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2005.10.30

アナログ評価の検査

大動脈圧波形

いま働いている集中治療室では、患者さんのほとんどに動脈ラインがつながっている。

aline.jpg 動脈ライン。右の赤いのが波形。

動脈ラインはいろいろなことに使える。血圧や脈拍数は24時間連続して測れるし、 採血も楽だ。24時間体制のICU、1日に4回も5回も採血される患者さんはたまったものではないけれど、 これがあるから針を刺すのは1回で済む。

動脈ラインの波形は病気の診断にも使える。 吸気にあわせて圧が下がれば奇脈。タンポナーデや胸水、あるいは 重篤な脱水の時にこうなる。脈拍ごとに血圧が交互に上下すれば、交互脈。これはひどい心不全の時に みられる。

動脈圧波形を見ることで、たぶんもっとも役に立つのが、体内の「水加減」を推定できることだ。

水分という大事なもの

その人の体内の水分量は、足りているのか、脱水なのか。 治療を行っていくとき、どのぐらいの「水加減」で その人の体を管理していくのか。ドライ気味に診ていくのか。あるいはウェットサイドで管理するのか。

水加減というのはいろいろな要素で決まる。

  • 心臓機能が落ちていれば、同じ水分量でもうっ血を生じる。
  • 外科の手術後などは、内科の常識ではありえないぐらいの輸液量を入れても、まだ足りないことがある。
  • 栄養の悪い人、肝臓の悪い人では、水を入れないと血圧が保てず、水を入れれば入れただけ胸水が増える。

医者のやっていることが本当に何かを「管理」出来ているのなら、 水加減を調節できる能力というのは 医者の技能の中では相当に大事な能力だ。

これは何をみても分からない。

胸部単純写真は嘘をつくし、心エコーも嘘をつく。 血液検査。肺動脈カテーテル。どんな検査でも例外はあるし、全員にできるものでもない。 静脈血酸素飽和度。とても役に立つけれど、これを正常化しようと思うと、 患者さんの心臓には相当根性を出してもらわないと、体内は水浸しになる。

リアルタイム検査のありがたさ

動脈圧波形による水加減の推定というのもまた、そうとうにでたらめな検査だ。

  • 動脈圧波形が「尖って」いたら、その人には水が足りていない
  • 圧波形がきれいな3角形をしていたら、水分量としてはだいたいいい線をいっている

基本はこれだけ。足りないならどれだけ入れればいいのか。 そもそも本当に「足りない」のか。 アナログな波形判断だけでは答えは出ない。検査の感度や信頼性という部分では、 この検査は信頼性は低い。でも役に立つ。

このパラメーターのもっとも大きな利点は、それがリアルタイムの検査であるという部分だ。

動脈圧波形はいつでも見られる。心臓の拍動1回ごとに新しいデータがモニターに出てくる。 何か機械を操作したり、あるいは検査室からデータが返ってくるのを待つまでもなく、 データは常に目の前のモニターに反映される。

ICUの治療は、分からないときは手探りで「現物あわせ」をやっていくしかない。こうした状況では、 やったことがリアルタイムで繁栄される検査パラメーターというのは本当にありがたい。

心カテ中にトラブったときなどは、もうこの波形の形を元に戻すことだけを考えて治療する。 修羅場になったとき、カテ屋が「戻ってくれ!」とお祈りするのは、心電図よりも動脈ラインの 波形のほうだ。これが平坦になると、死んじゃうから。

動脈圧波形の解釈は本当に便利だ。その割りには、その解釈の方法、 波の形が変化した時、何をするのが教科書的に正しいのか。そうしたものを まとめている教科書が見つからない。

いまの集中治療室は、いろいろな科の医師が寄り集まっている。

循環器内科やいろいろな臓器の外科。麻酔科や、集中治療の専門医。 どの文化圏の医師も、動脈ラインに「読みかた」があることは知っている。

それでも、その読みかたは現場の言い伝えレベル。今回、いい機会なので調べようと思ったのに、 まとめて解説している教科書や論文が見つからない。面白そうなのに。

デジタル時代に滅んだ検査

医療の分野も、デジタル化が進んでいる。

検査データや画像を電子化して取り込むのは当たり前。 様々なデータもまた、その解釈の方法がデジタル化されつつある。

見えたものをそのまま描写するのは時代遅れ。 病理組織は免疫染色で定量化され、画像は数字で表現される。 循環器の領域。心臓の動きや血管の狭窄度は、コンピューターが測ってくれる。

デジタル化に伴って滅んだ学問、滅んだも同然の検査も多い。

経静脈波。心尖拍動波。様々な心機図。ベクトル心電図。聴診や理学所見だって滅びつつある。

これらの検査に共通するのは、数字で表すことができないという点だ。

デジタル化しないと伝えられない

数字にならない検査では論文にならない。

経静脈波や心尖拍動波。胸に当てたプローべで心臓の波を拾う検査だから、 人によって正常値が違う。「ゼロ点」に相当する概念がない。 同じ人で毎日計ったって、その波形は毎回微妙に違ってしまう。

心機図やベクトル心電図。心臓の「動き」を波形化した検査では、その周波数は2Hz前後。 1秒間に1から2回しか動かないから、その波形変化を数字にするのはとても難しい。

アナログデータは教科書も書きにくい。

検査そのものに「正常値」が存在しないから、正常とは何なのかを表現しにくい。 アナログというのは「正常」のアナロジーでしかないから、正常を知るには 正常な症例を何百例も積んでみるしかない。

数字で表せるデジタルデータの見かたなら、正常値を書けばそれで済む。 正常ならば、何もしない。正常値を外れたら、対処を考える。

同じ波形解析の検査でも、心電図や脳波はデジタル化しやすかった。

両方ともアースをとるから、ゼロ点がはっきりしている。心臓の動きに比べれば、 脳波や心電図の周波数ははるかに高いから、デジタル化して波形を解析するのも何とかなる。

心電図の自動診断。麻酔中脳波のエントロピー解析。莫大な脳波情報の視覚化。 24時間心電計の心拍変動解析。デジタル化は様々な恩恵をもたらし、 今まで見えなかったものを見えるようにしてくれた。

AD変換の過程で失ったもの

デジタルデータは便利だ。それでも、「生データ」は常にアナログ情報だ。

アナログをデジタル化する段階で中間情報は失われるし、 医者はそのデジタルデータをみて、全体的に「悪い」とか「良くなってる」とか、 総合的に、アナログ的に判断する。

昔のお医者は偉かった。患者さんを聴診器一つで診断できたし、 我々の世代では「わけの分からない波」にしか見えない経静脈波を解釈して、 心臓の中の様子を予言する。いまは無理だ。アナログデータをアナログのまま 解釈する技術はすたれてしまった。

変換の過程で絶対に情報の欠けるデジタルデータと、 言葉で表現すると絶対に正常を表現できないアナログデータ。

心電図の解析。本当は12誘導を頭の中で再構築して、元の心臓の形を想像しながら 読むやりかたというのがあったのだが、正常な人をそれこそ何千枚もみないと 伝わらないので誰もやらなくなった。

そして動脈圧波形からの水加減の推定。非常にきれいな波形だし、ゼロもしっかりとれる。 多分誰かがやっているはずなのだが、なかなか検索に引っかからない。

アナログをアナログとして伝えるやりかたで、誰か動脈ラインの解析のしかた、 まとめてくれないだろうか。

2005.10.27

情報伝達の遅延と多様性

勤務先で変な風邪が流行っていて、この2日間身動きとれず。気管支からやたらと「いい痰」が出て、 培養に出したらなんか生えるんじゃないかと…。

エンダーのゲーム

寝てばっかりだったので、エンダーのゲーム というSFを読んでいた。

内容はありきたりの宇宙戦争もの。

天才少年・少女を集めて軍人として育て上げ、司令官を養成するバトルスクール。 敵は、バガー。昆虫型の異星人である。 ハインラインの「宇宙の戦士」、ジョー・ホールドマンの「終わりなき戦争」とも似た世界。 違うのは、あまりにも主人公が子どもであることだ。 主人公のアンドリュー・エンダー・ウィッギンは、6歳でバトルスクールに入る。 彼は、産児制限の厳しいこの世界で許されざる「サード」3番目の子どもであり、 それは、上2人の子どもと両親の天才性から生まれた例外である。 幼少の頃から、思考や行動までモニターする装置をとりつけられ、 エンダーこそが戦争を終わらせる司令官になりうると考えられた。 訓練と模擬戦、昇進。ふたたび訓練と模擬戦。やがて10歳、11歳となり、エンダーのゲームがはじまる…。 こちらから引用。

  • 天才として最初から作られた子供世代の台頭
  • 匿名性の高いインターネットで、大人を装った子供の意見が 社会に大きな影響を集めていく展開

20年近く前に書かれたものとは思えないぐらいに現在を当てている。

SF作家は、未来を当てるのが上手だ。

経済学者、社会学者の未来予測というのはたいてい外れる。 学者は、過去から現在を見て、そこから未来を予測することしか出来ないから、 現在の技術の枠組みでしか未来を読めない。 SF作家は、まだ実現していない技術を想像して、 「それがあったら人はどうするか」という視点から本を書くから、 不気味なぐらいに未来を的中させる。というか、あたりそうなやつしか読まないけれど。

このお話の敵役、昆虫型生物「バガー」は強い。一種のテレパシーのような能力を持っていて、 お互いの思考が一瞬手相手に伝わる。戦略が速いから、全く勝てない。

主人公達が活躍する戦争の前。人類とバガーとの戦争は2回行われ、 2回ともが人類側がボロ負けしている。 現代戦闘の要、「通信を制するものは戦闘を制する」原則は、未来社会でも生きている。

通信速度の向上は多様性を殺す

面白いのは、この「通信時間ゼロ」という長所が、同時にバガー側の弱点として描かれることだ。

バガー社会には通信のオーバーヘッドが一切ないから、全ての軍勢を最高に効率よく運用できる。 指揮をとるのは一人で十分で、末端の現場は何も考える必要がない。

必要がないというよりも、この種族ではそれが当たり前。 誰かの考えは一瞬で「社会全体の考え」として広まるので、 個性や人格といったものが育ちようがない。

こうした社会状態を何万年も 維持してきたから、バガーの社会でものを考えるのは「女王」バガーのみで、 あとはすべてただの働きアリという設定になっていた。

物語の当初、人類側はボロ負けを喫するのだが、女王の乗っていた船を 沈め、それと同時に相手側の全軍が沈黙するのを見たときから、 人類側が勝機を見出す。

頭を叩けば残りの全ての敵が無力化する展開は映画「インディペンデンスデイ」あたりを髣髴とさせるが、この小説ではもう少し描写が細かい。

生まれてからずっと天才司令官となるべく育てられてきた少年少女の集団は、お互いに「戦争ゲーム」を しながら競争する。誰が一番優秀なのか。将来は、誰が皆を指揮するのか。 戦争ゲームはチームで行うので、リーダーはいろいろなフォーメーションを考え、細かい作戦を立てる。 主人公は、細かいフォーメーションを捨て、現場での細かい作戦はチームの「小隊」リーダーに全面的に 任せることで、フォーメーションをとって集団で戦う相手チームに勝利する。

物語の終盤、主人公のこうした経験が、最終的に人類側に勝利をもたらすことになる。

現場を信用する浸透戦の考えかた

戦争では、守りを固めた相手を攻撃するのは極めて難しい。

条件が同じなら、誰がどういう戦いかたをしても、やはり犠牲は多くなる。

将軍が一人で全軍を指揮するとき、人間の心理として「最も脅威を与える対象をまず破壊すべき」 という考えかたにとらわれてしまう。203高地の戦いが悪い例で、日本軍は一番強そうなところから攻め、 大きな犠牲を出した。

全体としてはどんなに強力な軍隊に見えても、しょせんは人間の集団だ。 細かなレベルでは、強い所と弱いところは必ずある。

ところが、将軍の立場からは、 「弱いところを通過せよ」という命令は出しにくい。 将軍の目線の位置は全軍が把握できるぐらいに高い所にあるため、 相手の弱い所がどこかわからないからだ。

弱い所を探し出して攻撃するには、軍勢を細かく分けて、現場の指揮官を全面的に信用して、 指揮権を任せるしかない。

こういう戦いかたを浸透戦術という。

第一次世界大戦は、「西部戦線異常無し」に出てくるような塹壕戦の時代だ。

塹壕をしっかり作った敵の陣地は、大きな犠牲無しには突破は不可能であると考えられていた。 ところが、夜間に小人数で弱い地点を襲撃して、そこだけを突破することはそんなに難しいことではなかった。 このため、ロシアの将軍は攻撃部隊を10名前後の小グループに細分化し、約500kmの幅に軍隊を展開して敵軍の突破作戦を行った。攻撃は例をみない成功で、オーストリア=ハンガリー陸軍は敗北したという。

物語の終盤、司令官となった主人公は現場レベルの指揮には口を出さず、 大局を決定する役割に徹する。 物語は主人公を中心に描かれるから、SF的な派手な戦闘シーンはほとんど出てこない。

人類側の情報伝達の速度の遅延は戦略の多様性を生み、終盤で人間側に勝利をもたらした。 情報伝達速度を「瞬時」にまで加速させたバガーは 種としての多様性を失い、結果として敗北した。

通信速度を向上するには

インディアンの煙通信から始まって、モールス信号や無線、携帯電話からインターネットまで、 通信メディアというものは改良されてきた。

いくらメディアを速くしても、人間の言語理解のスピードに上限がある以上、 情報通信のスピードは一定以上には上がらない。

人間同士の言語理解の速度を向上させるには、お互いに共有している基礎情報の量が鍵になる。 与えられた情報を理解するための枠組み的な知識「スキーマ」が共有されていれば、 情報の理解の速度は飛躍的に速くなる。

医者も毎日勉強する。自分の専門領域の論文を読むとき、その理解のスピードは非常に速い。

文中で作者が言いたいのは何か。この論文のどこが新しいのか。 自分の領域で、使える内容はあるのか。 英語は難しくても、結構簡単に理解できる。

これが専門分野以外の医学論文であれば、その理解速度は かなり落ちる。医学以外の分野であれば、なおさら。

論文の作者と読者とで共有しているスキーマが多いと、論文を読むのはそれだけ速くなる。 一方で、共有しているものが多いほど、与えられた情報に対する判断も同じになってしまう。

新しい治療デバイスが発表されたとき、それがどの程度重要なのか、 あるいはどの程度「売り物」になるのか。 その世界の専門家であれば、腹の中で考えていることはいつも大体一緒だ。 それが正しいのかどうかは別として。

遅延は個性を生む

人間同士の情報伝達は遅い。

病棟で、何か研修医の予期しなかったことがおきた時、ベテランならば、あるいは他の研修医ならば、 その出来事に対する対処を知っているかもしれない。

それでもそれを聞きだすだけの時間は与えられない。大体、その瞬間に誰が正解を知っているのか、 ベテランはそのときどこにいるのか、そんな情報をリアルタイムで伝えるシステムなど、病院には 実装されていない。

いまの病院システムでは、どんな職種の人でも「次におこりそうなこと」を予測する必要があり、 また現場では何らかの判断を強いられる。

毎日の予測や判断は考えかたの多様性を生み、ネットワークの遅延があるからこそ、 戦略の多様性が生まれて医学は前に進む。

通信系の発達は世代継承を妨げるか

世代というのは、単なるコピーを作っただけでは継承されない。

個体発生は、系統発生を繰り返さないと一人前の生物とはみなされない。 ベテランの現在持っている知識を 全てコピーできたとしても、その研修医はベテランにとって代わることなど出来ない。

ベテランをベテランにしているのは、知識の量ではなく判断の場数だ。

徒弟時代の小さな現場レベルでの判断の訓練、 ベテランになってからの大局的な治療方針を決定する訓練、 様々な世界レベルでの判断の積み重ねがなければ、ベテランの存在感や急変時の対処能力 といったものは受け継ぐことができない。

携帯電話の発達した現在。病院内のどこにいても、ベテランとは瞬時に連絡が取れる。 正しい判断は一瞬で返ってくるし、対処が速いことは予後の改善にもつながっているかもしれない。

通信速度が速くなる一方で、新人が新人でいる期間は、明らかに昔よりも長くなっている。

危険な手技を一人でやる機会が減った、ローテーション研修の弊害、いろいろな理由はあるけれど、 やはり「自分ひとりで何かを判断する」機会が減った影響は大きい気がする。

情報の並列化の果ての個性の獲得

SF漫画「攻殻機動隊」のアニメ版(どこにも売ってない…)では、 情報を共有しているAIを搭載しているロボットが、なぜか個性を獲得してしまう というテーマが語られる。

物語中では「鍵になるのは好奇心」と語られているが、 ほとんど全ての情報をリアルタイムで交換できることが当たり前になったとき、 そこに個性というものが自然発生することなどありうるのだろうか?

最近の新人は、覇気がない。よく言われる。自分もそう思う。

覇気とか、やる気とか、好奇心とか、工夫とか、新人がベテランへと這い上がるのに必要な要素というのは 通信系の遅延をカバーするために必要な技能であって、そういったものを身に付けるためには やっぱり「親切すぎる」というのはよくないことなのかな、とも思ったり。

情報の流れが速くなると、新人の成長スピードは遅くなる。 でも、もっと情報を与えつづけて、情報とか解答といったものは「あって当たり前」になったとき、 新人の好奇心や成長の可能性というものはまた花開くものなのだろうか?

2005.10.25

分かりやすいマニュアルへの試行錯誤(2)

分かりやすい/読みやすいとは

以前書いた病棟ガイドもいいかげん古くなったので、今年こそ内容を書き改めたい。 できれば、もうすこし分かりやすい内容で。 洗脳とか、ゲーム脳化とか、そういった下衆な意図無しのやつを。

工業製品の取扱説明書は、読者に「読んでもらう」ための工夫、「分かってもらう」ための工夫が いろいろと考えられている。

  • 読んでもらうためには、まず読者に知識を与え、 さらに安心感を与え、同時に潜在的危機感へも訴えながら、文章内容を理解してもらう。
  • マニュアルに情報を並べる順番は、製品を開封してから電源を入れ、実際に使って見るまでを順を追って書く。 ユーザー視点での順番を心がける。
  • 最初に概略を書く。これから提示される手順がどんなものなのか、事前に分かってもらう。
  • 結果志向で書く。「○○をしてください。すると、こういったことがおきます。」という、行動の結果何がおきるかを記載する。 行動の目的については、紙面が足りないなら省いてもいい。
  • 禁止事項も、規則を破るとどんな結果が待っているのか、具体的に書く。

これを読んで、自分がどんなことができるようになるのか。 果たして読むに値する内容なのか。こうした不安感がぬぐえないと、読者は集中できない。 読者が安心して読める文章は、読みやすいし分かりやすい。

それでもなお、マニュアルを読むのは面倒だ。工業製品。曲がりなりにもプロの作った取扱説明書ですら、 まともに読みきったことなどほとんどない。使いかたが分からずに失敗したことなど何度もあるけれど、 目の前に「現物」がある以上、試行錯誤して見たくなるのが人情だ。

病棟マニュアルも同じだ。「読まないと事故になるぞ」といくら脅しても、目の前にはいつも病人がいる。 読むひまがあったら、目の前の現実をとりあえず何とかしたい。読む時間は惜しい。

伝わりやすさはお互い共有しているものに比例する

「一目見てパッと分かる」を目指すには、テキストというメディアはまだまだ非力だ。

音声メディアや映画に比べれば、テキストを読むのは圧倒的に速い。 それでもまだまだ「一目で」には遠い。

コミュニケーションを速く深める基本は、お互いの経験をより多く共有しておくことだ。 長年一緒に働いた仲間であれば、言葉にしなくても伝わる部分は増える。 同じ仕事場の仲間。同じ科を専門にしている人。同じ言語を話す人。同じ地球に住む人。共有するものが少なくなればなるほど、 新しいやりかたを共有するのに時間がかかる。

日本語という言語は、漢字があるぶん、英語よりも習得しにくい(多分)。 日本人は、言語を覚えにくいだけ、英語圏の人よりも共有しているものが多い。 日本語は、漢字を使って情報を圧縮したり、意味を画像化して共有できるため、 英語よりも伝達するのに時間が短くて済む。

習得するのにより分かりにくい言語、文法が複雑であったり、漢字やひらがな意外に多くの記号の 習得が必要であったりする言語があれば、情報の伝達はもっと速くできるかもしれない。

ビジュアル言語というもの

べた書きのテキストというのは、2次元媒体である「紙」の特質を100%生かしきれていない。

少々の改行や段落わけがあったとしても、今の小説のようなメディアは、極端な話テープのような細長い紙でも 再現可能だ。せっかく「本」という2次元の媒体を持ちながら、これはいかにももったいない。

紙は縦横に広がりを持つ空間だから、本当は各々の単語の紙面での位置や大きさ、単語間の距離や関係といった 情報をも表現できる。

このあたりを生かしきっているのは漫画なのだけれど、従来の国語文法の中には、こうした単語の位置情報、 距離情報をどう表現に生かすのかという観点は欠けている。

紙の空間情報を生かし、従来型の文章以上の情報量を持たせようとした試みは総じて「ビジュアル言語」と呼ばれる。

代表的なものはフローチャートのような「構造化チャート」、プログラムを記載するのに用いられる「UML」、 新世代のノートの取りかたとして広まりつつある「マインドマップ」といったものがある。

位置情報を併用した文章表現には、従来の文章には出来ない、以下のような特徴がある。

  • 並列表現が可能。従来の箇条書きでは順番が出来てしまうため、厳密な平等表現は不可能。
  • 読む順番を決めなくても読める。見出しは中心に、内容は末梢に配置できるので、読みたい所から読める。
  • 内容の重要さに重み付けが可能。上の方ほど重要、中心に近いほど重要といった、位置を用いた内容のランク付けが可能。
  • 流れを表現するのに適する。これは従来の文章でも可能だったが、並列、分岐、因果関係といった構造を表現するには、フローチャート型式以外では不可能。
  • 全体像を把握するのが容易。「目次」を用意しなくても、紙のどこかに重要な単語だけ集まった場所を作れる。

やはり出てくるマインドマップ

しばらく前からマインドマップを使っている。

FreeMindというソフトをいれて、 PC上でアイデア出しやまとめをするのに用いているが、 慣れるとかなり便利だ。

mindmap.jpg

今回の文章を書くのに作ったマインドマップ。大体20分ぐらいでできる。

マインドマップという考えかた自体は70年代からあるそうなのだけれど、日本語で紹介された本はどれも 自己啓発セミナーの回し者か?としか思えないようなものばかり。 本の中で紹介されるマインドマップの例も、統○失○症の患者の心象風景のようなものばかりでとても 追従する気になれなかったのだけれど、やってみるとたしかに頭の整理が速くなる。

マインドマップを書くツールはたくさんあるが、 創始者公認のMindManagerというツールはLaTeXとの連携が可能 (PDF出力が出来た)だったので、これを目次代わりに使おうと思ったことがある。

前の病棟マニュアルを作っていた頃、一時は各章のはじめのページを マインドマップにしていたのだが、 これがどうやっても見やすいものにならず、結局断念した。

情報をビジュアルに階層化させて提示するという方法の一番駄目なところは、人によって階層化の仕方が違うので、 その階層化の「スキーマ(神経言語)」が共有できないと、まったく何書いてあるかがわからなくなるんですよね。 で、ビジュアルツリー自体にはスキーマが書けないので、分けの分からないツリーがそこかしこに林立して、 それでgopherは消え去っていったと解釈してます。

gopherというのは、現在のインターネットができる前に使われていたファイル共有システムだ。 世界中のコンピュータ内にツリー型式で格納されたファイルを検索して共有できる…はずだったが、 ツリーの分類法方がコンピュータごとに違っていたため、持ち主以外ではまともなファイル検索が出来なかったらしい。

マインドマップを他人に見せるときにも、これと同様の問題が付きまとう。マインドマップで取ったノートというのは、 中心に本題があり、そこから四方八方に枝を伸ばす。それぞれの枝には書いた人が重要と思うキーワードが書き込まれていく。

何を重要と思うのか。どんなルールで分類、重み付けを行うのかは、書いた人にゆだねられている。この感覚を 共有できなければ、せっかくの位置情報は他人に伝えることが出来ない。

テキスト情報を2次元展開するとき、どこに重要な情報があるのか、作者としてはどこから読んでほしいのか、 そうした情報を読者に伝える術がないと、ビジュアル言語のメリットは消失してしまう。

プログラマーの人達が使う「UML」の場合、このルールを厳密に決めてしまっている。ルールを伝える教科書は、 従来どおりのベタ打ちテキスト型式。非常に難解(もともとJAVAプログラムをするためのルールだから、ある意味当たり前)で、 すぐに放り出してしまった。

視線誘導を利用したルールの伝達

ビジュアル言語を用いて情報を伝達したいとき、一番問題になるのが、 どこから読むのか、どうやって読み進めていくのかというルールの伝達方法だ。

従来型のテキストメディアでは、このルールが非常にシンプルだった。洋書型式の横書きならば、 左上から書き出し。行を追って徐々に下に目線を移動し、右下で終了。文章の読める人は、 子供の頃から同じルールでやってきた。

あまりにも昔からやってきたルール。このルールが、しばしば新しいやりかたを導入するのに 大きな障害になる。

いまだに全く出来ないのだけれど、やはり自己啓発系の出版社から多く出ている速読術、 「右脳を使った」読書術といったものの多くは、まずは文字のないページをめくったり、 記号しか書かれていない本で視線を速く動かす 練習を要求している。

これは、人間には「文字があったら読む」という固定観念が出来てしまっていて、 これに逆らって視線を速く動かそうとするとき、 古くからの習慣が邪魔になってしまうからだという。

これをいちいち練習するのは面倒だし、また簡単にできる人もそう多くはない。

たとえ横書きの文章であっても、何とかして読者の視線を縦に誘導する方法はとれないものか。

同じ紙メディアでこれをやっているのが漫画だ。

一枚絵と比べたとき、漫画にはコマ割という時間の前後を示す区切りがあるために、 より絵の中の視線をコントロールする必要があります。 漫画を読んだ事のある人ならまず読み方を大きくはずすことはないですが、それでも変形ゴマや横長コマに縦並びのふたコマをあわせたときなんかは、どの順番で読むのかを指示する必要があります。 昔の漫画ではコマごとに数字を振ってこれを解決したようですが、今となってはネタとしては使うことはあっても見る順番の指定のためではありません。矢印を使うというのも手としてはありますが、本当に見難いときや、シャレでやるのはいいかもしれませんが、全コマするものではないと思います。 そんな漫画で視線をコントロールするのが、視線を誘導するテクニック「視線誘導」です。 ComicStudioより引用。

漫画というメディアでは、読者の視線はコマ割りによって、 またキャラクターの目線や動作線によって 誘導される。読みやすい漫画、「上手いな」と思う漫画は、 読者の視線の誘導が非常によくできているそうだ。

この視線誘導の手法には「文法」がある。新人作家の原稿で、 「何か、今一つ」という印象をベテランが持ったとき、 「ここが悪い」と指摘する部分は誰もが同じだという。

テキスト文章もまた、枠で囲ってしまうと印象が変わる。

  1. テキストは、ただベタ打ちされているときは1行目の左端に視線が集中する。
  2. ところが、1かたまりの文章が枠で囲まれていると、読者の視線は囲みの中心に集まる。
  3. 囲みをいくつか縦に重ねると、読者の視線は自然に縦に走る。
  4. それぞれの囲みを枝で結びつけると、その方向に読者の視線の誘導が可能になる。

挿絵のたくさん入っている教科書は、一見読みやすそうで、そうでもないものがたくさんある。

その理由は、おそらくは挿絵に視線が集まってしまい、 読者の視線が文章から「剥がれて」しまっているからなのだと思う。

文章を文章として目で追うのではなく、一つの「かたまり」として認識してもらい、 文字を追うのではなくページ全体の流れを追ってもらう。その理解は漢字かな混じりの 日本語の潜在能力に賭ける。

ページの左上に主題をもってきたマインドマップのような ページ構成を何とかとれないものかどうか、いまいろいろと試しているところ。

LaTeXでこうしたことを続けるのも、自分の能力からはそろそろ限界に近い。 いまさら「InDesign」を勉強する時間もないし…。

2005.10.24

分かりやすいマニュアルへの試行錯誤(1)

あるセカイ系の妄想

内容さえすばらしければ、1つの文章、1冊の本というものには世界を変える力がある。

そんな童貞臭いセカイ系の戯言を、昔は本気で信じてた。

研修医だった当時、聖路加だの虎の門だの、大手のブランド病院は「研修医が書いた」と称する レジデントマニュアルを次々と発表していた。あんなもの、絶対使うもんかと思いながら、 下級生の買ったやつを分捕って見てみると、結構便利。くやしかった。

沖縄中部病院のレジデントマニュアルも、なぜか手元にあった。 「研修医当直御法度」という題名で市販されている。「本物」は、売られているやつよりも はるかに質素な装丁で、ポケットに入るように版形も小さい。 左翼過激派の地下文書(なぜか手元にたくさんある…)を連想させる迫力があり、 これはこれで滅茶苦茶うらやましかった。

自分達の病院にもそうした形になるものがほしい。

結構多くの人達が同意してくれ、当時1年生の同級生全員のメモ帳を回収。 休日返上でワープロでデータ化して、みんなに配ったのはもう10年も前。まだパソコンなんて 院内に数台しかなかった頃。

盛り上がった割には1世代しか続かず、当時内容を添削してくれたスタッフドクターもほとんど いなくなってしまった。前の病院を辞めるとき、医局に残っていたマニュアルデータ、 歴代のチーフレジデントの先生方が捨てていったプリントの山を持ち出し、HTMLで 勝手に公開しているのが今の表ページだ。

マニュアル本とは何か

マニュアルとは、「考えかた」を伝えるための本だ。知識を羅列しただけのものは教科書。 複数の人が働く現場で知識を生かすためには、その応用のしかた、治療の目標や戦略、 突っ込むところと撤退するところといったものを、お互いに共有していなくてはならない。

大きな施設では、同じ西洋医学を用いていても、「こういうやりかたで上手くいった」という 戦略は、微妙に異なっている。ベースとなる知識は同じでも、戦略の異なる人が一緒に 仕事をすると、喧嘩になってしまう。知識のマニュアル化は、このために行われる。

どこの病院にも、ある症状や疾患に対する「必勝パターン」というものを持っている。 それが上手くいけばいくほど、医師は過去の成功パターンというものにこだわりを持つ。 その方法は、もしかしたらもっと最適化できるかもしれない。それでも、 「今までは上手くいっていた」という実績 を放り投げるのは容易なことではないし、新しいやりかたはしばしば事故を生む。

「正しいやりかた」などというものは存在しない。施設が違えば、スタッフの数や実力、 緊急に施行できる検査の種類やベッド数など、いろいろなパラメーターが異なってくる。 マニュアルというものは、本当はそれぞれの施設で独自の物を作らないと上手くいかない。

昔は「うちのやりかたが世界最強」と心の底から信じていたから、他人様に読んでもらえるマニュアル というものはどんなものなのか、いろいろと考えた。

読者に戦略の変更を迫るには

異質な考えかたを受け入れてもらうのは大変だ。

大きな病院ならば簡単。歴史の長い大病院の権威。 実際にそのマニュアルを使って「上手くいった」経験を もつ、何人ものレジデントや現場スタッフ。こうしたものは、別の病院に新しい考えかたを もたらす際には強力な武器になる。

うちの病院は不利だ。規模は小さいし、誰もそんな施設は知らない。 大体書いてる奴がもう辞めちゃったから、 筆者も病院名も明かせないまま。そんなあやしいもの、誰も信じない。

全く異質な価値観を提示しようとするとき、通常はかなり抵抗される。

西洋医学のマニュアルだから、「間に合ってます」と言われれば引き下がればいいのだが、 そもそもの始まりが「病院の対抗意識」なんて邪なものだったから、手段は選んでいられない。

当初参考にしたのは、カルト団体の宣伝書だ。ヤ○ギシ会、も○みの塔などの宣伝パンフや伝道書。 なぜか手元にいっぱいあった。

宗教カルトの人達は大変だ。大勢の人に自分の意見を聞いてもらわないと世界が滅んじゃうから、 いろいろな方法を考える。団体のパンフレットも、そうした方法論の流れで、「信じてもらう」ための いろいろな工夫がほどこされている。

  • カルトは危機感を煽る。現状の世界の悪い部分をクローズアップして、「このままでは世界が滅ぶ」と宣言する。 世界滅亡を回避するには、カルトの思想を信じるしかない。
  • カルトは言い切る。断言されたものに対しては、人は肯定か、全否定かの2者択一を迫られる。カルトの論法は、 「負けないけど勝てない」ではなく、「負けるけど勝つ」戦略をとる。否定する人は、「悪魔」認定される。
  • カルトには例外や失敗はない。失敗例は、教えを忠実に守れなかった人だから、思想そのものは悪くない。
  • カルトのパンフには「みんな」がいっぱいいる。「みんな」私達の言うことを信じるでしょう。 「みんな」で力を合わせて…。漠然とした仲間意識は、目の前の人間の言うことを断りにくくする。
  • カルトは権威好きだ。誰も知らない権威の発言は次々と引用され、カルトの思想に厚みを加える。

最初に文章を書いてた頃は、とにかく読んでもらうことが先決だった。 あんまり受けなかったけれど、全部テキストベタ打ちだったから、アクセス数稼ぎにはなった。 今見ると読みずらい。索引もないから、現場で何かを調べるのは無理だろう。

従来の文章を越えるもの

最初にマニュアルを作った頃は、文章のベタ打ちしか出来なかった。

道具といえばワープロだけ。スキャナも持っていなかったし、グラフィックソフトなんてついていなかったから、 文章内に図版を張り込むなんて夢のまた夢。文字ばかり並ぶ本は見苦しかったけれど、 他にやりようもなかった。

そのうちワープロからパソコンになり、Wordをすっ飛ばしていきなりLaTeXを使うようになって数年。 図の張り込みやら、文章のPDF化やらがまともに出来るようになってから、 ようやくマニュアルの「読みやすさ」について考察する余裕が出来た。

この頃感銘を受けていたのが、当時話題だった「ゲーム脳の恐怖」という本だ。

出版された直後から「トンデモ本」認定を受けていた本だったけれど、 「ゲームの世界を無批判に受け入れてしまう、 痴呆患者と同じゲーム脳」のメタファーは印象的だった。

下級生に文章読ませて、相手を「ゲーム脳」化できたら、相当面白いな…。

何年経っても動機は不純。そんなわけで、以下のような方針を考えた。

  • 図版を多くして、文章を短くして、なるべく簡単に読めるようにする。
  • 「理学所見をとる」「聴診する」などというあいまいな言葉を使わず、「右胸を聴診して呼吸音の有無を聞く」といったように、 なるべく具体的な動作を記載する。
  • 同じ文章には同じ絵を付けて、ボーっとしていても絵だけでも内容を追っかけられるようにする。

この頃参考にしたのは、熱帯医学関係のパンフレットや、 未開地にエンジンを売る会社(たしかヤマハ)などで用いている、 現地の人向けの操作マニュアルだ。

言葉が分からなくても、絵を見ているだけで大体分かる。 何をすればいいのか、絵を見て大雑把に把握してから文章を読むから、とても分かりやすい。

「2005病棟ガイド」というマニュアルはこんなことを考えながら作ったのだけれど、 意図した効果を出せたとは言いがたい。

「絵で分からせる」のは、思想としては間違っていないと思う。

それでも、自分には絵心が全くといっていいほどないので、図版は他人様のそれを もらってくるしかない。どんな絵が「分かる」のかも評価できないから、 絵の素人が絵の入った本を作ろうとするのはやっぱり無謀だった。

絵で分からせるという考えかたを突き詰めると、ピクトグラム に行きあたる。これもまた深い世界があり、面白いのだけれど、 本の中で使うには無理があった。当時はまだレーザープリンタを使っていなかったから、 インクの乾きが遅いという問題もあった。

もう一つの方針、「頭を使わず読む」ほうについては、 構造化チャートの考えかたを 使っている。

意思決定のプロセスを、言葉だけで伝えるのは大変だ。文章が長くなるし、ぱっと見て全体像を 把握するのは難しい。構造化チャートという技法は、このプロセスを出来るだけ整理して、 分かりやすく記載する方法だ。

いちばん有名なのはフローチャートなのだが、 これを使っている本はいくらでもあった。それではつまらないので、次世代型の構造化チャート の一つとして発表されている、NSチャートというものを用いている。

フローチャート型式の記載については、一応「分かりやすい」という評価をいただいたのだが、 今度はPDF型式以外の媒体に変換するのが極めて困難になってしまった。 表ページのHTMLは、LaTeXで作ったものをLaTeX2HTMLというソフトで変換しているのだけれど、 あの図を載せるのには相当苦労している。

続く。

2005.10.21

論文を書くということ

昨日のおしゃべりのまとめ。

アカデミズムに背を向け、ただひたすらに患者様中心の医療に邁進すのは、 全然かっこいいことじゃないです。

臨床のことだけ、治療のことだけ考えて医者をやっていくという選択肢は、 何の覚悟もいらない、楽な道を選択するということです。

研究と臨床を両方やってる連中のほうが、よっぽど大変な思いをしていますし、 人生に対して真摯です。 研究メインで臨床片手間の奴等なんて、投げてるんだか賭けてるんだか分からないぐらいの 万馬券に、人生の全財産賭けちゃってます。

「あえてリスクを取る生きかた」が人としてかっこいいことならば、ベタベタの 臨床屋なんて、単なるチキン野郎です。

私は論文を書くことに興味がありません。ひたすら臨床。

何かポリシーがあってアカデミックなことをしないとか、臨床研究をやっている連中になにか 反感があるとか。そうした理由は一切ありません。

今のやりかたが楽で楽しいからです 。それだけ。

今よりもっとうまいやりかた

「うまいやりかた」は、常に探しています。

  • 今の診断プロトコールにどんな検査を加えれば、重要な病気の見落としが少なくできるのか。
  • 同じリスクと効果を維持しつつ、どこまで治療を合理化できるのか

今よりもうまいやりかた。無駄のない方法論。そうしたものは、 日本中の臨床家が常に求めつづけています。「カイゼン」への欲求というのは、 なにもトヨタ自動車の社員の特権ではなく、たぶん日本中の技術者の本能みたいなものです。

発見できた「うまいやりかた」を発表するのもまた面白い。

表ページ。いろいろ書いてあるけれど、要は個人の自慢話の集積です。 これをやったらうまくいった。うちの病院には、こんなすごい方法が伝わっている。etc。

枯れた技術と個人の経験

古いやりかたを踏襲するのが好きです。

確実なのが証明された方法。先人の知恵の集積。 新しい治療手技を試す時、真っ先に調べることは、周囲にそれをやったことのある人がいないかどうか。

一人の人間の持っている情報量というのは、NEJMの巻頭論文をも凌駕します。 個人の経験。なによりも、その治療が「あり」なのかどうか。経験者の漠然とした感覚という奴は、 どんなランダマイズトトライアルよりも説得力があると信じています。

新しい「うまいやりかた」というのは、古くからの方法論の組み合わせです。個々のパーツには何の 新奇性もありません。だから日常の仕事の中でも試せるし、また安心して発信できます。

新しくないと論文にならない

論文は違います。

残念なことに、美しいものは論文になりやすいとは限らない。 第一に、研究は独創的でなければならない— そして、博士論文を書いた経験のある人なら誰もが知っているように、あなたが処女地を開拓していることを保証する一番良い方法は、誰もやりたがらないような場所へ向かうことだ。 第二に、研究にはたっぷりとした量がなければならない— そして、妙ちきりんなシステムであるほど、たくさんの論文が書ける。そいつを動かすために乗り越えなければならなかったいろんな障害について書けるからね。 論文の数を増やす最良の方法は、間違った仮定から出発することだ。 AI研究の多くはこの規則の良い例だ。知識が、抽象概念を引数に取る述語論理式のリストで表現できる、と仮定して始めれば、それを動かすためにたくさんの論文を書くことになるだろう。リッキー・リカルドが言ったように、「ルーシー、君はたくさん説明することがあるね」ってなわけだ。

何か美しいものを創るということは、しばしば既にあるものに微妙な改良を加えたり、既にある考えを少しだけ新しい方法で組み合わせたりすることによってなされる。この種の仕事を研究論文にするのはとても難しい。

Hackers and Paintersより引用。

誰もがやっていること、あるいは誰かがやったことがあることだけでは、論文にはなりません。

Neuesは勇気ある者に降りてくる

人体というやつは、このところ何万年もまえから変わっていません。

医学というものは、極めて安定したシステムである人体という系が、何らかの「想定外」の出来事に 遭遇したとき、大いに発展します。病気やけが。貧困や差別。戦争。こうしたイベントは、 人体というシステムを大いに揺さぶります。システムを理解するには、それが揺れたときに じっくりと観察するのが一番です。

医学の方法論というのは、人体システムが揺れたときにどう対応したらうまくいったのか、 そうした経験の集積です。古い方法を踏襲すれば、大体予想どおりの展開が待っています。 予想できることは、確実だけれど発見はありません。

リスクをとる勇気のない奴には、 発見の機会など巡って来ないのです。

問題なのは、他の科学の場合、リスクをとる人間は研究者自身なのですが、 医学の場合はそれに患者も加わるって ことです。患者さんのとるリスクは、採血量が2ml程度増えるとか、 CTをもう1回だけ余計に撮るとかいった ものから始まって、ちょっと言えないすごいことまで、様々です。

ただでさえ医者の肩身が狭くなった昨今、保身のためには余計なことはしたくない、というのは 臨床オンリーで生きてきた奴の本音です。

論文を書くということ

論文執筆をはじめとした研究活動に興味を持てるかどうかは、多分に後天的なものです。

論文を書くためには、データを集めなくてはなりません。

研修医時代。その生活サイクルの中に、「論文のためにデータを集める」というモジュールが 組み込まれていないと、多分その研修医は論文執筆に興味を持ちません。

民間大手の忙しい病院には、「論文を書く」という文化が欠落していることがよくあります(たぶん)。

お前の性格を人のせいにするな、という叱責が聞こえてきそうですが…。

忙しい病院では、みんな「うまいやりかた」を日々探しています。 どうやったら死ぬ病気を見逃さずに済むのか。全員入院、病歴聴取だけで1時間かけていいなら 誰だって何とかなります。同じことを外来で3分でやろうと思ったら、頭を使う必要があります。

臨床をやりながらデータを取る先生、論文を書く先生に対するやっかみや反感といった感情は、 持っていません。一応。私達だって論文がないと勉強できませんし、論文を書く人たちが いるからこそ医学というのは前に進みます。

それでも、もう少しうまいやりかたはないのかな、とは思ってしまいます。論文を書くのに要する エネルギーはあまりにも多く、その論文が何かの役に立つ可能性はあまりにも少ない。

論文は小数の専門家にしか読まれない。ごく一部の論文は世の中に大きな影響を与えるが、 残りの大半はほとんど影響を与えない。正確に言えば、博士号の取得であるとか、 大学内の昇進・雇用の維持であるとか、学会の存続であるとか、そういうことには役立つ。 一例として、情報処理学会の論文誌に論文を掲載するには別刷料という名目で掲載料を 支払わなければならないが、これは読者よりも載せる人の利益の方が大きいからだろう。 いやなブログ: ポール・グラハム論法より引用

頭のいい医師はたくさんいます。 アカデミックな某科の医師など、私の実力などはるかに上回っています。 一般内科は、しょせん専門医の敵ではありません。専門があって、マンパワーがある 連中は無敵です。

それでも、彼らはしばしば、その力を貸してくれません。

  • そんなの診ても業績にならない。
  • 厳密にいって当科的な適応はありません。

返答はいろいろですが、要は「忙しいんだからそんな患者は紹介するな」。 実力あるんだから力貸してくれよ…。けっこう悲しくなります。

「論文を書くこと」の価値

臨床研修というのは、要は医者として活動するための洗脳教育です。

どんなに個性の強い奴でも、研修した病院の文化というものに必ず影響をうけます。

  • 論文執筆という行為が、医師としてのライフサイクルに組み込まれている人。
  • 日常業務からいかに無駄を省くかという一点に血道を上げてきた人。

両者には接点がありません。例えば、生きた魚を捌いたことのある人と、 魚といったら魚屋の切り身しか見たことのない子供みたいな関係です。喧嘩にすらなりません。

「魚は本当は生きている」という知識は、知らなければ知らないで、何とかなります。 日本に住んでいて、お金があれば、たぶん困りません。実物を見たら驚くでしょうが。

同じ知識でも、例えば「車輪」という概念を知らない人は、人生大いに損をしています。

車輪があるから車は走るし、重いものも運べます。これを知らなかったら、コロしかなかった ピラミッド文明時代に逆戻りです。

では、「論文を書く」という概念は、医者にとってはどんな価値を持つものなのか。

「魚は生きている」という程度の価値なのでしょうか?それとも「車輪」の概念ぐらい、 知らないと致命的なものなのでしょうか?

医者10年やっていて、今のところそんなに困っていません。論文を書いている人も、 10年目までは同意見です。そんなに困らない。

問題なのは、そこから先の話。

20年目。30年目。臨床だけやってきた人は、いざ振り向いたとき、自分が後に残したものが 何も形になっていないことに愕然とするといいます。論文を書いてきた人は、 「論文」という形が残る。

「今から習慣にしておかないと、後になってから悲惨だよ。」

アカデミックな病院が研修医をリクルートするときの殺し文句です。

このあたりがどこまで正しいのか。私には全く評価できません。困ってないし、今はとりあえず 結構楽しいし、20年目になっているわけでもないし。

自分が将来どうなっているのか。何のビジョンもなければ、展望もありません。 なるようにしかならないでしょうし、何よりも「決まっている未来」ぐらい、つまらないものは ないと思っていますし。

先の見えないことの楽しさ

アカデミズムを放っぽって来た人を知っています。

某関東のやんごとなき大学の出身の方で、業績を上げて某国立大学の教授に内定していたそうです。

あるときの座長講演。専門的な内容なので、聴衆はみんな、理学部出身の人ばかり。学生の頃から 試験管を振ってきている連中。

立場が上なのは自分。でも、その分野での頭のよさは、彼らの方が上。

そんなことを考えているうちにアカデミズムが空しくなり、私が飛ばされていた僻地の病院に 就職してこられました。

一緒に飲みながらそんな話を聞き、笑いながら「今すごく後悔している」と言っておられたのを覚えています。今ではそこも辞め、南の島の診療所で内科医をしておられるはず。 とっても投げやりな選択をする、とてもかっこいい方です。

自分が研修を受けた病院の先生方も、みんなめちゃくちゃです。

  • 10年目ぐらいで急にボスニアに旅立ち、「手術室の壁は、銃痕でめちゃくちゃです」という手紙を最後に 失踪された外科の先生。2年ぐらい経って、ひょっこり戻ってこられました。
  • 某南の島の地域医療体制を立ち上げて「神様」扱いされていた先生は、今ニカラグアで大腸カメラを しています。
  • アメリカに渡って大学教授をしている先生。タイや北欧に渡った人もいます。他にもいろいろ。

医者という仕事を続けていく中で、臨床をやりつつ論文執筆に時間を割くのは大変です。 その行為の意味は、現在の自分の時間を、自分の未来に投資するということです。

臨床をやりつつ論文を書くという文化を知らない医者は、 そのあたりがかなりいいかげんです。先を読んで行動することをしません。

未来なんてどうなるか分かりません。先輩方は行き当たりばったりで、でもみんな楽しそうです。

臨床医という仕事は、結構不安定なものです。職場は一定しないし、住所もコロコロ変わります。

論文を書いて発表するという生活モジュールを自分に導入するという選択は、確実な未来を志向する 道を選ぶってことです。

研究活動というのは、過去の蓄積を踏襲して、さらに先に進む行為です。 どこかの研究室に所属して、そこの伝統に乗っからなければ、やはりうまくは行きません。 医局に入って論文を書く。書きつづければ、流れに乗れます。未来も見えてくるかもしれません。

目の前の現在だけを見る生きかたというのは、自分の目の前の仕事で、確実に結果を残さないと いけません。先が見えないから、結果を出すこと、その場の仕事で役に立つ知識を集める のは大事です。

結果が出れば、また「次」の道が見えてきます。医学はそんなに独創的な発想が 求められるわけではないので、 勉強だけしていれば、結構何とかなります。でも、「次」は見えても、最終的に「どこ」に行くのか。 それは全く分かりません。

先の見えない現状を楽しいと感じるかどうか。

アカデミズムを志向するかどうかの選択というのは、 案外そのあたりにかかっているような気がします。

2005.10.18

ネットワーク化した病院の未来

救急外来のつらさの変化

救急外来の当直空け、朝の5時ごろに煮詰まったコーヒーを飲む頃には 白衣が血まみれだったのは今は昔。

地域の大病院に勤めるということは、その地域に住んでいる人たちの生き死にに対して、 無限責任を負うというのに等しいことだった。仕事はきついし、重症疾患を 見逃せば一人死ぬ。医者も死ぬ。結構つらい。

それでも昔は、気合で何とかなった。今は無理だ。

町の平均年齢というものはどんどん上がる。以前は60台、70台で元気に していた人たちも、10年もすればそろそろ寝たきりになる人が出てくる。

寝たきり老人は、寝てはいるけれど医学的には健康だ。 それでも、医療は不要でも介護は必須。ねたきりになった人が一人出れば、 それから数年間は地域のベッドが一つは埋まる。

介護施設のベッドは高い。数も少ない。行き場のない患者は、救急車で押し寄せる。

人口10万人程度の地域で、急性期病院のベッド数はせいぜい1500床(下手するともっと少ない)。 全員受けていたら、地域の医療が止まる。

大学だけは何とか難を逃れているけれど、今の救急医に求められる資質の多くは、 交渉能力だ。入院を希望している老人を、いかに言いくるめて家に戻すか。 叩けばいくらでもほこりが出る高齢者。言いくるめるこっちだって不安だ。

気合と体力で何とかなったのは昔の救急。入院を希望する家族からは叩かれ、 入院を受けるはめになった病棟医からは罵られ。今の救急外来は、自分のプライドとの戦いだ。

転院先はどこだ?

病院という場所は、入院から退院まで、患者さんが同じペースで動いてくれないと渋滞する。

急性期の患者の流れは活発だ。良くなる人は良くなるし、悪くなる人は悪くなる。 入院期間は医学的に決まる。ベッド数は少ないし、患者はどんどん入ってくる。 良くなった人は一般病棟へ転出する。この過程は比較的スムーズだ。

病気が慢性期に入ると、流れはだんだんと遅くなる。流れが澱んでみたり、渦をまいて逆行 してみたり。素直に流れて、リハビリ施設や慢性期病院に入れる人は少数だ。

“慢性期”と呼ばれる患者の幅は広い。病期的には、入院してから数週間もすれば、 その患者は慢性期に入る。転院先を探しはじめないと、次の人が入って来れない。 病気の進行なんて 人それぞれだ。「慢性期に入った患者」というのは、単に筋トレ待ちの人から、 気管切開されて呼吸器のついている人まで、すごい幅がある。

慢性期の病院の適応というのは機械的に決められる。 急性期病院では、入院期間が延びれば どんどん儲けが少なくなる。どこかで患者に出てもらわないと、病院が潰れる。

慢性期の病院のベッドは、いつも奪い合いだ。入院期間が長いから、ベッドはなかなか空かない。 希少価値のある病院だから、慢性期病院には患者を選択する余地がある。

誰だって良くなる人を診たいし、汚い仕事は避けたい。元気な人は、経営的にも効率がいい。

慢性期の病院は、入院患者を選ぶ。歩ける患者、食事や排泄の世話のいらない人はすぐに入院できる。 一方、動けない人、意識の悪い人、急変の可能性のある人というのは、いつまで経っても取ってもらえない。

「美味しくない」患者の転院が成功するのかどうかは、病院のソーシャルワーカーの腕が全てだ。

優秀なソーシャルワーカーの人は、取引がうまい。「美味しい」患者さんを複数紹介した施設には、 代わりに重症な人も引き取ってもらう。どこにもいく当てがない患者さんには、県外の 聞いたこともないような病院にまで連絡して、なんとか話をまとめる。

あまり重症な患者さんばかり紹介すれば、その施設は2度と患者を引き取らない。 かといって、「本当のこと」ばかり言っていては、やはり交渉は成立しない。 ソーシャルワーカーはばたばた辞める。非常にきつい仕事だ。優秀な人には 仕事が殺到して、その人もまた潰れる。

リアルタイムのベッド情報は渋滞を解消するか?

  1. その地域全域の医師にタグを付け、専門分野、入院患者を診るキャパシティーといった情報を検索可能にする。
  2. 同じく、その地域の入院可能なベッドの数、医師の受け持ち患者数をやはりリスト化して、検索可能にする。
  3. 転院先に困ったソーシャルワーカー、あるいは救急が依頼の医師は、その情報を利用して患者の流れを決める。

病院間のネットワーク化をある程度進めれば、こうした情報を共有するのは比較的簡単に出来ると思う。

それでもこれだけでは問題は解決しない。こうしたシステムが実用化したとしても、 たぶんほとんど機能しない。病院ごと、あるいは医師ごとの文化の壁というものが存在するからだ。

出身医局、研修病院、勤務先の病院。医師の、あるいは医局の文化というものは、 施設が変わればぜんぜん違う。 医局の関連病院ならば、まだこうした文化の違いは少ないかもしれない。それでも、 今度は病院内の他科との文化の差が壁になる。

ガイドラインエビデンスに基づいた診療。そんなものは、友達の少ない、 いじめられっ子だった医者が 一発逆転をかけて叫んでいるたわごとにすぎない。

あんなものを心から信じている医師などいやしない。ガイドラインは参考程度、あるいは それをせせら笑えるぐらいに勉強して、自分の文化に基づいた診療をするのが日本の医師だ。

科が同じでも文化の違う相手からどう思われるか。医者という人種は基本的にプライドが高いから、 「相手からどう見られるか」というのは人生の最重要課題だ。

完璧な治療というものは存在しない。価値観は常に変化する。自分のやった治療が本当に正しいのか。 医師は、他の医師との距離の中にしか、その正しさを確認できない。

病院同士、医師同士のネットワーク化を本当に押し進めるならば、治療のマニュアル化、 コンポーネント化の問題は避けて通ることが出来ない。

治療のコンポーネント化のもたらす将来

治療ガイドラインなどクソ喰らえだ。治療は日々進化する。 どんなにお偉い先生方が「正しい」ガイドラインを発表しようと、ツッコミどころは満載だ。 本当に正しい治療などほとんど分かっていない現在、反論材料などは 論文からいくらでも引っ張れる。

治療のコンポーネント化を進めるためには、治療の中身をいじくる方法ではうまくいかない。 ガイドラインで決定すべきなのは2つ。

  • どこまで検査をしたら、その患者を受けるのか。
  • どこまでやったら、「ゴール」とするのか。

大事なのは、それぞれの専門科ごとの、入り口と出口の部分の 共通化だ。

各診療コンポーネントの内容については、それぞれの専門家に任せる。どんな方法であっても、 要はその人の守備範囲の病気が治れば、それでその人の役割はおしまいだ。診療コンポーネントの 入り口部分は、出来れば「症状名」で分類する。特定の症状が出た場合、この検査をして、 結果がこうであったらこの家の守備範囲とする、というように。

専門各科の「縄張り」を明文化してしまうと、どんな疾患で入院した人でも、必然的に複数の医師が かかわりを持つようになる。コストは増大するし、処方も増える。責任もあいまいになる。

それでも、日本は専門医の国だ。

一般内科医、一般外科医といった少ない種類の一般医があいまいな医療を やっていた時代から、専門家集団のネットワークが患者を診察する時代へ。複数の医師が 同じ人を診察するコストは、コミュニケーションの効率化でなんとか相殺する。

主治医などというものは過去の遺物、あるいはぜいたく品になる。 相談役がほしい人は、別料金でどうぞ

治療の知識の再利用性

医師が患者を治すためには、どの科であっても何らかの知識が必要だ。

20年目のベテランと同じ立場に立つにはやはり20年近い知識の積み重ねが 欠かせないし、体で覚えた知識にも毎日のアップデートは欠かせない。

治療のための知識というものは、講義型式では伝えられない。凄腕の医師というものは 量産できないし、同じ道を歩んでも、同じ高みまで登れる人は少数だ。

これではいかにも非効率だ。例えば心臓外科医になりたければ、1年目から麻酔のかかった患者の 手術だけをすればいい。患者さんとの会話など必要ない。 理学所見や聴診のテクニック、心電図の解釈すらも 必要ない。それは内科の専門家がやってくれる。 本当に心臓の手術だけのプロになるなら、メスだけ握れれば それで十分。

外来のプロ。手術のプロ。術後管理のプロ。それぞれ専門家が独立すれば、成長の効率はいい。

医者としてやっていくのに必要な知識というのは、いわゆる「腕」に相当する知識と、治療につながる 知識との2つに分類される。

  • 「腕」に相当する知識というのは、例えば手術や内視鏡の腕、専門的な技能や治療のための最新知識。こうした物を持っている医師は「ベテラン」とか、「ゴッドハンド」などと表現される。
  • 治療につながる知識というのは、例えば呼吸器内科に紹介するときは胸部CTとLDHの採血が必須とか、○○先生にコンサルトするなら月曜の午後が最高とか、この症状が出たら、こういう採血を取って この科に相談すると解決するとか、医師同士のコミュニケーションを円滑に行うための 知識。これをたくさん知っている医師は、「ソツがない」とか、「使える」医師などと表現される。

前者の知識は、体験を通じてしか身につかない。こういう知識は共有できず、知識を得るには自分も その道の専門家になるしかない。

後者の知識は、共有が可能だ。病院内で誰かが「うまいやり方」を発見したら、他の医師はそれと同じことを すればいい。ノウハウは学習可能で、専門家の性格が変わらなければ、保存も可能だ。 手技は出来なくても、手技の出来る奴が友達なら、 治療は出来る。現在こうした知識を駆使しているのは一般医だが、将来的には機械化も可能だろう。

本質は腕か考えか

治療のコンポーネント化、専門家のネットワーク化というものが本当に進むことがあれば、 救急外来医の仕事は簡単になる。

病気の「あたり」を大体付けたら、とりあえず一通りの検査を出して、患者さんに「タグ」を付ける。

どの科に振ればいいのか、主治医は誰なのかは考えなくても大丈夫。タグ付けされた患者は 専門家のネットワークの海に放り込まれ、タグに応じた専門家は勝手に集まってくる。

象に蟻の群れがたかるように、病気に対して専門家が押し寄せ、各々の領域に最適な治療を 行っているうちに、患者のタグは変化していく。 それとともによってくる専門家の顔ぶれも 変わり、病気の軽快とともに慢性期病院の専門家がベッドを手配する…。

人がネットワークを操作するなら、ネットもまた人の思考を操作する。

変化する患者の「タグ」に操作される専門家集団というイメージでは、主治医の思考というものが 専門家のネットワークの中から自然に発生していくように見える。

時代は循環する。腕を追求する専門家に対する反省から、最近は家庭医や一般医に人気が集まっている。

大きな施設に出来ることには限界がないけれど、スタッフ交互のコミュニケーションにかかるコストは 施設の規模に比例して増大する。 病院の規模が大きくなると、施設のピーク性能は高まっても、その効率はどんどん落ちる。

一般医は現在、大病院の効率の悪さを補間する存在として、その価値を見出されている。 その価値も、将来的には地に落ちてしまうかもしれない。

ネットワーク化された医療の将来

「主治医の方針」というものは、究極的には機械化が可能だ。

現在は、専門家集団に比べて性能の劣る「一人の主治医」が、あいまいな知識を元に方針を決めている。

治療の方針というものは、本来はイベント駆動型。治療の結果を見て、次の方針が決まるのが正しい。 主治医が一人でそれをやるには、人間の体の情報というのはあまりにも多い。不十分な知識では 間違いも増えるから、治療の方針というのはある程度「見込み」でやらざるを得ない。

どうせこの先待遇が改善されることなんてない。 予算は削られ応召義務は拡大される。結果責任を問われる 傾向はますます強まり、仕事はきつくなる。

逃げ道などない。海外に逃亡できるガッツのある奴は、 そもそもこの時代に医師という職業など選択しない。

大きな病院には「人が増えたせいで増えた仕事」が山ほどある。 現在の一般医というのは、この仕事をこなして食べている。

専門分化が進んで、医師のネットワーク化が進めば、 例えば原因不明の背部痛を訴える人が整形外科の外来を受診しても、 レントゲンを取ったあとは消化器の医者が勝手にやってきて、 患者を自分の所に連れて行ってしまう。

そこにはもはや「総合的に」患者を診察できる医師の出番はなく、 ネットの世界に一般医の生き残る場所は残っていないのかもしれない。

医療の効率化は進む。絶対進む。どんどん進む。

乾いた雑巾を絞るように医師は絞られ、無駄なことは出来なくなる。

医療を絞って出てきた水は、患者ののどの渇きを癒す聖水になるのだろうか? あるいは、効率化に止めを刺された一般内科医の末期の水になるのだろうか?

自分は一般内科医だ。少なくとも自分ではそう思ってる。

自分の居場所が将来なくなるなんて、そんなことは書いている自分が一番信じていない。 それでも、世の中にこれだけの数の「専門家」があふれていると、一般屋を 量産するよりは、今いる専門家を再構成した方が効率がよく見えてくる。

あとは、一般内科の気合と体力次第だ。

2005.10.17

患者の渋滞について

直線道路でも渋滞は生じる

大学の研究者であった父親が、国土交通省に呼ばれたことがある。 当時の専門は、音響工学だった。

問題点は、交通渋滞の対策。障害物のない道路で、なぜ渋滞が生じ、どう対策すればいいのか。

渋滞中の車の振る舞いというのは、音波に似ているのだそうだ。

音というのは、密度波だ。 空気の分子の集まりを車に見立てると、その密度の分布が作り出す渋滞がどう変化していくのか、 その観察に、音響工学の技術が応用できたという。

自分が小学生の頃。複雑系とか、ネットワーク科学などという言葉は全くなかった頃だ。

当時考えられた対策は、交差点周囲の違法駐車を重点的に取り締まることだったという。 これをやることで、「音」の通りが良くなり、渋滞は激減するはずだった…らしい。

後年自分で車を運転するようになったが、その効果が全く感じられないのが ちょっとくやしい。

何もない直線道路でも渋滞は生じうる。

  1. たとえばその道路に警察官が立っていたとすると、誰でもその近くに来るとブレーキを踏んで スピードを落とす。
  2. 障害物のない直線でも、その位置になるとみんなブレーキをかけるから、車の密度が上がって 渋滞になる。
  3. 前の車がブレーキを踏むと、ドライバーなら誰でも本能的にブレーキをかける。そのあと周囲を確認して、 何もないことを確認できればブレーキを解除できるが、そこにはどうしても判断の時間だけタイムラグが生じる。
  4. たとえ警察官が去ってしまっても、道路のその位置では車の密度が高いままになる。なにも障害物が なくても、誰もがブレーキを踏んでしまうから、しばらくは渋滞が続く。

病院という空間でも渋滞が生じる

病院にも「患者の渋滞」という現象が起こりうる。

例外はいくらでもあるけれど、重病人は最初に救急外来から集中治療室に入院して、 そのあと回復したら一般病棟に移り、さらにリハビリのために療養型病棟に転棟する。

ベッドが空いていれば、回復さえすれば何の障害もない直線道路。 実際には、この「救急外来->ICU->一般病棟->療養病棟」 という道には、それぞれの境界に警察官が立っている。

病棟を移動するときには、まずは空いているベッドを探す必要がある。ベッドが見つからなければ、たとえ 回復した患者さんであっても、重症ベッドから移動できない。

忙しい時期、救急外来からまとめて入院があったあとなど、同じ重症度の患者さんが多数出現することがある。 多人数をまとめて移動するのは、その人数を受ける病棟にとってはストレスだ。同じ日に、そう何人もの 患者さんは受けられない。結局重症病棟では回復した患者が渋滞し、次の人が受けられない。

一度こうした「渋滞」があると、この人たちはどこの段階に行っても「渋滞」の原因になる。 救急外来が忙しかった日からずいぶん経っても、病院内は慢性的に渋滞の状態が続く。

警官の検問のようなものがなくても、迂回路のない直線道路はしばしば渋滞する。

追い越し不可能な道では、その道路で一番遅い車が全体のスピードを決定してしまう。 大量生産時代の象徴のように言われたベルトコンベア方式の製造ライン。 これもまた、工場の中でもっとも手の遅い人が全体の速度を決める。 今では、非効率の代表のように扱われ、どうやったら「ラインの無駄」を工場から撤廃できるのか、 コンサルタントの人は知恵を絞っている。

同じ病院内での患者の流れというのもまた、特定の病棟が全体の流れを決めてしまう。

具体的には救急外来から専門科に紹介する過程、 そして一般病棟から療養型病棟へと患者を紹介する過程は、 病院内での患者さんの流れの中で、律速段階を作ってしまっている。

遊びを無くせばスピードは上がる

音の波や車の流れ、病院内での患者の流れといった、 密度の分布をとるもののスピードを上げるには、 「分子」間の結びつきを密にする必要がある。

空気の分子は、水に比べて結びつきがゆるい。音は、空気中よりも水中のほうがより早く伝わる。 車の場合、前の車の振る舞いを、後続のドライバーが判断するという過程が 分子間の遊びを作り、渋滞の原因を作っている。 車同士が剛体結合された列車では、そもそも渋滞というものが存在しない。

病院内での患者の渋滞を作っているのは、病棟を移す際に各病棟が行う患者さんの重症度評価と、 空きベッドの検索の時間だ。これをゼロに出来れば、患者の流れはもう少しスムーズになるかもしれない。

病院の渋滞を無くすには

救急外来から患者を紹介するのは難しい。

救急という場所は、もともとは応急処置をやるために作られた。 患者さんを入院させて、病気の原因検索を行い、その治療を行うようには出来ていない。

応急処置だけでは不足な場合、その人を専門各科に紹介して、入院させてもらう必要がある。

そのときどこの科に紹介すればいいのか?救急をやっていて、一番揉めるのがこの部分だ。

救急外来に来る患者さんというのは、「汚い」人が多い。主病名が一つに決まらない人。 主な問題は一つでも、それに糖尿病や腎不全といった「役」がついている人。 社会的、家族的な問題を抱えている人。専門各科も、そういった人を取るならば、できれば もっと「きれいな」患者を受けたいと思う。

「その人の問題は、うちの科ではありません」。

救急からこうした複雑な背景を持った患者さんを紹介するとき、電話口からはこうした返事が相次ぐ。 入院は必要。問題点も明らか。それでも抵抗はある。

  • その問題が本当に「一番の」問題点なのか。
  • その患者を取るのに、もっとふさわしい科があるのではないか。

専門各科はあれこれと理由をつけては、入院をブロックする。

専門分化の発達した大病院。複雑な疾患を解決できる、高度医療を得意とする病院ほど、こうした 複雑な背景の患者を入院加療できるベッドが存在しない。病気を見られる医師は売るほどいる。 それでも、その人を診療できる医師は、「公式には」存在しない。

あなたの専門は何ですか?

救急外来をやっていて、とにかく問題になるのが「誰が何の専門家なのか」が全くわからないという点だ。

循環器内科などは分かりやすい。心臓は単純な臓器だから、とりあえず心臓の病気であれば何でも診る。 消化器や神経あたりになると、もう魑魅魍魎の世界。血を吐いた人が救急にきても、その血が食道由来なのか、 胃潰瘍由来なのかで専門が違う。原因がわからないから内視鏡を断られ、結局外科に診断をつけてもらってから 消化器内科に入院。何か狂ってるけれど、誰が悪いのかすら分からない。

病院中の全ての医師に「タグ」をつけてほしい。できれば病名別でなく、症状別の。

消化管の専門家であっても、原因不明の吐血は診ないならば「公式に」そう表明してほしい。 その科には二度と頼まないから。 院内の専門家は、誰もが悪者になりたがらないから、 病名の専門家ではあっても、症状の専門家にはなってくれない。 「胃潰瘍」の専門家は、「吐血」や「上腹部痛」の専門家にはなってくれない。

外来に来る患者さんは、症状を訴えても、病名を訴えてくる人は少ない。外来というところは、本当は 症状を病名に変換するための場所なのだけれど、医者という人種は他人の下した診断というものを 信用しない。だったら病名の専門家であることをやめて、症状の専門家になってほしい。

以下続く。

2005.10.11

最新の治療は最善ではないかもしれない

医療の進歩は過去を内包している

医療は進歩する。診断技術。モニタリングの技術。新薬や、新しい治療手技。

医療の進化のプロセスというのは、進化論で言うところの断続平衡モデルに似ている。

進化は、長期間の平衡期と、短い急激な変化期とを交互に繰り返す。変化期にはいろいろと革新的な技術が生まれ、新しい治療が試されて、医療に急激な進歩が生じる。平衡期に入ると、技術は洗練/成熟される。この時期は、革新的な進歩というものは生じにくい。

既存の技術では治療できない病気があるとき、その分野は変化期に入る。

カテ屋の業界で言えば、心筋梗塞や狭心症がそうだ。 心臓の検査が心電図と胸部レントゲンしかなかった頃、 狭心症や心筋梗塞といった病気は、まともな診断も治療も出来ない病気だった。 患者さんが胸痛で苦しんで入院しても、 血圧を下げてひたすら祈っているだけ。何も出来なかった。

ソーンズとジャドキンスの心臓カテーテル検査の発明をきっかけに、 この分野の医療は変化期に突入した。 ゴミ箱病名だった心筋梗塞が、治療可能な病気に。 多くの医者が飛びつき、様々な技術が発表された。

最初の頃は、心カテをやる医者なんかは、まだまだ異端扱い。 自分の元の師匠が若い頃、心カテの技術を周囲の若手に広めようと仲間を 募っても、20年前には誰も近寄ってこなかったらしい。

その後、カテーテル検査は日本中に普及して、 さらにバルーンによる冠血管形成術が紹介されるようになって25年近く。 日本ではもはや「循環器内科」といえば「カテ屋」。 カテーテルを握らない循環器内科医を探すほうが難しい。

技術は普及したが、進歩は止まった。たしかに、今でも毎日のように新しいデバイスや 診断技術は発表される。 それでも、いまの業界の基礎的な技術というものは、 カテーテルによる治療がこの世に紹介されてから最初の数年で 一気に作られ、以後は全く新しい道具や技術というものはほとんど作られていない。

循環器内科という医療の分野は、変化期から平衡期に入っている。

心筋梗塞は、もはや治療可能な病気になった。もちろんまだまだ完全ではない。 それでも、今までに発表された過去の技術の 蓄積で、とりあえずは「間に合っている」。

ピラミッドを積み重ねていくと、各段の大きさはだんだんと小さくなっていく。

基礎的な技術が紹介されて発展し、 その分野の進歩が平衡期に入ると、技術の進歩で恩恵を受ける人の数というのは だんだんと減っていく。

それでも技術は進歩する。医者だって学者の端くれだ。論文を書かないと世間から認められない。 わずかな技術革新、わずかな改良というものは、毎日のように発信される。 最先端を追い続けなければ、誰かに 追い越される。勉強の毎日。

革新的な技術というものは、荒削りだけれど分かりやすい。よくも悪くも革新的だから、 それを見た人に 強い印象を与える。そのコンセプトは理解されやすい。

わずかな改良というのは、門外漢分かりにくい。例えば陶器の分野。 ウン千万円の茶碗とその辺で売っている100円の 茶碗。何が数千万円の差を生んでいるのか、訓練を受けた人でないと分かりにくい。

最新の論文に乗っ取った治療というのは最高だ。たぶん最高なんだろう。 それでも、その治療の成果というのは「統計上有意」で あってもわずかで、他の科から見ると、どこが画期的なのかすらよく分からない。

最新の治療は最適なのか

進化が平衡期に入った医療の分野では、もはやそんなに画期的な進歩というのは望めない。 最新の治療は、旧来の治療法に比べてより生理的で、侵襲が少ない。 一方で、最新の治療というのはたいていはより煩雑で、 そのすばらしさが他科から理解されにくい。

現在の医療というものは、主治医が個人ですべてやることは少なくなっている。 患者さんが入院してから退院するまで、 実際に会うことはなくても、たいていの場合は複数の医師が方針決定に参加する。

各専門科の専門領域の最新の治療手技というものは、しばしばわかりにくい。

  • その治療が患者さんにとって本当に最高なのか。
  • 他科がやろうとしているほかの治療と、その最新の治療とはどうかち合うのか。
  • 急変した際、今までと違うこの治療では、何に気をつければいいのか。

新しいものには、先の展開の読めない要素が山ほどある。

複数の科が合同で治療するとき、そこには必ずコミュニケーションのコストが生じる。 最新の治療のメリットというものは、しばしばその高いコミュニケーションコストに相殺されてしまう。

特に患者さんが急変したときや、急性期疾患を扱うとき、 あるいは3科以上の専門家が議論しながら治療を 決定するときなどは、「見通しのいい古い治療」というもののメリットは、まだまだある。

鉄火場で役立つ古い道具

患者さんの呼吸が止まった。今まで作動していた機械が、なぜかトラブルを生じた。 医療機器の信頼性というのは相当高いが、それでも機械は故障するし、そもそも病人というものは、 故障した生体機械だ。現場では、想定外の混乱というものはいくらでもある。

混乱した現場では、たとえ正しいことを言っても、周囲がそれを理解してくれなければ話が進まない。

急変した患者さんをモニタリングするのに、分かりにくいけれど「正しい」パラメータを使うのか、 あるいは多少劣っていても、見通しのいいパラメータを使うのか。 鉄火場で正しいのは、古くて分かりやすいほうだ。

例えばETCO2やSvO2。血圧とか、脈拍数などよりも患者さんの状態を正確に把握し、またより正しい 治療方針を決定できるパラメータとしてよく紹介される。ICUではよく使う。

それでも、こうしたパラメーターを、たとえば救急外来の外傷患者のモニタリングに使うのは絶対無理だ。

外傷蘇生の現場では、とにかく血を止めて、血圧を上げた奴が正義だ。 本当は、血圧はそんなに上げすぎないほうがいいし、 輸液も輸血もそんなに入れないほうがいい。わずかだけれど、そのほうが予後がいい。 それでも、いくつもの科が集まって「お祭り騒ぎ」になっている現場では、 そういったことは口にしないほうがいい。

祭りの現場で重んじられるのは伝統だ。祭りの最中に「信仰とは何か」などと議論をはじめる奴は、 綿流しされても文句は言えない。

想定外の事態が起きた時には、一瞬思考が停止する。 再起動直後の人間は、過去に経験したことと同じ動きしかできない。 急変の現場では、その原因を考える時間すら惜しい。 鉄火場では、システム全体のの見通しをよくしておかないと、みんなが正しい動きができない。

人工呼吸器管理中の患者が何であれトラブッたら、とりあえず呼吸器を外して手動換気」 というのはICUの鉄則だが、 これもまた、手動の呼吸器という道具がもっとも単純で、「呼吸器をつながれた患者さん」 というシステム全体の見通しが良くなるからだ。

(以下、治療のカプセル化、コンポーネント化は医者を幸せにするのか?という話題が続くはずでした…)

2005.10.08

情報化はマンパワーの差を覆せるか

マンパワーの差を覆すには

厚みで押し切るのが好きだ。圧倒的な物量でもって、相手に止めを刺すまで追い詰めるのが好きだ。

大きさは力だ。マンパワーの乏しい組織、物量の乏しいチームというのは、 大きなチームにはかなわない。

対立するチームの規模が数人レベルならば、物量の差を覆すのは難しい。 医者という人種は、みんな一応は勉強している。 時々はとんでもないのもいるけれど、何年も病院内で生き残ってきた医者というのは、 その「」にはそんなに大きな差は無い。小さなチームと、大きなチーム。 人数の差はそのままチームの力の差となる。

ところが、チームの人数が大きくなってくると、「物量がすべて」という考えは通用しなくなってくる。

何かの問題で対立する組織の大きさが数百人規模、 例えば1日の外来患者さんと病院全体の組織、あるいは 病院ごとの勢力拡大競争といった大きな問題になってくると、 マンパワーだけでは「勝つ」ことが出来ない。

逆に、マンパワーを集めることが出来なくても、別の工夫をすることで、 相手の物量を覆すことが可能になるかもしれない。

鍵になるのは、コミュニケーションにかかるコストをいかに削減することができるかという問題だ。

比較的大きな病院組織の場合、その稼働率は85%程度が限界で、 その病院の持っているベッドを全て使い切ることなど、 まず出来ない。

病院内のベッドが85%埋まると、病院は実質機能しなくなる。 大きな病院では、医者同士、あるいは様々な職種と、 医師とのコミュニケーションにかかるコストが膨大になる。 このコストが、ベッド数で15%もの損失を生んでいる。

400床の病院であれば、通常は400人の入院患者さんを診察しきるだけのスタッフを雇っている。 コミュニケーションにかかるコストを削減できれば、現状のマンパワーのまま、 もう15%だけは医療組織の処理能力を引き上げることができるかもしれない。

現在の病院内の医者のネットワークというのは、原索動物の神経並に原始的なものだ。 みんな携帯電話を持っている。それでもまだまだ進歩が足りない。

  • 今現在病院内にはどんな病気の専門家がそろっているのか。
  • 誰の時間が空いていて、誰が今困っているのか。
  • 自分が今抱えている患者の問題に対して、その「解答」を知っている医師は誰なのか。

そういったことをリアルタイムで把握するシステムは、今のところ存在しない。

「今その瞬間」に医師が把握できる状況というのは、自分の周りのせいぜい10m程度の範囲だ。 遠くの人が何をやっているのか、そうした情報を把握する手段というのは実質存在しない。 現在の病院組織というところは、スタッフ一人一人がバラバラの細胞 の寄り集まりだ。それはまだまだ「組織」などという高尚なものにはなりえず、 単に人が群れているだけの状態だ。

「神経細胞」に当たるものが存在しない以上、情報の伝達というのは、 「伝言ゲーム」の時代からなんの進歩もしていない。

病院のどこかで、患者が急変して困っている医者がいる。 そのとき同じ瞬間、この病院では10年目クラスの医者が数人、 次の検査前の待ち時間を医局でダラダラ過ごしている。 医療という仕事は、生き物相手だけに空き時間が多い。

医師同士のネットワーク化が進んで、こうしたベテラン医師の空き時間を有効利用できるならば、 同じマンパワーであっても、もうすこし病院の稼働率を上げられるかもしれない。

情報化した軍隊の話

戦国時代。1列に並んだ両群の大将が「突撃!!」の命令を下しても、 実際に突っ込んでいくのは大将の周りの兵隊だけだったのだそうだ。

無線機など無い時代では、隣の人が突撃するのを見て、 「突撃命令が下ったんだな」という情報が伝わっていく。 だから、せっかく1列に並んでいても、敵軍と衝突するのは大将以下の真中の部分だけ。 軍隊の両翼はまだまだ最前線に達しておらず、戦闘に入れない。

こうした状況は最近までほとんど変わっていない。 例えば戦車隊同士の争いなどが起こっても、実際の戦闘現場に駆けつけられる 戦車の数というのは、部隊全体のせいぜい半分なのだそうだ。 残りの半分は、突撃命令が出るのが遅れたり、あるいは 自分の現在位置の確認に手間取ったりして、結局戦闘には間に合わない。

自分と相手の部隊の総数が同じならば、もしも「突撃!」の命令直後、 全軍をその場所に突っ込めるのならば、2倍近い戦力差を ひっくり返せる可能性が出てくる。

軍隊を情報化する試みというのは、湾岸戦争の頃から活発になってきた。 具体的には以下のようなことをやったらしい。

  • 戦車や飛行機にGPSを載せて、現在位置をリアルタイムで確認できるようにした。
  • 兵士もお互い通信するようにした。友軍の残弾がどのくらいなのか、いま攻撃を受けているのかなどをお互い通信しあう。
  • 自分も本部も同じ情報を共有している。作戦の指令が出次第、自分たちが何をすればいいのかが分かる。
  • レーダー機を飛ばして、戦場の「丘の向こう側」の状況が地上からも分かるようにした。このため戦車部隊は、容易に相手の裏をかけるようになった。
  • 兵器もまた、通信系を作るようになった。攻撃する目標が3つ。こちらの飛行機が3機。以前なら、3機の飛行機は、それぞれが3つの目標を狙い。合計9発のミサイルが発射された。現在はお互いの飛行機が通信して、3つの目標に使うミサイルは3本だけ。

こうした通信システムを導入した米国の実験部隊は、本当に2倍近い戦力差をひっくり返したらしい。 もっとも使った機材は故障続出で、まだまだ未完成なものだったそうだが。

病院組織に神経系を実装する

人間の潜在能力というのは、本来の3割ぐらいしか使っていないらしい(北斗の拳の受け売り)。

これを常に全開にしたら発狂するのは目に見えているが、今の人的なネットワークというのは、 人の集団本来の能力の10%も引き出していない。

これを改良して、もう少し生理的なレベルに近づけるだけでも、 稼働率は現状の2倍か3倍だ。このぐらいまでなら、予算もマンパワーも 増すことなく、病院の患者処理能力を上昇できるかもしれない。

今の電子カルテは何の役にも立たない。あれは官僚の仕事が楽になるためのシステムで、 現場で働く人には何の恩恵も与えていない。 必要なのは、官僚の仕事が楽に出来るシステムなどではなく、 病院同士、スタッフ同士のコミュニケーションを円滑に行えるやりかただ。

重症病棟に意味はあるのか

ベッドの稼働率を上げるには、空きベッドをリアルタイムに把握できるようにするだけでは足りない。

病院のベッドというのは「○○病院」という1つの世界ではなく、実際の世界のように、そこには見えない「国境」がある。

小児科という国には内科の患者は入れないし、その逆も然り。「人種」ごとに入っていい国というものが 厳として存在する。国境を越えるためには、友人関係のような、 法律の裏をいくルートをたどらなくてはならない。

病院世界にはもう1つ、「患者重症度」という身分制度がある。内科・外科系のほとんどの患者さんは、「重症患者」という 身分で病院に入り、徐々に症状が軽症化して退院、あるいは「慢性期」というカテゴリーに入り、リハビリ棟に移っていく。

それぞれの重症度に応じて、入院できるベッドというのは決まってくる。重傷の人は軽症ベッドでは管理できないし、 あまりに軽症の人がICUに入ろうものなら、一晩中響くモニターの音で眠れない(慣れるとその音で落ち着けたりする)。

この過程は、生物でいうと摂食=>消化=>吸収=>排泄のようなサイクルに似ている。

小さな動物は、摂食から消化、排泄のサイクルが短い。逆に、大きな動物はこのサイクルが長い。

大きな動物は、消化に時間がかかる。大きな動物が、「腸」のどこかで便秘でもしようものならば、 その間「口」や「胃」に相当するベッドには患者を入れることが出来ない。ICUや重症病棟に入った患者は、軽症病棟に 空きベッドが出来ないと、病気がよくなっても軽症病棟に移れない。重症病棟は良くなった人でいっぱいになり、その間 病院は「満床」になる。

同じベッド数であっても、無数の小さな病院であれば、どこかの病院が渋滞しても、 他の病院がその機能を補間する。律速段階が生じないので効率がいい。 逆に、大きな病院1つであれば、どこかのサイクルに必ず律速段階ができる。 そこが渋滞すると、その地域のベッドの回転は致命的なダメージを受ける。

今の病院システムでは、患者さんの入院する病棟を移すためには、 その患者さんの「重症度」をどう判断するのか、 患者さんを送り出す側と受ける側とで、その認識が一致しないといけない。誰でも楽をしたいから、 患者さんを送り出す側はその人を「軽症である」と判断し、受け入れる側は「重症である」と判断しがちだ。

結果、病棟を移るときにはいつも揉める。病院の回転数は落ち、大きな病院はいつも満床だ。

もともと、重症度ごとに病棟を分けようという発想は、お上から落ちてきたものだ。 昔は40人医者がいれば、病院の中に40個の個人病院があるようなものだった。 自分の受け持ちがICUにはいれば、自分で診る。患者のリハビリも自分でやる。

一人の医者が重症を何人も抱えてドツボっているときは、他の医者が頑張る。 不公平感は、サボっていた医者を飲み会で潰して補う。乱暴だけれど、それなりにうまくいっていた。

そのうちに保険制度が改定される。救急加算。重症ベッド加算。療養型病棟。 こうした保険上の特典の導入は、 入院中の患者さんの中に必要のないカースト制をもたらした。

重症ベッドで重症患者さんを診るのは、 たしかに楽だ。それでも、今の制度はそれがもたらすメリットよりも、 手続きが増えた分の非効率のもたらす 悪影響のほうが上回っている気がする。

自転車操業の成り立たない組織なんて、どう考えても成り立たない。(きっとまだ続きます)

2005.10.05

ベッドはどこへ消えた?

ベッドが足りない

医療はどんどん自由化している。大きな病院、救急を断れないような地域の市中病院というのは、 患者さんの疾患を限定できる専門施設に比べて不利だ。小さくて、小回りの効く施設は、 一番「美味しい」患者さんだけにサービスの対象を絞れるかなうわけがない。

地域の基幹病院。あるいは医療センター構想。あれは最悪だ。 どうやったって不十分なマンパワーしか集められるわけが 無いところに、絶対に逃れられない責任だけはきっちり押し付けられる。 医者は潰れる。自由競争の下、生き残っていく 病院の規模というのは、きっとだんだんと小さくなる。

重症の人。合併症の多い人。寝たきりの高齢者。 誰からも診てもらえない人、行き場の無い患者はこれからもっと増える。

お金は無い。これからもっと足りなくなる。ベッドも人も足りない。 これもまた、今後今以上に増えることも、たぶんありえない。

医療に対する需要はますます増える。それでもない袖は振れない。 需要にこたえるためには、今あるもので何とかするしかない。

稼働率85%の壁

地域の救急病院で研修をしていた頃、救急外来に来た患者さんは、たいてい入院になった。

外来婦長のところには、いつもその日のベッドの状況が報告される。数字の上では、たしかに病棟は 空いている。それでも入院が入らない。数字の上での空きベッドは、実際にその病棟に電話してみると、 なぜかたいてい埋まってしまっている。

病棟稼働率。書類に申請している総ベッド数と、現在使っているベッド数の比率を稼働率という。 これが100%に達したら、本当に満床。こうなったら、もう廊下に移動ベッドを並べるぐらいしか、 入院患者さんをとる方法は無い(本当にこうなったことはある)。

稼働率が100%以下ならば、病院内には絶対に空きベッドはある。 ところが、ベッドの稼働率が85%を超えたあたりから、 統計上のベッド数と、実際の「満床感」との間に差が出てくる。

稼働率が80%を超えてくると、空きベッドを探すのに1時間はかかる。 これが85%になると、空きベッドはまず見つからない。 どこの病棟からも、「取るのは無理です」の返事が返ってくる。

400床で15%の空きといえば、ベッド数で行けば60床。とても大きな数字だ。

現場の空気と、実際の数字との乖離。この幻の60床をめぐって、よく婦長さんと不毛な喧嘩になった。

15%のベッドはどこへ消えた?

ベッドは消えない。ただただコミュニケーションに消費される。

医者一人、ベッド数1の病院ならば、その気になれば常に満床だ。ベッドが空いたら、次の人が入院。 あるいは、次の人が入院するまで、前の人は入院続行。ベッドの裁量権は、常に一人の医者が決定する。

患者さんの都合はさておき、これならばベッドは常に使えるし、また常に稼働率を最大にキープできる。

ベッド数が2つ、医者が2人になったらどうなるだろうか?

2床しかないベッドに2人の患者を入院させようと 思ったら、相方の医者の意見を聞いてみないと分からない。 それでも直接コミュニケーションできるうちは まだ早い。医師が10人、20人と増えると、もはや直接的なコミュニケーションは 取れない。お互いそこまで 暇じゃない。検査もあれば外来もある。医者同士の連絡にはどうしても第3者の仲介が必要になる。 連絡は遅れ、患者さんの重症感、入院を決めた医師の必死さというものは、伝わりにくくなる。

400床の病院に、当時大体40人程度の医師。 どうしてもダブルブッキング、トリプルブッキングの問題が生じ、 そのうち病院内に「縄張り」が出来始めた。

専門病棟の誕生だ。 小児科病棟は、内科の患者はお断り。整形外科も 同様。「汚い」患者、寝たきりの年寄りの誤嚥性肺炎とか、 アルコール中毒とかは、混合病棟の奥に押し込められた。 そこはいつも満床だ。他の病棟に一般内科の患者さんをお願いしようと思ったら、 三顧の礼をもって他科に 頭を下げないと受けてくれない。それだけで1時間だ。 そのベッドは、内科から見れば、実質使い物にならない。 少なくとも、「公式な」ルートで入院をお願いしても、 「内科の患者さんは、うちの病棟ではちょっと…」。

100人がかりで1人を治せるか

一人の医者が一人の患者さんを治療する。何でもできる一人の医者が全部やる。この方法が、 本来もっとも効率がいい。

医者の数が2人になっただけでも、効率は劇的に低下する。 3時間待ちの3分診療の時代。1人の医者にかかるだけ ならば3時間3分ですむところが、大学病院で2人の医者にかかろうと思ったら、それだけで1日がかりになる。

人と人とのコミュニケーションのコストは馬鹿にならない。

同じ患者さんの治療についても、医者が変われば考え方も処方の方針も全く違う。 2人の医者が同時に患者さんに当たるわけには行かない。コミュニケーションは患者さんを介した 伝言ゲームの様相を呈し、かかる時間は2倍では効かない。

医者が増えれば、それだけ病気に関する知識は増える。いいアイデアが出る可能性も高くなるし、 正しい治療が行われる可能性も高くなる。

それでも多人数の医者による治療には限界がある。産科医10人がかりで妊婦さんを診察したところで、 妊娠期間が1ヶ月に短縮されるわけが無い。人数を集約すると、人が増えたせいで増える仕事の 割合がどんどん多くなる。

友人関係は効率の限界を超えられるか?

(某大学の総合診療部に移ることになって)まず最初の1年目にやらなくてはならない仕事は、 1000人の職員と握手することだと思っています

研修を受けた病院から大学の総合診療部に迎えられた先輩医師は、コミュニケーションの問題を 「全職員と友人になる」ことで越えようとしていた。その後どうなったのかは知らない。

紹介状や、婦長を介した連絡といった「公式な」ルートでは、 稼働率85%の壁を越えることは不可能に近い。 規則をいくら厳しくしようと、ルールはルールだ。 ルールを正しく適用する方法が考えやすいのと同じくらい、 ルールの抜け穴を探すのも簡単だ。人の集団をルールで縛るのは難しい。

規則を押し付けられるのではなく、それが友人からの頼まれごとであるならば、少々無理なお願いでも 通してしまうかもしれない。それでも「友人関係」というバイパス経路には無理がある。

  • 友人関係は腐る。何度も使うと、そのうち効かなくなる。
  • 友人関係の頼まれごとは断れない。特にベッドのための「人工の」友人関係ならば、1回断られたら、2度とそのルートを使えなくなる。
  • 行程が2を越えると、友人関係は有効にならない。「友達の友達」からの頼まれごとは、通常無視される。
  • 友人は時間が読めない。もともとがイレギュラーな頼みかただから、催促できない。催促すれば、最悪関係が壊れる。
  • 友人関係は、その維持にコストがかかる。これはホットラインだから、維持するためには使わないときも関係を絶やせない。恒温動物は素早く動けるが、エネルギー消費が多い。変温動物はその点、動かないときはエネルギーが要らない。友人関係でありつづれるには、常に一定のエネルギーが必要になる。

1000人の友人を持った医師は、もしかしたらスーパーマンのような活躍ができるかもしれない。

ところが、実世界で1000人の友人を持った医師は、その維持のために他の仕事が 出来なくなってしまう。ネットワークのハブにはなれても、臨床医にはなれなくなってしまう。 (そのうち続きます。)