2006年3月29日

「とりあえずこうやっとけ」はけっこう頼れる

続き。ここで使っている「エビデンス」という言葉は、あくまでも誤解されているほう、 「エビデンスに基づいた診療ガイドライン」とか、「ランダマイズドトライアル以外は 信じるに値しない」などと教える過激なEBM 信者の人達が使うほうをさしています。

レンガはなくても家は建つ

堅いレンガがひとつもない地域であっても、塔や家を立てることはできる。

古い日本の家屋がそうだ。木を切ってきて、何本もの柱を立てて、間に梁を渡せば家になる。

どの柱も、けっこう適当に立てている。

垂直は完全に出ていない。個々の柱の「正しさ」は、それぞれの大工のセンスに任される。

それでも家は垂直に建つ。大体の感覚でまっすぐに立てた柱の間に梁を渡して床を張ると、 柱は相互に連結される。お互いのわずかな狂いは微妙な修正を受け、家が建ってみると どの柱もほぼ垂直になっている。

厳密な意味では、古い日本家屋に完全に垂直な柱は無いのかもしれない。それでも、数百年の 単位で家を持たせられる程度には実用的だ。

「絶対に正しい証拠」を積み重ねて病気を治療するのは、 柱を立てずにレンガで家を建てるようなものだ。

3匹の子ブタの民話では、長男の藁の家、次男の木の家は、狼の鼻息ひとつで吹き飛ばされる。

最後まで残ったのは、3男の作ったレンガの家。レンガは作るのが大変だけれど、 丈夫で確かなものとして描かれる。

木や藁は軽いから、たしかに鼻息ひとつで吹っ飛ぶ。でも、地震が来たとき人を殺すのは、 なんといっても重たいレンガだ。

医学のある分野。

ずいぶん前に登場した「画期的なスタディ」というのが、どうも「作り」が入っているらしい。

もう教科書にも載ってしまっているし、その人の論文を引用して何人もの研究者が論文を 書いているから、いまさら「嘘でした」は言えない状況。

レンガは堅い。エビデンスも堅い。ところがエビデンスは時々いきなり変形する。

レンガの家を作るように、一つ一つの論文が「正しい」ことを前提に議論を積み重ねていくのは危険だ。 「裏切られる」リスクは、積んだ論文の数が増えるほど増していく。星の数ほどいる論文製作者 の誰かが「やった」ら、論理は根本からひっくり返る。

「みんなの話」はあてになる

病棟で問題にぶち当たったときに、もっとも手っ取り早い解決方法は、「これどうやるんだっけ?」と 周囲に聞くことだ。

どの人に話を聞いても、しょせんは個人の経験。教科書に書いてあることとは微妙にずれているし、 その記憶が本当に正しいのかも分からない。

幸い、病棟には大勢の人がいる。先輩医師。同級生。病棟ナース。何人もの人に聞いて回ると、 最後には大体正しい答えが分かる。

いわゆる「エビデンス」は無い。

  • 昔こうやったらたまたま上手くいったという経験
  • うちの科ではいつもこうやっているという伝統
  • 有名な○○先生はいつもこうやっているそうだ、という伝聞
  • 中には一人ぐらい、論文を引っ張った奴もいるかもしれない

立場の違う人達の様々な意見。どれも大体正しいことを言っているようで、 どれも微妙に間違いを含んでいる。

大体、何が本当に「正しい」のかなんて 神様でもなきゃ分からない。論文もそうだ。「○○に効果があった」という結論が 導き出されたところで、本当にその方法がベストなのか、その疾患の全重症度の 人にそれをやっていいものなのかといった疑問には、論文は答えてくれない。

病気は時間と共に悪くなっていく。

検索システムがこれだけ進歩した現在でも、 状況に応じた論文を引っ張ってくるのはあまりにも時間がかかりすぎ、また 一本で状況にぴたりと一致した論文が出てくるのはまれだ。

「僕はこう治したよ」という意見の集積は、レンガを積んでいくやりかたとはわけが違う。

病棟業務というのは、

「問題点の発見->その評価->薬や点滴の選択->効果の確認->ドツボった場合の対処」

といった一連の流れの繰り返しだ。

個人の経験というものは、これらの業務のコンポーネントを全て含んでいる。 間違いも含んでいるかもしれないけれど、それは「みんなに聞く」ことで正解に近づけることができる。

技術競争の現場のやりかた

BARホンダがF1に久しぶりに参戦したとき、セナやプロストを擁していた世代の技術者は、 最初は参加しなかったのだそうだ。現場に飛ばされたのは、あくまでも若手の技術者。 専門家のプライドを持って、現地の鉄火場に乗り込んだらしい。

会議の席。エンジニアが「今のエンジンには、こういう問題がある」という指摘をしたとき、 みんなから返ってきたのは「じゃあ君ならどういう解決策があるの?」という一言。

返答できなかったそうだ。

レースの会議は、即断即決の場。

新人だろうがベテランだろうが、新しいアイデアを持ち込んだり、 問題を解決する答えを持つものは即戦力として貴重だが、 そうでない人には居場所はない。

意見はぶつかる。ここで対立する意見というのは、問題の解決方法までを含んだプランだ。 様々な立場のエンジニアのプランを集約することで、自然に「正解」に近い解決プランが作られる。

あんまり正しい方法論では無いかもしれないし、問題の解決プロセスの断片断片ならば、 もっといい意見を持っている人がいるのかもしれない。

それでも問題は解決する。正しくは無いけれど、「正しく」やって次のレースに間に合わないよりは よっぽどいい。

水先案内としての「伝統」や「直観」

水準器も無しに家をまっすぐ建てようと思ったら、 他の家とかそのへんの木とか、すでに「立っている」ものを参考にすることだ。

「エビデンスを詰めば、行先が分から無くても真理に辿りつくことができる」というのはナイーブにすぎる。

どんなに厳密な論文も、ゆがみや誤差からは逃れられない。「積んでいく」方法論では誤差は蓄積し、 正しいものの積み重ねで得られた結論というのは、臨床の感覚とは著しく乖離したものになる。

ゴールがなんなのか、たどり着く先はどこなのかが分かっていないと、 正しいものを積む戦略というのは、しばしば行き場を見失う。

演繹的な思考から新大陸の存在を確信していたコロンブスだって、 航海には昔の人の海図をもっていった。目標を持つのは大事だ。

今の「エビデンスに基づいた」ガイドライン。正しいのかもしれないけれど、あまりにも 煩雑すぎたり、現場の感覚と乖離しているものが多くて、使い物にならないものも多い。

有名な心肺蘇生のガイドライン「ACLS」も、2005年版になって大いに内容を変えてきた。

1995年版の心肺蘇生ガイドラインの基本コンセプトは、「俺達が正しいといったんだから正しい」。

エビデンスなんてまだまだそんなに無かった頃。救急の現場は滅茶苦茶。 正しくやっているヒマなんかなかった。 とりあえずの叩き台としての側面もあったのだろうけど、 このガイドラインはシンプルで、十分に役立つものだった。

エビデンス全盛の2000年。ガイドラインは大きく変貌し、「正しく」なった。

内容はもう教科書。製作者は国際的な委員会を作った。 表書きにはガイドライン作成にかかわった人たちが何人も名を連ね、 山のような参考文献だけでちょっとした本1冊分。正しいかもしれないけれど、ガイドラインは 大きく重くなり、「正しいけれど人は死ぬ」、使う気にならないものになってしまった。

そして2005年。大きく複雑なガイドラインは教育が難しく、結果として心肺蘇生ができる人の 数を減らしてしまった…という反省文から始まったシンプルなガイドラインは、 大いに内容を変えた。

今度のガイドラインは、「作者の顔が見える」。

何を一番優先したいのか、結局のところ 我々は何をしたいのか。2000年版のガイドラインが、迷走したのに比べると、 今度のガイドラインは「何がなんでも心臓動かせやゴルァ」という 作者の気合が伝わってくるようだ。

伝統とか、昔の人達の直感とかいったものはかなり当てになる。

私を導くのはまだみぬ未来でなく、歩んできた道だ。だから確信できる。

伝説のモーフィアスだってそう言ってる。

集団の作り出す知恵

今まではこうやってうまくいっていたとか、自分の直感ではこうなるはずだといった感覚は、 いいかげんなものだ。

いいかげんなものだけれど、適切な状況下では、それを集積すると、かなり正確な予想が立てられる。

衆愚政治といわれるように、人々は集団になると愚かだと考えられてきたが、 適切な条件の下では、集団は個人より正しい判断を下すことができる。
たとえば、牛の体重を当てるコンテストでは、 投票された平均値が誰よりも正解に近かった。
たとえば、スペースシャトルの事故が起こったとき、 エンジンを担当した会社の株価が急落し、まさにそのエンジンが事故原因だった。
Invisible Circus: 『みんなの意見は案外正しい』

James Suroweickiの『The Wisdom of Crowds』によれば、「Wisdom of Crowds」 (群集の英知、集団の知恵)が成立するための条件は、以下の4つであるという。

  1. diversity of opinion (意見が多様なこと)
  2. independence of members from one another (メンバーが互いに独立していること)
  3. decentralization (中心を持たないこと)
  4. a good method for aggregating opinions (正しい方法で意見を集約すること)
    Zopeジャンキー日記 :群集がいつも賢いとは限らない

昔も今も実社会では空気を読まない発言をよくするけれど、昔と今とでは一応 考えかたが変わってる。

昔は単に騒動が好きだったり、話題の中心に自分がいないと我慢できなかったり。

今は、自分の役割として、カヌーの上の犬を想定している。

ハワイ(だと思った。とにかく南のどこか)では、カヌーに乗って外洋に出ていくとき、 犬を一頭連れて行く。

犬は水に落ちたくないから、カヌーの上でバランスを取る。

カヌーの上では、人と犬とは独立して動く。航海者がバランスを多少崩したり、 判断を誤ったりしたとしても、 舟全体のバランスは犬のおかげで保たれる。

病気の人が来て、スタッフの空気が「やっちまおう」だったらあえて保存的な治療を提案したり。 最小の賭けで最小の利得を狙う空気なら、あえてギャンブルの提案をしたり。

現場では、常に「空気を読まない」発言をすることで、そこに集まった人たちが集団思考の罠に陥らないよう、 一応自覚的に振舞ってみてはいる。それが役に立っているのか、あるいは単に空気を乱しているのかは 分からないけれど、それなりに気を使って空気を読んでいる。

研修医の人達へ

ローテーション研修2年目。

上級生と話をする機会はますます減り、それを補うかのようにインターネットの進歩や論文検索の 技術が進んでいるけれど、やはり「飲み屋での馬鹿話」の大切さを見限らないでほしいと思います。

論文を漁って、「正しいレンガ」を作るのも大切です。けれど、 歴史を学んで、問題点の見つけかた、解答への「あたり」のつけかたを学んだり、 限られた情報からプランを作って示す練習を積んだりするのもまた大切なことです。

「正しさ」は、最後は適切に条件づけられた集団が保証してくれます。なんといっても、 病院のほとんどのスタッフは、研修医よりも年次が上なんですから。

その集団を動かすのは研修医です。

抱えている問題点を可視化して、 「みんなの意見」を出してもらえるような空気を作り出すことは、 患者さんに直に接する主治医の力量です。

そろそろ研修終了。

みんないろんな場所に散ってしまうし、自分もまた大学から 離れてしまうけれど、「みんなで何かやる」ことの大切さ、楽しさというのは やはり大きな病院ならではです。

大学という場所のすばらしさは、まさに「みんな」、 研修医の同級生やいろいろな先輩、自分のようなヤクザから、多くの専門医 に至るまでの多様な人たちがいたことなんじゃないかと思います。

皆さん頑張って、それぞれの場所でまた「みんな」を増やしてください。

特に2年目の人。今度は、あなたがたが「みんなの意見」を言う側に回り、 研修医を助ける番です。

潰さないようにね…。

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2006年3月27日

エビデンスの集積の先に真理はあるのか

次に誰かが大切そうなことをお前に言うとき、自分で考えるんだ。
「これは証拠によって人が知ることができるようなことなのだろうか?
あるいはこれは伝統や、権威や、お告げによってただ人々が信じているようなことなのだろうか?」って。
そして、次に誰かがお前に何かが本当だと言うとき、こう言ってみたらどうだろう。「どんな証拠があるの?」って。
satolog: 信じてもいい理由と信じてはいけない理由より引用

ゴールなき勉強に意味はあるのか

研修医の頃は、エビデンスに基づいた治療が大好きだった。

動機は不純。

「先輩、いまどきこんなペーパーも知らないんですかぁ?」と上級生に喧嘩を売るのが 何よりも面白かったし、自分の発言が周囲に真理として伝わる満足感もあった。

嫌な奴だったし、友達も少なかった。論文は人を裏切らない。 そんな理由でEBMが好きな人、案外多いんじゃないだろうか。

一応勉強も好きだった。やりかたはこんなかんじ。

  1. 問題になっている分野の教科書を読む。
  2. その分野の新しめの論文を読む。
  3. 論文に基づいて解決法を考える。
  4. 上級生に喧嘩を吹っかける…

証拠を重ねていけば、やがて成長して真理に辿りつける。そんな童貞臭いことを考えていた。

今は逆だ。「エビデンスに基づいた…」が大流行の昨今。「証拠」ぐらい胡散臭いものは ないと思ってる。

体験したことのない問題にあたったとき、今はこうしている。

  1. まずやったことのある人に「どんな感じか」聞く。
  2. 誰でもいいからベテランに「どう思うか」聞く。
  3. 自分なりに「多分こうだろう」と考える。
  4. Medline を当たって、自分に味方してくれそうな論文を探す
  5. 周囲を説得するか、力で押し切る。

大事なのは成功体験。たとえ一人であっても、「直したことがあるよ」という人の実体験。 証拠なんか2の次。直せれば後からついてくる。

「証拠」を本当に信じていいのか?

証拠には序列がある。

我々の業界では、もっとも重要な証拠は前向きのランダマイズドトライアルで、 中程度のものが過去の事例の集積で作った論文。 もっとも軽視していいのはベテランの意見。 さらに、評価の対象にすらならないのが、ベテランでない人が「とりあえず直したことがある」 という成功体験だろうか。

証拠の評価にもまた、厳とした順位付けがある。

もっとも優れた評価は、Nature とか NEJM といった有名雑誌に掲載されること。 評価の下を見ればきりがないけれど、2ちゃんねるあたりに自分の考えを書きこんで、 「お前すごいな」と言ってもらえたりすると、けっこううれしい。

証拠というのは、本当に信じていいものなのだろうか?

重要な論文、大事な証拠というものは、それが発表されると多くの人の価値観を 左右する。

残念ながら、「証拠」の価値が上がれば上がるほど、その証拠が利権や思惑から 自由になるのは難しくなる。

過去の事例を集めて何かの結論を出すスタディなら、まだ訂正も効く。

  • 過去の事例自体は結論の出ている事実。
  • 事実の集積を解釈したのは論文の作者。

確かな部分と、ツッコミどころが明確に分離しているから、誰が見ても分かりやすい。

問題なのは前向き研究だ。

スタディをやる前から、論文の作者の頭の中には「こうあってほしい」という結論めいたものはある。 ところが、実際にそのとおりになるのかどうかは、実際にスタディをやってみないと分からない。

ある治療、ある薬に効果があるのかないのか。

想定している結論により、その解釈は微妙に左右される。患者は死んだが効果はあった。 あるいは、病気は治ったけれど、それは他の原因だろう。いろいろ。

建前では、前向き研究には「ゴール」と呼べるものはない。あくまでも条件をそろえた対照群を 用意して、その人達に何かの治療を施して、結果がどう変わったかの事実だけを見る。

作者の判断や、思惑は「事実」という言葉の陰に隠れる。どこまでが思惑で、どこからが 掛け値無しの真実なのかが分からないから、結論をそのまま信じるしかない。

エビデンスを集積して正しい治療に辿りつこうとするのは、レンガで塔を造って、 天に上ろうとするようなものだ。

レベルの低い証拠は、粘土で作った柔らかいレンガ。レベルの高い証拠は、石のように堅いレンガ。

柔らかいレンガは変形するので、修正が効く。塔は水平を出しやすいけれど、高く上るには 強度が不足する。堅いレンガは強度があるから、基礎に据えるにはもってこいだ。 ところがこいつは、たいていの場合微妙に歪んでいて、その修正が効かない。 塔の基礎は丈夫にできるけれど、塔がいよいよ天に届くかな…という頃、塔は傾いて倒れてしまう。

続きはまた。

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2006年3月21日

共産主義ジョーク

ソ連の科学アカデミーがアダムとイブはロシア人であったに 違いないと言う結論を 出した。
理由は以下の通り。

彼らは食べるものはリンゴしかなく、着るものはいっさい持たず裸で、
しかもエデンの園から出ることを禁じられていた。

そのくせ、彼らは自分たちが天国にいることを疑わなかった。

世界史系ジョーク集まとめサイトより

何かを思い出す…。

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2006年3月19日

クレームの対策について

息子 お母さん、明日の遠足のお菓子代、300円頂戴。
明日は雨よ。

遠足前日。担任の先生との約束では、お菓子代は200円まで。 息子は友達と共謀していて、当日にはみんなで、少しだけ多くのお菓子代を持って行こうと 画策している。

母親は別の情報を持っている。PTAからの通達で、遠足は雨なら中止。 明日の天気予報は、80%の確率で雨。お小遣いの話以前に、そもそも遠足が行われるのかすら疑わしい。

母子の会話は、成立しているようで成立していない。

「明日は雨」といわれた息子は、「自分の要求がスルーされた」ということしか分からない。 息子が取れる戦略は一つしかない。もっと大きな声で「300円」と繰り返すのみ。

母親は常に正しい。経済を握っていて、情報量も莫大。 雨なら遠足は中止。だから、そもそも お小遣いについて議論することは無意味。

「だから、明日は雨!」

このバカは何故気がつかないんだろう…と、母は同じ言葉を繰り返す。

ねじれの位置から脱出できない会話はエスカレートする。最後は息子は泣き出し、 母親は息子を張り倒す。明日が雨になろうが晴れようが、いずれにしても 明日の遠足は楽しいものではなくなってしまう。

現場は理不尽なクレームの連続だ。

患者さんが一人や二人なら、少しの医学知識さえあれば、誰だって名医になれる。

一般内科の「腕」は、皿回しに似ている。1枚や2枚の皿を回すのなら、ちょっと練習すれば すぐできる。プロと呼ばれるには、20枚とか50枚の皿を回す必要がある。 1枚でも割ってしまえば、プロとしての名声は地に落ちる。

たくさんの皿を回しつづけるコツは2つ。

皿を動かさずに自分が動くこと、皿がグラグラになる前に、自分の方から 皿を回しつづけることだ。

まずはこちらから歩み寄る

昔一緒に働いていた同僚に、患者さんからのクレームをいなすのが非常に上手な男がいた。 ディープ関西圏の、某病院出身。

忙しい救急外来。待たされた人のクレームは多い。

売り言葉に買い言葉。当時の自分は良くトラぶりそうになったけれど、 そんなときによく助けに入ってくれた。

関西の患者さんの意思表示は過激なんだそうだ。

外来の壁を蹴るのは挨拶代わり。待ち時間が長くなると平気で外来ブースに怒鳴り込んでくるし、 週に1回は事務長がロビーで誰かに土下座をするらしい。

続かない奴は本当に3日で辞める病院。そんなところにいたからなのか、異様に人間ができていた。

外来では、患者さんと、医者との距離は大体2メートル。お互い頭に血が上って、胸倉つかみあう 議論に発展しそうになったときとれる行動は2つだ。相手に来させるか、自分から距離をつめるか。

トラぶりそうになったとき、彼はいつも、その距離を自分から縮めにいった。そうすると、相手の激昂が 不思議とおさまってしまう。

怒りは閾値で発動する

売り言葉に買い言葉の状態は危険だ。

今までは曲がりなりにもコミュニケーションをとれていた患者さんは、 怒りが始まると急速に「理解が悪くなる」。こちらがいくら論を尽くして説明しても、 怒りがおさまらない相手に 「理」が通じることはほとんどない。

多分相手も同じなのだろう。

こちらがいくら「分かりやすく」要求を伝えようとしても、 受ける医者は、ポイントのずれた返答を返すばかり。

話はこじれる一方。最初は「ごめんなさい」ですむはずだった話はどんどん大きくなり、 そのうち弁護士が出てきて、最悪警察沙汰になる。

何かを要求する側と、クレームを受ける側。

お互いの求めるものの違い。状況判断に使える情報量の違い。対立する利害。 立場の違う相手同士、そもそも友好的な会話を成立させようとするほうが難しい。

それでも、相手が「怒り」の状態に入る前であれば、なんとか交渉のチャンネルというものは 確保できる。一度そういった状態に入ってしまうと、交渉を継続すること自体が困難になる。

「怒り」という感情は、個人の不快感が一定の閾値を越えたときに発動する。

その時の不快感の総和が閾値以下であれば、どんなにバカな応対をしても大丈夫。 患者さんは不快を覚えても、それが売り言葉に買い言葉の悪循環を生むことはない。

一方、一度でも閾値が越えると、その関係を戻すのは難しい。こちらが冷静になればなるほど、 理を尽くせば尽くすほど相手の怒りを煽ってしまい、収拾がつかなくなる。

単なる「不快の集積」が「怒り」の感情へと変わるとき、その直前には、 必ずお互いが実際に向かい合う場面が生じる。

不快感を蓄積させている相手の心情は、爆発寸前の風船そのもの。

この風船を爆発させるのか、あるいはわずかでもガス抜きができるのかの選択権は、 幸いクレームを受ける側にゆだねられている。

相手と直に面談するとき、その相手をどこかに呼びつけるのか、あるいは自分が迎えに行くのか。

呼びつけることによる相手のストレスの増加の幅は読めない。 わずかなものなのかもしれないし、その行為が相手の心情に止めをさしてしまうかもしれない。 こちらが歩み寄ることによって、ストレスはわずかだけれど確実に減ることが期待できる。

怒りの感情というものが確率論的な振る舞いをするならば、わずかな変化はただの誤差だ。

ところが怒りは閾値に従う。閾値ギリギリのわずかな差は劇的に運命を変える。 医者がほんの数歩を歩くだけで、その生存確率はかなり高くなる。

遠足の話の中で、母親がとりあえず子供の小遣いの交渉に耳を傾けることを約束していたら、 あるいは子供に泣かれずにすんだかもしれない。

何がほしいのかは指摘されるまで分からない

最初の遠足の話。「300円」と騒ぐ子供は、本当に300円がほしかったのだろうか? 争点にしたかったのは金額の絶対値だったなのか。それとも、 「他の子と一緒であること」だったのか。

仮に300円もらったとして、約束した他の子供がみんな100円しか持ってこなかったら、 あるいはみんな500円持ってきたりしたら、果たしてその子はうれしいのだろうか?

クレームの種類はいろいろある。誰もが怒り、そのとき手に入る情報の中で、最善と思う 要求を突きつけてくる。院長出せ。訴えてやる。賠償しろ。事実を明らかにせよ。いろいろ。

要求する側がそのときもっている情報は少ない。情報が少ないから判断できない。 少ない情報の中で要求を作らなくてはならないから、それを受ける側としては その要求は「不当な」ものに写る。

人間、本当に「やる気」になった時は黙ってやる。相手を訴えたり、最悪殺したりする人は、 相手に警告など出さない。いきなり来て、黙って刺す。

訴訟ざたのトラブル。相手が黙っているときのほうが怖い。 「返答によっては訴える」という言いかたをされたときは、 逆に訴訟になることは少ない。

「訴えるぞ」という人にとっては、 訴訟はすでに目的ではなく、たんなる交渉のカードの1枚に過ぎなくなっている。

相手の人も、ただ訴えるという解決法がベストではないことが分かっているから交渉に 来ている。「訴えるぞ」というクレームは、裏を返せば「もっといい知恵を教えてください」 という相談に他ならない。

とにかく自分の不快な気分を解消させる「何か」がほしい。クレームというのは、つまるところ これがすべてだ。

具体的な「何か」がなんなのか。それは、クレームを受ける相手から指摘されるまで分からない。

イメージを解決可能な問題へ帰着させる

クレームの対処というのは、圧迫面接の相当きついバージョンみたいなところがある。

マイクロソフトの入社試験は1日がかりで行なわれる。
「富士山を動かすには何日かかるか」とか「南に1Km, 東に1Km, 北に1Km行ったらもとにもどるような場所は地球上に何個所あるか?」 のような奇抜な問題が出題されるらしい。
これは遊びでやっているわけではなく、無能な人材を雇ってしまうことは良い人材を雇いそこねるよりも悪いということから、絶対に無能な人間を雇わないようにするための工夫らしい。

マイクロソフトのパズルのような問題は、問題の定義のしかたから解答までのプロセスを見ているそうだ。 だから、問題点はなんなのかの前提条件をいわずに、いきなり答えをいっても合格にはならないらしい。

相手にも漠然としたイメージでしかないものを、どうやって実現可能な具体的な計画として提案できるか。

大事なことは、とにかく全ての情報を共有することだと思う。

トラぶりそうなときに心がけているのが、全ての情報配信を「プッシュ型」へと変更することだ。

普段の仕事は黙ってやる。相手からの面談希望とか、 説明希望があるとき、まとめて話す。 「プル型」の情報配信だ。

鉄火場になりそうな時は逆。

状態の変化だろうが、今自分が考えていることだろうが、部長からの指示が変わったことだろうが、 なんであれ変化があるとき、常に自分から相手へ情報を発信する。けっこう、どんなに下らないことでも 電話している。

相手に聞かれた事だけを答えるやりかたは、相手の状況把握が 十分でない時には役に立たない。不十分な状況把握からは、不十分な 情報要求しか出せない。

全ての情報には、発信者の思考の断片が紛れ込んでいる。 相手に聞かれたことを答えるのではなく、 「自分はこう考えていて、今あるデータからこういう 判断を下すつもりだ」ということを患者さんや その家族、あるいは同僚や上司に積極的に発信することで、 お互いの情報のみならず、その 思考過程をも共有できるのではないかと信じてる。

クレームの対処という仕事は、同情とか共感とか誠意とか、そんな情緒的なものではなくて、 もっと技術的な問題に帰着するような気がする。

今回の産科の先生の巻き込まれたトラブルは、もはや全面戦争の様相だけれど、 いい結果になればいいなと思う。同業者を代表するような先生方が何人も コメントを発表しておられるのはすばらしい事だけれど、このことは 医者側の退路を断つことにもなっているように見える。

よもや医者側の「負け」は無いのだろうけれど…。

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2006年3月11日

戦うときに大切なこと

うちの高校は共学だったけれど、高校3年になるまでは男女は隔離。 3年生になって、初めて机を並べる「共学」になるのがならいだった。

5年間もの男ばかりの生活の後の共学。男子生徒の2/3は奮起し、受験の成績は向上。 残りの1/3は「愛」に走り、成績を落としたという。

3年生に上がるとき、学年主任の先生から訓示があった。

諸君、恋愛は素晴らしい。
人は愛することで悩み、考え、成長する。
多いに楽しみ給え。
わたしは生活指導教諭として、全力でそれを阻止しよう

この訓示の教訓は2つ。

建前と本音とは使い分けろということ。そして、本当に面白いことは隠れてやれということだ。

戦う大学

自分の父親は大学の職員だった。

バブル景気真っ盛りの頃。父親の勤めていた大学の卒業生が、企業の内定が 決まっていながら、それが直前になって覆されたことがあったそうだ。

その卒業生が大学当局に泣きついたとき、教授会はその学生の在学中の成績、 素行などを入念に調べたという。

そして、その卒業生が「○○大学の卒業生」として何ら遜色のない学生であるということが 分かった後、教授会は全卒業生に号令をかけた。

今後の進路については教授会が全責任を負うので、当該企業への就職の決まった学生は、 その就職希望を取り消してほしい。

はたして全卒業生はその企業への就職を断り、翌日には企業の部長級が大学へ飛んできたとか。

まだまだ全然ガキだった頃。日ごろ不機嫌だった父親が、珍しく機嫌よく話していたのを覚えている。

大学と企業との全面戦争。なんだかんだいっても、戦いの話は痛快で面白い。

問題なのは、「戦いの支点にされた卒業生」のその後の話だ。

父親の話は、その卒業生の人が無事に企業への就職が決まり、全卒業生は予定通り その企業へ就職できた、というところで終わる。

その後はどうなったのか?その人は今でも幸せなのか?「あの抗争の当事者」という肩書きが 重くなかったのか?今でもそのことを言われるのは苦痛でないのか?

いろいろ疑問はつきないけれど、解答は分からない。

「戦う」のはいいことなのか?

福島県の産科の先生が、ついに起訴された。

支援の輪が広がりつつある。

専門家でないかぎり、あるいは当事者でないかぎり、 「実際のところどうなのか」は分からないけれど、とりあえず寄付をした。

話はどんどん大きくなっている。

学会や医師会が声明を出した。署名活動も進行している。 掲示板では福島県の警察上層部、保健関係の事務職、事件の舞台となった 病院の幹部が「敵」として槍玉に挙げられ、みんな怒りの声をあげている。

味方が増えるのはいいことだ。それでも、当事者の先生にとって、今の状況というのは 本当に「いい」ものなのか。

警察を相手にするのは大変なことだ。 過去にトラブルになりかけたことがあったりするのだけれど、 とにかく嫌だ。

統制のとれた組織を相手にする恐怖。個人が組織を相手にするときに感じる無力感。

自分のは完全な「巻きこまれ」ケースだったけれど、こういうときには個人というのは本当に無力だ。

同級生は味方になってくれても役には立たなかったし、 当時は法律に詳しい人にも知り合いはいなかった。

何から手をつけていいのかも分からなかったけれど、何をしたいのかははっきりしていた。

元に戻る」ことだ。

当事者にとって、なによりも一番大事なのは「日常に戻ること」であって、 反体制のヒーローとして祭り上げられることじゃない。

自分の時は、結局は病院長に相談した。

「後は全部自分がやるから、先生は現場に戻って、問い合わせが来たら全て 病院長あてに回しなさい。」

なによりも、病院長のこの一言がありがたく、事実そのとおりになった。 今でも本当に感謝している。

手を汚さずに人を潰す方法

今の状況は、伝統的な「いじめ」の手法を思い出させる。

「いじめ」をあんまり露骨にやると、犯人役の上級生が大目玉を食らう。

何とかして「手を汚さずに」下級生にストレスを与えられないものか。 いろいろな方法論が編み出されてきたけれど、その一つが伝統的な尋問手法、 「いい警官と悪い警官」の変法だ。

  1. まず「悪い」役の上級生がターゲットの悪口を言う。
  2. 次に「いい」役の上級生がターゲットをかばう。
  3. ターゲットは放っておいて、上級生どうしで喧嘩をはじめる。
  4. どんどん険悪になっていく空気は、「戦いの争点」にされた下級生に非常なストレスを与える。

当事者がその場にいなくてもかまわない。ターゲットに何もしなくても、 上級生同士が喧嘩を続けると、そのままターゲットへのダメージを重ねることになる。

現在、刑事告訴された先生は、いまだに警察の中。「いい上級生」は支援者。 「悪い上級生」は、警察や県の職員。

話が大きくなればなるほど、両者の対立が強くなればなるほど、「争点」となった産科の先生への 圧力は強まるばかり。

話が大きくなるのは、必ずしもいいことばかりじゃない。

戦うときに大切なこと

戦うときに一番大事なのは、相手の面子をおもんじることだ。

勝つことに力を尽くすのはもちろん大切なのだけれど、 それよりも「相手が負けやすい環境」を作ることに力を入れる。 解決はそれだけ早まる。

全面戦争の末の勝利は気分がいいけれど、致命的な禍根を残す。

味方というのは一時のものだけれど、敵は一生のものだ。

負けた者の面子というのは、しばしば命よりも重い。

警察 vs 医者という側面から見た今回の事件。どう考えても医療者側には 非はない(民事はともかく、刑事ではないと思う)けれど、医療者側が勝ったら 警察の面子は潰れる。

復讐はなされなくてはならない。相手の「象徴」となった人物をつけまわして、 何かの罪を探す。痴漢とか、万引などの軽犯罪なら最高だ。 ネガティブキャンペーンの効果は、こうした恥ずかしい犯罪の法が効果的。

疑い病名さえ付ければなんだってありなのは、医療の業界だけではない。 医者が病名をつけるプロならば、警察だって罪名をつけるプロだ。 なんだってあり。少なくとも自分が警察のえらい人なら、迷わずそうする。

闘争の規模がどんどん大きくなっている現状。「建前」の部分だけ見ると、 「勝つ」努力は見えていても、「負けやすくする」努力は見えない。

大切なのは水面下

この闘争で大切なのは、医療従事者の司法独立性を勝ち取ることとか、 疲弊しきった地域医療の体制の不備を国民に訴えるとかじゃなくて、 警察に連行された産科の先生に、一刻も早く日常臨床に復帰してもらうことだ。

できることなら、以前よりも少しだけいい条件で。

警察の思惑はなんだったのだろうか?

一人の逮捕を通じて、医者全体に警告をしたかったのか。 それとも、告発者家族に、誰か謝るべき相手が他にいるのか。

警察だって、人が動かす組織だ。誰かに何らかの意図があるから、法律を解釈して、組織が動く。

表に出てくる話だけでは、意図というのは絶対に分からない。

医療従事者の目的が、全面戦争じゃなくて当事者の先生の日常の回復(ですよね?)にあるのと 同様、警察サイドにも「被告を刑事告発する」以外の意図は、当然あるはずだ。

どんな交渉ごとにも、必ず2つの側面がある。「建前」の部分と、「水面下」の部分と。

水面から下の部分さえあれば船は浮くけれど、水面から上の部分しかない船は船としての用を無さない。

水面下の議論と水面上の議論、この両者の「大きさ」のバランスというのはとても大切だけれど、 いま見えている「水面上」はとても大きい。水面下では、どんなレベルの交渉が行われているのだろうか。

表に出てくるえらい人同士、水面下の交渉というのは必ず行われているはず(もしもそうでないなら 相当問題だと思う)だけれど、今の「水面上」の部分の成長速度はとても大きい。 これは、想定の範囲なのだろうか?

味方の匿名性と支援の堅牢さ

味方というのはいつかは消える。

負けた恨みはいつまでも残るけれど、勝ちはすぐ飽きる。

飽きないように、また人が入れ替わっても支援が続くようにと、 支援者というのはいつも団体を作る。

団体というのは、個人を匿名化してくれる。匿名の問題点は多いけれど、 隠れるメリットというものもまた多い。

闘争を平和裡に行うコツは、「敵」を実体化しないことだ。

争点は、お互いの目的であって、相手の存在そのものではない。

相手をあえて「実体化」しないことは、闘争の終了を 相手の存在否定につなげないようにする効果がある。

味方も同様だ。相手から実体化されると、結局その人にツケが回る。

何かを代表する名前が出ると、その人がいなくなった時点で「味方」は終了だ。

支援の輪が広がっている。

メーリングリストなどで、自分の名前で「○○先生を支援しましょう」と 署名を要求している人がいる。

何をしたいのだろう。

当事者の先生を助けたいのか。それとも、単に自分がヒーローになりたいのだろうか?。

対立で得をするのは誰か

結局何がいいたいのかといえば、「もう少し穏やかにやったら?」ということだ。

全面戦争はとても面白い。なんとなく勝ち目もありそう。

だが、表だって対立を強調するやりかたではなく、もう少し隠れてやれる 方法もあるような気がする。

総医療と総司法との全面対決。

かつての三池炭鉱闘争。結局一番得したのは労働者でも資本者でもなくマスコミだったように、 今回の闘争も、話が大きくなって喜ぶのは報道関係者ばかり。

不満は渦巻いている。何かのきっかけさえあれば、荒ぶる神は いつでも降臨できる昨今。

それでも、望んでいない人を「憑坐(よりまし)」にするのはどうかと思う。

Web上のいろいろなところで進軍ラッパが鳴っているけれど、 個人の不幸を全面戦争のきっかけにするのは、やはり誰かが不幸になる。

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2006年3月 4日

投機としての進路選択

ローテート研修終了後の進路選択について。

医者の業界には、そもそも「就職活動」などというものが存在しなかった。

ローテート研修が導入されて2年。就職する側も、あるいはそれを受け入れる側も、 まだどうすればいいのか皆目分からない状態。他の業界からすれば信じられないこと かもしれないけれど、その混乱ぶりは崩壊直後のソビエト連邦よりもまだひどい。 みんな素人で、2ちゃんねるの掲示板情報が業界全体を左右する。

乱気流の時代にあって、マネジメントの最大の課題は、自らの生存を確実にすることだ。

みんな流れ者になる。進路の選択というのはバクチと同じ。 知らない奴は全くの運まかせ。必勝法はないけれど、慣れている奴 は大負けしにくい方法を編み出している。

大事なことは、以下の3つだと思う。

  • 自分のスタイルの基準になる投機の運用期間
  • 選択科の投機性と流動性
  • 持っている全てのものをバンクロールに置き換えること

自分のスタイルに合った運用期間

生存戦略を立てるとき、まず考えなくてはいけないのが自分に合った運用期間の設定だと思う。

デイトレードなのか。スイングなのか。それとも中期や長期の投資スタイルなのか。

運用期間を短く設定するのは、少ない投資で見返りが大きい。

今の時代、大きな組織に属さずに、あるバイトだけで生活している先生方もたくさんおられる。 少ない労働、少ないリスクで大きな見返り。うらやましく見える人には、 とてつもなくうらやましく見える生活。

その代わり、できる人は限られるし、リスクは大きい。

運用期間を「短期」に設定するためには、常に「次」を考えて行動しなくてはならない。

「おいしい」商売にはすぐに競合者が現れる。同じ働きでも、見返りはだんだんと少なくなる。 そんなとき、すぐに「次」がみつからないなら、ずるずると見返りの少ない仕事にしがみつくしか なくなってしまう。これは最悪だ。

短期運用を上手くこなしている人は、いくつもの「次」を手元に持っている。 自分の中に損切りラインを設定しておいて、常に次へ、次へと仕事を移る。

医者の業界で転職をするというのはなかなか難しくて、それをスムーズにこなして、なおかつ 「次」を確保していくのにはある種の才覚がいる。そのスタイルが自分に合っていると 心から思える人でない限り、実際に行うのは難しい。

自分自身の運用期間を長期に設定するのは、ある意味安全な方法だ。

大規模病院に骨をうずめる覚悟で就職する。大学病院の医局に入局して、その関連施設を 回りながらキャリアを伸ばしていく。 先の見えない時代。だからこそ、伝統的なスタイルというのには強みがある。

どんな業界でも、必ず波がある。デイトレーダーは小船に乗って、波に乗る。 長期投資家は、大きな船で波を突っ切る。

  • 波が大きくなると、小船は簡単にひっくり返る。 だから、デイトレーダーは何艘もの舟に声をかけておいて、 八艘飛びよろしく小船の間を飛び回る。
  • 大きな船は安定している。 ところが、波がもっと大きくなると、大きな船は波のパワーに負けて、 船ごと折れてしまう。

今の医療の業界に訪れている「波」の大きさは、相当に大きい。

これがこのままもっと大きくなるのか、それとも再び「凪」になるのか、それが見えない。

先が穏やかになるのなら、大きな船に乗るのはいい選択かもしれない。 嵐が過ぎるまでは大船に乗って、その先を待てばいい。

ところがこの先、嵐がもっと大きくなるならば、「乗る舟」の選択は相当に考えなくてはならない。

舞鶴市民病院。医者がみんないなくなってしまい、もはや存亡の岐路に立たされてしまっている 施設だけれど、ほんの数年前までは研修医が門前列をなす、非常に有名な研修病院だった。

舞鶴に行くというのは、研修医ならば虎ノ門病院とか、聖路加や沖縄中部といった「ブランド」研修病院に 入るのと全く同じ。非常に名誉なことで、またその先のことはまさに「大船に乗った」気分でいられた。

それだけの病院が、市長の鶴の一声で簡単に吹っ飛んだ。1年もしないうちに医者は激減し、 今では病院の売却先探しに市が奔走している。もはや「舞鶴で研修します」などと言い出す研修医など、 誰もいない。

基本的には、「乗る舟」の大きさに逆比例して、研修の見返りは小さくなる。

大きな病院、特に国立の病院などは手続きが煩雑だし、雑用は多いし給料は安い。小さな民間の病院は、その逆。

自分の選択した施設の「舟の大きさ」がどの程度なのか。

タイタニックだって沈むときは沈む。原子力空母に乗ればまず安全だけれど、軍の舟に快適装備を 求めてはいけない。

嵐の読みと、「乗る舟」の査定。

このあたりが、運用期間を長期間に設定したときに大切になる。

科の投機性と流動性

皮膚科と耳鼻科は、どちらが「強い」のか?

将棋の羽生名人と、プライド王者のヒョードル。どちらが強いのかを比べるぐらい、 比較の意味のない問題だ。この2人については、いつかチェスボクシングあたりで 対決してほしいけれど。

「進路の選択に損得勘定など無縁で、あくまでも自分の興味で決めるべき。」

これは正論だけれど、自分の「本当に」やりたい仕事を見つけるなんて、 実際に就職して見ないと無理だ。

比較の仕様のないものを比較するには、何とかしてパラメーターを見つけるしかない。

就職については、「投機性」と「流動性」という2つのパラメーターが存在する。 投機性が少なく、流動性の高い科ほど「強い」。あとは、本人の希望に合っているかどうかだけ。

例えば産科。

見返りの少ない、非常にきつい仕事だというレッテルが貼られてしまっているけれど、 この科の投機性は低く、流動性は高い。今はなり手が少ないから、みんな後継者を育てようと 必死だ。仕事は忙しいかもしれないけれど、成長する上でのリスクは少ない。

その一方で、流動性は高い。

産科の足りない病院なんて探せばいくらでもあるし、緊急のお産専門などという地獄を歩む選択から、 カウンセリング専門のレディースクリニックの運営まで、「産科」という肩書きが役立つ分野は大きい。

これらのパラメーターは絶対的なものでなく、状況が変われば上下する。

もしも産科医が今の10倍いれば、当然競争は激しくなり、投機性は増す。就職できる施設も 限られて来るだろうから、流動性も減少する。

現在「おいしい」と言われている科も、実際そうなのかは、こうしたことを考えて見ないと分からない。

放射線科や、設備投資の必要なマイナー系の科というのは、案外投機性が高くて 流動性が低いのかもしれない。

自分は循環器内科からまた一般内科に戻るけれど、これもまた流動性を変化させたかったからだ。

循環器内科は、その投機性は低い。

もちろん向き不向きはあるけれど、自分のように「途中入社」組みであっても、 何とか心カテができるぐらいには育ててもらえた。たしかに仕事は楽勝では ないかもしれないけれど、一生懸命やれば育ててもらえる。

当たり前と思うかもしれないけれど、これは本当は大変なことだ。世の中、一生懸命やっても 報われない事例なんていくらでもある。

自分がカテ屋を続けられなくなったのは、その流動性の低さによる。

心臓カテーテル検査室を作るのには莫大な設備投資が必要になる。患者さんの数は多いけれど、 県内で、心臓の治療ができる施設は限られる。大きな病院、いい病院に就職しようと思ったら、 どうしても競争が生じる。

一般内科医というのは、最悪机一つ、聴診器一本あればどこだってできるから、 もうスライムなみの流動性。どこにだってもぐりこめる。みんなから、スライム並の ザコだと思われるけど。

相場の読みと大胆な選択

「人の行く裏に道あり花(華?)の山」という言葉を知っていますか?
人と同じ事をしていると利益は出ない(小さい)という事です。
「分かってるよ!」と言う声が聞こえてきそうですが、 分かっていても実践できない(つまり分かってない)のが相場です。(中略)
株の世界では、ビギナー人が利益を得たりする事が多いのです。
それは誰も見向きもしない「裏の道」だからです。
味をしめた素人さんは株式についての勉強を始めます。 すると次第に利益がでなくなってきます。理由は簡単。勉強する事によってみんなと同じ事をするからです。(中略)
(作者の人が就職して何年か経って、株の名人に取引を勧めたときの話)
「生意気な事言うようになったな」「だいぶ勉強したみたいだからおしえてやる」と言われ次の一言に驚きました。
「すぐ億万長者になれるよ。お前が買いと思ったら売り、売りと思ったら買ってみな」
もちろん出来るわけも無くいまだに私は貧乏です。つまり言いたい事はある程度勉強しなければ裏読みも出来ず、また相場には相当な決断力がいるという事です。
元証券マンが語る「初心者が株をやる前に・・」より改変引用

先のことなんて誰も読めないし、不勉強なままに適当な未来予測をすると、やっぱり罠にはまる。

自分のスタイルにあった期間で予測を立てて、適切な投機性と流動性を持った銘柄を選んで。

その上でさらに、みんなとは違う道、相場の裏読みをして大胆な選択ができないと、投機というのは 成功しない。

その「大胆さ」のエネルギー源になるのが、バンクロールの大きさだ。

持っている全てのものをバンクロールに置き換えること

バンクロールとは「手持ち資金」と訳される、賭け事のときに1回に投資できる金額のこと。

たとえば、カジノで同じ1万円を賭けるにしても、それがその日の金額の全てなのか、 1億円持ってきた中での1万円なのかでは、自ずから賭けの戦略は変わってくる。

ポーカーのプロ同士の対決などでも、試合が始まる前から勝負は始まっている。

試合当日にバンクロールをいくら持ち込めるのか。相手と同じだけの資金を確保できないと、 その時点で精神的には大きなハンデを抱え込むことになる。

進路選択のカジノの中でも、やはりバンクロールは重要になる。

目の前のリスクを取れるかどうか。ストレスに対する耐性。こういう部分に、 「バンクロールをいくら持っているのか」が効いてくる。

知識や技量が何もない研修医の時は、「バンクロール」として勘定できるのは以下のようなものだ。

  • 持ってる現金そのもの(だから給料はけっこう大事)
  • 実家との関係が良好とか、地理的に近いといった状況
  • 以前に関係のあった施設との人間関係
  • 10年以上年次が上の上級生に知り合いがいること

残念ながら、成績が良かったとか、友達が多いこととか、年の近い先輩後輩は役に立たない。

バンクロールとは、要は「人間的に最悪に惨めな状況に追い込まれたとき、 自分を具体的に助けてくれる何か」のことだ。

そんなときには、お金ですら無いよりあったほうが強い。逃げ帰れる実家があって、 それが「地理的にも」近い状況もまた、大きな強みになる。

自分の実力や、同級生の存在は、実効性のある力としては何の役にも立たない。

研修医時代は、みんなが自分の問題でもがいている。 溺れている者は、自分の力ではどうしようもないし、別の溺れている者を救うこともできない。

背水の陣で臨む

先を読んで、行き先を決めたら、後はもう決断して突っ込むだけだ。背水の陣をしいて

この「背水の陣」の意味を履き違えている人が多い。

「水を背負う陣形」は、攻めの陣形ではなく守りの陣形だ。

背水の陣と言うのは、川や海といった「水という絶対的な守り」を後ろに置く (舟を使うのは想定外)ことで、 少ない兵を前面の守りに集中させるための方法だ。史実では、本体がこの陣形で ひたすら守りつづける間に、別働隊が奇襲をかけて敵を打ち破る。

研修医が持てる力は乏しい。いつでも避難できる場所、戻れる場所を確保しておくのは大事だ。 後方の守りを忘れて前進に全力投球できるからこそ、 新しい挑戦もできるし、状況の変化にも余裕を持って対処が可能になる。

退路を断った、1点全賭けは自殺行為だ。

自分の場合、こんど外の病院に出るけれど、やはり「戻れる場所はある」と勘定している。

以前の研修施設。「来る者拒まず、去る者追わず」の病院だったから、多分まだ引き取ってくれる。 まだ黒字だし。

大学医局。不義理を重ねてしまったけれど、最悪の時に土下座して泣きつけば、 たぶん何とかしてくれるんじゃないか、 と思う…。甘いっすかね。

最後はやっぱり「面白がる精神」

進路を選択して、キャリアを積んで。結局のところ、こうした行為は「自分」と言う売り物の価値を 上昇させるためのプロセスにしかすぎない。

問題なのはこの「価値」というものがたぶん誤解されているところで、たとえ世界一の腕前を誇る 医師がいたとしても、こいつが友達のいない引きこもりだったら、そもそもその「世界一」を 誰かが発見することもできないわけで。

自分の価値というのは自分の腕前と言う狭い意味以外に、自分の技量がどれだけの流動性、汎用性を 持っていて、またその腕前を生かすための人間関係、初対面の人に自分を売り込むのが上手いとか、 膨大な友達リストを抱えていて、日本中どこの病院にいっても部長級の医者に知り合いがいるとか、 その腕を実世界で運用する手段まで含めたものだ。

それでも、やはり売り物となる「腕」を身につけないことには、始まらないのもまた確か。

「腕」というのは、習うものではなく「かすめとる」ものだ。

学習の権利は、一応公平に与えられる。それでも、それは最低限の保証であって、 「最大値」は人によって異なってくる。

最初は誰でも単純な作業から。

それでも、それを「単なる作業」とばかりにいやいややるのか、 どんなにつまらない仕事でも面白がってチームに加わっていくのか。

仕事の成果を上げるのに、すなわち、お金を生み出すパワーの源泉は、「知識」であるので、 仕事時間のほとんどが、じつは仕事をしているようで、実質的にはスキル獲得に費やされているのだけど、 知識というのは、個人に所属するものだということ。
この、会社にとってはとても理不尽な構造を意識的に利用すれば、 会社に搾取されるどころか、会社を搾取することができる。
無実力のニートが年収500万円の正社員になる方法より引用

何かの手技をするときは、必ずその準備がいる。

「手技」は直接「腕」につながるものだけれど、「準備」は単なる雑用かというと、決してそんなことは無い。

準備が出来ない奴は、そもそも手技なんか出来るわけがない。どの道具を使うのかすら分からないんだから。

将来、その分野で食べていこう、その分野を本当に面白がれるやつというのは、 やはり面白そうに仕事をするし、面白がるやつをみると、やはり教えるほうもまた面白い。

必要な知識と技量だけいただいたら、あとは「おいしい生活」を。などという考えかたが クレバーだという論調を時々耳にするけれど、やはり面白がれない人というのは、 その科の知識を吸収するのは難しい。

こちらが選別して出し惜しみしてるんじゃなくて、たぶん目の前を通過する知識の重要さを 理解できないから、知識が「腕」として身についてこない。

多くのバイトちゃんは、いつまでもバイトちゃんのままか、あるいは、 使えないバイトちゃんとみなされて、切り捨てられておわりである。 で、何人かに一人混じっている、正社員に登用されるバイトちゃんというのは、 どこが違うかというと、一言でいうと、ボランティア精神旺盛な、 お人好しな感じのバイトちゃんであることが多い。
つまり、死にそうに忙しくて、へろへろになっているディレクター やアシスタントディレクターに同情して、「みんな徹夜してまで 必死にがんばっているのに、ぼくだけ、さっさと先に帰っちゃうの、悪いな。 なんかもっと手伝ってあげられることないかな。」と、真剣に考えちゃうお人好し君だ。
無実力のニートが年収500万円の正社員になる方法より引用

残念ながらこれは計算して「熱心なふり」をするだけでは無理で、やっぱりその業界のことを 本当に面白がれないと、なかなか「仲間」になって「腕」を身につけるのは難しい。

功利的な選択のしかたをあれこれ考察してきたけれど、やっぱり最後は「それが面白いかどうか」。

面白がる精神を原資にして、自らの生存確率を最大に維持しながらいろいろ試行錯誤して、 「心から面白い」と思える仕事を一刻も早く探す。

進路の選択というのは、つまるところそういうことなんじゃないかと思う。

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2006年3月 1日

前エントリーへの返信

分かりにくい文章を書いてすいません…。

このエントリーもたとえ話ばっかりです。勿体つけてるわけじゃなくて、 もともとアナロジーを考えるのが好きなだけなんですが。

シマウマのたとえ話で意図していたことというのは、大体以下のとおりです。

サバンナの登場人物(?)は3種類。

  • シマウマは医者
  • ライオンは刑事罰とか、警察官や弁護士とか、あるいは「ルール」の概念そのもの
  • サバンナの観察者としての神様は別にいて、これは「民医」とか、「みんなの意見」とか、そんなものの総意

結論としては以下のとおり。

  • 医者がかつてイメージしていた「自分の全力で医療にあたる良医」というものは、 いつのまにか国の考える「安価で素直に死ぬまで働く医者」という似たイメージに すりかえられてしまっている。
  • 医者が考える「良医」と、国民、あるいは国家の考える「良医」というものは似て非なるもの。
  • 医師がその良心の表現として「良医でありつづけよう」と思ったところで、 国民、あるいは国家との「良医」のイメージの共有ができていない以上、何の意味もない。
  • 相手に変化してもらうためには、まず自分たちが変化するしかない。
  • このとき、「良医」に 代わる別の理念にとらわれて、皆が一方向性に変化するのは駄目で、 個々に多様性を志向する必要がある。

こんなところでしょうか…。

以下延々とたとえ話。文中、「理念」という言葉と「イメージ」という言葉はほとんど 同じ意味で使っています。

モラルとは個体の持つ理念

ライオン登場前のサバンナ、シマウマの楽園状態だった世界というのは、 白い巨塔の原作が登場する、さらに前の話。カンフル剤などが普通に使われ、抗生物質が やっと登場した頃。

医者の治療はみんな俺様節全開。エビデンスなど言葉すらない世界。 みんな「かくあるべし」という良医の理念を信じて頑張り、一方で疲れて開業すれば 左うちわでウハウハ。

そんな時代が本当にあったのかすら知りませんが、分からない世界を懐かしんで表現したのが 「シマウマしかいない最初のサバンナ」です。この世界でのシマウマは天敵がいないので、 「シマウマたるもの、かくあるべし」という理念を自分達で作って、 のんびり草など食べています。

管理者の持つ理念は個体にルールを強要する

サバンナがシマウマだらけになってしまうと草は枯れるし、何よりも景色が単調です。

「サバンナは、こうあってほしい」という理念を神様が持ちはじめたとき、 その理念の具現者としてライオンがサバンナに現れます。

ライオンはシマウマを追いかけ、その群れの一部の個体を殺します。

観察者としては、そうした事件が時々あったほうが見ごたえがあります。 これが、神様が考えた「こうあるべき」サバンナの姿でもありますし。

いきなり天敵が現れたシマウマは、たまったもんじゃありません。

  • このままでは医療が崩壊する
  • 医者と患者の信頼が…

シマウマは神様に向かって吼えますが、神様サイドはそんなこと知ったこっちゃありません。

  • ライオンが登場したことで、シマウマは、「かくあるべし」と決めた自分達のシマウマのイメージが保てないと文句をいう
  • 神様としては、ライオンを導入することで「かくあるべし」と決めたサバンナのイメージが出来上がり、満足

シマウマが自己規定したシマウマの姿と、 神様がイメージした「サバンナの中のシマウマ」の姿とは、ほとんど同じですが違いが一つだけ。

神様にとっての「あるべき」シマウマの姿というのは、毎日ライオンに食われなくては いけないという部分です。

ルールというものの不確定性

シマウマと神様。お互いの理念の対立が生じたときに「ルール=ライオン」が生まれ、 シマウマにとっての「モラル=個体の理念」は崩壊します。

ルールというのは、誰にとっても確定不可能なものです。

神様は創造主です。サバンナを造り変えようと考え、自分のルールブックに「ライオン」と書くだけで、 サバンナにはライオンが現れます。

ところが、神様がライオンを創造した瞬間、創造という行為そのものが 創造物たるシマウマ、ライオン、それぞれに影響を与えてしまいます。

ルールは世界に現れますが、それをどう解釈し、どう運用するのかを決めるのはサバンナに生きる 被創造物(ライオンとシマウマ)の権利です。

最初の頃こそ、シマウマは神様の想定どおりの頻度でライオンに食われます。

ところが、ライオンの振る舞いが学習されると、シマウマもまた変化します。

政治力に長けた奴。走るのが速い奴。ときに、ライオンをも倒す牙を持つ奴。 新しい個体が生まれ、世界はまた別のバランスへと移行します。

ライオンはシマウマを捕まえられなくなると、サバンナの中で呆然と立ち尽くすしかありません。

神様はライオンを造り変え、その変化に応じてシマウマもまた自分の振る舞いを変化させます。

お互いの変化は多様化を生み、 多様化は神様の制御を外れてどこまでも続き、確定的なものが何もない世界。 これがルールの支配する世界だと思います。

自己イメージに縛られた個体は淘汰される

一方で、変化を拒む個体もいます。「シマウマとはかくあるべき」。

太古の昔、自分達の種族だけで決めた誇り高いシマウマの自己イメージは強力で、 それを捨て去るのは邪道だと考えるシマウマ達。

神様にとっては、これほど 可愛い創造物はいません。毎日サバンナに血しぶきを飛ばして、 労せずして神様にいい見世物を提供してくれるのですから…。

たしかに、神様が行った行為、ライオンをサバンナに放つという行為は不当で、理不尽です。

この世界でのシマウマの振舞いかたには2種類の選択肢があります。

  • 新しくなったサバンナのルールに合わせ、自らを最適化させる道を選ぶか。
  • 神様の不当性を神様に訴え、誇り高い死を選ぶか。

雪山遭難などの想定外の事故の際、子供のような素人がけっこう生き延びる一方で、 ガイド経験者のような専門家はあっけなく亡くなってしまうケースがあるのだそうです。

これは、想定外の事態がおきた時、なまじ専門知識がある分だけ「登山家はかくあるべし」という 自己イメージにとらわれてしまい、生き残るために本当に必要な行動を起こすのに 貴重な時間を浪費してしまうためだとか。

世界の一部にしかすぎない医者からみたモラルだけでやっていけた世界、 あるいはその世界の崩壊というのは、「かくあるべし」という理念の主体が 医者個人から国民全体へと移動しただけなのかもしれません。

医者を規定する理念の主体が、医者が単なる個体にしかすぎない「国民全体」へと移ったとき、 医者からみた「世界」にはライオンの出現のように理不尽な現象がおこります。

それが、最近医療者界隈を騒がせている刑事訴訟だと思います。

「医師とはかくあるべし」という理念の主体が医師の手から奪われた現在、 その管理者の理念、かつて自分たちが持っていた 「良医」という自己イメージにしがみつく医師は、運が悪ければ淘汰されます。

解決は変化と多様化

理念の主体の移動に対抗する手段というのは、変化と多様化です。

理念に縛られている限り、医師は画一化し、世界の観察者から見た 医師のイメージはシンプルなものになり、ルールの変更は容易になります。

一方、医師の行動が多様化し、その生存戦略が一人一人ばらばらになれば、 観察者は何をすればいいのか方針が立てられなくなり、 集団としての医師が相手の理念に縛られる可能性は低くなるかもしれません。

  • 医師とはかくあるべし。
  • あの病院に入れば勝ち組み。
  • 今後は皮膚科最強。
  • 心外に入った奴らは負け確定。

しょせんは全部理念です。従った時点で、いままでの歴史の繰り返し。

個人的には、どんな選択をするにしても、自分の属する局所の世界はどんなところなのかを 感じ取って、自分なりの生存プランを作り上げて、世界の変化に自覚的に 世の中渡っていくのがいいんじゃないかな、などと考えます。

お国の提示する「いいお医者さん」イメージなど蹴飛ばして、みんなが 好き勝手なことをはじめると、世の中がぜん面白くなります。

ベンチャーを立ち上げる奴。金もうけに汲々とする奴。意表をついて、僻地医療にまい進する奴 がいたってかまわないわけです。何が勝ちとか、何が負けとかじゃなくて、 みんなが好きなことをやる。

医療サービスの受け手も、総体としての医者のメタイメージが作りにくくなれば、 医者の批判どころじゃありません。目の前の医者の話を聞いて、 自分の価値観で納得できるかどうかが全て。

医者が変化すれば、 その変化に合わせて「神様」側だって勉強しなくてはいけません。

お互い変化と多様化を繰り返してぐちゃぐちゃになった世界。

自分の志向する理想の社会像というのは、こんなものです。

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