2005年8月31日

Happy Tree Friends 特別番組

当院でも大人気のほのぼのグロアニメHappy Tree Friendsの豪華特別版が、G4というオンラインTVで30分番組として放送されるらしい。

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放映予定は、9月8日と9月11日。

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自分のノートパソコンは、壁紙もハピツリ、起動音もハピツリ。アメリカ人は、こういう物にとてつもない技術とパワーを注ぎ込めるから、あなどれない。

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2005年8月30日

文章メディアの限界と可能性(後半)

内容と表現は分離可能か

文章メディアが表現する中身というのは、その物語の「内容」と、「文章の起伏」とに大別される。

物語の内容のみ読み出す方法として、「斜め読み」に代表される速読の方法があるが、 そこで置き去りにされた「文章の起伏」とは、文章メディアにとってどういう存在なのだろうか。

  • 内容が肉ならば、レトリックは骨。分離すれば、文章は死ぬ。
  • レトリックというのは、着せ替え人形の服のようなもの。着せる服によって、同じ中身でも違って見せられる。

どちらの立場が正解に近いのだろう。

古い物語は、それが文書として形成される前に、長い口づたえの時代を経ている場合が多い。

昔話に代表される民間伝承もまた、初期の頃はすべて口伝で次の世代へと受け継がれた。 語り部は、聴衆の求めに応じて話を思い出す。

物語の記憶の方法の一つに、縄につけた結び目を利用するものがある。

語り部には、物語の文章の代わりに、いくつもの結び目を作った縄が受け継がれる。伝承者は、その結び目の大きさや数を頼りに、覚えた物語を再構築していく。

  • 一つ目の結び目は「昔々あるところに」
  • そのに続く、2つの小さな結び目は、「おじいさんとおばあさんが…」
  • その後ろの結びが1つなら「山」、2つなら「川」…

こんなぐあいに、結び目の大きさや数といった情報で短い文章を関連付け、話の流れは縄の長さや結び目の間隔で表現しているらしい。

テープレコーダーのようなものだが、大きな違いがある。縄自体には何の情報も乗っていないという部分だ。

どんなに巧妙に結ばれていようと、縄は縄。物語の情報の主体は、語り部のおばばの莫大な情報の集積だ。文章のプロットは、どの縄を持つのかにより全く異なってくる。

文章の内容と、その表現の方法は、本質的には分割可能なものだと思う。文章の内容の見せ方は、昔の「結び縄」から現在の「文字」「漫画」、さらに将来的にはPCによる時間軸管理に至るまで、その時代の技術レベルに応じた様々な方法がとられるべきだ。

小説という表現技法は衰退する。ちょうど、白黒映画がカラー映画にとって変わられたように。それでも、文章による表現というメディアの重要性は、そのまま残る。

文章メディアは何を目指すべきか

映像表現というメディアは、前述したように意外に不自由だ。

舞台演劇や朗読、映画といった話し言葉のメディアは、時間設定の自由度が非常に狭い。 話し言葉は、そのペースが実時間に左右される。どんなに速くしゃべっても、話し言葉で伝えられる文章量というのは、1分間にせいぜい500字といったところだ。普通のペースなら、もっと少ない。

文字情報であれば、大体話しことばの2倍のペースで読める。斜め読みをすればもっと速い。

映像メディアは、たとえば主人公が60分話した内容を聞くためには、60分の時間がかかる。文章メディアであれば、物語の中での0.1秒の間には、無限に近い情報を詰め込める。「間」のようなゆっくりとした時間の流れを作らなくてもいいのなら、文章メディアというものは、時間軸をいくらでも速く設定できる。

いい小説には2種類ある。

  • 物語の力で読ませ、読者に一気読みを強要するようなパワー系の小説
  • 文章のプロットで読者を引き込む、熟読や味読といった読みかたの必要な技巧系の小説

将来生き残るのは前者のほうだ。文章メディアの進化というのは、いかに「斜め読み」に耐えられるか、物語の内容を、いかに分かりやすく読者に伝えられるかという方向に向かうべきだと思う。ビックリするようなどんでん返し、プロットの妙といった要素は、今後はプログラマーとの共同作業になる。

斜め読み前提の文章

文章メディアの利点のひとつは、未来予測の可能な一覧型のメディアであるという部分だ。本を開けば、これから読まなくてはならない文章や絵は一覧できる。時間軸に沿って進む映像メディアでは、スクリーンの前で待っていないと、先の展開が分からない。

小説にしても漫画にしても、実際に頭で読んでいるよりも、目は常に先を行っている。目で読んだ文章が意識に「音」として上る前に、無意識のレベルでは、文章はすでに頭に入ってきている。

斜め読みでより多くの情報を拾いやすい文章というのは、文章の構造というものが、あらかじめ分かっているものだ。どこに山があるのか、重大な情報は、見開きのページの大体どのあたりにあるのか、それにはどんな強調がなされているのか。そういった構造が、一冊の中で一貫していると、たとえページの一部しか読んでいなかったとしても、本一冊の大雑把な構造は頭に入る。

一方、山ほどめぐらされた伏線、コロコロ変わる人称代名詞、読者の予想を裏切るどんでん返しといった技巧は、飛ばし読みをしている人の障害になる。熟読する人には面白い仕掛けも、急いでいる人には単なる障害物だ。

飛ばし読みに最適化された日本語という言葉

英文表記は視覚的には不利
英語は、即座に認識するのには不利な言語体系をもっています。
漢字表記や日本語のように仮名まじり漢字表記に比べて、文字としての識別機能が落ちるのですね。

例えば、本屋や図書館などに行ってみると分かります。日本の本屋で書籍の大量に並んだ本の中から目的の本を探すのと比較すると、欧文の本を探すのは、時間がかかります。
日本語表記の本を探す場合は、並んだ書籍の背表紙の上に視線を走らせるだけで、選び出せます。選び出せないまでも、著者などで大体の見当をつけてから詳細に見る、ということができます。欧文表記の本が並んでいる場合は、そうは行きません。
編集とレイアウトの基礎知識より改変引用。

文章を一覧できないという現象は、なにも日本人が英語が不得意というわけではなく、英語圏に住んでいる人にとっても同様らしい。英語は「斜め読み」には向かない。これができるのは、日本語の大きな特徴らしい。

漢字かな混じりの文章というのは、飛ばし読みをするときには大きな利点がある。

  • 漢字を多用することで、より少ない語数で大量の情報を伝えることができる。
  • 漢字は見た目で暗記されているので、一つ一つの語を読まなくても意味が伝わる。
  • 単語と単語との間は、明らかに見た目の異なるひらがなで結ばれているので、文章の中で意味を拾う必要のある部分は自然に明らかになる。
  • 識別性に優れた漢字とひらがなは、頭に情報として格納されるスピードが速い。

日本人は九九を覚える。だから計算が速い。

同様に、漢字を中心にした言語を持つ人たちは、漢字の意味を大量に記憶しているから、文章理解のスピードが速い。

小学校の頃に泣かされた、膨大な量の漢字の暗記というものは、日本語という文字メディアに、斜め読みに対応した概念ツールとでもいうべきものを与えくれたのかもしれない。

英語には、そうした斜め読みに相当する技術や、文章をの大雑把な内容を把握する「概念ツール」に相当するものが無いか、一般的ではないらしい。英語はわずかなアルファベットの組み合わせだ。単語の意味を理解するには、この組み合わせが何を意味するのか、一回一回「計算」しないと答えが出ない。

漢字圏の単語は、組み合わせの数も少ないし、それもまた「熟語」で記憶されている。文字の形と記憶が一対一対応だから、計算の負荷は少ない。

進化した文章とはどういうものか

  • 文章全体の構造というものを速い段階で明らかにすること。
  • ひとつの名詞を表す単語は、文章を通じて同じにすること。
  • 意味をもたせたい単語、あるいは重要な単語には漢字を使い、それ以外はひらがなでといった使い分けを試みること。

こうしたことに気を配りつつ、そのまま文章を書くと、起伏のない、「頭の悪そうな」文章が出来上がる。「紙に文章を書く」という現在の表現手段では、まだまだ文章の修飾は欠かせず、内容と表現との分離は難しい。

このあたり、HTMLを書くときにテーブルレイアウトを多用すべきか、CSSに任せるか、といった話題に通じるものがあるのだが、現時点ではある程度のレトリックをいれて文章を書かないと、何よりも文章を書いている自分自身が退屈でしょうがない。

HTMLで分けるようにいわれているのは「内容」と「構造」だが、その内容にあたる文章自体もまた、内容と構造とに分解可能だろうか。同じな内容でも、その表現のしかたによりコメディーにもホラーにもなりうる文章。そんな情報の記載ができると、文章メディアのあり方というのはずいぶん変わってくる気がする。

  • 一切の演出抜きで斜め読みしたいときは、斜め読みモード。
  • じっくりと読んで、驚きを味わいたいときは、伏線モード。
  • さらっと読みしたいときは、エッセイモード。

状況に応じて演出手法を選択可能な文章というものは作れないのだろうか。

思わせぶりな前振りをなくし、文章を飾ることを止め、同じ単語を繰り返して伏線を張るのを止める。文章の修辞や、レトリックといった修飾手段は、フォントの大きさや濃さ、あるいはまったく別の表現手法を導入することで、今までの文章メディアのあり方を進化させることはできるだろうか?

現在の技術の進歩を取り込んだ、映像メディアの1つの到達点にあるのが StarWars の最新作だ。内容の是非は脇に置くとして、あの映像はもはや見る絶叫マシンの領域に達している。同じ時間内に、とにかくより多くの情報、より多くの刺激を詰め込めばああなる。視覚と聴覚を通して入ってくる情報量はもう限界に近い。

ジョージ・ルーカスは、次世代の映画には、嗅覚とか触覚とか、新しい感覚の導入を考えているという。映画は進化して、いよいよ遊園地のアトラクションに近づいている。

文章の進化の方向は逆だ。いかに無駄を削るか。文字というメディアを通じて、どれだけ多くの情報を、短い文章に詰め込むか。

構造や修飾というものから完全に自由になった文章メディアというのは、やはり「本」という型式を捨てるような気がする。その先に現れる文章表現というのはどんな形をしているのだろう。

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2005年8月29日

文章メディアの限界と可能性(前半)

小説や漫画。映画やゲーム。

作家や監督の「思い」や体験、意図といったものを伝える様々なメディアは、技術の進歩とともにどんどん増えている。

メディアには、それぞれの特徴がある。長所や短所。得意分野や欠点。果ては製作にかかるコストや流通経路。考え出したらきりが無い。

様々な表現メディアを比較する上で鍵になるのが、時間軸の主導権という問題だと思う。

「一手間かける」重要さ

作家は何かを意図する。それは自分の想像したことであったり、自分が過去に体験した物語であったり。あるいは、単に観客の「度肝を抜く」ことであったり様々だが、その意図の伝わり方というのは、メディアにより大いに異なる。

作家の意図を、受け手の頭に「刻みつけたい」とき、その意図の理解にはある程度の手間がかからないと、読者の頭の中までは情報が入っていかない。

某社がかつて、水を加えるだけでケーキの焼けるケーキミックスを発売したが、市場からは全く相手にされなかった。
売れなかった理由はこうだった。

消費者は、水を加えるだけでは料理をした気にならない。ケーキミックスの存在意義というのは、ケーキを簡単に焼くことではなく、主婦が「料理」を簡単に行えることにあった。

作るのが簡単すぎると、ケーキは焼けても料理をしたことにならない。料理と呼べる最低限度の手間とは何か。この会社では、ケーキミックスに卵を加えないとケーキが焼けないように「改良」を加えた。この商品はおおいにヒットしたという。

「すばらしい体験をした」という感動は、その物語に作者がこめた意図を、読者が「自分で発見した」から生じる。そこにはある程度の手間がないと、「自分の発見」という形で消費者の頭に入っていかない。

発見に必要なのは、作家の意図の言語化という行為だ。言語化の必要のないメディア、アクション映画や遊園地の絶叫マシンを体験するのはラクだけれど、そこから何か重大な意図を発見するのは、逆に難しい。

体験の重要さは理解の手間に比例する

今までに覚えている感動した話、重要な知識や体験といったものの「重要さ」は、その物語や体験自体のすごさではなく、「作者の意図した物語を、作者と共有するために要した手間」に比例する。

どんなにそれがすばらしいものであったとしても、それが簡単に理解可能な体験ならば、人間はそれを「重大なもの」としては記憶しない。

たとえば「かもめのジョナサン」という本はベストセラーになり、そこからいろいろな「重要な体験」を汲み取る人がいる。あの本を体験するのは簡単だが、一方であの本を解釈、あるいは理解するのには手間がかかる。

本を読んで、「本を読んだ」という体験をするところまでは万人共通のプロセスだ。そこから先、作者が物語りに込めようとした意図を「発見」するという行為は、読者一人一人の個人的なものだ。

読者が発見した「物語の本当の意味」が、はたして作者が意図したものと一致するのかどうか、そんなことはどうでもいい。その発見が重要なのかどうかは、その人がメッセージを発見するまでに、どれだけの苦労を要したかだ。

あの本から、「人生努力が大事」なんていうメッセージを受け取った人がいるとしても、ならばその人が「人生努力」と書いた文章を読んで感動するか?たぶん「ああそう」と受け流してしまうだろう。おなじ文章でも、例えば相田みつをの書道のように歪んだ毛筆で書かれていれば、そこにまた「解釈の手間」が生じる。ただのありきたりな人生訓でも、そこから何らかの「体験」を読み取る人も出てくるだろう。

楽なメディアと大変なメディア

大部の小説を読むのは大変な作業だ。目次や挿絵といったものが全く無かったり、ましてやそれが母国語で書かれていなかったりすれば、なおさらだ。

簡単なメディアの代表は、遊園地のアトラクションだ。良く出来た絶叫マシンなど、もはや乗っているだけで何も考えなくても「体験」ができる。吐くけど。

作者の意図したものを「体験」するための難易度というのはメディアごとに違う。

こうした難易度を決定しているものは、人間の様々な感覚だ。

視覚。聴覚。時間の感覚。そして体感。こうした感覚のうち、いくつを作者にゆだねるのか、その割合で、そのメディアの難易度というものが決定される。

本->挿し絵->マンガ->映画->遊園地の絶叫マシン

物語を伝えるためのいろいろなメディアは、「難しい」ほうから大体この順序で並ぶ(演劇とか舞台は、語れるほど多く見ていないので除外)。この順序は、そのまま人間の感覚をロックする割合に一致している。

乗っかっていればいいメディアは、誰が見ても面白いが、後に残りにくい。一方、つまらない小説は投げ出されるが、それが読者にとって非常に面白いものであれば、何年経ってもその思い出は残る可能性が高い。

漫画喫茶と映画館の越えがたい壁

メディアの難易度の序列の中で、特にマンガ->映画の差というものは、非常に大きい。この段階で、時間軸の決定権は読者から映画監督へと奪われる。

静的なメディアと動的なメディア。読者に考える時間が自由に与えられている小説や漫画。上映時間やアトラクションの動作中は立つことも許されない、映画やアトラクション。

この両者の間というのは、越えがたい溝がある。映画やゲームの小説化、あるいはその逆が必ずしも上手くいかないのは、たぶんこのあたりが原因なのだろう。

時間軸の決定権が作者にあるのか、あるいは読者にあるのか。 このことは、メディアの性格を大きく決定付ける要因になる。

技術の進歩は過去のメディアを上書きする

物語の作者にとっては、表現の自由度は多ければ多いほどありがたい。

例えば白黒映画時代。初めてカラーの映像が出た当時は、「カラーなど品が無い」「白黒映画のほうが深みがあって面白い」といった批判がたくさん出たそうだ。

ところが時代はカラー一辺倒になる。カラー映画の白黒版を作ることは、簡単にできる。一方、その逆は不可能だ。一度カラーの映像を知った製作者は、カラーの良さを知るとともに、今まで知らなかった「白黒のよさ」も発見する。同じメディアを使った勝負なら、その長所をより多く知った者のほうが有利だ。カラー映画を体験した監督と、白黒に固執した監督。最後はカラーを体験した人のほうが勝つ。

白黒とカラー、モノラルとステレオ、メディアの表現方法には様々なイノベーションがあり、そのイノベーションがもたらした「体験」というものは、過去の人との間に決定的な断絶を作ってしまう。

次世代のメディアというものは、過去のメディアの上位互換として機能する。ならば、「時間軸を制御する」機能を手に入れた映画という技術は、文章メディアの機能を完全に上書きしてしまうのだろうか?

映画は小説を殺したか?

映画ができる前、動画というものは再現不可能だった。一方で、スクリーンに文字を投影すれば、たしかに映画館で小説を「上映」することも可能だ。

それでも小説は売れている。カラー映画の登場とともに、白黒映画は主役の座を降りたが、動画メディアがこれだけ普及しても、やはり小説は重要なメディアの一角を占めている。

映画をはじめとする動画メディアは、もともと舞台演劇を再現するために発展してきた。このため、映画の文法の中には、もともと「文字情報」という概念が含まれていない。

たとえば漱石の「こころ」。うだうだ悩んでいるだけ。太宰の「走れメロス」。素っ裸の男がゼーゼー言いながら走っているだけ。文章のまんま映像化したら、たぶん犯罪的につまらないものになる。映画とは、小説の上位互換のメディアではなく、全く別の作品として作り直さないと成立しない。

実時間で演じられていた舞台演劇をベースに発展してきた映画と、人間の思索を可視化するところから始まった小説は、まったく別のメディアだ。映像メディアがどんなに発達しても、それが「表現に文字を取り込めない」という制約がある限り、文章メディアが映画に飲み込まれることは無いだろう。

文字の使えない映像メディアの制約

時間軸というのは、非常に大事な感覚だ。「映画を見る」というルールでは、観客は時間軸のイニシアチブを映画監督に渡す。

このことは、作家の表現の自由度を飛躍的に増やす反面、「観客の感覚を裏切れない」という制約をもたらしてしまう。

映画は、その表現がリアルになるほど実世界のルールに縛られる。

「ルール違反」は観客を不快感を与える。映画の中のヒーロー、スーパーマンやバットマンが、あそこまで明らさまに怪しい格好をしているのにはわけがある。「わたしはこれから実世界のルールを破ります」と観客に宣言するためだ。

映画の中で人が空を飛ぶ、ビルから飛び降りるといった行為は、「ここからがフィクションです」という宣言をしないと、観客を不安に陥れる。

映画の文法の中では、実世界の常識を覆す動作は全て観客に不快感を与え、ファンタジーを意図した動作をもホラーにしてしまう。

アニメの「巨人の星」などは、そのあたりをうまく処理している。星飛雄馬がボールを投げて、バッターボックスに届くまでに3週間かかるなんてザラだったけれど、あれは紙芝居に近いアニメだから安心して見ていられた。アニメーションがよりリアルになったり、あるいは実写映像になれば、もはや「お約束」は通用しなくなる。

実写メディアで、普通の人が常識外れの行動を起こすと、観客は非常に不安になる。映画「エクソシスト」がいまだにホラーの金字塔なのは、あの映画の中には普通の人しかおらず、「モンスター」の映像が一切出てこないからだ。

文字というメディアの「速さ」

映像がリアルになるほど、動画メディアの作家は、観客の時間軸を裏切れなくなる。

小説世界では、数十ページにもおよぶ心理描写などはザラだが、こうしたことは映像メディアでは非常にやりにくい。

動画というのは本来、情報の受け手が体験できる情報量が非常に多い。ところが、処理しなくてはならない情報量が多すぎて、頭が映像を「理解する」スピードというのは遅い。頭が状況を理解できるスピードは、小説のほうがよほど速い。

「速い」物語、たとえは悪いが「北斗の拳」のケンシロウラオウといった「漢」達たちが、延々と語り合いながら殴りあう場面などは、拳が一発入る間に数ページにわたる心理描写が入る。こうした状況は、小説や漫画などの「静的な」メディアのほうが表現しやすい。

逆に「遅い」物語、本の読みかたとして「行間を読む」ことを要求されるものとか、含蓄のある文章などと表現される小説などは、本来は文章メディアの不得意な分野だ。映像が無い時代、こうした遅い物語を書ける技量というのは貴重だったかもしれないが、現在は動画メディアの時代だ。こうした文章表現は、遠からず動的なメディアにとって代わられるだろう。

物語の持つ「間」の力

ひぐらしのなく頃にというゲームが面白い。アニメ絵の女の子の立ち絵に引いてしまい、全く食わず嫌いを囲っていたのだが、「面白い」という評判があまりにも多いので体験版をやってみると、これが本当に面白い。面白いというか、非常に怖い。

内容は推理もの、あるいはスリラーやホラーといったジャンルに分類される物語。ゲームといっても画面上のストーリーを追っかけているだけで、こちらにできるのはただただ文字を読むだけ。要は絵のついた小説。プログラムの技術的には、たぶんそんなにすごい技術が使われているわけじゃない、と思う。

ところがこれが怖い怖い。自分はホラー映画は相当見ていて、それこそ「サスペリア」が流行した頃から、「エイリアンvsプレデター」まで、主だったホラー映画は大体見ているが、それでも怖い。ホラー小説も多数持っているし、残酷な映像や物語も、大体日常が「そのもの」だ。耐性は相当できている。それでも怖い。

怖さの原動力になっているのは、たぶん「間」の取りかたが抜群に上手なためだ。

物語の流れの中に挿入された「間」は憶測を生み、得体の知れない恐怖を作る。

PC上で読む小説というのは、読むスピードは読者の自由にゆだねられている。この部分は静的メディアの「スピード」という利点が生かされ、どんなに膨大な心理描写であっても、それが文字で記載されている限り、読者はストレス無く読み進められる。

既存の小説と違うのは、時間軸の取りかただ。

既存の小説では、時間のイニシアチブは読者のものだ。歴代の文豪は文章を工夫したり、文体を工夫したりして、なんとか小説に「間」を作ろうと努力してきた。

PC小説の作者は、その工夫を簡単に乗り越える。PC上で読む小説の場合、怖さを演出するために「間」が必要な場面では、文字が出てくるスピードが勝手に遅くなる。この瞬間、時間のイニシアチブは読者から奪われる。「奪われた」という感覚は、強烈は不安感を読者に与える。ホラーの演出にはもってこいだ。

PCメディアは、間を作ったり、時間軸を読者から奪ったりする行為が簡単にできる。こうしたものを作るために、小説や漫画といった静的なメディアは様々な工夫を重ねたが、最初からこうした方法が取れるPCメディアには、表現の方法で絶対にかなわない。

これは小説の上位互換メディアだ。ちょうど白黒映画に対するカラー映画のような。

きっとまだまだ未完成だけれど、時間軸の支配権を自由に与えたり、奪ったりできるというメディア、それも小説の技法から発展してきた文章メディアというものは、たぶんPC小説やアドベンチャーゲームといったものが初めてだ。

こうした表現方法の進歩以後、もしかしたら既存の文章メディアは、その表現技法の一部を放棄する必要があるのかもしれない。

自分は白黒映画は良く知らないけれど、きっと白黒世界で「カラー」を表現するために、いろいろ工夫された技術というものは、過去にあったはずだ。

カラー時代になって、白黒画面という記号には、独特の意味がもたされるようになり、いまだに白黒映画というものは生き残ってはいる。しかし、もはや白黒画面で全て表現しようなどと考える人はいない。

図書委員会の本の読みかた

文章メディアの表現する中身というのは、その物語の「内容」と、「文章の起伏」とに大別される。

物語というのは、なにか作者の考えた内容というものがまずあって、それを読者により有効に伝えるための演出として、文章に起伏を作る。いい文章には2種類ある。内容のパワーで読ませる文章と、日常生活の軽い雑記のような内容でも、読むと気分がよくなる文章と。どちらも持ち合わせていないのは、つまらない文章だ。

昔図書委員をやっていたころに教えられた斜め読みの方法というのは、このうち「内容」だけを抜き出す方法だ。

当時通っていた高校では、毎年夏になると300冊近い本を購入する。図書委員は、夏休みの間にその全てに目を通して、あらすじを知っておく必要がある。

購入した本は、全てカバーをつけて、図書カード(もちろんPCデータベースなんてあるわけが無い。8インチフロッピーディスクが最新メディアだった頃だ)に内容を記入する。そういった手続きをする間、その本を「読む」。もちろん斜め読みだが、それには方法論があった。

  1. 最初に表題とあらすじを読む。これは普通に読む。
  2. その後は各ページの右上4行、さらにその上半分だけを目で追っていく。
  3. 本の中盤までページをめくらないと、主人公が誰なのかも良く分からないときもある。 それでも、単語を拾いつづけていくと、大雑把な内容はわかる。
  4. 図書委員は大量の本を過去に読んでいる。過去に読んだ似たような話の「筋書きパターン」に、強引に単語を当てはめ、大まかな筋を「解釈」する。

当然小説の伏線とか、読者の期待を裏切る大どんでん返しは無視。自分が楽しむための読み方ではなく、夏休み明けに、借りに来た人に本を「紹介」するための読み方なら、これで結構いけた。

大体どのあたりで盛り上がるのか。どこが伏線で、それをどうやって消化するのか。誰が犯人で、それをいかに思わせぶりに、読者の期待を裏切るのか。それを工夫するのがプロの小説家の仕事なのだが、物語の内容だけを頭に入れようとする場合、そうした工夫は不必要だ。他人に本を紹介するときには、「自分がどう裏切られたのか」までは話す必要がない。

静的メディアは先読みされる

予断を持って、あるいは既存のストーリーを強引に当てはめて本を読むと、作者の意図した興奮や感動といったものは読者に伝わりにくくなる。

内容は分かる。ところが、本をたくさん読んだ人ほど過去のプロットを多く暗記しており、先入観を持って本を読む。作者がどんなに文章を工夫しようと、読書好きの人間にはその努力は伝わらない。

さらに、本を読みなれた人間の視界というのは非常に広い。目に入った文字を、頭で「読む」には少し時間がかかるけれど、読者の目はその間にも先に進んでいる。

ホラー小説などでも、頭が意味ありげなドアの前にたたずんだ頃、目はすでにドアの先のモンスターに会っている。だから「頭」がドアを開けても、そこに立っているモンスターは、すでに「目」の知り合いだ。怖くない。

通常の文字理解は「目->音声化->理解」なのだが、どうも「目->直接理解」という経路も、人間の頭の中にはあるようだ(速読術なんかはそれを利用していると主張している。出来ないけれど)。

小説家の意図した驚きとか、恐怖といった感情は、「間」の問題抜きには語れない。

小説を読みなれた人ほど、こうした文章のオーバーサンプリングをやるから、なおいっそう「間」を作りにくくなる。玄人の小説読みが推薦する本がしばしば難解で、逆に「素人受けする」本が、自称読書家に必ずしも受けがよくないのは、たぶん作者の意図した「間」というのが、既存の文章メディアでは一般化できないからだ。

PCゲームは、こうした「慣れ」とか「先読み」といった問題を、軽く乗り越える。間を作りたかったら、時間をとめたり、活字をスクロールするスピードを落とせばそれで済む。 先読みされたくなかったら、画面を切り替えなければいいだけだ。

演出が単純?

そういう批判は絶対に先読みされない文章を作ってから言ってくれ。白黒映画の監督は、かつて「カラー映画のは品がない」と批判した。白と黒しかない世界からは、どうやっても他の色は作れない。メディアとしての自由度は、もはや過去の文章メディアでは勝負にならない。

後半は後日。

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2005年8月26日

共有地の悲劇

ある村の中心に、広い共有地があった。村人はこの知の主に羊や牛を放牧するために利用し、その家畜の毛を刈り、乳を絞って生計を立てていた。
共有地には管理人はいないので、誰もが自由に利用でき、放牧する羊や牛を増やしたことによって得られる利益はすべてその飼い主のものになった。 共有地の草はタダなので、羊を増やせば利益が増える。 共有地の草は全て食い尽くされ、家畜は一頭も育たなくなり、村人の生活は損なわれた。村人がせめて分別をもって行動していれば、こうはならなかった。

個人のモラルはみんなを救うか?

環境問題なんて下らない。

世界のみんな」のために、自分が何かを我慢したところで、 その「みんな」とやらから何かの報酬をもらえるわけじゃない。ましてや、自分の「我慢」に 命がかかっていたりしたら、誰も我慢などするわけがない。

命は大事。たとえ世界が滅ぼうが、今大事なのは自分の命。共有地が滅ぼうが、 「今羊に草を食べさせなかったら、家が滅ぶ」という状況で、羊を飢えさせる選択など できない。

抗生物質の耐性という共有地

病院では抗生物質を使う。

細菌の感染が無くても、抗生物質は使われる。何でもいいから患者さんが発熱したとき。 何か大きな人工物を体に入れているとき。患者さんが何らかの汚染に暴露したとき。

細菌はどんどん増える。「感染」が成立してしまっては、治療は困難。死ぬかもしれない。

医者だって客商売だから、入院している患者さんが発熱したら、主治医はうろたえる。 たぶん細菌感染は関係ないだろうと思っても、「抗生物質を使いたい」という欲求は抑えがたい。

病院というのは不思議なところで、作為による過失は問われないものの、 不作為による過失は人生を棒に振るまでブッ叩かれる

  • 発熱した患者さんに対して、抗生物質によるアレルギーで なにかトラブルがあっても、交渉次第で何とかなる
  • 抗生物質を使わないことで 何かトラブルになったら、人生を失う

内科医というのは、前の共有地の例でいくと「小作農民」のような立場。

なんとしてでも羊を食べさせないと、その先に飢え死にが待っている。とにかく今を乗り切る ことしか考えられない、因果な商売。

病院内には、もう少し高級な方々もいる。その代表格が、感染症専門医の先生とか、疫学者。

感染症医というのは、もうすこし大局的な立場から物を見る。彼らは羊が無くても生活できる から、貧乏な小作人が羊を増やしたらどうなるか、未来が見える。

「あなた達は、何をバカなことをしているのですか?」

感染症専門医は、内科の狂った抗生物質の使いかたを見て眉をひそめる。

抗生物質の濫用は、病院内の耐性菌を増やす。誰かが抗生物質を使うと、耐性菌が出現する 可能性がそれだけ増える。そのリスクはわずかなものだが、確実に増える。

内科と細菌学者とは、同じ医者でも立場が異なる。

  • 内科医は、目の前のお客さんの利益を最大化させることを考える。耐性菌出現のリスクは「誤差範囲」だから、それを無視する
  • 細菌学者は、病院全体、世界全体の利益を最大化させることを考える。患者の死亡割合が「誤差範囲」なら、抗生物質を使わずに、耐性菌を減らすことを考える

あんたら感染症屋は、人間よりバイ菌のほうが可愛いんだろ!」。 内科と細菌学者とは、こうしていつも喧嘩する。

恋人に行う医療

植え込み型除細動器(ICD)という機械がある。

心筋梗塞後、あるいは重症心不全の患者さんで、これを植え込んでおくと致命的な不整脈が出ても、 助かる可能性がある。

ICDの生命予後改善効果は、大きなトライアルで証明されている。 患者さんの選択さえ間違えなければ、ICDを植え込んでおけば、長生きできる可能性は高まる。

ICDを植え込んだ人の多くは、機械が作動せずに一生を終える。機械が作動するときというのは、 致命的な不整脈が発生したとき。不整脈の発生が無かった人たちは、結果として ICDを植え込む必要が無かったとも言える。

ICDは高価。タバコの箱ぐらいの大きさなのに、国産の高級車1台が買えるぐらいする。

  • もしかしたら必要ないかもしれない可能性
  • 高コスト

この2つの条件がそろえば、「費用対効果」の論文が書ける。バカな現場の医者が、 高価な薬や機械を使いまくると、世界経済という共有地が破滅する。正義を愛好する 疫学者としては、なんとしてでも現場の暴走を止めなくてはならない。

疫学者とか、EBMが好きな人というのは、 臨床の現場で働いている医者が憎くて憎くてしょうがない人たち。

あいつら、目先の利益に騙されて、また好き勝手やってやがる」。一般臨床で「効果がある」 として信じられていた手技や薬が、「統計的に」論証してみていかに効果が無いものであったか、 枚挙にいとまがない。

一般臨床家の迷信を解き、正しい医療を広めるのは、疫学者の使命。
内科のバカさ加減を統計であげつらうのは、疫学者にとって最高の瞬間。

ICDは、費用対効果を論じると、「効果が無い」と判定されることが多い。それでも臨床医は、 不整脈で患者を失いたくないから、この機械を植え込む。

数年前のペースメーカー学会で、海外のICDの権威が講演に来たとき、会場から「費用対効果が 証明されていないものを、あなたはどうやって広めようとしているのですか?」という質問が出たそうだ。

演者の先生はこれに答えて一言。

「あなたの恋人がICDの適応になったら、あなたならどうしますか?」

誰も反論出来なかったそうだ。

命の値段は疫学者が決める

医療の分野で、費用対効果を論じるぐらいバカらしいことはない。 世界経済という共有地は、 疫学者が勝手に妄想にしかすぎない。

致命的な副作用について叩くならともかく、「高価すぎて」意味がないなら、 技術者はどうやったらコストダウンができるかを考える。少なくとも、 意味が無いなどという「意味が無い」答えを出したりしない。

費用対効果の論文は、人の命を査定する。

○○人の人がこの薬を服用すると、1年間で致命的な疾患の発生率が3人減少する。一人の救命による利益が200万円とすると、1年あたり600万円の得。一方、○○人の人が1年間この薬を服用するためのコストは800万円。よって、この薬は「意味が無い」。

人の命はいくらなのか。

神様でもなければ答えは出せないが、なぜか疫学者はその答えを知っている。

自分たちがICDが必要な病態になったときには、疫学者たちはどうするのだろう?

たぶん、彼らの命は下々の人間よりもはるかに高価に査定されているのだろう。

上手なコンサルタントは質問者をいい気分にする

高価な機械や薬の問題はともかく、抗生物質の濫用による耐性菌の増殖という問題は、 確実に医者の首を絞めている。

抗生物質は効かなくなっている。大きな病院であればあるほど、その病院の細菌はひどい耐性を 持つようになっている。

ちゃんとした感染症の専門家がいるような病院でも、実体は同様だ。そういう病院はたいてい 地域の基幹病院だから、いろいろな病院から患者さんが搬送される。耐性菌の出現パターン は、病院ごとに微妙に違う。大きな病院には、様々な耐性菌がDNAを運んでくる。その施設の 抗生物質の管理がどんなに徹底していても、一度出現した耐性を消すのは、かなり難しい。

抗生物質の使用を制限すれば、耐性菌はわずかずつ減少する。その「わずかさ」に 内科は焦れ、自分の患者さんにだけは「いい目」を見てもらおうと、抗生物質を使う。

感染症医にとって、その「わずか」な前進こそが勝利の証なのに、内科は平気で踏みにじる。 病院内には医者どうしの喧嘩の声が絶えることは無い。

感染症医の中には例外もいる。どうやってもお互い喧嘩にしかならないはずなのに、その人に 感染症のことを相談すると、なぜか丸く収まる。

内科医は、感染症医が推薦する治療を「自分で思いつく」。「俺ってこんなに頭良かったっけ?」。 なんだか気分が良くなり、また問題があったらコンサルトしようと思いながら、術中にはめられた 内科医は、「模範的な」抗生物質治療に精を出すようになる。

疫学的に正しいことと、現場での正しいやり方とは、しばしば異なる。

コンサルタントがいくら疫学的に正しいことを言っても、それは現場には通じない。そもそも立場が違うから、言葉が通じない。上手なコンサルタントは、「現場に気がついてもらう」。

現場から見て「いいコンサルタント」とは、現場の医者の気分を良くしてくれる人だ。わざわざ現場を離れて、専門家の下に出向いて、そこで因縁をつけられて怒られれば、二度とそんなところには行きたくなくなる。

共有地の悲劇を回避するには

環境問題やリサイクル、漁業の乱獲をどうやったら防げるのか。ゲーム理論の本などで引用される共有地のジレンマの実例というのは、どれも世界規模の大きな問題。

スケールの大きすぎる問題の解決策は、結局のところ警察権力的なものの導入しかないらしい。

共有地を維持するには、仲間同士で共有地を荒らさないような取り決めをするしかない。「仲間」の数があまりにも多くて、お互いのコミュニケーションのコストが大きすぎれば、裏切ったところで良心の痛みなど感じない。

裏切った人に罰則規定が無ければ、協定を守る動機も無い。誰もが利益を得たいから、共有地には一本の草も残らなくなる。これを回避するには、罰則規定の導入や、それを維持するための「警察」的な機関を作るしかないという。

この共有地のジレンマというものは、集落が十分に小さくて、誰もが知り合いという規模であればおこらない。小さな集落、小さな共有地であれば、誰かが裏切って草を貪ったら、「草が減った」という情報が皆に伝わる。誰かの裏切りは、すぐに残りの人たちへの不利益となって跳ね返る。

協定違反=>不利益のフィードバックが早くて、また違反をした人が誰なのかが一目瞭然という環境ならば、共有地の使用の協定は守られ、際限も無く草が食べられるという現象は生じない。

「友達の多い感染症医」というやりかた

ある程度スケールの小さな共有地問題を解決するには、結局2つの方法がある。

  • 警察的な権力を導入して、裏切った人を罰する
  • 「誰もが仲間」という状況を作り出して、共有地の問題が生じない程度にコミュニケーションを密にする

抗生物質の共有地問題を、「警察権力」で解決するのは簡単。

  • 抗生物質の使用を許可制にする
  • チエナムなどの広域抗生物質の価格を、今の10倍ぐらいにする
  • 委員会を作って、その月に「間違った」抗生物質の使いかたをした医師を告発する

まるで革命前のソビエト連邦のような方法だ。権力で抑えれば、上から抑えている人たちは気分がいいかもしれない。現場で働いている連中には不満が鬱積する。いつか革命が起きるだろう。

幸い、病院という組織のスケールは、共有地の問題が発生する程度には大きいが、 個人の力で何とかできる程度には小さい。

感染症医が「病院中の医者と友達」になれるなら、共有地のジレンマは発生しにくくなる。

上からの正論で物を言われてもむかつくが、「友達の顔を曇らせる」のは、友人としてどうかと思う。 正しい知識や考えかたを共有できて、自分がその友達のおかげで頭がよくなったと、思えたら、 なおのことそいつの意見を無視できなくなるだろう。

「正しい」抗生物質の使いかたを病院内に広めようと思ったら、理論武装を整える前に、 冗談を言ってみたり、飲み会に付き合う回数を増やすようなやりかたも「あり」かもしれない。

いつも世界の誰かを敵に回すようなことばかり書いていては説得力が無いが、活発なコミュニケーションの結果生まれた「みんな友達」の状態は、きっと世界のいろいろな問題を解決してくれる。

昔も今も、そう信じている。

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2005年8月23日

医師の評価つき検索サイトの実現可能性

つながっていないものをつなげてみる

医師と患者はつながっていない。

患者さんの訴えるのは「症状」。医師が専門にするのは「病気」。そもそも目的が違う。

「あなたの症状は、私の専門から外れますね。」

患者さんの症状の原因が分からないとき、「原因は全然分かりません。すいません。」の代わりに医師が良く使う言葉だ。

総合病院に行けば、個人の病院よりは、症状の原因はわかるかもしれない。病気にも、パレートの法則は当てはまる。患者さんの症状の8割は、頻度の多いほうから2割の病名で説明がつく。

それなら総合病院をあと2割強化すれば、満足度100%か?

そううまくはいかない。外来患者さんの訴える症状の8割を診断し得たところで、残り2割の症状の需要を満たすには、残った8割の病気の専門家を連れてこなくてはならない。悪いことに、一つの症状の原因になる病気は、たいてい複数ある。総合病院を受診した患者さんの満足度というのは、8割どころか半分がいいところだ。

自分の「症状」の専門家はどこにいるのか。自分の住所にはどんな医師がいて、何が専門で、その評判はどうなのか。

市販されている「信頼できる病院ガイド」などは役に立たない。内容のほとんどは単なるちょうちん記事だし、ましてやその病院内の医師個人の得意分野、患者さんからの評判などは記載されない。そこを受診している人たちは「どう」感じているのか、どんな医師が人気があって、誰が人気が無いのか。

人間の検索というものが可能なら、情報は、細かければ細かいほど、有用性が高い。

患者さんの症状と、それに合致した専門を持った医師とを直接つなげられれば、患者さんの病院の選び方、医師のキャリアの積み方というのは一変するかもしれない。集団の中のロングテイルに相当する層、マイナーな疾患、複数の医師から「専門外」と逃げられるような症状を持った患者さんも、医者選びを妥協する必要は無くなる。医師も「どの分野を専攻するのが勝ちなのか」などといったくだらない価値観に縛られずに、本当に自分のやりたい分野に進めるようになる。

もともと、症状なんて全ての人で違って当然だ。今は、患者さんの症状に「正しく」対応した医師を探すコストが莫大だから、みんな総合病院に殺到して我慢している。医師もまた、人の集まるところにいないと、自分の力を出せる患者さんに出会えないから、大きな病院で薄給に甘んじている。

人と人とをつなぐコストがゼロに近くなれば、膨大な種類の小さなマーケットの集積はマスを越える。「勤務している病院」の良し悪しで無く、「個人のすごさ」が問われるようになれば、病院のブランド力というものは低下し、サービスのいい病院、実力あるスタッフをそろえた病院が成功する、もう少し健全な競争社会が訪れるかもしれない。医師の仕事に対する考えかたもまた、変わってくるだろう。

将来評価されるのは病院でなく医師個人

はてなブックマークが面白い。興味の持たれた記事は、数時間ごとにどんどん変わる。どのリンク先をたどっても外れが無く、いつも驚く。

ブックマークというのは、作者のページ全体でなく、面白い記事ごとに付けられる。どんなに面白いWEBにも、すばらしい記事とそうでないものとは存在する。はてなブックマークは、各エントリーごとに人気投票が行われ、面白い記事にのみリンクが張られる。作者としては寂しいけれど、読者としては無駄が無い。

うちのページにも、時々ブックマークをいただく。たまにすこし人気が出たりはするけれど、アクセスが上がるのはその記事のみ。ブックマークからジャンプしてきて、他のページを見ていく人は、ほとんどいない。

現在は、病院の中で働いている人の情報が極めて少ないから、患者さんは「病院全体」というブランドを信じて、中で働いているのはすばらしい医師ばかりだと信じるしかない。実際にはそんなことはあるわけないのに。

大きな病院というのは、たいていはアクセスが悪くて、待ち時間が長い。医師は皆忙しそうで、職員は無愛想だ。小さな病院にも、あるいは優れた医師はいるのかもしれない。症状によっては、大病院の医師よりも優れた医師も。それでも、情報が無い以上、ギャンブルは出来ない。大病院はいつでも人気があり、患者さんの待ち時間は増えつづける。

巷にもっと情報があふれたら、医師個人個人の情報が、もっと簡単に検索できたら、病院全体の評判は、今までとは大幅に変化するかもしれない。

医師の検索の実現可能性

自分の感じている症状の「専門家」はどこにいるのか。google などを調べても、ほしい情報はなかなか手に入らない。全日本レベルの権威が誰なのかは、結構簡単に見つかる。それでも、自分の住んでいる地域の医師で、他の患者さんの評判のよさそうな人を探そうと思っても、2ちゃんねるをしらみつぶしに探してみるぐらいしか、情報の手に入る当ては無さそうだ。その情報にしても、どこまで信憑性があるのか分かったもんじゃない。

医師を「検索」することは可能だろうか?

できる、と思う。

どこの病院でも、初診の患者さんには「問診票」という小さな紙を書いてもらう。はがき一枚分にもならない大きさ。字数にして、せいぜい100字といったところ。どんな症状があるのか、いつから出現しているのか、他の症状は無いのか、そんな内容。

問診表を見るだけでも、分かる人は診断名が分かる。そうでなくても「この人は自分でいける」「この人は分からないから他科へ」。「まじめに見ないとヤバそう」「流して大丈夫」。そんなことぐらいなら、かなりの正確さで分かる。もちろん間違いも多いけれど。

ここまでの過程は、たかだか100字のテキストの解釈だ。量も十分に少ないし、その短い病歴から、当てはまりそうな専門家を探すのは、十分可能だと思う。最初のうちは、「眠れない」の主訴は全例精神科に紹介されたり、「人前でドキドキする」という文章で心臓外科が紹介されるかもしれない。

それでも、最近のテキストフィルターは優秀だ。メールの内容を解析して、「迷惑メール」と判定されたものは、非常に効率よくはじかれる。メールクライアントのベイシアンフィルターを鍛える要領で、「循環器内科フィルター」、「耳鼻科フィルター」などを作ってやれば、入力された問診票は、そこそこ正確な答えにたどり着くのではないだろうか。

対応する医師のデータには、その所在と経歴データに加え、「胸痛」とか、「感染症」、「肺がん」などといった、得意分野のタグをつけていく。このタグは、患者さんも自由に追加できる。例えば誰かが「咳」の症状である医師に見てもらい、原因がすっきり分かってよくなったなら、たとえ心臓血管外科の医師であっても、その人には「咳」のタグがつく。

フィルターの精度を上げて、タグの数を増やしていけば、徐々にではあっても「正解」は見えてくると思う。

患者さんによる医師の評価

医師の経歴や肩書き、論文数や専門医の有無といった情報だけでは、その医師が「良い」医師なのかどうかを判断するには十分ではない。良い医師とは、つまるところは自分を気分よく治してくれる医師だ。その判断は本来、国や出版社ではなく、お客としてかかったことのある人が評価したデータのほうが、よっぽど役に立つ。

医師の検索サイトを作るには、国内の全医師のデータベースが必要になる。 このデータベースに患者さんの「感想」「評価」を一緒に掲載したり、あるいは検索エンジンのデータの重みづけのパラメーターとして、患者さんからの評価を入れたりすると、医師と患者のつながりというものは、ますます深くなる。

このシステムもまた、はてなブックマークのそれが参考になる。

患者さんからの否定的なコメントを受け入れると、たぶん大変なことになる。どろどろの中傷合戦にサイトの運営者が巻き込まれ、最悪カーネルごと巻き込んで落とされる。

評価のシステムは、肯定的なものだけに限定する。例えば、ある患者さんが一人の医師に入れられるポイントは、1ptのみ。気に入れば1pt、一緒にコメントも付記可能。一方、気に入らなければ、点数は無し、あるいは否定的なコメントとともに、1pt。

医師側は、コメントを自由に削除できるルールにする。ただし、否定的なコメントの削除とともに、その与えられたポイントも失ってしまう。

医師同士も、お互いに評価ができるシステムを導入する。

たとえ患者さんからの評判がきこえない医師でも、他の医師から信頼されている人はたくさんいる。医師の相互評価というのは、医師の「良さ」を評価するのに非常に重要なパラメーターだ。

これを検索結果に反映するため、医師が他の医師に与えたポイントというのは別に扱う。医師の与えたポイントは、患者さんの与えたポイントよりも、たとえば10倍とか、重みをつけて検索結果に反映する。

その代わり、医師が他の医師にポイントを与えられる数は、最大10人程度に限定する。もちろん誰にも与えなくてもかまわない。ポイントを与えられた医師は、誰がそのポイントをくれたのかは見ることが出来ない。たとえ10人の研修医を教えている偉い先生であっても、当然ポイント「0」ということもありうるわけだ。

内科の医師は、10年目で大体300人程度の「常連さん」を抱えている。このうち10%がこうした検索サイトの利用者になったとしても、医師が患者さんからもらえるポイントというのは、大体20ポイント程度。うまく広がれば、登録されている医師の誰もが「0」ということにはならないはずだ。

ポイントによる医師の査定システムの可能性

このあたりのポイントシステムがうまく回ると、医師-患者の関係というのは少しだけ変わる。

どの医師も、患者のほうを向かないで仕事をするわけには行かなくなる。ポイントの悪い医師というのは、「評判の悪い医師」の烙印を押される。患者さんから「ダメな医者」の烙印を押された医師は、どの検索ワードでも相手にされなくなる。

ポイント制度は、たとえば僻地の医師の応援にも使える。

僻地に踏みとどまって頑張っている医師に対して、その地域の住民は、ポイントを送ることで応援の意思を伝えることができる。

「応援なんてもらったって、人が足りていないんだから意味が無い」などという奴は、医師という生き物が分かっていない。見知らぬ人から誉められてうれしいか?うれしいんだこれが。そうじゃなければ、こんな商売続けていられるわけがない。

医師が転勤すれば、その地域の住人は、そのポイントを削除することもできる。医師の移動や転勤、開業や退職といったアクションごとに、その医師の評価というのは刻一刻と変わる。もちろんそのポイントの移動というのは、医師の行動に決定的な影響を与えるわけではないけれど、患者サイドからも医師の行動決定に参加できるというのは、心理的には大きいと思う。

ポイント制度というのはまた、地味だけど勉強熱心な医師、厳しいローテーション病院で踏みとどまっている医師、下級生に親切に指導をしてくれる上級生といった、医局制度の中では日陰に甘んじている医師に、光を当てるかもしれない。

医師同士のポイントというのは、病院長クラスの医師だろうと、研修医だろうと、同じ10人にしか与えられない。その贈与も剥奪も自由だ。お互い匿名だから、上級生がポイントの「上納」を強制するわけにもいかない。ドラマの「ドクターコトー」のような、本来絶対注目されない立場にある医師も、同僚の支持を集められれば、検索の上位に登場できる。

患者に迎合した医療はレベルが低いか?

こうしたポイント制による医師の査定が広まったら、医療のレベルは下がるだろうか?

熱が出たらすぐ抗生物質、痛みがあったら迷わず痛み止め。こうした「症状は取れるけれど間違っている」医療が広まり、従来型の正しい医療は廃れるだろうか?

そんなことは無いと思う。正しいことは廃れない。ただ、その「正しさ」を世間に向けて発信する義務が生じるだけだ。

今までだってそうだった。大体、痛み止めだけほしい患者さんに、説教だけして何も出さずに返したらその医者は今も昔も「ヤブ医者」だ。痛み止めを処方しないならなぜ処方しないのか、それを分かりやすく伝える能力無くして、「正しい」医療は行えない。

ルールを公正にするならば、医師のデータベースには、医師自身が記入できるスペースを設ければいい。このスペースで、自分の診療ポリシーや考えかた、実績などを語ってもらえるようにする。この部分だけでスペースが足りないならば、外部へのリンクも可能にしておく。自分が主張している「正しい」医療を広めたいなら、ここで発信すればいい。あるいは、外のWEBで自分の主張を発信して、検索サイト内の自分のデータへリンクを張っておけば、自分が診察していない人からも、賛同のポイントをもらえるかもしれない。

検索サイトの実現可能性

日本の医師の総数は、大体25万人。

この全員をリスト化して、タグ付けをして、実際に検索サイトを運営するのは可能だろうか。

医師の全氏名、勤務先を調べるのは比較的簡単だ。たいていの大学同窓会では、正当な手続きさえ踏めば、同窓会名簿の閲覧を許可してくれる。大体、同窓会名簿を公開している大学だってある。少なくとも、名簿図書館に行けば、同窓会名簿だろうが学会の名簿だろうが、たいていのものは手に入る。全リストを閲覧することは可能だ。お金はある程度かかるけど。

氏名のリストだけではまだまだ足りない。基本的な「タグ付け」だけは、主催者側がやらないといけない。

これをやるには、やはり google 様の力を借りる以外ないだろう。バイトを10人程度、1ヶ月缶詰にして、日本中の病院という病院を調べる。そこに書いてある、医師の公開プロフィールをひたすらカットアンドペースト。手軽なデータベースとしては、「医学中央雑誌」のCDは、個人情報の宝庫だ。その医師の所属病院、発表症例や記載論文、すべてデータ化されたものが、毎年発売されている。

医師国家試験受験のとき、当時の同窓生約1000人ぐらいの現住所を調べたとき、電話と手紙だけで1000人調べて、1ヶ月かからなかった。今なら格段に便利なはず。10万人ぐらいなら、気合さえあれば(たぶん)何とかなる。腱鞘炎必発だろうけれど…。

とにかくデータをデータとして打ち込んで、あとは所属学会名や専門分野といった単語を、「タグ」に変換していく。はてなブックマークは、半自動でこれをやっている。同じことはできるはず。

客は集まるか?

患者さんの検索サイト、検索だけなら個人情報の入力無し、もちろん使用料金一切無しなら、そこそこには活用されそうな気がする。大体、一人の医師に「つく」患者数は、200人から1000人の間。そのうち1%が利用をはじめてくれても、たぶん全国で100万人に近い数字の人が利用してくれる(はず)。

問題なのは、医師のランクづけや、タグの改定をやってくれるユーザーがどのぐらい増えるかどうか。これが増えないとサイトが盛り上がらないし、データベース管理の人的負担が、いつまでも管理者から減っていかない。

どこから収益を得るのか?

利用する患者さん、あるいは情報を載せられる医師からは、たぶん一切料金を取れないだろう。もしも検索サイトがメジャーなサービスになったところで、医師から料金を取って、検索の順位の重み付けを変えたりしたら、そのサイトは信用を失ってしまう。

収益を上げるとしたら、可能性の一つは日本中の全医師の人気ランキング票を有償で閲覧させることだろう。医師一人一人の情報というものは、検索すれば発見可能。ただし、横断的な情報は有償にする。

同様に、その医師が患者さんから「どう」思われているのか、その医師の「専門分野」になっている検索ワードには、どんな競合者がいるのかといった医師の自己診断を有償でサービスすれば、あるいはお金を払う人も出てくるかもしれない。

問題点は?

医師を「本物の医師だ」と認定するための、何らかのシステムを造る必要がある。このポイント制度だと、第三者がある医師の名前をかたって成りすましを行った場合、順位がめちゃくちゃになる。データベースに名前の載った医師だって、誰もがこんなポイントを気にして、自分の名前を見るわけじゃない。

患者さんサイドのコメントスクラムが生じた場合も、問題になる。患者さん一人で複数の氏名を語られると、やはり順位づけは混乱するだろう。こちらは、メンバー登録時に捨てアドを禁止するだけで、ある程度の抑止力になると思うのだが。

無謀な考えか?

そう思う人はエンジニアという職業を理解していない。

キリスト教の聖職者、弁護士とエンジニアが断頭台にかけられようとしていた。聖職者は頭を台の上に乗せ、ギロチンのロープがひっぱられたが、何も起きなかった。聖職者は、神の調停により救われたのだと宣言し、彼は釈放された。

次に弁護士が台の上に頭を乗せ、またもロープは刃を落とさなかった。弁護士は、同じ罪で2回も死刑になることはできないと主張し、釈放された。

エンジニアがひっぱられ、頭が断頭台におしつけられた。エンジニアはギロチンの刃を落とす機構を見上げて言った。
「ちょいまち、どこが壊れてるのかわかったぞ」

実現可能性があれば核兵器でも作る。出来上がったものは、たとえ世界が滅ぶような代物であろうと、「とりあえずスイッチを押してみる」のが技術者だ。

それぞれの医師個人に対するブックマーク。個人情報保護の問題。コメントスクラムの問題等いろいろ出てくるだろうが、うまくいけば、医師は今まで以上に気を付けて患者と接するだろう。

その医者の商品価値というものが、「消費者の集団知」により査定されるようになる。

ありものの技術の組み合わせで、医療の世界が一変する可能性。

こんなに面白いことなんて、そうはないじゃないか。

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2005年8月21日

冷えて縮んだ世界から医者はいなくなる

業界は冷える。冷えてどんどん縮む。世界全体が小さくなるから、今までのベクトルで苦労をしても、 その努力が今までどおりに報われる可能性は減る。努力という行為にすら「リスク」が課せられるなら、そのリスクの分は、もっと別の方向に生かしたい。

最近ずっとこんなことを考えている。

栄光と夢が膨らんだ60年前

終戦後から復興期にかけて、医療の業界は大きく成長した。佐久総合病院、沖縄中部病院の設立。 米軍に接収されていた聖路加病院の返還。現在まで続いている大きな市中病院は、だいたいこの頃 に誕生した。

この時代に病院長や部長クラスをやっていた医師は、現在でも怪物とか、妖怪とか言われて現役で頑張っている。日野原重明先生なんて、 昨年のCCT(カテ屋のお祭り)では98歳にしてカテ室に登場 だ。さすがにカテーテルは握らなかったけれど。

定年という概念のない医者の寿命は長い。自分の夢を失わなければ、それこそ90台になっても 病院は続けられる。実際に御年90になって、医院を継続している人を何人か知っている。

夢を持って病院を大きくし、医療という業界を引っ張ってきた人たちは、高齢でも「脂っこさ」を 失わない。下っ端をやっていると滅多に会うことは無いけれど、みんな元気だ。

夢で引っ張れた時代。病院は、何年経ってもその勢いが落ちない。優秀な人はこうした病院に 集まり、病院はますます大きくなっていく。

伝統的な市中病院が出来はじめた60年前から、安保闘争があった20年前ぐらいまでは、 夢を持ったリーダーが何人も現れた時代だ。徳洲会や民医連は、大体20年前に生まれた。 大学病院や、大きな市中病院に反対する立場で誕生した新しい組織もまた、 発足当初は病院長の勢いと夢だけで引っ張られ、大きくなった。

世界が固まった最近20年

「有名どころの」民間病院組織が出来上がったのが、いまから20年前。こうした病院組織の努力は 実り、大学をはじめとする大きな病院の多くは救急の患者を受けるようになった。

患者中心の医療」という言葉は当たり前のものとなり、EBMなどという言葉が一般化する頃 には、どの病院に入院しても、同じような医療サービスを受けられるようになった。

ここ最近の20年、研修医を受け入れるような大きな病院の総数は、そう大きな変化はしていない。

世界は膨張を止め、定常状態に入った。

リーダーの夢で病院を引っ張っていた時代。夢というのは査定不可能なものだった。何が一番 正しいのかなんて、誰も興味はないし、前に進むので精いっぱい。自分が今、世界の何番目 に立っているのかなんて、考えるだけでナンセンスだった。何しろ、世界はどんどん大きく なっていた。

大きさの変わらなくなった世界では、競争という概念が発生する。世界が有限になると、 リーダーの夢を追求するには、誰かの領土を取りに行かないといけない。戦争の始まりだ。

病院はその質を高め、競争を開始した。

症例を増やし、臨床研究を多くやり、患者サービスを充実し、優秀な研修システムを作り…。 頑張れば、きっと他の病院に勝てる

それまでは「勝つ」なんていう概念は無かった。

競争の結果、病院の中身は向上し、 患者さんにとっては健全な状態が長く続いた。日本の医療は安く良くなり、一時は「世界一」 などという呼び声さえもかかるようになった。

皮肉なことに、個々の病院組織が独自性を打ち出そうとして努力するほど、 お互いの病院の「優劣」というものが査定可能なものになる。

日赤の某病院のナンバー8なら、その「偉さ」は済世会の某病院のナンバー5に匹敵する。

努力に「競争」という概念が入ってくると、どうしても自分の立ち位置、競争相手の現在の場所というものが気になってくる。20年も経てば、こうした「換算式」はどうしたって出来てくる。現在では、インターネットでこうしたローカルルールの共有まで可能になっている。どの病院が「勝ち組み」で、どの病院が「負け組み」なのか。

世界が安定した時代というのは、当事者だって知りたくも無いこんな情報が、否応無しに耳に突っ込まれる時代だ。

誰だって負け犬認定されるのはいやだ。「勝ち負け」で世の中が判断されるようになると、究極的にはトップ一人を除けばみな負け犬だ。ネットの力は競争者のやる気を潰す。町のチャンピオンは国の10位、世界から見れば「負け犬」と認定されてしまい、頑張る努力は失われる。

成果主義が医療を崩壊させる

「自分の達成感」というものは、以下の式で求められる。

自己の達成度 = 「現在の自分の居場所」×「自分の収入

冗談ではないという人もいるかもしれない。それでも集団は、単純なものを好む。自分自身の価値観がどうであれ、世界の全ての人は、他人の好奇の目線からは逃れられない。世界の誰もがこうした「係数」で査定されるとき、自分の努力で変えやすいのは「収入」だ。

いろいろなところで「成果主義」の導入が始まっている。

日本の場合は、なんだか給料引き下げの方便みたいな使われ方をしているが、医者を長くやっていると「何で俺はこんなに働いているのに、他科に比べて給料安いんだ?」という思いは必ず経験する。たぶんどこの職場でもそうなんだろう。成果主義の導入に際して、昔の安保闘争みたいな暴動は起きなかった。たぶん誰もが、どこかで「査定」されるのを望んでいるんだ。

ところがお金による努力の報酬というのは、すぐに効果がなくなる。

第一次世界大戦後、ユダヤ人排斥の空気が強い米国南部の小さな町で、ある人が洋服店を 開いた。 すると、地元の子供達がいやがらせのために店の前で「出ていけ!出て行け!」と叫ぶようになった。
そこである日、店主は子供達に「出て行けと叫んだら10セントあげよう」と言う。大喜びした
子供達はますます「出て行け!」と叫ぶようになった。 ところが次の日に、「今日は5セントしかあげられない」と言い、さらに翌日「1セントが限界だ」と言った。すると、子供達は「あんまりだ」と言って叫ぶのをやめた。 (bpspecial ITマネジメントより引用

努力に対する報酬が継続されるなら、まだまだ成果主義がうまくいく可能性があるかもしれない。ところが医療という世界では、これ以上に「お金というパイ」が大きくなることはありえない。

医療費は国家予算だ。国にお金が無い以上、どうしたって上限がある。個人の努力に対する報酬を引き上げるには、別の医師の努力を低く査定しなくてはならない。医師が命を削って努力したところで、その報酬はせいぜい、ノーパンしゃぶしゃぶ屋の肉一枚といったところだ。

組織崩壊の4段階モデルが成り立つならば、医療という世界では、お金が求心力として有効な期間はきわめて短い。

現在、「有名な」病院の医師の給料というのは、安いものと相場が決まっている。大学病院の医師と、市中病院の医師との収入差は2倍は当たり前。「成果」に対する報酬を求めて、大病院にいる医師が市場に参入してくると、市中病院で働いていた医師の給料は減り、大病院で働いていた医師の給料は増える。

ならば、大病院で働いていた、優秀な医師はその技量が報われて満足か?絶対にそうはならない。

低収入に甘んじている大病院医師と、市中病院の医師の総数が同じで、その収入には2倍の較差がついていたとすると、「腕」に対する報酬が同じになったとき、大病院の医師の収入は1.5倍となり、市中病院の医師の収入は2/3になる。

ところが、大病院の医師は、「2倍」を期待して市場に打って出た。ところが、市場からの査定は期待の2/3。さらに、この値がこれ以上に増えることは今後は絶対にない。医師の総数は増える。さらに、専門性の高い医師というのは、往々にして競争相手が多い。競争は価格の引き下げにつながり、医師の満足度はますます下がる。

医療という世界は、「名誉」という求心力が失われ、お金の力が世界をひっばる段階へと足を踏み入れつつある。お金が医者を引っ張れる期間は非常に短く、大病院がその名声に求心力を見出されなくなったとき、医療の業界は、速やかに「余暇」の段階へと崩壊の階段を下る。

余暇が重視される縮みゆく世界

働いたところで、訴訟のリスクが増えるだけ。頑張っても、収入変わらないし。

こんな雰囲気が世界を包むと、医者の頭数がいくらいたところで、医者は全く足りなくなる。

マンパワーが2人必要な現場に5人の医者がいたとき、その対応は時代ごとに変わってくる。

  • 夢の時代には現場の大きさを5人分に拡張した。
  • お金の時代には、優秀な2人だけ残して、他の人は別の職場へと去った。
  • 余暇の時代には、各々の医師が2/5人分だけ働く。現場はいつまでも人が足りない。

収入の向上が目標にならなくなると、大事なのはいかに「短時間だけ」働くかになる。僻地医療をやる奴なんて、頭がおかしい医者扱いだ。志があれば僻地で頑張れるかもしれないが、365日ネットで「バカ代表」扱いされれば、どんな雑音でもいやになる。

医師は必然的に人の多い地域に集中し、そこでも人は足りなくなるだろう。

専門家は増える。この時代は誰もが専門家だ。心臓でも、血圧の専門家。脈拍の専門家。心筋の専門家。血管の専門家。専門性は、どんどん細かくなる。

全身を見る、そんなリスクの高い仕事をする奴なんて、誰もいなくなる。

さめちまった理由(ワケ)なんか・・さがせばいくらでもある
何年もかけてやっと組み上がった研修医をあっさりブローさせちまうダサい客
救急外来の使い方(ヘタ)に気づかず全て病院のせいだ
仕方ね―から主治医を代えても、結局ヨソにいってあそこの病院はヤブだといいやがる
そーそォこーゆうのもあったナ・・
8年前だ・・左MCAの脳梗塞、すぐにt-PA使って2週間で歩かせた

ヤマ: 覚えてます、よく回復しましたよね

ところが家族は満足しねえ
あまりにも順調に回復しすぎて、あげくもっと入院させろといいやがった・・

ヤマ: 部長はあの時翌週予約でMRIをオーダーして・・

そォ、退院前に T2 high の画像を見せてやったョ
そしたら家族は大よろこびだ
「その白点が消えるまで、もう2週間置いてもらえますね。」
笑うゼッ!結局なんにもかわっちゃいね―のにナ
・・でもやっぱり客のせいじゃないよナ・・
オレの心が・・少しずつ・・そして確実に・・病院から離れていったんだ
最後の最後はそれなんだ……

悲観的な予想は外れる

ところで、こうした悲観的な未来予想というやつは、たいていの場合大外れになる。

ローマクラブの「成長の限界」などがそうだ。経済学者や科学者は、今ある知識の中でしか未来を予想しない。時代が進歩すると、必ず何らかの技術の革新というものが、世界を変化させる。

科学者の予言する悲惨な未来像というのはたいてい外れ、むしろSF作家の描く未来のほうが、より真実に近いことなどザラにある。

医療の未来もそうだ。場末の医者が、この10年ぐらいを眺めていて、勝手に垂れ流している妄想にしかすぎない。何か大きな技術の革新があれば、たとえばDNAの注射一発で糖尿病が治るようになったとか、幹細胞を利用した人工臓器に画期的な進歩があったとか、そうしたものがこの10年ぐらいに出現すれば、こうした医療の悲惨な未来というのは消し飛ぶのかもしれない。

資本主義V2.0

医療の悲惨な未来という予想が部分的にでもあたるものなら、医療というのは「一生を賭ける仕事」ではなく、生活のためにやる部分と、趣味としてやる部分との2つの顔を持った職業へと変化するような気がする。

医者をやっていれば、どうしてもある種のリスクからは自由ではいられないし、相性の悪い患者さんにも笑顔で接しないといけない。そうした部分からは、お金をもらって、お金をいただいた分は働く。

一方、医者なんて、どうせ医者をやるしか脳の無い奴がほとんどだ。仕事の量が減った分は、「趣味で」医者をやる。例えば、自分の「友達」のために、その人の病気の「戦略」を一緒に相談してみる。お金は取らない。代わりに、責任は道義的な部分に止まる。それでも、知り合いや友達のためならば、人はタダでも必死になる。たぶんお金をもらう以上に必死になって、その人の病気のことを考えるだろう。

コンサルタントのように、少しばかりの報酬をもらってもいいかもしれない。それでも、ある程度の利潤は追求するけど、「利潤の最大化」は追求しない。 ボランティアで無償の貢献をするというと、聞こえはいいけど継続しないことが多い。 会社に限らず、ある程度の事業を回していくには、適切な利潤を得ることは必要だ。

利潤の最大化は、必ず不毛な競争を生み、結果として長続きしない。

Hackers and Painters資本主義V2.0といった考えかたには、10年ぐらい先の医師の生き方のモデルがあるような気がする。

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2005年8月20日

勝利条件は何なのか

強いだけでは競争に勝てない

豊富な資金、莫大なマンパワーや技術。何かの競争をするときには、こうしたものはとても大きな武器になるけれど、勝負はそれだけでは勝てない。

勝負には、必ずルールがあり、ルールごとに勝利の条件というものが違う。 勝利の条件が何なのか、それを満たすためには何をするのかが最適なのかが決定できれば、 勝負の最適戦略というものが決定できる。

勝負事は、明確な目標に最適な戦略というものが加わって、初めて確実な勝利が手に入る。「実力」などというものは、勝負に勝つための必要条件ではあっても、十分条件にはなりえない。

負けるけど勝つ戦略

1995年のアメリカズカップ(150年以上続くヨットレースの最高峰)、日本は優勝候補とも言われながら敗退した。 当時の日本の造船技術は世界最高クラス。ニッポンチャレンジの資金力もまた、参加国の中で もっとも強力だった。 前回参加時の成績と経験。豊富な資金力と技術力。こうしたものを持ち合わせていながら、1995年の 日本はセミファイナルで11戦全敗し、この年の勝負を終えている。

日本はなぜ負けたのか。クルーの問題、艇の設計のミスなどいろいろ言われているが、 敗因として挙げられていた中で面白いと思ったのは、日本のチームは、アメリカズカップの 勝利条件を読み間違えていたという指摘だ。

この年に優勝したニュージーランドブラックマジックは、非常に極端な設計思想の船だった。 特定の気候条件ならば、他の船に大差をつけて勝利する。一方で、その操縦性は悪く、 平均すると、必ずしも「早い」船ではなかったという。

日本のシンジケートの持ち込んだ船は、どんな気候条件でも早い、操縦性に優れた船だった。 この艇は、どんな条件でも他の船に遅れをとることがない。ところが、 負けない船は必ずしも勝つ船ではなかったという。

アメリカズカップのルールでは、勝てる勝負を絶対に勝たないと、優勝できない。

動力に「風」という不安定なものしか使えないヨットレースでは、「負けるけど勝つ」艇でないと、 他の船に差をつけることが出来ない。ニッポンチャレンジの艇は優等生過ぎて、 「負けないけど勝てない」船に仕上がっていた。

「負けない」船では相手との差がつかない。僅差になると、挑戦2回目という日本のクルーの弱点が出てしまう。結果として、日本は全ての勝負を僅差で落とし、敗退してしまった。

同じような例でよく引き合いに出されるのは、F1グランプリだ。これもまた、負けるけれど勝つ設計 の車でないと、勝負にならない。グランプリは、上位6位以内に入らないと、ポイントがつかない。 7位以降は、リタイアしてもポイント0という意味では同じ。このため、「優勝するか、リタイアか」 という車のほうが、必ず完走するけれど勝てない車よりも、絶対に強い。

負けないことが大切な場合

逆に、「負けない」ことを第一優先にしないと勝負に勝てない場合もある。

第2次世界大戦当初、世界を席巻したゼロ戦は、向かうところ敵無しだった。 非力なエンジンにもかかわらず、限界まで軽量化した機体は運動能力に優れ、 ベテランパイロットが操縦したゼロ戦は、大活躍した。 ところが、どんなベテランであっても、一定の確率で被弾する。防御の弱いゼロ戦は、 被弾が致命的となることが多く、ベテランパイロットが多く亡くなってしまった大戦末期には、 ゼロ戦が活躍できる場面はほとんど無くなってしまった。

アメリカの戦闘機は、ゼロ戦とは逆の設計思想だったらしい。鈍重で、大きな機体を、 強馬力のエンジンで駆動する。今のアメ車のような戦闘機。

大きな機体というのは、弾があたっても落ちにくく、また製造がしやすい。

戦争という消耗戦では、戦争が終わったときに生き残っている兵士が多いほうの国が「勝者」になる。勝利条件は、とにかく生き延びることだ。

ベテランの生還率が高く、また補給が容易な戦闘機というのは、消耗戦が続く場面では 強みになる。開戦当初は押されていても、相手の体力がなくなってくる後半戦では、 「負けない」戦略が有利になってくる。

生態系での最適戦略

自然界での生存競争というのは、延々と繰り返す勝負に、さらに「相手と協調する」という 選択肢が加わる。

相手を裏切れば自分が得をするが、今度は相手に裏切られるかもしれない。お互い協調すれば 安心だが、今度は利益を独り占めできない。

こんなルールを延々繰り返し、一番多くのポイントを稼いだ種が勝者だ。

こうした「囚人のジレンマ」ルールでは、どんな戦略が最適なのか。

アクセルロッドの行った「繰り返し囚人のジレンマ」実験は、生態系の生存戦略の最適解に答えを出している。

アクセルロッドは、コンピューターシミュレーションでの「囚人のジレンマ」ゲームのコンテストを行い、世界中のゲーム理論家から戦略を募った。第1回目のトーナメントでは15戦略、第2回目のトーナメントでは63戦略がエントリーし、どんな戦略がもっとも有効なのかを競い合った。

この2回のトーナメントを勝ち抜けたのは、「しっぺ返し戦略」と呼ばれる方法論だった。この戦略は簡単で、最初は「協調」し、以降は前回相手の出した手をそのまま出すというもの。

この戦略は、最初に裏切られれば100%負ける。しかし、このゲームのルールは「再戦」があるので、ゲームの中で稼げる総ポイント数は多くなる。

いろいろな戦略を、総当たりで1対1対戦をしてみると、「しっぺがえし戦略」は、他の多くの戦略に対して「大きくは負けず」、「平均すれば最も多いポイントを稼ぐ」ため、最終的には勝利する。

興味深いのは、しっぺ返し戦略は直接対戦では他の戦略に一度も勝てなかったのに、「総合得点」では1位になったことだ。

生態系での生存競争に近いルールでは、その場の「勝負に勝つ」ことすら、生存競争に打ち勝つためにはそんなに大事ではない。

協調が可能なルールの元では、全ての種が自分の生存を追及した結果、結局は協調行動を選んだ種が支配的になる。このシミュレーションの結果は、自然界で見られる他種どうしの協調行動を説明するモデルとして、しばしば用いられている。

医療現場での戦略

我々の業界でも、戦略が予後を左右する。

病名が決まれば治療は同じ。教科書ではそうだ。それでも、現場ではやはり「戦略」の優劣は予後を左右し、「うまい」医者と「下手な」医者の差というのは、厳として存在する。

病気の治療というルールには、再戦という概念も無ければ、病気と協調するという概念も無い。どちらかというとスポーツのルールに近く、勝負は常に1回だ。

細かいルールは、病気ごとに全て違う。

  • ある病気では、大差をつけて勝たないと、「勝利」と認定されない。
  • 別の病気では、たとえば半年の勝負で最終的に51対49でも、ポイントが多いほうが「勝者」だ。

勝利目標が「大差をつけること」ならば、どこかでギャンブルに出ないと絶対に勝てない。敗血症の治療などがそうだ。一刻も早く、ためらい無く抗生物質を落とさないと、勝負はどんどん不利になる。

一方、勝負のゴールが「僅差で勝つ」ことならば、物量の投入が必須になる。持久戦で勝負するには、どちらがより多くの「物量」を持っているのかが勝負の全てだ。例えば劇症型心筋炎。どこまで「えげつない」治療をためらい無く継続できるか。主治医の心が折れたらそのときが負けだ。頑張っても非常に厳しいけれど。

同じ病名、同じ薬を用いるときでさえ、その戦略が異なるときもある。たとえば抗がん剤による化学療法は、従来型の「攻め」の治療法とは別に、「守り」の戦略というものが考えられている。

従来「攻め」の戦略

抗がん剤が腫瘍細胞と正常細胞とを見分けているのは、その分裂速度だけだ。正常細胞であっても、白血球や毛髪といった分裂の早い細胞は、抗がん剤の悪影響を受ける。抗がん剤を使っている限り、こうした副作用はどうしても見られるし、抗がん剤を大量に用いれば、腫瘍は無くなっても白血球もいなくなる。

従来型の抗がん剤治療というのは、治療の目標を「腫瘍のせん滅」に置く。腫瘍を消すための抗がん剤の濃度というのは、大体決まっている。治療戦略の最適化の目標は、いかに副作用を少なく、抗がん剤の血中濃度を上昇できるのか。いろいろな治療戦略が考えられてきたが、作用と副作用、どうしてもその間にはギャンブル的な要素がある。なかなかブレイクスルーが出ない。

「守り」に重点をおいた腫瘍治療

一方、同じ抗がん剤を使った腫瘍治療でも、その治療の目標を「腫瘍のせん滅」ではなく、「腫瘍の成長阻止」におく考え方が生まれてきている。

たとえ癌細胞が体の中にあっても、成長しなければ生体は死なない。腫瘍をせん滅するのに必要な抗がん剤の量は大量だが、成長を抑えるために必要な抗がん剤は少量で済む。この考え方から生まれた治療戦略は、抗がん剤を少量ずつ、長期間(生きている間ずっと)にわたって投与する。

この考え方で抗がん剤を使うと、薬剤は腫瘍そのものではなく、腫瘍が作る栄養血管に対して効く。血管の細胞は正常細胞だから、癌細胞よりよっぽど薬が良く効くし、耐性もつきにくいらしい。

こうした方法は、従来とは治療の目標自体が違うので、以前のものさしではその優劣が判断できない。従来流の治療戦略は、その効果の評価に「腫瘍がどれだけ小さくなったか」を使う。「守り」の方法論で抗がん剤を使っても、腫瘍は小さくならない。この方法は、「攻める」発想から見れば、効果の無い治療だ。

でも患者は死なずに長生きする。僅差の判定勝ちを拾いに行く治療戦略だ。

まだまだマイナー(私が不勉強なだけか?)な方法論だけれど、考えていることは「正解」に近い気がする。サリドマイドが多発性骨髄腫に効果があった、というNEJMのペーパーあたりから、こうした方法は徐々に取り上げられるようになってきている。

目標の無い戦略はありえない

「勝つ」にはどうすればいいのか。どういう戦略を取るのがもっとも正しい方法なのか。

多科にまたがる複雑な疾患の患者さんの治療方針を合議で決定するとき、ドツボにはまるのが 「誰も目標を示せない」という事態だ。

この患者さんの治療目標というのは、「どんなに侵襲的なことをやっても、とにかく生かす」なのか、 「いい人生だった。といって安らかに見送る」のが目標なのか、治療する科が複数になると、 このあたりが見えなくなってくる。

誰もがゴールを決められないとき、それぞれの専門家は、お互い勝手に「最適化」をはじめる。

外科は「自分たちが最適と思う」手術を行い、それは内科から見れば必要な手技が行われていなかったり、逆に過度に侵襲的なものであったり。内科は内科で、外科から見れば不本意な透析を勝手にオーダーしてみたり、いつのまにか山のような内服薬を処方していたり。

誰もが勝手に最適化をはじめると、総合的な治療戦略はめちゃくちゃになる。船頭が多くなると、船はどこに流れるか分からない。誰もが勝手に舵を切り始めた「船」の行き場は、たいていは黄泉の国だ。

  • 「勝ちに行く」なら、徹底して勝てる治療を考える。「守りに入る」なら、たとえば7日間守れれば、その間に白血球数を増加できるとか、ガンマグロブリンが効いて来るとか、待つための明確な目標を定める。
  • 攻めるなら、いらないものは徹底して捨てる。一方守るなら、とにかく物量を投入できるよう、最大限の準備をしないと持久戦で負ける。

このあたりの目標設定をちゃんとやらないと、正しい戦略というのは絶対に生まれてこない。研修医の頃は、患者オーダーの欄に「作戦」という項目を書くよう教育された。EBMに基づいたガイドラインとかいう狂った宗教が日本を席巻してから、病名が決まれば、作戦は自動的に決まるようになり、医者は戦略というものを決定できなくなった。

集団戦をやるときは、誰か一人、声の大きな医者が統率しないと、専門家の集団による治療というのはその力を発揮できない。

目標のない最適化、中途半端な戦略というのは、きっとお互いを不幸にする。

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2005年8月18日

児童百科事典という本があった

保育園(家のあった地域は6年保育だった)から小学校に上がるかどうかの頃、家に帰るといつも読んでいたのは百科事典だった。

児童百科事典というのは、当時は百科事典の編集と出版に命をかけていた平凡社が、1959年に出版した子供向けの百科事典だ。

地味な本だった。

自分が読んでいた、1970年代当時ですでに10年落ち。箱は粗末な茶色のボール紙、装丁こそ少々立派だったもの、カラー印刷やマルチメディアなど、まだまだ夢だった時代。子供の喜びそうな漫画のキャラクターなど一人も居らず、見た目は「大人向けの」百科事典そのもの。

百科事典と名前がついているぐらいだから、文章の量も多い。児童百科事典は、A4の百科事典サイズで、全24巻あった。全部並べると、1.5m近く。1冊1冊の本は重くて、ガキが持つには危ないぐらい。実際、本棚の高いところから本を抜こうとして、何度もけがをした。

この百科事典が画期的なのは、編纂した人たちが、この24巻を子供に本気で読ませようと考えていたところだ。

子供向けの本というのは、普通は親のために書かれる。子供が好むものなんて、大人にはわかりっこない。親にアピールすれば、事典は売れる。派手なカラー写真や、「教育的」な内容、わかりやすそうなキャラクターや、読みやすい大きな活字。お子様ランチだ。

児童百科事典は、本格的だった。内容はといえば、大人の百科事典そのもの。文学や科学、医学の知識、印象派の歴史から爆弾や火炎瓶の作り方まで、なんでも載っていた。小項目の百科事典だから、タイトルは全てアイウエオ順。ピカソの伝記の後に、ピクリン酸(爆弾の原料)の化学式が平気で記載される世界。

ところがこれが面白い。自分の興味のある無しにかかわらず、ランダムな知識がどんどん頭に詰め込まれる毎日。24巻、何回読んだか分からない。もう性格が歪む歪む。

自分がものを読めるようになった当時、この事典は出版されてからもう15年経っていた。内容が古すぎるということで、後年学研の児童百科事典を買ってもらったが、これがなぜか、どうしようもなくつまらなかった。

当時はガキだったから、文章のよしあしなんて、もちろん分からない。でもつまらない。見た目もきれいで、カラー写真満載の新しい事典は開かれることなく、「古いからもうやめなさい」といわれながらも、いつも「児童百科事典」を手にとっていたのを覚えている。

児童百科事典を編纂したのは、瀬田貞二という人だ。

児童文学の世界では有名な方で、「児童百科事典」の編集長を務めた後にフリーになり、「ホビットの冒険」「指輪物語」「ナルニア国ものがたり」など多数の児童文学を翻訳したり、また何冊もの児童小説を書いている。

この百科事典が作られていた頃、同じ平凡社の別のブースでは「世界大百科事典」という大人向けの百科事典を編集中で、当時母親がここに勤めていたそうだ。自分はこの頃、まだDNAにもなっていない。

児童百科事典を編纂していた人たちというのは、当時の出版社の中でも変わり者扱いされていたらしい。50も過ぎたおじさんばかり、肩書きも学歴も立派な人たちが、1日中シャボン玉を作ってみたり、竹を削って竹とんぼを作ってみたり、といったことを延々繰り返していたらしい。

編集部の誰かがシャボン玉を吹くと、みんなが集まって、子供の目線ではそれがどう見えるのかを観察する。で、その驚きや感動、大きなシャボン玉を作るコツといったものをまとめ、「セッケン」という小項目の文章を作る。

徹底して子供の目線から文章を書くというスタイルは、どこかディズニーランドを作ったときのコンセプトに似ている。当時の社内でも、「すごいことをやっている人たちがいる」という話はあったようで、後年自分が生まれたとき、母親は古本屋を回って、絶版になったこの事典を仕入れてきたのだそうだ。

児童百科事典は売れたらしい。出版された当時は百科事典ブームで、その中でも画期的な事典と評価されたらしいが、結局改定されることなく絶版になった。

この百科事典の編集長だった瀬田貞二本人も、刊行後しばらくして会社を去っている。

邪推するに、後年もっと「親御さん受け」する競合他社の百科事典を相手に、この事典をもう一度編纂しなおすだけの体力は、会社にも編集部にも残っていなかったのではないだろうか。百科事典を刊行するのに4〜5年、他の会社の「子供向け」百科事典などは、もっとお手軽に出来て、しかもきれい。

インターネット時代、今ではこんな出版物の企画自体、絶対に通らないだろう。

出版という行為にものすごいマンパワーと時間を注ぎ込むのが許された時代。この事典の製作にまつわる話というのは、きっと面白いものがたくさんあるはずなのだが、これだけネットが広がっても、何もでてこない…。

現物は今でも実家にあるのだが、誰か当時の話、ご存知ありませんか?

現役で編集された方は、おそらく全員亡くなっているだろうけれど…。

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2005年8月16日