2006年7月29日

部長のみっともない治療

研修医の頃

当直帯で「患者さんが苦しがっています」というコールがあったときの話。

心不全なのか喘息発作なのか、目の前の患者さんはとにかく苦しがる。 聴診してもゼーゼーいう音が聞こえるだけで、診断にはつながらない。

1年目だった自分だけでは手に余ったから、すぐに上の先生を呼んだのだけれど、 それでも原因が分からなかった。

当時いたのはそこそこ有名な研修病院だったから、教えられていたのは正しいやりかた。

まず患者さんの話を効いて、理学所見をしっかり取って、原因が分かってから治療を開始。

当たり前のことなのだけれど、原因が分からなければ、「正しい」治療ははじめられない。

1年生にとっては、上級生のやることは常に正しい。逆もまた然りで、上級生である以上、 1年生の前では常に「正しい」ことしか出来ない。

患者さんはゼーゼー苦しがっているのに、当直の医者2人、お互いを縛りあってしまって思考停止。

結局原因が分からなかったから、その日の責任当直だった内科の部長先生のお出ましを願った。

治療は滅茶苦茶。

とりあえず点滴をつないで、喘息と心不全に効きそうな薬を端から打っていく。

「部長、かっこわるい…」

そのときはそう思った。 普段「やってはいけない」と習っていた、頭の悪い治療の典型。内科部長ともあろう人が。

それでも、いつのまにか患者さんは落ち着き、30分もすると症状はとれた。

頭の悪い、みっともないやりかただったけれど、その場を乗り切ったのは たしかに部長の判断があったからで、自分達しかいなかったなら、その人は どうなっていたのか分からない。

立場は人を縛る

みんないろいろ学んで成長する。成長とともに、自分の立場というのもまた変わる。

研修医の立場。馬鹿であることを許されるけれど、馬鹿だけに何でもやれる自由さがある。

研修医は学んで上級生になり、その中でも優れた人は、もっと上の立場へとのぼる。

立場が上になるほど、行使できる力の大きさは大きくなる。反面、立場はその人の行動を縛る。

模範的であること。正しくあること。

学ぶにつれて「正しいこと」は自然になり、 どう振舞っても正しいやりかたをするようになる。

ベテランの治療は常に正しくて、洗練されている。

新人の医者があれこれ悩みながら、不細工な治療方針を立てている横で、 ベテランは当然のようにシンプルな治療プロトコールを仕上げていく。

問題は、不測の事態が生じた時だ。

成長のしかたには2種類ある。

  • 成長するとともに立場に縛られる人
  • 成長とともに立場から自由になれる人

何かあったとき、自分の立場を捨てられるか、それに縛られるか。

つまらないことなんだけれど、こんなことが患者さんの予後を左右する。

「あるべき自分」を捨てられますか?

「洗練」という行為は、無駄な部分を削ぎ落とす行為のことだから、 何かあったときの安全マージンはどうしても少なくなる。

初心者のやりかたというのは不細工だ。 いろんなことを考えて、あれこれ寄り道しながら進んでいくから、 どうしても人手がかかるし、手間がかかる。

初心者は予測ができない。

予測可能な急変だろうが、本当の不測の事態だろうが、初心者にとっては同じ。

初心者の背負っている「初心者」の看板というのは簡単に外せるから、 いつでも誰かに応援を求められるし、どんなに汚い治療だって「あり」。

ベテランは、しばしば不自由だ。

ベテランは何をすればいいのかを予測しているから、予想の範囲で何がおきようが、 エレガントに対処できる。

ところが、ベテランが予測していなかった自体がおきたとき、 ベテランの医師は「ベテランである自分」という立場を捨てなくては次の一歩が踏み出せない。

ベテランが「立場」を捨てる姿というのは、下から見るとかっこ悪い。

その行為は本当は凄くかっこいいことなんだけれど、初心者にはそれが分からないし、 ベテランもまたそれを忘れてしまうことがある。

「自由なベテラン」の持っているもの

急変時に自由に振舞えるベテランと、立場に縛られて何もできなくなってしまうベテランとを 分けているのは、「最終的な解決手段」を想像できるかどうかだと思う。

  • 呼吸困難の人なら、心不全と喘息の治療を全部やって、無理なら人工呼吸器に乗っけてまた考える
  • ショックの人なら、とにかく水と昇圧剤を突っ込んで、無理なら人工心肺を回してまた考える
  • 腹痛の人なら、循環器内科じゃ分からないから知りあいの外科の先生に土下座してすぐ来てもらう

自分で治療するのか、あるいは治療できる誰かに頼むのか。

いざという時のために、こうした「汚い、洗練されていない治療手段」を想像しておくこと、 そして、「この一線を越えたら、ベテランという立場を捨てて、頭の悪そうな治療を開始しよう」という そのラインを想像しておくことというのは、けっこう大切なんじゃないかと思う。

最近、全然原因の分からない意識障害の患者さんを診察する機会があり、 大学の神経グループの先生と相談しながら治療した。

電話でいろいろアドバイスをもらった後、こんな言葉をもらった。

「ぶっちゃけ、神経内科なんて、ゾビラックス使ってステロイドパルスとガンマグロブリンを落として、 それでもダメなら血漿交換するぐらいしか治療手段ないですからね~」

この先生は、きっと「立場」から自由なんだな。

そんなことを考えた。

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2006年7月17日

正直さと即興性

料理人や大工仕事、手術や心カテに至るまで、様々な職人仕事には、 「正直さ」に優れた人と、「即興性」に優れた人とが存在する。

菓子職人の正直さ

たとえば、同じ料理人であっても、菓子職人の凄さと、出張料理人の凄さとでは 意味あいが異なるんじゃないかと思う。

NHK の番組に出ていた 菓子職人、杉野英実氏がフランスの菓子工房に弟子入りした際、 もっとも驚いたことが「当たり前のことしかしていなかったこと」だったという。

素材を一つ一つ検品すること、お菓子の焼き時間を秒単位で守ること、 お菓子に染み込ませるお酒の量をグラム単位で守ること、 隠し味に使うショウガを2ミリに切りそろえること。言葉にすると、どれもあたり前のこと。
しかし、毎日数百ものお菓子を作り続ける厨房で、ひとつも手を抜かずに完璧に貫けるかどうか。
それが一番むずかしい。

レシピにしてもそんなに特別なものではなく、 材料にしても、無くなったら近くのスーパーマーケットに買いにいく。 そのかわり、全ての材料をチェックして、痛んでいるものは絶対に使わない。

工程を遵守すること。基本を忠実に守ること。 そうした正直さの積み重ねが、その菓子工房を特別な存在にしている秘密だった。

出張料理人は嘘をつく

菓子職人に求められる技能が「正直さ」なら、 出張料理人に求められる技能というのは、「嘘をつく能力」だ。

もちろん、材料だって厳選していくだろうし、 料理の手順にしても事前の計画は欠かせないにせよ、 出張料理人の人がいくのは他人の家。

8人のパーティーが予定のところが10人ぐらいに増えるのは当たり前だし、 そんなときに8人分出して「あとは知りません」というわけにはいかない。

8人分の材料を10人分に伸ばしてみたり、レシピを変えて、別の料理を10人分用意してみたり。

パーティーの流れによっては、料理を出す順番とか、種類を変える必要だって あるかもしれない。それはもちろん契約の範囲外だろうけれど、 その場での変更に応じられなかった出張料理人には、次回の「お呼び」はかからない。

即興性という能力

「生きる、死ぬ」の現場をくぐる職場にいるベテランは、 修羅場を乗り越えるのが本当に上手だ。

一歩間違えれば、目の前で人が死ぬ。下っ端がみんなビビって手を出せないような、 そんな危険な状況でも、即興性に秀でた人は、 まるでプレッシャーなんて感じないんじゃないかというぐらいに淡々と仕事をこなす。

「この人には、恐れという感情は無いんだろうか?」

部長の手技を見ながら、よくそんなことを考えた。

戦場では、殺さなきゃ殺される。実際の戦争になったら誰でも自分がかわいいと思うけれど、 第2次世界大戦のころは、半分近くの兵隊が引き金を引けなかったのだそうだ。

銃弾が飛び交っているように見える戦場でも、実際には撃つふりだけしてみたり、 あさっての方向を狙ってみたり。

戦争が終わってからのアンケートでは、 「撃たなきゃ死ぬ」という状況ですら、多くの兵隊が撃っていなかった。

有効だったのは、「自分にウソをつく」訓練だった。

人の顔が書いてある的を狙ってみたり、あたると血しぶきの飛ぶ的を作ったり。

実際の戦場と、訓練との差異を少なくすることで、「これは訓練の延長だ」という ウソを自分に信じさせ、兵隊は「撃てる」ようになったのだという。

鬼手仏心は医者の理想なのだけれど、鬼にならなくてはならないときに 鬼になれない人は、実際多い。

「鬼の手」を持てない人は、人の命を軽く考えているのか?

事実は逆だ。

考えるだけなら、今のQOML とかいってるヘタレの方が、 ベテランの先生がたの何倍も、生命を大切に考えている。 ところが、患者さんの生命だけでなく、自分達の生命のことまで考えちゃうから、 若手はみんな厳しい職場からいなくなる。

鉄火場に弱い「正直な職人」

仕事の再現性というのは、同じやりかたを「馬鹿正直」に繰り返す能力だ。

マニュアルとか、レシピとかいった、人の動作を規定するものが ちゃんと出来ている仕事であれば、優れた職人は同じものを完璧に再現できる。

医療ミスの多くは「マニュアルを破った」ことから生じている。

馬鹿正直にマニュアルを遵守していれば防げた事故というのは たしかにあって、そういう意味では、 現場には「正直な職人気質」を持った医師が、まだまだ足りないのかもしれない。

ところが、こうした正直な医師というのは、患者さんの急変に弱い。

急変の現場というのは、「出張料理人が8人分の材料を持っていったとき、 そこには10人の客がいた…」という状況なので、求められるのは即興的な技能。

  • レシピを守って、8人分の料理を出すか
  • レシピを破って、10人分の料理を作るか

レシピとお客さん、どちらを優先するのかは自明なのだけれど、 レシピに対して正直であればあるほど、職人の目の前の状況が日常と逸脱しているほど、 この選択を正しく行うことは困難になる。

正直さと即興性は両立できるか?

  • 初心者は、たとえば対人地雷を目の前にして、1m 手前まで近づいたら足が震える
  • ベテランの先生方は、同じ状況で、1cm の距離まで平気で近づく
  • 本当の即興者は、地雷を持ってお手玉ができる

職人が即興性を伸ばすことは、ある程度のところまでは可能だけれど、 たぶん決定的な「何か」を越えるのは難しい気がする。

急変に強い職人を作ろうと思ったら、 職人が平常心を失う環境を、極力作らないようなルール作りをすることだ。

かつてのアメリカでは、警察官が一般市民を誤射してしまう事故が多かったそうだけれど、 そのほとんどは「自分の安全確保を行う手順」を遵守していないケースだったという。

  • 必ず2人以上で容疑者を追跡する
  • 犯人が背中を向けてじっとするまでは、必ず自分の身を安全地帯に置く
  • 犯人が武器を捨てたことが確認できるまでは、一定以下の距離には近づかない

誤射があったケースでは、警察官自身を安全にするための、 こうしたルールが守られていなかった。

たぶん、誤射が多かった時代の警察というのは、「命知らずの男らしい警察官」という ステレオタイプと、現場で作られたルールとの間に整合がとれていなかったのだろう。

「男らしくあれ」という理念はルールを破ることを求め、 ルールを破ることは警察官自身を危険な状況に置く。

  • 至近距離に近づいたとき、容疑者が怪しい動きをした
  • 一人で犯人を追いかけようとして、犯人が逃げそうになった

犯人を追い詰めるこうした状況は、自分の身の安全が保証されないならば、 追いかける警察官をもまた追い込んでいく。

警察は、自分で自分を追い込んで、容疑者を射撃せざるを得ない状況を作ってしまった。

刑事ドラマというのは、即興性に優れた主人公が、職人の集団の中で活躍する物語だ。

犯人を一人で追い詰めざるを得ない状況というのは、まさに即興性が求められる ときなのだけれど、本来はそんな状況を作らないためにルールがあり、 それを遵守することで職人が活躍できる。

「ゴッドハンド」はなぜいなくなったのか

医療のレベルが低下している。

新聞では連日のように医療ミスが叩かれて、 日本の医療のレベルは地に落ちたような報道が続いている。

実際の事故率とか、死亡率といったものは決して悪くなっているとは思えないけれど、 医療のレベルがジワジワ落ちているのはある意味真実だ。

ブラックジャックになりたかった某心臓外科医とか、「大リーガー」医師を海外から 招きまくっていた某内科医師とか、本当に優れた腕を持って、いろんな武勇伝を 作ってきた医師の数というのは、たぶん減っている。

時代は進歩した。神がかった腕とか無くても手術はできるし、 触診ができなくてもCT 撮って読んでもらえば、たいていは大丈夫。

マニュアルや診療ガイドラインといったものの進歩で、それをきちんと守っていれば、 そんなに大きなミスはしなくなった。少なくとも、平均値としての医療のレベルは、 たぶん向上しているはず。

それでも「神」の数は減ってきている。

それは、医療の技術の低下によるものではなく、みんなが同じ医療をする時代、 「正直者」の医師が増えてきて、マニュアルから逸脱することで大成功を おさめる医師が減ってきたからだ。

マニュアルなんて無かった時代は、各自の即興性だけが成功率を決めた。 とんでもないヤブもいれば、「神」もいた。

技術が進歩して、「神」の足跡がマニュアル化されて、それを守ることに長けた「正直者」が 業界に参入してた。平均の成功率は上がったはずだけれど、成功率の分布の幅は狭くなった。

よくできたマニュアルは、正直者を守るとともに、即興者の手足を縛ってしまう。

みんな頑張っているつもりなのだけれど、「神」がいなくなってしまったように見えるとすれば、 たぶんこういうことだ。

臆病な正直者を罰したときにおきること

  • 勝たなかったら罰
  • 負けたら罰

一見同じようだけれど、戦略は異なる。

「勝ちかた」は、プレーヤーが勝手に決められる。

格闘技なら、ルールで負けたって、 最後までリングに立っていればそれは「勝ち」。解釈のしかたひとつで、 「勝ち」なんていくらだって宣言できる。

「負け」を決めるのは、審判の権限。

こちらにはプレーヤーに選択の余地は無い から、負けないためには審判の意志をくむのが重要。

「勝つ」のが得意なのは即興性に優れた人で、「負けない」のが得意なのは正直者。

「勝たなかったから罰則」という法律は、本来は即興者を縛るためのもの。 正直な人は「勝ちかた」が分からないから、これを守るのが非常に難しい。

交通安全週間のときは、大きな横断歩道の脇には、警察官が立っている。
普段は何も考えなくても安全な交差点では、このときとばかりに事故がおきる。
交差点を横切る自動車に求められる「勝利条件」は、人を轢かずに曲がりきること。
ところが、交通安全週間の期間だけは、この条件が「警察に怒られないこと」に変わってしまう。

  1. 期間中、交差点では警察官が信号役をする。
  2. ところがまれに、警察官が「曲がってよい」というシグナルを出したそばから、横断歩道を横切ろうとする小学生がいる
  3. ドライバーの注意は、横断歩道でなく警察官に注がれる
  4. 子供はドライバーには見えず、事故がおきやすくなる

自分みたいに、学生のころに(夜中の峠道で)警察から嫌がらせを受けたような人間なら、なおさら。

正直者ばかりの業界は、安定していて確実な進歩が期待できる。

ところが、「負け」の定義が明確でないのに、「勝て」といわれても困ってしまう。

こんな状況で「負けない」ためには、勝負を避けるしかない。

だから、現場からは医師がどんどん減っている。

ルールに求められること

法律を作る人達に何とかしてやって欲しいことの一つは、 「負け」の条件を明確にしてほしいことだ。

今はまだ、マニュアルも不備だらけ。

マニュアルに「最後は臨床症状とあわせて考える」なんて入っている時点で それはマニュアルとしては使いものにならないし、 最低何人必要なのか、どれだけの物量を投入すれば「十分」と判断されるのか、 そのあたりはマニュアル本には全然書かれていない。

そのあたりを現場に合わせてやりくりするのがセンスなのだけれど、 今はその「センス」の部分で罰せられるから、手が出せない。

限られた人的リソースでベストな結果を出すには、即興性に優れた人間をそろえるか、 職人気質の人間が納得できるような方法論を示すか、どちらか。

残念ながら、安定期に入った業界からは即興性に優れた人間はいなくなってしまうから、 今必要なのは方法論を誰か偉い人が決めること。

お菓子のレシピのように、誰が作ってもそれなりの物ができて、 レシピを完璧に再現できれば奇跡が生まれる、そんなやりかた。

もっとも、それができた時点で、全ての医者は菓子職人になる。

お客が8人から10人に増えたとき、料理人なら材料をごまかして調整できても、 「ショートケーキ2個おまけして!!」は相当難しい。

今ごまかしてもらっている「2人分」の財源をどこから持ってくるのか、 その問題は必ず出てくると思う。

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2006年7月14日

補給について

最近読んだ「補給戦」という本から。

停止するためには補給が必要~中世ヨーロッパ以前

  • 戦いの作戦を立てる際に、戦術・戦略以外に絶対考えなくてはならないのが補給の問題
  • 最初の軍隊は略奪者の集団だった。食料は現地の村からの略奪による 調達で、河川をうまく利用できたときだけは船で補給ができた
  • 周囲の村から奪うものが無くなると滅んでしまうので、現地調達時代の軍隊は停止することができなかった。
  • 中世の戦記に「快進撃」の話が多いのはこのためで、そもそも同じところに止まって戦う発想が無かった
  • 後方に備蓄用の倉庫を作る考えかたが結構画期的で、これによって篭城する相手と戦えるようになった

軍隊が進撃するためよりも、軍隊が停止するためにこそ補給が必要であるというくだりが面白い。

補給路は複数で~ナポレオンの時代

  • 補給に馬車を用いていた時代は道が悪く、1本の道に大量の馬車を往復させる能力は無かった
  • 軍団の進撃経路が近づきすぎると、補給のための道が1本に重なってしまい、軍は進むことができなくなった
  • 戦略の秘訣は「個々に進撃し、戦うときに一体になる」ことだった

複数科にコンサルトすると、患者さんは1日中病棟からいなくなる。

各科に「個々に進撃」してもらうと手間が省けるのだけれど、なかなか上手くいかない。

列車を使う工夫~第一次世界大戦

  • 鉄道は戦争を変えるといわれていたが、意外に変わらなかった
  • 補給の解決策になるはずだった列車は、結構期待はずれだった
  • 兵站駅まで荷物を送れても、兵士の乗車や下車、荷おろしの時間が非常にかかり、食料の多くは駅で腐ってしまった

列車による補給を上手に行っていたフランス軍では、以下のような工夫をしていた。

  • 列車が速く、また複線化していた区間がドイツよりも多かった
  • 乗客たる兵士の食事の時間は律速段階になっていたが、フランス軍の兵士は食料持参だったので、下車しなかった
  • ドイツの列車の規格が政治的な問題からバラバラだったのに対して、フランスでは統一されていた

大量運搬が可能なハイテクが登場しても、兵士の荷物の運搬を列車自体に依存することなく、 スタンドアロン性を保ちつづけたフランスの知恵というのは何かに使えそうな気がする。

ハイテクといえばドイツだけれど、第一次世界大戦当時の補給戦では、ドイツは圧倒的に立ち遅れていた。

車の時代~第二次世界大戦

  • 自動車を用いた電撃戦を行ったのはドイツだが、攻撃に車両のほとんどを使ってしまい、補給が追いつかなかった
  • 道の問題は全く解決しておらず、補給路が1本になってしまうと、軍隊は事実上進撃不可能になった
  • 自動車により運搬能力が飛躍的に高まったにもかかわらず、弾薬消費量がそれ以上に増えてしまい、軍隊の 食料については相変わらず「武装遊牧民」のころから進歩が無かった
  • 砂漠の名将ロンメルの軍隊も、進撃速度が速すぎて補給が追いつかず、結局息が続かなかった

戦争は、決定的な場所に最大の兵力を集中することを知っている者が勝つ」。

第二次世界大戦のこのことわざは、補給の問題が第一次大戦のころから何も変わっていないことを表している。

現代の戦争

  • 補給の量は飛躍的に上がったにもかかわらず、戦争兵器の技術の向上のほうがそれを上回ってしまって、 軍隊の移動スピードはあんまり変わっていない
  • スピードの上限というのは、あいも変わらず補給のスピードが決めている
  • 食料の量は変わらないのに弾薬類の消費量が増えた結果、現在では停止中の軍隊を養うよりも、 動いている軍隊の補給のほうが重要な問題になった

病院の中での「補給戦」に相当するものは何なのか。

補給というのはつまるところ、人やものの流れをどう現場までコントロールするかという問題で、 道具の近代化とはまた違った側面をもっている。

医者が一人しかいない田舎の病院でもそれなりの医療をこなせるのに、医者が100人いる大学病院では その100倍の出力が出せないなんていうのは、こうした補給の問題に近いものがなにか足を引っ張っている のだろう。

  • 医師個人個人のスタンドアロン化
  • スタッフの動作線を極力重ねないこと
  • 情報や道具、病棟のレイアウトの規格化
  • 必要そうなものをトップダウンで病棟に降ろすのではなく、現場で必要な物をボトムアップ的に 効率よく拾う仕組み

電子化すれば万事解決なんていうことは絶対無くて、もっとアナログなやりかた、 人の流れを効率よくするノウハウというのは、たぶんどこかの業界にあるような気がするのだが。

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2006年7月12日

交渉ごとにおける原資の問題

  • どんな交渉ごとにも、賭けごとでの「チップ」に相当する原資というものが存在する
  • 交渉ごとでの原資になるのは大きく3つ。社会的な地位や名誉、お金、時間のどれか
  • 交渉で何かを得ようと思ったら、「どう交渉するのか」よりも、「何を原資に交渉するのか」を考える
  • 相手が失いたくない「原資」を発見できれば、交渉の上手下手に関係なく有利な結果を得られる

ポーカーにはバンクロールが必要

交渉ごとのやりかたを考えるときには、 「ディベートの力」とか、「言い回し」といったテクニック的なもの だけではなく、相手と自分との「原資」の差というものを常に考えないといけない。

原資を考えに入れない交渉というのは、チップをかけないでポーカーゲームをやるようなもので、 ゲームとしては片手落ちだ。

プロのギャンブラーの人達の大会では、大会前にどれだけの資金を集められるかが勝負を左右する。

プロだから、賭けるのは現金。

集められる現金の量というのは、その人の普段の勝率とか、その人がギャンブラーの社会で どれだけ信用されているのかといったものを厳格に反映する。

ポーカーでの原資、バンクロールが対等でない相手とは、最初から勝負にならない。

どんなに腕に自信があっても、10億持ってきた相手に1000万円の現金しか持っていなければ、 相手がポーカーの素人であっても、勝負には負けてしまう。

相手が続けざまに1000万円ずつ勝負してくれば、 全財産が1000万円しかないほうは、1回降りればもう破産。 どんな名手だって勝負にならない。

原資になる3つの要素

原資とは、交渉者の強さのよりどころになっているものだ。

具体的には以下の3つ。

  • 社会的な立場の強さ
  • 持っているお金の多さ
  • 交渉ごとにかけられる時間の多さ

たぶん、「持っている夢の大きさ」なんていうのは、本当は最強の 原資で、世の中のすごい人達はこの原資の大きさが とてつもなく大きいんだろうけれど、自分には夢を原資に使う方法が分からない。

夢のない話。

交渉力の最初は原資をそろえること

交渉相手が必要な「何か」を持っているとき、その「何か」が欲しくて交渉が始まる。

交渉の目的と原資が一致する交渉、「あなたのその地位を下さい」とか、 「あなたのお金を下さい」というのもあるけれど、 普通はその人に何かをしてほしいとか、自分のやることに協力してほしいとか、 交渉を通じて得たいものは、原資とは別のもの。

何かの交渉をするときは、原資の量を少なくとも同じにするか、相手よりも上回らないと、 そもそも交渉の席につくことすらできない。

たとえば病院での、転科の交渉。

医学的にはそれがどんなに正しい要請であっても、内科側の交渉人が研修医1人で、 相手の科が教授回診の真っ最中だったら、もうその時点で負けは決定。

転科の交渉は、立場の強さが原資。 交渉を開始するなら、白衣を着た人間の数をそろえるのは最低条件。

弱い原資を武器にする

相手と自分との交渉力の差が決定的に開いていても、 相手に不利な原資を見つけて、それを交渉に持ち込むことができれば、 弱い立場でも有利な交渉を行うことができる。

スティーブ・ジョブズ氏が Apple にCEO として復帰した頃、Apple 本社は 資金難で倒産の危機に瀕していたそうだ。

まず底を尽きかけている現金を増やさなければ、なんの対策も打つことができない。 そこで考えたのが「Appleが潰れると困る会社はどこか?」だった。
その答えはスグに見つかる。Windowsの寡占が進む中、 何かと批判を浴びがちなMicrosoftが、ライバルとしてのAppleを必要としていたからだ。
週刊モバイル通信より引用

Apple はマイクロソフトと提携関係を結ぶことで持ち直し、iPOD の大ヒットにつながった。

社会的な立場はマイクロソフトのほうがはるかに上だったけれど、 Apple が舞台から去ることで、その立場が危うくなる可能性があった。

Apple は自分の弱さをうまく利用して、ライバル会社から有利な譲歩を引き出せた。

立場というのは、もちろん強いほどいいのだけれど、「失うものがない相手」には、 立場の力は全く無力。このとき原資のバランスはひっくり返り、立場の強さに 頼ったほうが「弱く」なってしまう。

お金の問題も、たぶん同様。

お金をたくさん貸している立場の人にとって、もっとも怖いのが 「自己破産しますけど何か?」と開き直られること。

「使ったお金は返さないといけない」という道徳がみんなを縛っているけれど、 高利貸しも、病院も、このはかない道徳が無視された時点で崩壊するのは どちらも同じ。

お金を持っている人との交渉というのは、「その人から借金している人」が 一番有利な交渉人だったりする。

時間のある人の強さと怖さ

医者という仕事をやっていて一番怖いのが、時間のある人に絡まれること。

自分達の社会的な立場というのはそこそこ強くて、 経済的にもそこそこに恵まれているほうで、世の中の交渉ごとには 結構有利な原資を備えているのだけれど、時間だけはもう絶望的なぐらいに全く無い。

その一方で、自分達には相手との接触を断る権利は全くなくて、 「話をさせて下さい」「診察をして下さい」という人が来たら、 基本的には絶対に断れない。

社会的に持っているものが少ない人というのは、しばしば「時間という原資」だけは 大量に持っていて、そういう人がしばしば、 医者を罵倒するのだけが生きがいだったりする。

  • 救急車を何回も呼びまくる
  • 病院に名指しでクレームをいれる
  • 外来に夜中に来ては「主治医を呼べ!!!」と半年前に診察した医師の名を叫ぶ

今働いている地域は社会が暖かいからなのか、そうした人はほとんどいなくてホッとしている。

「時間のある人」が1人いると、救急外来は仕事にならなくなり、 こういう「常連さん」が3人もいれば、スタッフが嫌になって逃げ出してしまう。

こういうのは本来が理不尽な行為で、議論をすればもちろんこちらの正義が通るのだけれど、 「時間」という原資の量が医者にはほとんど無くて、相手には無限にあるから、「勝負」は 最初からついている。もう100%、医者側の負け。

そういうときには交渉専門の人、ソーシャルワーカーのような人に 十分な「時間原資」を持ってもらって交渉に臨むのだけれど、 「時間のある人」というのはしばしば何も持っていなくて、 立場も無ければお金も無い。

失うものが無い人の交渉力はとても強くて、またそうした人の受け皿として作られたのが 本来は病院という組織だから、もうどうしようもない。

下級生には「議論の席についた時点で負けだから、そうなる前に謝り倒して、とにかく逃げろ」と 教えていたけれど、他の方法、何か無いんだろうか…。

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2006年7月 7日

性善説と性悪説

7月から、療養病棟の保険点数算出方法が大幅に変わった。

今までは出来高払いの延長。節約してやりくりすれば、たいていの医療行為は 何とかなった。

7月からは、ルールが大幅に変わった。

  • やったことを問わず、1ヶ月に国から支給されるお金は同額。検査を乱発するダメ医者は損をするルールになった
  • 患者さんの重症度に応じて、医療区分1から3まで(1が一番軽い)のランクがついた。軽症の患者さんを 長く入院させている悪徳病院は、黒字が減ることになった

厚生省の考えている「勝利プラン」というのは、たぶんこういうことだ。

黒字を増やすには、医療区分で2~3の重症の患者さんを多く入院させて、 より頭のいい検査プランを立てて、 最小限の検査で治療効果を発揮できる医者を雇うこと。

悪い奴らが笑う仕組みから、良心的な病院が報われるルールへ。

このルールの改訂で、喜ぶ人なんて本当にいるんだろうか?

ルールの最適解は何か?

新しい制度のルールブック(A4で50ページ近くある)を読んで最初に思ったことは、 このルールだと、最適解が2つしかありえないということだ。

今度のルールでは、「医療区分2以上」という、 比較的重症の人でないと、病院側には赤字が発生する。

  • 1つの方法は、厚生省の思惑どおりに重症の人を一生懸命安く治療して、「いい医療」をやること
  • もう一つの方法は、手のかからない軽症な人を重症者に仕立て上げること

悪しき習慣ではあるのだけれど、高齢者医療の現場で、 みんなが望んでいるのは、「良くなってずっと病院にいること」だ。

古いルールのときには、みんなあの手この手で落としどころを探って、このゴールに 近づこうとしたものだだけれど、今度からは無理。

悪くなって入院を続けるか。それとも良くなって病院を去るか。

新しいルールは選択を迫る。

インドには、乞食の子供の目を潰したり、手を切り取ったりといった「サービス」を 提供する医者がいるそうだ。

こうすることで、子供の見た目がより「かわいそう」になり、その子の収入が増えるから。 カースト制度と巨大な貧困層という「ルール」の中では、こういう最適解だって成り立つ。

わざと悪くするわけじゃないけれど、今までなんとか「軽症」の領域を 維持しようとしていた努力を止めるだけで、患者さんは簡単に「重症者」の仲間入りをする。

  • 体位交換の頻度を下げて、床ずれを作る。予防しちゃうと医療区分で「軽症者」になってしまうから、やるだけ損する
  • むせ込みの多い患者さんは、頑張らないでさっさと気管切開を勧める。これをやるだけで「重症」あつかいになるから、 入院期間の延長はずいぶん楽になる

7月からのルールでは、医療区分2の「少し重症」の人をどれだけ作れるかが鍵になる。

ルールの改訂で、普通に歩けるような高齢者は病院から追い出されて、 頑張ればなんとか車椅子までいけてたような人は寝たきりになって、 「安定した重症者」で病院がいっぱいになるような気がする。

自分みたいな悪徳じゃなくて、もともと良心的な医師はこの制度で「いい思い」をするだろうか?

たぶん逆で、まじめな人からやる気を失ってしまうんじゃないかと思う。

ルールの性善説と性悪説

ゲームのルールには、性善説と性悪説との2種類がある。

  • 性善説をとるルールは、ゴールのみを設定して、そこに至るまでの過程はプレーヤーに任せる。 結果は一つだけれど、過程は多様化する
  • 性悪説をとるルールは、結果を達成することよりも、ルールを守らせることのほうに重点をおく。 プレーヤーの行動は同じようだけれど、その結果が多様化する

医者の仕事というのは、「よくする」という一つのゴールに至るまでの道のりを追求する仕事だ。

今までの出来高払い制度というのは性善説で、合理的にやろうが悪どく儲けようが、 結果さえうまくいけば、後は医者の「さじ加減」を信じてた。

厚生省のスタンスは、「医者は基本的にいい連中で、その中にたまに悪い奴らが混じっている」というもの。

センスのない奴には、まわりから笑われたり、 保険点数を大幅に削られたりといった制裁が加わったけれど、 まじめな人と悪い奴、どちらもそれなりに仕事が出来た。

今度のルールは逆。

「医者は基本的に悪者ばかりで、たまにまぎれているまじめな 医者を救済してやろう」というのが新ルールの考えかた。

医者にできることは、悪い奴もそうでない人もみんな同じ。

違うのは、悪い奴がやると患者さんが重症化して、 正義の医者がやると、患者さんが軽症化すること。

そして、「軽症化した患者さんには、国はお金を出す意志は全くない」ということが、 「ルールブック」に明記されていることだ。

やる気を奪う性悪説ルール

罰則とか、「べからず集」とか、国の検査機関からの監督といったルールは、 いずれも「悪人である医者を、正義の厚生官僚が監督する」という思想の産物だ。

国はあなたがたを信用してないよ」というメッセージは、 まじめな人達をへこませ、もともと国への忠誠度の低い人達だけを元気にする。

「あれとこれはやってはいけない。そのかわり、違反しなければ何をしてもいい」という戒律的な ルールは、多様な結果を生む。

こうしたルールは、リーダーの顔が常に見えるぐらいの規模の小さな組織で、 いろいろな可能性を追求しなくてはならない時にはとても有効だけれど、 大きな組織でこれをやると、無政府状態になってしまう。

大きな組織を統治するには、理念が必要になる。

「紳士たれ」とか、「よき医師たれ」とか。何をもって「よい」のかについては、 リーダーがメンバーを信じるしかないから、そこに信頼関係が生まれる。

信頼関係は忠誠を生む。まじめな奴ほどマジになる。 ずるしてサボる奴は一定割合で出るかもしれないけれど、組織はまとまる。

正解は「性善説+祟り」ルール?

厚生省の中の人は、たぶん正義の味方になりたいんだろう。

「悪の医者を取り締まる正義の官僚」というロールモデルを演じるのは きっと気分がいいのだろうけれど、これは 悪役にされた人のやる気を奪ってしまう。

官僚の人たちが想定すべき自己イメージというのは、 「医者という馬に鞭を入れる御者としての官僚」だ。

「悪い医者」にとって、もっともやられて嫌なのは、 今までどおりの出来高払いルールを維持した上で、明文化した罰則を一切作らないこと。

役人様は馬車の上からみんなお見通しで、 ズルした馬は予告なく鞭で叩かれるという「祟り」が 蔓延した社会では、「ルールの裏をかく」ことは非常に難しくなる。

だって、ルールは役人様の頭の中にしかないんだから。

「神様」が統治する「祟り」の支配する社会というのは、 なんだか北○鮮みたいだけれど、ライブドアとか村上ファンドとかいった会社が 潰される今の社会を「正義だ」と評価する人が多いというのは、 たぶんそういう社会を志向する人が結構多いということなんだろう。

医師はプライド高いから、官僚に「馬」扱いされれば当然怒るだろうけれど、 思考を放棄して「馬」になって鞭打たれたい人、潜在的には多いんじゃないだろうか?

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2006年7月 6日

父親はどこへいった

悪い話を切り出すのは難しい。

病名がちゃんと分かっていて、悪い予後が避けようもないような病気であれば まだ何とかなるけれど、急変の時なんかは最悪。

一体何がおきたのか。他の医者ならまだ何とかなったんじゃないか。

患者さんの家族は絶対にそう疑っているし、なによりも主治医だってそう思ってる。

理不尽な結果に対するこの怒りをどこへ持っていけばいいのか?
目の前の主治医は?

この考えかたは全く正しくて、たしかに主治医が無能なのが 一番いけないんだけれど、医療者側としてはとても困る。

誰か「上の人」が現れて、この状況を何とかしてくれないものか。

患者さんを治療するところまでは技術だけれど、 人間関係を何とかするのは無理。結局神頼みだ。

最初は女神様から始まった

宗教が始まった最初の頃は、女神信仰が多かったのだそうだ。

頼めば何でも与えてくれる、現世利益の神様。

人が作る集団が小さくて、産業なんて狩猟ぐらいしかなかった頃は、 多神教的で、偶像崇拝、動物神崇拝を行う自然宗教が当たり前だった。

文明ができて、多くの人が集まるようになると、理不尽なことが 多く目に付くようになる。

農作物の不作。洪水や日照りなどの異常気象。仲間の死。

神様を恨んだところで何もしてくれないけれど、その頃には 宗教の「便利さ」にはみんな気がついていたから、神様の形は変化した。

女神様退場。与えてもらう宗教から試練に耐える宗教へ。

信者に禁欲と試練を強いる父権宗教では、 人間が神に要求するのではなくて、神が人間に要求する。

母なる神が豊穣を与えてくれるのに対して、父なる神は苦難を与える。

何ももらえず、試練に耐えなくてはいけない代わりに、 それに耐えた人は次の世界での幸福を約束される。

何かごまかされているように見えるけれど、神様なんてそんなもんだと思っていれば、 「試練を与える神様」という存在は、案外納得できる。

医療父権主義

パターナリズム、医療父権主義という昔からの医者の立場は、 患者さんが急変したときにはうまくない。

絶対に良好な経過で治る人ならば、「神様は俺様だ」という立場はとてもうまくいく。

ところが、「俺が神様」的な立場は、失敗したときに後戻りができない。

神様を名乗っておいて、いまさらうまくいかないから「人間宣言」しても、 誰も納得するわけがない。

父権者の下の仲間という立場

望ましいのは、患者さんの家族の誰かに「父なる神」になってもらって、 医者はその参謀という立場だ。

問題なのは、「誰が」「どうやって」父権を任命するのかという問題。

子供の親なら誰でも父親になれるけれど、理不尽さを受容、あるいは家族に要求して、 「次」を約束してくれる父権を持った人は、そうはいない。

「昔の父親は強かった」なんていう話はよく聞かれるけれど、 昔と今とで何が違ったのかというと、ムンテラの時に集まる人の数だと思う。

大きな家族の怖さと優しさ

儒教思想の強い某国の人達とか、某田舎の方の患者さんの家族との会話は大変だ。

もう人が集まる集まる。10人とか、当たり前のように人が来る。

人の目線というのは、集まっただけ力を持つ。

10人もの人から見つめられると、着なれた白衣がやけに薄く感じたりする。

急変の時なんかは、修羅場。

何人も集まると、必ずといっていいほど「一族の若者」が遅れて来て、医者の胸ぐらをつかむ。 つかまれたり、怒鳴られたり。最悪パンチが入ったり。

医者と、若者と、一族の中の偉い人と。

  • 医者を吊るし上げることで、若者は遅刻の謝罪と患者への思いを表現する
  • 怒る若者をなだめることで、偉い人は若者を赦し、権威を強化する
  • 医者は全面的にやられ損だけれど、ここはがまんする

人数の多い家族を相手にするのは大変だけれど、たいていの場合は「父権を持った偉い人」 が決まっているから、やりやすいとも言える。

大きな家族の中の偉い人は、それはもう主治医なんて比べ物にならないぐらいに偉いから、 争いがおきない。

「偉い人」を見つけておいて、その人に主治医の恭順の意思をちゃんと伝えられれば、 患者さんが理不尽なことになったとしても、若者に吊るし上げられるだけですむ。

小さな家族は争いがおきる

小さな家族ではこうはいかない。

年長の人、あるいは家族の中に父親がいたところで、その人が「父権」を持っているとは限らない。

理不尽な思いをした人は、それを受け止めてくれる権威を探す。

医者と年長者。どっちが一番偉いのか。

人数が少なくて、グループの中の年長者に十分な権威が集まっていないときには、 主治医と年長者との間に「権威の争い」がおきる。

家長がみんなに権威を示すためには、医者に勝たなくてはならない。

最初から協調の線が潰れているから、どうしても対立せざるを得なくなり、 落としどころが作れない。

対立して、議論に医者が勝ったところで、みんなの理不尽な思いは消えない。

ボトムアップで生まれる父権

父権というのは、誰かから与えられるものではなくて、集団の中に自然発生するものだ。

  1. 理不尽なことがおきたとき、誰もがその理由を探す
  2. 理不尽なことには理由なんかない
  3. 理由のない状態というのは居心地が悪いから、無いなら自分達で作る

大きな人数が集まって、その集団の感じる「理不尽さ」がある閾値を越えたとき、 その理不尽さを受け止めるために「父権者」が誕生する。

ナッシュ均衡からパレート最適へ。

理不尽さを解消するには、個人個人がバラバラにやってたんじゃ埒があかない。

父権者は、みんなの思いを受け止める、「集団の理性」の体現者 として、「みんな」の上に君臨する。

主治医の権威と父権の対立

主治医の権威というのは、「お上」から与えてもらったものだ。

ボトムアップで生まれた権威と、トップダウンで生まれた権威。 2つの権威の関係は、医師と患者との関係を大きく変える。

  • 十分な人数がいて、その人達の尊敬の念が父権者に十分集まれば、 主治医という異物も父権者の下に組み込んでもらえる
  • 数が少なくて、主治医と父権者との力関係がはっきりするだけの権威が集められないと、 主治医と父権者との間の対立が発生してしまう。

父権の大きさは足し算に従う。絶対的な人数と、一人一人が父権者に信託する「権威の量」とが、 その大きさを決める。

核家族化した現在、家族を集めたって、集まる人数は知れている。

父権者のいない家族と、父権者を求めておどおどする主治医。対立は避けられない。

父と子と情報開示

「父権者」に出会う機会はますます減っている。

今はネットワークの時代だから、ひとつの「理不尽さ」に集まる人の数は、 実は昔よりもはるかに多くなっているのだけれど、 誰もが忙しいからその場には集まってこない。

単にナースルームに集まって、話を聞くだけ。

それだけのことなんだけれど、 それでも現場の持つ情報の量というのは大きくて、馬鹿にできない。

情報の少ない人は、遅れてきた若者と同じ。

医者を吊るし上げることでしか集団に参加できないから、対立は深まるばかり。

「父」の復活を果たすために必要なのは、みんなの情報へのアクセスを公平にして、 「仮想的な大家族」を形成することだと思う。

何もかも隠さずに、こちらの情報をどんどん流す。

もっている情報はとりあえず公開するのは当たり前として、主治医がそれを見てどう解釈しているのか。 検査から分かること。分からないこと。成功する自信はあるのか。失敗するとしたら、次はどうするのか。

とりあえず持っているものや思考のプロセスといった物は全部公開して、 あとは相手集団の中に立ち上がってくるであろう「父権者」の理性を信じる。

相手家族との駆け引きは、とりあえず「見せて」から。

見せることを武器にする

情報を隠さなくても、駆け引きは十分にできる。

高校時代によくやった賭けトランプ。 東大にいくような連中は、みんな平気で手札をさらす。

手札を隠さず、その一部をあえて見せてしまうことで、 他のプレーヤーの意志をコントロールする。何度もやられて、いつも負けてた。

力量に十分な開きさえあれば、見せることもまた武器になる。

見せながら操作するのは難しくて、やりかたを間違えるとただの ヘタレな医者にしか見えなくなってしまい、かっこ悪いことこの上ない。

隠すやりかたから見せるやりかたへ。

対立を避けようと思ったら、もう「隠す駆け引き」というのは通用しない。

オープンに出来るものはオープンにして、仮想的な大家族を作って権威者を育て、 その上でその権威に圧倒的に「負けて見せる」。

インフォームドコンセントというのは、きっとこうしたやりかたの延長上にあるんだけれど、 うまくやっている人、どれぐらいいるんだろうか?

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