2006年5月31日

隠す戦略と見せる戦略

大学の研究室には何台ものパソコンが並んでいて、なんだかみんな楽しそうだった。

小学生だった当時は、何をしているんだか全く理解できなかったけれど、 遊ばせてもらったゲームソフトの面白さだけは覚えてる。

ご本尊を見る不幸

昔は大学が遊び場だった。

子供に親の仕事場を見せるのが流行っていたらしい。工場に行く子供。会社に行く子供。 社会勉強の体験を感想文にして、クラスで自慢する。自分が連れて行ってもらったのは大学の研究室。

父は何だか「音の研究」をしているとか言っていたけれど、小学生にはどうすごいんだか理解不能。 それでは感想文が書けないので、「スーパーコンピューターを見せてあげよう」という話になった。

スーパーコンピューターと聞いて頭に浮かぶのは、なんといってもクレイ-1。 「世界一高価な椅子」などと言う異名を持つこの機械の形だけは、何故か知っていた。

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貿易黒字の解消政策の一環とやらで、日本中の大学にスパコンが導入された頃。

父の大学でも「クレイがほしい」と要望を出したのに、結局は米国の別の会社の奴が入っていたらしい。

「スーパーコンピューターを見せてもらった」なんて、絶対自慢できる体験だ。 大いに期待して父についていった先、「電算機室」という鍵のかかったドアの奥、 やたらとクーラーの効いた部屋に鎮座していたそれは、 横倒しになった冷蔵庫が何台も並んでいるようにしか見えなかった。

実物を見てがっかり。見なければ、もう10年ぐらいは「スーパーコンピューター」に夢を持てたのに。

大学が隠されていた頃

大学というところは、隠された技能者集団だった。

父の大学の研究室の人が、マイクロマウスの大会に出場したことがある。

マイクロマウスというのは、小型の移動ロボットが迷路を走り抜ける速さと知能を競う競技。 日本で競技が始まったのは1980年から。もともとはアマチュアの人達の大会。

この研究室のマイクロマウスが出場したとき、圧勝してしまったそうだ。 自動車の草レースに、F1マシンが出場したようなことになったらしい。

「素人さんの大会に国家予算をもらうエンジニアが出場するなんて、あってはいけないこと」

不機嫌だった父親が、こんなことを言っていた。

あれから30年あまり。技術は拡散して、大学の名を掲げたチームはいろいろな大会に 出場して、勝ったり負けたりしている。

民間は強くなった。昔は、大学が出ると勝負にならないのが分かりきっていたから、 大学の人達は隠れてた。

立場はいつのまにか逆転した。大学は民間からノウハウを学んで、 自分達のレベルを維持するのに必死。 できる人が腕だめしをする場は大学から民間へと移り、 大学に残る奴は「負け組み」認定されかねない。

隠された場所は公開された。

誰もが発信の手段を持っている昨今。大学の悪いところはたちまち公開され、いいところは ノイズの山に埋もれる。

ネットの噂話では、大学の話は悪いことばかり。 民間の話はいいことばかり。

絶対にそんなことはないのに。

隠す戦略と儀式の力

秘儀というのは、公開されるとその力を失ってしまう。

技術は進歩するけれど、それが拡散するのもまた速くなった。 大学の持っていた秘儀の力は薄らぎ、民間と大学との技術力の差も減った。

それでもまだまだ大学は面白い。

症例の多さ。圧倒的なマンパワー。 何よりも、「ここは大学だ」という技術者のプライド。

秘儀は2つの要素から作られる。実績と、儀式の力と。

大学病院は合理化した。

大名行列といわれた教授回診は簡素になったし、 権謀策術渦巻く象牙の塔のイメージも、もはや過去のものになった。

儀式は捨てられた。

  • 昔は、教授回診の日には、近隣の病院のスタッフは大学へかけつけたものだった。 今は学生と研修医だけ。
  • 大学院の卒業式。大きな式典が行われたのは過去の話。今は講堂の片隅で、 みんな私服でちょっと集まるだけ。

面倒な手続きはなくなったけれど、それとともにみんなの大学への帰属意識もなくなった。

誰もが自分の大学を悪く言うようになった。他人の庭は青いとばかりに、民間の病院を賛美しはじめた。

中傷が支配する世界では、大学のマンパワーの多さは不利に働く。

悪口の量は、その施設を知っている人数に比例する。 1学年が50人近くいる大学研修医と、10人に満たない民間病院。 どちらが悪くいわれるのかは自明だ。

秘儀は失われ、 大学当局は沈黙を続け、事態はますます悪くなった。

隠す戦略から見せる戦略へ

解決策は、全てを「見せる」ことだと思う。

秘匿されることによって価値は増すけれど、 それは同時に憶測を呼び、中傷を生んでしまう。

全てをオープンにする戦略は、ものの価値をそのままさらけ出す。

見せる戦略が有効に機能する条件は2つ。

  • 情報を発信する人が、受け手の価値判断の能力を信じられること
  • 情報を発信する人が、自分達の価値を信じていること

今はまだ、事実上何の情報もない状態。 ネットを流れるのは、当りさわりのない公開情報と、匿名の中傷記事ばかり。

  • 大学の利点とは何なのか
  • 大学に入ったらどんな研修が待っていて、3年頑張ったら「どう」なれるのか
  • 大学にはどんな欠点があって、その改善策として当局は何を考えているのか
  • ネットで指摘される「大学の悪い点」に対して、大学当局はどう反論するのか

このあたりの話題を双方向的に公開している大学は、まだまだあんまり多くない。 欠けているのはお互いの信頼。それを作りだせるのは大学当局の力だけだと思う。

ネットの向こう側の学生を信用して「対話」に乗り出せば、状況は絶対に変わる。

見せる戦略の世界では、大学のマンパワーというのは有利に働く。 面白がっている「中の人」の数が多ければ、その面白さは絶対に伝わる。

求む男子。至難の旅。僅かな報酬。極寒。暗黒の長い日々。
絶えざる危険。生還の保証 なし。成功の暁には名誉と称賛を得る。
- アーネスト・シャックルトン

シャックルトンは、こんな広告を出して、当時のロンドン市民を熱狂に巻き込んだ。

南極探検の面白さを信じてたから。

必要なことは、信じること。 自身の価値をどこまで信じられるだろう?

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2006年5月27日

印象操作のやりかた

  • 相談して正解だった
  • 正しいことをいってるみたいだけれどよく分からない
  • 問題は解決しなかったけれど話せてよかった
  • 相談するんじゃなかった

会話の結果にはいくつかの結末があって、正しいことを言っても分かってもらえないことも多いし、 意味の無い会話だけで十分満足できるときもある。

会話の質には、情報と情緒の2つの要素がある。

基本は記憶の木

人の記憶というのは、木のような形をしている。

人の感覚に入ってくる情報の量は莫大で、意識はそのうちのほんの一部しか処理できない。

人の意識が同時に覚えられる要素は、大体7つ。 心理学の本などで、「マジカルナンバー7」などと呼ばれている。

  1. 多すぎる情報は処理できないから、似たような細かい情報が7つばかりたまると、意識はそれを 抽象化して、一つの塊としてあつかう
  2. そうした情報の塊がまた7つ集まると、また抽象化が行われる
  3. 抽象化の段階を繰り返して、木の「幹」にまで太くなった情報が、意識にのぼる
  4. 必要な情報を思い出すとき、意識は幹から木の枝をたどって、元の情報を思い出す

進化論にでてくる系統樹と、考えかたは同じ。

情報の「正しさ」を決めるもの

会話の情報要素の質を決めるのは、解答の正確さと、細かさだ。

情報というのは、何か抱えている問題があって、 その答えが自分の過去の経験の中に存在していないときに欲しくなる。

「記憶の木」を探っても、そこに必要とする情報が無かったとき、 人に生じるのが「接ぎ木」の欲求だ。情報の葉っぱだけをもらってもしょうがない。 葉っぱのついた枝として、自分の木の一部にしないと、情報は役にたたない。

ちょうどいい枝を探すのは難しい。欲しい葉っぱがついているのだけでは足りなくて、 「接ぎ木をするのにちょうどいい大きさ」でないと、自分の記憶の木を豊かにはできない。

接ぎ木したい情報が「細い枝」の大きさであったときに、 「その枝を含んだ丸太一本」をよこされてもあつかいに困る。

情報は、正しいだけでは片手落ち。ちょうどいい大きさ、あるいは細かさのものである必要がある。

会話の満足感を決める情緒要素

会話の質を決めるパラメーターには、情報要素と情緒要素の2つがあって、 どちらが欠けてもコミュニケーションは不満足なものになる。

mixi コミュニケーションを加速するために、情報共有を減速してるんじゃないだろうか。
だれかの既出の質問にだれかが答えて、答えた人の印象が良くなるという流れは、 第三者にとって得る物はほとんど無いけど、二者間にとっては意味がある。(中略)
そういうやり取りを支援するためと考えると、あのしょぼい検索が正解に思えてきた。 みんながみんな FAQ や過去ログや Google で問題を解決しちゃったら、 質問されるのは難しい質問ばっかりになっちゃって、答えて印象を稼ぐのは難しくなる。
(検索のやりにくいmixiは)「ありがとうございますぅー」っていうために、なんとか手の届く高さにある書類を、あえて先輩に取らせる新人の女の子みたいなものなんじゃないか。
先輩と後輩のコミュニケーションのために書類をちょっと高いところに置くようなシステム。 blog.8-p.info: Accelerate communicationより改変引用

外来での会話もそうだ。こちらが情報を提供ようと思っているときでも、 相手は情緒を求めているときがあって、そういうときにはいくら一生懸命しゃべっても、 満足感は上がらない。

情緒を求めるというのは、過去の記憶をなぞる行為だ。

情報は正しさで評価されるけれど、情緒要素の評価というのは、 お互いがバックグラウンドに共有している経験や反応のしかたそのものだ。

何らかの「お約束」が出題されて、それが履行できるかどうか、 想定した反応を、相手がしてくれるかどうかといったことが評価の対象になる。

  • 必要があって、知らなかった答えを返してもらうのが情報
  • 答えを想定していて、それを分かってくれるかどうかを問うのが情緒

自分が想定している「お約束」を分かっている人との会話は、安心できる。 たとえ問題の解決にならなくても、 「困ってるんですね。大変ですね」と傾聴してもらうだけで、一定の満足感が得られる。

先入観=抽象化された情緒

情報と同じく、情緒というものもまた、意識は多数をあつかえない。

相手はこの話題は分かってくれるとか、ここは外したとか、この言い回しは気に食わないとか、 情緒の数がある程度たまると、意識は抽象化を行う。

情報の原則と同じく、おそらくは情緒の数が7つを越えた頃、 情緒の抽象化、あるいは個人に対するレッテル張りが行われる。

  • よくしゃべる奴が「うぜえ」と思われたら、以後の話はもう聞いてもらえない
  • 寡黙なのに信用される人は、たぶん言語外の情緒メッセージを7つ以上出していた

その人が抽象化されたとき、あるいは「理解された」とき、 以降のその人の言動には一定のバイアスがかかる。 一度それがなされると、それを覆すのは難しい。

先入観を操作する

個人に対する先入観をより好ましい方向に持っていければ、その後のつきあいかたは 相当有利になる。

ところが、情報要素はある程度操作可能でも、情緒要素は無理だ。 情緒というのはフィードフォワード的な要素だから、予測が立たない。だから、 「うれしい驚き」なんてめったにおこらない。

幸い、情報と情緒の2つの要素は独立して定量することが難しい。

つきあいにくい人でも有用なことを教えてくれる人は多いし、 役に立たなくてもつきあって面白い人もいる。

情緒要素の不足を情報要素で補って、情緒が抽象化されるタイミングをコントロールしてやれば、 自分に対する印象を少しでもいい方向に持っていけるかもしれない。

情緒の評価というのは、1回の外来程度の短時間で行われる。この間に少しでも 肯定的な評価を引っ張り出す。

  • 少しでも正確な情報提供を心がける
  • たとえ話を多用して、相手が過去に認知している体験に訴える
  • 原疾患と関係ないこと、たとえば「あなたは先月腰が痛んでましたね」とか、 「最近は咳の頻度は減りましたか?」とか、カルテの片隅にメモしておいた瑣末なことを話題に出して 情緒の点数稼ぎを行う

ゲームは7点満点。

ゲームセットまでに、いくつの肯定評価をとれるかが勝負。4点以上なら「いい人」、 3点以下なら「いやな奴」。

だから、「○○さんは犬を飼ってる」とか、「××さんは去年の6月にハワイに行った」とか、そうした 病気と何の関係もないエピソードは、けっこう大事。 これを覚えているだけで、7点のうち1点はとれるから。

患者さんとの会話でも、よほどの大失敗をしなければ、 3点ぐらいまでは何とか肯定的な評価を引っ張り出すことはできる。

情緒の抽象化というのは、たぶん思考が停止した瞬間に行われる。

残りの4ポイントが悪い方向に行かないように気をつけながら、人格判断の要素が7つ程度 貯まって、何とか勝ち目が見えたタイミングで思考停止ワードを発する。

  • 「ここからは難しいですね…」
  • 「これ以上は医学じゃなくて政治の問題ですね…」

会話を終わらせて、同時に相手の思考も停止させる、そんな言葉。

ひとつの話題が終わった後の相手の反応を見れば、うまく行ったかどうかが分かる。

大切なことは、満点を狙う必要はないということ。

狙うのは、7点でなくて4点。このうち3点は、丁寧に話すとか、たとえ話を使うとか、 過去のちょっとしたことをメモしておくだけで、十分取れる。

会話の中では、1ポイント分の信頼を勝ち取ることに全力をあげる。

4ポイント全部取るのは不可能だし、高得点を狙って、相手に変な迎合を したり、事実を曲げる必要なんかない。

任意のタイミングで「いい人」になる技術は、外来でけっこう役に立つ。

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2006年5月25日

病名がつくる境界

誰かの陰口をいうときに、「あいつさぁ、なんか病名つくんじゃねえの…」という表現を使って、 周囲の黒い笑いを誘うのは効果的なやりかただ。

「病名が何なのか」は、こちらからは明示しない。

たぶんみんな、頭の中にある一番ひどい病名が浮かんでる。

病名をつけることで生まれる共犯者意識、病名をつけることで生まれる 「正常を外れた奴」というレッテルは、 対象に破滅的なダメージを与えてくれる。

病名は境界を内包している

病名をつけることというのは、「正常な私達」と「あなた」との間に境界を作る行為だ。

健康な状態と病気の状態というのは、本当は連続していて、 境界なんか存在しない。

どんなに健康な人でもどこかしらには悪いところはあるし、その逆もしかり。

でも、連続した概念は科学で扱うのは面倒だから、適当な大きさで境界を引いて、 病名という言葉で一塊としてあつかう。

一つの病名には、いろいろな原因が含まれている。

昔は病気は治らなかった。治る原因しかない人は病人じゃなかったし、 治らない原因を持っていた人は亡くなった。

病名という境界は、そのまま世界の境界だった。役に立ったし、矛盾が無かった。

医学は進んだ。病気を作っているいろいろな原因のうち、そのいくつかは解決可能になった。 病気という境界は実世界のほうに進入してきて、「一生治らない病気」が生まれた。

集団の中で仲間はずれを作るときに必要なのは、境界だ。

病名をつけられた人は、「向こう側」の人。完全に回復した人だけは「こちら側」に 戻ってこれたけど、そうでない人はもっとむこうにいって、見えなくなってしまった。

今は違う。病人の世界と健康人の世界とは、地続きで存在している。

病人の世界にもたくさんの人がいて、みんなこちら側に戻って来たがっている。 みんな十分に社会生活ができるのに、病名という境界が邪魔をして、 健康人の世界にはなかなか戻れない。

「あなたの病名は○○です」とか、「あなたの病気は、今こうなっています」といった表現は怖い。

自分も全く自覚なしに多用しているけれど、ありもしない境界を作る行為はしないほうがいい。

境界を戻るのは難しい

2つのりんごと3つのりんご。足したら5つ。

2+3=5。

りんごを足す前の状態と、足した後の状態。足し算が行われたことで、2と3という 情報は失われ、「5」という答えだけが残る。

2と3と言う数字から5を再現するのは簡単だ。 ところが逆は難しい。5を作るには、1と4とを足してもいいし、 7から2を引いたってかまわない。

」という境界をまたいだとき、情報は抽象化されて失われる。

病名は境界だから、一度ついてしまった病名を覆して、「健康人」に戻るのには相当な苦労がいる。

病名とは、いくつかの症状を足して、抽象化したものだ。

症状の原因のあるものは解決可能だし、あるものは解決不可能。 全ての原因が解決しなくても、社会復帰自体は十分に可能。

ところが、病名がついてしまった時点で、健康であったころの情報は抽象化され、 失われる。

病名がついた人は、原因の全てが解決しなければ、定義の上では「健康に」もどることはできない。

糖尿病や高血圧はいい薬がたくさんできてきて、大分コントロールがつくようになった。 みんな普通に社会生活を送っているのに、一度ついてしまった病名が外れることはまれだ。

あいまいな境界の持つ利点

あなたの病気は…とか、この病気は…という表現を使ってしまうと、 どうやったらその病気は治るのかとか、手術を受ければいいんですかとか、 話が「全か無か」的な方向にいってしまい、どうもうまくない。

健康な状態と、病気の状態というのは、本来が地続きのものだ。

そこに「病名」という変な境界が残っているから、話がややこしくなる。

「病気か、健康か」という2者択一を迫る会話のやりかたというのはお互い 好ましくない。何よりも、「完全に健康体に戻った」と言う保証が得られないと、 患者さんが退院してくれなくなったりする。

最近心がけているのが、「あなたの病名は…」というかわりに、 「あなたの症状の原因になっているのは…」という 表現を使って、その原因について話すことだ。

単なる言葉遊びにしかすぎないのだけれど、「病名」という言葉をあえて外して、 境界をあいまいにするように心がけることで、 「症状がだんだんよくなって、ある程度落ち着いたら外来へ」といった、 連続的な流れを表現できる気がする。

うまくいくとは限らない。病名をつけないと不満を訴える人も多い。 骨折みたいにそんな言葉遊びが無意味な病気も、また多い。

それでも、内科の慢性疾患の人なんかで、病名が山ほどついてしまう人などに こういう話の持っていきかたをすると、入院期間が1日ぐらいは短くなると思う。

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2006年5月24日

「理想の世界」の像

植物園の温室みたいな、木が茂る廊下を抜けて、光にあふれる道を歩いて。

その先の角を右に曲がると、自分が一番くつろげる世界があるということを何故か知っていて、 その角を曲がってみると…南4階病棟の入り口だった。

やべ、バイトすっぽかした!!」とその日が外勤日に当たっていたことを思い出して焦ったけれど、 考えてみれば今そのバイト先に勤めているんだ…ということを思い出したところで、夢から覚めた。

以前の病棟では、廊下を左に曲がると病棟だった。夢の中では、左右逆。

昔の勤務先がそんなに懐かしかったのか、それともその逆か。

夢の中なのに世界というものは小さくて、たかだか50床も無いような 病棟こそが、自分が志向する黄金郷だったというのはちょっと寂しかった。

小さな世界でやる仕事

医者という仕事は、とても小さなスケールの世界を相手にやる仕事だ。

人口10万人ぐらいの町に、総合病院2つ。内科医10人。

一人の医師の総受け持ち患者数が、大体600人ぐらい。入院している人は20人ぐらい。

ITベンチャーの人たちなどは、「世界を相手に仕事をする」という言葉を使うけれど、 医師一人が「自分が相手にする世界」と考えているのは、大体この20人と少しぐらいの大きさ。

大きな世界を相手にする仕事と、世間のごくごく一部に全力投球する仕事と。

高い視点からものをみるのと、地べたすれすれからものをみるのとでは、見えかたはずいぶん違う。

衛生写真の解像度をいくら上げても、見えるものは「上から見た詳しい写真」にしかすぎない。 ところが、実際地面におりたって見ると、世界のありようは全く異なる。 人や動物には全部名前がついていて、「関係」という、写真には絶対写らないものが大事になってくる。

  • 高い高度から見た地球というのは美しい
  • 高度を下げると、環境汚染の汚い部分がどんどん見えてくる
  • ところが、もっと高度を下げて着陸してみると、 地球全体のことは後回しになる。環境問題はとりあえず置いておいて、 今晩何を食べたらいいのかという問題のほうが重要になってきたりする

システムを外から見下ろす人と、システムの中にいる人とでは、しばしば議論が食い違う。

中の人の方が詳しいからか?
そうではない。
「中の人」と「外の人」とでは、そもそも見えている問題の姿が全く違うのだ。

病院の複雑な手続き

病院のオーダーシステムは最悪だ。

  1. 薬を出そうと思ったら、まずカルテに薬品名を書く
  2. さらに処方箋に同じことを記載する
  3. さらに看護婦さんに「○○さんに薬を処方しました」とお話をする
  4. そうしておいて、事務方が処方箋を会計処理して、その処方箋が薬局に回って、はじめて薬が病棟に上がる。
  5. その後薬を看護婦さんが確認して……。

一度処方を書いてから、実際にそれが患者さんの口に入るまで1時間以上。

大きな病院になるともっとかかる。

事故防止のために、何人もの人が関与している部分もあるのだけれど、 実際の効果はその逆。いろいろな人の伝言ゲームになってしまって、 医療過誤がおきる温床みたいになっている。

このままシステムに乗っかっていては、治る病気も治らないから、 どうしても急ぐときには回避手段がある。

処方箋を書く前に、病棟で誰かに聞く。

「誰か、○○持ってない?」

事故防止のために、病棟には処方された薬以外は無いことになっている。

ところが実際には、抗がん剤と麻薬以外の大抵の薬は、何故かナースルームのどこかに転がっている。

病院というところは、急ぐときには無いはずのものが何でもでてくる。そういうことになっている。

緊急手段は、時々自分で使ったりもする。

みんな忙しくて、病院なんかかかる暇無いから。

うまくいっている醜いシステム

ひどいシステムなのに、何故かそれなりにうまくいく。 そんな現場には、大抵の場合「バッドノウハウ」が大量にあって、 システムの悪いところを補間している。

医師はバッドノウハウを見つけるのが上手だ。

  • 煩雑な書類手続きの回避
  • 急を要する病気の治療
  • 中の悪い科の協力をどうやってとりつけるのか

「正しく」やってたんじゃ話にならないし、システム全体を変えるだけの 時間的な猶予も無い。だから「正しくない」方法を探す。基本的には 偏差値高めの人が多いから、問題があれば、それを回避する手段は必ず見つかる。

醜いシステムをバッドノウハウで効率よく運営するためには、 システムが変わらないことが大前提。システムが変えられてしまうと、 今まで作ったノウハウが全部無駄になるから。

世界を美しくする動機

組織やシステムを何とかしたいとおもって、いろいろな本を読んでいる。

本は汚しながら読む。蛍光色鉛筆を使って、線を引いたり書き込んだり。 面白いページは端を折っていくので、何度も読んだ本ほど無残な姿になる。

線を引く部分というのは、自分が思いもよらなかった視点とか、 「想定外」だったことが書いてあって、なおかつその意見に同意できる文章だ。

いつもボロボロになる本は、プログラマーやSEの人達の書いているものばかり。

現場で実際働いている人のものがいい。同じ技術系でも、ワインバーグとか、デマルコとか、 プロのコンサルタントの本になると、なぜかあまり線を引きたくならない。

現場の人の本というのは、半分近くがプログラムの話だから、 そっちは何の参考にもならなくて、コストパフォーマンスがとても悪い。

それでも、抱えている問題に対する意識とか、その解決に至るまでの 思考過程がとても新鮮で、いつも線を引きながら読んでしまう。

彼らの視点がなんで新鮮に思えるのか。たぶん、「世界を変える」という発想が、 自分の中には全く欠けているからなんだと思う。

プログラマーの人達は、自分達でプログラムを組む。 あまつさえ、そのプログラムを作るための言語も自作したりする。

作るものは抽象性の高い、美しいものなのに、実際の現場は泥臭い人間仕事だから、 「どうやって現場を美しく合理的に改変するか」の発想がたくさん出てくる。

医者の仕事というのは、「エラーの出た人体」というシステムにパッチを当てて、 何とか動くようにもっていく仕事だ。

なんとか治った人であっても、 今度は家族が誰も引き取らなかったり、退院後の生活の面倒までみてくれないと 退院しないとごねられたり。

人体だろうが、家族や社会というシステムだろうが、基本的には改変不可能。 だから、「変えよう」なんて発想は、なかなかでて来ない。

違った業界の人の意見は面白い。

自分にとっての理想の世界

自分にとって一番望ましい社会とは、昔の小さな村社会だ。

入院している20人とその日の外来30人ぐらい、病棟のスタッフ全部いれて、合計100人程度。

大昔の小さな村社会。矛盾だらけの因習に満ちていて、掟とか祟りとか、見えないけれど気を使う 風習がまかり通って、それに抗うと村八分を受けたり、陰湿ないじめを受けたりして、 みんながお互い疑心暗鬼になっている。そんな社会。

偉い人達に今一番やってほしいのは、時計の針を巻き戻すこと。

大体7年ぐらい前。 まだまだ大学病院が元気があって、 その一方で、民間の病院組織もそろそろと力をつけてきた頃に。

医療のシステムの欠陥はたくさんあったし、世間はもう十分に醜くなっていたけれど、 それでも今よりうまくいっていた。

何の合理性も無かった代わりに、それを強引にうまくやるノウハウだけは山のようにあったから。

システムを作りなおす不合理

いろいろなものが電子化した現在。

IT関係の人達の発想というものは斬新で、 何もかもが合理化の方向に向かっている。

医療のシステムは、度重なる改革で、グダグダになった。

医療は1回崩壊すべきとか、市場経済の原理を導入すべしとか。 医療者側からも、そんな声がけっこう聞こえる。

いいかげんなシステムというのは、本当に悪いものなのだろうか?

官僚主義的な、欠陥だらけのシステムをバッドノウハウで固めて、 それを現場で強引に動かすことこそは、医者の得意分野だ。

保険システムの不合理さをみんなで馬鹿にしながらも、 強引に動かしつづけてここまでやってきた。

十分に機能している醜いシステムというものは、それが今まで続いているというだけで、 悪いなり、醜いなりの価値というものを十分に持っている。

それを壊して、最初から作りなおそうという最近の「改革」は、 現在のところことごとく裏目にてでいる。

何もかもがうまくいきそうも無いように見える昨今。

考えうる全ての選択肢が絶望しか生まない場合、 最悪に見える選択が、最善手ともなりうる。

とりあえず前に戻して、何もかも全て先送りして放り投げる」。

思考を停止した上での先送りというのは最低のプランの一つだけれど、 今の医療現場に対して国がとれる、最善手の一つなんじゃないかと思う。

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2006年5月20日

癒しをもたらす思考の停止

DIYの店にドリルを買いに来る来る人が本当に欲しがっているのは、「ドリルそれ自体」 ではなくて、「ドリルのあける穴」だ。

  • 店員は、どんなドリルが欲しいのかを知りたい
  • 店に来る客は、なんでもいいから簡単に穴を開ける方法を教えて欲しい

店員と客の見ているものは、ほとんど同じだけれど微妙に違う。

議論をしたい人は、本当は思考をしたくて相談をするわけじゃない。

思考を停止したいからだ。

人工知能のフレーム問題

現実世界では、人工知能を動作させることは難しい。

何かの問題を解決するよう命じられた場合、人工知能は起こりうる出来事の中から、 その問題に関連することだけを振るい分けて、自分が考慮にいれる問題の枠(フレーム)を設定する。

ところが、世界でおきている出来事というのは無数にあるから、 このふるい分けの段階、フレーム設定の段階で、無限の時間がかかる。

結果として、人工知能はどんな問題をも解決することが出来なくなってしまう。

有名な例に、ロボットによる爆弾処理の例がある。

状況:洞窟の中に、ロボットを動かすバッテリーがあり、その上に時限爆弾が仕掛けられている。 ロボットは、「洞窟からバッテリーを取り出してくること」を指示された。

  • 人工知能ロボット1号機は、うまくプログラムされていたため、洞窟に入って無事にバッテリーを取り出すことができた。 しかし、1号機はバッテリーの上に爆弾が載っていることには気づいていたが、 バッテリーを運ぶと爆弾も一緒に運び出してしまうことに気づかなかったため、洞窟から出た後に爆弾が爆発してしまった。
  • そこで、目的を遂行するにあたって副次的に発生する事項も考慮する人工知能ロボット2号機を開発した。 しかし、このロボットは、2号機は、バッテリーの前で「このバッテリーを動かすと上にのった爆弾は爆発しないかどうか」 「バッテリーを動かす前に爆弾を移動させないといけないか」「爆弾を動かそうとすると、天井が落ちてきたりしないか」 「爆弾に近づくと壁の色が変わったりしないか」などなど、副次的に発生しうるあらゆる事項を考え始めてしまい、 無限に思考し続けているうちに爆弾が爆発してしまった。
  • そこで、目的を遂行するにあたって無関係な事項は考慮しないように改良した人工知能ロボット3号機を開発した。 しかし、このロボットは、洞窟に入る前に動作しなくなった。 3号機は、洞窟に入る前に、目的と無関係な事項を全て洗い出そうとして、無限に思考し続けてしまったのである。

面倒くさがる人間の脳

フレーム問題の解決策というのは、まだ「これ」といったものは分かっていない。

人間の脳は人工知能と違い、 フレームを決定できなくても無限思考に陥ることはない。

人間の脳は、全ての可能性を計算しない。適当なところで考えるのを止めて、結論を出してしまう。

その「適当なところ」を決定するものというのが、「感情」なのではないかと言われている。

感情の持つ機能を説明する仮説の一つに、 「ヒトは、普段の生活で行う考慮すべき選択肢を感情によって大幅に減らし、 限定された数の問題について合理的な判断を行っている」というものがある(ソマティックマーカー仮説)。

人間には「感情」という情報処理工程があって、「急ぎたい」とか、「めんどくせえ」とか、 「恐怖」とか「不安」とか「安心」といったいろいろな感情で情報にバイアスをかけることで、 半ば強引にフレーム問題を解決しているらしい。

情報処理とは「忘れること」

記憶を永遠に保持している人は、考えることができない。

ボルヘスの小説「記憶の人フネス」の主人公、フネスの記憶力は完璧すぎて、 たとえば三時十四分に横から見た犬と、三時十五分に前から見た犬とが同じ犬 であることが理解できない。

入ってくる膨大な情報を処理しようと、フネスは一生懸命考える。ところがその光景は、 外から見ると「思考停止」しているようにしか見えない。

情報を「処理する」というのは、「ものを忘れる」ことにほかならない。

何かを思考して、答えを見つけることというのは、外から入ってきた情報から 「いらないものを忘れ、思考を止める」 工程のことだ。

フレームの形と粗さ

思考のフレームというものは、砂山の中から必要な情報だけを残す、ふるいのような役割をしている。

話が噛み合わない、共感できない人というのは、お互いの持っているフレームの形が違う。

一見同じ情報を議論しているようでいても、お互いの頭の中では違う情報を「忘れている」から、 頭が処理している話題の形もまた、全く異なったものになってしまう。

相手の情報の欠落をいくら指摘したところで、その指摘もまたフレームにより除外されるから、 そもそも相手の意識に入って来ない。

お互いの議論を促すためには、同じ規格のふるいを持つこと、フレームを共有することが欠かせない。

膨大な実世界の情報をお互いに「上手に忘れて」、同じ結論が出た時点で「思考停止する」。

対話の先の理解と共感というのは、たぶんこういうことなんだと思う。

フレームの「目の粗さ」と問題のややこしさ

思考は、「思い込み」と「経験」によってふるい分けが行われ、 それをくぐりぬけた情報だけが議論に上る。

たとえば、「ある食品」が「健康食品店」に売られているならば、 「その食品は健康によいに違いない」といった判断が、思い込みによってつけられる。

そこの店でひどい目に会ったことがあるとか、その「ある食品」に関する悪い噂を聞いたことがあるとか、 そうした経験は、その判断を様々な程度に修飾する。

こうした思い込みと経験による判断は、ある問題について必ずしも正解が導けるとは限らないが、 ある程度正解に近いような解を得ることができる。

この判断を細かくしてから議論すると、「論理的な思考をしている」ように見える。 これを非常に大きなレベルでやると、「何も考えていない」ようにも見える。

判断の細かい人から見れば、粗い人は大雑把に見えるし、逆の立場から細かい人を見ると、 細かいことにこだわりすぎる人に見える。

違うのは、古いの目の細かさだけ。やってることは、基本的には同じ。

大事なのは、お互いの「目の粗さ」をあわせることだ。

問題というのは、「複雑さ」とややこしさ」の2つのパラメーターを持つ。

問題のややこしさというのは、お互いが見積もった「問題の複雑さの差分」で決まる。

みんなの中で、「ふるい」の目がもっとも細かい人と、もっとも粗い人とが、 それぞれに問題の複雑さを考える。

お互いの見積もりの差が大きいと、その問題は「ややこしい」。

みんなが持っている「ふるい」の目が一緒ならば、ややこしさは小さい。 どんなに複雑な問題も、こじれずに議論が進む。

みんなの見積もりがばらばらならば、どんなに簡単な問題でも、トラブルは避けられない。

同じ「場」に立つということ

フレームの形を決めている「場」というのは、頭から見た「こう見えるはず」という世界の風景だ。

鉄火場で冗談を言う奴は許されないし、飲み会の席でアルコールの害について議論を吹っかけられても白ける。

ギャグ漫画の場なら死んだ人もすぐ復活するし、推理小説ではそうは行かない。推理ものだと思っていた小説が、 最後になって「実はSFでした」をやられると、本当にがっかりする。

自分が「日常」という場に立って世界を見ているとき、相手が「犯罪捜査」という場に立っていたりすると、 同じ場所で会話をしていても、お互いが見ている世界は全然違う。

座を和ませるための軽口は、相手にとっては犯罪の証拠に見えているのかもしれない。

  • 自分と相手との情報収集の粗さは共通しているのか
  • 自分はどんな「場」に立ってものを見ているのか、あるいは、相手はどんな「場」からものをいっているのか

両方やると、お互いのフレームの形を合わせることができる。

相手がどんな「場」に立っているのか、あるいはどんな場に立ちたいのか。

これを察するのは基本的に無理だから、時として強引に場を作って、相手にそこに入ってもらう。

結婚もしていない人に「あなたは結婚したらどんな家庭を持ちたいと思いますか?」 と尋ねるのはこうした例だ。

「結婚したら会社辞めてくれるよね?」というネガティブなフレーム限定を行って、 「元気な子供を産み、夫を助けて、明るい家庭を作りたい」などという「模範解答」を引き出そうとしている。

思考を停止する言葉

みんな本当は議論をしたいんじゃない。思考を停止したいだけ。

罪を犯したから監獄に入るのか。監獄に入りたくて罪を犯すのか。 因果の順番なんて、本当はどうでもいい。

思考を停止する手段というのはたくさんある。

  • 「そんなの当然じゃん」「そんなこと考えてもしょうがない」という決めつけ
  • 「難しいね」「今後の参考にします」という先送り
  • 「教育の問題」「ゆとり教育のせい」という責任転嫁
  • 「テロを受け入れるか、戦争か」という二者択一
  • 「普通は…」「~であるのは常識だ」という勝利宣言
  • 「お前○○だろ、違うなら証明してみろ」(○○の中には未熟とか、経験不足とか、サヨクとか)という悪魔の証明

単純な方法だけれど、相当有効。なぜなら、みんな本当は思考なんてしたくないから。

思考を続けることは重要だろうか?

「考え」なんていう面倒な作業は、きっと誰かが行ってくれる。 宗教を信じる人はみんな天国へ行ける。神様が考えてくれるから。

信仰というのは、信じることだ。理解することじゃない。

思考停止という癒し

「テロとの闘い」という言葉。どんな問題にもこの言葉が使われて、いろいろな問題が 正当化されて数年。最初はみんなで議論したけれど、結論はなんにも変わらなかった。

結局テロリストはいなかったけれど、やってることはそれでも同じ。考えないほうが、ラクだから。

テロの定義という「いれもの」の中には何でも入る。自衛隊派遣だろうが、増税だろうが、僻地医療の崩壊だろうが。

テロとの戦い。自己実現。「○○のせい」。

定義があいまいで、なんとなく反抗しにくいようなこうした言葉というのは、 お互いのフレームを合わせる作業を無くし、結論を提供し、思考という作業から解き放ってくれる。

思考を止めた人というのは、知能を持たない機械と同じ。

機械は知能がないから、そもそもフレーム問題をおこさない。そもそもの問題がないから、 それを解決するためのプロセスも必要ない。矛盾のない、完全な存在だ。

人はなかなかそうはいかない。「思考をしない人は不完全だ」という思いに縛られているから、 みんな何とかして思考するふりをしようとするし、だから疲れてストレスがたまる。

みんな医者のせいだ

このあいだの医者叩きのスペシャル番組。

有名なN淵先生をはじめとする医師側のパネリストは、基本的にはみんな正しいことをいっておられたように思う。

「悪い医者」の再現ドラマはひどいものだったけれど、それでも台詞に「ウソ」はなかった。

  • 3時間待っても見てくれない救急病院
  • 「待ってて下さい」としかいわない医療スタッフ
  • 子供に馬乗りになって点滴する若い医者

どれも、それなりに真実だ。

正しい現状を伝えて、やっぱり医者は悪くなる。

番組を作ったスタッフをはじめとする「みんな」の見る世界にとっては、 「頑張る医者」なんていうものは単なる異物にしかすぎないから。

「ああ、医者はやっぱり悪かったんだ」という分かりきった結論は、見る人にとっての最高の癒しだ。 だから医者叩きは受ける。

思考停止ワードの作り出す癒しの空間から、「みんな」の意識を追い出すのは難しい。

状況を変える可能性の一つは、身体で分かってもらうこと。

意識はラクをするけれど、身体はいつも物理現実を見ている。

だから病気になった人は、どんなに医者が嫌いでも、結局は病院に来る。

「医者はみんな悪い奴」という意識の認識を改めてもらうには、 結局のところ病気を治すこと、身体に分かってもらうこと以外にないような気がする。

仕事をまじめにやるしかないんだけれど、 症状のない人、今の時点で「治す」ことの難しい人と対話するのは、やっぱり難しい。

どんな症状も「だって癌だから」の一言で済ましてしまう思考停止なんて、 医者側だって便利だから、つい使ってしまうし。

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2006年5月17日

祟りが支配する複雑な世界

同業者以外からは同意が得られないだろうけれど、医者というのは立場が弱い。

強さとは、「攻撃力」×「打たれ強さ」。

病院と言う限られた空間の中では、医師の攻撃力は非常に強い。 職業倫理さえ捨てる気になれば、もうどんな暴言だって吐ける。

ところがそれをやった瞬間、医師の立場もまた地に落ちる。

攻撃力は強くても、打たれ強さはほとんどない。だから「弱い」。

弱い立場の人は、暴力に弱い。法律にも弱い。いいところが無い。

暴力と秩序。この両極端の世界で弱い立場なら、 もう世の中には「強く」ふるまえる場所は残っていないようにも思える。

びくびくと何かにおびえながら仕事をするのは嫌だ。 暴力的でも秩序だってもいない世界、「複雑な世界」には、 まだ希望がありそうな気がする。

複雑さとは何か

世界の状態を、暴力と秩序の割合だけで表現することは可能だろうか?

全くの無法地帯から、先進国の法治国家まで。秩序という点では、 北○鮮みたいな国は相当秩序だっている。 南アフリカのヨハネスブルグみたいな暴力都市は、法律なんか存在しない。

アメリカや欧州はどうか?

独裁国家ほどには秩序だってはいないけれど、無法というにはしっかりした政府を持つこうした国は、 北○鮮とヨハネスブルグの混合比だけで表現するにはあまりにも豊かだ。

世界を表現するには、暴力と秩序の割合だけでは足りない。 その「足りなさ」を補ってくれるのが、 複雑さというパラメーターだ。

あまりにも暴力的過ぎたり、逆にあまりにも秩序だった国からは「複雑さ」が失われ、 結果として豊かにならない。

「複雑さ」とは、安定した状態からの隔たりだ。 法律を守った平和な世界も、暴力が支配する無法地帯も、 「毎日その状態で安定している」という点では、どちらも同じ。

程々に政府が機能していて、一方でそこそこに「ズル」が許されると、 社会には多様性が生まれ、複雑さが増す。

複雑な世界は複雑だから、逃げ場も多い。「暴力」からも「秩序」からも見捨てられた 奴が逃げ込むには、こうした世界が望ましい。

世界に複雑さを付加する「祟り」

複雑な世界では、立場の弱い者のほうが、強い者より「強くなる」。

こんな立場の逆転を可能にしてくれるのが、祟りというルール、 明文化されてはいないけれどたしかに「ある」、そんなルールの存在。

「いい法律」と「いい祟り」、その基準はずいぶんと異なる。

  • 法律は、どうなったら法律違反になるかの基準が明確で、 それが発動すると何をされるのかがはっきりしている。
    その法律を破らない範囲なら、そんなものは最初から無かったかのように行動できる。
  • 祟りは、どうなったら発動するかの基準があいまいで、 また祟られたら何をされるのかがはっきりしない。
    原則が無いから、その存在を常に意識しないと行動できない。

法律は、強者に優しい。ルールの限界に挑むためには、それなりの勇気と打たれ強さは 欠かせない。強いものは、常に法律ぎりぎりまで行動できる。弱いものは、 その法律の境界のはるか手前であきらめるしかない。

祟りは常に、弱者に味方する。

祟りは「みんな」に信じられることで、その効果を出す。どんな世界でも強者は常に弱者に 数で劣る。「みんな」の信じる祟りの原則は、多数決と公平だ。 弱い人には、祟りは弱い。強い人には、些細なことで強力な祟りがおきる。 強い人は、祟りのそばには近づけない。

祟りを実体化するものは何か

祟りは目に見えない。

その存在はあいまいで、「祟られる」ことで受ける罰の内容も、 その人が想像するしかない。

目に見えないものなのに、祟りは誰の目にも明らかに見える

あいまいである一方で、誰もがその存在を信じられないと、そもそも「祟りルール」は成立しない。

たとえば、「ここでの会話は、24時間録音を続けています」という張り紙は、立派な祟りとして 機能する。

録音するだけ。マイクもレコーダーも見せない。 警察に通報するとか、暴言が出たら弁護士を呼ぶとか、祟りに触れたら何がおきるのかは 一切言わない。 こんな通達を、病院側が一方的に行ったら、これは単なる恐喝。 そんな施設は地域から見捨てられるだろう。

ところが、これを「市民のための医療オンブズマン」みたいな団体との取り決めで、 「言った、言わないを避けるためにこうしましょう」とみんなの合意で行うと、 単なるテープレコーダーが、地域に君臨する祟り神として実体化する。

「いい祟り」の成立条件は、以下のようなものだ。

  • 祟りの根拠となるものが具体的であること。オカルトは厳しい。 たとえば「会話は全てテープレコーダーに録音します」というの具体性がある「祟りルール」だ。
    具体的な存在に乗っかった祟りは、いやでも目に見えるようになる。
  • 祟りの効果のおよぶ範囲が見えにくいこと。「警察官が巡回しています」「ビデオカメラを回しています」 といった祟りは、警察のいないとき、ビデオの視野から外れた場所では祟りが成立しなくなる。
    「境界」を考察させるルールは、祟りとしては弱い
  • 祟りの罰則は予測可能であるが、その予測には相当な困難が伴うこと。 警察が来るなら、罰則が簡単に読めるから、強い人はその範囲で好きにやれる。「テープレコーダーで録音しています」 だけなら、それを警察に提出されるのか、マスコミに持っていかれるのか、想像するしかない。
    想像を刺激する「祟り」は、怖い

祟りの価値というのは、祟りのルールそれ自体にあるのではなく、 それから想起される「もの」の大きさにある。 強い人、背負っているものが大きな人ほど、同じ文章から想起するものの大きさは大きくなる。

いい祟りはその人の強さを移す鏡となる。弱い人は、祟りが「弱い」と予測する。強い人は、実際以上に 祟りの罰則を恐れてしまう。

複雑さのもたらす平等なコミュニケーション

見えない「祟りルール」に支配された会話というのは、複雑性が非常に高い。

会話はもはや、単純な情報交換ではなくなる。言外の会話、非言語コミュニケーション、 無言の持つ意味など、様々な要素が同時進行的にやりとりされる。

お互いに気を使って、「祟り」というものを意識しながらコミュニケーションを行ったとき、 もともと持っている「弱さ」「強さ」は意味を失い、全ての人は「祟り」の下に平等になる

もともと、人は誰でも平等だ。

私が思っているのは、実は人間そのものに強弱はないのではないか、といこと。
違うのは、「力」の有無と強弱。
「なんだ、力があるのが強者で、力がないものが弱者じゃん」というなかれ。「強者」「弱者」という場合、 それは「埋め込まれた」属性だけど、「力があるない」というのは、「後づけされた」属性。
そう。力はすべからく後付けなのだ。
「金持ち」「貧乏」というのもそうだし、「知者」「愚者」というのもそう。それはあなたそのものではなく、 あなたの持ち物にすぎない。また、持ち物にすぎない以上、失うこともあるけど手に入れることもできる。
私が「弱者」という言葉を思考停止だと思う理由がそれ。
404 Blog Not Found:弱いんじゃない、力がないだけだ

祟りというルールは、もともと平等だった人同士が共有していた「平等な世界」のありようを、 もう一度見せてくれるものだ。

神話の時代、誰もが「祟り」という共通の「なにか」を見ていた。 共有するものがあったから、何もいわなくても相手を気遣い、法律が無くても社会はできた。

ザシキワラシの伝説は、祟りルールの大切さを伝承している。

誰にも見えない、いないはずのものを「いるもの」として扱っている家は栄える。 誰もがサシキワラシを大切に扱う。
それが出ていった家、祟りに「見捨てられた」家は複雑さを失い、没落する。

科学が進んで、祟りが世の中から無くなったときに失われたものというのは、 たぶんこうした「誰もがほんとは平等だった」という社会の記憶みたいな ものだったんじゃないかと思う。

平和な救急外来がしたい…。

もとネタにさせてもらったサイトはこちら。 3ToheiLog: いつ撃たれるか不明という圧力のゲーム

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2006年5月16日

「何をしたのか」「どう見られたか」

国家試験受験資格、1年前倒しを=医師不足解消で特例申請へ-NPO法人

全国の医学部生や医師ら400人余でつくる特定非営利活動法人「医学教育振興センター」は12日、 在学中の5年生でも医師免許を取得できるよう医師法で卒業後に限定している国家試験の受験資格を 前倒しする特例措置を、6月中に内閣府に申請する方針を明らかにした。
合格した学生医師に、構造改革特区に認定された県内だけで卒業まで通用する 地域限定の医師免許を交付する。
医学教育振興センター: 当面の医師確保対策(案)について より引用

よくやっているな、と思う。

学生が作ったNPOの提言を、マスコミが注目して報道するなんていうことは、 一昔前からは考えられないことだった。

技術の進歩と手段の変遷

学生運動全盛の時代。「ガリ版印刷」が、学生の活動を大きく変えた。

鉄ペンでガリガリやるからガリ版。自分達が小学生の頃まではまだまだ現役で、 当時は「原稿を書く」という言葉以外に「原稿を切る」「ガリを切る」という言葉が 当たり前のように使われていた。

これができたから、誰でも「表現」ができるようになった。街頭に貼られたポスター。 ビラまきの学生。学生運動時代のステレオタイプ的な風景というのは、 ガリ版という道具が作った。

道具はだんだん進歩する。

  • 小学生の新聞委員会ではガリ切りと青焼きコピー
  • 中学生の頃には、学内の印刷物は和文タイプに電子印刷機
  • 高校生になる頃には、生徒会室には職員室払い下げのワープロ
  • 大学になると、自治会室にはリコーのリソグラフ。何故か業務用のコピー機が自宅にあった

表現のための道具は劇的に進歩した。 けれど、基本的な戦略は、ガリ版時代と一緒。

「発信」の手段が以前から変わらなかったからだ。

文章を作っても、それを発信する手段は、郵便と手渡し。

大学の卒業寸前。表現の技術の進歩がプラトーに達した頃、 「発信の技術のイノベーション」が始まった。

WEB 1.0のはじまり

パソコン通信からインターネットへ。

情報は電子化されて、誰でも自由に発信できるようになった。 いい情報を発信した人のサイトには、多くの人が集まる。コミュニティは賑わい、 ときに炎上したり、バトルになったり。

作者のサイトには、様々な意見が集まった。議論はときに数ヶ月に及んだ。 反対意見や、それに対する反論。過去ログについていけずに挫折する奴。 そんなもの読まずに参戦して、古参から「半年ROMれ」と一蹴される奴。

信者だろうがアンチだろうが、にぎわっているサイトには、多くの人が集まり、 いい情報が集まった。

情報は、そこに集ったみんなの意見でだんだんと形を変え、 確実に「いいもの」へと変貌していった。

そしてWEB 2.0

blog 全盛時代のイノベーションというのは、発信された情報が一人歩きする手段を得たことだ。

情報を評価する人達の横のつながりは強化された。blog に発信された情報は、 すぐにいろいろなサイトで言及され、元の作者の知らない場所で議論が始まる。

従来ならば、情報の発信者は自分のサイトの周辺だけ追っかけていれば良かった。 誤解があれば訂正できたし、議論のフィードバックは全て作者の糧になった。

今は違う。発信された情報というものは、基本的にはWEB全体で消費されるものだ。

情報は一人歩きする。それを書いたのが誰なのかは、もはや関係ない。 議論の期間も短くなった。少し前なら数ヶ月。今は、長くもって5日。

議論は一瞬でいろいろなところで始まり、すぐに結論が出て、終わってしまう。

作者がようやく全貌を把握できた頃には、 もう誰もそんな話題があったことなんか忘れている。改善の機会は与えられない。

  • パソコン通信時代。ネットにつながれた人が、 みんなで延々と議論を楽しむ時代が来るというのが、当時の共通の未来イメージだった
  • Web2.0が言われるようになった昨今。登場した様々なコミュニケーション装置は、 活発な議論を生み出すどころか、レッテル張りと極論とが支配する極端な社会を作り出した

評価は現実を決定する

一昔前。ネットに発信した文章に対する評価は、ある程度予想できた。

作者の意思というのは、書いた文章全体ひとかたまりで理解されたし、 流れを知っている評価者は、製作の過程を含めて評価してくれたから。

発信の技術」が進歩した現在。ネットにアップされた文章はばらばらにされ、 作者の手を離れて引用され、評価される。

元の作者の意図は、評価を受けることで変質する。情報は一人歩きし、 落としどころを失い、極端な評価へと走り出す。

少し前に有罪判決の出た、奈良の騒音訴訟の被告のおばさんの報道に関する話。

  • 被告は、もともと難病を抱えた家族を一人で看護しているさなかに相手が引っ越してきた
  • そもそもは、被害者家族に家の会話を盗み聞きされ、 それを言いふらされたことでトラブルが始まった
  • 被害者家族自身も、周囲とのトラブルがある人だった。それを被告が皆になり代わって、 一人で戦っているような状況だった
  • 被告がしたとされる塀のいたずら書き。あれは、被害者家族の自演だという人もいる
  • 被告のおばさんは、は記者の質問には礼儀正しく応えていたらしい。でも普通に喋ってるところは滅多に放送されない。

某巨大掲示板からのコピペ。当事者ならば何が正しいのかは知っていることなのだろうけれど、 伝えられている情報の評価のしかたひとつで、現実なんて簡単に揺らぐ。

観測者が善悪を決定し、その意志に従って過去の事実が再編集され、「真実」として新たに流通する。

大事なのは真実それ自体ではなく、 「どちらを悪にしたら面白いのか」という評価者の意向のほうだ。

発信の技術の次にあるもの

表現技術の進歩と、発信技術の進歩。 その結果として生じた、情報の評価の一人歩き。

ネットでの評判をそのまま受け取っていては身が持たないし、 もはや「いい」「悪い」は評価者の意向いかんでいくらでも逆転しうる。

WEB 2.0 時代に発信された情報は、発信された段階では「いい評価」と「悪い評価」との 重ね合わせの状態にあり、最終的な評価は確率論的に変化する。

予測可能な決定経路はもはや存在しない。 総論賛成だけど各論反対といったような、中間の状態に落ち着くことはほとんどない。

発信された情報の価値というのは、「大きさ」と「方向」との2つの側面を持つ。

ビラまきの時代。ビラに印刷された文章は、大きさと方向の2つから評価された。 どんなに議論を呼ぶ意見であっても、賛成の人が多くなければ、価値は無いも同然。

評価者の評判の総和は、そのまま作者への評価になった。

発信の技術が進歩した現在。情報の価値というベクトル量のうち、「方向」を決定しているのは ほとんどの場合評価者であって、そこに発信者は介入できない。

「善」か「悪」か、「正しい」か「間違ってる」かという方向の問題は、 もはや発信された「情報の価値それ自体」を評価する尺度にはならない。

「〝よくやった事の報酬は、それをやったって事だけ〟さ…」

報酬は、結果に対して払われるものではない。やったことそれ自体に対して払われるべきだ。

ベクトル量からスカラー量へ

Google AdSense とか、はてなブックマークといった新しいネットツールは、 流通している情報の「大きさ」のみを取り出して評価するシステムだ。

いい評判だろうが悪い評判だろうが、大事なのは議論を引き起こしたことそれ自体で、 評判の向き自体はたいした問題じゃない。

1年早く免許を取得して働く医師を増やすことで、医師不足解消を目指す。

その発想の是非については、正直異論をはさみたい部分も少しはあるけれど、 「どう見られたか」ではなくて、「どれだけ大きな反響を作ったか」のかのほうが重要だ。

反対されること、叩かれることというのは、肯定的な評価をもらうのと同じこと。 少なくとも、その行為には、何らかの議論を巻き起こすだけの力があったということだ。

冷や水ぶっかけるのは年寄りの仕事。火をおこすのが若者の仕事。

自分はこうした活動に挫折してしまったクチだけれど、 否定的な声に負けずに、自分達の作った炎の大きさを糧にして、ぜひとも先に進んでほしい。

一番厳しい評価というのは、叩かれることではなくて、無視されることだ。

愛の反対は憎しみではなく、無関心である

マザーテレサだってそう言ってる。

叩きなんて、反響無いのに比べれば……(泣)。。

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2006年5月12日

空気の取り扱い説明書

要約

空気は操作できる。

空気を読める人とそうでない人、空気を操作できる人とそうでない人との差というのは、 「空気が扱える」ことに自覚的であるかどうかが大部分だと思う。

基本操作は以下の4つ。

  • 締める
  • 緩める
  • 押す
  • 引く

空気の締め具合、緩め具合を調節するのは以下の3つ。

  1. チームが直面した問題の重要さ
  2. チームメンバー同士の物理的な距離
  3. リーダーの言葉遣いや、身振り手ぶり

「押す」「引く」というのは、プレゼンテーションのやりかた。

  • 「押す」やりかたは普通に要望を伝える。誰でも伝わる代わりに反発も来る。 その反発力を利用することもできる。
  • 「引く」やりかたは、チームメンバーの何割かが知っている「お約束」に訴える。 知らない人は仲間になろうとして、 リーダーの意思に無批判に従うようになる。ギャンブル的な要素が強い。

「空気を読む」必要があるのは、以下ようなケース。

  • 「締まった空気」のときに、チームが抱えている問題以外の話題をしゃべる奴は嫌われる。
    問題に関する議論自体は全くかまわないし、リーダーに反対しても大丈夫。
    関係のない馬鹿話は、たとえみんなが笑っても「空気が読めてない奴」 とみなされる。
  • リーダーが何かの問題を「引いて」きた時に、その「お約束」の答えを知っているか、あるいは 知ろうとして回りを見渡す人は「空気が読める」。そうでない人は「空気が読めない」。
    お約束を知っている人が、その場の1割以下ならばリーダーが悪い。2割以上いたときは、知らない奴が悪い。
  • 空気が緩んでいるときに大事なのは「人気」であって、「読めるかどうか」は関係ない。
    「人気」は訓練できないので、緩んだ空気で居心地よく過ごすのは難しい。

締まった空気の「筋」と「弾力」

空気は様々な状況、あるいはリーダーの思惑で締まったり、締められたりする。

締まった空気には、「」と「弾力」が生じる。

普通の状況では、誰もが自由に会話ができる。空気が締められたとき、 話すことができる話題は「空気が締まった原因」に関する話題のみになる。 これが空気の「筋」。

締まった空気の中で、もっとも「空気が読めていない」とされるのは、筋の存在を無視して自由に話す人。

筋に沿った議論自体は規制されない。賛成だろうが反対だろうが、 「空気」が望んでいるのは問題解決のための 活発な議論であって、議論に参加する奴がとがめられる理由は全くない。

問題なのは、議論に参加して来なかったり、全く関係のない話題を話そうとする人だ。

たとえば患者さんの急変。空気は締まる。

このとき、みんなが緊張しすぎてガチガチになると、乗り切れる状況も乗り切れなくなってしまう。

だから、手を動かしながらも、会話には多少の冗談を混ぜる。けっこう不謹慎な話題も多い。 そういうのを振るの、たいてい自分だったけど。

このときに許されるのは、急変の原因に関する議論か、そうでなければ オチが「頑張ろう」という方向に向かう冗句のみ。 全く関係ない世間話、たとえば昨日見たお笑い番組の話題を 振る奴がいたら、「空気読めない」奴とみなされる。

締まった空気は、筋ができるとともに「弾力」を持つようになる。

空気が締まると、基本的にはみんなまじめに話すから、議論も熱くなる。

チームリーダーが何かをやってほしい、あるいは問題解決のためにこうしようといった発言をするとき、 締まった空気の中では反発も強くなる。メンバーからの反発が予想されるような提案、 たとえば「まだ効果のはっきりしない治療を試そう」とか、 「明日から走りこみの距離を伸ばそう」などといった 提案をするとき、空気を締めすぎると反発が強くなる。

空気が弾力を持ちすぎると、リーダーとはいえ自爆する可能性もある。

弾力は、空気の反発力を使う形で生かすこともできる。

  1. チームメンバーの誰かを「イジメ」から保護するのは難しい。 たとえば、学校のイジメで、担任の先生が「○○君と仲良くしようよ…」と 学級会で提案するのは最悪のやりかただ。イジメがひどくなりこそすれ、 改善する可能性はまずない。
  2. チームの規模が小さなとき、保護したい本人がいないところでみんなを集め、 顔と顔をつき合わせて「空気を締める」。陰口を言いあう空気というのは、 たいていの場合こんな感じだ。
  3. 空気を締めたところで、リーダーが保護したい本人を話題にして、 できるだけ口汚い罵りの言葉を吐く。「イジメ」にも越えてはいけない一線というものが あるけれど、リーダー本人がそれを乗り越えてみせる。
  4. うまく行くと、みんなの空気が引く。リーダーに対する「こいつ怒らせたら、 何されるか分からない…」 という反発が、そのまま「○○の悪口言うのやめよう…」という動機になってくれる。

空気が締まったとき、チームメンバーが気を付けなくてはいけないのが「筋」。

チームリーダーが気を付けなくてはならないのが、空気の「弾力」。

空気の締まる状況

チームが抱える問題が大きかったり、深刻だったりすれば、自然に空気は締まる。

個人の意思は事実の生み出す状況には逆らえないし、逆らう理由もない。

状況で締められた空気の中では、単純にまじめに振舞ったり、 あるいはまじめそうに振舞うだけで、十分に「空気に溶け込める」。

気の効いた振舞いかたを考える必要はない。不必要に冗談を言う必要もない。

締まった空気の後では、必ず空気の緩みが来る。

空気が緩むタイミングというのは、問題が解決したか、あるいは問題が解決する までの道筋がはっきりついたとき。

今から緩もう」というのは、本来はリーダーが 明示的に指示するものだ。

空気の挙動としては、これは当たり前のことなのだけれど、 リーダーが「空気が緩む」のを認められない人だと、 みんなが呼吸できなくなってしまう。

このときは、リーダー以外の誰かが空気を破って、空気を緩ませる。

うまくいっているチームには、こうした役まわりの人が必ずいる。 空気を緩めるのはリーダーか、あるいは緩ませる「プロ」の役割。

協定を破るのは、必ず2番目以降に」。空気の密度が変わるタイミングを 生き延びるときの鉄則だ。

空気を「物理」で締める

人と人との物理的な距離が縮まるだけでも、空気は締まる。

病院での「お客さん」たる患者さんや、その家族が集まるときというのは、やはり空気が締まるときだ。

だから、ナースルームで家族の人を交えて話をしているときには、原則として関係ない人も口をつぐむ。

このときの空気は締まっている。締まった空気で使うのは、締まった言葉だ。 たとえば研修医の私語を注意するときでも、患者さんの家族が集まっている前ではきつい言葉を使う。

「きつい言葉」は、研修医の教育効果を狙っているのではなく、 患者さんの家族から主治医に対する信頼を勝ち取ることを狙っている。

締まった空気の中で、だらしのない言葉を使う主治医は、信用を失ってしまう。 締まった言葉を使う医者は、締まった空気の中では信頼される。

その代わり、空気が緩んだ後に、その研修医に対するフォローを忘れると、 今度はその研修医の信用を失うことになる。

「みんなで集まる」というのは、空気を締めるときの基本だ。 会議のとき。陰口を叩くとき。人は必ず集まって話をする。

距離で空気を締めるためには、実世界の中で距離を縮める必要がある。 残念ながら、バーチャルな距離は、空気に影響を与えることはできない。

少し前、航空会社のビジネスマンクラスのCMで、こんなのがあった。

部下:「ところで部長、この出張は何のためなんです?」
部長:「握手するためさ

CMでは一種の「オチ」として使われていたエピソードだけれど、実世界ではこれと同じことは多い。

誰かに何かをお願いするというのは、「押す」行為だ。押しを効かせるには、空気は堅くないといけない。 緩んだ空気をいくら押しても、文字通り空気を押したようにかわされてしまう。

だからみんな、大切な仕事の用事は、お願いする相手のところへ歩いていく。

相手を呼びつけるのではなく、必ず自分から出向く。

この行為というのは、空気を締めるともに、縮めた距離の分だけ、相手に強引に貸しを作る 効果がある。素朴な方法だけれど、「貸しを返そう」という意識は、しばしば非常に強力な武器になる。

言葉で締める

他愛のないおしゃべりをしていた中で、リーダーの語調が急に変わると、みんな驚く。 「何だ?」という驚きは、自然に空気を締める。

リーダー役をやろうという人は、最低でも2種類の言葉を使い分けるべきだ。 普段の親しみやすい言葉と、空気を締めたい時の言葉と。

使い分けの方法は、人により様々なやりかたがある。

  • 普段丁寧語で、締めるときは乱暴な言葉
  • 普段はおしゃべりで、緊張が必要なときには寡黙になる
  • 表情やしぐさを変えて、言葉の調子を変えない人もいる
  • 服を着るとか眼鏡を外すといった、芝居がかった動作も空気を変える

人によっては、2段階どころかもっと細かく変える。大事なのは、それが分かりやすくて、 また誤解を生まないこと。そして、「あざとさ」がなるべく少ない方法を選ぶこと。 だから、言葉の変更だけでは、ちょっと弱い。

実世界での会話というのは、言語それ自体だけでなく、表情やしぐさ、目線の合わせかたや 着ている服など、様々なものから成り立っている。

ネットでは、こうした「言語外の会話」ができない。だからトラブる。

緩んだ空気を支配する「人気」

空気が締まると、空気には筋が通り、空間は均一になる。大事なのは「筋が読めるかどうか」。 「読む」ことは、訓練すれば誰でも出来る。個人の資質は関係ない。

締まった空気の中で泳ぐのはたやすい。緩んだ空気の中でうまくやっていくのは難しい。

解決すべき目的がないとき、人がまばらに散らばっているときに、空気は緩む。 緩んだ空気を支配するのは、「読む力」ではなく、「人気」というもっと得体のしれないものだ。

中学・高校で発生する「人気のヒエラルキー」。俗に「1軍・2軍・3軍」「イケメン・フツメン・キモメン(オタク)」1等と呼ばれるグループにクラスが分断され、グループ間交流がほとんど行われなくなる現象。未だ根強い影響力を持つインドの階級制度、「カースト制度」に酷似していることから名付けられた。
スクールカーストにおけるヒエラルキーは、「人気」を軸に構築される。「人気」とは、「特定の人間関係市場における、その人間の市場価値」である。中高生にとっては、「一緒にいて面白いこと」「外見的魅力に優れていること」「運動能力が高いこと」が至上の価値を持ちやすいため、スクールカースト上位層は、自然とそういった者で占められる。
一般にスクールカーストは、「コミュニケーション能力」を軸に構築されていると思われがちである。しかし、スクールカースト上位階層者の中には「他者をモノのように扱う自己中」「カオを武器に浮気を繰り返す」といった行動に走る者も若干名含まれており、(中略)彼・彼女等を含めて一概に「コミュニケーション能力が高い」と言い切ることには違和感を感じる。
はてな - スクールカーストとはより改変引用

余暇を余暇として楽しめる人でないと、緩んだ空気の中で居心地よくやっていくのは難しい。

「緩んだ空気の中での泳ぎかた」というのが得意な人もきっといるのだろうけれど、 自分はぜんぜんダメ。

戦争さえ始めれば、人々の心はきっと一つになれるんです!!」。

パフォーマーの鳥肌実氏がよく使う言葉だけれど、ときどき真実に思えてくる。

同じ空気の密度を共有する人は意気投合できる

居心地のいい空気の密度は、一人一人異なる。

専門は違っても、好きな密度が同じ人同士は意気投合できる。

最近発売された「第一感」という本の中に、ニューヨークの株式取引所のトレーダーの人と、 海兵隊の将軍達とが意気投合するエピソードが出てくる。

太り気味でだらしない長髪の男達」と形容されるトレーダーの人達は、 米軍基地の用意した作戦演習で、見事な指揮をとったそうだ。

普段は全く顔を合わせる事のない両者だけれど、常に何らかの問題を抱えていて、 限られた情報の中から判断を下しつづけていかなくてはならないという点で一致していた。

彼らが意気投合できたのは、トレーダーも軍人も「締まった空気」の 中で力を発揮するタイプだからだ。

空気の締まり具合と、規則の厳しさとは何の関係もない。

同書の中では、海兵隊の将軍達は、「規則は無視するけれど戦いには勝利する」人物として 描かれる。対象的なのは、「規則は守るけれど戦いには負けてしまう」制服組の軍人だ。

将軍は規則を破るけれど、空気は締まっている。一方制服組は、規則は守ったけれど、 その空気は緩んでいた。だから戦いに敗北した。

たぶん、トレーダーの人たちとも仲が悪いだろう。

プレゼンテーションの「押す」と「引く」

  • 「押す」やりかたは簡単で万能だけれど、全員の賛成を得るのは難しく、必ず反作用がある
  • 「引く」やりかたは使える状況が限られ、効果も一定しないけれど、うまく行くと全員の賛意を得られる

空気は押せる。押すことで風を起こし、人を動かす。

「○○してください」とか、「こうしましょう」といった伝統的な問題提起のやりかたは、 誰でもできるし、どんな状況でも通用する。

そのかわり、押す対象はあくまでも「空気」だ。緩んでいては、いくら押してもしょせんは空気。 「みんな」に漠然と訴えるやりかたは、反動も無いかわり、いかにも効率が悪い。

効率を上げようと思ったら、空気を締めることだ。締まった空気なら、どこを押しても反応が返ってくる。 そのかわり、今度はその反動が強くなる。強く押せば、それだけ反動もきつくなる。

いいやりかたは、空気を緩めておいて、 「みんな」を少数ずつの集団に分けて、個別に「押す」ことだ。

公務員は最も自己責任回避がしやすい職種ではあるが、 それでも名無しで仕事をするわけには行かない。
名前を控えた上で、それをしかるべきところに持っていくというのが、彼らを動かしやすいようだ。
404 Blog Not Found:木端公務員のいなし方より引用

「名無しの集団」から「名のある個人」を切り離して、個別にお願いをする。 そうしておいた上で空気を締めると、「みんな」の中にはいつのまにか「お願い」の釘が 何本も刺さっていることになる。伝統的にはこれを「根回し」と言う。

根回しというのは、「押す」やりかたの効率を最大にして、その反作用を最小限に抑える知恵だ。

公の場での議論や説得での決着というのは、空気をぎりぎりに締め上げた上で、 そこに全力で押し込んでいる。効果はあるけれど、「押された」ほうは疲れるし、 反動も大きい。

たとえば10人の集団がいて、何かの仕事をお願いする状況。

根回しをすれば、10人中8人ぐらいは 気持ちよく動いてくれる。真っ二つに割れた議論なら、動くのは6人だ。反対側に4人回るから、 実際の稼働率はもっと悪くなる。

全員参加を狙える「引く」やりかた

稼働人数を10人全てに持っていける可能性があるのが、「引く」やりかただ。

「引く」やりかたというのは、やってほしいことを明らかにしないで察してもらう。

  1. リーダーが、一見何の関係もないような話を始める
  2. 以心伝心の効いた何割かの人達は、リーダーの意志を「読んで」、動き始める
  3. それ以外の人は、何をしてほしいのか分からない
  4. それでも「空気読めない奴」と思われるのが嫌で、分かったような顔で仕事に協力する
  5. なんとなく納得できないながらも、そもそもリーダーの意志が明示されないから、 反発もせずに全員参加する

風というのは、「吹く」ものではなく「吸引される」ものだ。

空気をいくら押しても、力を加えたほんの一部をのぞいては、 空気は動かない。

自然界の風というのは、気圧の高い部分が空気を押すのではなく、 気圧の低い部分が空気を「吸引する」ことで大量の気体が動く。

空気を引っ張ったとき、実際に「引かれた」ことが理解できるのは、全体の中のわずかな部分。 それ以外の人は、「何かが動いた」ことは理解できても、それが何なのかは理解できない。 でも動く。空気には分子間力があるから、となりが動けば自分も動かざるを得ない。

大切なのは、「お約束」の存在。

  • 「…私の弟、諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ!なぜだッ?!」とギレンが問えば、
    当然返答は「坊やだからさ」がお約束
  • 手の遅い上司や同僚がいないときに「今日はなんとなく、気分がいいねー」とリーダーが上機嫌なら、
    「今日は議論しないでさっさと仕事を終えましょう」というのがお約束

「お約束」の通じる相手は、最低でも全体の2割以上で、半分ぐらいまで。 みんなが知っている「お約束」は、ただのお願いと同じ。「引く」効果は期待できない。

「引く」プレゼンテーションというのは、集団に雪崩を起こすやりかただから、 話の通じる人は多すぎてはならない。

状況によっては、このやりかたは結構うまく行く。

そのかわり、良くも悪くも「雪崩」だから、 集団の持つエラー訂正機能はほぼ完全に殺される。 リーダーもまた、この雪崩に巻き込まれているから、 行き先を間違えると破滅的な結果になるかもしれない。

大戦末期、無茶な作戦行動に誰も反対できなかったのは、こうした雪崩の作用が 一人歩きしてしまったからだと思う。

事前の情報収集は必須。

たとえば地理関係から戦争戦略を考える学問「地政学」というのは、 「地図の学問ではなく地球儀の学問」という表現が使われる。

地図には、球体である地球を平面化する過程で何らかの歪みが入っている。

歪みの無い正しい情報収集があって、その上で「お約束」を共有できる何割かの仲間がいれば、 集団を「引く」力を上手に利用できる。

人月の神話を成就させる空気の操作

  • 一人でやれば10ヶ月かかるお産は、2人がかりでやったところで5ヶ月にはならない
  • 一人しか入れない、狭くて深い穴を掘るような作業は、 多人数でやろうとすれば、どんどん効率が落ちる

一人では手におえないような大きな仕事があるとき、それを複数人数でやろうとすれば、 人数に比例した効率の低下を覚悟しなくてはならない。

医師の集約化が叫ばれている。

医者は足りないし、医療の質へのニーズは高まる一方。2施設にいる医者を1施設に集めることで、 効率を2倍にしましょう。

うまく行くわけがない。

2施設分の効率を出そうと思ったら、3施設分のスタッフがいる。3施設分の 効率を出そうと思ったら、5施設分のスタッフがいる。

集約化と効率とは、逆比例する。 高価な予算をつぎ込んで「○○救急センター」などを作ったところで、人数を今以上に増やさなければ、 地域の救急のキャパシティーはかえって落ちるかもしれない。

プロジェクトが火の車っていうときに、じゃあ人を足せば問題が解決できるかといったらんなこたない、 むしろ人が少ない方が余計な干渉がなくてやりやすかったりする。
人を増やすだけで問題が解決できるような体制をしくことこそが管理術です。
運用というのは、人数を増やすことで問題を解決するのではなく、"いかに「人数を増やすだけで問題を解決できる」状況を作るか"ということを理解してもらえばいいのかなと。
サーバーを増やすだけで解決できるように努力するのだより改変引用

集まった人の数だけ能力を高めるのには工夫がいる。

集まってくれた人の効率を落とす元凶、人と人との通信の無駄を最小限にして、 人数分の能力を引き出す運用の技術こそが「空気」だ。

空気は、わけの分からない厄介なものではない。 議論のやりかたなどと同じく、本当は再現性のある技術。

基本はここまで。応用はいろいろ。いい方向にも悪いことにも。

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2006年5月10日

絵を書いて理解する

  • 手術の術式や画像所見の見かたを習うときには、 絵のうまい人から教わると理解が早まる。
  • 言葉で解説してもらうだけではなくて、「どういうスケッチを書くのか」を 一緒に習ったほうがいい
  • 「絵」は見たままをきれいに書くのではなくて、専門科ごとに伝統的な描きかたというものがある
    描きかたは習うもので、見つけるものではない
  • 上手な絵を書く医師がいたら、「どうしてその図は分かりやすいのか」を教えてもらうと相当勉強になる

描きかたは教わらないと分からない

「カルテには文字だけでなくて絵を書きなさい」とはよく言われることだけれど、 上手に書くのはなかなか難しい。

手術や内視鏡などの手技を行った後の手術記事。 胸部単純写真やCTスキャンなどの画像所見のスケッチ。 病棟で絵を描かなくてはならない機会というのはけっこう多い。

スケッチの流儀は大きく2つ。

  • 青鉛筆(消しゴムで消せないから)を使って、本当のスケッチよろしく絵を書く人
  • ボールペンで殴り書きする人

鉛筆を使って描いたスケッチはきれいだけれど、道具を持ち変えなきゃいけない分だけ 手間がかかる。忙しいベテランは、たいていボールペンだけで描く。

上手な先生がボールペン一本で描いた図というのは、 ごく簡単に書いてあるわりにはよく分かる。

ところが、それと同じ絵を自分で書いて見ると、どうやっても臓器に見えなかったりする。 線1本の引きかたとか、はらいかたが微妙に違うだけで、単純な絵はリアリティを失う。 上手なベテランの絵は簡単だけれど、そのあたりを外さないから、リアルに見える。

これは、「見たままをリアルに」ではなく、「そこに見えるはずのもの」を何度も繰り返し書いているからだ。

見えることと分かること

病棟で絵を描く行為というのは、画像を抽象化するプロセスだ。

今は何でもよく見える。

内視鏡も横から見られる。CTもMRIも気軽にオーダーできる。

手術の見学も、昔以上に容易になった。術野を見学できたのは、昔ならせいぜい第2助手まで。 今は必ずビデオカメラがつく。ICUにいれば、実況中継よろしく、いつでも術野が見学できる。

いい時代だけれど、医者が処理しなくてはならない画像情報の量は飛躍的に増えた。

胸部単純写真1枚と、胸部の単純CT1回分。 そこに写る情報量の差というのは、被爆量以上に大きな開きがある。

多すぎる情報量に引っ張られると、見つけなければならないものを見逃してしまう。

医療画像は、「見る」もので無くて「読む」ものだ。 見えたものを解釈可能な記号の集合としてとらえなおして、それが正しい位置にあるのかどうか、 大きさはどうか、あるいは、見えてはいけないものがそこにないのかどうかを追っかけていく。

電子カルテの時代。進んだ病院ならば、電子化した画像をそのままカルテにコピーできる。

アナクロかもしれないけれど、それをやってしまうと多分見落としを生じる気がする。 画像を画像のまま処理してしまうと、それを「読む」工程が省かれてしまう。

絶対に見落とすな。全部見ろ」と 研修医を叱咤激励するのは簡単だけれど、やはり「読みかた」を教える必要はあると思う。

たとえば単純写真や胸腹部CT。昔習った読みかたというのは、こんなもの。

  • 単純写真は、まず周辺から見る。胸膜を左右とも指でなぞって、その後肋骨を1本1本指で追っかける。 その後さらに肺動脈の走行を見て、肺野を観察するのは一番最後。側面写真の読みかたは、また別のやりかたがある。
  • 自分がショックの患者のCTを読むときは、まず心のう水を見て肺動脈を見て、その後一度鼠径靭帯が 写っている断面を探す。そこじゃないと動脈と静脈の区別がつかないから。その後、静脈系を上下に追っかけていって、 血栓を探す。その場で肺がんを見逃しても、たぶん読影の先生が見つけてくれるから、その場ではあまり真剣に見ない。

半分は我流だし、いいかげんなものだけれど、それでも何とか10年持っている。

医師にもいろいろな立場の人がいる。たぶん、それぞれの人が、 それぞれの「読みかた」というものを会得している。 「なんとなく」だけで何年も生き残っている人は、多分いない。

カンファレンスなどで病変の写っている画像を見るとき、 講師の先生は「病変の見えかた」は教えてくれるかも しれないけれど、「全体からの病変の抽出のしかた」は教えてくれないかもしれない。

珍しい画像を見せてもらうとき、なんで「分かった」のか、あるいはその医師に尋ねて、 「どういう順番で読んだら見逃さないのか」を教えてもらえたならば、たぶん相当勉強になる。

生データはいくらでも転がっている昨今。それでも、研修医が一人前になるには時間がかかる。

どんなにリアルな画像、あるいは実物の人体をいくら眺めたところで、最初は何も分からない。 文字を知らないと本がいくらあっても勉強できないのと同様、画像にもまた「読みかた」とか「文法」 みたいなものがあって、それを知らないと経験を経験として生かせない。

画像の読みかた。スケッチのしかた。

何でそれが読めるのか、あるいはただ殴りを書きするだけで、なんでそれがリアルに見えるのか。 ただ見るだけでは意味がない。見た画像の中から何を残して、何を評価するのかの基準を 自分で作れるようにならないと、「分かった」ことにはならない。

画像を読む順番とか、スケッチでの線の引きかたとか、みんな一つ一つの動作に意味をつけて 行っているから、それを言葉で解説するのはけっこう簡単にできるはず。

たとえば心臓ひとつ描くのにも、「これが上大静脈の線」とか、「この気管支分枝を広く描くと、 左房が大きいことを表現できる」とか。

頭の中に画像処理系を実装する

スーパーコンピューターが非常に高価だった頃、それを自作してしまったグループがある。

天文学では計算機を使ったシミュレーションが欠かせず、 所有するコンピューターのパワーが教室の研究能力に直結する。

東大の天文学教室もまた、こうしたコンピューターパワーの不足に悩まされ、 最終的に「スーパーコンピューターの自作」を行った(GRAPEというプロジェクト)。

多粒子系のシミュレーションの特徴は、計算量が極めて大きく、 しかもそのほとんどが粒子間相互作用の計算に費やされることである。
そこで我々が考えた(最初の提案は国立天文台の近田によるものである)のは、 粒子間相互作用の計算だけを高速に行うハードウェアを作って、 それを普通の計算機につなげて使うことである。このやり方には、いろいろな利点がある。

実際作ったのは、スパコン全部ではなくて、天文学計算を行うための専用ハードウェアのみ。

汎用のスパコンと違い、天文学の計算にしか使えない。その代わり、 用途を限定することで、通常のパソコンの計算速度が スーパーコンピューター並に高速になったという。

スケッチをうまく描く訓練というのは、研修医の頭の中に、画像の抽象化を行うための 専用のハードウェアを実装するようなものだ。

汎用性は、あえて捨てる。

「患者さんの症状に応じて、経験を重ねていく」ではなくて、 最初から「読みかた」「描きかた」を学ぶことで、標準的な方法を杓子定規に用いて、 その上で「見えないもの」「異常な場所に見えたもの」を細かく観察する。

例によってあんまり「正しくない」教育方法だけれど、十分実用的だと思う。

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2006年5月 8日

情報の視覚化と祭りの力学

人が道徳に服従するのは、道徳的であるからではない。
道徳への服従は、君主への服従と同じく、奴隷根性からでも、虚栄心からでも、狂信からでも ありうる。それ自体は、それは何ら道徳的なことではない
道徳的理想の勝利は、他のあらゆる勝利と同じく「不道徳な手段」によって得られる。
嘘、暴力、誹謗中傷、不公正によって。

ニーチェも「にーちぇ」って書くと、ちょっと親しみやすい。なんとなく。

混沌から貴族主義的ネットワークへ

始まりは混沌。

誰もが自分のことで精いっぱい。全ての個体が競争を行う世界。

競争は勝者と敗者を生む。

1回でも勝った経験のある個体というのは、そうでない 個体に比べて、次の競争でも有利になる。

勝利に限界のない世界では、富めるものはますます富む。

混沌とした世界は徐々に分かりやすいものとなり、全体像を把握可能なものへと変貌していく。

「みんな」という視点の登場

時間の経過と共に、熱く混乱していた世界は冷えて固まる。

世界が混乱している頃は、みんなまわりが見えなかった。

世界のどこかには、うまいことやった連中がいるらしい。

分かってはいても、正体が見えなければ考えようがない。

誰もが知っている大企業でも、創業期はけっこう後ろ暗いことをしていた黒歴史が あるものだけれど、昔は誰も気にしなかった。見えなかったから。

誰もが自分の生活で精いっぱいだったちょっと前。バブル景気がおきて、世の中のあちこちから 成金めいた人たちがわいてきた。

知らなければ全くの他人だったバブル紳士も、「知って」しまうと妬ましい。

バブルがはじけ、成金だった人の一部は一緒にはじけた。テレビを見てはいい気味だと思った。 たぶん、みんなそう思っただろう。 そもそも報道されなければ、そんな感情がわくわけもなかったのに。

情報視覚化という仕事

政治やマスコミの仕事というのは、見えない世界の全体像を「見える」ように加工することだ。

全体把握のための、様々な世界プラン。 今まで「全体」なんか見えなかった人は、そのプランに 賛同する人同士で集まることで、「みんな」という共同体を作る。

たとえば、もっとも単純な世界プランというのは宗教だ。

信じるものは善。そうでないのは悪。
信じていればいつか救いがあって、日常生活のごたごたなどは、信仰に比べれば誤差レベル。

単純なものは細部が見えにくくなり、逆に詳しい世界プランは理解しにくい。

マスコミとか、政治家の人たちが提示する世界プランというものは、 古典的な宗教と、実世界の生情報との中間に分布している。

「みんな」の世界の階層構造

  • 世界本来の姿に忠実な可視化プランは分かりにくく、全体像の把握が困難
  • 分かりやすい可視化プランは世界全体の把握が容易になるけれど、作為の介入を避けられない

「みんな」の世界というのは、一種の階層構造をとる。

「いいことがおきれば神様のせいで、そうでないものは全部悪魔の仕業」という 人