2005年12月30日

真名と忌み名と

白衣の裏には名前を隠す

人に頼られるというのは、基本的にはとても怖いことだと思う。

内科の外来。毎日初対面も同然の人たちがやって来ては、自分達の問題を赤の他人に語る。 もちろんこちらを信用してくれてのことなのだけれど、その話を受ける自分が十分な対価を 支払っているのかどうか、全く自信が無い。

「患者」と「医師」との対峙なら、やりかたは習っている。ところが、目の前にいるのは 「患者」なんかで無く、「○○さん」という人間だ。一般化なんかしたら怒られる。

かといって、 自分が「○○さん」レベルに個人化したら、対峙するのは単なる個人と個人。 自分の「個人」によっぽど自信が無いと、これは恐ろしい。

医師は白衣を着ることで身を守る。個人から医師になり、 さらに何人かで群れることで、「○○科」という影に身を隠す。

白衣。医師。専門分野。出身大学。医局。通り名にはいくつもの階層がある。 医師免許を持った個人は、何枚ものレイヤをまとうことで個人を隠し、「医者」として人と対峙する。 だからこんな仕事もやってられる。

仮名と真名

本当の名前を知られると、その相手と同じ地面に立たなくてはならなくなる。 ダメージも受けるし、最悪乗っ取られる。

イティハーサとかゲド戦記といったファンタジーの中では、魔法を使う人達はしばしば仮名を使う。 誰かに自分の本当の名、真名を知られてしまうと、その人物にいいように操られてしまう。 だから本当の名は親しい人にしか教えず、普段は隠す。

白衣を着て仕事をすること、名前を名乗るとき、「○○大学の○○です」といってみたり、 「内科の○○です」といったりするのも考えかたは同じだ。普段と違う格好をしたり、 自分の名前に肩書きを乗せることで、本当の自分、本当の名前が一人歩きするのを防いでいる。

休日に私服で歩いていて、患者さんとすれ違うと、とてもうろたえる。あるいは相手も うろたえているのかもしれない。病院という場所は仮名と仮名とが対峙する場所だから、 実世界での出会いは想定範囲外だ。

日本人の2つの名前

昔の日本人は、「通り名(仮名)」と「忌み名(真名)」の2つの名前を持っていた。通常は通り名を使用し、 忌み名は公には明かされず、信頼できる近しい人たちにのみ知らされていた。 忌み名が知れ渡ると、その忌み名を使って呪術にかけられると信じられていたらしい。

現在でさえ、多くの人は通り名と忌み名とを使い分ける。Web上で本名を出している人は 増えたけれど、まだまだハンドルネームを使っている人は多い。本名が知られると、やっぱり怖い。

仮名世界の弊害

仮名は本当の自分を守ってくれる。とても頼りになるし、役に立つ。

ところが、仮名での生活に慣れてしまうと、個人でいたときの気遣い、 素手で人と対峙する緊張感が消えていってしまう。

○○先生と△△先生は、普段話すととてもいい人。それなのに、 2人が集まって「○○科」の医者として意見をいうと、とたんに「いやな奴等」になってしまう。

病院では実際よくある。個人で親しいはずの医師が、患者の転科やコンサルテーションの話になると、 とたんに身もフタも無い正論で診察を断ったりする。同じ人間とは思えないほど変わる。

相手に同じ土俵に立ってもらうには

ICUにはいろんな科の先生方が集まってくる。

みんな個人ではいい人なのに、 「科」というものを背負うと、とたんによそよそしくなる。 口調は他人行儀になり、判断も官僚的になる。

チームというのは、本来はすばらしいものだ。

チームとなった人は、単なる個人の集合以上の力を発揮する。 分業ができるようになるし、相談ができるようになる。 何といっても、チーム内の個人個人の、ストレスに対する耐性が まったく違ってくる。

よくできたチームというのは居心地のいい家のようなものだ。あまりにも居心地がいいから、 なかなか外に出てこなくなる。

科を背負ったもの同士の会話というのは、お互いが家の中に こもりながら、窓から怒鳴って会話をしているようなものだ。これでは話がすすまない。

外がどんなに寒くても、実のある相談をしようと思ったら外に出なくてはならない。 自分が家を出るとき、同時に考えなくてはならないのは、どうやったら相手にも外に出てきてもらうかだ。

チームを解体して会話を深める

いじめの基本は対象の孤立化だ。対象が何らかのチームを作ってしまった場合、 まずやるべきことはチームの解体であり、 十分な準備無しに対象への圧力を強めるべきではない。

チームを作ることを覚えた対象は、圧力が強まったときにもっと多くの人を集めようとする。 抵抗チームが大きくなってしまうと、熟達した上級生であってもその扱いは困難を極める。

チームの解体にはいくつかの方法がある。

  • チームワークの成果であっても、功労者を一人に定める
  • 常に序列を作り、競争を奨励する
  • チームが何か失敗をした時には、必ず犯人役を名指しする

…昔書いた某文書より抜粋。

議論で話を盛り上げようと思ったら、集団をなにかの対立軸で切ってみることだ。

最初は各々がチームとチーム。会話はなかなかすすまない。 この2つのチームを、何かの対立軸、たとえば年齢や性別、出身大学、検査データに対する意見や、 過去の経験といったもので分けてしまう。

うまく行くと、2つのチームからなる集団は、「我々」と「あなた」とに分けられる。

「あなた」に仕分けされた人は、もはや個人だ。分けられた人は「我々」に戻ろうとして 必死にしゃべる。会話は弾み、次の対立軸ではまた別の人が「あなた」になる。 こうして何度も切っていくうちに、 2つのチームは1つの個人の集団へと変化する。

議論の対立軸と落しどころと

議論を深めていくという作業は、みんなが背負っている仮名を捨て、 真名での話し合いができるようにしていく過程だ。

もともと何かの問題があって、利害が対立していたからこそ議論が生じるわけなのだけれど、 それでも集まった人達みんなの力を借りないと、自分のお客さんに不利益が生じる。 議論に遺恨は残せない。議論というのは、終了させるときが一番難しい。

議論というのは決闘や殺しあいなどではなく、落しどころの探りあいだ。

相手を打ち負かす必要などない。議論には必ず「次回」がある。 相手を打ち負かす努力は、しばしば有害ですらある。 議論の勝負は51対49でつけるのがもっともよく、 それも本来の議事に対する意見とはべつの次元で解決するのが「正しい」。

結論には妥協は許されない。 妥協して、悪い結果への道程をお互いの善意で舗装するような真似は許されないけれど、 「正しい」結論に至った理由については、いくらでも妥協はできる。

  • 相手が優れていたからではなくて、相手に先輩がたくさんいたから。
  • 転科を受けたのは、相手の科が筋肉系の大男ばっかりだったから。
  • 福島県人の多い科に逆らうと、忘年会で飲まされるから…

議論とディベートとは全く違う。議論というのは、一種の地勢学だ。どういう軸で攻めれば、 うまく落しどころに持っていけるのか。たいていは、相手陣営を笑わすことができれば、こちらの「勝ち」だ。

自分自身が勝ち組に入ることすらも必ずしも正解とは限らない。51対49で議論に負けるというのは、 同時に49人の仲間ができるということだ。議論の流れが見えてきて、 負け側に親しい人がいたならば、敢えて負け側につく「勝ち」だってあるかもしれない。

結局最後は個人と個人

「誠実な外交」などという言葉は、「木製の鉄」や「冷たい火」と同じだ。言葉自体が矛盾している。

それでも現場では、お互いのグループの対立を超えた、個人の協調の可能性というものを信じたい。

背負っている物はとりあえず置いておいて、その人個人の持っている 力や経験をお互いに提供しあえるならば、まだまだいろいろなことがやれる。 自分にまだ提供しうるに足る「それ」があるということも含めて、 個人の持つ力というのはもっと大きいと信じたい。

現場から体が遠のくと、楽観主義が現実にとってかわる。 頑張らなくても、何とかなるだろと思ってしまう。

集中治療室というところは主治医にはならないから、 患者さんの「現場」からは少しだけ遠い立場に 身を置ける。

これはとても楽なのだけれど、やはり自分の中から何かが抜ける。このままではいけないと思う。

来年からは、また現場に出る。たぶん。

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2005年12月28日

盤外戦のしかけかた

公平なルールで気分良く戦うためには、盤外の戦いに最善を尽くさないといけないという話。

女子フィギュアスケートで五輪代表に3選手が決まったが、25日の「全日本選手権」を見て、なぜ、6位の安藤美姫選手が選ばれたのか、釈然としない人は多いはずだ。ネット上のアンケートも「納得できない」との回答が9割を超えた。
渡部絵美さんは選考前、夕刊フジに「今の実力からすれば、選ばれるべきなのは浅田(真央)、中野(友加里)と、村主か荒川のどちらか。でも、代表は安藤と村主、荒川になるので見ていなさい」と断言していた。
ZAKZAK「代表は選考前から決まっていた」より改変引用

なぜか。

  • 代表3選手は、日本オリンピック委員会(JOC)が、スポンサーから資金を集めるための「シンボルアスリート」に選ばれている。個人にも大手企業のスポンサーも付いており、連盟は彼女たちを落とせないと読んでいた。
  • フィギュアスケート界の“女帝”といわれる城田憲子フィギュア強化部長は村主や荒川の指導者だった。一方、浅田や恩田(美栄)は、伊藤みどりを育てた山田満知子コーチの教え子。2人の対立関係が選考に影響した。

ルールブックは熟読せよ

どんな競技にもルールはあるけれど、ルールブックというのは「書いてあること」だけを読んではいけない。

目標が「ルールを守ること」ならば、ルールブックに書いてあることだけを読めばいい。

ところが、目標が「勝負に勝つこと」ならば、ルールブックの読みかたは変わってくる。 書いてあることはもちろん大事。でも、もっと大切なのは何が書いていないのか を読み取ることだ。

たとえば自動車競技。ルールブックはあるけれど、主催者の意図に忠実に車を作っていたら、 絶対に勝てない。

1990年代のグループA。メーカー対抗の市販セダンの改造者の競争で、 大いに盛り上がった。レース自体も面白かったけれど、何より面白かったのは各メーカーの戦略だった。

  • いち早く車を作って必勝を期していたのがマツダ。 まじめなメーカーだけに、改造範囲もルールブックどおり。それは正しい行為だったけれど、それだけ。

  • ホンダはすごかった。ボディ以外は全く別者と呼べるぐらいに改造した車を出してきて、 レース中盤以降はもう独走状態。他のメーカーからの抗議が殺到したけれど、それでも勝ちつづけた。

  • もっとえげつなかったのがトヨタ。勝利数では明らかにホンダに負けていたのに、途中から ルール自体の改変を要求した。前半戦のホンダの勝利は無効試合か…という雲行きになった頃、 新聞の1面を買い上げて「グループA1年目はトヨタ自動車が総合優勝」の前面広告。

自動車競技の勝ち負けなんて、八百長でもしなければごまかしようが無い。それでも ここまでできるし、メーカーともなるとここまでやる。

いい大人の技術者が、どうやったらルールの範囲を守れるかを考えるのではなく、 どこまでならルールを破っても大丈夫なのかを真剣に考えるのが自動車レースの世界。

だから面白い。

ルールを決めるのは主催者か?

もちろん、競技を主催する主催者はルールを決める。

参加者全員がルールを守って、想定したルールの中で競技してくれれば、 主催者としては一番都合がいい。

小学校の運動会といった、競争の目的が「楽しむこと」で、実世界の利害が 加わらない場所で開催される競技ならば、ルールはそのとおりに守られる可能性は高くなる。

ところが、 残念ながら利害の絡まない競争というのはほとんど無い。

小学生の頃、近所の工事現場で泥合戦をするのが流行ったことがあった。 最初はみんな泥を投げていたけれど、すぐに 泥団子の中に石を混ぜる奴続出。流血沙汰になって、担任の先生が武力介入するなんて しょっちゅうだった。紳士協定なんて破るためにある。そんなことは小学生だって分かってる。

奪い合いの無い世界でもまた、ルールは守られる。

バブル経済真っ盛りの頃。 経済の規模がどんどん大きくなっていた頃は、いい物を作りさえすればどんどん売れた。 膨らんでいく世界ならば、ルールどおりの努力はかなり高い確率で報われた。

今は無理だ。世界の大きさは限られている。勝つためには、誰かから奪わなくてはならない。 「いい」だけでは片手落ちで、「どう」いいのか、差を見せつける努力は欠かせない。

ルールは作られるけれど、すぐにそれは競技者に解釈される。抜け穴は突かれるし、ゲーム盤の外 では主催者の想定外の戦いかたがしかけられる。

ルールブックに記載されているルールと、ゲームに勝つための「真のルール」というものは、 しばしば大きく異なる。

ゲームを構成する3つの要素

相手に勝つには、そのゲームの真のルールを知る必要がある。

ゲームという言葉の概念は広い。フィギアスケートやK1グランプリみたいな格闘技だってそうだし、 選挙や政治、戦争だって概念上はゲームの一つだ。

実世界でのゲームというものの真のルールを決定しているのは、以下の3つの要素だ。

  • ルールブックの内容
  • ゲームの審判の技量
  • 自分が目標とする勝利の条件

ルールブックはルールそのもの。それをどうやって違反するかも含めて、ここまでは 狭義の競争の範疇。

「盤外戦」の主役になるのは、審判の技量の読みと、その操作。さらに、勝利の条件を 競技者が勝手に変えてしまうと、ゲームの存在自体を無かった ことにしたり、あるいは負けたゲームの結果を最終的に「勝ち」に持っていくことすら 可能になる。

審判の技量の問題

前のブッシュ vs ケリーの大統領選挙。

ルールブックに書かれた範囲の競争では、ブッシュ陣営の勝利は危なかったのだそうだ。

ブッシュ大統領の経歴や政策面、人気といった、大統領選挙のルールブックに 記載された部分では、ブッシュはケリーに勝てないと言われていたらしい。

ブッシュ陣営の取った戦略はシンプルなもの。

頭が良いケリーは冷たいリベラリスト、 「お茶目な」ブッシュは暖かいキリスト教徒。

キリスト教を信じるなら、テロリストを憎むならブッシュへ投票を。 こうした2極分化のキャンペーンを張って、インテリ層の少ない州を味方につけた。

選挙という競技で審判役をやるのは有権者だけれど、選挙エージェントの人たちが まず行う準備の一つが、その地域の有権者のインテリジェンスの評価なのだそうだ。

前の大統領選挙では、ケリー陣営は「有権者は頭がいい」という戦略を選んだ。文化人のインタビューや 応援演説を投入して、ブッシュ批判の映画(一応関係無いらしいが…)を公開して、政策面での 民主党の有意性をアピールした。

ブッシュ陣営は、アメリカ国民のインテリジェンスをもっと低く設定していたように見える。

有権者全員が法律学者なら、政策の優秀さを唱えた民主党が勝利したかもしれない。 ところが、「審判」としてゲームに参加する人には、いろいろな人がいる。 審判の技量の読みと、それに合わせた戦略の選択という点で、今回の共和党は 民主党を上回っていた。

  • 審判全員が神様ならば、そもそもルールブックすらいらない。
  • 審判がどうしようもなかったら ルールブックを無視して「オレの勝ちだ」と声高に叫んだほうが速いかもしれない。

どちらにしても、ルールブックというものは審判員の技量が一定範囲の状況でしか 通用しない。

冒頭のフィギアスケート。審判だって人間だから、採点なんかいくらでも変わる。

たとえ公平な裁定が行われていたにしても、でてきた結果は後味の悪さが 残る。選手に「公平な戦い」をしてもらおうと考えた場合、この一件では コーチサイドの努力が足りなかったように見える。

選手に強くなってもらうだけでは、ゲームのコーチとしては片手落ちだ。

  • 相手に拮抗できるだけのスポンサーや政治力を用意する
  • コーチ間の派閥のスキャンダルについてマスコミにリークして、スポンサーを持ちこめなかった不利を 挽回する

ルールブック上は「公平」な戦いであったとしても、こんなことをしないと「真のルール」の上では 公平な戦いにはならない気がする。それが選手が望むことなのかどうかは別問題だけれど。

自分が意図する「勝ち」とは何か

いい医者になりたい。

これだって立派なゲームだ。

論文をたくさん書くこと。専門資格をとりまくること。 同級生から認められること。お客さんから感謝されること。

ルールブックには「いい医者になる」としか記載が無い。何が「いい」のかは自分で決めないといけない。

たぶん誰もが自分なりの「いい」基準を持っていて、一生そこに向かって努力をする。 手術の技量やいろいろな資格。専門医の認定試験。医師の生活の中には様々な競争があるし、 みんないろいろな競争を勝ち抜かなくてはならないのだけれど、そうしたローカルな競争の 勝ち負けというのは、勝利条件の設定のしかたによっては単なる通過点にしか過ぎなくなる。

今世の中がいろいろと変わってきていて、 医師法も朝令暮改の気合で改正(それが改善なのか改悪なのかは、 サービスの受け手である患者さんが評価することで、医師が論じるべきではないと思う)されている。

医療周辺のルールブックの記載内容はコロコロ変わる。お上が変える。勝手に変える。

そのルールブックに素直に従った人達は、みんな損をする。高額な医療機器しかり。 療養型病棟しかり。 ルールを変えられるのは本当に腹が立つ。 あんなものに自分の一生が左右されるかと思うと、いやになる。

コロコロ変わるルールに最適化しようとすると、自分の中の「いい医者」像もコロコロ変わる。 従う以上、変わらざるを得ない。本当に下らない。

医師免許を持ってる奴が医者。さすがにここは変わらない。 変わらないものを足がかりにして、 なんとか自分の勝利目標という奴を設定できないものか。 そんなの単なる甘えなのか。そもそも病院で医者やる時点で 終わってるのか。

10年経っても、まだ分からない。

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2005年12月25日

期待の消失と医療の恐慌

最近の小児医療崩壊とか、僻地医療の崩壊といった話題というのは、 社会全体の大きな問題なんかじゃなくて、医師同士の狭い社会の ローカルな問題なんじゃないか。そんな妄想。

子守協同組合のお話。

何人かが集まって、お互いに子守をしあおうと合意しあった。そうすれば、子守アルバイトを現金払いで雇わないですむからだ。これはお互いにメリットのある仕組みだ。子供のいる夫婦は、一晩別の夫婦の子供の面倒をみたところで、手間は大して増えるわけじゃない。いずれ別の晩に、自分たちの子供の面倒をみてもらえることに比べればおやすいご用だ。

協同組合は、クーポンを発行した。子守をする人たちは、子守りをしてもらう人たちから、適切な枚数のクーポンを直接支払ってもらう。長期的には、それぞれの夫婦は他人にしてもらった子守りと同じ時間の子守りを自分でもすることになるだろう。

あまり外出する機会のない時期には、どの夫婦もたぶんクーポンを少しためておこうとするだろう。そして、外出機会が増えたら、その蓄えを食いつぶす。こうした需要は、それぞれの夫婦間で相殺しあうはずだ。ある夫婦が出かけたいときは、別の夫婦は家にいる。でも、多くのカップルは常にそれなりの数の手持ちクーポンを持っておこうとしたから、流通しているクーポンの数がかなり下がってしまった。

多くのカップルは子守りをして手持ちクーポンを増やしたいなと思い、外出して手持ちクーポンを減らすのは気が進まない、ということになった。だれかがクーポンを受け取るには、だれかが外出するしかない。みんなが外出しなくなると、クーポンを稼ぐのはむずかしくなる。これに気がついて、カップルたちはよほど特別な機会でもない限り外出してクーポンを使うのをいやがるようになってしまった。

消費者不安が広まるというのは、この協同組合の平均的なメンバーがいままでほど外出したがらなくなったってことだ。万一に備えて、クーポンをため込みたいなと考えるようになったのと同じことだ。

Krugman: 経済を子守りしてみると

メジャー科冬の時代

現場が冷えている。

当院などまだまだいいほうだったけれど、後期研修医の取りあいでは大学病院は大敗もいいところ。県内の大きな病院からはスタッフドクターが減ってしまい、水面下では産科や小児科の撤退話がいくつもすすんでいる。

集中治療室にいると、いろいろな科の医師と知り合いになれる。共通しているのは一つ。ICUに患者を送らなくてはならないような科の医者は、みんな将来を悲観しているということだ。

メジャー系の外科や内科。どの科の中堅どころ(7年目から十二年目ぐらい)も、来年はみんな外に出る。

ここはもう駄目です。
自分ら、終わってますから…

自分達の科の将来を、どの医者も信じていない。大所帯の科は、それでもいくらか明るい。 まだまだ仲間はたくさんいるから。

小児科なんかもっと悲惨だ。自分達の滅びを覚悟した小児科の先生の微笑というのは、 もう出撃前夜の神風特攻隊の隊員そのもの。人は覚悟を決めると神様に近づく。 小児科の先生方を見ていると、それが本当なんだということが良く分かる。

よくある昔の話

医者の数は増えている。患者の数も増えたけれど、そんなに大きな変化があったわけじゃない。

要求される医療の水準は確かに上がった。それでも、医療訴訟の絶対数なんかは、たぶんそんなに 大きな変化は無いように思う。

唯一大きく変わったのは、医者の「やる気」の部分だ。

研修医の頃、本気を出して働く医者というのは かっこよかったし、尊敬された。今では「ただのバカ」だ。

収入の話。以前はお金の話なんて御法度もいいところだったし、 基本的には誰も興味無かった。ただただ忙しく働かせてもらえば、 それで十分だった。今は逆だ。忙しい職場であっても、まず話題になるのは 「ペイがいいかどうか」。働きのわりに安い職場であったなら、心有る同級生なら 「お前騙されてるよ…」というアドバイスをするだろう。

昔はみんな神様だった。みんなバカだったし、本気で神様を目指してた。 いまでは誰もが人間だ。まず自分の生活があって、余力があったら仕事にやる気を出す。

「将来は、どんな医者になりたいの?」

今の研修医。誰に聞いたって、具体的な答えは返ってこない。 小児科に行ったら負け。それだけはみんな「分かっている」。 だれが教えたわけでも無いのに。

本気を出さない現場

本気を出して働けば、医者はけっこう働ける。

もちろん、忙しい現場の先生方は、いつでもフルパワーで働いている。というか、そうならざるを得ない。

それでも、そうで無い医師もいる。今の大学病院。集中治療室に移ってから、自由になる時間は多少は増えた。 就職してから生まれてはじめて、2日間とはいえ「自由な休日」というものがもらえ、 おかげでひどく体調を崩してしまった。

大学病院という社会は大きい。休みをもらって体調を壊している奴がいる一方で、研修医以降20時より後に帰った ことが無いような科の医者だっている。逆に、家に帰るのが2日に1回とか、5日に1回とかいう外科系の科も まだまだたくさんある。内科だって軽症の小児は診察したし、消化器外科だって帝王切開の助手ぐらいなら 何とかなる。大学病院でさえ、全員がフルに働いたら、たぶん現状の6割増しぐらいの 仕事量をこなせる。根拠は無いけれど。

未来への不信と医療の恐慌

「恐慌」とは、商品が売れず、失業や倒産が増える状況だ。

物は流通していて、お金を持っている人もいるはずなのに品物は売れず、経済が不振を極める。

恐慌状態になった経済下では、人々は貨幣を商品以上に欲しがってしまう。ものを売って貨幣を得ると、 それを別の商品に対して支払おうとしないでため込んでしまう。

商品を販売しようとしている人は売ることができず、売れないとお金が入らないから、 その人もものを買わなくなる。その連鎖が繰り返されて恐慌になる。

商品とお金、医者の「やる気」とお金とに単純には置きかえられないけれど、 根底にあるものは未来への不信感だという部分で、共通するものは多い。

人間というものは、債券とか、土地といったものに対する価値が信じられなくなったときには、 現金のような「流動性」の高いものに価値を見出すらしい。

流動性というのは、すぐに他のものと交換できるかどうかということ。 現金はもちろん直接つかえるから流動性が高い。一方で、土地とか株券とかは売るのが面倒くさいし、時間もかかる。
帰ってきた大恐慌経済より抜粋

我々の業界で「土地」や「債券」に相当していたものは、大きな病院の部長職とか、あるいは僻地医療に 一人で立ち向かう、「かっこいい」医師の姿だった。10年前。こうした人達というのは憧れの対象だった。 修行を積めば、いつかは自分もこうした医師になれる。こうした「債券」を購入するために、 みんな自分の時間を対価に差し出した。

「かっこいい自分の未来」というものを信じていたからだ。

現在。未来なんて恥ずかしいもの、信じている奴なんか誰もいない。2年後の自分は想像がついても、 5年後に何をやっているのか予想がつく医者はほとんどいないだろう。何がおきるか分からないとき、 ペイの悪い仕事にフルパワー出して、体を壊したんでは割りに合わない。

「かっこよさ」を決めていたもの

我々は実のところ、人の話しを吟味するにあたって「何を言ったか」よりも 「誰がそれを言ったか」の方を重視するよう出来ている。
404 Blog Not Found:「誰が言ったか」>>「何を言ったか」

どんな医者になりたいのか、どんな医者になることがすばらしいのかなんて、実は誰も知らない。

自分のあるべき将来像をはっきり決定できるような人は、そもそも医者になんかならない。

なんとなく安定してそうだから。社会的な地位が高そうだから。偏差値がちょうど良かった。受け狙い。

医学部なんて倍率だけはやたらと高いから、もはややる気だけでは進学できない。 中学生ぐらいから、いわゆる「受験校」にでも通って、情報収集をかけないとまず失敗する。

どんな医者になるのがすばらしいのかを決定するのは、大学医局の役割だった。

大学病院の教授というのは、あらゆる医者の中でもっともかっこいい。県内の大きな病院の院長や部長は、 その次。

とてもわかりやすい。もちろんこれに反発する人も多かった。反体制もまたかっこいい。

でも反発という行為は、そもそも 一つの価値がはっきりしていないと、かっこよくも何とも無い。

厚生省の努力のかいあって、大学医局という組織は見事に力を失った。

いままで大学が担保価値をつけていたものは、今ではその価値を保証してくれる人が いなくなり、暴落を始めている。ものの価値が信じられないという流れは恐慌を生み、 その世界で働く人にやる気を無くさせる。

患者さんはいるし、病気が絶滅することもないのに、 医者にとってはまさに大恐慌が訪れたようなものだ。

医者社会という狭い世界での現象なのに、蔓延する負け意識は、 医療全体をそうとうおおきく揺さぶっている。

「やってられねえや」という意識は、救急とか小児科といった、「割に合わない」仕事につく人を減らす。 名を捨てて、実をとる人の数は増え、そうした人が成功者として注目を浴びる。

外野の声は、現場の温度をどんどん下げる。 「大変ですね」ならまだしも、「あいつらバカじゃないの?」の声の中で仕事を続けるのは本当に大変だ。 誰かにむかつきながらやる仕事は、ただ仕事をするときよりも2倍疲れる。

新たな価値は恐慌を回避するかもしれない

恐慌状態の経済を回復させたり、あるいは回避するには、計画的なインフレーションを行うことを 国が宣言すればいいのだそうだ。

どんな手段を用いても、将来的に必ず債券の価値を上昇させる。国家がこうした態度を明確にすることで 債券や土地に対する信頼は高まり、資金は市場に流れ、経済は回復するらしい。

医者には無理だ。

いまさら国がいくら宣言してくれたところで、だれもそんなもの信じやしない。

むしろ可能性を感じるのは、2ちゃんねる的なネットコミュニティの噂話の力だ。

大学を頂点とした医師の価値尺度を補間していたのは、同僚からの評価、あるいは 目の前の患者さんからの評価といった、横のつながりからもらえる励ましの言葉だった。

人と人とをつなげるコストが恐ろしく安くなった昨今、破壊された医師の価値尺度を 再生するのは国家なんかじゃなくて、こうした水平方向からの力なんじゃないかと思う。

医療の崩壊。厚生省もいろいろやってはいるけれど、役人にはノーパンしゃぶしゃぶでもつついて もらって、このまま黙ってみていてもらうのが一番効果的なのかもしれない。

「道具を人々の手に行き渡らせるんだ。皆が一緒に働いたり、共有したり、協働したりできる道具を。『人々は善だ』という信念から始めるんだ。そしてそれらが結びついたものも必然的に善に違いない。そう、それで世界が変わるはずだ。Web 2.0 とはそういうことなんだよ」 善・清・可能性を信じる「Web 2.0」の考え方

自分はもはや、ここまで楽天的にはなれないけれど。

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2005年12月19日

偽医者稼業は効率がいい

ローリスクハイリターンの医療詐欺

偽医者をやっていた人が逮捕された。

評判は良かったらしい。たぶんそんなに大きなトラブルもおきてはいないはずだ。

偽医者という「仕事」は、リスクの割りに得られるものが大きい。もちろん犯罪ではあるけれど、 いろいろな犯罪行為の中ではかなり効率がいい

10年ぐらい前ならば、偽医者という商売はほとんど成立しなかった。

安部譲二の「塀の中の懲りない面々」本の中には、 偽医者をやって「ドクター」と呼ばれていた人の話が出てくるけれど、あの人物は 大学病院で本物の医者を教えていたぐらいだから、もう本物と同じ。

詐欺の鉄則は、「手に入るものが同じなら、より簡単な場所から手に入れろ」ということだ。

10年前、病院の中には「簡単な場所」なんか無かった。 医者の絶対数が少なかったし、外来に来るのは実際に困っている人ばかり。 実際に症状があって病院に来るから、いいかげんなことをしても治らない。 救急外来には本物の急患しか来なかったから、知識の無い医者は絶対にボロが出る。 間違ったことすると、たぶん死んじゃうから。

今は違う。病院には、簡単にお金を騙し取れる人があふれている。

カモは夜に来る

夜間の救急外来は、「カモ」の宝庫だ。

風邪をひいた人。眠れない人。単に話を聞いてほしいだけの人。

もちろんそんな中に「本物」が隠れているから油断はできない。それでも、 「ばれたら逃げる」を前提に仕事をするならば、そうした人達を相手にするのに 医学知識は要らない。

医学の知識や医者の研修というものは、そのほとんどが万が一に備えるために 行われる。

  • 急変したときに対処できるため。
  • はっきりしない症状の中から、まれな疾患を見逃さないため。

急変したときに逃げればいいなら、まれな疾患を見逃してもかまわないなら、 医師免許など無くても「評判のいい先生」にはなれる。

医療という商品の2つの顔

患者さんというのは、病院に「医療」という商品を買いに来るお客さんだ。

この商品の価値には2つの側面がある。

  • 病気を治すという確実な医療の要素
  • サービスをしてほしいという、サービス業本来の要素

評判のいい医者というのは、腕もいいしサービスもいい。

腕だけよくても、医者としては片手おちだ。たとえ病気を治すのが上手だったとしても、 外来に来る人だれもが「2度とかかるか」と思ってしまうなら、すぐにその人は相手にされなくなる。

一方、腕は悪くてもサービスのいい医者というのは、万が一の時が来るまでは名医でいられる。

もちろん、患者さんが急変したりすれば、こうした偽の名医はすぐに馬脚をあらわす。 まれな疾患を見逃したことが後からばれると、恥をかく。

ところが、患者の急変なんてめったにあることではないし、まれな疾患というのは本当にまれだ。 起きないことにエネルギーを注いでもしょうがない。無愛想な隠れた名医など 存在しない。名医と呼ばれる人は、みなどこかの方面で愛想がいい。 それが患者さんなのか、同業者なのか、マスコミ限定なのかは人によるけれど。

医学の勉強を怠れば、患者さんの危険度は増す。本当は、誰もが「歩く総合病院」を 目指して勉強しないと、患者さんの安全というのは向上しない。

医者は勉強する。もっと勉強する業界もたくさんあるだろうけれど、医者だって毎日勉強する。 インターネット時代。主要な論文雑誌はほとんどが週刊誌だ。水曜日のCirculation、木曜日の NEJMとLancet、毎月月末はJACCとかAnnals。読んだっていまさら自分の手の動きがそう大きく 変わるわけではないけれど、それでも読まないとおいていかれる。

勉強をすることで、たぶん少しづつは安全率が向上しているはずだけれど、 どこまでいってもゴールは見えない。

安全の青天井ルール

一般的に、競争というのはルールがあって、その枠内でいかに優れた バランスをとれるかが競われる。

プライドみたいな「何でもあり」の格闘技だって、武器無しで人間が戦うという ルールがある。ミルコやヒョードル、ノゲイラといった格闘家はみんな出身が違うけれど、 その格闘スタイルというのは、今のルールに沿った同じようなスタイルに収束している。

自動車の競争もそうだ。F1みたいなフォーミュラカーはルールが厳しいけれど、 かつては CAN-AM という「4輪ならば何でもあり」というルールのレースが実際にあった。

それすらも、初期の試行錯誤の時期をのぞくと、速い車のデザインや規格というものが 自然に決まってしまい、1970年に入ってからはどれも同じような車ばかりになってしまった。

どんなに「何でもあり」のルールを考えても、競技である以上、例えば格闘技なら「武器無し」、 自動車レースなら「車輪で走る」という縛りがつく。

縛りの中で何かの性能を向上させようとすると、どうしても何か失うものが出てくる。 格闘家がウエイトを上げることでスタミナを失ってしまったり、車のパワーを上げることで、 今度はタイヤの消耗が激しくなってしまったり。

これを本当の青天井ルールにしてしまうと競技は成り立たない。格闘技が「武器あり」になってしまえば、 最後に行きつくのは銃や核兵器だ。自動車競走にジェット戦闘機を持ち込んだら、もはや 「自動車」競争にすらならない。

そんな中で、「安全性の向上」という競技にだけは、青天井ルールが成り立っている。

安全というものは、お金をかければかけただけ向上する。

ダブルチェック、トリプルチェックといった安全対策を行うと、それだけ煩雑さはますけれど、 それすらも人海戦術でカバー可能だ。お金に糸目を付けないならば、 安全性の向上は、いくらでも性能を追求できる。

安全性の追求には、本当はコストの上昇というトレードオフが存在するのだけれど、 医療という産業の特殊性が、コストについての問題を見えづらくしている。

競合相手のいない医療界

調子が悪ければ医者に行く。近くの開業の医師にかかるか、ちょっと離れた大病院にかかるか。 このとき、開業医と大病院との間には競合関係が生じる。

一見するとこれは競争なのだけれど、どちらに行ってもでてくるのは医師免許を持った同じ医者だ。 医者同士の競争意識というものは、たかが知れている。別に談合しているわけじゃないけれど、 同じ西洋医学の医者ならば、考えることは大体同じだ。

自分が飢えない程度の利益を考えながら、 そこそこサービスが良くて、そこそこ安全な医療を提供する。

医師ごとのポリシーの差はあっても、しょせんは「そこそこ」の範囲の差でしかない。

救命的な要素とサービス業としての要素、この2つの医療の側面は、 総合格闘技でいうと「人間が」「武器無しで」戦うという2つのルールに似ている。 ルールというのは最低限2つ無いと、競技が成り立たない。

今の医療で、この2つのルールをもっと強力に展開しようと思ったら、 やはり医者とは別の競合者を設定する必要がある。

価値の軸を増やすとニッチが生まれる

具体的には、医療技術は限られていても、コストが安くて会話の時間を長く取れる 職種を"準医師"として新たに認定する。

イギリスの「NP(ナーシングプラクティショナー)」、毛沢東時代の「裸足の医者」、 少しシステムは違うけれど、日本の接骨院やマッサージといった職種もそうかもしれない。

今の医療の選択肢というものは、「医者にかかる」という一つの選択肢しかない。

これはちょうど、薪を割るのと刺身を作るのに同じ鉈を使うようなもので、 実用的ではあっても効率が悪い。余裕があったら、普通は「切れ味のいい鉈」を探す前に、 包丁を買うだろう。

今の医療も同様だ。医者という1種類の職種以外に、サービスに特化した別の職種を導入して 選択可能にする。

問題はもちろんある。道具が増えると、正しい道具に出会える確率は減る。 2つの業種を導入すると、その界面に落ち込む患者の問題は必ず出てくるだろう。

それでも、ルールが増えると選択肢は多様になる。

サービスで勝負する準医師に対して、従来の医師が取れる選択肢は大きく2つ。

  • 専門性に引きこもって、安全で確実な医療を追求するか。
  • 「安く」「サービスのいい」医療を提供して、準医師と競合する道を選択するか。

いずれにしても、選択肢が2つになるだけで、医師の将来像というのは2次元的に 無限に展開可能になる。

何が正しいのかはますます分からなくなるし、患者さんサイドも「どこにかかればいいのか」が 決められなくなるかもしれないけれど、そこにまた「ガイド」としての別のビジネスが生まれる かもしれない。

ルールは複雑なほうが面白い。

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2005年12月15日

ILCOR-CoSTRおよび関連資料の粗訳

ILCOR-CoSTRおよび関連資料の粗訳

2005年の心肺蘇生のガイドラインの和訳を作ってくれた人達がいた。
自分でやり始めなくて本当に良かった。

ガイドラインの発表が2005年の11月末。早速海賊版を…と思ったが思いとどまり、 どうせどこかで和訳を始めるグループが絶対出るはずと探し始めたのが5日後。 当院の救急の先生から、このグループの活動のことを教えてもらい、待つことにしたのが 1週間目。

2000年の時にはこうした動きは(たぶん)なく、和訳が出版されるまでに1年近くかかった。 Web版も無かったので、その間は結局自分で訳すしかなかったし。

「車輪の再発明を避けよ」というのは鉄則で、Web上に使いまわせる資料が出回る現在、「自分でやるよりまず探せ」は他の業界では当然だったのだけれど、医療界でもようやく有用な資料を公開してくれる人たちが増えてきたのはうれしいことだ。

うちの表ページも、そろそろ削除の時期。古いし。

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2005年12月14日

真空の生む大きな力

平等で無気力な集団

「市民」とか「みんな」とか、大人数の集団に何かを訴えて、力をかしてもらうのは難しい。

大人数の集団に何かを訴えるなんて、空気に突っ込んでいくみたいなものだ。 何かをやろうとして助けを求めたところで、みんなよけるだけで何も変わらない。

体育会とか企業とか、統率のとれている集団ならば、「頭」にあたる人がいる。 何かを訴えたければ、その人に訴えると効率がいい。

人が持っている力や人望、機会や運命といったものは、本来が不平等に分配されているものだ。

人は集まって組織を作る。その中には頭になる人もいれば、筋肉や皮膚になる人もいる。 生物が物を食べるとき、「今食べたものは皮膚にしよう」「これは血管に」などといったことは考えない。 組織の中での人の役割分担というものも、誰かが考えたり選挙で決めたりするものではなくて、 本来は自然発生的に勝手に決まる。

人の自然な役割分担を否定した組織というのは、組織が生み出す力そのものを否定してしまう。

学校組織。大学。公務員。市民団体。「平等」という、 組織にとっては極めて病的な考えかたが支配する 集団にとりこまれた人というのは、これが同じヒトかと思うぐらいに効率が悪くなる。

チームというのは本来、単なる個人の集団以上に強い力と可能性を持っているのだけれど、 「平等」という腐った概念に毒されたチームなら、個人の集団のほうがよっぽどましだ。

公務員の人に働いてもらおうと思ったら、言葉を使ってその人を組織から 切り離すことだ。

  • 「あなたの名前を聞かせてください」
  • 「名札を写真に撮らせてもらってかまわないですね?」
  • 「あなたの車は湘南ナンバーのシビックでよすね。フフ。」

何かのお願いをするとき、こんな言葉を最後に付け加えると、公務員の人達は喜んで動いてくれる。

風は吹くのではなく吸引される

風というのは、「吹く」ものではなく「吸引される」ものだ。

空気のような物質をいくら押しても、力を加えたほんの一部をのぞいては、空気は動かない。 もっと強い風を起こそうとして、いくら強い力を加えても、その分逃げる空気の量が増えるだけだ。

自然界の風というのは、気圧の高い部分が空気を押すのではなく、 気圧の低い部分が空気を「吸引する」ことで大量の気体が動く。

押す力が効果を及ぼす範囲は狭い。 広い範囲に効果を及ぼすのは吸引力だ(B.フラーの受け売り。元本忘れた)。

空気のようにつかみ所のない、平等な社会や組織を本気で動かそうと思ったら、 その人達を「押す」ことを考えずに、「吸引する」ことを考えなくてはならない。

空気と同じ挙動をする大きな集団

(計算偽造マンションをつかまされてしまったときのローン対策として) 結論から言えば、ローン引き落とし通帳の残高を「0」にします。
(中略)銀行は「払ってくれ」と督促してくるでしょうが、無視します。
(中略)自治体が家賃を補助あるいは免除してくれるなら、それはそれとして受けて、 ローンの支払いは「凍結」します。 (中略)当然に銀行は抵当権を設定しているハズですから、ローンの支払いを止めて、 銀行に「約束どおり抵当物件を差し出せばよい」のです。
悪徳不動産屋の独り言: 構造計算偽造問題、私が被害者ならこうするより引用

実現可能性は分からないけれど、非常に理にかなったやりかただと思う。

銀行組織、あるいは国家という組織は極めて統率のとれている大集団だけれど、 個人が相手にするには大きすぎて、 まったくつかみ所のない相手だ。

偽造マンション騒動。国に陳情をしたり、業者を訴えたりしたところでマンションを 買ってしまった人の「負け」は見えている。払ったお金も返ってこないだろうし、 銀行はきっちりローンを持っていく。国は国で、形ばかりの同情の念は示しても、 選挙前でもなければ十分な補償はないだろう。

引用先の文章では、読む限りでは極めて実践的な解決方法を示してくれている。

銀行相手にローンを組むという行為は単なる借金などではなく、 不本意な取引をしてしまったときのリスクの一端を銀行が担ってくれるという点で、 (ちゃんと利用すれば)極めて有効な消費者保護の手段なのだということがよく分かる。

リスク回避装置としての銀行組織を「正しく」利用できないとき、 例えばローンの免除をマスコミや国に訴えてみたり、 業者の非道さを声高にアピールしたりしても、多分銀行は全く動じない。

消費者が引用先の文章のような行動をとり始めると、話は違ってくる。

今回のマンション騒動では、「国-業者-消費者-銀行」というシステムの中から、 消費者は合法的に抜け出すことができる。

生態系というものは空白を嫌う。

あったものがなくなってしまうと、残されたものはその空白を埋めようとする。 業者の資産を身ぐるみ剥いでみたり、国とやりあって保証を分捕ったりといった 力業を必要とする作業は、消費者の空白に「吸引された」銀行が、肩がわりしてくれる。

個人はそうは行かない。消費者が銀行に「力をかしてください」といくら強く訴えたところで、 それが実現することはないだろう。銀行という巨大な組織は、個人がいくら「押した」ところで、 組織を動かさない理由などいくらでも考えつける。

大きな集団を交渉の席に引っ張り出すには、その人達を「押す」手段を考えるのではなくて、 「吸引する」方法を考える必要がある。

真空の生む力を利用するには

生態系というものは安定していて、外乱に強い。

森林を伐採しようが、乱獲を行おうが、よほど無茶をしないかぎりは生物は絶滅しないし、 また何かの生物が抜けたニッチはすぐ埋まる。外からどんなに力を加えようと、生態系は 変形することはあっても、変化をすることはない。

生態系に根本的な変化をおこそうと思ったら、その系の中の「キーストーン(要石)」 にあたる種を探すことだ。

その生態系を維持している中枢、キーストーンとなっている種は、場所ごとに違う。 それは食物連鎖の頂点に立つ肉食獣であるときもあるし、 多くの動物が餌として依存している植物であることもある。

キーストーン以外の種が減少したり、あるいは何種類かが絶滅したりしても、生態系は維持される。 その種が占めていた空白は他の種がすぐに埋めるし、そのニッチがそのまま空白になってしまっても、 その場所の生物の総量は、そう大きくは変わらない。

ところが、キーストーンとなっている種が絶滅すると、話は大きく変わる。

天敵となっていた肉食獣がいなくなった牧草地では草が食い尽くされ、砂漠化する。 逆に、広大な牧草地のただ1種類の草が外来種に侵略されてしまうと、 その草に依存していた草食動物が激減して、やはり 生態系は大きな変化を余儀なくされる。

真空の力を利用して、社会に大きな変化を起こそうと思ったら、以下の2つの条件を満たす必要がある。

  • その社会システムの「キーストーン」となる人や職業が何なのか分かっている
  • 誰かが、そのキーストーンを取り除く手段を行使できる

誰もが現状に満足していて、変化の必要を感じていない社会には真空地帯は生じようがない。 遠い国で戦争がおきようが、イルカやシャチが絶滅しようが、地域の社会システム自体は 何の影響も受けない。

問題を感じている人がいて、その人がシステムから抜ける手段を持っていても、その人の作る真空地帯がキーストーンを外れているならば、やはり社会は変化しない。

町に手作りのおいしいパン屋さんがあったとして、その人が疲れてパン屋を止めてしまっても、住民はちょっと離れたスーパーに食パンを買いに行けばいいだけだ。食卓は寂しくなるかもしれないけれど、社会は変わらない。

一方、その社会システムが、キーストーンである人の頑張りに依存していて、 その人が「もうやってられない」 と感じているならば、社会に大きな変化がおきる可能性がある。

前の偽造マンション騒動のシステムというのは、マンション購入者、あるいは国民という「餌」を、 業者と銀行、国家がおいしくいただいているという構図で安定していた。

餌は食われる。路頭に迷う人もいるだろうし、一家心中などもあるかもしれない。 でも、何人死のうがカモはいくらでもいる。カモがいくら死体になろうが、 みのもんたの視聴率稼ぎの燃料になるぐらいで、 このシステムは変わらなかった。

「国-業者-購入者-銀行」というシステムのキーストーンになっていたのは、何といっても購入者本人だ。 現在、このシステムを維持していたキーストーンは「やってられない」と感じていて、さらに システムから合法的に「降りる」手段はどうもありそうだ。

「餌」たる購入者の人たちがみんなこれをやりだしたら、結構すごいことになるかもしれない。

医療の現場でおきつつある真空

医者の仕事はキツい。楽している連中も大勢いるけれど、産科と小児科、外科といった連中が 毎日地獄を見てるのは、もう誰も否定しないだろう。 「好きでやってるんだろ?」という意見も相変わらずあるけれど。

みんな何とかしないといけないとは分かってる。一部の医者の努力だけでは、もうとっくに 限界を超えている。

それでも、医療というのはこうあるべきという「べき論」だけで何とか やってきた。現場の医者はみんな窮状を訴えた。それでも、社会の「みんな」は動かなかった。

訴えたって無駄だ。市民の「みんな」なんて、空気の分子と同じなんだから。

多分この10年ぐらい。訴えつづけて、社会を「押そう」としてきた人達が、ついに引き始めている。

「病院」と「社会」、利害の対立する2つの生態系では、キーストーンとなっている種は異なっている。 産科や小児科という職業は、病院組織のキーストーンではなくて、社会を維持していくための キーストーンだ。

産科がいなくたって、病院は困らない。他の科が頑張れば収益は維持できる。むしろ、眼科医や 麻酔科医がいなくなるほうが、もっと困る。内科や外科は、もともといっぱいいるから、 一人や二人辞めたぐらいではあんまり困らない。

病院ではなく、「社会」というもっと大きな生態系の中では、「総合病院の産科と小児科」というのは まさにキーストーンだ。

人口10万人規模の町で、こうした人達はせいぜい8人。たぶん10人はいない。非常に少ない。 この人たちが撤退してしまうと、町は滅ぶ。結構あっけなく滅ぶ。

  1. 大きな病院で新生児を診られなくなると、 その町全体の産科医療はストップする。
  2. 開業の産科の先生方は、事故に対応できる大病院がなくなってしまうと、もはやお産をとることができない。
  3. 分秒を争う産科救急では、隣の町まで救急車を飛ばすことも難しい。
  4. 結局その町は「子供の生めない町」になる。
  5. 人口構造が変わり、税金を払う若い人たちがいなくなった町は、いつかは滅ぶ。

もちろん途中で何らかの介入は入るだろうけれど、 10万人程度の中規模都市から8人の医者がいなくなるだけで、 こんなことがおこりうる。というか、もうどんどんおきている。

対策はどうするのか?

産科や小児科の地位の向上や、産科や小児科のセンター化といった方法では、 多分流れを止められない。

産科や小児科は、社会というシステムのキーストーンではあっても、 病院という別のシステムの中では 必ずしもキーストーンになってはいないから、いなくなっても医者自体は困らない。 お産の技術を知らなくても、とりあえずは食べていけるし。

最小限の予算で「子供の生めない町」を無くすには、 産科の技術というものを、病院という生態系のキーストーンにすることだ。

産科と小児科の救急は、地域の基幹病院では断ることを禁じる。 さらに、一度救急を受けた医師には、たとえ専門外 であったとしても、その患者に対して無限責任が生じるようにする。

問題は山積みだろうけれど、こんなルールが施行されると、 全国の救急医や麻酔科医、救急当直が回ってくる 医師には産科の知識が必須となる。 特に、大きな基幹病院にローテーションするような「優秀な」医師には。

本物の産科や小児科の地位というのは、たぶん確実に向上する。 この人達がいなければ、大きな病院という システムは機能しなくなってしまうだろうから。

今はまだ、産科や小児科の減少という真空が作り出す風は、 病院というシステムに変化を与える方向には 吹いていない。真空をふさぐ手段をあれこれ考えるのも政治なのだけれど、せっかく吹いた「風」の力を システムを変化させる力として有効利用する手段も、また考えなくてはならないと思う。

もっとも、上記のようなルールを本当に適用したら、それはそれで問題山積み。 制度の犠牲者(医師も患者も)は絶対でるだろうし、子供の生めない町どころか、病院のない町が 続出するかもしれないけれど…。

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2005年12月 9日

みんなと同じことをするという戦略

「みんなと同じことをする」しかいない国は、危ない。
中心が腐った場合、その腐敗を食い止める力がなく、腐敗がひろがる一方だからだ。
バブルも、欠陥マンションも、そしてファシズムも、そのようにしてひろがる。
腐敗した権威や確信犯はもちろん悪いが、それをひろげていくのは
みんなと同じことをする」人だ。
「みんなと同じことをする」人しかいない国より引用

停滞と維持との違い

止まれば腐る。腐れば滅びる。

実世界では赤の女王仮説というのはどうしようもなく真実だ。同じ場所に居つづけようと思ったら、 どんな方向であれ、走りつづけなくてはならない。

同じ場所に止まっているように見えても、その場所を自覚的に維持しているのと、単にそこで 停止しているのとは違う。維持している人は生きている。必要があれば、すぐ動く。 止まっている人は、死体と同じ。

みんなと同じことをするという生存戦略

高校生までと、大学以後とでは、試験の通過戦略は大きく変わった。

受験勉強というのは競争試験。大事なのは上位に入って誰かを打ち負かすことであって、 たとえ点数が優れていても、一定数の「上位」に食い込めなければ意味がない。

「勝つ」ための戦略、「負けない」ための戦略。みんなと同じことをやっていても合格できる可能性は 100%ではなく、努力というのは必ずしも報われない。

集団の中に入るのは最悪だ。「足切り」がどのあたりで入るのかは分からないから、もしかしたら 1点の差に泣くかもしれない。例えば面接試験。「隣の人と同じ考えです」なんていう答えを返したら、 落とされるのは目に見えている。生存の戦略としては、他の人と自分との違いを前面に出す。 個性をPRできない奴は、競争では弱い。

大学以後は、試験の評価の基準は大きく変わる。

競争試験から資格試験へ。集団の中で最下位であっても、 問題製作者の作った基準を満たしてさえいれば、 全員合格する。

全員の成績が悪い場合はどうか。もちろん全員不合格になる可能性もある。ところが全員の成績が 「全く同じ」ならば、今度は問題製作者側の評価基準のつけかた、教育のやりかたにも批判の目が向く。

資格試験というルール、「通りさえすばいい」というルールならば、最強の戦略はみんなが同じ答えを書くことだ。

試験前には学生サイドとしての「模範解答」を作っておく。答えは全て、一語一句に至るまで同じ。

こうしてしまえば、教授サイドも容易には落とせない。

医学部は所帯が小さいから、どこの大学にも試験対策委員会というのがある。

試験直前。みんなで分担してノートを取って、コピーをして全員で共有する。 自分達の頃はインターネットなんて 無かったから、近所のコンビニにかけあって、プリントの束を置かせてもらった。 連絡網で、「○○町のセブンイレブンに プリントがあるからコピーするように」と回して、各自がコピーする。

授業をサボった奴も、全ての講義に皆勤した奴も、条件は同じ。そのコピーの束を信じるかどうかも、 自己責任。

たとえ間違った解答であっても、それを学年全員が書けば「正解」になる。

試験対策委員会のポリシーというのはこうだった。 もちろん、講義をサボるための格好の口実ではあったけれど。

委員会は上手く機能した。さすがに臨床講義に入ってからは無理だったけれど、 教養課程の先生方の学生評価などはいいかげんなものだ。 試験対策プリントを信じなかった「まじめな学生」は落第。 講義に1回も出席しなかった連中は、試験対策プリントを丸写しして全員合格。 「みんな同じ」戦略の勝利だった。

「みんなと同じ」が求められる医療現場

病院という現場は、「みんな同じ」やりかたが求められるところだ。

患者さんについて問題を抱えた場合、まず試みるのは以前と同じやりかただったり、 あるいは以前にその問題を解決した上司にやりかたを教えてもらったり。

「画期的な治療方針を考えついたら、まずそれを考えた自分の頭を疑え」というのは真実だ。

病院という業界は、「自己責任で何かやる」ということが不可能だ。 間違った治療をやってしまった場合、責任を取らされるのは常に患者さんで、 医師はせいぜい首になるだけ。どんなに手酷い医療ミスでも、医師が死んで詫びた例など 過去に無いし、それを始めたら医者なんか10年で日本からいなくなる。

自己責任が絶対発生しない業界だからこそ、保守的な立場は結構大事だと思う。

うまくいっていることから学ぶのは難しい

たしかに、誰もが「正しい」ことをして病人を量産していた時代はあった。

例えば心不全の治療。自分が1年目の頃は、強心薬と利尿薬での治療がまだまだ主流だった。 話が変わったのは3年目の頃。ACE阻害薬という薬が画期的に効果があることが分かり、 心不全の人は本当に長生きするようになった。その後、5年目の頃にはβ遮断薬、6年目の頃には アルドステロン拮抗薬。その頃には大体、現在の心不全治療ができるようになった。

肝心なのは、今の最新の心不全治療に用いる薬のほとんどは、自分が1年目の頃にはすでに 市販されていたということだ。

  • ACE阻害薬。効きの悪い高血圧治療薬として、珍しくも何とも無い薬としてすでに売られていた。
  • β遮断薬。1年目の頃には「心不全には禁忌」と教科書にも書いてあった。今では心不全治療には「必須」の薬だ。
  • アルドステロン拮抗薬。肝硬変の人などに使う、ものすごく古い利尿薬。これも10年以上前からすでにあった。
  • 10年前に主流だった強心薬と利尿薬。今では「できれば用いないほうがよい」薬になってしまった。

最近の治療はどれも効く。心不全の人にこうした薬を使うと本当に元気になるし、 10年前に比べると、心不全の急性増悪で 夜中に入院する人は本当に少なくなった。それなのに、10年前までは誰も気が付けなかった。

実際のところ、10年前の時点でも、偶然に「正しい」治療を受けている人は多かった。 高血圧に心不全を合併している人は 珍しくなかったし、ACE阻害薬などは効果のわりに薬価が高いから、 開業医で処方されている人は多かった。

そんな人が心不全が悪くなって大きな病院に入院すると、開業の先生の処方は中断。 入院後は当時の「正しい」心不全処方を施され、退院したらもっと具合が悪くなる。

上手くいっているものから、「なぜそれが上手くいっているのか」を学ぶのは難しい。

失敗から何かを学ぶのが流行っているけれど、失敗から学ぶのは簡単だ。話題が派手だし、 原因を突き止めなければ前に進めない。

成功しているケースからその原因を探すのは、そう簡単には行かない。原因を探すには、 原因と思われるところを変えてみて、物事が上手く行かなくなることを確認しなくてはならない。 上手くいっているものは、変えないのが原則だ。成功しているケースでは、 何が原因で成功しているのかは 推測するしかないから、本当の原因が分からない。

観察という難しい技能

心不全治療の場合、北欧のグループが論文を書いてから情勢が変わった。

いつも処方している薬が、実は心不全に画期的に効く薬だった。

そういわれてそういう目で見て見ると、確かにその薬は効いている。今までも同じことをやっていたのに、 いわれて見るまで「効いている」ようには見えなかった。「効くよ」といわれて、初めて世界の見えかたが変わった。

偏見の無い目で世界を見るというのは、本当に難しい。

10年前の当時、教科書や論文で推薦されていた治療は、 10年後の現在では「間違った」治療だ。今も昔も、出回っている薬はほとんど同じ。10年前の時点で、多少の 問題はあるものの、現在のもっとも標準的な心不全治療と同じことはすでにできた。

当時の医師が惰性に流れてサボっていたとは到底思えない。インターネットこそなかったものの、 内科系の論文雑誌はもう100年以上前から定期的に刊行されている。NEJMとかLancetとか、メジャーどころの 論文雑誌はどんな僻地の病院に行っても必ず置いてあったし、みんな読んでいた。

努力は一応してはいる。それでも、指摘をされないと気が付けないことというのは本当に多い。 上手くいっている現状に対して自覚的でありつづけるには、なおいっそうの努力が要るのかも しれない。

お金の取れる医者

研修維持代。当時の病院長から言われたことは、「お金の取れる医者になりなさい」ということだった。

民間の病院だったし、言われたときには意味も分からず反発したけれど、今は自分も下級生にこういっている。

お金の取れる医者になるということは、べつに検査を乱発したり、患者さんにこびへつらって 滅茶苦茶な治療をしなさいということではなくて、要は医師-患者間のコミュニケーションを しっかりできる医者になるということだ。

  • 自分が今何を考えていて、お客さんをどうしようとしているのかを分かりやすく正確に伝えられること
  • 物事が上手く行かなかったり、あるいは上手く行かない場合はどうするのか、回避手段や、自分以外の医師への紹介まで含めて、先のプランを遅滞無く示せること
  • 物事がスムーズに進行しているならば、何が良くてこの状態を維持できているのか、分からないけど偶然上手くいっているのでこのままにしているのか、自分の描いたプランどおりに進行しているのか、 そういうことを自覚的に認識できて、説明できること
  • 辛い治療をするなら、どうしてそれが必要で、それが終わると患者さんが何を得られるのか。ただ「体にいい」じゃなくて、「良くなった体を持つ」ことがその人になにをもたらしてくれるのかを説明できること

要は口が上手い、プレゼンテーション能力が高いという言葉につきるのだけれど、 たとえ医学に画期的な進歩をもたらせなくても、いい医師になることはきっとできるし、 「医学的に正しい」治療をやることと、 「お金儲けの上手い医者」になることとは、きっと矛盾無く両立できると信じてる。

「みんなと同じ」はいけないことか

スイスには博愛があった。500年もの民主主義と平和。
だが、それがなにを生んだ? 鳩時計だけだ。

スイスは別にサボってたわけじゃなくて、現状を維持することにに最善をつくしたから、 500年もの間人が生きのこり、国が残った。

神様は最初、毛むくじゃらのアダムとイブを創造したかもしれない。 それを人間に変えたのは、淘汰と生存競争だ。

競争と進歩というのは絶対に避けて通れないもので、それは医学の世界も全く同様。

それでも進歩の影には絶対に失敗はつきもので、その失敗のツケは必ず誰かのところに行く。

ブラジルとか南アフリカとか、もともと植民地だった国からは、しばしば 画期的な論文が出たりする。日本のそばの某国もそうだ。 こんなところにも、前の戦争の影響というのは残っていたりする。

人の命のコストが極端に高いこの国で医者をやっていくには、 進歩を志向する戦略はあまりにもギャンブル的な要素が高くて、難しい。

何とか、アクティブな現状維持で勘弁してもらえないかな…、と考える10年目。 結婚だってしてるし生活だってあるし、なんとなく最近、気分が守りに入ってる。

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2005年12月 7日

正しいやりかたの復権

皆の声を集めることぐらいバカらしいことはない。

環境保護とか、イルカを救えとか。なんだか胡散臭いスローガンに酔った連中が、 今でも道で叫んでる。

みんな目線が狂ってる。もうバリバリ(死語)に自己啓発入りまくり。

この手の連中は、目的を達成するのに募金を呼びかけるんじゃなくて、 募金活動をやってる自分に酔うために、何かの目的を探す。

スローガン。団体活動。説得や交渉。署名活動。シンポジウムやワークショップ。「みんな」の声。

これほど胡散臭いものはない。

思考停止を促す言葉

「環境保護」とか。「アフリカの子供達を救え」とか。地域医療とかEBMとか。

「みんな」の目から見て「正しい」スローガンというのは、切り返すのが難しい。

ゴミの分別収集の問題などもそうだ。本当は、分別してリサイクルするコストよりも、 分別収集するコストのほうがよっぽど高い(らしい)。とりあえず全部燃してしまって、分別のコストを 削減したほうがエネルギーが節約できる。

それでも、「地球に優しい」なんていうのを信じる連中にそんなことを話そうものなら、 「地球の敵に認定される。

自分だって、環境問題の専門家でもなんでもない。多分相手だってそうだ。 「みんな」と「非専門家」では議論にならないから、結局相手を説得できない し、だいたい向こうだってそんなことは望んでいない。

反論しにくいスローガンに集まる連中というのは、理論がその中で完結してしまっているから、 外の人間が何を言っても「敵の攻撃」としか思ってくれない。

そういう集団を切り崩すのに、一番有効なのが「主催者はこんなに悪い奴」という人格攻撃だ。 人は人に集まり、理論には集まらない。理論がどんなにすばらしくても、 それを唱える人間に魅力がなくなれば、人は離れていく。

反論しにくいスローガン同士がぶつかり合うと、お互いに相手のドグマを崩せないから、 最後は人格攻撃の泥沼状態になる。某創○学会とか、相手の人格攻撃をあれだけ執拗にやるのは、 たぶんこんな理由だと思う。

目的のために犠牲を強いる

スローガンの達成のために何かを我慢するのはしかたがない。

この発想は間違いだ。

「より良い医師養成のため」「患者さん中心の医療の実現のため」に募金を集めたり、集会を開いたり。

お題目のために何かを諦める。何かおかしい気がする。 集まる暇があるのなら、その分外来をさばいたほうが よっぽど患者さん中心だ。利益も上がるし。

「個人が自分の利益を追求していたら、いつの間にか全体の利益に寄与していた。」

そんなルールを考えるのが政治って奴だと思う。現実にはなかなか難しいけれど。

世界中の誰もが不利益をこうむらないスローガンなど、そうあるもんじゃない。

誰かが不利益をこうむるならば、その「誰か」は必ず抵抗する。抵抗を排除するには、 どうしても「力」に頼らないといけないところがある。

何かの要求を通すのは簡単だ。権力や影響力を持った人と、一緒に酒を飲めばいい。

学生の頃はずっとこれをやっていた。本当は、みんなの意見をまとめて、 合意の上での多数決を採るのが民主主義なのだけれど。

若気の至りで自治会などというものに 手を出していたけれど、「みんなの声」を集める行為は1度で懲りた。

波を起こすのに旗を振る

波には2種類ある。

  • 毎日打ち寄せている「普通」の波
  • 地震の時に生じる津波

外洋では、どちらも同じ波に見える。ところが、両者の持っている力はまるで違う。

普通の波は、海の表面だけが波打っている。だから、陸地が近づいても波の高さは変わらないし、 打ち寄せれば消えてしまう。

津波は違う。海のそこからの大きなうねりが表面上は普通の波に見えているだけだから、 陸地に近づくとどんどん大きくなるように見える。破壊力抜群。

何かのスローガンを掲げて人の力を集める行為というのは、 旗を振り回して風を起こして、その力で波を起こそうとするようなものだ。

波はおきるかもしれない。でも、津波は絶対に作れない。

効率が悪いことおびただしい。旗を振るぐらいなら、 旗ざおを突っ込んでかき回したほうが、よっぽど 力が伝わるのに。

「みんなのこえ」を集めるコスト

人の声を集めて何かやるのは大変だ。

  • 人の声を集めるコスト
  • やる気のある仲間を探すコスト

声や人を集めるためのコストというのは、それによって得られる力との収支が絶対に引き合わない。

新興宗教系の人たちの活動が続くのは、「人を集めるためのコスト」をゼロで計上できるからで、 「普通」の人は掛け声だけで集まったりはしない。

「みんなの声」が自分の思惑と違っていたときは悲惨だ。面白そうだと思ってはじめた仕事は 微妙にやる気のおきないものになり、それでも集めてしまった「みんなの声」の手前、 無理して続けざるをえない。

声を出してくれる人は多くても、手を出してくれる人はとても少ない。

自分の意志ではじめたことなら、少々のマンパワーの不足は気合で乗り越えるけれど、 そうでない時は大変だ。自分の思いとは違う、「みんなの声」によるやらされた感 は、旗を振って人を動かそうとした人なら誰でも体験しているはずだ。

声を集めて何かをやる「正しい」手法は、コスト(お金以外のいろいろ含めて)的に絶対に 引き合わない。少なくとも、学生時代はそう思ってた。

代わりにやっていたのは、もっと「正しくない」やりかただ。

1000人の署名より1本の酒

大学自治会というところは、たいていは体育会や文化会と仲が悪い。

「みんな」の力を集める自治会のやりかたが「正しいやりかた」ならば、体育会や文化会、大学祭 実行委員会といった面々は、まったく「正しくない」やりかたをする。

大学祭。失敗すると困る。日程も決まっているし、大学生だけじゃなくて受験生だって来る。 模擬店だって出る。食中毒が出たりすると、相当困る。

スローガンなんていう漠然としたものを相手にするのと、「祭り」とか「大会」とかいった具体的な ものを作るときとでは、優先事項が全く違う。

前者の優先事項は、手続き的に「正しい」ことだ。みんなの声に従えないとき。会の流れが 一つにまとまらなくなったとき。自治会流というのは、民主的な議決が原則だ。 それが間違っていたり、あるいは議決の流れいかんでは目標の達成がおぼつかないときでも、 その議決が優先される。

大学祭は逆だ。最優先事項は、予定日に「祭り」を行うこと。手続きが正しいかどうかなんて知ったこっちゃない。

役所の書類は、大学のハンコを偽造してでも間にあわせる。予算がちょっと足りなくても、祭り直前には 申請している余裕なんか無い。下級生のバイト代で適当に穴を埋める。 白紙の領収書をいっぱい切っておいて、 後から適当に穴を埋める。

目的を達成するのにどうしても「力」が必要なときでも、「正しくない」連中はいちいち署名を集めたりはしない。

力を持った人の所に酒を持っていって、一緒に飲む。その人のところに行けないなら、 その人を知っている人に 紹介してもらう。頭は下げなくちゃいけない。「みんな」からは顰蹙を買うかもしれない。 それでも圧倒的に速いし、なにより確実だ。

「みんな」は旗振り役を裏切るし、熱はすぐに冷める。 一緒に酒を交わした個人は、「みんな」などよりよほど親身になってくれる。

ネットは正しいやりかたを復活させるか

正しいやりかたの問題点は簡単だ。

  • 「声」や「人」を集めるコスト
  • 乗っかるに値するスローガンのフィルタリング

インターネットは、人と人とをつなぐコストを劇的に低下させた。

「声」を集めるのは非常に簡単になった。「人」を集めるのは相変わらず 大変そうだけれど、それでも「みんな」に呼びかけなくてもよくなった。 興味のある人は、自然に集まる。呼びかけるスローガンが、 乗っかるに値するぐらい魅力的なものならば。

胡散臭いスローガンや、偽善の利権に乗っかろうとする連中をフィルタリングすることも、 インターネットは可能にした。

スローガンで人を動かすといえばマスコミの得意分野だけれど、近年はその成功率が 下がっているように見える。

マスコミは、どうしても「マス」を相手にする仕事だから、世の中の全ての専門家を 納得させるスローガンは作れない。とくに、そこに利権が隠れているとき、 誰かにそれを見抜かれる。

ネット上で時々おきる「祭り」は、マスを相手にしなくてもいいから、より専門性の高いアピールができる。 規模は小さくても、参加した人の納得度は高くできる。

正しいやりかたの復権

納得づくで参加する「祭り」というのは、本当に楽しい。正しいやりかたで何かを成し遂げられると、 そのときの満足感は得られた結果以上のものがある。

目標を達成すること自体も、もちろんうれしい。それ以上に楽しいのが、祭り自体の持つ高揚感とか、 みんなと共有するある種の共犯者意識みたいなものとか。

便宜上、保守を任じているけれど、本当に好きなのは混沌だ。

熱狂できるなら、乗っかる思想は何だっていい。祭りは、見るより参加するほうが絶対面白い。 暴れられるなら、世の中のルールをもっと複雑にしてくれるなら、 社民@売国党に投票したってかまわない。

無力な個人の集団が力を発揮できるのは、まさにそんなときだから。

ずっと使ってきたし、何度も助けてもらったのは影響力を持った個人の力だけれど、 本当にほしかったのは「みんなの力」だ。

公平な議論。「正しい」闘争の結果の正しい勝利。

「正しいやりかた」とか、「みんなの力」とか、いかがわしくとも魅力的なこの正体不明のものは、 それに乗っかれれば本当に楽しい。

それで何かを壊せるならば、もっと楽しい。 「正しい」やりかたで自治会を引き継いで、先輩方の作ってきたものを全部否定したとき、 自分はとてもいい気分だったから。

最近、学生さんのグループ(一部医師)が厚生省と交渉して、 国家試験の問題を全文公開させることに成功した。

本当は非公開だった文書。 印刷だってわざわざ刑務所の中でやるような代物だ。

厚生省なんて、昔は学生レベルでは全く相手にならなかったし、 「酒」の力なんか全く通用しない、固い役所だ。

目標を持って、人を集めて、正規のルートで国と交渉して何かを達成する。

自分はこうした「正しい」やりかたを全くできなかったけれど、うまくいってほしい し、何よりもやっている人たちが活動自体を楽しめればいいなと思う。

その人達と思想信条を共有できるかどうかは分からないし、 その人たちが「サヨク」の思想の子供達なら(全然違うらしい)、その時点で敵認定してしまう だろうけれど、少なくとも彼らは、自分の頃の方法論ではできなかったことを やっている。「みんな」の力は国をも動かす。それを現実のものにしている。

それだけは確かだ。

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