2006年6月26日

人が最後に帰る場所

日常が失われる恐怖

その人にとっての故郷というのは、たぶん介護士さんの顔と声だった。

老人病棟の患者さんは、毎日叫ぶ。ひたすら怖がって、 何やっても叫ぶ。

その人は、前の施設ではおとなしかったらしい。 会話は全くできないけれど。

誤嚥性肺炎を発症して紹介入院。抗生剤で簡単に軽快。

例によって老健はどこも満床で、一度退所したらそう簡単には入れない。

これもまたお約束で、家族の方は在宅での介護を拒否。 行き場がないから、当院にて長期入院。

元気になったらもう叫ぶ叫ぶ。

食事をしようがマッサージをしようが、手足を振り回して全部拒否。

ご家族の「できるだけのことを」の言葉は、ときに本人に地獄を見せる。

本人にとっては、病院という場所は全くの異世界。

日常見慣れた施設から離されて、見たこともない場所に連れてこられて。 知らない連中が自分を縛り上げて、毎日点滴。叫びたくもなる。

家族の顔も分からなくなったその人に、「日常」が帰ってきたのは、 元の施設の介護士の人が見舞いに来たときのこと。

今まで声を限りに叫んでいたのが、その人が来て声をかけたら元に戻った。 その人の手からなら食事もとれるようになり、結局しばらく病院に来てもらって、 元気になって元の施設へ戻ることができた。

認知症というのは、「日常」の範囲がだんだんと狭くなる状態だ。

パズルのピースが落ちるように、今まで「日常」であった生活体験がだんだんと欠落してしまう。

普段見慣れている風景は覚えているのに、めったに見ないもの、たとえば久しぶりに会う 家族の顔とか、家からほんの少し離れた裏通りの風景といったものは忘れてしまう。

「ここは自分が忘れていた風景だ」と認識できればいいのだけれど、認知症の人は、 「忘れていること」に気がつけない。

認知症の人は、日常から外れたものは、「異物」「異世界」として認識する。 だから怖がって、暴れて叫ぶ。

徘徊老人は故郷へ帰る

徘徊老人が時々、電車に乗ってとんでもないところまで行ってしまったりするけれど、 あれは「故郷」に行こうとしているのだそうだ。

日常が狭くなっている人にとっては、道を一本外れただけで、もうそこは異世界。

異世界に迷った人がまずやろうとするのは、自分が一番安心できる場所に帰ること。

高齢の人にとっては、現在暮らしている狭苦しい日常よりも、 子供の頃に暮らした故郷のほうが、より安心できる場所に思えるらしい。

失われた場所を探して、徘徊老人は電車に乗る。

でも、帰れる故郷が実際にある人なんてほとんどいないから、 故郷を探しにいった老人は保護されて、もとの不安な日常へと戻っていく。

世代の変化と街の変化

この6年ぐらい、1時間かけて同じ道を通っている。

県庁所在地のそこそこ大きな市街から、勤務先の田舎の病院へ。

勤務をはじめた頃は、途中の道は原野だった。

街を出て、原野を3kmぐらい走ると小さな街があって、また原野へ。 それを4回ぐらい繰り返すと少しだけ大きな街に出て、そこに勤務先の病院がある。

途中の街には商店や学校や神社があって、そこだけは子供がいるので、道が渋滞する。 何もないところは信号もないから、アクセル踏み放題。

様子が変わってきたのが3年ぐらい前。

原野だったところにショッピングモールやホームセンターができて、 さらに数ヶ月して、同じような形の一軒家が並びはじめて、原野に街ができた。

若い町には若い人が住み、原野の一本道に集団登校の子供が歩くようになったのが昨年頃。

もともとあった古い町の商店はシャッターを閉め、古い町は老人ばかりが 目立つようになり、子供の姿が消えた。

今では、渋滞する場所は前とは逆。

ショッピングモールを中心とした「若い街」ではアクセルを踏めず、 神社や学校、閉じた商店が並ぶ、人の歩かない古い街並みで遅れを取り戻す。

ネットワーク化する町

昔は、町に住むことというのは、「何かの中心の近くに集まること」だった。

中心にあるのは、役場とか学校、神社といったインフラ。 その周りに商店ができて、住宅がそれを取り巻いた。

時代は進んだ。誰もが車を持つようになり、若い人の移動範囲は格段に増え、 町は中心という概念を失い、「中心に住むこと」には意味がなくなった。

住む場所の価値も変わった。

大事なのは、買い物に便利なこと、 道路に面していることといった、 ネットワークへのアクセスの良さ。

町の中心街などは、もはや土地が高くて道が混むだけの場所になってしまい、 若い人はほとんどいなくなった。

ネットワーク化した都市においては、有利なことは中心に近いことではなくて、 移動力が大きいことだ。

歩くことしかできない小学生が自転車に乗ることを覚えて、そのうち自動車へ。

人間の移動力は、年齢とともに上昇して、40台から60台でピークになる。 その後は、年来が上がるにつれて移動力は下がっていく。

移動力が一定以下に下がると、人は都市のネットワーク機能を利用できなくなる。

移動力の落ちた人にとっては、「中心にいること」の価値はまだまだ高い。 歩けさえすれば生活できるから。

結果、神社や学校といった、昔ながらのインフラを中心とした「古い町」には高齢者が住み、 ショッピングモールを中心とした「新しい町」には若い人と子供が住む。

新しい町と古い町とをつないでいるのは、小学生を中心とした子供。 学校だけは移転するわけにはいかず、相変わらず古い町の中心にしか存在しないから。

ネットワーク化と故郷の消失

何かの中心に寄り集まることから、ネットワークに参加することへ。

「町に住むこと」の意味は、この数年間で大きく変わった。

「故郷」という古い風景の見えかたも、また変わる。

みんなの移動力が上がると、地域社会というものは不必要になる。

みんなが移動できない昔は、「近くにいる人」というのは、それだけで特別な人だった。

誰もが自由に移動できて、みんなが自分のネットワークを利用できるようになると、 「近くにいること」の価値はどんどん小さくなった。

もはや、隣の人に何かを頼む機会なんて皆無。mixi の知り合いに何かを聞く機会のほうが 多い人だっているかもしれない。

人のコミュニケーションの範囲が広くなると、 同じ目的を持って集まれる人の数は増えていく。 それに反比例して、「地域社会」の必要性は小さくなっていく。

近所の誰もが知りあいで、みんなで遊んだ「故郷」なんて、もう過去の話。 ネットワーク化した町の子供が思い描く「故郷」の風景というのは、自分が想像する それとは、もはや何の共通点もない。

故郷喪失者の帰る場所

寂しさの中で亡くなった革命家の話をしようと思う。

50年代、本当に革命を目指していた日共細胞の 英雄譚は本当に面白く、 よく外来そっちのけで聞かせてもらったものだ。

高齢でも元気だったその方も、そのうち入退院を繰り返すようになり、 だんだんと「日常」の範囲が狭くなっていき、病院の風景が異界になってしまう頃、 別人のようになって亡くなってしまった。

最後の1年間、その人の叫びはいつも「寂しい」だった。

日共の人達というのは、「革命」という同じ目的の元に集まった集団で、 出自はみんなバラバラ。昔ながらの地域社会なんかは真っ先に否定していたから、 この方達の心のよりどころになっていたのは、たぶん革命家同士のネットワーク。

年月が過ぎて、日共も自己批判を繰り返すようになって、当時の精神もまた失われ、 革命家を支えたネットワークもまた失われた。

故郷のの消失は恐怖を生みだし、 自分の帰属していたネットワークの消失は寂しさを生みだす。

どちらにしても、帰る場所の消失は、人生の最後を責めさいなむ。

失われた故郷、あるいは帰るべき日常を常に提供し続けることができるなら、 こうした人達の生活を少しでも安楽にすることができるだろうか?

成長するネットワークは永遠の「帰れる場所」を提供するのか

インターネットという環境は、変化しながら成長するネットワークという、 全く新しい存在を作り出した。

従来型の、特定の場所に集まる地域コミュニティ、 あるいは特定の目的のもとに集まるネットワークコミュニティというものには、 寿命というものから逃れることはできなかった。

  • 地域コミュニティは永遠に存在し続けるけれど、若い世代の移動能力の変化に対応していくことができなかった
  • ネットワークコミュニティは距離の問題を超越したけれど、参加するのに理由がいるから、 その理由が無くなればコミュニティを維持する理由がなくなってしまう

WEB 2.0 という言葉がささやかれるようになって久しいけれど、 誰もが自由に参加できて、毎日のように変化するのが前提の成長するコミュニティというこの 概念は、「失われた故郷」問題に対するひとつの回答になるかもしれない。

3つの社会を行き来する子供

毎日、原野の中に出現した「若者の町」を出発した小学生は、けっこう長い道を歩いて 「年寄りの町」の中心にある小学校へと登校している。

街の合併を繰り返して、地方は「老人の町」と「若者の町」の区別がよりはっきりとしつつある。

2つの世代の大人の街を結びつける子供達。

世代の対立というものは、そのままそれぞれの世代が提案する「理想のコミュニティ」の プランの対立でもある。

休日には家族で遠いところへ出かける一方、情操教育の一環とやらで リタイアした高齢者が「昔ながらの遊びかた」を教える図なんていうのは、 子供を真中にはさんだ世代間戦争の図式そのもので、とても面白い。

今の子供は、みんな携帯電話を持っていて、遠くの友達とのメールの交換なんか当たり前。

新旧の大人たちが提示するコミュニティのプラン、そして成長を続ける ネットワーク社会。

これら3つの社会を毎日行き来している今の子供達の「故郷」というのは、 どんな姿をしているのだろう?

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2006年6月22日

病棟業務の回しかた

できるだけ楽をしたいので、ほとんどメモを取らずに病棟を回してる。

そんな手抜きのやりかたの一例。

病棟業務の問題点

病棟の基本的な業務の流れ

  1. 朝病院に来たらナースルームで情報収集
  2. 患者さんの回診
  3. ナースルームに戻ってオーダー出し
  4. カルテを書きながら問題点を整理したり、治療方針を相談したり
  5. また患者さんを回診
  6. あとは2~4の繰り返し

ベッドサイドとナースルームを往復しながらのお仕事。

この間に外来をやったり、急患が入ったり、検査をしたり手術をしたり。

律速段階になっているのは、ベッドサイドとナースルームとの間の往復。

たかだか10mぐらいの距離だけど、この距離が問題。

情報をどうやって持ち運ぶのか

情報の運搬というのは、大きな問題だ。

  • カルテごと持っていくのは重すぎるし、その間は他の業務が止まる
  • 電子カルテは解決策になりうるけれど、入力が大変で、まだ実用には遠い
  • 折衷案として、みんなメモ帳を持ち歩いているけど、面倒だしミスが多い

3歩歩けば全部忘れる。

ナースルームを出て、だいたい20人ぐらいの患者さんを回診して、再びナースルームへ。

歩けば忘れる。忘れるからミスをする。

いちいちナースルームへ戻ってカルテを書くか、カルテを全部持ち歩けば、忘却によるミスは減る。

ところが、それをやると時間がかかりすぎて、仕事が終わらない。 病気は待ってくれないから、それはとても困る。

情報の安全性と可搬性とは、常にトレードオフの関係にある。

安全性を最大に振りすぎれば、たぶん病気は治らない。

可般性を最大にするというのは、要するにカルテを書くこと自体を放棄することだけれど、 これは上手くいっているうちはとても上手くいく。そのかわり、上手くいかなくなると、 何が悪いんだか全く分からなくなる。

基本的な頭の使いかた

病気の情報の主流と傍流

患者さんについて把握しておかないといけない情報というのは、大きく2種類ある。

  • 一つは病気自体の情報。ちゃんと治っているのか。熱や痛みはないのか。心機能の回復はどうか。そんなもの。
  • もう一つはもっと細かいこと。食事を柔らかくしてほしいとか、下剤や眠剤がほしいとか、生き死にに関係ないもの。

病棟をトラブルなく回すために大切で、メモを取って覚えておかないといけないのは、後者の情報。 病気に関する重大なことというのは、メモを取らなくても大丈夫。

頭の中にフォルダを作る

病棟で患者さんをフォローするときには、患者さんの顔と、 その病名とを関連付けた「フォルダ」を作って、 診察したことや話したことは全部そこに放り込む。

フォルダの「ラベル」に相当するのは、患者さんの名前でなくて、病気の種類。

一般内科なら、「脳梗塞の誤嚥性肺炎」とか、「食道静脈瘤破裂の人」とか、 「原因不明の貧血と黄疸」とか、 患者さんの病名や、問題点をラベルにする。

循環器病棟みたいな専門科だと、「ラベル名」が狭心症とか心筋梗塞ばかりになってしまうから、 「カテ中に心停止して往生した患者」とか、 「LADにステント放り込もうとしたけど引っかかって行かなかった人」とか、 細かい経過でラベルをつける。

診察した時のことを全部「フォルダ」に放り込んだら、その後はさっさと忘れる。

患者さんの顔を見たときか、あるいは病名を書いてあるカルテを見たとき、 頭の奥からこのフォルダが引っ張り出されて、けっこう細かいことまで思い出せる。

患者さんは病名でラベルする

病名以外のラベルは役に立たない。

患者さんの名前なんか、覚えていてもしょうがない。

息子がやたら太ってるとか、 内縁の妻がいるとか。 そういうラベルも面白いんだけど、医療記憶の役には立たない。

フォルダの「ラベル」というのは、その人の病気の流れを思い出すきっかけになる言葉だ。

自分は人の名前を覚えるのが苦手で、また場所を覚えるのが苦手。

「○○号室の××さんが…」と言われても全く分からないけれど、 ベッドサイドに行ってその人の顔を見ると、「フォルダ名」を思い出す。

このフォルダ名をきっかけにして、必要な情報を自分の頭から引っ張り出す。

このとき、患者さんの顔と関連付けられたフォルダ名が「内縁の妻がいるおっさん」なんかだと、 病気に関連したことを思い出せない。

頭はいつも空にする

前の「フォルダ」の話と矛盾するようだけれど、 一人の診察が終わったら、意識して「頭を空にする」ように 心がけている。

意識の隅に20人分もの「フォルダ」の存在をおいておくと、目の前の患者さんとの会話に 集中できないし、常に頭がもやもやして気持ち悪い。

自分で「忘れた」つもりになっていても、「フォルダ名」と「患者さんの顔」の関連付けは、 意識のうんと奥のほうに必ず残っている。たまに忘れるけど、そこは自分を信じる。

頭の中の「ワーキングメモリー」の大きさというのは想像以上に小さくて、 「あれをやらなきゃ」という小さな記憶も、少し貯まると頭の働きを圧迫する。

一般に、仕事の能率が高い人は、たくさんのことを暗記して、
たくさんの仕事の優先順位を脳の中で統括していると考えられているけれど、 実際にはその逆だという。むしろ、仕事ができる人ほど頭の中は常に空っぽで、 余計な情報を溜めないからこそ創造的に働けるのだという。

記憶はできるだけ外部化する

患者さんの名前とか、部屋番号とかは覚える必要はない。

こうした記憶は外部に置ける。ベッドサイドには患者名が張ってあるし、 廊下に「自分の色」のテープを張っておけば、 患者さんの場所を覚える必要はなくなる。

同じ回診をするのでも、「○○号室の××さんに会いに行く」のと、 「なんとなく病棟をさまよって、そこに自分の患者さんがいたのを思い出す」のとでは、 頭の負荷が全く違う。

医者と患者。立場は違えど、頭の中は徘徊老人といい勝負。時々、回診を忘れたりする。

実際の業務の回しかた

ナースルームからベッドサイドまで

朝の回診前には、ナースルームに寄って、前日の患者さんの具合を把握する。

患者さんとの話題を作るためだ。

患者さんとの会話の中で、「私はあなたのことを把握しています」というメッセージを出せると、 信頼関係を構築するのがより簡単になる。

だから、朝のナースルームで情報を把握しておくと、そのあとの患者さんとの会話が弾む。

これは大切な行為なのだけれど、これを止めるだけで10分近く節約できるし、 メモをとったり、何かを覚えたりといった頭の負荷をゼロにできる。

ナースルームに立ち寄るのを止める代わりに、患者さんの情報は病室で得る。

  • 水枕が患者さんの頭に入っていれば、その人は熱を出している
  • 点滴が増えていれば、たぶん当直時間帯に何かおきている

こんな程度のことが分かるだけでも、朝の会話の「ネタ」は十分。 本当に「生きる、死ぬ」にかかわる情報は、 医者が黙っていても病棟ナースが突っ込んでくれるから、大丈夫。

部長級の医師は、離れたところから診察をするのが上手だ。

10mぐらい離れたところからワレンベルグ症候群 (延髄の脳梗塞)を診断したり(額の光りかたが左右で微妙に違うんだとか…)、 患者さんの腹の押さえかたで大動脈瘤を診断したり。ほとんど大道芸

これもまた、「朝のナースルーム」をパスするための工夫の果てなんじゃないかと思う。

ベッドサイドでの患者さんとの会話

患者さんの病名や問題点をメモにして持ち歩いているレジデントがいるけれど、 止めたほうがいいと思う。大変なだけだし、1日に10人も患者さんが入るところでは、 それでは通用しない。

慣れてくると、患者さんの顔を見るだけで、いろいろなことを思い出せる。 その代わり、名前を見ても何も浮かばないけれど。

大事なのは、その人の主訴とか、治療のテーマとかをはっきりと決めておくこと。

それをやっておかないと、「あなた誰でしたっけ?」になってしまう。 食欲不振とか、なんとなく元気がないから一応入院といった人は、 だからものすごく思い出しにくい。

そうした「記憶の取っ掛かり」がしっかりできた患者さんなら、あとは自分の潜在能力を信じて、 患者さんのことはすっかり忘れてしまっても何とかなる。

「御用聞き」の工夫

治療の流れにそった「主流の」お話は覚えられるので、その場で聞くだけ聞いてメモはとらない。

カルテを書くときにはまず必ず思い出せるから、自分を信じてそのときは忘れる。 治療にかかわることなら医者は専門家なので、忘れたところでいくらでも言い繕えるし。

メモを取るのは、もっと「傍流」の訴えのほうだ。

眠剤が欲しいとか、食事をあっさりしたものに変えて欲しいとか。

忘れてトラブルになるのは むしろこっちの方で、しかも病気の大きな流れから外れているから、 メモを取らないと絶対に忘れてしまう。今はここだけ palm を使ってる。

一人回ってメモを取ったら、それまでのことは全部忘れて、次の人のもとへ行く。

意識は常に空っぽにしておいたほうが、次の人との話に集中できる。 本当に大事なことはカルテを見たとき思い出せるから、そこは自分の脳を信じる。

ナースルームでのカルテ書き

ナースルームに帰ったら、なるべく速くカルテを書く。

頭の中の「記憶のフォルダ」は、患者さんの病名と顔写真から検索できるから、 カルテの病名を見ると、その人の記憶を引っ張り出せる。

病気は時間軸で進行するから、慣れてくれば病気の「流れ」みたいなものが自然に身につく。

カルテに書かれるのは、「ありのままの事実」でなくて、「思い出された物語」だ。

身についた「典型的なその病気の流れ」というものができていると、 極端な話その人の10日先のカルテだって書ける。

その流れの中に、 たった今ベッドサイドから持って来た「差分情報」を合計すると、カルテが書ける。

覚えるのを差分情報だけにできると、20人ぐらいまでならけっこう何とかなる。

一番問題なのは、ナースルームの中で静かな環境を作るのが難しいこと。

スタッフとの約束や会話。様々な病気の治療の相談。ナースからの伝言。 いろいろな情報が飛び交う中で、 いつ鳴るのか分からないPHSを握り締めながら仕事をするのはけっこう苦痛で、 何とかしたいのだけれど、いまだにどうにもできない。

カルテには未来の自分へのメッセージを書く

カルテを書くというのは、「病気の流れ」が想定どおりに進んでいるのかを 確認する作業でもある。

カルテには、病気の「本流」の話を主に記載するのだけれど、書いているうちに 「あれもやりたい」「これもやっておこう」といった「支流」の発想がどんどん出てくる。

この発想を記憶してはいけない。必ずメモにする。

温度板や検査、記載したカルテを見て、あれをやろうとか、 これもそのうち調べようと思ったら、思った瞬間に 「いつかこれをやる」とカルテに書いておく。

「本流」の記憶は再生可能だけれど、 「支流」の記憶というのは、そこを通り過ぎた瞬間に再生不能になってしまう。

「あとでやっておこう」と思ったことは、文字にして実体化しておかないと、 次に問題が大きくなるときまで絶対に思い出せない。

病棟でやる GTD メソッド

上記の元ネタになっているのは、GTD メソッドという方法論。

これは、頭の中をなるべく空っぽに保って、 より快適に仕事をするためのやりかた。最近また本が出た

基本的な方針は、以下の3つ。

  1. 頭の中の情報は全てリスト化して、なるべく速く外に吐き出す
  2. リストにした情報それぞれについて、「どう処理するのか」を決めるシステムを作る
  3. リストを空にするための、定期的なレビューの習慣を作る

発案者の人の本の中では、全ての情報をとりあえず放り込んでおく「In Box」、 ファイリングフォルダーを 43 個用意して、それぞれのフォルダーに未来の日程を割り当てる 「Tickler File」といった方法が提案されている。両方やったけど、あんまりうまくいかなかった。

それでも、「頭をなるべく空っぽに」という基本方針は、とても優れていると思うし、 最近はなるべくそうするように心がけている。

残念ながら、心がすっきりしたとか、生産性が飛躍的に上がったということは ないけれど、メモを取らなくてもそんなに致命的なミスはないし、 少なくともメモしない分、効率は上がる。

脳のメモリーを空けて、空いた時間を作ったあとにやることは一つ。

もっと多くの患者さんを診ることだ

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2006年6月20日

「みんな」と「あなた」の使い分け

戦いというのは、結局のところ戦力の大きな方が勝つのだけれど、 どれだけ大きな戦力を用意すれば勝てるのか、という問題には、 「ランチェスターの戦争法則」という解答案がある。

  • 剣のような原始的な武器を用いた接近戦では、戦力は兵士の数に比例する。
  • 味方側に航空機や大砲といった「飛び道具」がある場合は、戦力はお互いの数の二乗に比例する

敵味方とも槍や刀しか持っていないときは、戦いは接近戦となり、「一人が一人を倒す」戦いになる。

味方側に10倍もの兵士がいても、10人が一人の敵に殺到できるわけではないから、 敵の兵士の数と同じだけ、味方の犠牲者が出てしまう。犠牲になる兵士の数は変わらない。

ところが、飛び道具が使える戦いになると、話は違ってくる。

航空機や大砲といった武器は、 遠くから敵を狙い打てる。味方の数が10倍あれば、戦力差は100倍に達する。 犠牲になる味方はほとんどいなくなる。

戦争というのは効率よく敵を倒す方法を追求するものだから、 状況に応じて戦略を変えなくてはならない。

ランチェスターの法則を生かした戦いかたというのは、以下のようになる。

  • 自分達の立場が強くて、「飛び道具」が使えるときには、相手との距離をおいた戦いかたをする
  • 自分達の立場が弱いときは、なんとかして接近戦に持ち込んで、「一人が一人を倒す」戦いで、相手の戦意喪失を狙う

これは本物の戦争での話だけれど、いろいろな組織、 あるいは個人との交渉ごとは、けっこうこの法則が通用する。

相手を一般化するやりかた

たとえば、退院の交渉。

一応、立場の強いのは医者側だから、可能なかぎり距離をとったほうが、交渉が有利に進む。

交渉の席では、「○○さん」という呼びかたは止めて、「○○病の方は、一般に…」という しゃべりかたをしたほうが嫌なことを切り出しやすいし、また相手方からの反論が少なくなる。

こんなとき、「他の人はいいですから、うちの事情を考えて下さい」と切り返されると、 実は反論できなかったりする。

相手を「個人」にして一騎打ちを挑むとき

たとえば、公務員の人達との交渉。

社会保障のサービスの申請の場面などでは、もう圧倒的に相手の立場のほうが上。

こんなときに「一般的には、こうなっています」なんて言われたら反論できないし、 また「医学的には、このケースにはこの保護が妥当と考えます」なんて飛び道具を出したところで、 効果は薄い。

「みんな」には、「みんな」で切り返される。

「皆さん、こうですから…」と言われたら、二の句が継げない。

有効なのは、「みんな」から「あなた」の戦いへ、個人同士の泥仕合へと引きずりこむこと。

  • 「みんなはいいですから、あなたならこの人のケースはどう考えますか?」
  • 「あなたの個人的な見解が聞きたいんです」

何とかして相手個人からの言質を取るように交渉を進めると、けっこううまくいく。

マスコミと医師との戦いかた

医者がマスコミから叩かれるようになって久しいけれど、 たいていの案件では、やはり医学的にみてどうにも理不尽な叩かれかた。

医師側は医学的な正当性を主張して、それでもマスコミにいいように叩かれて、 世論もまたそれを支持して。

報道という戦争の舞台では、医療者側とマスコミとでは、どう争ったって マスコミ側のほうが戦力が上で、飛び道具勢ぞろい。

マスコミ側の兵力は膨大で、医師を「医師一般」で一括りにして攻撃して、 医師側が反論する頃にはすでに別の話題で盛り上がる。もうやられっぱなし。

ランチェスターの戦争法則で、 「強者の戦いかた」として勧められている戦いかたというのは、以下の5つ。

  1. なるべく確率戦にもちこむ。
  2. 一騎討ちを避け、総合戦を展開する。
  3. 接近戦を避け、遠隔的戦闘にもちこむ。
  4. 圧倒的な兵力によって短期決戦を狙う
  5. 敵を分散させるための誘導作戦をとる

マスコミのやりかたというのは、実に理にかなっている。

こうした相手に医師が団結して立ち向かうのは、戦争のやりかたとしては、あんまり賢くない気がする。

たぶんもう少し効率的な戦いかたというのは、何とかして個人どうしの接近戦へと戦いのやりかたを変えること。

「個人としての医者」を強調するやりかたというのは、たとえばこんなもの。

  • 「医学的に見て正しかったのかどうか」を強調するのは止める
  • どんな案件であっても、その分野の「」級の医者がそこにいれば、その事態は乗り切れた可能性があったことは認める
  • その上で、「自分の実力であればどうだったのか」のシミュレーションを、個々の医師が表明する

マスコミの飛び道具が標的にするのは「医師一般」という概念。 医療者側がやらなきゃいけないのは、その概念の解体だと思う。

医師の案件を報道した記者には、なんとしてでも「その人個人の見解」というものを表明してもらう。 「あなたならこうした場合、どうしましたか?」とか、「あなたが同じ病気にかかったとしたら、 どういう選択をしましたか?」とか。

医師の持つメディアなんて本当にちっぽけなものだけれど、たぶん何らかの抑止力にはなる。

みのもんたとか、堺正明みたいな人達は、生物学的には「個人」なのに、 「視聴者の一般意志」を代表する概念存在でもある怪物だから、 そんな人達相手に正論で挑んだところで、勝ち目はないと思う。

「見ろ。記者がまるでゴミのようだ!!」
僻地は滅びぬ、何度でもよみがえるさ、僻地医療の充実こそ人類の夢だからだ!!

こんなふうにムスカさんよろしく言い放ってみたいものだけれど、 実際にはうちの病院の最年少が11年目の自分。後ろはもう誰もいない。

そのうち眼科の先生とかがこの地域を見限って、自分もまた「目が、目がぁ!!」なんて 泣きながらこの地を後にしたりしたら、相当恥ずかしい。

医師もまた個人としての自分を出して、できることなら個人としての患者さんの集団を味方に つけて、その上でマスコミ一人一人との接近戦に持ち込む。

今までやられっぱなしだったから、こんなことでもすれば、少しは戦果が上がるんじゃないだろうか?

コメント欄で紹介していただいた「伊江島土地闘争での米軍への陳情規定」は、非常に興味深い。

  • アメリカ軍と話しをするときは、なるべく大勢の中で何も手に持たないで座って話すこと。
  • 耳よりも上に手を挙げないこと。
  • 決して短気をおこしたり、相手の悪口は言わないこと。
  • うそ、いつわりのことを言わないこと。
  • 愛情をもって道理をつくし、幼な子を教え導いてゆく態度で話し合うこと。
  • 人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍事に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。

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2006年6月19日

エンジニアは戦争が好き

昔話3題。

厨房の頃、北海道の大学の工学部の人達とサバイバルゲームをする機会があった。

相手はもう強いなんてもんじゃなく、自分達は撃たれまくって穴だらけ。 腕前のほうでも勝負にならなかったけど、なによりも武器の性能が違いすぎ。

  • 「北海道の平和は、僕達が守ってるんだよ」
  • 「自衛隊が頼れないから、ソビエト連邦が来たらみんなで戦うために鍛えているんだ」

冗談に聞こえなかった。

もっと前の話。

「これからはバイオの時代だ」と、どの大学でも生物系の学部を新設する機運が高まっていた頃、 父親の大学でもそんな話が出たらしい。

「本学でも、生物系の学科を新設するべきだと思う」と教授会で動議が出たとき、 反対意見が多数だったという。

  • 「生物学なんて、戦争の役に立たない」
  • 「本学の工学は、次の戦争で日本がアメリカに勝つための工学ではないのか?」

いろいろ揉めたあげく、「細菌兵器は、立派に戦争の役に立つ」と誰かが言い出し、 話がまとまったのだそうだ。

もっともっと前の話。

子供に「親父の仕事場」を見せるのが流行していた頃、連れて行ってもらったのが 大学隣接の共通実験室。

すごい機械がたくさん並んでいたけれど、「どうすごいのか」なんて、小学生に説明するのは無理。

そのときの、工場長みたいな人の説明が、やっぱり戦争がらみ。

  • 「この大学の設備があれば、自衛隊が使う兵器のほとんどは学内で内製できるんだよ」
  • 「ライフルやカノン砲ぐらい、すぐにだって作れるんだ」

当時はまだ「突っ込む」ということを知らなかったから、おじさんの言葉に素直に感激していた。

戦いの好きな人と勝つのが好きな人

エンジニアの人達は、戦いの話が大好きだ。

医療の現場でも、戦争のアナロジーはけっこう使うけれど、 「戦いかた」はずいぶん異なる。

エンジニアのアナロジーが武士道精神ならば、医者のアナロジーは虐殺の方法論だ。

戦うのが好きなのと、勝負に勝つのが好きなのとは意味あいが違う。

戦うのが好きな人は、たとえ勝てそうでもつまらない試合はしないし、 勝つのが好きな人は、面白そうでも負ける試合はしない。

日本人の戦いの美学である「武士道」。

本当に戦っていた中世武士の「武士道」と、明治以後の武士の精神として引用される「武士道」とでは、意味が違う。

昔の武士道というのは、戦いに勝つための方法であり、生き延びる知恵の集積みたいな ものだったらしい。裏切りとか、奇襲といった行為は当時は当たり前のことで、 悪いことでもなんでもなかった。

「高潔な精神を持った武士」という武士道のイメージは、明治時代に作られたもので、 ヨーロッパの騎士道を参考にして創作されたものらしい。

  • 戦場では卑怯なことをしてはいけない
  • 勝負は時の運、正々堂々と戦って敗れたとしたらそれはそれでしかなたがない
  • 主君を裏切ったり、敵から逃げるのは武士の恥

こういった「戦場のフェアプレー精神」みたいなものは、戦うこと自体が好きな人の発想だ。

「主君のために、日本のために喜んで死にましょう」
「負けても裏切らないで、潔くその場で死のうね」

こうした「武士道精神」は、 実際に戦わされる側、「勝つこと」が仕事の側には、迷惑極まりない。

戦場でのフェアプレーはむしろ悪徳

戦場のフェアプレー精神というのは、実際に戦いには参加しない人達の発想だ。

戦いを好む人達は、兵士にフェアに戦うことを要求する。 常に勝つことを要求される現場の下士官は、まず「ズル」をすることを考える。

奇襲をする。相手の一番弱いところから攻める。 絶対に負かせる相手から確実に潰す。きれいも汚いも関係ない。勝てればいい。

現場の医者が EBM 論者に対して持つ違和感というのは、 彼らの要求する「戦いかた」というものが、 病気に対してあまりにも「フェア」だからだ。

戦争の中にある人は、「戦うこと」それ自体のことは考えない。 現場が欲しいのは、勝つ手段、あるいは生き延びる術。

それは外から見ると「フェア」でないし、卑怯な戦いかただから、面白くない。

フェアな戦いかたなんか、現場は求めていない。それを求めるのは、戦争に関係ない人だけだ。

選択肢のない不幸

  • 「放送」と「通信」
  • 「暴力」と「法律」

情報とか、正義とか、生きていくのに必要な他の要素については、必ず何らかの代替案がある。

NHKが嫌いなら、テレビを捨ててマイクロソフトやgoole を応援すればいいし、 警察が嫌いなら、暴力団に私財を投じればいい。

残念ながら医療はそうはいかない。

病気になった人には、「西洋医学にかかる」以外の選択肢は与えられない。

病院を代えたところで、西洋医学の基本思想は変わらない。

東洋医学などの代替医療はたしかに存在するけれど、 とてもじゃないけど西洋医学を補完するだけの力はない。

武器をとって戦いに参加するには、何らかの選択をしなくてはならない。

ところが、病気になった人というのは、本来は戦いの当事者なのに、 自分が受ける医療については何の選択もできない。

病気になった人は、医療全体に対して「信託」を与えることしかできない。

戦いそのものには参加できるのは医療従事者だけだから、 あとはみんな外の人だ。 「中の人」の戦いかたと、「外の人」が見た戦いかたというのは、もう絶対に分かりあえない。

生き延びる術を求める小数の医療従事者と、それを卑怯な逃げと見る多数の「戦いの外の人」。 西洋医学が医療を独占してしまった昨今、 病気の当事者たる患者さんもまた、「戦いの外の人」になってしまった。

医療は結果が全てなのは確かなのだけれど、最近はちょっと厳しい。

事実上の独占状態であるこの業界は、医師に対して おびただしい特権をもたらしてきたけれど、最近はその弊害も目立ってきた。

大相撲。

武士道が生き延びるための方法論であった時代には、 横綱同士の頂上決定戦は縁起が悪いとされ、 行われなかったという。

勝つための戦いを行わざるを得なかった時代の武士達は、 対立の構図を崩す不幸、最強を決定する不幸というものを知っていたのではないかと思う。

「参加できる戦い」を作るもの

参加できる戦争を作る条件は2つ。

  • 対立する2つ以上の集団が存在すること
  • 参加者が、それぞれどの集団に所属するのかをはっきり意思表示すること

どの業界にも、こうした対立の構図というものはつきもので、誰がどの流派に属しているのかもまた 明示的に示される。

何かを得ようとする人は、どのグループに参加するのかを 選択して、自らも戦いに参加する。

みんなが戦いの一員となって考えるから、責任は分担されるし、みんな一緒になって考える。 みんな「中の人」だから、戦いの方法論についてもまた一緒。「2つの武士道」の衝突はおこらない。

西洋医学にも、こうした対立する集団というものが存在する。

たとえば麻酔。ごく大雑把に「関西流」の麻酔の方法論と、 「関東流」の麻酔の方法論というのがあって、麻酔の導入方法や、管理のしかたが微妙に異なる。

心カテや、外科手術といったものにも、こうした伝統的な流派の違いというのはけっこう残っていて、 同じ技術を用いる手技であっても、それを現場にどう応用していくのか、 その運営方針については各流派で微妙に違う。

医療の現場にも、まだまだこうした流派の違いというものが残っている一方、 それが公に語られることというのは、案外少ない。

病気の治療方針を説明する際、治療の選択肢を示す以外に、自分がどういった 思想の流れをくんでいる 医者で、自分のと異なる流派の医師はどこにいて…というお話を一緒にすると、 あるいは患者さんに「戦いに参加した」感覚が生まれるかもしれない。

独占業界ならではの特権を失うのは絶対にいやだけれど、 バーチャルな戦争の世界に遊び、その成果物を持って実社会を左右する技術者という人達の やりかたというのは、自分達の立ち位置よりもより前に進んでいるように見える。

戦争に参加して、なお自分達の戦争を笑い飛ばせる健全さを残して病気と向き合ってもらうには、 「その意思の所属する流派を明らかにすること」というのは、結構有効なのではないかと思う。

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2006年6月11日

問題の大きさと未来予測の精度

入院した患者さんと話をするときには、必ずロードマップを示すようにしている。

「今の症状はあと何日したら軽減します」とか、「この症状はすぐに無くなると思いますが、 この症状を無くすにはだいたい2ヶ月前後かかります」とか。

慣れている人間の強みというのは、鳥瞰的な視点を持てることだ。

相手は素人。地面からの視点。 地虫の視点からは「鳥」は想定外だから、 違った視点からの見かたを提示されると、誰でも驚く。

驚きは信頼を生み、 その後の人間関係が作りやすくなる。

初対面の患者さん。主治医は未来を口にする。実際は、いきあたりばったり。

未来予知は難しい

先を見越すのは難しい。

もちろん、病気はある程度類型化できるからこそ治療も可能だし、教科書も作れる。

入院時。だいたい3日先ぐらいまでの予定は立つけれど、そこから先は現物あわせ。

うまい経過でいけばいいけれど、そうでない人の予定表はどんどん変わる。 入院時の予言なんか、一瞬で反古になる。 気まずいけれど、予定表を書き換えなきゃ病気が治らない。

鳥の視点からものを見るのは難しい。

入院した時の「未来予知」というのは、典型的な経過を暗誦しているだけ。 医者が空を飛べるわけじゃない。状況が予定通りにいかないときは、 もう教科書なんか信用できない。頼りになるのは、自分も含めた誰かの過去の経験だけ。

先のことは分からないけれど、「そのときをどう乗り切るか」という問題ならば、 たいていは誰かが答えを知っている。みんな「地虫」でいることには慣れているから。

いろいろな人に相談して、毎日のように予定をあちこち修正しながら、 治療はだんだんとゴールへむかう。

かっこ悪いけど、しょうがない。

エレガントな解答の罠

合併症が重なって泥沼化したとき、「エレガントな解答」がひらめくことがある。

いくつかの症状を説明しうる、今まで気がつかなかった隠れた原因。 その原因さえ何とかできれば、一気にゴールが見えてくる。

この「隠れた原因」という奴は、たいていは間違って発見されて、ミスリードをさそう罠となる。

最近話題になった数学の問題(できるかぎりエレガントな解法を見つけて「うっかりミス」を減らすより引用)。

時計の長針と短針は、12時にちょうどピッタリと重なります。次にピッタリと重なるのは何時でしょう。

こうした問題の解答方針は、大きく2つ。

  • 連立方程式を使って力業で解く
  • 「12時間経つ(短針が1周する)うちに、ピッタリと重なるのは11回。全て等間隔で起こる。よって12/11時」と解答する

2番目の解答方法というのは、一度問題を離れて「全体」を想像して、 そこからまた問題に戻る。計算の工程は 増える代わりに、一つ一つの計算自体は簡単になるから、「エレガントな」解答に見える。

プログラミングにしろ数学の計算にしろ、複雑になればなるほど「うっかりミス」は生じやすい。 出来るだけミスの生じにくい、直感的でエレガントな解き方を見つけるべきなのである。

引用先のページではこう結論されていたけれど、医療のような先のあやふやな仕事では、 「エレガントさ」を求めるのはときに危険な気がする。

エレガントな回答というのは、それを示された時に「驚き」や「ため息」を誘う。 「驚く」というのは、頭にとって想定外であったということ。 「地虫」が「鳥」となって空を飛ぶこと。生理的でない発想だ。

計算の深さと大きさ

計算的大きさとは、定義された計算を完了するまでに要する計算の数のこと。
一方、計算的深さとは、相互依存する計算の「段数」のことだ。
計算的な深さと脳より引用

作者の文意を理解したなんて全然言えないけれど、上の文章はすごく面白い。

  • 単純に大きくて、計算の深さが浅いプログラムというのは分割して力業で解答することが可能。
  • 「深い」プログラムというのは相互依存する要素が大きくて、細かく分割して並列計算するのが困難。 前の段階の計算の答えが出ないと次に進めないから、スピードアップすることが難しい。

一つ計算的に深いプログラムの特徴がある。それは入力の微細な変動に対して出力が激しく変動する事だ。
たとえば圧縮アルゴリズムの例だと、テキストの前の方で一文字違っただけで、 出力のビットパターンが全体に渡って違ってくる可能性がある。
小さな入力の変動が出力の激しい変動に繋がり、 しかも人間にすら予測不能な変動を起こすというのは計算的に深いアルゴリズムの特徴である。

地虫の視点から鳥の視点へ、そして再び地虫の視点へ。

エレガントな解答方法というのは、一つ一つの計算プロセスがシンプルになる代わり、 計算の段数が増える。

人間の脳というのが「浅い」計算をしているのか、それとも「深い」計算が可能なように出来ているのかは まだまだ議論があるのだろうけれど、「エレガントな解答」をすぐに思いつける人が少ないということは、 人間そんなに「深い」問題を解くようには出来ていないような気がする。

群集知の成立条件

「みんなの意見」というのは、時として一人の天才の意見よりも正確な答えを出しうる。

この「群集知」のがうまく働くためには、いくつかの条件が設定されている。

  1. 意見が多様なこと
  2. メンバーが互いに独立していること
  3. 中心を持たないこと
  4. 正しい方法で意見を集約すること

このあたりの約束事を外してしまうと、群集は声の大きな人の意見に流されてしまったり、 誰かのミスリードに乗せられてしまったりしてうまくいかない。

この「群集知」を作動させるために必要な条件がもう一つ。「群集知」が扱う問題が深すぎないことだ。

誰にも善悪の判断がつかない問題が提出されると、群集はその判断力を容易に失ってしまう。

ある集団の成員ひとりひとりの正答率が平均して50%以上であるとき、 答えの平均が正解である確率は、集団の規模が大きくなるほど100%に近づいてゆく。 一方で、成員それぞれの正答率が50%を下回る場合、答えの平均が正解である確率は、 集団が大きくなればなるほどゼロに近づいてしまうという。

問題を解く「段数」が多くなると、出てくる解答のばらつきはそれだけ大きくなる。 正答率は下がり、「群集の知」が「群集の愚」へと変化する危険が高くなる。

臨床の現場で未来を予想しようとするとき、考えなくてはならないパラメーターの数は増え、 問題はそれだけ「深く」なってしまう。いろいろな人に意見を聞いて回るとき、 あれこれ聞こうとしないで、質問をなるべくシンプルにしたほうが、 必要とする答えにあたる可能性は高くなる。

深すぎる問題は、集団知の知脳障害を生じる。

人は、小さな問題であればかなり正しい判断を下すけれど、大局の判断力は頼りにならない。 深すぎる問題を集団で扱おうとすると、他の人の意見を真似する「従属性」、 意見の異なる人を排除しようとする「同質性」といった集団の悪いところばかりが顔を出すようになり、 集団の叡智が悪い方向へと暴走しはじめる。

大きな志を持つのはいいことなのだろうか?

何かをみんなで作るときにはコツがある。

動機は不純なほど、目標は具体的なほどいい成果が得られ、いいものができる。

動機は不純なほうがいい。「医学の進歩に貢献したい」とか、 「すばらしいお医者さんになりたい」とかはダメ。 むしろ、「女の子にもてたい」とか、「病棟の同級生を見下してやりたい」とか、 ドロドロした汚い動機のほうが うまくいくし、失敗した時のダメージも少ない。

大きな志を持ったり、「10年の計」でものを考えることというのは、危険なことだ。

たとえば「医学の進歩に貢献する」動機を実現させるために必要な工程数は、膨大なものだ。

工程が多いから、初期の変動があとあと大きな誤差になってのしかかる。なまじ高潔な理念だから、 これを曲げると自分が傷つく。

高い理念を掲げてしまうと、少しでもそこから外れると、 とたんに「不幸な奴」扱いされる。 つまづいたあとの人生が無意味になって、 そこから先に進めなくなってしまうから、最悪引きこもりになったりする。

いきあたりばったりのやりかたというのは、前までの工程が次に影響しない。 大きな成功もない代わりに、失敗が後を引かないから、なんとなく生産的な気がする。

黒幕はどこにいる?

最近のゆとり教育放棄なんかのニュースを見ていて思うのは、 「みんなけっこういきあたりばったりなんじゃないか?」 ということだ。

自分はガキの頃からの「ムー」の読者だったから、世界に対する基本的なスタンスは陰謀論。

全てを知っている黒幕がいて、世界はその人達の書いたシナリオどおりに動いているというのが 陰謀論者の世界モデルだけれど、最近までは厚生省とか、文部省といった人達は、 こうした「黒幕」を擁してるんじゃないかと信じてた。そのほうが、圧倒的に面白そうだったし。

「黒幕」は昔は本当にいただろうし、今もいるけれど力が弱くなったのかもしれない。

今の世の中は、中枢から末梢までみんなが行き当たりばったりに動いていて、 10年後にどうなるのかなんて誰も予想出来ないという世界モデルの方が、現実に近い気がする。

僻地医療の崩壊。産科小児科の減少。医師の厳罰化。

こうした流れというのは、「誰か黒幕の書いたシナリオ」という読みかたでも説明できるけれど、 「みんなが想像以上に適当に動いている」という読みかたでも何とかなってしまいそうな のが怖い。

情報カスケードによる破滅のシナリオ

誰かが適当に動いて、その動きを受けて、また別の誰かが適当に動いて。

情報不足の状態で、いろいろな人の判断が次から次へと積み重なる状態というのは、 複雑系でいう「カオス」の状態だから、長期間の予測を立てて動くのは不可能だ。

カオスの性質というのは、長期の予測は困難でも、 短期間の予測なら比較的正確に可能なところに 特徴がある。

みんな本能的に短期勝負を選ぶようになっている。

情報カスケードという現象がある。

誰もが不完全な情報しかもっていないのに、 短い時間で次々と判断を下していかなければならない状況では、 自分が持っている情報に価値を見出す代わりに、 周りの人の行動を真似することが合理的に思えるようになってくるという。

今の医療崩壊のシナリオが、本当に誰かの書いた「シナリオどおり」ならば、 別にかまわない。医師という仕事が滅んでも、きっと何らかの救済はあるのだろうし。 そうではなくて、 崩壊している現在が、医者をも含んだ「みんなの意思」なのだとしたら、 先には何もない。けっこう怖い。

自分の持っている情報を検分して、 自分の抱えている問題を他人に相談可能な程度に「浅く」再構成して、 いろいろな人の意見を聞いて、一番正しそうな方向へと足を進める。

面倒だけれど、今出来る最善手は、こんなあたりだろうか…。

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2006年6月10日

コメント欄について

先日の「不良外科医」様の書き込みについて

当blog は様々な立場の医師のblog の中ではかなり偏った意見を掲載しており、 またコメント欄を開放しています。

言い切り表現を多用すること、やたらと偉そうな、何もかも分かっていそうな 文体で文章を書くことというのも、議論を喚起し、多くのコメントをいただき、 自分の学習の糧としたいという思いからです。

曖昧な単語のイメージに踊らされすぎです。
言葉の定義も間違っています。
主観のみで考えるのもいいですが、
医師としての看板を背負ってネットで発信するのであれば、
せめて辞書くらい引きましょう。
(一部改変)

全くそのとおりなのですが、少しだけ弁明させて下さい。

「もっと勉強せよ」について

マスメディアとWeb メディアとの最大の違いは、 「発信者が読者の批判的な精神を信じているかどうか」 の一点です。

Web に文章を発信しはじめて数年。私は、自分の意見が額面どおりに受け取られないこと、 自分の意見がまた誰かの思考を刺激して、 誰かが自分よりももっと面白い物を書いてくれることを信じて、いろいろな文章を発信してきました。

従って、ネガティブなコメントそのものは大歓迎なのですが、以下のような コメントは困ってしまいます。

  • 「もっと勉強しろ」
  • 「辞書引けや」
  • 「医師の看板しょってこんなもの書くな」

同じ批判的意見でも、ここからは何も得られません。

weblog 時代の良さというのは、通信が双方向であることです。誰かが書いた文章には、 誰でもコメントをつけられたり、もっと過激なところでは自由に文章を編集できたりします。

忙しい仕事の中、何か思いついたこと、疑問に思ったことを 発信して、それに対してコメントをいただけたり、あるいは 解答をいだけたなら、発信者としてそれに勝る報酬はありません。

ところが、勉強しろ、辞書引け、というコメントは困ってしまいます。

勉強する暇がないから、あるいは辞書を引く余裕がないからこういう中途半端な 文章を発信して、「この言葉の定義、こうしたほうがいいんじゃね?」とか、 「この文章、俺が以前書いたこっちの方が圧倒的に面白いよ」とか、そういう意見を 待っているのが本意です。

「勉強する」というのは、大変です。

単に教科書を引けば納得できるなら、それは学習などではなく、単なる調べものです。 調べて、その領域のことを「調べた頭」で 実際に体験して、はじめて学習は完成します。ほとんどの人には、そんな時間ありません。 だから専門家が存在するのです。

中途半端な知識で適当なことを書いているのは、百も承知の上です。

だからこそ、「もっと勉強しろ」ではなく、「解答」、あるいは「対案」を 提示していただきたいのです。

「医師という看板」のもとに文章を書くことについて

「医師の看板」を決めているのは誰でしょうか?

私は、世間には様々な医師の意見があって、その平均値が「医師像」というものを 決めるのではないかと考えます。

Web 時代には、特定の誰かの意見を読んで、それだけで自分の見たもの全てにバイアスをかける 人なんかいません。そう信じています。

意見には、多様性が必要です。

文章を書くときに気をつけているのは、以下の2点です。

  • 「高所から誰かを教育する」などという偉そうな意思を持たないこと。 わざとそうした文体でミスリードを誘う真似はよくしますが
  • 「2ちゃんねる」や「m3」といったコミュニティで一つの意見が支配的であったときは、 それに反した内容を書くよう心がけること

「空気」の反対の極端な意見は、「あいつ、バカじゃね?」でも、「実は俺もちょっと反対」でも、 いろいろな意見を誘います。

反対意見が全体をミスリードしてしまう危険は、ネットの広大さが安全装置になっていると 信じています。

うちのページ、404 Blog Not Found様とか、 RinRin王国様といった、リンクを張ってくださる「大手」 に比べれば、圧倒的にアクセス少ないですし。

医師の看板背負ってこんな腐った文章書くな」というのも大切な意見なのですが、 こちらも書きたくて書いてるんだから、こういわれてもちょっと困ってしまいます。

不良外科医師様にお願いしたいこと

「不良外科医」様にやっていただきたいことは一つ。

もっと面白い内容を発信していただくことです。

正しくて、勉強になって、面白い文章を定期的に発信していけば、 必ずみんなそれを読みます。

もっと面白くして、もっと多くの読者を集めれば、うちみたいな弱小は吹っ飛んでしまいます。

様々な意見が支持を集め、また衰退して新しい人達が次々誕生するのがネットという 世界です。

是非、ご自身の意見をネットに発信して下さい。そして、うちなんかが恥ずかしくて何もかけなくなって しまうような、もっともっと面白いページを作ってください。

すばらしい文章を発信して、圧倒的な戦力差で、間違った意見を蹂躙すること。

これは、「書くな」と書いた「不良外科医」様に課せられた義務だと思いますし、一読者として 心から望んでいることでもあります。

よろしくお願いします。

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2006年6月 5日

医療はサービスか

その昔、私が行政に飛び込んだ時に行政事務文書の「医療サービス」という用語を見て、 上司に医療をサービスとするのは奇妙ではないか?と疑問を呈したことがある。
今で言うサービス産業と同等に医療を扱うのは奇妙ではないか?と聞いたのであるが、 上司の説明は厚生省も医療サービスという用語を使い、医療はサービスと考えるのは当然だというものだった。
敢えて誤解されるのを覚悟して単純に考えると、市場では売り手と買い手が存在し、 物を売る場合とサービスを売る場合がある。まさにサービス産業のそれが医療サービスだとすれば、 医療者は医療というサービスを消費者に売るわけである。
最近の医療概念について思うところより引用。

医療がサービス業でないとしたら、何なのだろうか。

サービスとは、一方が他方に対して提供する行為やパフォーマンスで、 本質的に無形で何の所有権ももたらさないものをいう。

どんな職業も、サービスからは自由ではいられない。

純粋にものを作る職業であっても、その商品の性能とか、ブランドに対する信頼といった、 「形の無い何か」に対する対価を受け取らざるを得ない。

ものを作る職業と、サービスを売る職業とは地続きのものだ。 全ての職業は、この2つの要素を様々な割合で含んでいる。医療という職業も、たぶん同じ。

サービスの2つの側面

純粋なサービス業というものは存在しない。

サービスが占める割合には差があっても、 どんな産業でも何かの「もの」を作って、これに対して対価を受け取っている。

対価を受け取るものの価値が全くないとき、それはもはや産業でなく、単なる犯罪。

詐欺師とゴロツキ。

何の価値も無いものから対価を受け取る「純粋なサービス業」の起源は、このどちらかに帰着できる。

  • 詐欺師は、何かに対してお金を使った時に得られる「満足感」から対価を得る
  • ゴロツキは、お金を払うことで得られる日常の継続という「安心感」から対価を得る

過去と未来と。

詐欺師は過去を賞賛する。この商品はすばらしい価値を持つ、 この商品を勝ったあなたはすばらしい方だという賞賛は、お金を受け取ったその瞬間に消えうせる。

ゴロツキは未来を保証する。お金を取る代わり、少なくとも翌日1日ぐらいはお金を払った人は ゴロツキの暴力からは無縁でいられる。

医療というゴロツキ型のサービス

医療という産業のサービス要素は、どちらかというとゴロツキ型のサービスだ。

医療従事者が作る「もの」というのは、医療従事者の汗や冷や汗、睡眠時間といったもの。 その品質に相当するのが、治癒率とか、安全率とか。

患者に「様」をつけるべきかどうかという議論が時々出るけれど、「様」論議は 詐欺師型のサービスに必要なものだ。

医療が本来求められるのは 未来の保証であって、過去に対する満足感ではない。

ゴロツキ型のサービスを成功させるには、とにかく契約者との約束を守ることにつきる。

ゴロツキが誰かを殴らない保証。保険や株式。国民年金や、税金といった国のサービス。

役所がいくら愛想がよくなったところで、未来に対する保証がなされない以上は 満足度は向上しないし、医療もまた同様。

無用なトラブルを避ける意味では ていねいな言葉遣いは基本だけれど、それは本質的な解決策にはなり得ない。

安心を保証するものは何か

IBM のthinkpad というノートパソコンは、そんなに性能がいいわけじゃないけれど 技術系の人に愛好される。自分も使ってる。なんとなく、かっこよさそうだったから。

信頼性はたしかに高いけれどベストというわけではないし、重量や、性能的な面では 他社のノートパソコンに比べて遅れをとっている。キーボードだけは本当にすばらしい けれど、これも好みの問題。

「IBMが何故技術者に好かれているのか?」という問題の答えの一つが、すべての部品の 分解マニュアルが整備されていることなのだという。

thinkpad は、その気になれば自分で修理できる。これが安心感につながっている。

医療というサービスで未来を保証することは難しい。

「売っているものの品質」に相当するのは安全率だけれど、これを向上させるためには 莫大なコストがかかるし、経験年次が上の医師でないと、安全性の向上を達成するのは 困難だ。

その一方で、医療産業のサービス部分、安心感を向上させることなら、 研修医にだって出来ることはある。

  • 今行われていること、今抱えている問題点、治療者側が考えていることをなるべく分かりやすく説明すること
  • 病気や治療の数日先、あるいは数ヶ月先のロードマップを示すこと
  • ロードマップが予告どおりになったときの次の手、あるいはそれがうまくいかなかったときの次の一手を示すこと

こんなことぐらいじゃ解決しないことはたくさんある。

産科救急なんていう問題はまさにこの類で、今はちょっと逆風吹きすぎ。 絶対に何らかの形でゆり戻しはくるだろうけれど、このままいくと映画「皇帝ペンギン」の世界 (種の保存のため、日本中の産婦さんが何百キロもの距離を旅して、 伝説の「子供が生める病院」へと集まってくる) が冗談でなくなってしまう。

それでも、対話を続ける以外に信頼関係を築く術は無く、 これを放棄した時点で信頼なんか無くなる。

信頼関係の空白を埋める

信頼がなくなったとき、未来を志向したサービスは継続する意味を失う。 サービスの受け手は対価を支払うことを止め、新たに 「失われた過去」を査定してくれるサービスを探しはじめる。

マスコミや法律家というのは、信頼関係の空白という商品に、「解釈」というサービスを加えて 対価を得る産業だ。

おこってしまったことがどんなにひどい物であるのか。 その被害を受けた人々はどれだけ悲惨なものであるのか。その過去の描写にこそ価値がある。

大事なのは過去だけ。 そこから先の未来は、あんまり関係ない。

彼らが嫌がる行動をしようと思ったら、彼らが面白くない状況を継続すること。 商品になる「信頼の空白」を出来るだけ作らないことだ。

医療者と家族とが淡々と対話を続けている状態は、マスコミにとってははなはだ面白くない、 手の出しようが無い状況。

何を聞いても意味ありげにニヤけるだけの医療者、「真実が知りたい」と泣く家族、 医者の悪事を暴く正義のマスコミ。

こんな「面白い構図」を描かれる前に、踏みとどまってとにかく話す。

マスコミは嫌いだけれど、住んでる土俵が違うから、いくら争おうとしても 勝負にならない。

一矢報いるには、彼らの居場所を無くすしかないと思う。。

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2006年6月 2日

あいまいさのもたらす豊かさ

病室の中に心電図モニター置かれるようになってから不自由になった。

どうしようもない病気で亡くなる人の病室。

昔は、家族の方が病室に集まって、本人が息を引き取るのをずっとみていた。

息が止まってから、実際に心臓が止まるまでの間には、けっこうな時間がある。

医者はみんな、ナースルームでモニターをみていて、 心停止が何分か続いたのを確認してから病室にいく。

死は「見送る」ものだった。

移動可能な心電図モニターが安くなって、 個室にもモニターが入るようになった。

心電図モニターは、生死の境界を可視化する。死は見送るものから、「待つ」ものへと 変貌した。

今は、息を引き取る患者さん自身を見る人なんか誰もいない。

みんな心電図モニターを食い入るように見つめて、波形がフラットになる瞬間をじっと待つ。 そのタイミングに遅れたら、全てが手遅れだ。

あいまいな時間の境界

生と死との境界というのは、昔はあえてぼかされていた。

大事なのは、その瞬間を待つのではなくて悼むこと。

「その瞬間に立ち会えないと不幸」という教義は、 間に合わないリスクが高いわりに、信者に利益を生まない。 だから、メジャー系の多くの宗教が回避してきた。

葬式仏教なんかでも、卒塔婆をあげれば後からでもOKという ルールがあったり、追善供養なんていうものがあったり。

いくらでも敗者復活がきくルールは、団体側にも 信者側にも利益をもたらす。

あいまいな時間の境界線というのは、それを待つことを 無意味化してくれる。だからみんな救われる。

境界の中の「私たち」

あいまいな境界とは対象的に、はっきりとした 時間の境界線には、「次の機会」が存在しない。

「その瞬間」を逃さないためには、待たなくてはならない。 送ることに比べて、待つというかかわりかたには 強制力と罰則とが生じる。誰もが罰は受けたくないから、 みんなそれに参加する。

終末思想とか、ハルマゲドンといった「待つ」ルールを 採用した宗教は、伝統的な「送る」宗教に比べて より積極的な参加を要求する。

はっきりとした時間の境界が作った集団は、 世間との間にもまたはっきりした境界を作る。

「境界の中の私達」と、外の人。病院の中なのに、病院スタッフは 「外の人間」と定義される。

だからトラブる。

境界を引きたがる人

「待つ」人。罰する対象を求める人。まじめな人。正義の好きな人。

はっきりとした境界を引きたがる人というのは、 何がしたいんだろう。

  • 正義の境界を外れたから、誰かに罰してもらおう
  • 大事な瞬間に間に合わなかったから、そいつは傷ついて当然

境界というのは、思考停止の道具だ。

境界を守ることにとらわれてしまうと、 手段と目的とが入れ替わる。

境界を守ることで何をしたいのか。そもそも何故それを守らなくては ならないのかは、そのうち議論の対象にならなくなってしまう。

ごめんで済んだら警察はいらない

かつて地中海地方にあった、「海賊の作った自由の国」には警察があったのだろうか?

  1. 嘘つきと正直者とが戦うと、勝つのは必ず嘘つきのほう。
  2. 正直者は常に負けるから、だんだんと理不尽な思いがつのる。
  3. 正直者の多い社会を作ろうと思ったら、その理不尽さを「何かのせい」にする対象と、 正義の執行者が欠かせない。

「ごめん」で済んだら、警察はいらない。正直者と嘘つきとが共存する社会では、 嘘つきがすぐに「ごめん」と言うから、その言葉の価値が信じられなくなる。

正直者は固まって、警察を作る。 正直者の境界をはみ出した奴は、基本的には全部敵。争いは絶えない。

事態を解決するのは簡単。みんなが嘘つきになればいい。

嘘つきは嘘をつくから、常にに裏切られることを想定している。

みんなが裏切りを想定しているならば、正義の裁定者としての警察なんか必要ない。

境界なんて本当はなくて、あるのはきっと、「みんなの総意」みたいなものからの隔たりだけ。

その隔たりの力がいいものなのか、悪いものなのかは、状況に応じて確率論的に決定される。

最適解は、「みんなの総意」の真ん中あたりを維持しながら、自分の利益を出しつづけること。 そのやりかたというのは要するに、みんな少しだけずるをしながら、 対話と裏切りとを繰り返しながら生きていくことに他ならないわけで。

そういった混沌とした社会の持つ豊かさの総和というのは、「正直者の楽園」みたいな警察国家のそれよりは、 きっと大きくなると思う。

生死の境界。善悪の境界。職種ごと。病棟ごと。

病院がハイテク化して組織がだんだん大きくなって、いつのまにかどこに行くにも境界だらけ。

今いるところは小さな施設だけれど、病院サイドの境界はまだまだ少なくて、 自由度は高い。

境界の無いあいまいで豊かな世界。

第一歩は、まずは個室から心電図モニターを追い出す交渉から…。

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2006年6月 1日

医療過誤に至る物語

船の中から船の動きを知るのは難しい。

動きというのは相対的なものだ。それを測定するには、 何か動かないものを見なければならない。外の景色とか。星の動きとか。

自分自身で自分のことを知るのは難しい。

自分が考え、行動していることは果たして正しいのか。行動方針を決めて、それを観察しているのは自分自身。判断の基準になる「絶対正しいもの」なんか、自分の中には存在しない。だから難しい。

過誤というのは、おきる時までは自覚されない。思い込みを、その人の力だけで覆すのは不可能に近い。

いやな予感は当てになる

  • 治療を開始したけれど、なんだかすっきりしない
  • 方針は正しいけれど、このケースは完全には症状がとれない
  • 退院前だから検査は止めておこう
  • 患者さんの全ての症状は同じ原因で説明可能だ
  • 今日は「呪われてる」先生の当直日。うちの患者大丈夫かな…

病棟で感じるいやな予感は、大抵当たる。

予感があると、病気は悪い流れに入る。

病気が治るのかどうかとはべつに、病気には「いい流れ」と「悪い流れ」の2種類の経過がある。

いい流れとは、予定調和の物語。

経過や症状から原因を推定して、検査所見はそれを裏付け、必要な治療を施せて、後は治ったり治らなかったり。

よしんば治らないような病気であっても、医学的には現時点で「正しい」ことができている。

意識と感覚とが協調している状態。心に葛藤は生じない。

残念ながら、悪い流れもまた予定調和だ。ただし、水面下では「感覚」と「意識」との せめぎあいがおきている。

  1. 初期の判断に間違った思い込みが混じっていたり、入院時の派手な検査所見に判断を引っ張られたり。すっきりしないけれど、意識は間違えを認めない。
  2. なまじ考えて行動しているから、患者さんの症状は部分的にはよくなってしまう。
  3. 誰かの助けがあれば間違いに気がつくけれど、判断をする主治医の意識には、「助けが欲しい」という自覚が無い。完全に治らない理由は「これは○○だから」とすぐ説明が入り、自分の間違いに思い至らない。
  4. 感覚は「検査したい」という欲求を訴えるけれど、間違いを認めたくない意識はそれを止める。退院が近いからとか、医療コストが…とか。
  5. うまくいっていれば絶対しない「検査結果の見直し」をしても、意識には間違が見つけられない。なおさらドツボにはまる。
  6. 「呪われた先生」はベテランに多い。何かの葛藤を抱えている主治医は、ここぞとばかりに速く帰るから、そんな日に限って自分の患者が急変する。

「ああ、やっぱり」と納得できるものから、「呪われた医師の当直日」みたいなオカルトじみたものまで。 予感にはいろいろなものがあるけれど、それを感じる理由は同じ。

オカルトなんかではない。意識が知覚していなくても、感覚が「悪い流れ」を感じているから 警告を出す。これが縁起が悪いとか、いやな予感がするという現象。

物語は同じパターンをとる

物語世界では、主人公を取り巻く状況や、 その行動には一定の規則が存在する。

たとえば、桃太郎と金太郎とは置換可能だ。

  • 両方とも田舎の村の不遇な家の出身。
  • 生まれたときから非凡。
  • 何らかの試練を乗り越えて、悪を倒す。
  • 最後は民衆、あるいはその時代の殿様からほめられる。

桃と金とは置換可能。鬼が島から帰った金太郎が足柄山 に凱旋したって意味は通るし、幼少の桃太郎が悪い熊を投げ飛ばしたって、鬼が島には問題なく行ける。

それぞれの要素が、どのような人物によって、 あるいはどんな方法によって実現されるのかは、問題ではない。

大切なのは、その要素を実行するのが誰かではなくて、動作する順番のほう。 物語では、それぞれの要素が出現する順序というのは、決まっている。

出来事が起きる順序は偶発的ではない。

扉をこわす前に強盗に押し入ることはできない。 鬼が島から帰った桃は、もう団子で動物を釣るような真似をしてはいけないし、一度立身出世した金は、熊を投げ飛ばしちゃいけない。これをやると、物語の構造が崩れてしまう。

順番は、物語のジャンルごとに定まっている。 魔法物語とミステリーとでは順番が違うけれど、それぞれのジャンル内では、だいたい同じ。

過誤の物語の構造

入院してから悪い転帰に至るまでの 行為というのも、いくつかの要素に分けられる。

  1. (間違った)原因の発見
  2. それを部分的に裏付ける検査所見
  3. 部分的に解消する症状
  4. 早期退院などの何らかの圧力
  5. 他人に相談しずらい状況
  6. 患者の不安の訴え、家族からのプレッシャー
  7. 入院からの経過の見直しと、間違った納得
  8. 「つく」、あるいは「呪われた」当直医
  9. おせっかいな誰かの指摘
  10. 間違いの気づき、あるいは悪い転帰

過誤物語の構成要素は、たぶん本当はもっとあるけれど、 とりあえず思いついたものだけ。

これらの構成要素が、 1から10まで全部そろうことは少ない。

  • 1から3は順番にくる。検査が全く外れていたり、症状が悪くなったりしたら、過誤物語はそれ以上に進まない。
  • 4~6は、順番はばらばら。ただし、どれも入院中に無言のプレッシャーとなって主治医を罠にはめる。
  • 8~10の「悪い予感」は、やはり順番に訪れる。プレッシャーに焦ってカルテを見直して、「やっぱり間違いない」と納得した頃に患者が悪化、誰かが助けてくれて…という経過をたどる。

予感で事故を回避する

過誤がおきるためには、その前に必ず「過誤の物語」の経過をたどる必要がある。

全ての過誤が同じ機能経過をたどるなら、それを予期することができる。

いやな予感とか、縁起が悪い行いといったものにはたぶん それなりの理由があって、過誤がおきる前にあった「予兆」みたいなものを収拾すると、 けっこう面白いかもしれない。

ジンクス。因縁。縁起や予感。物語の文脈から考えると、昔からの言い伝えと言うのは 真実を含んでいて、幸運のお守りとか、護符といったものもまた、現代社会でも 効果のあるものを作れると信じてる。

たとえば、このあいだ入ったラーメン屋。

きれいな店内。愛想のいい店員。清潔な厨房。材料一つ一つ、 水の一滴に至るまでの、店主のこだわりをつづったポスター。

今思えば、全ては「まずい料理の物語」の前兆だった。

そのときは期待高まりまくり。

出てきたのは血の味のするスープ。

たしかに、素材の味は生きてたよ。

でも、とんこつラーメン食べたい客は、生の骨髄飲みたいわけじゃないんだけどな…。

お守り代わりに、その日はクラビットと酒飲んで寝た。

今ところ無事。

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