2006年4月30日

白と黒の争い

ルールは非常に簡単。

  1. 黒は自分の力で戦う。何でもできる代わりに、何かの代償が必要。
  2. 白は規則に縛られる。正義とか、神とか法とか、そういうものに。 規則の範囲でしか力を使えない代わり、その規則に逆らったものに対しては非常に強力な力を出す。
  3. 黒は何でもできる。世界の規則に逆らわない範囲では、白は黒に対して無力。
  4. 白の勝つ戦略は、黒を騙すこと。白は巧みに黒を誘導して、相手を罠にはめる。 黒を世界の規則に違反させると、神の怒りが炸裂して、その時点で白の勝ちが決まる。
  5. 黒が規則に触れないで平和に暮らしていると、 そもそも白には存在意義がない。だから争いをけしかけるのは、常に白の側。

物語世界の対立

白と黒。善と悪。光と闇。

正義と悪とを代表する、2つの価値観の争いという世界観は、昔から物語の基本中の基本。

正義は常に勝つ。でも、戦いかたが卑怯なのは、常に正義を僭称する側だ。

物語で罠にはまるのは、常に「白」のほうだけれど、白が絶体絶命の危機に陥ったところで 黒が油断し、最終的には白が勝利する。

物語の全体像を見通せる読者から見れば、白を罠にかけた時点で、実は黒が罠にはめられている。 白は黒を油断させ、その世界の「規則」の違反をさそう。罠を踏んだ黒は神様の怒りに触れ、 最後は滅ぼされる。

「黒」はそんなに悪いのか?

正義と悪。人として信頼できて、頼りになるのは大抵は悪を名乗るほうだ。

正義を名乗る連中は、何を頼んでも「規則違反」を理由に突っぱねる。

水戸黄門を見たって分かる。どんな証拠を積み上げたって、放送終了10分前にならなければ 「もう少し様子をみましょう」だ。

「正義」にとって大事なのは、事実の正しさでなくて、世界のルール。

水戸黄門世界のルールでは、正義側が動いていいのは最後の10分だけ。 それまでは何を頼んでも動いてくれないし、最後の10分になれば、 悪人をでっち上げてでも、誰かが裁かれるだろう。

黒の武器は、自由であることだ。その力は限定されるし、代償もいる。 それでも常識の分かる人が多いし、約束は守られる。

キリスト教世界の悪魔は、 絶対にウソを付けないというルールに縛られる。 ウソをつかないのは人付き合いの 基本中の基本だ。 このあたり、「神様」サイドのほうが、よっぽどたちの悪いことをしている。

桃太郎はなぜ鬼を虐殺したのか

神様は正直者を愛するのではなく、「バカ正直」を愛する。

浦島太郎然り、桃太郎然り。

正義の規則に愛され、勝利する「白」 というのは、目の前でおきている異常現象を疑いもしないで行動する、一種の性格破綻者だ。

彼らにとっては、目の前の事実の質はどうでもいい。 大事なのは、その物語世界のルールに従って行動すること。

亀の話を真顔で聞いたりする行動は普通じゃない。浦島太郎の物語世界の中でも、 もっと常識的な子供達は亀を叩いた。 しゃべる亀なんか見たら、普通は誰でも怖い。実世界のルールは、御伽噺の中でも一応通じる。

桃太郎は、鬼を殺した。

童謡「桃太郎」の歌詞は、後半になると不気味に変化する。

  1. 桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけた黍団子 一つわたしに下さいな
  2. やりましょう やりましょう これから鬼の征伐に ついて行くならやりましょう
  3. 行きましょう 行きましょう あなたについて何処までも 家来になって行きましょう
  4. そりゃ進め そりゃ進め 一度に攻めて攻めやぶり つぶしてしまえ鬼が島
  5. おもしろい おもしろい のこらず鬼を攻めふせて 分捕物(ぶんどりもの)をえんやらや

住民はたしかに困ってた。財宝も奪われていたし。それでも、事実関係の確認もせずに 相手を殺しに行くのは、やっぱり変だ。

「正義」を疑わず、何のためらいもなく殺しましょう

桃太郎の物語の言いたいことは、こういう価値観だ。

正義は社会の荷物

スターウォーズの世界で帝国が大きくなったのはなぜか。

みんながそう望んだからだ。

古い価値観を暴力で押し付けるジェダイの存在というのは、 自由な貿易を行いたいとか、もっと自由な政治形態に移行したいという価値観を もった人達にとっては、邪魔でしかなかった。

世界を本当によくしたい、豊かにしたいと考えたのは、皇帝パルパティーンのほうだった。 デススターが出来て、世界に秩序が生まれ、みんな平和に豊かになった。

その世界を破壊したのはジェダイの騎士だ。 物語の最後、ジェダイは確かに勝利した。でも、残されたのは荒廃しきった社会。

あの壮大で迷惑な戦いは、「みんな」に何を残したのだろう。

正義を名乗る者というのは、「悪役」がいないとただの社会のお荷物になってしまう。

皇帝陛下は「悪」だったのか?

見た目がちょっと怖い」。皇帝陛下の「悪い」ところなんて、このぐらいだ。 その見た目でさえ、怖く変形させたのはジェダイのしわざ。

正義は正義でいるために、「悪役」をでっち上げることぐらいは平気でやる。

福の神になったびんぼう神

「黒」が「白」に勝つ話は少ない。

数少ない例外のひとつ、「貧乏神と福の神」の物語では、悪役だった貧乏神が 福の神に打ちのめされ、さんざんに叩かれる。

絵本を見ると、貧乏神を叩く福の神の顔は醜悪に歪み、彼が物語のルールを踏み外している ことがよく分かる。

あの話の中で、「物語のルール」の決定者であり、世界の「神」の役割を果たしていたのは、 貧乏な夫婦のほうだった。ルールを外した福の神は夫婦の支持を失い、 だからこそ貧乏神が福の神に勝利するという「奇跡」がおきた。

正義は正義でありつづけるために、しばしば世界のルールを破る。黒であろうが白であろうが、 世界のルールは公平だ。破ったほうには「天罰」が下る。

黒が白に勝つために

争いは、だんだん大きくなっている。

今まではけっこう平和にやってきた。日本中の患者の虐殺を始めた わけじゃないし、医療費だってそれなりに安く抑えられてきたし。

ところが、うまくいきすぎた社会からは、「白」の存在意義というのが失われてしまう。

白が白でいるためには、黒が悪いことをしないといけない。

「黒」的には、みんな灰色で全然かまわない。色が薄まって、イメージがよくなる分には 全くかまわないし。

ところが「白」には一滴の染みも許されない。黒は汚れが目立たないけど、 白いほうはそうはいかない。

いま、目立たなかった「染み」というのがだんだん目立つようになってきて、 たぶん、「白」の人達はけっこう焦ってる。

だからこそ、「世界のルール」を曲げてまで、「黒」に争いをけしかける。

この争いに「黒」が勝つためには、「白」に負けること、蹂躙されること、 徹底的に打ちのめされることだ。

  • 戦わないで守りに徹して、自分にできる範囲の仕事だけを粛々とこなす
  • 絶対に悪態なんかつかないで、バカ正直に仕事を続ける
  • 黒のほうから手を出したり、世界のルールを作っている人をコケにするような発言は、 一つの例外もなく止める

お客様は神様という言葉は、理念ではなく真実だ。

「黒」が「白」に勝利しようと思ったら、自分達を脱色して黒を白へと変換するしかない。

それはとても難しいことだ。なんせ私等は、黒なんだから。 染みひとつ残ったら、「白」にはなれない。

それでも、黒が白に勝つための最低条件、「相手がルールをはみ出すこと」は、 現在もうはじまっている。争いが始まった以上は、勝利する戦略のほうがいい。

白衣を着た黒と黒い制服の白との争いは、たぶん今が鍔際なのだと思う。

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2006年4月28日

Community Engineering

「コミュニティエンジニアリング」という言葉を思いついた。

漢字で「組織工学」と書いてしまうと、Tissue Engineering になってしまう。

工学というのは、機械やコンピュータ、人間の社会制度といった、 人の力を拡大してくれる「何か」をよりうまく活用するための学問だ。

チームやコミュニティといった「人の集まり」というものもまた、 独立した個人の集団以上の力を与えてくれる。

1+1は2にしかならない。コミュニティを作ったところで、個人の力の総和は一緒。

それでもチームを作った集団が強くなるのは、力の使いかたがより効率的になるからだ。

良くできたコミュニティというものは、城砦都市に似ている。

  • 外からの攻撃に対する備えは、兵隊が分担する。
  • 城砦の中は平和が保たれ、自由な市民による経済が発達する。

城砦都市は、外からの攻撃に対してはほぼ無敵だ。その反面、中の人は武装していないから、 内側からの攻撃にはもろい。外敵に対する防御の壁は強力だけれど、 一度攻めこまれると、今度は市民の逃げ場を奪ってしまう。

まとまったコミュニティというのは強力な力を持つ。同時に、必ず何らかの弱点を持ってしまう。

弱点をカバーして、より効率のいい方法に対するニーズがあるところには、きっと工学が成立する。

コミュニティを立ち上げ、強化したり、コミュニティを乗っ取ったり、暴走させたり、 分裂させたり崩壊させたり。そんなことを考える学問。

  • いかに早くコミュニティを立ち上げるか
  • キーパーソンの抽出
  • コミュニティの目標設定
  • 得意分野と役割分担の問題
  • コミュニティの成果の分配の問題――賞賛は誰のものか?
  • 逆らえない「大きなテーマ」――世界平和を訴える日共細胞
  • 怪物を作る「リーダーの赦し」――アイヒマンの例
  • 相互不信のキャズムをこえろ――不信の創造から組織崩壊へ
  • みんなは仲間という病んだ考え
  • リーダーには従おう症候群
  • 仲間は守るものか?
  • 優秀な他人よりも劣った仲間
  • みんなは平等の悪夢――報償はどこまで分割可能か?
  • 怒った人にはとりあえず従う――怒りを用いた組織コントロール
  • コミュニティの流れは中から観察できない――ミクロネシアの星の航海術
  • スタンフォード監獄実験――個人の性格は立場が決定する

こんなテーマの本があったら、けっこう面白いと思うんだけどな…。。
O'Reilly あたりで、誰か書かないだろうか。

追記;コミュニティハックという言葉をすでに 提唱している方がいた。ハックのほうが響きがいい…。

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2006年4月27日

剣と魔法と「空気読め」

「百歩神拳」を放てる男がいる。

学部の合気道部の主将だった彼が「ハッ」と気をはなつと、 道場中の下級生が魔法のように吹き飛ぶ。飲み会のときなど、面白いように決まる。

残念ながら、空気の読めない一般人には効果がない。

空気で成り立つ物語

魔法使いが当たり前のように存在する世界、剣と魔法のファンタジー小説の 登場人物というのは、みんな「空気を読む」のが上手だ。

魔法とは、「場」の力を利用する。

場の持つ力とは、その世界のみんなの共有する空気の力。 「マナ」とか「根源の力」とか、物語によって表現はいろいろ。 魔法使いは、様々な呪文を駆使してそうした力を操つる。

ファンタジー世界の住人というのは、みんなが魔法使いがやろうとしている ことを読む。

魔法使いが誰かに呪いをかければ、そのまわりの人は気をきかせる。

「お前、呪いかけられたんだから、さっさと死ねよ…」

こうして呪いは成就し、場の力は保たれる。

ファンタジーは、「空気を読めるみんな」のおかげで成立している。

準備が必要な近大魔術

場の力なんかない現代社会では、魔術を行使するのは難しい。

救急外来に、「ルシファーを呼び出したはいいけれど、去ってくれない」という主訴の人が 運ばれてきたことがある。

「今彼はどこにいますか?」と尋ねると、「ほら、そこに…」と自分の方を指差された。 けれど、うちの外来の「場」には、ルシファーを実体化させるだけの力はなかった。

体育会の主将は、下級生を集め、みんなで飲んで騒ぐ。

そうしてできた「空気の力」は、その場の人を吹き飛ばすぐらいの力を持つようになる。

現代社会の魔術師が力を行使しようと思ったら、そのための「場」を作る努力は欠かせない。

魔術というのは、普通の人が科学と論理とで行うものを、もっと別の方法論で行おうとする術理だ。

代表的な魔道書「ソロモンの鍵」の中に記載されている悪魔を召還する方法「黒い牝鶏」というのは、 こんなやりかたをする。

  1. 一度も卵を産んだ事のない黒い牝鳥をもって、十字路に立つ。
  2. この十字路で深夜、牝鳥を2つに引き裂いて、「エロヒム、エッサイム、わが呼び声を聞け」とラテン語で唱える。
  3. この際、術者は東に向かって膝まずき、糸杉の枝を手に持つ。

魔術の流れの中で大切なことは、「誰かが呪われた」ということが周囲の人々に噂として伝わること。

「○○が××を呪ったらしいよ…」

こういう噂が一度流れれば、呪われた相手の不幸はすべて「呪いのせい」になる。

石で転ぼうが、病気になろうが、全て呪いのせい。 そうしたものが現実にあろうがなかろうが、大事なのは「きっと呪いだ」という空気が 周囲の人々に共有されることだ。

日本に伝わる「丑の刻参り」のやりかたや、「八田坊の釘」などといった呪いのやりかたというのも、 方法論は同じ。「隠れてやれ」と伝えられながら、そのやりかたは「誰かにみられること」を前提にしている。

魔道書が提供する方法論というのは、そのまま地域の「空気」を操る方法論として読み解ける。

人事を尽くして天命を待つ

科学と論理の支配する現代社会。空気なんか使えなくても、もっと簡単で効率的な方法はいくらでもある。

ファンタジー世界で対立する剣と魔法。 「目に見える力」と、「空気の力」。

現代社会は、剣の社会だ。目に見えない空気の力を行使する術というのはないわけじゃないけれど、 そんな物を用いなくても、ほとんどのことは目に見える力だけで達成できる。

夜中に人を呪うようなまねをしなくても、腕のいい弁護士の人に相談して訴訟をおこせば、 大抵の人間には回復不能なダメージを与えられる。魔術や呪いの出番はない。

ところが、社会を構成する人たちが各々持っている「力」の正当性が大体等しくて、 お互いを調停する「権威」や「法律」なんていうものもない場所では、まだまだ「空気」は役に立つ。

魔術の術理というものは、人の集団の中で生きてくる。

目に見えない力を使う努力。見えないだけに、そんなものを否定する人も多いし、 実際使うのは難しい。それでもそれを使える人は実際いるし、使った分だけの効果というものもある。

いろいろやって、「後はもう神様任せ」という状況は、病院ではそんなに珍しくない。

天命を待つ前に、「本当に人事を尽したのか?」という自問自答は、なかなか止められない。

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2006年4月23日

いい文章の書きかた

実家の言い伝え。

  • 「達意の文章」であること。わかりやすいこと、一読して何を言お うとしているか、相手にわかること。何度も読み返さねばわからず、読みように よって意味が違ってとれるなど論外。あまりに長い文章は、たとえば野坂昭 如のごときのテクニシャンでなければ、たいてい破綻をきたす。
  • 「名文を書こう」などという色気がチラとでも見える文章はイヤらしい。 そんなことより、いま書きたいと思うことを、わかりやすく、自分の使い慣れた言葉 で、しかもこれ以外にない、という適切な言葉を選んで表現する。そのため にはボキャブラリーは豊富でなければ。
  • 自分が表現しようとするものに適切な言葉をあてる。 クダクダと何語も連ねるのでなく、ピタリと言う。
  • 手垢のついた表現を使わない。たとえば「ピカピカの1年生」などというのは、 もう垢まみれの言葉。人の言い始めた表現を盗まない。
  • 書き手の態度。これは生き方と不可分のもの。己に正直、能力 をひけらかさない、謙譲で人の言うことにもよく耳を傾ける、そうした人柄というも のは、自然と書いたものににじみ出る。「文は人なり」というのは真理。
  • まちがってもアジテーターにはならないように

最近は、このルールをことごとく破っている。

昔から「いい文章」を書こうと気張っては難しい表現を多用してみたり、 読者受けをしようと色気を出しては誰かを中傷するような表現を多用してみたり。 そのつど怒られた。

いい文章なのかどうかはさておき、テキストをたくさん書くことで、その人の 「文体」みたいなものは自然にできてくる。分かりやすいのかはさておき、 長い文章を書くこと自体は、けっこう簡単にできるようになる。

昔は実家の文章作法を守ってた。

ところが、アイデア先行で文章を書くようになってからは、 原則から外れた文章ばかりになってしまった。

文章のタネになる発想というのは揮発性で、いつ思いつくか分からない。

「いい発想」と「発想の文章化」というのは全く違った工程で、 面白い発想であっても文章化するとつまらなくなってしまったり、 逆につまらなそうな発想であっても、文章化していく過程でアイデアが膨らんできたり、 いろいろ。

大事なのは、アイデアの質ではなくて、量だ。

とにかくアイデアをいっぱい出して、 とりあえず文章にしようと試みないと、それがいいものなのか、そうでないのかは 判断できないから。

「今の考えかたは面白かったから、後からまとめよう」と思ったことで、 後から思い出せたためしがない。

発想というのはどこか意識の奥の方、アカシックレコードみたいなところから浮かんでくる、 水泡のようなものだ。

泡が水面ではじける瞬間を記録できれば、それはアイデアになるけれど、「その瞬間」を 記録できなければ、そのアイデアは失われてしまう。

アイデアを見つける工程について、漫画家の萩尾望都はそれを「海に潜るようなもの」と表現している。 ネーム(漫画の原作)を作る作業は暗く深い海―無意識の世界に深く潜っていくこと。 そこにどんどん深く潜れば潜るほど、いいものが見つかるという。

おそらくは、プロの表現者の人達の集中力というのはものすごくて、アイデアの水泡が意識の水面に 浮かぶその前、水中にある時点でそれを持って来てしまうのだろう。

普通の人にはできないことだし、作家の人たちが時々「向こう側」に行ったまま帰ってこないのは、 あるいはそうした行為を繰り返した後遺症みたいなものなのかもしれない。

自分はまだ常識人(一応)だから、アイデアは意識に浮かんだ瞬間、 水面で泡がはじける瞬間を書きとめるようにしている。

具体的には palm を常に持ち歩いていて、何かがフッと浮かんだとき、後回しにしないで その瞬間にメモをする。

ちょっと前、島田伸介の何かの番組で、伸介が磯野貴理子のハンドバッグの中身をぶちまけてしまい、 その中にあった「ネタ帳」をカメラに公開したことがあった。

分厚いノートの中は、会話の言い回しのネタでびっしりで、 「みんなこうやってるんだ…」と感心した記憶がある。

たとえば、palm のメモには、こんなことが書いてある。

  • コレステロールが服着たような(肥満の表現)
  • 水死体を裏返したら肋骨に沿ってシャコがびっしり(多分どこかの掲示板から拾ってきた)
  • 議論レイヤ(造語) 

自分の「アイデア」というものは、文章のテーマとか、 結論に相当するものではなくて、ほとんどがこういう「言い回し」に相当するものだ。

面白そうな言い回しとか、下らない表現といったものがまずアイデアとして浮かんで、 それを活かせるような文章のテーマを考えて、最後に当り障りのない結論を持ってくる。

逆のケースもたくさんあるけれど、「まず言い回しありき」で文章を書くことはけっこう多い。

議論レイヤという言葉が頭に思い浮かんだときには、何とかそれを使ってみたくて、 漫画「陰陽師」と山本七平を思い浮かべつつ、「体育会の議論」というテーマに たどりついた。

肋骨にそってシャコが…の話は、上司にすし屋に連れて行ってもらったときに シャコの話をしたらドン引きされた昔話から書きはじめて、それが空気の話になって、 ICUの政治の話になって、結局シャコがびっしりのくだりは文章の中から浮いてしまい、 削除したら件の話になったりしている。

「達意の文章」どころか、そもそも言いたいことなんかないところから文章を考えるから、 なかなか原則どおりには行かない。

他の人達は、どうしているんだろうか?

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2006年4月20日

感染症診療のWeb教科書

静岡がんセンター感染症科 の先生が、感染症の教科書を公開しておられた。

感染症ブログ:「感染症診療の手引き」公開のお知らせ

PDFは印刷がきれいでいいのだけれど、欲を言えばHTML版を公開してほしい。

HTMLでないと検索エンジンとの相性が悪すぎて…。

日本語のWeb教科書も、最近ようやく増えてきた。

誰か、Wikipedia みたいな型式で、今日の診療指針と張りあうようなやつ、 作ってくれないだろうか。

エビデンスの程度は分からなくても、日本の治療スタイルに則していて、 「ここを見ればとりあえずなんか書いてある」ものが ネットにあると、とても便利なのだけれど。

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2006年4月19日

空気を使った仕事のやりかた

空気を読もうとする人に対する批判が増えたような気がする。

やっている仕事の影響なのか、 こうした意見には違和感を感じる。

空気は役に立つ。少なくとも、自分が病院で仕事をするには。

医療は配分の問題

漂流する宇宙船に100人の人が乗っていて、次のステーションまでの酸素は50人分しかない状況。

  • 残りの酸素を平等に分配すると、全滅
  • 全ての乗組員が共産主義者だったら、リーダー一人を残して全滅
  • 全ての乗組員が人権活動家だったら、やっぱり全滅
  • みんなで酸素の奪い合いをして、生き残るのはようやく数人

どう立ち回っても、50人分の酸素で50人を生かすのは、けっこう難しい。

臨床医学というのは、「50人分の医療資源をどうやって100人に配分するか」という学問だ。

手持ちの資源を上手く使って、最初の50人は何とかする。間に合わない50人分は、 血と汗と根性と気合とで、何とかする。

西洋医学は、特定の病気については結構すごい。

十分な時間とコスト、そして何よりも、十分なマンパワーを突っ込める環境さえあれば、 相当悪い状態からでも治る人は治る。

内科の領域では、医者の「腕」のかなりの部分はマネージメントの手腕がものをいう。

大学病院急の施設でさえ、マンパワーは全然足りない。

貼り付きで診ないといつ急変するか分からない患者が来ても、自分の外来はあるし、 検査当番の枠もある。

看護婦さんとか、他のスタッフ、あるいは集中治療室のベッドを借りようにも、 そのベッドのほしい患者さんは他の科にもいる。

上顎癌の手術後の患者と、人工呼吸器の必要な新生児のどちらが「重い」のか。

将棋の名人と、オリンピックの短距離金メダリストのどちらが「強い」のかを比べるぐらい、 比較の難しい問題だ。

足りないものを平等に分けたら共倒れだ。自分の受け持ち患者が倒れるのを見たくないなら、 他科に倒れてもらうしかない。

空気を使った仕事のやりかた

劇症型心筋炎の患者さんを受け持ったことがある。

とにかく重たい病気。10日間ぐらい、心臓は完全に止まってしまう。

人工心肺必須。患者さんの状態はむちゃくちゃ悪くなるけれど、 運が良くて、十分なマンパワーを突っ込めるならば、復活して歩いて帰れる。

患者さんは集中治療室に入ることになる。いつもの病棟とは違う、いろいろな科の 重症患者が「そこにいる権利」を取り合っている場所。

大学のICUには、集中治療専門のスタッフがいる。 この人たちが集中治療室のマネージメントを行っていて、 限られたICU資源を、各科に「公平に」配分している。

公平なんて冗談じゃなかった。

重症患者を持ったら、もう目の前の患者のことしか考えられなくなる。

ほしかったのは「全部」。 他の患者がどうなろうが、正直知ったこっちゃなかった。

建前「公平」のところから「全部」を引っ張るにはどうすればいいのか。

空気の力を借りるしかない。

心がけたのは、「病棟の空気を作る」ことだった。

「ICUに内科が患者を連れてきた」から、「ICUで診ている○○さん」へ。 空気を変換できれば、「公平」なんか簡単にひっくり返せる。そう信じた。

  • 用が無くてもいつも病棟にいる。ICUに本を持ち込んで、 飯喰うとき以外はいつもそこでブラブラしていた。
  • 毎日患者さんのエコー検査を行う。エコーを毎日やることには、医学的には何の意味も無い。 エコーは検査の道具ではなく、コミュニケーションの道具だ。見慣れない医者が、 見慣れない検査をしていれば、人が集まる。人が集まれば、その病棟のスタッフと会話ができる。
  • 毎日「よくなっています」という。良くなっている人には、みんな熱心になる。 ICU入室後の最初の1週間、患者は毎日「良くなって」いった。 化けの皮がはがれて心臓が完全に止まった頃には、もうみんなと知り合いになっていた。
  • 常に患者さんの話題を出す。本人は呼吸器つながれて意識も無いから、 話題なんか作りようもない。 それでもしゃべる。奥さんが髪の毛を染めた。 子供が昨日泣いていた。明後日長崎から両親が来るらしい。何でもしゃべった。
  • 自分の考えを伝えて、相手に判断してもらう。 決める人は常にICUスタッフで、内科はその下僕という スタンスを徹底した。
  • 家族を抱きこむ。奥さんや実家の家族には、ICUスタッフのその日の担当者、 上の先生の顔を覚えてもらって、毎日挨拶してもらった。

集中治療室での管理をしてもらえる期間は、通常長くて2週間。

毎朝の各科集まってのミーティング。「次に出されるのは誰だ?」というのは、 みんなの共通の関心事。

入室の長い科に対するプレッシャーは日ごとに高まり、圧力に負けた科はICUから病棟に戻る。 医学的には、みんな十分すぎるぐらいに重症の人ばかり。それはお互い分かってる。 理屈だけでは、議論の決着はつかない。

入室10日目。

「今度出るのは内科だろう…」というのが、各科共通の空気だった。

それはこっちも読めたから、その日のミーティングには気合を入れた。

いつもの出席人数は、自分と下級生の2人。その日は、助教授以下、医局員14人。

話す話題は、いつもと同じ深夜帯から日勤帯への申し送り。申し送りの最後。 やっぱり退室勧告があった。

ICU:「○○さんは入室も長いですし、そろそろ…」

内科:「要は出ていけ。と?」

相対する白衣と白衣。こうなったら、人数の多いほうが勝ちだ。

内科は残留。代わりに出ていったのは、小児科の子供さん。

ミーティング後、病棟の廊下で、小児科の主治医(女医さんだった)から抗議を受けた。

内科の先生方は、やりかたが汚くないですか?

その時の自分にできる、最高の微笑みを返してあげた。

そう。

内科はたしかに汚いよ。

でもね。

あんたの科のガキが「5番ベッドの新生児」と呼ばれている間。。。

うちの患者の呼ばれかたは「○○さん」だったんだ。

みんなプロだ。強弁と恫喝なんかで、入退院の原則が覆るわけがない。

強弁は単なるきっかけ。こうなることは、最初から分かってた。 大事なのは、ミーティング当日の朝の時点で 「そうなる空気」が準備できていたこと。

空気の力だ。

みんな空気に作られた

まだまだ駆け出しだったころ。

何か「間違った」ことをやっては、上級生から怒られる毎日。

怒られてるから、何か間違えていることは分かる。 怒られる理由は説明してくれる。

でも、なんでそのことで怒られるのか、 卒業したばかりの研修医には、理解の埒外のことだらけ。

客商売の大切さ、ましてや間違えたら人が死んじゃう危機感なんて、卒業したての 若手には、まだまだ共有できない。

最初の頃のモチベーションは、「上級生に怒られたくない」、その一点だった。

人が成長するためには、試行錯誤が不可欠だ。

自分でやってみて、間違えれば間違った結果が出るし、正しければ何かを得られる。 行為の結果というのは、最良の教師になりうる。

ところが自分達の業界ではこれができない。

間違った行為の結果というのは、そのまま医療事故だ。最悪人が亡くなる。

それは困るから、上級生はとにかく怒る。

怒られるほうからすると、その理由はどうしても理不尽に聞こえることがある。 「間違ったことをやったらどうなるか」を、実際に見た人がほとんどいないから。

「そこはそういうもんなんだ」。

成長するということの最初の一歩は、この「空気」を共有することからはじまった。

理由は後からついてくる

ドアを静かに閉められない人が増えているそうだ。

バタバタ音を出せば、みんなが迷惑する。ちょっと考えれば分かりそうなものだけれど、 「みんなの迷惑」というものが想像できない人には、この必然性が分からないらしい。

ドアを静かに閉める習慣のある人は、その「必然性」とやらを理解してやっているのだろうか?

子供の頃、ドアをバタンとやったら、父親から死ぬほど怒られた。それだけのことなんじゃないのか。

「必然」なんか後からついてくる。

自分が無自覚にやっている行動が、気がついたらみんなにとって快適な、行為になっていた。

こうした動作の習慣というものは、たぶん理不尽な教育手法で叩きこまれたもので、 理論だてて教えられた人は少ないんじゃないかと思う。理由なんか、後から適当につければ十分だ。

「みんなの意見」なんか、本当は存在しない。

そうした幽霊みたいなものを信じさせているもの、ないものに対して気を使うモチベーションの 元になっているものこそが「空気」というものだ。

空気は形があやふやで、非常に厄介なものだけれど、やりかたさえ正しければ、 それはある程度までは操作でき、多くの人の力を借りる役に立つ。

自分が仕事を続けていく上では欠かせないもののひとつだ。

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2006年4月16日

この世の全ての悪に…

記憶の人フネス

ボルヘスの小説「記憶の人フネス」は、完璧な記憶力の持ち主の不幸な物語だ。

物語中では、フネスは痴呆に近い人、頭の回転が鈍い人として描かれる。

フネスは完璧な記憶を持つ。その代わり、考えることができない。

フネスの記憶は完璧すぎて、たとえば三時十四分に横から見た犬と、 三時十五分に前から見た犬とが同じ名前で呼ばれるのが理解できない。

完全な記憶を保持できる人にとっては、「犬」という一般化した概念は必要ないから、 全ての思考は単なる思い出しの作業になってしまう。

考えるため、何かを創造するためには、頭に入ってきた情報をから必要なことだけを 取り出して、概念化するプロセスが欠かせない。記憶が完全に保たれるなら、 そもそも「必要な部分だけを取り出す」必然性がない。だから考えられない。

「物を忘れることができる」能力というのは、思考をしていく上ではけっこう重要な能力だ。

実在した記憶術師、エス・ヴェー・シェレシェフスキーは1920年代に記憶術の ショーで活躍した人物だが、その後半生は記憶を消すことができないことに悩まされたという。

彼は、記憶した数列や言語を紙に書き出し、その紙を焼き捨てることで、「忘却」を達成しようと試みた。

しかし、黒く燃えた紙の上にも彼が記憶した文字や数字は浮かんで来てしまい、 記憶を消すことはできなかったという。

Getting Things Done

父親が他界したときのこと。

けっこう急な話だった。

入院患者を誰かに頼んで、外来をたたんで。慌てて実家に駆けつけたけれど、 何から手をつけていいのか分からなかった。

父が生前頼んだ通販の解約。遺品の整理や、大学に残した物品の引取り。 何よりも、これから先の暮らしをどうやって立てていけばいいのか。

瑣末な問題から、大きな問題まで、解決しなくてはならないこと山盛り。 原因になった当の本人はもうこの世にいないんだから、どうしていいのか 本当に分からなくなった。

頭が再び回りだしたのは、生命保険や処分した資産をどう保管するか、という問題が解決したときだ。

「とりあえず郵便貯金に預けて、しばらく忘れましょう。」

根本的には何の解決にもなっていない、単なる先送り。

それでも「その問題は今考えなくてもいい」ということに気がついたとき、 何かが回りはじめた気がした。

人の脳が使えるメモリの量は本当に少なくて、問題が増えるとすぐにハングアップする。

どんなに小さなものでも、それが頭の一部を占領しているかぎり、前に進む力というのは どんどん失われていく。

原因が知りたいという不幸

科学と似非科学。

  • 伝統的な科学者は、問題を研究して、論理を積み重ねて結論にたどり着く。
  • 似非科学で人を騙す人は、まず問題に対する結論を出してしまって、 それを証明するために研究をする。

全然違うようだけれど、出発点は同じ。何かの問題があって、それを解決するために なにか原因を特定したいという思いはどちらも共通だ。この思いすらないものは、 似非科学でなくて詐欺という。

西洋医学は科学的な手法を用いるけれど、病棟で臨床をやっているときは、 似非科学的な手法をよく使う。

例えば不明熱の患者さんがいて、「原因は分からないけれど、 多分ステロイドくれれば効くだろうな…」という ケースは実際よくある。

こんなとき、「分からないけど、とりあえず使ってみました」では、 西洋医者の解答としては問題がありすぎる。で、 MedLine を駆使して自分に味方してくれる論文を探す。

一応、論文は科学的な手法で導かれたものだけれど、 「まず結論ありき」で論文を収拾すると言う態度は、 似非科学者のそれとあんまり変わらない。

結論が先にあって研究するのか、それとも研究の結果としての結論なのか。

この順番は決して入れ替え不可能なものではない。

伝統的な科学者が主張するほどには、科学と似非科学の手法には違いはない。

科学者にとって、何よりも大切なのは、原因を突き止めることだ。

ものごとには原因があって、それを解決すれば問題は解決する。

科学者を動かしているのはこういった考えかただけれど、 この「原因が知りたい」欲求というのは、その問題のことを速く忘れたいという 欲求の裏返しなんじゃないかと思う。

「フネス化」する人々

人は忘れられる。だから考えられるし、前に進める。

インターネットは、この「忘れられる」という能力を壊してしまった。

何年経っても、検索さえすればいつのニュースでも参照可能。 Web の管理者が削除した情報ですら、 ネットを探せば必ずどこかに痕跡は残る。

情報は忘れられることなく、ネットにつながった人は無限に近い記憶の容量を持つ。

ネットで文章を書いていると、1年もすれば自分のオリジナルな体験など底をつく。 何か新しいことを書こうとしても、ネットのどこかで誰かが同じことを書いている。

完璧な記憶は、書き手の思考を縛る。全ての人はフネスになる。忘れることを忘れた人は、 思考することができなくなってしまう。

真実を知りたいんです。

最近の医療訴訟の原告の人達は、記者会見などでは決まってこう言う。

「真実」なんて簡単だ。全日本レベルの優れた医師が、ただ一人の患者に全力を投入できるような 環境であれば、大抵の医療過誤なんて無くなる。

現実問題としてそんなことは不可能で、 アクセス性とコストの問題を妥協するから、結果としてリスクが生じて犠牲者が出る。 それだけのこと。システムの問題だ。

医療者側の考える「真実」と、原告側の人たちが求めている真実とはしばしば乖離する。

原告の人たちが求める真実は、焼き捨てることが可能でなければならない。

  • 「システムの問題」とか、「確立の問題」といった真実は、火をつけて焼くことができない。
  • 「犯人は○○」とか、「実は、黒幕に○○がいて…」という真実は形が見えるから、それに火をつけて 焼き捨てることができる。

忘れられなくなると、みんなフネスになる。

考えられなくなり、なんでもいいから燃やせるものを探し出す。

忘れるため、思考を続けて、前に進むためには、「原因」を紙に書いて焼き捨てなくてはならない。

たとえそれに効果がなかったとしても。

ネットに忘却をもたらすもの

「忘れることが不可能な装置」の最たるものは、Winnyだと思う。

P2Pのネット上に放流された情報は消されることがなく、ずっとネットをさまよいつづける。

Winny ネットに参加した全てのパソコンからデータを消さない限り、Winny に放流されたデータを 消すことは不可能だ。個人の不倫の情報だろうが、国家機密だろうが、「忘れられることがない」 と言う意味では全く対等。

Winny上のデータを何とか消すことができないものか。

このまま放流が続くとろくなことにならないデータはたくさんさまよっていて、 いろいろな専門家が「Winny に忘却をもたらす」方法を研究している。

大量の偽情報を放流して検索を無意味化するとか、 Winny 上のデータにインデックスをつけて消去可能にするといった アイデアが発表されている。

医療の事故があると、必ず「誰が悪いのか」「原因は誰なのか」という犯人探しが始まる。

問題を解決するためには何か「形」を持った原因、 あるいは悪役というのが必要で、その悪役を「焼き捨てる」ことで、事故にあった当事者は そのことを忘れようとする。

大抵の場合、その「悪役」は便宜的なものにしか過ぎなくて、本当の原因はもっと奥のほう、 形にしたり、あるいは復讐したりするのが不可能な場所にある。

便宜上の「原因」を焼き捨てたところで、 その残骸の表面にはやはり忘れたかった事故の記憶が浮かぶ。

焼き捨てられた「原因」たる当事者の医師は焼かれ損なだけ。 ただでさえ人の少ない現場からは、 また一人貴重な人的リソースが失われる。

「忘れるための新しい技術」というのは、 もしかしたらそうした過程にも何かの変化をもたらしてくれるかもしれない。

今のWinnyの技術の進歩には、ひそかに期待していたりする。

解決不可能な問題に適当な悪役を仕立て上げて、その「悪」を焼き捨てて、 忘れたふりだけするなんていう茶番は、結局は自分達の首をしめるだけ。

医師-患者関係の進化の可能性というのは、きっとこんなところにも転がっている。

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2006年4月13日

病棟で幸せなスタートを切るために

新学期。

どこに行っても、この時期の新人はいろいろだ。

やたらと元気で要領のいい奴。
おどおどして使えない奴。
地味な奴。派手な奴。やる気を見せるのが上手な奴と、自己演出の下手な奴。

上級生は忙しい。スタッフはもっと忙しい。

中身なんか見ているヒマはない。見るのは上っ面だけ。

そんな状況で不幸な思いを避けるには、知恵がいる。

最初は「見られている自分」を演じる

「カバー」という概念を理解するのは、けっこう大事かもしれない。

やせてる奴はまじめ。デブはトロい。マッチョな奴は面白くて明るい。チビはすばしこい。

誰だって先入観を持っている。初対面の人間には、必ずカバーがかかってる。

  • カバーがぴったりとあっている人間とは、何の違和感もなくつきあえる。
  • カバーがぶかぶかだと、その人はまるで、できの悪い着ぐるみでもかぶっているような違和感が残る。

不真面目なガリ。すばやく動く、鋭いデブ。

予測は外れる。 いい方向にもそうでない方向にも。何の根拠も無いものなんだから、いつも外れる。

それでも、他人からみた自分の印象を把握しておくのは大事だ。

  • デブが鋭さを見せるのは、病棟スタッフと十分なじんでから。
  • マッチョはまじめすぎると怖いだけ。
  • 痩せてる奴は最初から鋭さが求められるから、第一印象がすごく大事。

いい仕事をすればいつか分かってもらえるなんてウソだ。 「いつか」なんか絶対に来ない。

カバーキャラクターを自覚的に演じられない奴には、 残念ながら病棟の表舞台に立つ資格なんかない。

「負けない」新人になる方法

ローテーションの時期がくれば、また一からやり直し。勝者は常に勝利を続け、 負けた原因を把握できない奴はいつまでも負け続ける。

短期間の勝負を繰り返す病棟研修。「勝つ」理由は様々だけれど、 「負ける」理由はそういくつもない。

  • 前任との引き継ぎができない
  • 上級生との口のききかたが悪い
  • 患者さんの評判が悪い
  • 「やる気」の演出が下手

たぶんこれだけ。勝つためにはプラスアルファの要素が欠かせないけれど、 「負けない」ようにすることは、決して難しくない。

前任の友人には引継ぎをしっかりさせる。書類の書きかたを教えてもらったり、 機械の操作を教えてもらうときには、そもそもその書類がどこにあるのか、 機械を管理している技師さんのPHSの番号、そういった細かいものまですべて白状させる。

上級生には「ですます」で話す。相手を尊敬しようが見下そうが、そんなことは関係ない。 大事なのは形であって、中身じゃない。3ヶ月しかないんだから、中身なんかなくても大丈夫。

清潔な白衣を着て、毎日風呂に入る。帰れる日は意地でも帰って、服を着替える。 小児科を回るときには、轟轟戦隊ボウケンジャーと仮面ライダーカブトの登場人物ぐらいは 暗記していて当然。

病棟茄子のコールは、いつもにこやかに受ける。 「自分は能天気な馬鹿だ」と、自己暗示をかけつづける。 「時間外に僕を呼ぶのは、どんな理由なんですか?」なんて絶対いわない。

簡単なことだ。

苦手は研究の母

直感とは異なり、どうやら人は自分が苦手なことを研究テーマに選んでしまうことが多いらしい。
調べてみたところ、苦手なことを研究テーマに選んでしまう傾向は「専攻分野反転の法則」とか「研究補償説」と呼ばれる定説だということがわかった。
こういう傾向は計算機科学に限るわけではなくて、言語学の研究者は何をしゃべっているのかわからない奴が多いし音楽学の研究者は音痴が多いらしい。人生いろいろである。
(中略)
「好きこそものの上手なれ」とか「必要は発明の母」と言うが、実は「苦手は研究の母」なのである。 なんでも得意な人は新発明が苦手なはずである。ちなみに最高に頭が良い人は工学の研究者には向かないらしい。何ができて何ができないか最初から予測できてしまうからだという。苦手がない人は工学の研究には向いていないのかもしれない。
苦手は研究の母?より引用

誰だってあるのが、得意不得意。 相性のいい上級生と、そうでない人。

腕の立たない上級生なんか、何を言われようが無視すればいい。 学べる物を提供できない人に、自分から何かを差し出す必要なんかない。

「この人からは何かを学びたい」と思える人を探そうと思ったら、「影の濃い人」を 見つけることだ。

臨床医なんて職人集団だから、研究者のキャリアプランとはだいぶ異なる面も多いけれど、 全てが順調にいった人というのは案外少ない。

欠点というのは、短期間では修正困難だ。 欠点を修正するよりも、長所を伸ばしたほうが効率がいい。

みんな成長する。欠点を抱え込んだまま。

成功している医師に、聖人君子はいない。

人間的に欠点がなくて、 誰とも穏やかに付き合って、患者さんとのトラブルもなく人望も厚いなどという 人には、残念ながら何の魅力もない。

長所が太陽のように輝いていて、しっかりとした存在感を持っている人の足下には、 黒々とした影ができる。自然なことだ。

魅力的な医師には、必ずと言っていいほどどこか黒い部分があって、 その影の暗さが全く自然なものとして違和感がない。

存在感のない奴のことを「影が薄い」と言うのには、たぶんもっともな理由がある。

敵はいないけれど味方も少ない人は、影が薄い。味方も多くて敵も多い人、 いい噂も悪い噂も、病棟で常に名前を耳にする人というのは、影が濃い。

影を「影だ」と認識して、それを踏まないように振舞うノウハウを積んだ研修医は、 その上級医の専門家になれる。

専門家となった研修医は、その上級医の「光」を吸収して、将来師匠を乗り越えることが できるようになるかもしれない。

1年目。

いろいろな人がいて、いろいろな上級生とであって、 ほめられたり、怒られたり、潰されたり苛められたり。 本当にいろいろなことが自分の身に降りかかってくる1年間。

久しぶりの新しい職場。付き合いやすいドクターも、まだ少し苦手なドクターも、いろいろ。

昔と違って、今の自分には少しだけ、状況を楽しむ余裕みたいなものがある。

最初は猫かぶって、なじんだら地を出して。自分の生存確率を最大に 保ちながら、いろいろなスタッフからノウハウを教えてもらって。 苦手な分野が「苦手である」ということをまた楽しんで。

自分もしばらく新人。

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2006年4月12日

言葉と対話に関する3題

新しい職場に来てから考えたことなど。

深夜のコンビニで

20代やせ型男性。髪金髪。前歯溶けてて、両耳にはピアス5個づつ。

こんな兄ちゃんがレジ打ちをしていた深夜のコンビニ。何故かやたらと混んでいた。

「ぉにぎぃ~ぁためますくゎ~?」

前歯が無いからなのか、前頭葉もろとも持ってかれてるのか、呂律の回らない声で レジの兄ちゃんが何か言う。マニュアルの言葉を思考しないで繰り返しているんだろう。 自分のおにぎりのことだと理解するのに数秒かかった。

電子レンジが回る間も、人が列を作る。兄ちゃんイライラ。みんなもイライラ。 言葉なんて無くても分かる。空気テンパりまくり。

自分の次にならんでいたのは、小汚い爺さんだった。喧嘩弱そう。 多分自分でも凹にできる。しないけど。

係わり合いになるのはまっぴら。おにぎり受け取って、さっさと出ようとしていた時、 会計を済ませた爺さんが兄ちゃんに一言。

「忙しいのに一人で、大変だね。」

イラついてレジをさばいていた兄ちゃんは、急にうろたえたような態度になった。

「たっ…大変…です…。」

一瞬黙って考えた後、兄ちゃんはどもりながらこう返事した。

何年かぶりに「言葉」を思い出したみたいだった。

アフガニスタンの携帯電話

砂以外に何もないようなアフガニスタンにも、 携帯電話のネットワークを作る会社があるらしい。

アフガニスタンの携帯電話会社、RoshanのCEO、Karim Khoja氏の話。 彼は荒廃した祖国に、携帯電話ネットワークを建設した。

携帯電話のネットワークや、その販売/運営のためのインフラ作りを通じて、 彼の会社は現在、アフガニスタンに本当の中流階級を作りつつあるという。

彼の言葉。

If people can speak, they don't fight.
Tech Mom from Silicon Valley - 感動のアフガン物語
より引用

なんか、気合が違うな、と思った。

「大聖堂」を読んだ

Ken Follett の「大聖堂」という小説を読んだ。

12世紀のイングランド。いつか大聖堂を建てることを夢見る建築職人トム・ビルダーは、 職を求めて放浪の日々を送っている。
そのころ、かつての大修道院キングズブリッジは衰退し、 その大聖堂も大掛かりな修復を必要としていた。
折しも教会を軽視してきた国王が逝去し、イングランドに内乱の危機が迫る。
―壮麗なる大聖堂の建立をめぐり、数多の人びとが織りなす波瀾万丈の物語。

イギリスの時代小説。

大聖堂という、時間もお金も名誉も絡む一大建築物をめぐって、地元の貴族や王族、 教会の修道士や司教といった権力者たちが、30年にわたってドロドロの闘争を 続ける話。

巨大な建造物を作り上げるには民衆の助力が不可欠。ところが、それを手に入れるやりかたは、 同じ権力者でも全く逆。

  • 貴族や王族は、武力を使って民衆を従えようとする
  • 教会側は、神の言葉を借りて民衆を従えようとする

物語(実話らしい)は終盤、ヘンリー国王が教会に譲歩する形で終了するけれど、 もちろん歴史はその後もずっと続く。

武力と言葉。「大聖堂」のテーマのひとつが、この2つの方法論の争いだ。

舞台となった12世紀。世の中には「集団の叡智」なんていう概念はなかった。

民衆の支持を集めるための争いというのは、すなわち「集団」を「衆愚」と化すには どちらの方法が効率がいいのかという競争だった。

中世世界で民衆に許される選択肢は、2つだけ。

  • 王の力に屈して衆愚となる
  • 教会の言葉に屈して衆愚となる

個人として生きていく選択肢などこの時代にはありえず、 選択を受け入れられない者は集団を離れ、森で孤独に暮らすしかなかった。

集団を衆愚へと変換するシステム

集団というのは叡智を持った存在なのか、それとも衆愚なのか。

「大聖堂」の時代から800年が過ぎた現在、世界で対立しているのは武力と言葉ではなく、 「民衆」という存在の考えかたそれ自体だ。

集団というのは、もちろん愚かなほうが支配が楽だ。個人の思考なんて邪魔。 上のいうことを聞いてくれたほうが楽。

伝統的な権力システムを作れる側に回った人は、「民衆」を「衆愚」に変えるべく、 様々に知恵を絞ってきた。

12世紀は武力や言葉。

20世紀は様々な政治のシステム。

そして現在は広告とマスコミ。

小説「大聖堂」の権力者は相変わらず栄えているけれど、現在は12世紀とは違う。

小説中ではごく少数しかいなかった「森の中で暮らす人々」は、現在はどんどん増えている。

伝統的な権力と、独立した個人の集団。両者の対立は、最近始まったばかりだ。

対話への夢

昔から言葉に興味があった。

相手を打ち負かして、反撃の意欲を奪い、 こちらの思うままにコントロールする。おもしろかった。

年次が上がった。

レジデント同士馬鹿をやっていれば良かった時は過ぎ、 いろいろな人の知恵を借りて、協力しないとやっていけなくなった。

喧嘩をするなら弱い相手の方が楽だけれど、協力するなら逆。 自分よりも力の強い人と組んで、その人の力を最大に分けてもらったほうが、 結果として楽。

この何年間か、自分の言葉の方法論は、だんだんと変化した。 一方的な攻撃から協力へ。

それでも、もしかしたら根本は変わっていなかったのかもしれない。

現場の医師が逮捕される自体が続いた。

適当なレッテル貼りをするマスコミを呪い、いいかげんな対応の司法に怒り、 結果責任で現場の医者を非難する市民に怒った。

医者に神になれなんて無茶だ。地域の宗教家がもっと力を持っていた頃ならば、 今のような泥仕合になる前に、きっと丸くおさめてくれたのに。そんなことを考えていた。

「大聖堂」の時代から現在への流れの中では、 宗教的な世界観とマスコミの作り出す世界観というものは、あんまり対立していなかった。

宗教が強かった時代に懐かしさを覚える一方で、マスコミの人を敵視する自分というのは、 本当に対話がしたかったのだろうか?

それとも、単に自分以外の全ての人に、もっと愚かになってほしかったのだろうか?

  • コンビニの兄ちゃんと爺さん。住んでる世界が全く違う人同士でも、対話をすれば 言葉はよみがえる。
  • アフガンの携帯電話会社の社長さん。対話の生み出す世界に対して、けっこう本気で夢を持ってる。

「賢く相手を利用する」便利な方法としての言葉と、「対話」との違いというのは、 対話の相手をどこまで信頼しているのかという部分だ。相手に対する信頼がなければ、 そもそも「対」が作れるわけがない。

大学から「ストリート」へと戻って10日。

病院にも慣れ、昔なじんでいた言葉も戻ってきた。

強弁や恫喝。患者さんやその家族と話をするのに頼ってきた、言葉や会話の方法論。

なれている言葉というのは大きな武器になるのだけれど、対話の可能性を 潰してしまう。

いまはそれを少し引っ込めて、 もう一度「対話」というものに夢を持ってみようかなと思ってる今日この頃。

問題になるのは、なんといっても決定が下されるまでの時間が延びてしまうこと。

かけ出しの頃は無理だったけれど、今は、昔よりは時間を腕で補える。

今度は何とかなるだろうか?

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2006年4月 1日

大学生活の終わりに

大学を辞し、今後は地域医療に従事する一般内科医として生活することになりました。

研修医からシニアレジデントの頃までは、自分はこのまま循環器内科医としての キャリアを積んでいくものとばかり思っていました。

内視鏡は正直下手でしたし、医療の業界の中でもっともかっこいい仕事というのは、 今も昔も循環器内科医であると信じていましたから。

ジュニアレジデントを終えて、幸いに循環器内科に誘っていただき、 そのままカテ屋としての生活をはじめました。後から聞けば、ローテートした他の 内科は私の身柄の引取りを拒否し、スタッフ同士「どうするよ、こいつ…」という 話し合いの結果、循環器チームが私を身請けすることになったのだそうですが。

過程はともかく、結果はカテ屋。経験を積み、外を見たくなり、 大学医局の門を叩きました。

今でこそ、いろいろとえらそうにキャリアの積みかたなど書いたりしていますが、 当時やっていたのは今と全く逆。

何のバックグラウンドもなく、友達もいない、先輩や親戚がいるわけでもない土地へ、 ただひとり。当時は今以上に馬鹿だったし、実力(あると思ってました…)さえあれば、 何とかなる。浅はかにもそう考えていました。

病棟の回しかた、カテの流儀などの分化が全く違う土地での仕事。 一人で天狗になってたクソバカが受け入れてもらえるわけもなく、 この転職は不幸な転帰を辿るのが確定だったのですが、 自分が考えていた以上に実力がなかったのが幸いでした。

ヘビににらまれたカエルが動けなくなるように、絶対に勝てない相手に出会うと、 人間謙虚さが戻ります。

新しい病院での生活も、1年を終える頃にはなんとか軌道に乗り、 自分もまた病棟の風景の一部として順調に仕事をこなすことができるようになりました。

その後いろいろあって一時実家の方の病院へ->再び大学へという流れになります。

この頃には少しだけ余裕ができ、何よりも「自分が帰っていける家」としての 大学医局という精神的なよりどころがありました。

おかげで、 変化する環境を楽しみ、また新しい環境で影響を受ける自分というものを観察する 余裕も生まれ、肝心の循環器の仕事は出来なかったものの、 それはそれで有意義な時間を過ごすことができるようになりました。

その後大学に戻らせていただき、再びカテ屋としての生活。

大学というところには、けっこう特別な思い入れがあります。

自分の父親は研究者でしたから、「○○大学」という場所には小学生の頃から出入りしていました。

世の中は、誰もが「サヨク」という時代。子供が生まれたら、父親の仕事をしている姿を見せるのが 当時のトレンド。同級生が大きな会社に連れて行ってもらったり、同級生の父親の勤めている工場に、 みんなで見学に行ったりが当たり前だった頃。

世の中の例に漏れず、自分が父親に連れて行ってもらったのは、大学の研究室。

クレイのスーパーコンピュータとか、日本に入ったばかりのアップルⅡとか、 当時としてはかなり画期的なものを見せられた記憶もあるのですが、 さんざんゲームをやらせてもらった以外、たいした記憶もないのが残念です。

主に解析系の仕事をしていた親父の研究室よりも、 その隣でやってたロボット工学研究室の方が、子供にはよっぽど 面白そうに見えたりしましたし。

それでも大学というところは、子供をして「何かとてつもなく面白そうなところ」と 思うには、十分なところでした。

いつかは大学というところで働きたい。そんなことを考えながら母校を卒業。 そのまま医局へ…行きたかったのですがなかなか上手くいかず、 結局民間病院へ。

その後いろいろあって、幸い大学組織の中でも自分の居場所を何とか 見つけることができました。

そのまま行く」ことにためらいを覚えはじめたのは、1年ぐらい前のことです。

いろいろな病院を回ってきて、自分の身の回りに変化がおきるのがほとんど 日常のようになっていたからなのか、また腰のあたりがそわそわしてきました。

大学医局という場所には、いろいろな可能性があります。その場所に居残って、 研究者としてのキャリアを積むこと、医局のローテーション病院を回って、 臨床科としてのキャリアを積むこと。なんでもありです。

人を育てるシステムとしての大学医局は、相当完成しています。

どんな無茶をしようが、いいかげんな選択をしようが、 医局に籍を置いて何年かすれば、だれもがそこそこの医師になれますし、 もともとが優秀な医師であれば、その可能性を損なうことなく 優秀な医師になれます。

すばらしいシステムだと思いますし、なによりもそうした安定感こそが さまよっていたときの自分の心のよりどころになっていたりもしたのですが、 将来を考えたとき、不安になりました。

自分が何をしようが、どうあがこうが、多分後何年かすれば、「そこそこ」という場所に たどり着いてしまう。

予定調和というのは、少々無茶をしたぐらいでは崩せません。

キャリアを積んで、将来の予想や状況の判断が上手になればなるほど、 自分の身の回りにおきる変化を楽しむことができるようになります。

ところがその一方で、キャリアを積めば積むほど、自分の将来の予定調和性が見えてしまい、 努力をするほど将来が「堅く」なってしまう矛盾。

  • 慣れてきて楽しくなってきたのは「変化」
  • 慣れてきて得られたものは「安定」

けっこう焦りました。

失業の心配が事実上皆無な医者という仕事の贅沢なのかもしれません。

それでも、変化を続け、不確定な状態の面白さというものを楽しむためには、 積み上げてきたものを壊すしかないのです。

自分の目標でもあり、また循環器医であったときもそうでなかったときも自分を 支えてくれたものでもあった心臓カテーテルの技術というものは、 変化すること、先が読めないことが楽しくなってしまった昨今、 今度はだんだんと重荷になってくるようになりました。

技術は進化し、一般化します。

第一世代の先生がたは開拓者です。不完全な道具をだんだんと進化させ、 道具の不完全さを使いこなしでカバーして様々な技術を生み出し、 心カテという手技を一般化させてきました。

後に続く弟子というのは、師匠を越えなければ意味がありません。 その世代の先生方が作ってきた道はあまりにも舗装されてしまい、 後に続く者はその人の劣化コピーにしかなれません。

道具は進歩し、成績は上がりましたが、もはや進化の主体は医師個人ではなく、メーカーの技術者です。

メーカーの人は大人だから、華はこちらに持たせてくれますが、 もはや道を拓く者としての医師の姿はそこにはありません。

成熟段階に入った技術を習得するのに忙しかった頃、逆に自分を面白がらせたのが、 「自分の技術の無さ」です。同級生に比べると圧倒的に手技は下手でしたから、 技術の無さをなんとか「運用」でカバーすることはできないか、あれこれ工夫しました。

調べても教えてくれる本は少なく、参考になったのはIT関係の本であったり、経営学の本であったり。

いろいろ読んで行く中で、自分が過去に犯した失敗、意図せず「正しい」ことをやって上手くいっていた 経験、そんな昔の話を改めて面白がって文章にしていたのが、このWeblog です。

何も無いところからはじめて、運用を工夫して、得た物を一般化するという工程は、まさに 自分たちが範としてきた第一世代の先生方が辿ってきた道です。 形こそ違え、追いかけてきたのはいつも、道を拓いてきた先生方の姿でした。

弓道の無影心月流の開祖、梅路見鸞はこんなことを言っています。

「およそ師に似たる弟子を持つ師匠というのは本当に人を指導できない、 指導者の資格のない者だ」

学ばせていただいたことはたくさんあります。

針を刺す方法。造影のしかた。危機の乗り切りかた。

歴代の築いてきた様々なノウハウ。その技術を開発してきた先達の話。

本当にためになりました。

自分が結局どんな医者になりたいのか、正直今でも全く分かりません。

唯一分かっていること、あるいは「こうしたい」というのは、動くことです。

レジデントの人生は、帆船に乗るようなものです。

帆船にとっては、鏡のように穏やかな水面というのは、非常に危険なものです。

風が無ければ、帆船はどの方向にも進めません。どんな方向に吹こうが、 たとえそれが逆風であったり、爆風のようなむちゃくちゃなものであったとしても、 それが風でさえありさえすれば、舟は「どこか別の場所」に進めます。

自分が歩んできた道の見通しがだいぶ良くなって、自分の行き先がなんとなく 見えてきたような気がしたので、その先にちょっと爆薬を仕掛けて、 自分もろとも吹き飛ばしてみました。

そんなあたりが、いまの心境です。いいかげんな自覚で飛び出してしまい、 申し訳ありません。

今まで本当にありがとうございました。

また落ち着いたら、新しい病院での経過など、いろいろ報告させていただきます。

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