2005年9月29日

先生に全てお任せします

医者みたいに生ものを扱う業界では、同じ事をすれば同じ結果が返ってくるとは限らない。 合併症は避けられない。結果責任を求められると、すごくつらい。

人間相手の仕事には、絶対はない。特にそれが、生きる死ぬにかかわってくることならばなおさら。 全力は尽くす。それは職業上の誠意として。それでも、「絶対」はありえない。

美味しい野菜を食べるには

実世界のほとんどの商取引は、結果責任で運営されている。

スーパーでニンジンを買う。3本で100円。

農家の人だって損をしたくないから、3本セットを100セット売れるところには、なんとしてでも100セット 納入する。不作の年で50セットしか作れなかったら、売上は半分だ。

収入が不安定になるのは、農家にとっては非常につらい。不確定要素を減らすために、畑には化学肥料が突っ込まれ、農薬が撒かれる。

消費する側としては、できれば無農薬、有機栽培(その是非はともかく)の野菜がほしい。それでも、農家にとってはそんな製品を作るのはギャンブルだ。農家の人が「自分用」に趣味で作ったもの以外、本当に無農薬の農産物が市場に出回るのかどうかなんて、あやしいものだ。

無農薬の野菜を確実に手に入れたかったら、農家と契約を結べばいい。要点はこうだ。

  • 今までは、出来上がった野菜に対して報酬を支払った。不作のリスクは農家もち。
  • 新しい契約は、「1年後の野菜」に対してお金を前払いする。3本のニンジンの代金で、1年後に5本もらえるかしれないし、最悪1本も出来ないかもしれない。そのリスクは消費者もち。

野菜の生産者のほうは、不確定要素を減らすために農薬を投入したりしなくても、不作なら不作なりに、豊作なら豊作なりにその1年分の努力に対する報酬がもらえる。天候や虫害といった不確定要素のリスクは、消費者が分担してくれる。農家は、ただただ美味しい野菜を作ることだけに専念できる。

このシステムだと、全く働かなくても1年分の収入が確保できる。畑に何も植えなくても、1年後「不作で全滅でした」と契約者に伝えれば、それでも収入は変わらない。こういうズルを避けるため、生産者には消費者サイドへの説明義務が生じる。

例えば1枚の畑に10人の消費者が契約したとして、10人は交代で農家を見張る。農家は、消費者から求められたとき、自分が何をしているのか、今どうなっているのかを説明する義務がある。このあたりの信頼関係、あるいは穏やかな相互不信の関係が保たれていれば、この契約はお互いがそこそこ幸せになれる。

昔の生協は結構上手くやっていた

今は「生協」というのはそれ自体がブランドになってしまったけれど、出来たばかりの生活協同組合というのは、上記のような契約システムを地場でやっていた。

小学生だった頃、地元の生協で食パンを作ったことがある。地元のをばさま方のつてで、どこかのパン職人と数十人の主婦の人たちが契約を結んだらしい。

最初の頃はあまり美味しいパンは焼けなかったらしいが、生協はその食パンを購入しつづけ、同時に小麦粉はこれで、酵母はこれで、とあれこれ要望を出しつづけたそうだ。近所のおば様たちから徹底的にいじめ、もとい鍛え上げられたそのパン職人の人はすごい腕前になり、そのうち安いのにとんでもなく美味しい食パンが食卓に上るようになった。

そのうち、あまりにも厳しい要望に疲れたのか、そのパン屋さんはいなくなってしまい、さらに1年ぐらいしてから近所に独立した店を構えて、結構成功していた。パンの値段は倍ぐらいになっていたけれど、やはり美味しいパン屋さんとして近所の人気店になっていた(3年ぐらい経って無くなってしまったけれど)。

医療の分野での農薬や化学肥料

病院の仕事は、不確定要素だらけだ。

論文どおりの治療、あるいは欧米流の「正しい」治療をやれば、 たしかに論文どおりの成功率で治療は成功する。一方で、やはり論文どおりの可能性で、その治療は 一定の割合で失敗する。

たとえ成功率99%の治療であっても、その治療を受ける患者さん、あるいはその治療を行う主治医にとって、「結果」と呼べるのは成功か失敗かのどちらか一方しかない。治療が失敗すれば、弾劾されるのは論文の作者ではなく、主治医だ。

論文どおりに行えば、成功率99%。それでも、その成功可能性がさらに0.1%でも向上するならば、主治医はどんなに姑息な手段も厭わない。

医療の業界で不確定要素を減らす手段、農業での農薬や化学肥料にあたるものというのは、たとえば 深夜だろうが明け方だろうが全身のCTスキャンを撮ってみたり、風邪を引いたぐらいの症状の患者さんに対して、世界中の細菌を殺しかねない広域抗生物質(そういうのに限って、効果的だけれど副作用は少なかったりする)を投与したりといったものだ。

  • CTを撮ると、医療資源の無駄遣いになる。
  • 広域抗生物質を使えば、耐性菌が増えるかもしれない。

医者がこうした「農薬」的な手段に手を出すと、世界のみんなが迷惑する。 だから、「正しい」治療を推進する先生方は滅多にCTを撮らないし、抗生物質はなるべく 「効きの悪い」ものを選択する。

正しい治療を推進する先生方、自分の身内にも同じ事をするのだろうか?もしそうなら尊敬する。 自分はいやだ。

子供が(いないけど)ひどく頭をぶつけたら、夜中であっても技師さんを拝み倒してCTぐらい撮るかもしれない。たとえその行為が予後を変えなくても、やはり不安の解消につながるかもしれない。

広域抗生物質。医者を長くやればやるほど「正しい」治療を行ったときの例外ケースで痛い思いをする。 どんな抗生物質治療のガイドラインも、結局は治療コストと、耐性菌発生のリスクと、抗生物質が「外れた」時のリスクとのバランスで推薦する薬を決めている。ガイドラインは何らかの妥協の産物で、人の生存確率に最適化しているわけではない。

医療の世界で「農薬」に相当する行為を行ったときにでてくる問題は、共有地の悲劇問題のそれに良く似ている。

ある村の中心に、広い共有地があった。村人はこの知の主に羊や牛を放牧するために利用し、 その家 畜の毛を刈り、乳を絞って生計を立てていた。
共有地には管理人はいないので、誰もが自由に利用でき、放牧する羊や牛を増やしたことによって 得られる利益はすべてその飼い主のものになった。 共有地の草はタダなので、羊を増やせば利益が増える。 共有地の草は全て食い尽くされ、家畜は一頭も育たなくなり、村人の生活は損なわれた。村人がせめて分別をもって行動していれば、こうはならなかった。

ある医師が協定違反をすれば、結局は「みんな」が迷惑する。それでも、自分の目の前の患者さんについては、そうした協定違反はむしろメリットになる(かもしれない)。

不利益を受けるのは、常に自分以外の「みんな」と言う正体不明の集団。姿が見えないから、何が問題なのかが見えにくい。

それでもやっぱり、出来れば「正しい」治療をしたい。自分はそういう教育を受けてきた医者だし、 正しい治療というものには、やはり正しいなりのメリットといったものが、たしかに存在すると 一応信じてる。

避けられないリスクをリスクとして受け入れてもらえるものならば。

「全てお任せします」が通用した頃

医者がもっと偉ぶっていて、数か少なかった頃。

「先生に全てお任せします」は当たり前だった。結果責任を追及されることは少なく、 医師は安心して自分の信じる正しい治療を行えた。昔は良かった。

医者の少ない島の病院では、誰かが入院すると、近所の人が交代で泊り込む(数年前はそうだった。今は知らない)。医者も看護師も少ない島の病院。島全体の失業率の高さ。時間の空いている人がたくさんいないと出来ない芸当だけれど、島の病院というのは働きやすかった。

検温や簡単な記録は、泊り込んでいる人が取ってくれるし、患者さんに何か問題があれば、すぐに呼んでくれる。派遣されてきた研修医ふぜいであっても、何とか病院をまわしていけた。

今思うと、あれはどうしようもない医者でもそれなりに役立てるための、地元の人たちの自己防衛にもなっていたのだろうけれど、島の病院の穏やかな相互不信の関係というのは、医師と患者とのお互いが、結構幸せになれるヒントがあったような気がする。

道を外したのは、やはり医療者側だったのだろう。「患者は医師に由らしむべし。医療を知らしむべからず」をやって、ある時期突っ張りとおしてしまったから、あやしげな「医療評論家」の跋扈を許してしまい、お互いの信頼関係を潰してしまった。インフォームドコンセントという言葉、大っ嫌いなのだけれど、あれを医者側から切り出せていれば、その後はずいぶん違った展開になったように思う。

今からでも、舵の切りなおしというのは可能なのだろうか。ネットの力というのは、バラバラになってしまった2者をつなげる助けにはならないのだろうか。

明日もムンテラだ…。

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2005年9月24日

魂消える演劇というもの

演劇を見るのもやるのも恥ずかしかったのは小学生の頃。

作り話を楽しまず、斜に構えるのはかっこいいことだった。空気の読めない子供はせっかくのライブ演劇(昔は3ヶ月に1回ぐらい、体育館に劇団が来てくれた)を楽しまず、奇声をあげたり歩き回ったりして、教師の人を困らせていたらしい。

演者と観客とのお約束

実世界に仮想空間を作り出す演劇を楽しむには、劇団と観客との間には守らなくてはならない「お約束」がある。

背景がなぜ手書きの絵なのか。俳優の人は、なぜああも大げさな動作をするのか。無粋な突っ込みはいくらでも入れられる。それでもそんなことをしてはいけない。演劇は、突っ込むよりも楽しんだほうがずっと幸せになれる。空気が読めない子供には、素直に演劇を楽しむことができない。

外来診療。あれだって、一種の演劇的な空間だ。医者は医者の役を演じてる。患者さんは観客として、白衣を着た奴の一挙一動を楽しむ。聴診器を近づけるだけで大泣きなんてしないでほしい。まあ無理もないけど。

子供にはアニメ映画でも見せておけばいい。アニメのスクリーンの中は、そもそもが全て異世界だから、そこで表現されるものはそのまま受け入れるしかない。映画も同様。SFX全盛の昨今、どんなにありえない設定でも、いくらでも写実的な表現が可能だ。そこには何の「お約束」も必要ない。見て楽しめれば、それでいい。

それでも舞台は面白い

どんなにお金をかけて作りこんだ舞台美術だって、ハリウッド映画のそれに比べればどうしても見劣りはする。役者の動作だって、演じるのは人だ。CG使い放題の映画に比べれば、「演じるのが重力下の人類」という制約からは、どうしても逃れられない。

それでも舞台は面白い。演出にさえ乗れれば、その感激は映画以上だ。

演劇を見て感激する時、その人の感覚というのは映画以上に鋭くなっている。その原動力となるのは、想定外の出来事に遭遇したときの意識の鋭敏化だ。

映像メディアというのは、「スクリーンの中ではなんでも起こりうる」という、映画を作る人にとってはあまり面白くない約束が、観客と製作者の間に成立してしまっている。

映画の製作者がどんなにがんばっても、もはや映像のすごさで客を感激させるのは難しい。信じられない映像を見せられて、観客は一瞬びっくりするかもしれない。それでも映画の世界では、監督の考えた「想定外の映像」は、すべて観客の「想定内」だ。その驚きは長続きしない。

どんなに奇抜な発想でも映像化できるにもかかわらず、映画というメディアは、映画監督側に不利なルールだ。

演劇は公平だ。観客と劇団側の条件は対等になる。どちらの住処も実世界である以上、観客にも演者にも、実世界のルールが適用される。演者の動作が観客の想定を外れたら、そのときは常に演者の勝ちだ。

演劇は実世界のルールに縛られる。一方で、ルールが決まっているからこそ、演者にも観客に勝つチャンスが平等に転がっている。

舞台演出という魔法

演劇で観客から「想定外」を引っ張り出すには、様々な方法がある(全部劇団四季…それしか知らない)。

  • 「オペラ座の怪人」の冒頭、オークションの666番、オペラ座のシャンデリアが出品されるところから舞台が始まる。出品されたシャンデリアが突如点滅をはじめ、不気味な不協和音とともに左右にゆれながら天上へと上っていくとき、舞台のほうではオークションが片付けられ、19世紀末のオペラ座の舞台へと変わっている。天井に視線が釘付けになった観客が舞台へと視線を戻すと、すでに全く違った世界がそこにある。

  • ミュージカル「キャッツ」の後半、見事な踊りを披露した手品師猫ミストフェリーズは、自分に当たったスポットライトをだんだんと小さくしていく。舞台全体を照らしていたスポットライトはただ一匹の猫を照らすだけになり、さらにミストフェリーズの顔だけが暗闇に浮かぶようになり…。最後は手品師猫が「フッ」と一息すると、舞台は真っ暗になり、次の瞬間妖精猫シラバブの「メモリーズ」独唱が始まる。舞台中で踊っていたほかの猫は、暗闇の中でいつのまにかシラバブを囲むように座っている。このときの舞台の変化は、本当にミストフェリーズに魔法をかけられたような気分になる。

視線の誘導は、強力な演出技術だ。

実世界での人間の視野というのは、非常に広い。とくに対象が動くものなら、背後から近づきでもしない限りは、たいていのものは見逃さない。演劇では、演出家は観客の視線を巧妙に誘導する。誘導された視線をホームポジションに戻したとき、「見て」いたはずの舞台は、見たこともない情景へとすり替わっている。普段自信を持っているはずの視野が裏切られるから、そこに想定外の自体が生じる。

大きなものを見せられたり、大きな歌声を聞くだけでも、舞台という場所では観客の想定外を引き出すことが出来る。「ライオンキング」のオープニングの歩く象。「ミス・サイゴン」で空から降ってくる本物のヘリコプター。こうした演出は、舞台に呑まれた状況でそれを見せられると、一瞬頭の中が白くなる。

頭を白くする想定外の事態

自分の想定外の情報が頭に突っ込まれると、一瞬頭の中が真っ白になる。

頭の中の意識を構成しているのは、様々な経験や学習をつんだ脳内の「小人さん」達のネットワークだ。

想定外の情報が頭に突っ込まれると、このネットワークは一瞬落ちる。落ちた後、そのネットワークはかつて経験した似たような状況を経験した「小人さん」が再起動し、未知の状況に対応しようとする。再起動直後に動けるのはその小人だけだから、ショックから立ち直った直後の人は、しばしば過去の動作を機械的に繰り返す。

同じ想定外の自体であっても、それが全く経験したことのないものであれば、どの小人も動けない。このとき、頭は全神経を投入して事態の推移を見守る。意識は思考停止し、どんな概念でも素直に受け入れる。

驚きの繰り返しは感動閾値を下げる

想定外の事態というのは、一瞬ではあるが、意識をシャットダウンする。もちろんそれはすぐに再起動されるが、シャットダウンを食らうたびに、目を覚ます「小人さん」の数は減る。

大昔のゲームセンターでは、電源コンセントの抜き差しを繰り返すとありえない数のクレジットが表示されて、いつまでもただで遊べた。頭もまた、短い時間で何度も想定外の情報を突っ込まれると、意識のガードはだんだんと下がる。物語の終盤、何度もシャットダウンと再起動とを繰り返された観客の頭は、演技者の意図を無批判に受け入れるようになる。

演劇では、こうした想定外の驚きの演出が、劇中に何度も繰り返される。巧妙に仕組まれた演劇では、劇場に入ったときからもう想定外が始まっている。驚きを繰り返すうちに観客は素直になり、ただでさえ盛り上がる話は非常な感動を生む。ある意味、カルト団体の洗脳手段と全く同じだ。

内科外来での演出手法

外来で話の長い患者さんの話を打ち切りたいとき、興味のないふりなどしたら、かえって患者さんの話は長くなる。かといって、「黙ってください」などと面と向かって言い出すのは、プロとしては最悪の選択だ。

こんなとき、手元の聴診器をわずかに持ち上げ、じっとしていると、相手の意識は「この医者何かするのかな?」ということに集中して、話が止まる。うまく仕事をはじめられたりする。

内科の外来で、聴診という行為の診断価値は年々薄れてしまっているが、聴診器は相変わらず便利な道具だ。何をしていいのか分からないときの時間稼ぎ。耳の遠い患者さんの補聴器の代わり。そして、患者さんの視線誘導デバイスとしての使いかた。レジデントをぶん殴る武器にしている著名な先生もいる。

実世界では、世界の道理をはずした状況を作り出せれば、相手の思考をある程度コントロールできる。ならば、まだ実世界の道理のわからない奴に想定外状況を突っ込むにはどうすればいいのか。

獣医さんが犬に注射をする場合、目に息を吹き付ける。次の瞬間、犬は一瞬だけ動作を止めるのでそのときに注射をしたり、診察をしたりするらしい。

なじみの獣医さんからこの方法を聞いた頃、夜間の小児外来で子供に試したことがある。医者が目に息を吹くという状況は、その子供にとっては確かに想定外の出来事だったらしい。で、そこは子供らしく、「突然の大泣き」という、駆け出しの医者にとって全く想定外の反応で返されて往生した。翌朝、小児科部長にむちゃくちゃ怒られたのを覚えている。

まだ演出家への道は遠い。

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2005年9月21日

中国にいってきた

夏休み

動機は単純。パンダを見に行こう。

準備なんか何も考えていなかった。

先の読めない仕事。遠い先の予定をいれると、 予定直前になったとき、締め切り効果で判断ミスの可能性が増える。

幸い、現地のガイドさんにはつてがあった。「いつでも大丈夫ですよ。」との力強い返事。 信じた自分たちが馬鹿だった。

航空券は、直行便が一杯。上海で中国の国内線に乗り換えるルートが、何とか空いていた。

割引がないから高いけれど、ツアーじゃないから、これは仕方がない。

なんとか休みが見えてきた1週間前。ガイドさんからメール。「別な仕事が入りました。残念です。

なんだよそれ。

中国語なんてもちろんできないし、行くのは奥地だ。ガイドと車がないと、話にならない。 慌てて中国の交通公社(何も考えずに日本語でしゃべり出すと、日本語ができる人に代わってくれる)に電話しても、当然誰も空いていなかった。結局、元のガイドさんの身内、 現在休職中の人がいるというので、その方にガイドをお願いする。

大丈夫か?自分達。

往路は最悪

上海までは普通に到着。そこから国内線を乗り継いで、国内の某市へ。

上海空港は日本語が通じるという噂は嘘だった(国際線なら日本人の航空会社の人がいた)。 片言の英語と筆談のみで何とか受け付け通過。乗るはずの飛行機には「delay」のシンプルな文字。2時間待ちで乗り継げるはずが、最低でも6時間待ち。目の前が暗くなった。

上海についたのは夕方。英語のアナウンスが入るうちはまだよかった。夜も22時を回るころには、アナウンスは中国語のみ。飛ぶはずの飛行機はまた遅れ、待合ロビーは殺気立つ 現地の人の群れ。

言葉はわからなくても、悪意は国境を超える。

20人ぐらいの乗客が空港スタッフにつかみかかっていれば、何を話しているのかは大体分かる。スタッフにチケットを投げつけている人がいる。金返せって言ってんだろうな…。言葉がわからないから外に出ることもできず、情けないけれど待つしかなかった。

24時を回る寸前、空港スタッフがクラッカーを配り始める。結局徹夜かよ…。

唯一の命綱は、現地のガイドさんとの携帯電話だけだった。日本語が話せる唯一の機会。 めちゃくちゃにありがたかった。電波は相当に悪かったけれど。

飛行機が飛んだのは1時近く。現地到着は4時。待っててくれたガイドさんに謝り倒して、 とりあえずホテルへ。もう電池切れ寸前。現地仕様のホテル。廊下の天井板はすべて抜けていた。チェックインして朝の5時、それでも怪しいマッサージのサービス電話はかかってくる(必ずあるらしい)。向こうは中国語。こちらは片言の英語と、日本語。コミュニケーション不成立で、黙って電話を切る。酒とデパス(常備)飲んで、スイッチ切って寝た。散々な1日目。中国が嫌いになった。

動物園へ

翌朝はみんな徹夜明けの表情。朝のかなり遅い時間に出発。パンダの繁殖施設まで、 市内から車で4時間。ガイドさんが運転。後部座席に自分達2人。

ガイドをしてくれた方は、旅行会社の社長さんだった。仕事がなくて休職中というよりは、出社しなくても電話で何とかなるからなんだと。経営している会社は話に出てくる中だけで3つ。資本参加している企業、いっぱい。日本語と英語、中国語の3カ国語はペラペラ。政府関係者にコネクション多数。

誰だよこんな人紹介したの。

東京と見まごう大都会から1時間も走れば、もう山の中だ。中国は、都市部と農村部とのギャップが激しい。都市部を出れば、道路沿いの家はすべて日干し煉瓦造り。窓はただの穴。床は土。やたらと緑の多いイラクみたいな風景が、延々と続く。

農村部の道は2車線。信号は一つもない。交通ルールもない。自分がルールを守っていても、無事に走れる保証はない。みんな、平気で対抗車線を突っ走ってくる。4時間の道中、正面衝突の事故が2件。一瞬涅槃が見えたことが数回。見通しいい直線道路での出来事。

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道中、どう考えても渋滞などありえない直線道路で、1時間近く交通がストップ。原因は、軍人の車が車線を譲ろうとしない(もちろん対向車線だ…)ためだった。この国では、警察と、軍属と、政治家の車には道路交通法が適用されない。駐車違反しようが、信号無視しようが、まったく自由。で、交通ルールを一番守らないのもこういう人達。だから、日本ではありえない状況で車が動かなくなる。時間は読めない。

現地に到着。すぐパンダと遊ぶ。目の前のご馳走はすぐに食べないと。先の見えない状況ではなおさら。

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ほらね。お金とコネさえあれば、こんなことだってできる。子パンダにかまれて腕にあざができた。パンダの肉球は柔らかかった。中国万歳。

この施設には少しだけコネがある。

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施設前の寄付者の石碑。自慢させてもらうと、うちの斜め上は黒柳哲子だ。寄付した金額は、たぶん2ケタ以上違うけれど。

コネクションのある人間には、この国は本当に寛大だ。

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普段非公開の、生まれたばかり(2週間)のパンダ。大体実物大。

写真撮影は断られたけれど、生まれたばかりの子供を世話する母パンダも目の前で見せてくれた。人とパンダとの距離は近い。手を伸ばせば余裕で触れる。日本の動物園とは比べ物にならない。

後はもう、時間の許す限りパンダ、パンダ…。写真は全部うちの里子。現地宿泊。翌日も同じ。

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帰り道

隣の人が酔ってしまったので、ナウゼリンとデパスでお休みしてもらう。

ガイドの人と2人、話題は「政治」だ。鄧小平が云々。文化大革命とは何だったのか。スリリングな話題で3時間はあっという間。

面白かった話題をいくつか。

  • 文化大革命については、現在では「失敗だった」と公言しても大丈夫らしい。天安門事件についての話題は、まだあまり語られる雰囲気になっていない。

  • 鄧小平という人物は、天安門事件で変な形で有名になってしまったけれど、人生トータルで評価すると、成功した政治家として肯定的に評価されている。

  • 天安門事件の評価はまだ定まっていないけれど、あれ以後中国の開放は進み、中国は毎年10%近い成長率(評価の基準は分からない)維持している。SARS騒動や、最近の抗日デモといった事件は、こうした成長率には心配したほどには影響しなかった。

  • テレビが普及して、中国語は共通語ひとつにほぼ統一された。テレビ番組は字幕といっしょに放映されるので、今では地方のお年よりでも共通語をしゃべる。鄧小平が公式の場でも四川の言葉でしゃべっていた影響もあり、共通語には四川の言葉の発音がかなり入っている。

  • 株式投資は盛ん。それでも、国外の人が中国株でもうけるのは無理。中国人は、株式で利益を出そうと考えたら、まずは政府要人、投資会社の人を交えた「食事会」を開く。その席で、どんな株を買うのか、目標とする利益はどのくらいを目指すのかを打ち合わせる。知っている人は、確実にもうけが出る。一方、知らない人は絶対に損をする。

  • コネクションのある人は、株価をある程度操作できる。だから、利益を分配したいときには、株を利用して特定の人にお金を移動することができる。コネクションのない人は、もちろん参加できない。

  • 仕事柄、友達同士(ベンチャー企業の経営仲間らしい)で世界中を旅行するが、今ブームなのは秘境。チベットの奥地とか、シルクロードをラクダで旅するとか。どこに行っても、中国の共通語は通じる。

  • 都市部と農村部との収入の乖離は大きな問題になっている。所得の格差だけでなく、農村で働く人が馬鹿らしくなってしまい、どんどん都市部に流入している。農作物の生産高がだんだん減っている。農村部には、老人と子供しか残らず、若者は都市に流入する。その割には、治安は悪くない。夜中でも、女性は一人で歩ける。

一部「犯罪?」と思うところもあったが、黙ってた。小泉政権が大勝したことは中国でも話題になっていた。小泉支持だと答えたら、ガイドさんの笑顔が翳った。

都市に戻って観光。夜は劇場へ。

演劇は、中国では非常に人気がある。かなり前から予約を入れないと、席はすぐに埋まってしまう。当日席なんてもってのほか。それなのに、なぜか「たまたま」最前列の席が空いていた。写真取り放題。役者さんが舞台から降りてきて、握手してくれた。

ガイドさんと劇場の支配人の人は、友達同士らしい。その人が気を利かせてくれて、2人分の予約をキャンセルしてくれた。追い出された元の予約の人、ご愁傷様。中国最高

帰国はスムーズ。初めての海外旅行にしては、結構満足。

思ったこと

中国という国は、今も昔もコネが全てだ。今回ガイドしてくれた方は、普段は個人のガイドなど引き受けない方。身内から頼まれたから、ガイドをかってくれて、個人の旅行者に様様な便宜をはかってくれた。

年齢は自分よりも少し上。ちょうど天安門事件の時の大学生。

解放前の中国の大学生というのは、政府のエリートへの道が確定していた。職業選択の幅は少ないものの、成功は約束されていたという。

天安門事件前の中国というのは、文化大革命以後の恐怖が薄れてきた頃。鄧小平は開放のされた中国を象徴する政治家だった。殺される心配もなく、安心して中国政府批判ができる時代というのは、当時は画期的なことだったらしい。

天安門事件、学生はまさか殺されるとは思ってもいなかったらしい。信用していた政府は裏切った。

裏切り者は政府だけでなく、身内にもいた。当時の学生側のリーダー、柴玲。この人は、インタビューに答えてこんなことを言っている。

「政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、民衆は目覚めない。だけれど、私は殺されたくないので逃げます。」

ぎりぎりまで譲歩していたのは政府側。流血を求めて学生を止めなかったのは、学生の指導者。実際に流血沙汰になったとき、当の学生指導者はアメリカに逃亡した。

中国の政治の歴史というのは、三国志の時代から変わることのない、裏切りと殺しあいの歴史だ。虐待された側は、次の瞬間には虐待する側となり、「負け組み」についた奴は本当に殺される。文化大革命時代まではずっとそうだった。毛沢東の死後、一度は落ち着き始めた政治。そして天安門事件。歴史はまた繰り返す。

裏切りは人を不安にする。天安門事件世代の人達は、ごく少数の「身内」以外の人に対しては非常にドライなのだそうだ。長期間の契約とか、安定した未来といったものを信じない人達の社会というのは、どうしたってコネクション優先の社会になる。

天安門事件の頃に大学生だった人達は、本物のエリートだ。政府筋にコネクションが多数あるから、成功すべくして成功する。証券取引所というのは、こうした人達にとってはギャンブルの場所ではなく、ただの貯金箱だ。必要なお金は、非常に少ないリスクで引き出せる。

コネクションの効く社会はすばらしい。コネのある人にとっては、安心してチャレンジできる社会。新しい会社はどんどんできる。政府もそれを応援する。社会は発達し、国は途方もない速度で成長を続ける。

コネクションの効く社会は、一方でそうしたものを持っていない人には、全くチャンスのない社会だ。どんなに優秀な人であろうと、社会には厳とした階級が存在する。「身内」になれない人にはチャレンジする機会は一生巡ってこず、常に搾取される側にしか回れない。

日本だって遠からず、そうした社会に戻る。

中国は大きい。小泉自民党がどんなに突っ張ったところで、国の基礎体力が違いすぎる。日本柔道の至宝、野村忠宏がどんなに強くても、やはり軽量級だ。凶器を持ったヒョードルとノールールで戦えば、やっぱり大怪我するだろう?

10年後ぐらい。成長した中国。日本は、国は残るかもしれない。それでも社会制度は中国化する。そんな気がする。

コネを持っているということは、ずるいことだ。持ってない人から見れば、あまりにも理不尽な競争を強いられる。だからこそ、一度コネクションをつかんだ人は、絶対にそれを離そうとしないし、コネクションが力を発揮する競争のルールは、「健全な」方向に戻ることは絶対にない。

人と人とのコミュニケーションに要するコストが劇的に下がったネットワーク社会。増大するコミュニケーショントラフィックの中で、重要なものとそうでないものとを選別するのは、結局のところ「誰かの知り合いかどうか」が全てだ。

知り合いでない人の中にも、もしかしたら素晴らしい人物が隠れているかもしれない。それでも、1人の人間が付き合える人間の数は限られる。それならば、知り合いの紹介してくれた人のほうが、歩留まりは高い。コネ社会への流れというのは一方向性で、戦争や革命でも起きない限り(中国は、両方を経てもやはりコネ社会だ)、時計が逆に回ることはない。

初めての海外旅行。たまたまいい人にめぐり合えた。とりあえず日本の贈り物を探して、中国語会話を練習しようと思った。

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2005年9月12日

消毒された世界

子供の頃のお祭りは面白かった

子供の頃の夏祭りは、特別な空間だった。

熱心に踊る人。色とりどりのテキ屋の屋台。酔っ払った大人。 暗闇のなかに照らし出される、盆踊りのやぐら。

暗い夜は慣れていた。当時の小学生は、塾通いは当たり前。電車に乗って、帰宅は10時過ぎなんていう同級生はゴロゴロいた。地元の駄菓子屋では、小学生でも平気で火薬を買えた頃。塾帰りの夜中、同級生でつるんでは、近所の民家を爆竹やロケット花火で「襲撃」して遊んでいた空気の読めないガキにとっても、お祭りの夜というのはなにか神妙な空気になったものだ。

伝統など何もない地域。新しく作られたベッドタウンだけに人は多かったけれど、その土地に伝えられた「踊り」も、「口説き」もない、スピーカーでドラえもん音頭が流されるだけの、何の風情もない盆踊りの祭り。それでも、大切なお祭りだった。

お祭りの場というのは特別なところだ。同じ公園なのに、普段とは違った空気。高揚して、少しだけ厳粛になる大人。

深夜まで続く盆踊りの会場というのは、照明がわずかでも外れると、その場所は真っ暗になる。普段遊びなれた公園や広場。どこに何があるのかは子供なりに把握しているつもりだったのが、光と闇のコントラストがはっきりするだけで、暗がりがとても恐ろしげな場所に見えてくる。慣れていた場所が、祭りがあるときだけは全く違った空間になる。ガキなりにドキドキしていた感覚。

消毒されて滅んだ祭り

おかしくなったのは、地元のPTAの発言力が強くなってからだ。

日教組全盛の頃。担任の先生は、ストライキで年に1回は必ず授業を休んだ。この頃、ヤクザ排斥のためなのか、祭りの場所からテキ屋の人たちがいなくなった。屋台は全て、自治会主催の「健全な」ものに変わった。

祭りはつまらなくなった。屋台をやっているのは、みんなのお父さんや、お母さん。祭りは「みんなのもの」になり、健全になり、消毒された。恐ろしげだった祭りの夜の闇は、もはや日常の延長に成り果てた。盆踊りは盛り下がり、今ではもう行われていない。

高揚感は多様性に宿る

お祭りの夜の高揚感というのは、同じ場所にいろいろな価値観の人が雑多に集まる興奮だ。

踊りたい人。祈りたい人。儲けたい人。楽しみたい人。

価値観の違う人、空気を共有できない人というのは、日常の社会では同じ場所にはいられない。会話にならないし、価値観がかち合えば、喧嘩になる。

祭りの夜にはその日が「祭りだ」というだけで、何でもありになる。

別に祭りになったからといって、一般人とテキ屋の人たちが肩組んで親友になるわけじゃない。それでも祭りは特別だ。普段ならすれ違うこともないような人たちが同じ場所に集まってくる、あのごちゃごちゃした感じ。日常の延長では近づけないような空気の人たちでも、祭りの日なら何とかなりそうな独特の予感。そういった普段ならありえない感覚というのは、やはりお祭りの夜ならではだ。

夏祭り。とくに盆踊りのお祭りは、もともとは神送りの行事だ。

この世に来てくれた神や精霊を迎え、もてなし、送り出す。お盆という特別な時間の最終段階、迎えた精霊を再び送り出す行事にあたるのが、盆踊りのもともとの意味だ。

小学生の頃、市の親善使節(外面だけは良かった役得)で東北の某村にホームステイに行ったときに見せてもらった盆踊りは、宗教行事本来の色が濃く残っていた。

地元の人が竹で組んだ低いやぐらの上は、太鼓と笛のみ。スピーカーや録音の音頭なんてヌルい道具立ては一切用いられることなく、そんなに広くはない広くない広場には、50人ぐらいの大人と子供。みんな声を張り上げ、思い思いの格好で踊りの輪に加わる。
聞いたこともない拍子。1分間ぐらいの短い音楽が延々と繰り返される中で、踊りの輪は止むことなく深夜まで続く。

踊りはコンテスト型式になっていた。どんな採点方法なんだか、「ゴリラ女」と称する、ピンクの ワンピースにゴリラのマスクをかぶったの人が、2位になっていたのを覚えている。

古式だろうが現代風だろうが、それが祭りなら、やはり楽しい。

宗教行事は息が詰まる。空気の読めない子供がはしゃいでも、お祭りなら笑って流されるけれど、宗教行事なら殴られる。

祭りは別だ。昔ながらの型式の盆踊りだって、実際にはそんなに宗教的に運営されてるわけじゃない。どんなお祭りにだって、祭りの輪の片隅では、必ず係員のおじさんがビール飲みながらニヤニヤしてる光景があるし、盆踊りを神社の境内でやっている自治体も、結構ある。

全てを飲み込む多神という概念

神社で盆踊りというのは、イラクのモスクでゴスペルを歌うようなもので、本当なら宗教戦争が起きても不思議じゃない。

それでも日本では許される。もちろんそうしたルール違反が洒落にならない宗教行事も多いけれど、「お祭り」という型式ばらない行事ならば、何をやっても許される。

日本の「祭り」というものは、多神を信奉する人たちがはじめたからだ。

多神を信奉するということは、いろいろな価値観に等しく敬意を払うということだ。

一神教の教義や、無神論者の教義というものは逆だ。自分達の信じる価値観以外、どんな価値観も等しく見下す。自分の地元の祭りを消毒して、祭りをつまらなくした人たちは、まさにこうした人たちだった。

多神を信奉する立場の人は、その立場上、一神教を信じる人たちには逆らえない。

多神論者は、いろいろな考えかたがあってもいいと思っているから、意見の対立を好まない。戦いを「ネタ」として好むことはあっても、本気でやろうとはしない。

一神教を信じる人たちは、自分達以外は全て「下」だから、声高に自分達の考えを主張する。一神教徒の戦いには、優劣の決着が必須だ。どちらかが消えるまで争いを止めないから、多神を信奉する人たちは別の場所に避難する。結果、そのエリアには一神教を信じる人以外は残らなくなる。

世界は一神教の教義に消毒される。別の考えを持つ立場の人たちは、その協議によって存在を否定され、世界からは「いないこと」にされる。本当は、しっかりと別の場所に存在してはいるのだけれど。

同じ教義に支配された世界では、祭りというものが成立しない。祭りの空気を作っているのは、多様な価値観が同じ時間、同じ空間に集まって生じたエネルギーだ。皆が同じ価値観でしゃべっていても、それは日常の延長になりこそすれ、絶対に「祭り」にはなりえない。

消毒されつつあるネット空間

そして俺自身ジレンマに陥っているのは、こうした変化は(俺の感情とは逆に)本来歓迎すべき事であると自覚している点です。インターネットは年々健全な住みよい空間になってきつつあります。これは実生活ではモラルだとか道徳だとかを口やかましく言っている俺としては喜ばしい筈なんだけど、なぜか喜べない。なぜか、インターネットにはゴミ溜めみたいな部分が残っていて欲しいと願っているのです。 元ORJPの隠れ家より引用

ネットにつなぎ始めた頃、ネット空間というのは毎日がお祭りのような空気だった。見たこともない話や映像。あやしげなページや掲示板。不用意にリンクを踏んではnukeを食らったこともあったし、ハードディスクを消されたこともあったけれど、アングラなページをのぞく楽しさというのは、昔のお祭りの夜、真っ暗な公園の暗闇をのぞくときのわくわくした感じそのものだった。

今、ネット空間も実社会のモラルで消毒されつつある。本当はそんなことはなく、アングラだった人たちは、検索エンジンの影で今でも同じように活動しているのだけれど、一応表社会からは「消えた」ことになっている。

社会的に正しい倫理で社会を消毒すれば、アングラな雑菌は消える。それはもう確実に。間違いなく。「正しい」価値観というのは、同時に他の価値観を否定してしまう。世界の価値観が1つしかなくなれば、そこは日常の延長となり、世界からは祭りが消える。

田代祭り。荒らし大戦。韓日掲示板戦争。2ちゃんねる閉鎖騒動。

倫理的な是非はともかく、こうした非日常的な「祭り」がおきるとわくわくする。自分が参加していなくても、こんなことをやる連中が同じネット上にいるというだけで、ネットという世界が魅力的に見える。

自分のWebにも、使いもしないドールリカがまだ置いてある。今はもはや博物館行きに近いスクリプトだけれど、こんなものを日常的に使っていた時代がこのまま昔話になってしまうなら、やはりネットという世界は確実につまらなくなる方向に向かっているのだと思う。

ネットに実世界の倫理を持ち込んだ人たちが勝利したとき、その空間にはどんな非日常性があるのだろう。祭りを待つ高揚感も、祭りの後の寂しさもない、そんな消毒された空間に、一体何を求めるのだろう?

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2005年9月 1日

カオスの縁を目指したフォースの意思

ジェダイの騎士はなぜ弱いのか

ジェダイは弱い。どうしようもなく弱い。

正義が勝てる場面は何回もあった。さっさと議長を殺害できれば。 クローン軍の契約を打ち切って、もっと別の方法を探れれば。

ヨーダのやっていたことは、水戸黄門と同じ。

無敵に近い力。正確無比な情報。そうしたものを常に手にしながら、無能な老人は「もう少し様子を見ましょう」の一言で状況を悪化させる。

ジェダイは修行する。その修行というのは、少なくともカウンセラーとしての 素養を磨くのには役に立たないらしい。アナキンが自分の悪夢をヨーダに 相談したときの答えは、「もっと修行しろ」。

フォースの意思が「正義を世界に広める」ことにあるのならば、 その意思の代弁者たるジェダイの力はあまりに貧相で、行き当たりばったり。

物語では、最終的には正義が勝つ。その代わり、ジェダイはほとんど滅びかけ、 帝国は滅亡。世界は戦争で荒廃して、また1からやり直し。

フォースは、本当にこんな結末を望んでいたのだろうか?

対立していたのは何なのか

スターウォーズという作品を善悪の対決の物語と考えた場合、 ジェダイの不甲斐なさというのはちょっと理解に苦しむ。

ジェダイはあまりにも弱い。フォース自身ががそうであることを望んでいるとしか考えられないほどに。

スターウォーズ世界で対立しているのは、「善」と「悪」という単純なものではない。

この物語で対立しているのは、「部分からの創発」と「全体からの秩序」という、進化の2つの方向だ。

世界の秩序というのは、全てが乱れたカオスの状態と、全てが均衡した安定した状態との間を行き来する。完全なカオスの状態は、何も生まない。乱れきった世界にわずかずつ秩序が出来上がって、「カオスの縁」と呼ばれる状態にまで達すると、今まで何も無かった世界に、様々なものが生まれてくる。

カオスの縁では、世界は常に小さな破壊と創生とを繰り返す。 世界の様々な場所で「自己組織化」が生じ、様々な形の「構造」が生まれる。

カオスの縁での構造は長続きしない。世界のエネルギーが熱いままだから、 出来上がった構造もまた崩れ、別の場所にまた新しい構造が創造される。

世界のエネルギーが減少していくと、出来上がった構造は、徐々に周囲を巻き込んで巨大化していく。世界は動かなくなり安定化する。冷えて秩序だった世界は安定している。その代わり、新しい構造を生む余地は無くなる。

  • 破壊と創造とを繰り返す、カオスの縁
  • 秩序が支配する、安定した世界

全くの「無」、カオスであった世界に秩序が生まれ、フォースが生まれた。それが意思をもてるほど巨大なものに成長したとき、その目に見えた世界は「カオスの縁」だった。世界が徐々に秩序への道を歩み始めたとき、フォースの意思はそれを歓迎したのだろうか?

フォースの意思というものが、「善がもたらす宇宙の秩序」などではなく、最初からカオスの縁の状態の維持に向けられていたのならば、ふがいない力しかもてないジェダイの存在理由も分かる気がする。

善であろうが悪であろうが、強すぎる力は世界に秩序をもたらし、多様性を奪う。多様性の失われた世界からは進歩が無くなり、進化の歩みを止めた宇宙は冷えて滅びる。

フォースにとって、大切に思えたのは「世界自体」か「生命」か。

生命というものは、フォースにとっては必ずしも好ましいものではなかったはず。世界に秩序がもたらされれば、世界は安定して生物が増える。有限の世界に増えつづける無限の生物は、やがては癌細胞のように世界を食い尽くす。

放牧された牛に食い尽くされた共有地は、いつか砂漠化して滅んでしまう。世界を豊かなまま維持していくためには、生物の滅びと新たな世界の創生は、必ず必要なプロセス。

増えつづける生命というものが、フォースにとっては世界を食い尽くす癌細胞にしか見えないのならば、 ジェダイが組したフォースの意思というものは、生物社会にとっては必ずしも幸福な未来を意味しない。

生命の声を聞かないジェダイ

進化をするということは、前の世代の到達点を、単なる通過点にしてしまうこと。 その先の道は、試行錯誤で捜すしかない。

試行錯誤には、当然失敗はつきもので、一定割合の犠牲を受け入れない限り、 進化というものはありえない

スターウォーズ世界では、帝国の提示した「安定した秩序」という世界プランに比べて、 ジェダイの提示する「進化を続ける世界」というプランは、あまりにも厳しく犠牲が多い。

ジェダイは結婚をしないし、家族を作らない。そこには同じジェダイとしての信頼はあっても、人間の社会生活に相当する概念が存在しない。ジェダイの騎士にとって、ジェダイ以外の生物というのは、本質的に他人。

ジェダイは特攻する。決して無敵ではない存在なのに、敵地に乗り込むときは常に一人で、案の定窮地に陥ったりする。戦略としては明らかに無茶。ジェダイの騎士は「個」の生存を志向しないから、ああいった戦い方をする。戦力的には十分勝てる戦いであっても、生存可能性を高めるやり方をしないから、あっけなく滅びる。

同じ生物でありながら、ジェダイの騎士という存在は、生物社会からあえて距離をとる。議会にも必要以上に干渉しないし、人々の訴えがあっても、なかなか「社会的に正しい」行動を起こそうとしない。その一方で、どう見ても犠牲者の数が増えそうなクローン戦争などには、進んで参加してみたりする。

ジェダイの行動というのは、常に生物が滅ぶほう、滅ぶほうへと選択されているように見える。

アナキンを除いては。

声あるものは幸いなり

鳴き声を出す鳥を殺すときには、誰もが心が痛む。同じ生き物なのに、声の出ない魚をさばくときには、 心は痛まない。あまつさえ、生け造りなどにして、苦しむ魚を見て喜びさえする。

ジェダイの騎士にとっては、生物は、魚のように声を持たない存在。 「滅び」というものは、魚の生活の一部になっている。弱い魚は他の生き物に食べられて、 それでも種としての魚は進化して、世界は続く。

アナキンが聞いてしまったのは、母の声であり、パドメの声だった。

進化の継続のために必要な犠牲を目の当たりにしたとき、人はそれを受け入れてもなお進化の道を選択できるのだろうか?

スターウォーズは、皇帝陛下とヨーダ、 「安定」と「進化」の2つの選択を代表する力が、運命の子に選択を迫る物語。

「風の谷のナウシカ」のラスト、墓所との対決の場面で、旧世界のオーバーテクノロジーの 産物である「墓所」は、ナウシカに「お前は世界を滅ぼすのか?」と問い、 ナウシカは「滅びは世界の一部だ」と答え、「滅び」を選択した。

生まれたときから特権階級だった彼女は、平民が何人死のうが何万人死のうが知ったこっちゃない。

救世主になろうなんて考える奴は、頭のねじがどこか外れている。 人間が好きなやつには、救世主なんか努まらない

皇帝陛下は何をしたかったのか

ヨーダと皇帝、フォースの意思に通じた2人の騎士は、全く違った行動を取った。

  • ヨーダはフォースの手先となり、正義を騙って世界を滅ぼす手先となった。
  • 皇帝パルパティーンは生命の側に立ち、フォースの意思と対決する道を選んだ

世界を作っている力というものは、スターウォーズ世界ではフォースそのもの。 皇帝陛下といえどもその世界の住人。秩序だった世界の行く末がどうなってしまうのか、 ヨーダ以上によく分かっていたはず。

スターウォーズのもう1つのテーマというものは、「共有地の悲劇」問題。

秩序の保たれた世界では、生物は思う様繁殖し、やがては世界全体を食い尽くす癌細胞と化してしまう。秩序だった世界の中では、滅びというのは例外的なもの。誰もが例外にはなりたくないから、繁殖の道を選んで、世界はやがて破滅する。

皇帝陛下は質素な人。身にまとうのは、常に黒いローブ一枚。 最高権力者でありながら、その力に奢ることなく、光のあたる場所を好まず、 常に帝国の影でありつづけた。

「手の大なる人は多く取り、小なる人は少なく取る。」

パルパティーン皇帝陛下は、常に「手の小なる」人となろうとしていた。

世界でもっとも「大きな」人が、世界でもっとも「小さな」手を持てば、共有地は滅びず世界は続く。 皇帝陛下はたぶんこういう世界プランを立てたのだろう。 それは超長期的には正しくない選択かもしれないけれど、ヨーダの提示した 「目的のない焼畑農業」プランよりは、はるかに現実的な選択。

それでも世界は回る

皇帝陛下は、世界に仮想的な唯一神として君臨することで、世界に安定と秩序をもたらそうと考えた。アナキンは「ダース・ベイダー」となり、帝国の安定化に助力するが、最後の最後で「直情馬鹿」本来の姿を取り戻し、皇帝を裏切って帝国を滅ぼす。帝国は崩壊し、世界に残ったルークたちは、また新たな世界を作り始めた。

揺らぐことは人の本質。

アナキンは身内の犠牲を目にして揺らぎ、一度は秩序の道に走り、また息子の犠牲を目の当たりにして揺らぎ、元の自分に立ち返った。アナキンは2度の「揺らぎ」を経験し、世界の2つの選択肢を目にすることで、運命の子として世界の行く末を決定する資格を得た。

フォースの意志は、「運命の子」をして破壊と創造を続ける世界を選択させた。

混沌と調和とは二項対立ではなく、たぶん地続きの概念で、住んでいるスケールごとに同じ物でも混沌に見えたり、調和しているように見えたりするもの。皇帝パルパティーンが作り出した「帝国」というものも、もっとスケールの大きな世界から見れば、カオスの縁の中に生まれた小さな構造のうちの1つであったのかもしれない。

皇帝陛下は聡明な方だ。フォースの意思を探求するうち、自分の作り出した世界の「小ささ」に、気がつき、きっと自分もまた、フォースの作り出した劇場の「役者」でしかなかったことに気がついていた。

皇帝パルパティーンの見た未来の夢

皇帝陛下は、物語の最後で未来の夢を見る。

ルークとハン・ソロ。妹と恋人、「守るべきもの」を持ちながらも、なお帝国に比肩する強い力で皇帝に挑む、若い世代。自分達の世代で達成できなかった「秩序のもたらす安定した世界」も、自分よりも強力な次の世代なら、あるいは実現してくれるかもしれない。

自分達の世代は、「フォースの手のひら」から逃れる事は出来なかった。 でも次の世代はもっと手ごわい。その次はもっと…。

生命は、いつか必ず、フォースの咽喉もとに刃を突きつける

皇帝陛下の最後はあっけなかった。

あれは「役者」としてのプロ意識、さらに未来への種の進化に夢を託した皇帝の、最後の「仕事」ではなかったか。

長い長い物語を引っ張った英雄はその舞台を降りた。それでも皇帝は、未来の夢を捨ててはいない。

エピソード6の最後の場面。喜ぶルークを上から見下ろすヨーダやベイダー、オビワン達の魂の群れ。皇帝陛下はきっと、そういう人たちを、更に高いところから見守っている。

いつかきっと。

自分達より強力な若い世代は、きっと「神」の意志を離れて、世界を生命の手に取り戻す。

皇帝陛下の胸中によぎったのは、輪廻の輪を回し終えた満足感であったのだろうか?あるいは自分の果たせなかった夢を受け継ぐであろう、次の世代への羨望だったのだろうか?

映画は終わってしまったけれど、皇帝陛下の戦いは、生命の営みそのもの。 それは次代に引き継がれ、きっと今でも続いている。

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