイダが炭疽菌を撒いてからのこと。当時はそんなもの無かった。

結核の対処のしかたは、教科書に書いてある。

とりあえずみんなにマスクをしてもらって、呼吸器には自作したフィルターをつけて。 接触のあった人にはツ反をしてもらったりしたけれど、 病院内で内科は自分だけ。

困ったのは、その対策だけで本当に大丈夫なのか、その保証ができないことだった。

成功、失敗を含めた様々な経験をしたベテランと、教科書上の知識しかない初心者とでは、 「最適解」を発見するアルゴリズムが全然違う。

ベテランの解答というのは、網羅的な探索の結果だ。

ベテランは、過去のあらゆる事例を探索して蓄積しているから、その回答というのは、 最適解となることが保証される。

初心者には経験が無いから、そうした探索ができない。

そのとき思いついた、限定的な選択肢の中からしか最適解を選択できないから、 その解答が本当にベストな回答であるのかどうか、保証することができない。

疫病対策の基本は予防だ。

予防というのは結果が返ってくるのが遅いから、 経験から学ぶのがとても難しい。

「せめて誰か、ベテランの専門の先生を紹介して下さい」

結核の発生を報告して、保健所サイドも専門施設への転院を約束してくれたけれど、 保健所はやっぱり5時までしか働かないから、転院先が決まらない。

で、せめてベテランによる保証を…と頼み込んで来てもらったのが、 保健所嘱託の、60 すぎの医師。

状況を説明したあとの返事はシンプルだった。

爺医:「先生方頑張ってるみたいだから、きっと大丈夫じゃないですか?」 一同:(゚Д゚)ハァ?

ベテランならではの言葉の重みとか、経験の厚みとかは全く無い、本当の他人事から出た言葉。

マスクをどれぐらい用意せよとか、この対策で、感染可能性はどのくらいかとか、 なによりも自分達がやってきたことというのは、どのくらい確かなことであったのかとか、 そういう評価は一切なし。

みんな唖然としているところで、「じゃあ、5時なんで帰ります」と。 こんなところだけは、たしかに筋金入りの保健行政官だった。

行政の人達はたぶん、この世の終わりが来たって、5時になったら家に帰る

自分の行動を保証してくれるのは、自分自身か、自分のまわりの人達だけ。 手の届く範囲で何とかするしかない。

敵は病気だけではない

タミフルが発売される少し前、県内でインフルエンザが大流行した年があった。

若い人達は、例年どおりの感染で収束。この頃はまだシンメトレルもよく効いたし。

問題になったのは、細菌性肺炎を合併した 高齢者が、大挙して入院したことだった。

今は飽きちゃったけど、当時はまだまだ人工呼吸器に狂ってたから、 呼吸不全を合併した人は大歓迎。

当時院内にあった人工呼吸器は12台。それらが全て出払い、 患者さんはそれでも来たから、あとの人は睡眠時無呼吸症候群用の簡単な呼吸器を改造して、 急ごしらえの呼吸器をでっち上げて対処した。

怪しげなパーツを、ダクトテープでグルグル巻きにした呼吸器。 今やったらきっと犯罪だろうけど、当時はまだおおらかなもんだった。

病院中呼吸器だらけになったころ、市の保健所からこんなお達し。

今後流行してくる肺炎患者に対処するため、県内の全ての呼吸器を県の管理下に置き、 県立病院へ集約することになりました。 つきましては、○○病院の人工呼吸器のリストを提出の上、呼吸器を速やかに保健所に提出して下さい…

県立病院なんて、他の施設の1/3 も救急取らないから、まだベッドはガラガラ。

要は、「県もまじめに対策してますよ」というポーズをとりたくて、 県立病院に大量の人工呼吸器を徴発して、「本気度」をアピールしよう… という腹だったのだろうけれど、こちらは大迷惑。

そもそも空いてる呼吸器なんて1台も無かったけれど、行政は現場を見ないで数字だけ見る。

現場が鉄火場になればなるほど、お上に伝わる情報の量は減るから、 行政からは戦ってる現場の足を引っ張るような提案がどんどん出てくる。

問題を避けようと思ったら、とにかく情報を上げて、それも役所の規格にそった フォーマットで報告をしないと伝わらない。本当に何とかしてほしい。

緊張状態は飽きる

SARS が流行したのは、2003 年のこと。 結局8000人あまりが感染して、700人強の人が亡くなった。

当時はまだ大学病院。陰圧室を備えた感染対策ベッドは、 県内では大学に2床あるのみだったから、もしも感染者が出たとしたら、 間違いなく大学に運ばれてくる状況。

主治医は当然、内科の誰か。

さすがに研修医を盾にするわけにはいかないから、フロントラインに立つのは 中堅どころの内科医数人。その数人に入る可能性、けっこう高かった。

ネット時代。情報は毎日のように入ってくる。

今日はベトナムで何人亡くなったとか、 ガウンと帽子と手袋は3 つ全て着けてないと感染するらしいとか、 飛沫感染と言われているけれど、どうも空気感染するケースもあるらしいとか。

毎日のこうしたろくでもない話に、みんな緊張した。

ところが、緊張状態には「飽き」がくる。 そもそもの日常が忙しいから、いつ来るか分からない災厄のことを 考える時間なんて、そんなに多くない。

あれこれ相談したのは2 週間ぐらい。以降、SARS の話題は下火になった。

(´・ω・) 「どうする? 死ぬよ? 月収10万ちょっとの保証なしで、命張る?」 (・ω・`) 「でもきっと、なんとなくみんな残って、誰か感染して、死んじゃうんだろうね…。」

当時のみんなの覚悟は、こんな感じ。

本物が来たとき、「なんとなく働いて、なんとなく死ぬ」なんてことが本当にできるのか?

今でも分からない。

指揮する人に必要な資質

疫病の治療というのは、たぶん本物の戦争に限りなく近い。

医療者は、病気のほうから反撃される。殺らなきゃ殺られるどころか、 感染症を封じ込めたって、医療従事者は感染する。

そのくせ医者にできることなんてあんまり無くて、せいぜい点滴をつなぐぐらい。

食事と内服ができる人なら、主治医なんてただのマネキン人形だってかまわない。

こういう状況で働きつづけるのは難しい。現場を指揮する人に資質が無いと、たぶん無理。

生きる死ぬの現場で「指揮ができる」ために必要な資質というのは、 たぶん以下の3つのなかの、どれかを持っていること。

  • 安全を確保するための「陣地」を作れること
  • 仕事をやるのに必要な物量を推定できること
  • 兵隊を安心させる「物語」を作り出せること

陣を張る

陣地を作る能力というのは、その場にある材料を使って、感染症と戦うための 「説得力のある場所」を作り出す力のこと。

たとえば、カーテン1枚を張るだけで、感染確率をどれだけ減らせるのかとか、 患者さんのベッドの周囲にブロックラインを引いて、「このラインから外で動けば、 感染の確率はほとんど無い」と、説得力を持ってみんなに宣言できるとか、そういう能力。

カーテンを引くだけ、床にガムテープで線を引くだけなら、誰だって出来る。 大事なのは、その行為にどれだけの説得力を持たせられるか。

軍隊は、そういった資質の無さを、ユニットごと移動するという方式で回避している。

米国陸軍感染症研究所(USAMRIID)が感染症対策に乗り出すときなんかは、 隔離室から検査室、兵隊の宿舎に至るまで、必要なものは全部ユニット化して持っていく から、「やりくり」が必要ないようにできている。

「その場にある物をやりくりする」能力を身につけるには、 たぶん実地で経験を積むしかないから、難しい。

一度成功した陣さえ張れれば、みな安心する。

この人の作った環境ならば、安心して仕事ができる」とみんなが思えれば、 士気は高まるし、なによりも安全に仕事ができるようになる。

兵站の問題

物量の確保は大事だ。

予防衣は何着ぐらいあればいいのか。 マスクはどのくらい発注しておけばいいのか。感染症対策も、忙しくなればなるほど 物量は不足して来るし、それを読めない人が上に立つと、現場が荒れる。

とにかく嫌なのが、ガイドラインを作っている偉い人達に、 そうした兵站で苦労した経験がないことがあからさまなこと。

結核の人を診ているときに困ったのがこれで、経験が無いから、 発注量をどれぐらい見込めばいいのか分からない。

その病気は大体どのぐらい続くから、ベッド1床あたりこの程度の備品を用意すれば、 たぶん今シーズンは乗り切れます。

兵站を読む能力というのは、ある程度の未来の予測ができるということだ。

同じ悪い状況であっても、先が見えると、それに耐える力は圧倒的に強くなる。

発言の精度なんて誰も気にしない。

緊急事態の時に、 「予断」や「見込み」をしゃべることというのは、 日ごろ「権威」といわれている人達の義務だと思うのだが。

物語の力

私はどんな人にも区別なく満足な医療を提供したい そのために医師として2つのことを大切にしたい どんな障害にも屈しないことといつも患者の傍らにいることだ

SARS で命を落とした医師、カルロ・ウルバニの言葉だ。

ウルバニは患者の傍らに居続け、どんな生涯にも屈しないという信念を持っていた。 新型肺炎に関しても、自分の信念に基づき、命を落とした。 彼の命と引き替えに、世界は新型肺炎に立ち向かうことができたのである。 SARSと闘った男~医師ウルバニ 27日間の記録~

感染症の専門の人が見れば、亡くなったこの医師の行動というのは必ずしもベストではなくて、 たぶんこの人が死なずに帰還していれば、もっと的確な経験を中央に伝えることができたはず なんだけれど、それでもこの人の物語を批判しちゃいけない。

SARS の時の医療従事者の行動とか、あるいは中国の救急隊の人達の行動というのは、 もう理屈では説明できない。義務を通り越して、宗教的な情熱で、現場で働く。

SARS 収束後のインタビューなんかを見ると、彼らを動かしていたのは、 「祖国のため」とか「人類のため」みたいな、平時なら笑っちゃうような 安直な物語の力であったのだという。

中国だけに逃げ場なんて無いだろうし、現場から脱走したって病院の外には軍がいるから、 たぶん現場に止まって働く以外の選択肢なんて、最初から無かったんだろうけれど。

洒落にならない疫病のパンデミックみたいな、本当の緊急事態の時には、 経済学や生物学の世界でいわれるような、「利己的行動の結果生じる利他行動」なんかでは 説明できない、本当の利他的な行動をおこす人がいる。

911 の時に崩れるビルに突入していった消防士とか、あるいはSARS で亡くなった カルロ・ウルバニみたいな。

こうした人達は、英雄幻想という物語に「酔って」いる。

酔っ払っているから無茶ができて、またその行動は、あと知恵でイヤミな見かたをすると、 必ずしも本当に正しい行動では無かったりもするのだけれど、それでもそんな人たちが 一人もいなかったのならば、今ごろはもっと多くの犠牲者が出ていただろう。

ネットワークは、情報の伝達に大きな力になる反面、 こうした「物語」の力を破壊してしまう。

疫病対策の現場なんて、「自分は止まって頑張ろう」という思いと、「逃げよう」という思いとの 戦いの場だ。

ネット上で「止まる奴がバカ」とか、「俺もう逃げた」みたいな意見がたくさん出れば、 前線に止まって何とかしようと考える医師の意志は、もう崩壊寸前に追い込まれる。

破壊されかけた物語の説得力を維持するのもまた、現場の指揮者の仕事だ。

指揮官が、保身だけはかりながらギャーギャーいうだけの人ならば、みんなその人よりも、 医師のコミュニティの意見のほうを信じるだろう。そんな病院からは、間違いなく人がいなくなる。

指揮する人の人間性が、そうした噂話のネットワークの力をひっくり返せるぐらい魅力的な ものであるなら、どんなに厳しい状況であっても、人はきっと集まる。

「熱い」人と「暑苦しい」人とは違っていて、同じく「頭がいい」人と「頭がよすぎる」人とも また違っていて、熱意や頭の回転だけでは人はついてこないんだけれど、 たぶんどこかに最適なバランスというものがあるはず。

鳥インフルエンザのこと

このところ鳥インフルエンザの報道がだんだん増えてきていて、 これが大流行する可能性が、増している。

スペイン風邪の例もあるから、鳥インフルエンザが変異して、世界的に 流行するというのはファンタジーじゃなくて現実問題なんだけれど、 対策が進んでいない。

うちの県で、感染症ベッドは全部で8床。結核病棟を全部入れるとその10倍ぐらいにはなるけれど、 たぶんそれでも全然足りない。

スペインかぜのときは、感染者6億人、死者4000~5000万人。

日本だけでも当時の人口5500万人に対して、39万人が死亡しているから、 死亡数を当時の1/10ぐらいに 抑え込めたとしても、やはり相当な数が亡くなるだろう。

感染を抑えるためには鉄道や道路は封鎖されるだろうから、対策は自治体ごととか、 最悪病院ごとに勝手にどうぞ、という話になりかねない。

インフルエンザはしょせんはウィルスだから、極端な話2ヶ月間だけ自分の部屋に引きこもっていれば、 それだけで感染を免れる。

実際のところ、医者が現場に立とうが、自宅に引きこもって薬だけ渡していようが、 トータルの死亡数もきっとそんなに変わらない。むしろ、感染終了後の合併症治療のためには、 その時点で元気な医者がいっぱいいたほうが、救える患者さんの数は増えるかもしれない。

行政と医者、あるいは患者さんと医者との信頼関係がとことんまで破壊されている現在、 医師のコミュニティの流れは、「僻地に止まる奴はバカ」で一致している。

鳥フルが蔓延した時、患者サイド、行政サイドが要求するのは、「そこに立って、我々のために 英雄らしく死んでくれ」だけれど、 医師のコミュニティで広まる意見は、「下らないことしないで、さっさと逃げましょう」だろう。

近未来に本当に鳥フルが流行したとき、たぶん全ての医師はこうした 両極端の思いに引っ張られて、試される。

自分がそのときどっちの決断をするのか。実際のところ、どのぐらいの医師がとどまって、 どのぐらいの医師が持ち場を離れるのか。

正直全然分からない。

2006.08.13

ゲド戦記見てきた

こんな感じ。

  • 宮崎 駿(父親のほう)は頭の中に作りたい映像があって、 それを実体化すると、結果的に宮崎アニメになる
  • 息子のほうは、とりあえず「ミヤザキアニメ」みたいなものを作りたいという 欲求がまずあって、とくに撮りたい映像なんかないから、 なんだかパチモンくさい映画になってしまう

肺炎の患者さんがいて、その人を歩いて帰すにはどうすればいいのか を考えるベテランと、ガイドラインどおりの肺炎治療をするには 目の前に患者に何が足りないのかを考えてドツボにはまる 初心者との違いみたいな。

単なる経験値の違いなのか、やはりセンスみたいなものは 遺伝しないのか。

やっぱり自分が書いてて楽しいと思えないような文章は、 書くもんじゃないなと。

2006.08.10

医師の相互評価は不可能だろうか?

医師の技量によって、診療報酬に差がつくらしい。

「医師の技量で診療報酬に差 次期改定へ提案目指す」 (毎日新聞 7/25) 厚生労働相の諮問機関、中央社会保険医療協議会は今月末から、 医師の技能に応じて診療報酬にランクをつける検討を始める。 手術のうまい医師の収入をアップさせる競争原理の導入で、個々の能力を高めるのが狙い。 医師側には能力評価への拒否反応が強く、どのように、どこまで差をつけられるかなどが課題になる。

お上のやりたいことは、たぶん2つ。

  • 国民が「上手な医師」にかかれる機会を増やしたい
  • トータルの医療費は抑制したい

医師の能力評価を行うことについては、現場からの反発は必至。

それでも、目標を実現したいだけなら、迂回路はあると思う。

ネットワーク化した集団を分ける2つの方法

ネットワークは、個々の「ノード」と、 それぞれを結ぶ「関係」の2つから形成される。

ネットワークを2つに分けるための方法というのは2つ。

  • 各ノードを査定するルールを作って、ノードを一つ一つ分別していく
  • ネットワークが置かれている環境自体に手を加えて、各ノードが分離するようなルールをつくる

たとえばミルクコーヒーというネットワーク。コーヒーの分子と、ミルクの分子という2種類の ノードが、お湯に溶けた分子間の関係を維持して混在している。

これを「コーヒー」と「ミルク」とに分離させようと思ったら、2つのやりかたがある。

1分子ごとに気合で分別して、2つを強引に分離してしまうのは、ノードに注目したやりかた。 温度変化や重力といった、2つの物質の差を際立たせる環境を導入するのは、ノード間の関係に注目するやりかただ。

どちらの方法が優れているのかは、ノード間の関係の強さに依存している。

ノード相互の関係性が非常に弱い場合、たとえばお湯に溶く前のコーヒー粉末と、 粉ミルクの状態であれば、 ピンセットとルーペ片手に完全な分離が可能になるし、分離したものはそのまま混ざることはない。

ノード間の関係が強い場合、コーヒーとミルクをよく混ぜて、お湯に溶いてしまったあとなら、 何か別の方法を考えたほうが速い。カップの中の分子の分離に成功したとしても、 10分もすればまた混ざってしまうだろう。

マクスウェルの魔物

上手な医師と、そうでない医師。

2種類の医師というのは、今の世界では区別されず、混在した状態で仕事をしている。

人は誰もが単独では存在し得ず、社会を作る。人の作るネットワーク環境では、 各ノード間の関係は非常に強い。

医師も同様。誰かが「上手い」と査定されたら、回りの誰かは「俺もだ」と思うかもしれないし、 他の誰かは「なんであいつが?」と思うかもしれない。

ネットワークという環境では、各ノードに作用した力は、必ず周囲に波及する。

混在したノードを区別するためのエネルギーは、ネットワークという系 自体をも変化させてしまう。

「医師を区別したい」という個々のノードに対する欲求と、「医療費を抑えたい」という ネットワーク全体に対する欲求とは両立させるのは難しい。

何らかの方法で医師を査定することは、原理的には可能。

ところが、それが医者のやる気を引き出して、 ひいては医療費抑制につながるのか。その予測はほとんど不可能で、 たぶん厚生省の思惑どおりにはならないだろう。

おまけにこの方法は、「悪役」が誰なのか一目瞭然。

査定される医師からは、「魔物」の姿が見えるから、 査定される恨みの持っていき場所ははっきりしている。

業界の雰囲気だけは確実に悪くなるだろう。

ノード間の関係に注目するやりかた

医者全員を試験にかけなくても、「上手な医者」と「そうでない医者」とを区別する方法がある。

この方法は、医師一人一人を査定しているわけではないから完全ではないけれど、 できる医師のやる気をそこそこ引き出して、医療費を抑制するという結果自体は コントロールしやすい。

ルールは簡単。

  1. 医師は全員、診療報酬を1ポイントずつ削られ、それを自分が「この人は仕事ができる」と 考える誰かに投票しなくてはならない
  2. 投票自体は匿名で、誰が誰に投票したのかは厚生省しか分からない
  3. 自分に投票するのはダメ
  4. もらったポイントに比例して、診療報酬が上乗せされる

要は「できる医師」を、医者同士に互選させるだけ。

このやり方は、「友達の少ない名医」は損するだろうけれど、たいていの場合は上手くいく気がする。

考えられる攻略方法

まず、医師は全員1ポイント分だけ診療報酬が減らされるから、ポイントを上手く配分しないと 損失はとり返せない。

普通に考えられるのは、一番忙しい医師に、全ポイントを集中すること。

民間病院なら、たとえば病院内で一番症例数の多い外科医に「エースナンバー」を与えて、 院内の医師全てのポイントを一人に集中させるとか、 あるいは外来が一番込んでいる消化器内科にポイントを割り振って、診療報酬の 減額分を内視鏡の症例を増やして取り戻すとか。

大学のようなところなら、偉い先生に多くのポイントが集まるかもしれない。

ところが、あまり医療行為をやらない医師にポイントを集中すると、 病院はそれだけ損をする。ポイントを誰かに集めたならば、その人に一生懸命第一線で働いて もらわないといけないから、結局は「偉い先生」にかかれる機会が増えるだろう。

いずれにしても、働くのは経済原理だから、「働く医者」にポイントが集中しないと、 病院としては損をする。働く医者、患者さんが多くついている医者というのは、 かなりな確率で上手い医者だから、このシステムは上手くいく。

単純なルールだから、当然「穴」はある。

たとえば、1日に20人近くの手術をする眼科の先生がエースナンバーをもらったりするのは、 なんとなくずるい気がする。このあたりは、「禁じ手」を個別に作って対応できるだろう。

ルールの結果得られるもの

医師の査定を通して、得たい結果というのは2つ。

  • 患者さんが「上手な医者」にかかれる機会を増やす
  • 総医療費を抑制する

前者の目標に対しては、このルールにも穴がある。

たとえば、いろいろな患者さんを紹介してくれるような、 「友達の多いヤブ医者」も、もしかしたらポイントが稼げるかもしれない。

ところが、そういう医師は、自分の手に余る患者は、上手な「友達」にすぐ投げるから、 結果として患者さんが上手な医者にかかれる可能性が増える。

ノード間の関係を変えるやりかたというのは、査定が正しく行われているのかどうかはともかく、 得られる結果は案外正しい。

医療費については、かなり正確な予測が可能だ。

医師から公平に剥奪する「ポイントあたりの診療報酬」と、ポイントを獲得した医師に対する 報酬との間に差をつければ、トータルの医療費がどの程度抑制されるのかを読むのは可能だ。

最初の1年は、もしかしたらあまり医療費は下がらないかもしれないけれど、 データがそろった2年目以後は、 相当正確な「読み」が可能になるだろう。

ボトムアップの世界に魔物はいない

「ノード」に触らずに「関係」のみを変化させるこうしたやりかたには、 悪役が存在しない。

このやりかたを駆動するのは経済だから、 エースナンバーをつけられた医師は必然的に忙しくなる。

忙しい「上手な医師」と、そうでもない「そうでもない医師」とに区別されるから、 医師一人一人を査定するやりかたよりは、不公平感も少ない気がする。

ルールが簡単で、そこから発生する解答例だけが複雑に展開するやりかたは、 プレーヤーにとっての最適解が分かりにくい反面、 管理者が結果をコントロールするのは楽だ。

みんなが管理者の裏をかこうとして知恵を絞る余地があるから、 医師全員に試験を課すやりかたよりは、たぶん厚生省が恨みを買うことも減るだろう。

ポイントというのは一種の通貨として機能するから、 たとえば学会の長老先生達のポイントを貯めておいて、 優秀論文や見事なライブ手術の商品として授与するとか、 いろいろな使い方もできるかもしれない。

完全な方法なんてないし、自分の考えがいたらない欠点というのもあるんだろうけれど、 目標が患者利益と医療費抑制だけならば、案外上手くいくんじゃないだろうか?

厚生省の目標が、単に「天下り先を増やす」だけなら、そもそもこんな方法、論外だろうけれど…。

2006.08.07

blog 管理者の正体を暴く方法

医師の書いている日記が増えた。

4-5 年前までは本当に少数。blog なんてサービスもまだ無い頃は、 ネット上で何かを書いている同業者なんて、ちょっとしたリンク集に載せられる程度しかいなかった。

Weblog がブームになって、同業者の日記が増え、m3.com みたいな医師専用の blog サービスが 登場したり、mixi みたいな半閉鎖的なコミュニティが登場したり。

ネット上で何かを発信する同業者は増えた。ためになる話も多いし、勉強になる blog とか、 結構過激な意見を毎日発信する blog とか、見ていて面白い。

どこも結構人が集まってる。カウンターの数字なんか見ると、 うちなんかよりよっぽどにぎわっていて、 結構くやしい。

にぎわうのは結構なことなんだけれど、「大丈夫かな?」と思う人も多い。 患者さんの病気のことそのまんまとか、直属の上司の批判とか。

これ、匿名だからいいけど、勤務先ばれたらヤバいんじゃないか?

そんなことを書いている人、案外多い。

書いちゃいけないことほど不思議と書きたくなるけれど、 どんなに気をつけたところで、ネット上で匿名を保つことは不可能だ。

患者情報に手をつけたくなる心理

医師はもちろん守秘義務があるから、患者さんのプライベートの情報は一切公開できない。

守秘義務の範囲を決めるのは難しい。

医師で作家をしている人達は、たいていは自分の体験を元にして何かを書いているはずだけど、 それが問題になったことはない。一方、勤務先が割れている医師が、 「自分の受け持ち患者さんの話です」と前置きして雑誌のインタビューなどに答えたら、 間違いなく守秘義務違反だろう。

ネット上で、匿名の医師が当り障りのない病院話を書く分には、たぶん大きな問題に なることはないはず。

ところが、その医師が「当たり障りのある」話題を書きはじめて、 その人の実名や勤務先などが割れてしまったら、これは明らかに守秘義務違反に問われてしまう。

発信という行為を長く続けているとき、必ずでてくるのが「ネタ切れ」の問題。

自分の体験談を発信して、少しばかり人気が出て、コメント欄がにぎわい出した頃、 「お客さんは失いたくないけれど、書くことがない」と言う時期が必ずやって来る。

先輩医師から聞いた話とか、他の病院に伝わる都市伝説的な話、医師としての仕事の一般常識 みたいな話は、守秘義務違反にも問われることもないし、また人の注目を集めやすい。

ところが、医師が問題なく書ける話題というのは、基本的にそれしかない。

1週間に2本ぐらい何かを書いて、そうした話題で話が続くのがだいたい数ヶ月。 そこから先は、読んだ本の話や映画の話し、どこか別のサイトで話題になったことの追っかけとか、 医師でなくても書けることばかり。

これではお客も減ってくる。

医師ならば誰でも、もっと面白くて、ほとんど無限に近い「ネタ」をもっている。

それが患者さんの話。あるいは、上司とか、先輩医師の悪口や、看護婦さんの色恋の話。

最初はおっかなびっくり、個人の特定ができないようにして、患者さんのことを書く。 久しぶりにコメント欄がにぎわう。みんなそういう話が知りたいから、誰も注意はしない。喜んでくれる。

で、もっと書く。みんな喜び、話題はだんだんと過激な方向へ。

ポジティブフィードバックが効いて、 すでに洒落になっていないサイト、結構ある。

秘密は誰だってしゃべりたい

秘密を持った人物というのは、常にそれを誰かに話したい衝動にかられる。

秘密を持つという行為には、本質的な矛盾がある。

秘密の情報を知っている人というのは、それを利用できれば、 知らない人よりも優位な立場に立てる。

ところが、秘密を完璧に保持しつづけてしまうと、「知っている」ことに対する報償は、 何も得られない。

秘密というのは、誰かに明かすことで、はじめてその力を発揮できる。

だから、秘密を抱えている人ほど、それを誰かに話したり、その情報を使って 誰かを驚かせて見たくなるという衝動からは自由になれない。

大きな木の「うろ」に向かって秘密をしゃべる習慣とか、キリスト教の懺悔とかいった 習慣は、そうした衝動のガス抜きのようなものだ。

ネットという場所は、何千もの耳があるのに、感覚的には無限に広い空間として 認識されてしまう。その大きさに圧倒されて、 ネットを秘密の「ガス抜き」として利用する人が出てしまう。

人間という最凶のセキュリティホール

たとえ秘密をしゃべろうが、匿名で書いているうちは大丈夫。

古参にとっては「匿名」なんてありえないと分かりきっているインターネットの匿名性を、 まだ信じている人がいる。

昔だと「古式若葉」の話が有名だけれど、 ハッカーのような人でなくても、blog の作者の実名とか、勤務先を特定することは 結構簡単だ。自分ですら、実際に何人かの人については知っている。

本人は匿名のつもりみたいだけれど。

ニュースで話題になるのは、プロバイダーの情報漏洩とか、いわゆる「悪いハッカー」による犯罪 だけれど、情報を扱う会社から情報を引き出すのは、素人にはまず不可能で、また実例も少ない。

誰でも攻撃できて、また「穴」がたくさん空いているのは、なんといっても人間そのもの、 blog の作者その人自身だ。

ゴミ箱をあさる

一見何の重要性もない情報であっても、それが集まるといろいろなことが分かる。

どこかの企業を調べようと思ったとき、 もしもその会社が出す「ゴミ」が1年分でも集められたら、 かなりなことがそこから分かる。

会社の内線番号一覧。会社のいろいろな備品の種類や、そのマニュアル。

いまどきパスワードをメモして貼っている人もいないだろうけれど、ゴミを見るだけで、 その会社の社員になりすませるだけの情報ぐらいは集まる。

ネットという空間は、その「ゴミあさり」の行為が本当に楽だ。

  • 飲み会をした店の名前や、昼ご飯を食べに行ったラーメン屋の名前
  • 対象の勤務している専門科と、その病棟名
  • 病院の規模や、患者さんを紹介した病院の名前
  • 研修医の人数とか、カンファレンスの曜日や名前
  • CPRコールをかけるときの、院内の符丁

日記をつけている本人にとっては何の価値もない情報であっても、 解析者にとっては宝物だ。

そんなものが分かるだけでも、病院名は相当絞れるし、すくなくとも「身内」を装う 強力な助けにはなる。

管理人にメールをもらったり、 掲示板に書き込んでもらったりすれば、IP アドレスが抜ける。 IP からその人の住んでいるところぐらいは分かるから、 結構な確率で勤務先が特定できたりする。

リンク先は大丈夫?

いろいろなサイトにリンクをしてもらうことはうれしい。

うちなんか叩かれっぱなしだけれど、叩きリンクであっても、 やっぱりうれしい。

無断リンクの是非をめぐる論争があった最近あったけれど、無断リンク、是非して欲しい。 無視されるよりはずっとうれしいから。

むしろ問題なのは、ネット上、あるいは実世界の「友達」からリンクを張られることだ。

相手が自分の実名を知っている人ならば、その人の紹介文には注意したほうがいい。

匿名のお医者さんのサイトで、その人にかかっている患者さんのページがリンク先にあって、 その先生の開業している病院名を思いっきり書いている人を見たことがある。

そんなにあからさまな例でなくても、前の「ゴミ箱あさり」の方法論というのは、 リンク先のページでも当然つかえる。

対象の実世界での知りあいのうち、一人でも人物特定ができるなら、対象の人物特定は 相当楽になる。

このあたり、現役の医師よりも、むしろ医学生のサイトの方がよっぽど脇が甘くて、 自分の大学の先輩医師のサイトとか、同級生のサイトとかを「○○大学リンク集」なんていうくくりで 紹介している人がいたりする。

本人には裏切る気はないんだろうけど、いざという時は、 匿名性はその人のサイトから突破されるだろう。

実世界で顔を知っている知人にリンクを貼ってもらったり、 オフ会(みんな結構やってるらしい。一度も声をかけてもらったことがない…)なんかで みんなで会うときは、セキュリティのレベルは、集まった人の中で、 もっともスキルの低い人が決定すると 思ったほうがいい。

自分のサイトの匿名性をしっかりと保っていても、 自分の知りあい全てがそうしてくれるとは限らない。

危ない橋を渡っている人、何人かいるんだけれど、かかわりあいになると 自分が火傷をしそうで、怖くて何も言えない…。

危ない mixi

ソーシャルネットワークの大手、mixi は危険だ。

招待された人しか入れないから安全と思っている人がいるかもしれないけれど、 匿名性を保って何かをするときは、あれほど危険なものはないと思う。

  • mixi ID は無限にとれる。誰でも捨てID の5つや6つ持っている(持ってますよね?)から、足跡帳なんて当てにならない
  • 横のつながりを重視するシステムだから、知りあいを簡単にたどれる。マイミクという友達リンクのうち、一番「脇の甘い」人が、そのグループ全体のプライバシーレベルを決める
  • 裏口だらけのシステムだから、足あとを残さずにいろいろ閲覧するのが簡単。それなのに、みんな mixi の匿名性を 信じているのか、信じられないぐらいプライベートなことを書き散らす

医療系でやってる人は少ないだろうけれど、mixi のユーザーの人を煽って、顔写真などをたくさん 公開してもらった上で、本人の知らないところでそれを笑いものにするグループがある。

本人は、mixi 内では「親しい友達の多い人気者」と思っているかもしれない。

外のネットでは、その「親しい友達」たちが、その人を「イタい奴」として笑って遊んでる。

医師のかかわるコミュニティで最凶なのが m3.com

あれは実名認証だから、書きこんだ人のID番号とIPアドレス、 その人の社会的身分が、 1対1で対応している。

誰かのID とパスワードでも使わないかぎり、あの空間で他人を装うのは無理。

過激な書き込みに対して、「名誉毀損」とかで乗り込まれて、IP 押さえられたら、 間違いなく身元が割れる。

過激な個人攻撃する人多いけれど、そういうの、覚悟の上なんだろうか?

解析者は感じのいい人物

巧妙な解析者というのは、友達の少なそうなヲタクなんかではなく、 魅力的で礼儀正しい、人に好かれる人物として管理人の前に現れる。

コメント欄への書き込みや、あるいは激励のメール。

面白そうな病院の秘密を書いていたり、医療過誤すれすれの話題をかいていたり、 何か面白い「ネタ」になりそうな書き手のもとに集まる人の中には、 もしかしたらそうした解析者がまぎれているかもしれない。

管理人からプライベートなことを聞きだすためには、あやしげな誘導尋問 なんか必要ない。そのものずばり、「聞かせて下さい」と書くだけで、 たいていの管理者は自分の出自を語りはじめる。

相手を怪しいと疑う理由がないかぎり、人間というものは、 相手から騙される可能性を考えないものだ。

  • 何回かメールをやりとりした相手が、自分の実名を明かすようになった。 アドレスに、病院名と勤務先とが明記されていて、 社会的な地位も上のように見える
  • 子供の細かな病状を訴えながら医療相談をしてきた患者さんが、 「娘に是非ともお礼の手紙を書かせて下さい」とお礼のメールをよこしてきた

こんなとき、対象となった人は、匿名を貫けるだろうか?

あるいは、自分のリンク先の身内は、全員問題ないと言い切れるだろうか?

全てはgoogle さんが知っている

  • 過去の足跡
  • 様々な掲示板への言及
  • 昔の交友関係

ハンドルネームを固定していたり、携帯電話の固定IP でいろいろな書き込みをしている人なんかでは、 google でそれを検索するだけでも正体が分かることがある。

今はWeb のアーカイブ機能も充実しているから、過去数年来、同じハンドルネームを使った人が どこに書き込みをしているのかなんて、ほとんど分かる。

Weblog の管理人には「コミュニケーション」という、 同じハンドルネームを使い続ける動機がある。

だから、その人の足あとをたどるとき、google は本当に役に立つ。

たとえばその人が医師になる前の書き込みから、対象の大学名と部活名が分かって、 そこから個人を突き止めるなんていうことは簡単にできたりする。

ノーガードは最大の防御

ネットで何かを発信する医師は、一度は「在日医師RED」というハンドルネームの人の 一件を調べて見るといいと思う。

自分は韓国国籍医師だ。今から点滴を操作して、日本人の患者を殺して回ってやろうと思う

そんな内容の書き込みが某巨大掲示板にあったとき、 最初は誰もが「単なる煽りだろう」と気にもしなかった。

ところが、みんな冗談半分で相手をするうち、 どうやらこの人が本当の医者らしいという話になって、 似たようなハンドルネームで、 他の掲示板に出入りしている人がいる…というあたりから一気に話が進み、 最終的に本人の実名から勤務先、学会発表記録から何から全部公開されてしまった。

今でもその人の勤務先はネットで調べられるし、事の顛末をまとめた「まとめサイト」もできていたはず。

ほんのわずかなスキルがあれば、ネット上の人物を特定することは極めて難しくなるのだけれど、 そのわずかな知識すらない人があまりにも多く、また自分だけ気をつけていても、回りから 匿名の壁を破られることもまた多い。

一番安全なのは、なんといっても危ないことをネットに書かないこと。

匿名で語れる場所なんかない。周囲の人は、自分が何か書いていることを 全部知っていると言う前提で記事を書いて、 となりの人が自分の日記を読んでも、 絶対に何もおきないと確信できること以外、ネット上に公開されるページには書かないことだ。

  • 患者さんのこととか、病院内でのハプニングなどを書きたくなっても、最低限患者さんの性別を変えて、 病名を変える
  • 亡くなった人ならまだ外来にかかっていることにしたり、冬の話なら夏に、自分の失敗だったら 他の病院の下級生の話に変えたりして、物語を変形する
  • 病院内の誰かを「馬鹿」とか言ってみたり、患者さんに「ヤク盛っちゃうよ?」とか言わない
  • 昔の「マミー石田」氏みたいに、確信犯的に煽りに耐えるつもりがなければ、 特定の人達を「死ね」とか書かない
  • blog 管理人同士のバトルも、まわりのウォッチャーを盛り上げるだけだから、 やるときはメールで「根回し」する

どれもつまらないことだけど、結構大事。だからうちみたいなページが、何とか生き延びてる。

医師の守秘義務というものが撤廃されれば、 今度は日記を通じて自分の治療方針をいろいろ査定してもらったり、 患者さんがネットを通じてセカンドオピニオンを広く募れるようになったり、またそのコメント欄に 主治医が書き込みをできるようになったりして、集団の叡智の力を治療に生かし、相当面白いことが できるような気がする。

でもそんな時代は当分来ない。

Web 2.0 の世界というのは理想郷でもなんでもなくて、ちょっと前まではワニとか巨大ヒルとか、 魑魅魍魎がうろつきまくっていた沼地の上に、一枚きれいな紙を敷いて、 「きれいな世界ですよ」と宣言しただけ。

紙一枚破れたら、その下はもう混沌そのもの。それを忘れてはいけないと思う。

2006.08.04

未来予測

未来予想

2008年:出産券

出産可能な施設の減少を受け、一部自治体で「出産券」の発行が行われる。

里帰り出産等による、地方での予期しない出産を避けるための処置だったが、 ネットオークションでの出産券の売買、偽物の出産券が出回るなど問題点が指摘される。

2010年:里帰り出産から出稼ぎ出産へ

産科医を確保できなかった一部地方自治体が、苦肉の策で首都圏にマンションを確保し、 出産を首都圏で行ってもらうための予算を計上するようになる。

マンションの環境の悪さ、出張出産中の休業補償を自治体に求める声等が続出したが、他に代替案はなく、 この予算は議会を通過した。

新聞に、列車から列を作って降りてくる妊婦さんの写真が掲載される。 その列を皇帝ペンギンの行進にたとえた文章が添えられていた。

2012年:産科救急の状況悪化

妊婦の救急搬送の問題が表面化する。

搬送先が見つからず、救急車の中で死産となった症例が報道され、 周辺病院の医師に対する非難が集中する。

病院長は遺憾の意を表明、議会もまた「医師は聖職者としての自覚が足りない」という声明を発表したが、 地域に産科医が増加することはなかった。

2013年:越境出産の責任問題

東京近郊の病院で出産事故があり、裁判の結果、都が敗訴する。

地方から越境して出産に来ていた患者であったため、賠償の割合について、 自治体と東京都との間で議論が生じる。

都知事、越境出産について、本来は受益者負担であるはずの出産の負担が東京都に集中しており、 迷惑である旨コメントする。マスコミは袋叩きするが、都市部住民はむしろ賛意を表す。

東○新聞の読者欄のコメント。

賠償金は、全部納税者のお金。被害者は可哀想なことはたしかなんだけれど、 どうして我々が払わなければならないのか? 都立の医師が悪かったとしても、彼等はお金を払わないので罰されたことにならない。 医師個人を罰するべきだと思う。

2014年:医療改革続く

この年、朝○新聞が経営不振に陥り、全国展開困難に。都市部リペラル層に対象読者を絞り、高級紙路線で再出発。

そのときの社説。

ツケを払うのは都市住民 国内の医療は国策として戦後長い間、手厚く保護されてきた。 しかしその一方で、地方の病院に支給されている補助金こそが医療現場の改革を阻んできたと主張する声もある。 国はこうした声に謙虚に耳を傾けるべきではないか。 このままでは国内の医療は衰退しかねない。地域医療の原則は受益者負担だ。 原則を徹底し、病院改革を促進することで、より効率的な医療資源の利用をはかるべきだ。 地方補助金の停止により、地域医療の荒廃するという声もある。 だが、心配のしすぎではないか。 事の本質はそうではない。医療改革が急務なのは、免許制度で医療者を保護し、 国民に重い負担を強いているにもかかわらず、医療の衰退に歯止めがかからないからだ。 非効率に運営されている病院と、経営が放棄された僻地病院の病床数を合計すると、 埼玉県と茨城県の全ての病床数に匹敵するベッドが有効に用いられていない計算になる。 医療改革に対する医師の真摯な姿勢は、今ひとつ伝わってこない。 国はこれまで、医師全体の8割以上を占める、分娩に従事しない医師にも補助金による保護を行ってきた。 これを改めようというのが見直しの焦点だが、補助を受ける医師の線引きをめぐって、関係者の意見が対立している。 既得権に固執する医療者の抵抗は強い。医師は、未来を担う一員として責任があることを忘れてはならない。

医療問題に詳しい評論家の○○氏のコメント:

医療改革は国民がもっと関心を持つことが重要です。 自分たちは関係がないと思ってしまうと、医師会と病院、 行政の三者という狭い世界だけで議論が進められてしまいます。 国民が「自分達は関係ない」と無関心を決め込むことで、都市部住民は搾取され、 医師は今も不労所得を得ています。

医療者側からの反論の機会は与えられなかった。

2016年:これ以上病院を増やすな

少子化が止まらない中、都市部での分娩件数だけは増えていく。この需要の増加に対して、 新たな分娩施設の建築が計画されたが、近隣住民から非難の声が上がる。

地域環境を守る市民の会」の声明。

少子高齢化社会の中で、これから人口減少に入ると言われているのに、10年前の計画にこだわる理由は何なのだろうか。 首都圏以外での分娩施設も、ここに来て徐々にではあるが整備されて来た。その中で建設を急ぐ理由は何なのだろうか。 病院周囲の環境の悪化や、医療廃棄物による地域の汚染が最近問題になっているが、そのような事もおかまいなしで、 汚染源となる可能性のある施設の建設を強行するとはどういう事だろうか。 青少年の凶悪事件やキレる子どもの増加も、 病院建設による環境の悪化がひとつの原因として浮かびあがってきている。 残念ながら、市長にも再三メールを送りその危険性などを指摘してきたが、聞く耳を持たないようだ。 これらの状況を無視し、建設を強行するということは、県民の安全・子孫の安寧よりも、 政官業の癒着構造の温存にその能力を使おうとしていると我々は判断した。 病院が破綻しても行政は責任を取らない。 県民に負担を押しつけて素知らぬ顔をするだけだ。 市民による学習会、地域ごとの勉強会、市民・県民への「アピ-ル行進」、議会への請願、 各町内会への働きかけを行い、新病院建設反対の運動を盛り上げていきたい。

都市部と地方との対立は、徐々に激しくなっていく。

2017年:既得権者はだれか

都市部の有識者の間から、地方の分娩施設を利用している人々に 対して「既得権者」という言葉が使われるようになる。

地方自治体の病院を維持するのは高コストになり、 その予算のほとんどは国からの補助金でまかなわれていた。

国家予算のほとんどは、都市部の住人からの税金が占めており、 この予算が都市部の医療の充実へ 還元されることはない。

この年、「地方にもっと医師を!医療問題を考える市民の会」の大会が東京で行われた。

地方医療の充実を訴えた 「地域医療を守る母親の会」の代表に投げかけられたパネリストからの非難の言葉が、 「既得権者」だった。

会場からは、無駄な公金を流すのはいいことなのか、 地方自治体のモラルハザードにならないか、 産科医の確保ができない地域というのは、 その自治体の怠慢が最大の原因ではないかという意見が 相次ぐ。

医療機会の平等を主張する地方住民と、既得権者に自分達の財産を荒らされる都市部住民の対立。

都市部の医療資源が地方に食われる様子を揶揄して、「東京大空襲」などという表現が使われた。

2018年:優れた医師は誰だ?

もっとも優れた産科医は誰なのか。

「国はお母さんの声を聞け!ネットワーク」が、厚生省に情報の公開の署名を提出した。

請求されたのは、勤務を継続している全産科医の、治療実績の公開。 議員の情報開示請求にも、行政側が出し渋っていたものだった。

公開された情報を受け、「日本でもっとも優れた先生」と名指しされたのは、 意外にも都市部以外の地域で活動を続けてきた医師であった。

反骨のカリスマ医師の特番が組まれ、患者は同病院へ殺到する。

半年後、その病院は分娩外来を閉鎖したが、その事実が報道されることはなかった。

2020年:分娩税

地方では、分娩にかかわる医師の確保がますます難しくなる。

いくつかの地方自治体が、独自に出産目的税を徴収することを宣言。

反発が予想されたが、医療の受益者負担の原則から、 税の徴収対象を出産可能年齢に達した夫婦に限定したため、 その決断が選挙に反映されることはなかった。

予算は一定額確保されたものの、その後自治体予算の赤字補填に、分娩税からの 流用が発覚。責任の所在をめぐり、議会は泥仕合の様相を呈した。

予算が病院にまわることはなかった。

2022年:医師は公共材

医師は市場材か、公共材か。

この時代、医師の勤務地の規制議論は、もはやタブーではない。

国の意見は、「数は足りていて、偏在が問題」で一貫。

数が理論上足りている以上、医師を公共材としてとらえ、医師の配置は国の責任で、 病院のサービス向上についてはそれぞれの病院ごとの競争原理に任せよう という国民の意見が多数を占めるようになる

医療審議会「分娩制度に関する論点・意見の中間的な整理に関するヒアリング」で、 ある地方自治体の担当者がこんなコメントを残した。

病院の機能のうち、医療を提供する部分については公共材であると考えます。 医師のいない施設は、閉鎖するのではなく、医師の一時派遣や特別公的管理といった形で、 病院機能の一部を継続することや、あるいは民間資本を導入することが考えられます。 さらに、医療の利用者としての立場から申し上げますと、それらに加え、 特に分娩のための病院の機能の保護を、何らかの方法で実現していただきたいと思います。 私は、分娩の機能は、公的な役割を持つ一種の公共材とも考えられるのではないかと思っております。 したがって、分娩機能を保護することにより、地域社会の崩壊など、社会不安を防止するということが ぜひ必要な措置と考えるわけであります。 その方法といたしましては、産科に携わる医師については、事前に登録をしておき、 地方自治体の分娩施設に欠員が生じた場合には、登録された医師を当該施設に派遣するといったことが考えられます。

ヒアリングには「有識者」が多数集められた。現場の医師の意見はなかった。

2006.08.03

人工知能に学ぶ説得の手段

従来の知能の考えかたの問題点

知能があるとはどういう状態なのか。

人間は、一度外界からの全ての情報を受け入れて、脳がそれを処理して全ての命令を出す

従来はこういう考えかたが主流だったけれど、知能を持ったと言えるロボットを作るのは難しかった。

複雑なものが機能単位に分割できるからといって、 それだけでは実際に分割して考えていい理由にはならない。

脳は非常に複雑な構造をしていて、その動作はあたかもよくできたコンピュータのようにも 見え、コンピュータは、メモリやプロセッサ、プログラムやデータなどの機能単位に分割できる。

人工知能の研究もまた、知能というものをいくつかの部分、計画立案や言語理解 といった機能単位に分割することで、理解しようと試みてきたけれど、このアプローチは あまりうまくいかなかったらしい。

たとえば、簡単な「知的活動」として、「障害物をよけて目標にたどりつく」という 移動ロボットを考えてみる。

従来からある考えかたでは、知能というのは感覚入力系、中枢系、運動出力系、知識系からなりたっている。

まずやらなくてはならないのが、周囲の環境の感覚と知覚。

ところが、それからして大変難しい。人間は、視覚や聴覚を利用して、周囲の状況を把握する。 人間が動くときに、自動的になされていることをロボットにやらせるためには、 脳でその時起こっていることをロボットにやらせなくてはならない。

ところが、まず人間がどうやってものを「見て」いるのか、まずがよく分かっていない。

移動もまた難しい。

ロボットは、障害物のある空間をこんなふうに移動する。

  1. まず周囲の環境の地図を事前に作り、それを知識としてロボットに最初から持たせておく
  2. ロボットは自分のいる環境をセンサーで知覚して、そこで視覚情報として入ってきた ものが自分の持っているマップのどこに一致しているかを調べて、どこに自分がいるかを確認する
  3. その後にどのように動くかを計算して、移動する

組み合わせ的爆発

ロボットが動くときには、センサーで感覚した外界の状況に対して、 どう行動すればいいのかというルールを、あらかじめ決めておかねばならない。

このルールの数は、行動の複雑さにつれて多くなる。

隣の部屋に入って、コップを取ってくるといった簡単な仕事であっても、 これをこなすために必要なルールの数は莫大なものになる。

  • 隣の部屋」が、現在の場所からどれぐらい離れているのか
  • 部屋にドアはあるのか
  • カーペットや障害物の有無
  • 机の高さや、紙コップの硬さ

与えられた条件が一つ違うだけで、もうルールは分岐する。

最適なルールに行き当たるまでにたどらなくてはならない分岐の数が 増えるほど、ルールの数は指数関数的に増えていく。

人工知能の分野では、この組み合わせ的爆発という問題に、 常に悩まされつづけて来た。

サブサンプションアーキテクチャ

生物の行動というのは、その構造ほどには複雑ではないことが多い。

知的活動の秘密を解き明かすのは大変だけれど、知的に見える行動をする機械を 一から設計するのは不可能ではない。

サブサンプションアーキテクチャ(行動型制御)とは、反射行動を階層的に配置することで、 知能を持った動物と同じ行動を行わせる制御のやりかたで、思考の中枢に相当するものを持たない。

この制御は、目的を達成するためのロボットの各行動を「要素行動」として分解し、 それぞれの要素行動を反射行動として制御する。

行動はすべて反射で、「思考」に相当するプロセスがない。 さらに、外界のモデル化が不要となることから、処理方式が簡素化される。

行動型制御というのは、各要素行動ごとのセンシングと反射との組み合わせにしか すぎないので、世界モデルの構築や、企画立案のプロセスが存在しない。 このため、組み合わせ的爆発の問題が原理的に発生しない。

「障害物を避けながらゴールにむかう」という問題を、行動型制御で考えると、以下のような形になる。

  1. 活動を、探索・回避・獲得という単純な行動に分割して、それぞれの反射行動を組み合わせる
  2. 何も見えない場合は、そこいらをうろうろとして何かを探す(探索)
  3. 障害物を発見した場合は、それから遠ざかるように動く(回避)
  4. ゴールを発見した場合は、ゴールまでの最短距離をとるように動く(獲得)
  5. 3つのルールの優先順位を探索・回避・獲得の順にしてやることで、 ロボットは障害物を避けつつゴールを目指すという知的行動を達成できる

ムカデは自分の全ての足の動きを把握しているのか?

足が100本以上もあるムカデは、自分の足1本一本の動きをいちいち把握しているだろうか?

昆虫は、恐らくはそれぞれの足ごとに簡単な反射弓を持っていて、 それぞれの足からもらった情報だけで、その足の行動を決定している。

ブルックスは、この考えに基づいて、1991年に昆虫ロボットを開発した。

このロボットは、6本の足各々にサーボとCPUが取りつけられ、 そのCPUは互いに情報のやり取りはするが、全体の思考には参加しない。

各CPUは、自分の制御している1本の足を動かすことに専念していて、 「足が後ろの足のセンサーに達して、隣り合った足が上がっていなければ、 足をあげて、隣り合った足を上げないようにする」といった、足の上げ下げの 簡単なルールしか与えられていない。

このロボットを歩かせてみると、たとえばちょっとした段差に足が取られたとき、 その段差を避けようと引っかかった足を高く上げるなどの行動を取る。

その結果、ロボットがまるで段差があることを認識しているかのような、 知的でスムーズな動きをみせたという。

サーボループの先の知能

イギリスのスティーブ・グランド著書「アンドロイドの脳」の中で、 サーボモーターを用いて、グライダーを知的に制御することを試みている。

  1. サーボモーターは、与えられた命令と、実際に行われた結果との誤差を、 常に最小限にするようにのみ働く
  2. グライダーを左右に旋回させるとき、一番基本的な制御は、補助翼の下げ角を決定することだ。 その結果、飛行機は左右どちらかに傾いて、傾いた方向へ旋回をはじめる
  3. この第一のサーボループは、入力された補助翼の角度と、フィードバックされた実際の角度とを 一致させるように働く
  4. 第一のサーボループの上位を受け持つサーボは、望ましい旋回速度を決定する
  5. この第二のサーボループのセンサーは、旋回速度をモニターする。サーボは、希望の旋回速度が 出るまで補助翼を傾かせ、希望の速度に達したら、それを維持する
  6. 第二のサーボをさらに上位から制御するために、機体の傾斜角度を制御する第三のサーボループが存在する
  7. この上位サーボループは、「機体をこれだけ傾かせたい」という命令を受けて、第二のサーボループへ 働きかける。機体は自分の傾き角度をモニターしていて、命令のあった角度を維持するように働く

3段階のサーボループを接続することで、角度を指定するだけで、 飛行機の操縦が可能になる。

自分が左に45度の急旋回を望むと機体に告げれば、第三のサーボはこれを達成するための旋回速度を 出すように第二のサーボに指令を出し、それを受けて第一のサーボが補助翼の角度をコントロールする。

市販されているラジコンなどでは、補助翼の角度は人間が直接コントロールする。 風などの外乱があったり、旋回速度が速すぎたときなどは修正が必要だけれど、 サーボループを重ねて制御することで、こうした微調整はサーボ群が自動的に行ってくれる。

サーボループを重ねることで、グライダーは「機体を45度に傾けて、その姿勢を維持せよ」 といった高等な要求にも、簡単に答えられるようになり、より「知的」に振舞うようになる。

同じ機体上の独立したサーボ機構は、外の環境により緩やかな統合を受ける。

機体の左右の動きと、上下の動きとは、全く独立した制御を受けていて、接続されていない。 ところが、機体が旋回をするとき、高度は必ず落ちるので、結果として両者は統合されて 働いているように見える。

サーボは思考しない。「全体」のことなど考えない。

旋回用のサーボループは旋回のことしか考えず、 上下を受け持つサーボは一定の高度を維持することしか頭にない。 グライダーの中には「中枢」など存在しないにもかかわらず、全体として飛行機は「知能化」している。

意思を持つサーボの成立条件

こうした一連のサーボループは、あたかも意志を持つかのように振舞う。

意志を持つサーボ群を作るためには、いくつかの条件がある。

各命令系統におけるサーボには、異なる感覚入力を必要とする。サーボの機能は、 命令された状態と、感覚された状態とを等しくすることだけだから、それに応じた入力が必要になる。

サーボには可逆性が必要になる。たとえば、グライダーで「水平を維持せよ」という命令を出しても、 サーボ群は水平を維持するために忙しく働き続ける。サーボにとっては、命令された情報も、 感覚された外界の変化も、「是正すべき変化」という点では同じものに見える。

この可逆性が実現されることで、グライダー上の様々な制御機構は、 外部環境を通じて緩やかな統合を受ける。お互いを電気的に結びつける必要はなく、 独立した制御系統が、環境を会して自動的に相互作用するようになる。

制御系統がより高次になるにつれて、グライダーはより高等な命令を実行可能になる。

「グライダーの意識」は、大脳皮質のように、原始的なサーボループの上に重なる 上位レイヤとして成立しうる。

矛盾した情報とめまい

こうしたサーボ制御の積み重ねによる疑似知能は、 各制御レベルのセンサーへの入力に矛盾があると、「めまい」を生じる。

生物の制御の一部も、きっとこうした原始的なサーボ群と同じような 構造をしている。

たとえば内耳からもたらされる平衡感覚の情報と、 視覚がもたらす水平感覚の情報との間に矛盾が生じた状態というのが、 「内耳性めまい」を起こす。

前のグライダーのモデルの場合も、どこかのセンサーに異常があれば、 飛行機はすぐに墜落する。中枢がないから、グライダー自身は自分が「落ちる」という感覚は 分からないだろうけれど。

神経疾患の人はなぜトラブらないのか?

病気の人、特に腹痛とか外傷とか、「痛い」病気の人というのは興奮していて、 しばしばトラブルの種になる。

ところが、めまい症とか脳梗塞とか、あるいは変性疾患といった神経科の患者さんというのは、 不思議と落ち着いた人が多くて、従順に指示に従ってくれる。

世界がぐるぐる回っていたり、昨日まで動いていた手足が動かなくなったりしてるんだから、 ある意味当たり前なんだけれど、あえてこじつけると、こうした患者さんというのは 入力される外界の情報が矛盾しているから、知能が「めまい」を起こしていて、 そのことが従順さを引き出しているんじゃないかと思う。

矛盾した感覚を用いた説得の手段

従来の交渉や説得のテクニックが通用しない人が増えている。

交渉の席についた時点でなんだか戦闘的で、そもそも「交渉」をするつもりなのか、 一方的な要求をしたいだけなんだか、その意図すらよくつかめないような。

生物では、そもそも一方的な要求というケース自体が少ない。

たとえば、捕食者たる肉食動物と、餌になる草食動物との間にすら交渉に近い シグナルの交換が行われるし、それを見て捕食者が「妥協」したりすることも 珍しくない。強盗殺人や戦争といった状況ですら、ぎりぎりの環境で行われるのは つねに交渉だ。

一方的な要求しかしない人、たとえば小児科の若いお母さんとか、 夜中の小児科に来る若いお母さんといった人の思考回路は、生物学的には 極めてユニークなのだけれど、いつまでたっても「要求」が「交渉」にならないから、 従来の交渉の方法が使えない。

意思気の中に要求しかない人に、交渉のテーブルについてもらうためには、 意識よりももっと下のレベルに訴えて、交渉の必要性を分かってもらう必要がある。

神経疾患の人に入力される感覚情報には矛盾があって、こうした矛盾した情報は、 めまいをもたらす。

感覚が「めまい」を起こしているから、 脳はその矛盾を解決するのに必死になり、悪いことに自分の感覚が 全く信用できないから、他人の言うことを無批判に受け入れやすくなる。

それならば、あえてエラーを伴った入力を与えることで、 人工的に「知能のめまい」の状態を作り出すことはできないだろうか?

言語や表情、部屋の大きさや、においや音。

コミュニケーションをとる人は、言語以外にもお互いに 様々な情報をやり取りする。やりとりしているのは自然環境そのものだから、 それらの情報には矛盾がないし、 人の知能というものもまた、その「矛盾のなさ」に大きく依存している。

ここに何らかの「意図された矛盾」を作り出せるならば、あるいは新しい説得の手段が 作れるのかもしれない。

実際やろうとすると、今度は感覚された情報の「信憑性」を、生体がどう査定しているのかとか、 どの矛盾の組み合わせがもっとも有効なのかとか、いろいろな問題が出てきて難しい。

  • 内耳からの情報が回転で、視覚の情報が水平であったとき、 脳は「世界が回っている」と解釈する。
  • 脳梗塞で手の感覚がなくなった人は、目で見える自分の手を 「他人の手である」と解釈する。

様々な感覚には恐らくは優先順位があって、矛盾した感覚を挿入されることで、 その人の世界知覚は任意に操作が可能になる。

人為的に引き起こされた「めまい」の状態は、 恐らくはある種の説得を行うのに最適なマインドセットを作り出す。

必要なマインドセットがあって、それを人為的に作り出す方法が確立されると、 交渉を行う側としては大分仕事がやりやすくなるのだけれど。

2006.08.02

そういえば

結城さんの家に「凛(りん)」という名前の娘が生まれたら、 その子供のあだ名は絶対に「有機リン」だなあ…。

夜中に胃洗浄しながら、そんなことを考えた。

スミチオンは頭が痛くなるから嫌い。

2006.08.01

蓄積する経験と変成する経験

  • 経験には知識として蓄積するものと、変成してしまうものとがある
  • 蓄積する知識は書物などから取り入れた抽象的なものが多く、 変成する知識は実世界の人間がかかわったものが多い
  • 蓄積した経験は未知の体験に対する耐性を作り上げる一方、 変成する経験はその人の思考過程自体を変える
  • 変成していく体験を重ねることで、蓄積した雑多な知識は査定され、 整理されて、実世界で活かせるようになる

はじまりはSF から

本屋から、SF 小説が減っている。

ちょっと前までは、SF 小説を置いていない本屋なんてありえなかったのに、 最近はもう絶滅寸前。

SF は本棚の中でのニッチを失い、かつてあった広大な領土には、 今は漫画文庫とライトノベルが並ぶ。

本屋に平積みされているのは、感動を押し売りするベストセラーばっかり。

マスメディアに洗脳された愚民どもがッッッ…!!

お金もらっても読む気になれないような本ばっかりが売れているのを横目で苦々しく思いつつ、 自分が買うのは「涼宮ハルヒ」全8冊の大人買い。

現代のSF ヲタクは救われない。

ヲタクの知識は蓄積する

全てはSF と鉄道から始まった。

SF ヲタと鉄ヲタというのは、ヲタクの最小公倍数みたいなもので、 SF からはギークとかアニヲタ、ゲームヲタが派生していったり、 鉄道から分派のは、カメラヲタとかアイドルマニアとか、 SF 方面とは相容れない趣味の人たちだったり。

外から見るとみんな同じに見えるんだろうけれど、中は細かく分かれてる。

ヲタの社会でものをいうのは、知識の量。

SF を語るためには「最低限これだけは…」という本は必ずあるし、 濃い人達は、みんな同じ道を通って来ている。

読まないと話についてこれないし、 新しい小説もまた、「読んだ人」を対象に文章を書いているから、 知識の蓄積は欠かせない。だから敷居が高くなって、SF が売れなくなるんだろうけれど。

駆け出しのヲタのパワーを支えているのは、歪んだ認知の力だ。

ヲタの世界では、取り込んだ知識の量が全て。 コミュニケーションなんて関係ない。交流を経て得た体験なんて、 すぐに腐ってどこかに行ってしまう。蓄積しない。

駆け出しのヲタは、正しい知識だろうが、 そうでなかろうが、とにかく貯める。どんどん貯まる。

知識を蓄積して何かをするわけではなくて、貯めることそれ自体が面白い。

批判的な精神とか、そういうなんだか空しくなるようなことはとりあえずどけておいて、 まずは貯める。

歪んでるけれど、歪んでるからこそパワーが続く。

受験勉強と同じ。考えた奴から、成績は落ちていく。

高校の頃は受験校にいたけれど、現代国語の先生は 「国語を理解するには数学的なセンスが必要だ」と諭し、 数学の先生は「数学は暗記だ」とおっしゃった。

全ては暗記だけ。無批判に、どれだけ多くのことを脳内に格納できるか。

感動して信じる「普通の人」

大学の頃。SF ヲタから始まって、この頃の自分はオカルトどっぷり。

オ○ムが世間を騒がす前に流行していたのが某新興宗教だったけれど、 自分が自治会をやっていたころの母校でも、やはり信じる奴はいた。

教祖の書いた本が自治会室に投げ込まれたり、得体のしれない団体の設立願いが 出されたり。全部却下したけど。

その団体の教義というのは、単なるオカルト。

君達の主張する「真理」とやらは我々が26年前に通過しているッッッ!!

昔からの「ムー」読者なら、躊躇なくこう叫ぶ。今年で創刊27周年目。今も買ってる。

「脳内革命」とか、最近だと「水からの伝言」などもそうだけれど、 オカルトマニアから見ると「ネタ」にしか見えないようなものに、本当に感動する人がいる。

コミュニケーション障害をおこしているヲタに 言われたくはないだろうけれど、精神世界に入り込むなら、 せめて「ムー」のバックナンバー1年分ぐらいに目を通してからにしようよと思う。

人間は、前知識のない物を見せられると、感動の閾値が下がる。

その感動の勢いを利用して、ついでに教祖に従ってもらおうというのが カルトの基本戦略だけれど、伝統的な宗教が「悟り」みたいな概念で 呼んでいるものというのは、本当はその「感動」体験の先にある。

感動体験それ自体は、たとえば禅の世界では「悪いもの」としてあつかっていて、 それに流されないようにと教えているはず。

頭の中に蓄積した知識というのは、未知の体験に対して、鎧のようにその人を守る。

コミュニケーションを重視するときには、余計な知識というのは しばしば邪魔になるのだけれど、作られた感動体験を突っ込まれて、 それに流されないような冷静さを身につけるためには、 やっぱり知識の蓄積というのは不可欠なのだと思う。

知識先行型は現実に弱い

戦おうよ、現実と。

知識が先に立った人間が苦手なものが、「現実」というもの。

実際に現場で動いている人がいるその場所は、ともすれば自分の方がよっぽど詳しい 知識を持っていたりもするのに、知識だけでは何も手出しができない。

知識があれば、動いている人を批判することはできる。ところが、「じゃあやってみて」と言われて、 実際には何もできないから、無力さがつのる。

「本物」に出会ったとき、積み重ねてきた雑多な知識は、現実の体験により再構築を受ける。

  • 軍事ヲタが本物の軍人に会ったとき
  • 鉄ヲタが実際に鉄道会社に修飾したとき

再構築を受けた知識というのは、あるものは淘汰され、別のものは便利に利用されて、 最終的には現実世界での自分を助けてくれる。

それでも、学んだ知識というのは しばしば抽象的過ぎて、現実に適用するのが難しい。

抽象化は、その過程で常に何かを失う。

知識先行型の人間が取り込む大量の知識というのは、 体験が伴わない分、必ず誰かによって抽象化され、蓄積が容易になっている。

ところが、チェスの駒で本当の戦争ができないように、 抽象化した知識を用いて実世界で活用するのは難しい。

それを査定して、また実世界で通用するように転換 するシステムというのは、実世界の体験を通してしか 自分に導入できない。

意識の土台を作る変成する経験

実世界の体験を通じた知識というのは、すぐに散逸する。

日常臨床や、普段の何気ないおしゃべり。こういった経験はいくら積んでも きりがないし、すぐに変成してどこかに消えてしまう。

それでも、みんなでおしゃべりするとか、上司と一緒にご飯を食べるとか、 そうした変成してしまう経験を何度も繰り返していくと、「現場感覚」というものがだんだんとできてくる。

知識の蓄積はとても大切だけれど、変成する経験を重ねることというのは、 その人の判断の土台、あるいは測定のゼロ点に相当するものを、 より明確にする効果があるんじゃないかと思う

全盛期の立花隆(今はどうしちゃったんだろう…)の ルポルタージュがあんなにも説得力にあふれていたのは、たぶん理由が2つある。

一つは、膨大な資料を読破していたこと。もう一つは、 常に問題の当事者の人達と直接に会話を交わして、 判断規準の「キャリブレーション」を、きっちりと行っていたからだ。

どんなに精密な測定機器であっても、定期的なキャリブレーション(ゼロ点較正)を行わなければ、 その値は信用できない。

いろいろな人とあって会話をして、自分の中に「変成する経験」を重ねるという行為は、 たぶん自分という測定器のキャリブレーションを行う意味がある。

実際の現場にいる人とたくさんの会話を通じて、自分の中に仮想的な「現場感覚」を作りあげて、 膨大な資料を読破して得た知識を再構築してのけたことこそが、 かつての立花隆の説得力の秘密だったんじゃないかと思う。

経験の量はその人を変える

現場感覚を体験するとか、あるいは現場の空気を吸うという経験は、 その経験数を増すほどに、その人の質を変えていく。

本を読んで得られる知識の蓄積が連続して実感できるのに比べると、 現場体験というのはすぐに変成してしまって、自分が変わったという実感が得られにくい。

現場仕事というのは汚くて、成長の実感が得られないから、みんな嫌がったり、 いつまでも現場にいる奴は「負け組み」認定されたり。

現場感覚の習熟の工程というのは、連続しない。途中で飛躍があったり、 過去との断絶があったりして、 階段状に成長していく。

40人の入院患者さんを受け持つための方法論と、10人の患者さんを受け持つための やりかたとの間には、ある種の断絶がある。40人受け持てる人が10人を受け持つことは もちろん可能だけれど、10人しか持てない人のやり方とは、もはや全く異なってしまう。

10人を12人にする、12人を15人にする…と徐々に増やしていく過程では、 あるいはその断絶には気がつかないかもしれない。

けれど、10人受け持つのがやっとだった頃と、頑張れば40人の受け持ちの負荷にも 耐えられるようになったときとでは、メモのとりかたや患者さんとの話しかた、 あるいは自分の思考のプロセスというものは、違ったものになっている。

研修医のときに受け持つ患者さんはいろいろで、興味深い症例の人もいれば、 「主訴、入院希望」とか、単なる食欲不振だけとか。

そんな人をたくさん受け持つのはつまらなかったり、 あるいはそんな人ばかり診ていたんでは実力がつかないとか、 果ては「腕が腐る」とか、ひどいことを考える奴もいたりしたけれど、 決してそんなことはないと思う。

「つまらない病気」の人というのは、医学的には手を出す余地の少ない人、 より「正常」に近い人。

独立して一般内科などをやるようになると、 一番大切になってくるのが「正常ってなんだっけ?」という感覚で、 こればっかりは正常な人を数多く診ないと身につかない。

検査なんかでも同じで、たとえば心電図を読むとか、エコーをやるといったことから もっと複雑な検査に至るまで、最初にやらなくちゃならないのが、 自分の頭の中に「正常値」を作ること。

人の入院経過というのはいろいろなのだけれど、「この人はいつもの経過から外れている」という 読みだけは、いくら論文を読んでも、あるいは「興味深い症例」をいくら見た経験があっても なかなか身につかない。

難しい手技を何回やったとか、めずらしい症例の患者さんを何人持ったといった 経験もきっと大切なんだけれど、そうした機会が少ない施設にいったとしても、 そこで得られるものというのはきっとあって、それは案外、難しい手技ができるように なることよりも大切なんじゃないかと思う。

「量」を「質」へと転換させる一つのコツは、とにかく誰かと接する機会を増やすことだ。

論文をたくさん読むとか、教科書をひたすら独学するという行為は、「蓄積」を作ることはできても、 「量」は「量」のまま。知識は腐らないけれど発酵もしないから、何かに転換するということもまた少ない。

そうした勉強よりもむしろ、風邪ばっかりの外来をたくさんするとか、 とにかくいろんな患者さんを山ほど診るとか、 ベテランと一緒に、それこそ食事からトイレに至るまでダラダラ一緒に行動してみるとか。

そうした一見無駄な行為を積み重ねることは、たぶん結構大事だ。

変成する経験知を積み重ねていって、いつか「断絶した過去の自分」を 認識できるようになったとき、そのときこそが「ベテラン」 の仲間入りをした瞬間なんじゃないかと思う。