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2005.08.31

Happy Tree Friends 特別番組

当院でも大人気のほのぼのグロアニメHappy Tree Friendsの豪華特別版が、G4というオンラインTVで30分番組として放送されるらしい。

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放映予定は、9月8日と9月11日。

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日本のファンサイト Happy Tree Friends 超非公式ファンサイト

ロシアのまとめサイト (過去のFlashが見られる)happy tree friends

壁紙集 Happy Tree Friends :Desktop Doodads

ゲーム集 HTFGAMES

自分のノートパソコンは、壁紙もハピツリ、起動音もハピツリ。アメリカ人は、こういう物にとてつもない技術とパワーを注ぎ込めるから、あなどれない。

2005.08.30

文章メディアの限界と可能性(後半)

内容と表現は分離可能か

文章メディアが表現する中身というのは、その物語の「内容」と、「文章の起伏」とに大別される。

物語の内容のみ読み出す方法として、「斜め読み」に代表される速読の方法があるが、 そこで置き去りにされた「文章の起伏」とは、文章メディアにとってどういう存在なのだろうか。

  • 内容が肉ならば、レトリックは骨。分離すれば、文章は死ぬ。
  • レトリックというのは、着せ替え人形の服のようなもの。着せる服によって、同じ中身でも違って見せられる。

どちらの立場が正解に近いのだろう。

古い物語は、それが文書として形成される前に、長い口づたえの時代を経ている場合が多い。

昔話に代表される民間伝承もまた、初期の頃はすべて口伝で次の世代へと受け継がれた。 語り部は、聴衆の求めに応じて話を思い出す。

物語の記憶の方法の一つに、縄につけた結び目を利用するものがある。

語り部には、物語の文章の代わりに、いくつもの結び目を作った縄が受け継がれる。伝承者は、その結び目の大きさや数を頼りに、覚えた物語を再構築していく。

  • 一つ目の結び目は「昔々あるところに」
  • そのに続く、2つの小さな結び目は、「おじいさんとおばあさんが…」
  • その後ろの結びが1つなら「山」、2つなら「川」…

こんなぐあいに、結び目の大きさや数といった情報で短い文章を関連付け、話の流れは縄の長さや結び目の間隔で表現しているらしい。

テープレコーダーのようなものだが、大きな違いがある。縄自体には何の情報も乗っていないという部分だ。

どんなに巧妙に結ばれていようと、縄は縄。物語の情報の主体は、語り部のおばばの莫大な情報の集積だ。文章のプロットは、どの縄を持つのかにより全く異なってくる。

文章の内容と、その表現の方法は、本質的には分割可能なものだと思う。文章の内容の見せ方は、昔の「結び縄」から現在の「文字」「漫画」、さらに将来的にはPCによる時間軸管理に至るまで、その時代の技術レベルに応じた様々な方法がとられるべきだ。

小説という表現技法は衰退する。ちょうど、白黒映画がカラー映画にとって変わられたように。それでも、文章による表現というメディアの重要性は、そのまま残る。

文章メディアは何を目指すべきか

映像表現というメディアは、前述したように意外に不自由だ。

舞台演劇や朗読、映画といった話し言葉のメディアは、時間設定の自由度が非常に狭い。 話し言葉は、そのペースが実時間に左右される。どんなに速くしゃべっても、話し言葉で伝えられる文章量というのは、1分間にせいぜい500字といったところだ。普通のペースなら、もっと少ない。

文字情報であれば、大体話しことばの2倍のペースで読める。斜め読みをすればもっと速い。

映像メディアは、たとえば主人公が60分話した内容を聞くためには、60分の時間がかかる。文章メディアであれば、物語の中での0.1秒の間には、無限に近い情報を詰め込める。「間」のようなゆっくりとした時間の流れを作らなくてもいいのなら、文章メディアというものは、時間軸をいくらでも速く設定できる。

いい小説には2種類ある。

  • 物語の力で読ませ、読者に一気読みを強要するようなパワー系の小説
  • 文章のプロットで読者を引き込む、熟読や味読といった読みかたの必要な技巧系の小説

将来生き残るのは前者のほうだ。文章メディアの進化というのは、いかに「斜め読み」に耐えられるか、物語の内容を、いかに分かりやすく読者に伝えられるかという方向に向かうべきだと思う。ビックリするようなどんでん返し、プロットの妙といった要素は、今後はプログラマーとの共同作業になる。

斜め読み前提の文章

文章メディアの利点のひとつは、未来予測の可能な一覧型のメディアであるという部分だ。本を開けば、これから読まなくてはならない文章や絵は一覧できる。時間軸に沿って進む映像メディアでは、スクリーンの前で待っていないと、先の展開が分からない。

小説にしても漫画にしても、実際に頭で読んでいるよりも、目は常に先を行っている。目で読んだ文章が意識に「音」として上る前に、無意識のレベルでは、文章はすでに頭に入ってきている。

斜め読みでより多くの情報を拾いやすい文章というのは、文章の構造というものが、あらかじめ分かっているものだ。どこに山があるのか、重大な情報は、見開きのページの大体どのあたりにあるのか、それにはどんな強調がなされているのか。そういった構造が、一冊の中で一貫していると、たとえページの一部しか読んでいなかったとしても、本一冊の大雑把な構造は頭に入る。

一方、山ほどめぐらされた伏線、コロコロ変わる人称代名詞、読者の予想を裏切るどんでん返しといった技巧は、飛ばし読みをしている人の障害になる。熟読する人には面白い仕掛けも、急いでいる人には単なる障害物だ。

飛ばし読みに最適化された日本語という言葉

英文表記は視覚的には不利 英語は、即座に認識するのには不利な言語体系をもっています。 漢字表記や日本語のように仮名まじり漢字表記に比べて、文字としての識別機能が落ちるのですね。

例えば、本屋や図書館などに行ってみると分かります。日本の本屋で書籍の大量に並んだ本の中から目的の本を探すのと比較すると、欧文の本を探すのは、時間がかかります。 日本語表記の本を探す場合は、並んだ書籍の背表紙の上に視線を走らせるだけで、選び出せます。選び出せないまでも、著者などで大体の見当をつけてから詳細に見る、ということができます。欧文表記の本が並んでいる場合は、そうは行きません。 編集とレイアウトの基礎知識より改変引用。

文章を一覧できないという現象は、なにも日本人が英語が不得意というわけではなく、英語圏に住んでいる人にとっても同様らしい。英語は「斜め読み」には向かない。これができるのは、日本語の大きな特徴らしい。

漢字かな混じりの文章というのは、飛ばし読みをするときには大きな利点がある。

  • 漢字を多用することで、より少ない語数で大量の情報を伝えることができる。
  • 漢字は見た目で暗記されているので、一つ一つの語を読まなくても意味が伝わる。
  • 単語と単語との間は、明らかに見た目の異なるひらがなで結ばれているので、文章の中で意味を拾う必要のある部分は自然に明らかになる。
  • 識別性に優れた漢字とひらがなは、頭に情報として格納されるスピードが速い。

日本人は九九を覚える。だから計算が速い。

同様に、漢字を中心にした言語を持つ人たちは、漢字の意味を大量に記憶しているから、文章理解のスピードが速い。

小学校の頃に泣かされた、膨大な量の漢字の暗記というものは、日本語という文字メディアに、斜め読みに対応した概念ツールとでもいうべきものを与えくれたのかもしれない。

英語には、そうした斜め読みに相当する技術や、文章をの大雑把な内容を把握する「概念ツール」に相当するものが無いか、一般的ではないらしい。英語はわずかなアルファベットの組み合わせだ。単語の意味を理解するには、この組み合わせが何を意味するのか、一回一回「計算」しないと答えが出ない。

漢字圏の単語は、組み合わせの数も少ないし、それもまた「熟語」で記憶されている。文字の形と記憶が一対一対応だから、計算の負荷は少ない。

進化した文章とはどういうものか

  • 文章全体の構造というものを速い段階で明らかにすること。
  • ひとつの名詞を表す単語は、文章を通じて同じにすること。
  • 意味をもたせたい単語、あるいは重要な単語には漢字を使い、それ以外はひらがなでといった使い分けを試みること。

こうしたことに気を配りつつ、そのまま文章を書くと、起伏のない、「頭の悪そうな」文章が出来上がる。「紙に文章を書く」という現在の表現手段では、まだまだ文章の修飾は欠かせず、内容と表現との分離は難しい。

このあたり、HTMLを書くときにテーブルレイアウトを多用すべきか、CSSに任せるか、といった話題に通じるものがあるのだが、現時点ではある程度のレトリックをいれて文章を書かないと、何よりも文章を書いている自分自身が退屈でしょうがない。

HTMLで分けるようにいわれているのは「内容」と「構造」だが、その内容にあたる文章自体もまた、内容と構造とに分解可能だろうか。同じな内容でも、その表現のしかたによりコメディーにもホラーにもなりうる文章。そんな情報の記載ができると、文章メディアのあり方というのはずいぶん変わってくる気がする。

  • 一切の演出抜きで斜め読みしたいときは、斜め読みモード。
  • じっくりと読んで、驚きを味わいたいときは、伏線モード。
  • さらっと読みしたいときは、エッセイモード。

状況に応じて演出手法を選択可能な文章というものは作れないのだろうか。

思わせぶりな前振りをなくし、文章を飾ることを止め、同じ単語を繰り返して伏線を張るのを止める。文章の修辞や、レトリックといった修飾手段は、フォントの大きさや濃さ、あるいはまったく別の表現手法を導入することで、今までの文章メディアのあり方を進化させることはできるだろうか?

現在の技術の進歩を取り込んだ、映像メディアの1つの到達点にあるのが StarWars の最新作だ。内容の是非は脇に置くとして、あの映像はもはや見る絶叫マシンの領域に達している。同じ時間内に、とにかくより多くの情報、より多くの刺激を詰め込めばああなる。視覚と聴覚を通して入ってくる情報量はもう限界に近い。

ジョージ・ルーカスは、次世代の映画には、嗅覚とか触覚とか、新しい感覚の導入を考えているという。映画は進化して、いよいよ遊園地のアトラクションに近づいている。

文章の進化の方向は逆だ。いかに無駄を削るか。文字というメディアを通じて、どれだけ多くの情報を、短い文章に詰め込むか。

構造や修飾というものから完全に自由になった文章メディアというのは、やはり「本」という型式を捨てるような気がする。その先に現れる文章表現というのはどんな形をしているのだろう。

2005.08.29

文章メディアの限界と可能性(前半)

小説や漫画。映画やゲーム。

作家や監督の「思い」や体験、意図といったものを伝える様々なメディアは、技術の進歩とともにどんどん増えている。

メディアには、それぞれの特徴がある。長所や短所。得意分野や欠点。果ては製作にかかるコストや流通経路。考え出したらきりが無い。

様々な表現メディアを比較する上で鍵になるのが、時間軸の主導権という問題だと思う。

「一手間かける」重要さ

作家は何かを意図する。それは自分の想像したことであったり、自分が過去に体験した物語であったり。あるいは、単に観客の「度肝を抜く」ことであったり様々だが、その意図の伝わり方というのは、メディアにより大いに異なる。

作家の意図を、受け手の頭に「刻みつけたい」とき、その意図の理解にはある程度の手間がかからないと、読者の頭の中までは情報が入っていかない。

某社がかつて、水を加えるだけでケーキの焼けるケーキミックスを発売したが、市場からは全く相手にされなかった。 売れなかった理由はこうだった。

消費者は、水を加えるだけでは料理をした気にならない。ケーキミックスの存在意義というのは、ケーキを簡単に焼くことではなく、主婦が「料理」を簡単に行えることにあった。

作るのが簡単すぎると、ケーキは焼けても料理をしたことにならない。料理と呼べる最低限度の手間とは何か。この会社では、ケーキミックスに卵を加えないとケーキが焼けないように「改良」を加えた。この商品はおおいにヒットしたという。

「すばらしい体験をした」という感動は、その物語に作者がこめた意図を、読者が「自分で発見した」から生じる。そこにはある程度の手間がないと、「自分の発見」という形で消費者の頭に入っていかない。

発見に必要なのは、作家の意図の言語化という行為だ。言語化の必要のないメディア、アクション映画や遊園地の絶叫マシンを体験するのはラクだけれど、そこから何か重大な意図を発見するのは、逆に難しい。

体験の重要さは理解の手間に比例する

今までに覚えている感動した話、重要な知識や体験といったものの「重要さ」は、その物語や体験自体のすごさではなく、「作者の意図した物語を、作者と共有するために要した手間」に比例する。

どんなにそれがすばらしいものであったとしても、それが簡単に理解可能な体験ならば、人間はそれを「重大なもの」としては記憶しない。

たとえば「かもめのジョナサン」という本はベストセラーになり、そこからいろいろな「重要な体験」を汲み取る人がいる。あの本を体験するのは簡単だが、一方であの本を解釈、あるいは理解するのには手間がかかる。

本を読んで、「本を読んだ」という体験をするところまでは万人共通のプロセスだ。そこから先、作者が物語りに込めようとした意図を「発見」するという行為は、読者一人一人の個人的なものだ。

読者が発見した「物語の本当の意味」が、はたして作者が意図したものと一致するのかどうか、そんなことはどうでもいい。その発見が重要なのかどうかは、その人がメッセージを発見するまでに、どれだけの苦労を要したかだ。

あの本から、「人生努力が大事」なんていうメッセージを受け取った人がいるとしても、ならばその人が「人生努力」と書いた文章を読んで感動するか?たぶん「ああそう」と受け流してしまうだろう。おなじ文章でも、例えば相田みつをの書道のように歪んだ毛筆で書かれていれば、そこにまた「解釈の手間」が生じる。ただのありきたりな人生訓でも、そこから何らかの「体験」を読み取る人も出てくるだろう。

楽なメディアと大変なメディア

大部の小説を読むのは大変な作業だ。目次や挿絵といったものが全く無かったり、ましてやそれが母国語で書かれていなかったりすれば、なおさらだ。

簡単なメディアの代表は、遊園地のアトラクションだ。良く出来た絶叫マシンなど、もはや乗っているだけで何も考えなくても「体験」ができる。吐くけど。

作者の意図したものを「体験」するための難易度というのはメディアごとに違う。

こうした難易度を決定しているものは、人間の様々な感覚だ。

視覚。聴覚。時間の感覚。そして体感。こうした感覚のうち、いくつを作者にゆだねるのか、その割合で、そのメディアの難易度というものが決定される。

本->挿し絵->マンガ->映画->遊園地の絶叫マシン

物語を伝えるためのいろいろなメディアは、「難しい」ほうから大体この順序で並ぶ(演劇とか舞台は、語れるほど多く見ていないので除外)。この順序は、そのまま人間の感覚をロックする割合に一致している。

乗っかっていればいいメディアは、誰が見ても面白いが、後に残りにくい。一方、つまらない小説は投げ出されるが、それが読者にとって非常に面白いものであれば、何年経ってもその思い出は残る可能性が高い。

漫画喫茶と映画館の越えがたい壁

メディアの難易度の序列の中で、特にマンガ->映画の差というものは、非常に大きい。この段階で、時間軸の決定権は読者から映画監督へと奪われる。

静的なメディアと動的なメディア。読者に考える時間が自由に与えられている小説や漫画。上映時間やアトラクションの動作中は立つことも許されない、映画やアトラクション。

この両者の間というのは、越えがたい溝がある。映画やゲームの小説化、あるいはその逆が必ずしも上手くいかないのは、たぶんこのあたりが原因なのだろう。

時間軸の決定権が作者にあるのか、あるいは読者にあるのか。 このことは、メディアの性格を大きく決定付ける要因になる。

技術の進歩は過去のメディアを上書きする

物語の作者にとっては、表現の自由度は多ければ多いほどありがたい。

例えば白黒映画時代。初めてカラーの映像が出た当時は、「カラーなど品が無い」「白黒映画のほうが深みがあって面白い」といった批判がたくさん出たそうだ。

ところが時代はカラー一辺倒になる。カラー映画の白黒版を作ることは、簡単にできる。一方、その逆は不可能だ。一度カラーの映像を知った製作者は、カラーの良さを知るとともに、今まで知らなかった「白黒のよさ」も発見する。同じメディアを使った勝負なら、その長所をより多く知った者のほうが有利だ。カラー映画を体験した監督と、白黒に固執した監督。最後はカラーを体験した人のほうが勝つ。

白黒とカラー、モノラルとステレオ、メディアの表現方法には様々なイノベーションがあり、そのイノベーションがもたらした「体験」というものは、過去の人との間に決定的な断絶を作ってしまう。

次世代のメディアというものは、過去のメディアの上位互換として機能する。ならば、「時間軸を制御する」機能を手に入れた映画という技術は、文章メディアの機能を完全に上書きしてしまうのだろうか?

映画は小説を殺したか?

映画ができる前、動画というものは再現不可能だった。一方で、スクリーンに文字を投影すれば、たしかに映画館で小説を「上映」することも可能だ。

それでも小説は売れている。カラー映画の登場とともに、白黒映画は主役の座を降りたが、動画メディアがこれだけ普及しても、やはり小説は重要なメディアの一角を占めている。

映画をはじめとする動画メディアは、もともと舞台演劇を再現するために発展してきた。このため、映画の文法の中には、もともと「文字情報」という概念が含まれていない。

たとえば漱石の「こころ」。うだうだ悩んでいるだけ。太宰の「走れメロス」。素っ裸の男がゼーゼー言いながら走っているだけ。文章のまんま映像化したら、たぶん犯罪的につまらないものになる。映画とは、小説の上位互換のメディアではなく、全く別の作品として作り直さないと成立しない。

実時間で演じられていた舞台演劇をベースに発展してきた映画と、人間の思索を可視化するところから始まった小説は、まったく別のメディアだ。映像メディアがどんなに発達しても、それが「表現に文字を取り込めない」という制約がある限り、文章メディアが映画に飲み込まれることは無いだろう。

文字の使えない映像メディアの制約

時間軸というのは、非常に大事な感覚だ。「映画を見る」というルールでは、観客は時間軸のイニシアチブを映画監督に渡す。

このことは、作家の表現の自由度を飛躍的に増やす反面、「観客の感覚を裏切れない」という制約をもたらしてしまう。

映画は、その表現がリアルになるほど実世界のルールに縛られる。

「ルール違反」は観客を不快感を与える。映画の中のヒーロー、スーパーマンやバットマンが、あそこまで明らさまに怪しい格好をしているのにはわけがある。「わたしはこれから実世界のルールを破ります」と観客に宣言するためだ。

映画の中で人が空を飛ぶ、ビルから飛び降りるといった行為は、「ここからがフィクションです」という宣言をしないと、観客を不安に陥れる。

映画の文法の中では、実世界の常識を覆す動作は全て観客に不快感を与え、ファンタジーを意図した動作をもホラーにしてしまう。

アニメの「巨人の星」などは、そのあたりをうまく処理している。星飛雄馬がボールを投げて、バッターボックスに届くまでに3週間かかるなんてザラだったけれど、あれは紙芝居に近いアニメだから安心して見ていられた。アニメーションがよりリアルになったり、あるいは実写映像になれば、もはや「お約束」は通用しなくなる。

実写メディアで、普通の人が常識外れの行動を起こすと、観客は非常に不安になる。映画「エクソシスト」がいまだにホラーの金字塔なのは、あの映画の中には普通の人しかおらず、「モンスター」の映像が一切出てこないからだ。

文字というメディアの「速さ」

映像がリアルになるほど、動画メディアの作家は、観客の時間軸を裏切れなくなる。

小説世界では、数十ページにもおよぶ心理描写などはザラだが、こうしたことは映像メディアでは非常にやりにくい。

動画というのは本来、情報の受け手が体験できる情報量が非常に多い。ところが、処理しなくてはならない情報量が多すぎて、頭が映像を「理解する」スピードというのは遅い。頭が状況を理解できるスピードは、小説のほうがよほど速い。

「速い」物語、たとえは悪いが「北斗の拳」のケンシロウラオウといった「漢」達たちが、延々と語り合いながら殴りあう場面などは、拳が一発入る間に数ページにわたる心理描写が入る。こうした状況は、小説や漫画などの「静的な」メディアのほうが表現しやすい。

逆に「遅い」物語、本の読みかたとして「行間を読む」ことを要求されるものとか、含蓄のある文章などと表現される小説などは、本来は文章メディアの不得意な分野だ。映像が無い時代、こうした遅い物語を書ける技量というのは貴重だったかもしれないが、現在は動画メディアの時代だ。こうした文章表現は、遠からず動的なメディアにとって代わられるだろう。

物語の持つ「間」の力

ひぐらしのなく頃にというゲームが面白い。アニメ絵の女の子の立ち絵に引いてしまい、全く食わず嫌いを囲っていたのだが、「面白い」という評判があまりにも多いので体験版をやってみると、これが本当に面白い。面白いというか、非常に怖い。

内容は推理もの、あるいはスリラーやホラーといったジャンルに分類される物語。ゲームといっても画面上のストーリーを追っかけているだけで、こちらにできるのはただただ文字を読むだけ。要は絵のついた小説。プログラムの技術的には、たぶんそんなにすごい技術が使われているわけじゃない、と思う。

ところがこれが怖い怖い。自分はホラー映画は相当見ていて、それこそ「サスペリア」が流行した頃から、「エイリアンvsプレデター」まで、主だったホラー映画は大体見ているが、それでも怖い。ホラー小説も多数持っているし、残酷な映像や物語も、大体日常が「そのもの」だ。耐性は相当できている。それでも怖い。

怖さの原動力になっているのは、たぶん「間」の取りかたが抜群に上手なためだ。

物語の流れの中に挿入された「間」は憶測を生み、得体の知れない恐怖を作る。

PC上で読む小説というのは、読むスピードは読者の自由にゆだねられている。この部分は静的メディアの「スピード」という利点が生かされ、どんなに膨大な心理描写であっても、それが文字で記載されている限り、読者はストレス無く読み進められる。

既存の小説と違うのは、時間軸の取りかただ。

既存の小説では、時間のイニシアチブは読者のものだ。歴代の文豪は文章を工夫したり、文体を工夫したりして、なんとか小説に「間」を作ろうと努力してきた。

PC小説の作者は、その工夫を簡単に乗り越える。PC上で読む小説の場合、怖さを演出するために「間」が必要な場面では、文字が出てくるスピードが勝手に遅くなる。この瞬間、時間のイニシアチブは読者から奪われる。「奪われた」という感覚は、強烈は不安感を読者に与える。ホラーの演出にはもってこいだ。

PCメディアは、間を作ったり、時間軸を読者から奪ったりする行為が簡単にできる。こうしたものを作るために、小説や漫画といった静的なメディアは様々な工夫を重ねたが、最初からこうした方法が取れるPCメディアには、表現の方法で絶対にかなわない。

これは小説の上位互換メディアだ。ちょうど白黒映画に対するカラー映画のような。

きっとまだまだ未完成だけれど、時間軸の支配権を自由に与えたり、奪ったりできるというメディア、それも小説の技法から発展してきた文章メディアというものは、たぶんPC小説やアドベンチャーゲームといったものが初めてだ。

こうした表現方法の進歩以後、もしかしたら既存の文章メディアは、その表現技法の一部を放棄する必要があるのかもしれない。

自分は白黒映画は良く知らないけれど、きっと白黒世界で「カラー」を表現するために、いろいろ工夫された技術というものは、過去にあったはずだ。

カラー時代になって、白黒画面という記号には、独特の意味がもたされるようになり、いまだに白黒映画というものは生き残ってはいる。しかし、もはや白黒画面で全て表現しようなどと考える人はいない。

図書委員会の本の読みかた

文章メディアの表現する中身というのは、その物語の「内容」と、「文章の起伏」とに大別される。

物語というのは、なにか作者の考えた内容というものがまずあって、それを読者により有効に伝えるための演出として、文章に起伏を作る。いい文章には2種類ある。内容のパワーで読ませる文章と、日常生活の軽い雑記のような内容でも、読むと気分がよくなる文章と。どちらも持ち合わせていないのは、つまらない文章だ。

昔図書委員をやっていたころに教えられた斜め読みの方法というのは、このうち「内容」だけを抜き出す方法だ。

当時通っていた高校では、毎年夏になると300冊近い本を購入する。図書委員は、夏休みの間にその全てに目を通して、あらすじを知っておく必要がある。

購入した本は、全てカバーをつけて、図書カード(もちろんPCデータベースなんてあるわけが無い。8インチフロッピーディスクが最新メディアだった頃だ)に内容を記入する。そういった手続きをする間、その本を「読む」。もちろん斜め読みだが、それには方法論があった。

  1. 最初に表題とあらすじを読む。これは普通に読む。
  2. その後は各ページの右上4行、さらにその上半分だけを目で追っていく。
  3. 本の中盤までページをめくらないと、主人公が誰なのかも良く分からないときもある。 それでも、単語を拾いつづけていくと、大雑把な内容はわかる。
  4. 図書委員は大量の本を過去に読んでいる。過去に読んだ似たような話の「筋書きパターン」に、強引に単語を当てはめ、大まかな筋を「解釈」する。

当然小説の伏線とか、読者の期待を裏切る大どんでん返しは無視。自分が楽しむための読み方ではなく、夏休み明けに、借りに来た人に本を「紹介」するための読み方なら、これで結構いけた。

大体どのあたりで盛り上がるのか。どこが伏線で、それをどうやって消化するのか。誰が犯人で、それをいかに思わせぶりに、読者の期待を裏切るのか。それを工夫するのがプロの小説家の仕事なのだが、物語の内容だけを頭に入れようとする場合、そうした工夫は不必要だ。他人に本を紹介するときには、「自分がどう裏切られたのか」までは話す必要がない。

静的メディアは先読みされる

予断を持って、あるいは既存のストーリーを強引に当てはめて本を読むと、作者の意図した興奮や感動といったものは読者に伝わりにくくなる。

内容は分かる。ところが、本をたくさん読んだ人ほど過去のプロットを多く暗記しており、先入観を持って本を読む。作者がどんなに文章を工夫しようと、読書好きの人間にはその努力は伝わらない。

さらに、本を読みなれた人間の視界というのは非常に広い。目に入った文字を、頭で「読む」には少し時間がかかるけれど、読者の目はその間にも先に進んでいる。

ホラー小説などでも、頭が意味ありげなドアの前にたたずんだ頃、目はすでにドアの先のモンスターに会っている。だから「頭」がドアを開けても、そこに立っているモンスターは、すでに「目」の知り合いだ。怖くない。

通常の文字理解は「目->音声化->理解」なのだが、どうも「目->直接理解」という経路も、人間の頭の中にはあるようだ(速読術なんかはそれを利用していると主張している。出来ないけれど)。

小説家の意図した驚きとか、恐怖といった感情は、「間」の問題抜きには語れない。

小説を読みなれた人ほど、こうした文章のオーバーサンプリングをやるから、なおいっそう「間」を作りにくくなる。玄人の小説読みが推薦する本がしばしば難解で、逆に「素人受けする」本が、自称読書家に必ずしも受けがよくないのは、たぶん作者の意図した「間」というのが、既存の文章メディアでは一般化できないからだ。

PCゲームは、こうした「慣れ」とか「先読み」といった問題を、軽く乗り越える。間を作りたかったら、時間をとめたり、活字をスクロールするスピードを落とせばそれで済む。 先読みされたくなかったら、画面を切り替えなければいいだけだ。

演出が単純?

そういう批判は絶対に先読みされない文章を作ってから言ってくれ。白黒映画の監督は、かつて「カラー映画のは品がない」と批判した。白と黒しかない世界からは、どうやっても他の色は作れない。メディアとしての自由度は、もはや過去の文章メディアでは勝負にならない。

後半は後日。

2005.08.26

共有地の悲劇

ある村の中心に、広い共有地があった。村人はこの知の主に羊や牛を放牧するために利用し、その家畜の毛を刈り、乳を絞って生計を立てていた。 共有地には管理人はいないので、誰もが自由に利用でき、放牧する羊や牛を増やしたことによって得られる利益はすべてその飼い主のものになった。 共有地の草はタダなので、羊を増やせば利益が増える。 共有地の草は全て食い尽くされ、家畜は一頭も育たなくなり、村人の生活は損なわれた。村人がせめて分別をもって行動していれば、こうはならなかった。

個人のモラルはみんなを救うか?

環境問題なんて下らない。

世界のみんな」のために、自分が何かを我慢したところで、 その「みんな」とやらから何かの報酬をもらえるわけじゃない。ましてや、自分の「我慢」に 命がかかっていたりしたら、誰も我慢などするわけがない。

命は大事。たとえ世界が滅ぼうが、今大事なのは自分の命。共有地が滅ぼうが、 「今羊に草を食べさせなかったら、家が滅ぶ」という状況で、羊を飢えさせる選択など できない。

抗生物質の耐性という共有地

病院では抗生物質を使う。

細菌の感染が無くても、抗生物質は使われる。何でもいいから患者さんが発熱したとき。 何か大きな人工物を体に入れているとき。患者さんが何らかの汚染に暴露したとき。

細菌はどんどん増える。「感染」が成立してしまっては、治療は困難。死ぬかもしれない。

医者だって客商売だから、入院している患者さんが発熱したら、主治医はうろたえる。 たぶん細菌感染は関係ないだろうと思っても、「抗生物質を使いたい」という欲求は抑えがたい。

病院というのは不思議なところで、作為による過失は問われないものの、 不作為による過失は人生を棒に振るまでブッ叩かれる

  • 発熱した患者さんに対して、抗生物質によるアレルギーで なにかトラブルがあっても、交渉次第で何とかなる
  • 抗生物質を使わないことで 何かトラブルになったら、人生を失う

内科医というのは、前の共有地の例でいくと「小作農民」のような立場。

なんとしてでも羊を食べさせないと、その先に飢え死にが待っている。とにかく今を乗り切る ことしか考えられない、因果な商売。

病院内には、もう少し高級な方々もいる。その代表格が、感染症専門医の先生とか、疫学者。

感染症医というのは、もうすこし大局的な立場から物を見る。彼らは羊が無くても生活できる から、貧乏な小作人が羊を増やしたらどうなるか、未来が見える。

「あなた達は、何をバカなことをしているのですか?」

感染症専門医は、内科の狂った抗生物質の使いかたを見て眉をひそめる。

抗生物質の濫用は、病院内の耐性菌を増やす。誰かが抗生物質を使うと、耐性菌が出現する 可能性がそれだけ増える。そのリスクはわずかなものだが、確実に増える。

内科と細菌学者とは、同じ医者でも立場が異なる。

  • 内科医は、目の前のお客さんの利益を最大化させることを考える。耐性菌出現のリスクは「誤差範囲」だから、それを無視する
  • 細菌学者は、病院全体、世界全体の利益を最大化させることを考える。患者の死亡割合が「誤差範囲」なら、抗生物質を使わずに、耐性菌を減らすことを考える

あんたら感染症屋は、人間よりバイ菌のほうが可愛いんだろ!」。 内科と細菌学者とは、こうしていつも喧嘩する。

恋人に行う医療

植え込み型除細動器(ICD)という機械がある。

心筋梗塞後、あるいは重症心不全の患者さんで、これを植え込んでおくと致命的な不整脈が出ても、 助かる可能性がある。

ICDの生命予後改善効果は、大きなトライアルで証明されている。 患者さんの選択さえ間違えなければ、ICDを植え込んでおけば、長生きできる可能性は高まる。

ICDを植え込んだ人の多くは、機械が作動せずに一生を終える。機械が作動するときというのは、 致命的な不整脈が発生したとき。不整脈の発生が無かった人たちは、結果として ICDを植え込む必要が無かったとも言える。

ICDは高価。タバコの箱ぐらいの大きさなのに、国産の高級車1台が買えるぐらいする。

  • もしかしたら必要ないかもしれない可能性
  • 高コスト

この2つの条件がそろえば、「費用対効果」の論文が書ける。バカな現場の医者が、 高価な薬や機械を使いまくると、世界経済という共有地が破滅する。正義を愛好する 疫学者としては、なんとしてでも現場の暴走を止めなくてはならない。

疫学者とか、EBMが好きな人というのは、 臨床の現場で働いている医者が憎くて憎くてしょうがない人たち。

あいつら、目先の利益に騙されて、また好き勝手やってやがる」。一般臨床で「効果がある」 として信じられていた手技や薬が、「統計的に」論証してみていかに効果が無いものであったか、 枚挙にいとまがない。

一般臨床家の迷信を解き、正しい医療を広めるのは、疫学者の使命。 内科のバカさ加減を統計であげつらうのは、疫学者にとって最高の瞬間。

ICDは、費用対効果を論じると、「効果が無い」と判定されることが多い。それでも臨床医は、 不整脈で患者を失いたくないから、この機械を植え込む。

数年前のペースメーカー学会で、海外のICDの権威が講演に来たとき、会場から「費用対効果が 証明されていないものを、あなたはどうやって広めようとしているのですか?」という質問が出たそうだ。

演者の先生はこれに答えて一言。

「あなたの恋人がICDの適応になったら、あなたならどうしますか?」

誰も反論出来なかったそうだ。

命の値段は疫学者が決める

医療の分野で、費用対効果を論じるぐらいバカらしいことはない。 世界経済という共有地は、 疫学者が勝手に妄想にしかすぎない。

致命的な副作用について叩くならともかく、「高価すぎて」意味がないなら、 技術者はどうやったらコストダウンができるかを考える。少なくとも、 意味が無いなどという「意味が無い」答えを出したりしない。

費用対効果の論文は、人の命を査定する。

○○人の人がこの薬を服用すると、1年間で致命的な疾患の発生率が3人減少する。一人の救命による利益が200万円とすると、1年あたり600万円の得。一方、○○人の人が1年間この薬を服用するためのコストは800万円。よって、この薬は「意味が無い」。

人の命はいくらなのか。

神様でもなければ答えは出せないが、なぜか疫学者はその答えを知っている。

自分たちがICDが必要な病態になったときには、疫学者たちはどうするのだろう?

たぶん、彼らの命は下々の人間よりもはるかに高価に査定されているのだろう。

上手なコンサルタントは質問者をいい気分にする

高価な機械や薬の問題はともかく、抗生物質の濫用による耐性菌の増殖という問題は、 確実に医者の首を絞めている。

抗生物質は効かなくなっている。大きな病院であればあるほど、その病院の細菌はひどい耐性を 持つようになっている。

ちゃんとした感染症の専門家がいるような病院でも、実体は同様だ。そういう病院はたいてい 地域の基幹病院だから、いろいろな病院から患者さんが搬送される。耐性菌の出現パターン は、病院ごとに微妙に違う。大きな病院には、様々な耐性菌がDNAを運んでくる。その施設の 抗生物質の管理がどんなに徹底していても、一度出現した耐性を消すのは、かなり難しい。

抗生物質の使用を制限すれば、耐性菌はわずかずつ減少する。その「わずかさ」に 内科は焦れ、自分の患者さんにだけは「いい目」を見てもらおうと、抗生物質を使う。

感染症医にとって、その「わずか」な前進こそが勝利の証なのに、内科は平気で踏みにじる。 病院内には医者どうしの喧嘩の声が絶えることは無い。

感染症医の中には例外もいる。どうやってもお互い喧嘩にしかならないはずなのに、その人に 感染症のことを相談すると、なぜか丸く収まる。

内科医は、感染症医が推薦する治療を「自分で思いつく」。「俺ってこんなに頭良かったっけ?」。 なんだか気分が良くなり、また問題があったらコンサルトしようと思いながら、術中にはめられた 内科医は、「模範的な」抗生物質治療に精を出すようになる。

疫学的に正しいことと、現場での正しいやり方とは、しばしば異なる。

コンサルタントがいくら疫学的に正しいことを言っても、それは現場には通じない。そもそも立場が違うから、言葉が通じない。上手なコンサルタントは、「現場に気がついてもらう」。

現場から見て「いいコンサルタント」とは、現場の医者の気分を良くしてくれる人だ。わざわざ現場を離れて、専門家の下に出向いて、そこで因縁をつけられて怒られれば、二度とそんなところには行きたくなくなる。

共有地の悲劇を回避するには

環境問題やリサイクル、漁業の乱獲をどうやったら防げるのか。ゲーム理論の本などで引用される共有地のジレンマの実例というのは、どれも世界規模の大きな問題。

スケールの大きすぎる問題の解決策は、結局のところ警察権力的なものの導入しかないらしい。

共有地を維持するには、仲間同士で共有地を荒らさないような取り決めをするしかない。「仲間」の数があまりにも多くて、お互いのコミュニケーションのコストが大きすぎれば、裏切ったところで良心の痛みなど感じない。

裏切った人に罰則規定が無ければ、協定を守る動機も無い。誰もが利益を得たいから、共有地には一本の草も残らなくなる。これを回避するには、罰則規定の導入や、それを維持するための「警察」的な機関を作るしかないという。

この共有地のジレンマというものは、集落が十分に小さくて、誰もが知り合いという規模であればおこらない。小さな集落、小さな共有地であれば、誰かが裏切って草を貪ったら、「草が減った」という情報が皆に伝わる。誰かの裏切りは、すぐに残りの人たちへの不利益となって跳ね返る。

協定違反=>不利益のフィードバックが早くて、また違反をした人が誰なのかが一目瞭然という環境ならば、共有地の使用の協定は守られ、際限も無く草が食べられるという現象は生じない。

「友達の多い感染症医」というやりかた

ある程度スケールの小さな共有地問題を解決するには、結局2つの方法がある。

  • 警察的な権力を導入して、裏切った人を罰する
  • 「誰もが仲間」という状況を作り出して、共有地の問題が生じない程度にコミュニケーションを密にする

抗生物質の共有地問題を、「警察権力」で解決するのは簡単。

  • 抗生物質の使用を許可制にする
  • チエナムなどの広域抗生物質の価格を、今の10倍ぐらいにする
  • 委員会を作って、その月に「間違った」抗生物質の使いかたをした医師を告発する

まるで革命前のソビエト連邦のような方法だ。権力で抑えれば、上から抑えている人たちは気分がいいかもしれない。現場で働いている連中には不満が鬱積する。いつか革命が起きるだろう。

幸い、病院という組織のスケールは、共有地の問題が発生する程度には大きいが、 個人の力で何とかできる程度には小さい。

感染症医が「病院中の医者と友達」になれるなら、共有地のジレンマは発生しにくくなる。

上からの正論で物を言われてもむかつくが、「友達の顔を曇らせる」のは、友人としてどうかと思う。 正しい知識や考えかたを共有できて、自分がその友達のおかげで頭がよくなったと、思えたら、 なおのことそいつの意見を無視できなくなるだろう。

「正しい」抗生物質の使いかたを病院内に広めようと思ったら、理論武装を整える前に、 冗談を言ってみたり、飲み会に付き合う回数を増やすようなやりかたも「あり」かもしれない。

いつも世界の誰かを敵に回すようなことばかり書いていては説得力が無いが、活発なコミュニケーションの結果生まれた「みんな友達」の状態は、きっと世界のいろいろな問題を解決してくれる。

昔も今も、そう信じている。

2005.08.23

医師の評価つき検索サイトの実現可能性

つながっていないものをつなげてみる

医師と患者はつながっていない。

患者さんの訴えるのは「症状」。医師が専門にするのは「病気」。そもそも目的が違う。

「あなたの症状は、私の専門から外れますね。」

患者さんの症状の原因が分からないとき、「原因は全然分かりません。すいません。」の代わりに医師が良く使う言葉だ。

総合病院に行けば、個人の病院よりは、症状の原因はわかるかもしれない。病気にも、パレートの法則は当てはまる。患者さんの症状の8割は、頻度の多いほうから2割の病名で説明がつく。

それなら総合病院をあと2割強化すれば、満足度100%か?

そううまくはいかない。外来患者さんの訴える症状の8割を診断し得たところで、残り2割の症状の需要を満たすには、残った8割の病気の専門家を連れてこなくてはならない。悪いことに、一つの症状の原因になる病気は、たいてい複数ある。総合病院を受診した患者さんの満足度というのは、8割どころか半分がいいところだ。

自分の「症状」の専門家はどこにいるのか。自分の住所にはどんな医師がいて、何が専門で、その評判はどうなのか。

市販されている「信頼できる病院ガイド」などは役に立たない。内容のほとんどは単なるちょうちん記事だし、ましてやその病院内の医師個人の得意分野、患者さんからの評判などは記載されない。そこを受診している人たちは「どう」感じているのか、どんな医師が人気があって、誰が人気が無いのか。

人間の検索というものが可能なら、情報は、細かければ細かいほど、有用性が高い。

患者さんの症状と、それに合致した専門を持った医師とを直接つなげられれば、患者さんの病院の選び方、医師のキャリアの積み方というのは一変するかもしれない。集団の中のロングテイルに相当する層、マイナーな疾患、複数の医師から「専門外」と逃げられるような症状を持った患者さんも、医者選びを妥協する必要は無くなる。医師も「どの分野を専攻するのが勝ちなのか」などといったくだらない価値観に縛られずに、本当に自分のやりたい分野に進めるようになる。

もともと、症状なんて全ての人で違って当然だ。今は、患者さんの症状に「正しく」対応した医師を探すコストが莫大だから、みんな総合病院に殺到して我慢している。医師もまた、人の集まるところにいないと、自分の力を出せる患者さんに出会えないから、大きな病院で薄給に甘んじている。

人と人とをつなぐコストがゼロに近くなれば、膨大な種類の小さなマーケットの集積はマスを越える。「勤務している病院」の良し悪しで無く、「個人のすごさ」が問われるようになれば、病院のブランド力というものは低下し、サービスのいい病院、実力あるスタッフをそろえた病院が成功する、もう少し健全な競争社会が訪れるかもしれない。医師の仕事に対する考えかたもまた、変わってくるだろう。

将来評価されるのは病院でなく医師個人

はてなブックマークが面白い。興味の持たれた記事は、数時間ごとにどんどん変わる。どのリンク先をたどっても外れが無く、いつも驚く。

ブックマークというのは、作者のページ全体でなく、面白い記事ごとに付けられる。どんなに面白いWEBにも、すばらしい記事とそうでないものとは存在する。はてなブックマークは、各エントリーごとに人気投票が行われ、面白い記事にのみリンクが張られる。作者としては寂しいけれど、読者としては無駄が無い。

うちのページにも、時々ブックマークをいただく。たまにすこし人気が出たりはするけれど、アクセスが上がるのはその記事のみ。ブックマークからジャンプしてきて、他のページを見ていく人は、ほとんどいない。

現在は、病院の中で働いている人の情報が極めて少ないから、患者さんは「病院全体」というブランドを信じて、中で働いているのはすばらしい医師ばかりだと信じるしかない。実際にはそんなことはあるわけないのに。

大きな病院というのは、たいていはアクセスが悪くて、待ち時間が長い。医師は皆忙しそうで、職員は無愛想だ。小さな病院にも、あるいは優れた医師はいるのかもしれない。症状によっては、大病院の医師よりも優れた医師も。それでも、情報が無い以上、ギャンブルは出来ない。大病院はいつでも人気があり、患者さんの待ち時間は増えつづける。

巷にもっと情報があふれたら、医師個人個人の情報が、もっと簡単に検索できたら、病院全体の評判は、今までとは大幅に変化するかもしれない。

医師の検索の実現可能性

自分の感じている症状の「専門家」はどこにいるのか。google などを調べても、ほしい情報はなかなか手に入らない。全日本レベルの権威が誰なのかは、結構簡単に見つかる。それでも、自分の住んでいる地域の医師で、他の患者さんの評判のよさそうな人を探そうと思っても、2ちゃんねるをしらみつぶしに探してみるぐらいしか、情報の手に入る当ては無さそうだ。その情報にしても、どこまで信憑性があるのか分かったもんじゃない。

医師を「検索」することは可能だろうか?

できる、と思う。

どこの病院でも、初診の患者さんには「問診票」という小さな紙を書いてもらう。はがき一枚分にもならない大きさ。字数にして、せいぜい100字といったところ。どんな症状があるのか、いつから出現しているのか、他の症状は無いのか、そんな内容。

問診表を見るだけでも、分かる人は診断名が分かる。そうでなくても「この人は自分でいける」「この人は分からないから他科へ」。「まじめに見ないとヤバそう」「流して大丈夫」。そんなことぐらいなら、かなりの正確さで分かる。もちろん間違いも多いけれど。

ここまでの過程は、たかだか100字のテキストの解釈だ。量も十分に少ないし、その短い病歴から、当てはまりそうな専門家を探すのは、十分可能だと思う。最初のうちは、「眠れない」の主訴は全例精神科に紹介されたり、「人前でドキドキする」という文章で心臓外科が紹介されるかもしれない。

それでも、最近のテキストフィルターは優秀だ。メールの内容を解析して、「迷惑メール」と判定されたものは、非常に効率よくはじかれる。メールクライアントのベイシアンフィルターを鍛える要領で、「循環器内科フィルター」、「耳鼻科フィルター」などを作ってやれば、入力された問診票は、そこそこ正確な答えにたどり着くのではないだろうか。

対応する医師のデータには、その所在と経歴データに加え、「胸痛」とか、「感染症」、「肺がん」などといった、得意分野のタグをつけていく。このタグは、患者さんも自由に追加できる。例えば誰かが「咳」の症状である医師に見てもらい、原因がすっきり分かってよくなったなら、たとえ心臓血管外科の医師であっても、その人には「咳」のタグがつく。

フィルターの精度を上げて、タグの数を増やしていけば、徐々にではあっても「正解」は見えてくると思う。

患者さんによる医師の評価

医師の経歴や肩書き、論文数や専門医の有無といった情報だけでは、その医師が「良い」医師なのかどうかを判断するには十分ではない。良い医師とは、つまるところは自分を気分よく治してくれる医師だ。その判断は本来、国や出版社ではなく、お客としてかかったことのある人が評価したデータのほうが、よっぽど役に立つ。

医師の検索サイトを作るには、国内の全医師のデータベースが必要になる。 このデータベースに患者さんの「感想」「評価」を一緒に掲載したり、あるいは検索エンジンのデータの重みづけのパラメーターとして、患者さんからの評価を入れたりすると、医師と患者のつながりというものは、ますます深くなる。

このシステムもまた、はてなブックマークのそれが参考になる。

患者さんからの否定的なコメントを受け入れると、たぶん大変なことになる。どろどろの中傷合戦にサイトの運営者が巻き込まれ、最悪カーネルごと巻き込んで落とされる。

評価のシステムは、肯定的なものだけに限定する。例えば、ある患者さんが一人の医師に入れられるポイントは、1ptのみ。気に入れば1pt、一緒にコメントも付記可能。一方、気に入らなければ、点数は無し、あるいは否定的なコメントとともに、1pt。

医師側は、コメントを自由に削除できるルールにする。ただし、否定的なコメントの削除とともに、その与えられたポイントも失ってしまう。

医師同士も、お互いに評価ができるシステムを導入する。

たとえ患者さんからの評判がきこえない医師でも、他の医師から信頼されている人はたくさんいる。医師の相互評価というのは、医師の「良さ」を評価するのに非常に重要なパラメーターだ。

これを検索結果に反映するため、医師が他の医師に与えたポイントというのは別に扱う。医師の与えたポイントは、患者さんの与えたポイントよりも、たとえば10倍とか、重みをつけて検索結果に反映する。

その代わり、医師が他の医師にポイントを与えられる数は、最大10人程度に限定する。もちろん誰にも与えなくてもかまわない。ポイントを与えられた医師は、誰がそのポイントをくれたのかは見ることが出来ない。たとえ10人の研修医を教えている偉い先生であっても、当然ポイント「0」ということもありうるわけだ。

内科の医師は、10年目で大体300人程度の「常連さん」を抱えている。このうち10%がこうした検索サイトの利用者になったとしても、医師が患者さんからもらえるポイントというのは、大体20ポイント程度。うまく広がれば、登録されている医師の誰もが「0」ということにはならないはずだ。

ポイントによる医師の査定システムの可能性

このあたりのポイントシステムがうまく回ると、医師-患者の関係というのは少しだけ変わる。

どの医師も、患者のほうを向かないで仕事をするわけには行かなくなる。ポイントの悪い医師というのは、「評判の悪い医師」の烙印を押される。患者さんから「ダメな医者」の烙印を押された医師は、どの検索ワードでも相手にされなくなる。

ポイント制度は、たとえば僻地の医師の応援にも使える。

僻地に踏みとどまって頑張っている医師に対して、その地域の住民は、ポイントを送ることで応援の意思を伝えることができる。

「応援なんてもらったって、人が足りていないんだから意味が無い」などという奴は、医師という生き物が分かっていない。見知らぬ人から誉められてうれしいか?うれしいんだこれが。そうじゃなければ、こんな商売続けていられるわけがない。

医師が転勤すれば、その地域の住人は、そのポイントを削除することもできる。医師の移動や転勤、開業や退職といったアクションごとに、その医師の評価というのは刻一刻と変わる。もちろんそのポイントの移動というのは、医師の行動に決定的な影響を与えるわけではないけれど、患者サイドからも医師の行動決定に参加できるというのは、心理的には大きいと思う。

ポイント制度というのはまた、地味だけど勉強熱心な医師、厳しいローテーション病院で踏みとどまっている医師、下級生に親切に指導をしてくれる上級生といった、医局制度の中では日陰に甘んじている医師に、光を当てるかもしれない。

医師同士のポイントというのは、病院長クラスの医師だろうと、研修医だろうと、同じ10人にしか与えられない。その贈与も剥奪も自由だ。お互い匿名だから、上級生がポイントの「上納」を強制するわけにもいかない。ドラマの「ドクターコトー」のような、本来絶対注目されない立場にある医師も、同僚の支持を集められれば、検索の上位に登場できる。

患者に迎合した医療はレベルが低いか?

こうしたポイント制による医師の査定が広まったら、医療のレベルは下がるだろうか?

熱が出たらすぐ抗生物質、痛みがあったら迷わず痛み止め。こうした「症状は取れるけれど間違っている」医療が広まり、従来型の正しい医療は廃れるだろうか?

そんなことは無いと思う。正しいことは廃れない。ただ、その「正しさ」を世間に向けて発信する義務が生じるだけだ。

今までだってそうだった。大体、痛み止めだけほしい患者さんに、説教だけして何も出さずに返したらその医者は今も昔も「ヤブ医者」だ。痛み止めを処方しないならなぜ処方しないのか、それを分かりやすく伝える能力無くして、「正しい」医療は行えない。

ルールを公正にするならば、医師のデータベースには、医師自身が記入できるスペースを設ければいい。このスペースで、自分の診療ポリシーや考えかた、実績などを語ってもらえるようにする。この部分だけでスペースが足りないならば、外部へのリンクも可能にしておく。自分が主張している「正しい」医療を広めたいなら、ここで発信すればいい。あるいは、外のWEBで自分の主張を発信して、検索サイト内の自分のデータへリンクを張っておけば、自分が診察していない人からも、賛同のポイントをもらえるかもしれない。

検索サイトの実現可能性

日本の医師の総数は、大体25万人。

この全員をリスト化して、タグ付けをして、実際に検索サイトを運営するのは可能だろうか。

医師の全氏名、勤務先を調べるのは比較的簡単だ。たいていの大学同窓会では、正当な手続きさえ踏めば、同窓会名簿の閲覧を許可してくれる。大体、同窓会名簿を公開している大学だってある。少なくとも、名簿図書館に行けば、同窓会名簿だろうが学会の名簿だろうが、たいていのものは手に入る。全リストを閲覧することは可能だ。お金はある程度かかるけど。

氏名のリストだけではまだまだ足りない。基本的な「タグ付け」だけは、主催者側がやらないといけない。

これをやるには、やはり google 様の力を借りる以外ないだろう。バイトを10人程度、1ヶ月缶詰にして、日本中の病院という病院を調べる。そこに書いてある、医師の公開プロフィールをひたすらカットアンドペースト。手軽なデータベースとしては、「医学中央雑誌」のCDは、個人情報の宝庫だ。その医師の所属病院、発表症例や記載論文、すべてデータ化されたものが、毎年発売されている。

医師国家試験受験のとき、当時の同窓生約1000人ぐらいの現住所を調べたとき、電話と手紙だけで1000人調べて、1ヶ月かからなかった。今なら格段に便利なはず。10万人ぐらいなら、気合さえあれば(たぶん)何とかなる。腱鞘炎必発だろうけれど…。

とにかくデータをデータとして打ち込んで、あとは所属学会名や専門分野といった単語を、「タグ」に変換していく。はてなブックマークは、半自動でこれをやっている。同じことはできるはず。

客は集まるか?

患者さんの検索サイト、検索だけなら個人情報の入力無し、もちろん使用料金一切無しなら、そこそこには活用されそうな気がする。大体、一人の医師に「つく」患者数は、200人から1000人の間。そのうち1%が利用をはじめてくれても、たぶん全国で100万人に近い数字の人が利用してくれる(はず)。

問題なのは、医師のランクづけや、タグの改定をやってくれるユーザーがどのぐらい増えるかどうか。これが増えないとサイトが盛り上がらないし、データベース管理の人的負担が、いつまでも管理者から減っていかない。

どこから収益を得るのか?

利用する患者さん、あるいは情報を載せられる医師からは、たぶん一切料金を取れないだろう。もしも検索サイトがメジャーなサービスになったところで、医師から料金を取って、検索の順位の重み付けを変えたりしたら、そのサイトは信用を失ってしまう。

収益を上げるとしたら、可能性の一つは日本中の全医師の人気ランキング票を有償で閲覧させることだろう。医師一人一人の情報というものは、検索すれば発見可能。ただし、横断的な情報は有償にする。

同様に、その医師が患者さんから「どう」思われているのか、その医師の「専門分野」になっている検索ワードには、どんな競合者がいるのかといった医師の自己診断を有償でサービスすれば、あるいはお金を払う人も出てくるかもしれない。

問題点は?

医師を「本物の医師だ」と認定するための、何らかのシステムを造る必要がある。このポイント制度だと、第三者がある医師の名前をかたって成りすましを行った場合、順位がめちゃくちゃになる。データベースに名前の載った医師だって、誰もがこんなポイントを気にして、自分の名前を見るわけじゃない。

患者さんサイドのコメントスクラムが生じた場合も、問題になる。患者さん一人で複数の氏名を語られると、やはり順位づけは混乱するだろう。こちらは、メンバー登録時に捨てアドを禁止するだけで、ある程度の抑止力になると思うのだが。

無謀な考えか?

そう思う人はエンジニアという職業を理解していない。

キリスト教の聖職者、弁護士とエンジニアが断頭台にかけられようとしていた。聖職者は頭を台の上に乗せ、ギロチンのロープがひっぱられたが、何も起きなかった。聖職者は、神の調停により救われたのだと宣言し、彼は釈放された。

次に弁護士が台の上に頭を乗せ、またもロープは刃を落とさなかった。弁護士は、同じ罪で2回も死刑になることはできないと主張し、釈放された。

エンジニアがひっぱられ、頭が断頭台におしつけられた。エンジニアはギロチンの刃を落とす機構を見上げて言った。 「ちょいまち、どこが壊れてるのかわかったぞ」

実現可能性があれば核兵器でも作る。出来上がったものは、たとえ世界が滅ぶような代物であろうと、「とりあえずスイッチを押してみる」のが技術者だ。

それぞれの医師個人に対するブックマーク。個人情報保護の問題。コメントスクラムの問題等いろいろ出てくるだろうが、うまくいけば、医師は今まで以上に気を付けて患者と接するだろう。

その医者の商品価値というものが、「消費者の集団知」により査定されるようになる。

ありものの技術の組み合わせで、医療の世界が一変する可能性。

こんなに面白いことなんて、そうはないじゃないか。

2005.08.21

冷えて縮んだ世界から医者はいなくなる

業界は冷える。冷えてどんどん縮む。世界全体が小さくなるから、今までのベクトルで苦労をしても、 その努力が今までどおりに報われる可能性は減る。努力という行為にすら「リスク」が課せられるなら、そのリスクの分は、もっと別の方向に生かしたい。

最近ずっとこんなことを考えている。

栄光と夢が膨らんだ60年前

終戦後から復興期にかけて、医療の業界は大きく成長した。佐久総合病院、沖縄中部病院の設立。 米軍に接収されていた聖路加病院の返還。現在まで続いている大きな市中病院は、だいたいこの頃 に誕生した。

この時代に病院長や部長クラスをやっていた医師は、現在でも怪物とか、妖怪とか言われて現役で頑張っている。日野原重明先生なんて、 昨年のCCT(カテ屋のお祭り)では98歳にしてカテ室に登場 だ。さすがにカテーテルは握らなかったけれど。

定年という概念のない医者の寿命は長い。自分の夢を失わなければ、それこそ90台になっても 病院は続けられる。実際に御年90になって、医院を継続している人を何人か知っている。

夢を持って病院を大きくし、医療という業界を引っ張ってきた人たちは、高齢でも「脂っこさ」を 失わない。下っ端をやっていると滅多に会うことは無いけれど、みんな元気だ。

夢で引っ張れた時代。病院は、何年経ってもその勢いが落ちない。優秀な人はこうした病院に 集まり、病院はますます大きくなっていく。

伝統的な市中病院が出来はじめた60年前から、安保闘争があった20年前ぐらいまでは、 夢を持ったリーダーが何人も現れた時代だ。徳洲会や民医連は、大体20年前に生まれた。 大学病院や、大きな市中病院に反対する立場で誕生した新しい組織もまた、 発足当初は病院長の勢いと夢だけで引っ張られ、大きくなった。

世界が固まった最近20年

「有名どころの」民間病院組織が出来上がったのが、いまから20年前。こうした病院組織の努力は 実り、大学をはじめとする大きな病院の多くは救急の患者を受けるようになった。

患者中心の医療」という言葉は当たり前のものとなり、EBMなどという言葉が一般化する頃 には、どの病院に入院しても、同じような医療サービスを受けられるようになった。

ここ最近の20年、研修医を受け入れるような大きな病院の総数は、そう大きな変化はしていない。

世界は膨張を止め、定常状態に入った。

リーダーの夢で病院を引っ張っていた時代。夢というのは査定不可能なものだった。何が一番 正しいのかなんて、誰も興味はないし、前に進むので精いっぱい。自分が今、世界の何番目 に立っているのかなんて、考えるだけでナンセンスだった。何しろ、世界はどんどん大きく なっていた。

大きさの変わらなくなった世界では、競争という概念が発生する。世界が有限になると、 リーダーの夢を追求するには、誰かの領土を取りに行かないといけない。戦争の始まりだ。

病院はその質を高め、競争を開始した。

症例を増やし、臨床研究を多くやり、患者サービスを充実し、優秀な研修システムを作り…。 頑張れば、きっと他の病院に勝てる

それまでは「勝つ」なんていう概念は無かった。

競争の結果、病院の中身は向上し、 患者さんにとっては健全な状態が長く続いた。日本の医療は安く良くなり、一時は「世界一」 などという呼び声さえもかかるようになった。

皮肉なことに、個々の病院組織が独自性を打ち出そうとして努力するほど、 お互いの病院の「優劣」というものが査定可能なものになる。

日赤の某病院のナンバー8なら、その「偉さ」は済世会の某病院のナンバー5に匹敵する。

努力に「競争」という概念が入ってくると、どうしても自分の立ち位置、競争相手の現在の場所というものが気になってくる。20年も経てば、こうした「換算式」はどうしたって出来てくる。現在では、インターネットでこうしたローカルルールの共有まで可能になっている。どの病院が「勝ち組み」で、どの病院が「負け組み」なのか。

世界が安定した時代というのは、当事者だって知りたくも無いこんな情報が、否応無しに耳に突っ込まれる時代だ。

誰だって負け犬認定されるのはいやだ。「勝ち負け」で世の中が判断されるようになると、究極的にはトップ一人を除けばみな負け犬だ。ネットの力は競争者のやる気を潰す。町のチャンピオンは国の10位、世界から見れば「負け犬」と認定されてしまい、頑張る努力は失われる。

成果主義が医療を崩壊させる

「自分の達成感」というものは、以下の式で求められる。

自己の達成度 = 「現在の自分の居場所」×「自分の収入

冗談ではないという人もいるかもしれない。それでも集団は、単純なものを好む。自分自身の価値観がどうであれ、世界の全ての人は、他人の好奇の目線からは逃れられない。世界の誰もがこうした「係数」で査定されるとき、自分の努力で変えやすいのは「収入」だ。

いろいろなところで「成果主義」の導入が始まっている。

日本の場合は、なんだか給料引き下げの方便みたいな使われ方をしているが、医者を長くやっていると「何で俺はこんなに働いているのに、他科に比べて給料安いんだ?」という思いは必ず経験する。たぶんどこの職場でもそうなんだろう。成果主義の導入に際して、昔の安保闘争みたいな暴動は起きなかった。たぶん誰もが、どこかで「査定」されるのを望んでいるんだ。

ところがお金による努力の報酬というのは、すぐに効果がなくなる。

第一次世界大戦後、ユダヤ人排斥の空気が強い米国南部の小さな町で、ある人が洋服店を 開いた。 すると、地元の子供達がいやがらせのために店の前で「出ていけ!出て行け!」と叫ぶようになった。 そこである日、店主は子供達に「出て行けと叫んだら10セントあげよう」と言う。大喜びした 子供達はますます「出て行け!」と叫ぶようになった。 ところが次の日に、「今日は5セントしかあげられない」と言い、さらに翌日「1セントが限界だ」と言った。すると、子供達は「あんまりだ」と言って叫ぶのをやめた。 (bpspecial ITマネジメントより引用

努力に対する報酬が継続されるなら、まだまだ成果主義がうまくいく可能性があるかもしれない。ところが医療という世界では、これ以上に「お金というパイ」が大きくなることはありえない。

医療費は国家予算だ。国にお金が無い以上、どうしたって上限がある。個人の努力に対する報酬を引き上げるには、別の医師の努力を低く査定しなくてはならない。医師が命を削って努力したところで、その報酬はせいぜい、ノーパンしゃぶしゃぶ屋の肉一枚といったところだ。

組織崩壊の4段階モデルが成り立つならば、医療という世界では、お金が求心力として有効な期間はきわめて短い。

現在、「有名な」病院の医師の給料というのは、安いものと相場が決まっている。大学病院の医師と、市中病院の医師との収入差は2倍は当たり前。「成果」に対する報酬を求めて、大病院にいる医師が市場に参入してくると、市中病院で働いていた医師の給料は減り、大病院で働いていた医師の給料は増える。

ならば、大病院で働いていた、優秀な医師はその技量が報われて満足か?絶対にそうはならない。

低収入に甘んじている大病院医師と、市中病院の医師の総数が同じで、その収入には2倍の較差がついていたとすると、「腕」に対する報酬が同じになったとき、大病院の医師の収入は1.5倍となり、市中病院の医師の収入は2/3になる。

ところが、大病院の医師は、「2倍」を期待して市場に打って出た。ところが、市場からの査定は期待の2/3。さらに、この値がこれ以上に増えることは今後は絶対にない。医師の総数は増える。さらに、専門性の高い医師というのは、往々にして競争相手が多い。競争は価格の引き下げにつながり、医師の満足度はますます下がる。

医療という世界は、「名誉」という求心力が失われ、お金の力が世界をひっばる段階へと足を踏み入れつつある。お金が医者を引っ張れる期間は非常に短く、大病院がその名声に求心力を見出されなくなったとき、医療の業界は、速やかに「余暇」の段階へと崩壊の階段を下る。

余暇が重視される縮みゆく世界

働いたところで、訴訟のリスクが増えるだけ。頑張っても、収入変わらないし。

こんな雰囲気が世界を包むと、医者の頭数がいくらいたところで、医者は全く足りなくなる。

マンパワーが2人必要な現場に5人の医者がいたとき、その対応は時代ごとに変わってくる。

  • 夢の時代には現場の大きさを5人分に拡張した。
  • お金の時代には、優秀な2人だけ残して、他の人は別の職場へと去った。
  • 余暇の時代には、各々の医師が2/5人分だけ働く。現場はいつまでも人が足りない。

収入の向上が目標にならなくなると、大事なのはいかに「短時間だけ」働くかになる。僻地医療をやる奴なんて、頭がおかしい医者扱いだ。志があれば僻地で頑張れるかもしれないが、365日ネットで「バカ代表」扱いされれば、どんな雑音でもいやになる。

医師は必然的に人の多い地域に集中し、そこでも人は足りなくなるだろう。

専門家は増える。この時代は誰もが専門家だ。心臓でも、血圧の専門家。脈拍の専門家。心筋の専門家。血管の専門家。専門性は、どんどん細かくなる。

全身を見る、そんなリスクの高い仕事をする奴なんて、誰もいなくなる。

さめちまった理由(ワケ)なんか・・さがせばいくらでもある 何年もかけてやっと組み上がった研修医をあっさりブローさせちまうダサい客 救急外来の使い方(ヘタ)に気づかず全て病院のせいだ 仕方ね―から主治医を代えても、結局ヨソにいってあそこの病院はヤブだといいやがる そーそォこーゆうのもあったナ・・ 8年前だ・・左MCAの脳梗塞、すぐにt-PA使って2週間で歩かせた

ヤマ: 覚えてます、よく回復しましたよね

ところが家族は満足しねえ あまりにも順調に回復しすぎて、あげくもっと入院させろといいやがった・・

ヤマ: 部長はあの時翌週予約でMRIをオーダーして・・

そォ、退院前に T2 high の画像を見せてやったョ そしたら家族は大よろこびだ 「その白点が消えるまで、もう2週間置いてもらえますね。」 笑うゼッ!結局なんにもかわっちゃいね―のにナ ・・でもやっぱり客のせいじゃないよナ・・ オレの心が・・少しずつ・・そして確実に・・病院から離れていったんだ 最後の最後はそれなんだ……

悲観的な予想は外れる

ところで、こうした悲観的な未来予想というやつは、たいていの場合大外れになる。

ローマクラブの「成長の限界」などがそうだ。経済学者や科学者は、今ある知識の中でしか未来を予想しない。時代が進歩すると、必ず何らかの技術の革新というものが、世界を変化させる。

科学者の予言する悲惨な未来像というのはたいてい外れ、むしろSF作家の描く未来のほうが、より真実に近いことなどザラにある。

医療の未来もそうだ。場末の医者が、この10年ぐらいを眺めていて、勝手に垂れ流している妄想にしかすぎない。何か大きな技術の革新があれば、たとえばDNAの注射一発で糖尿病が治るようになったとか、幹細胞を利用した人工臓器に画期的な進歩があったとか、そうしたものがこの10年ぐらいに出現すれば、こうした医療の悲惨な未来というのは消し飛ぶのかもしれない。

資本主義V2.0

医療の悲惨な未来という予想が部分的にでもあたるものなら、医療というのは「一生を賭ける仕事」ではなく、生活のためにやる部分と、趣味としてやる部分との2つの顔を持った職業へと変化するような気がする。

医者をやっていれば、どうしてもある種のリスクからは自由ではいられないし、相性の悪い患者さんにも笑顔で接しないといけない。そうした部分からは、お金をもらって、お金をいただいた分は働く。

一方、医者なんて、どうせ医者をやるしか脳の無い奴がほとんどだ。仕事の量が減った分は、「趣味で」医者をやる。例えば、自分の「友達」のために、その人の病気の「戦略」を一緒に相談してみる。お金は取らない。代わりに、責任は道義的な部分に止まる。それでも、知り合いや友達のためならば、人はタダでも必死になる。たぶんお金をもらう以上に必死になって、その人の病気のことを考えるだろう。

コンサルタントのように、少しばかりの報酬をもらってもいいかもしれない。それでも、ある程度の利潤は追求するけど、「利潤の最大化」は追求しない。 ボランティアで無償の貢献をするというと、聞こえはいいけど継続しないことが多い。 会社に限らず、ある程度の事業を回していくには、適切な利潤を得ることは必要だ。

利潤の最大化は、必ず不毛な競争を生み、結果として長続きしない。

Hackers and Painters資本主義V2.0といった考えかたには、10年ぐらい先の医師の生き方のモデルがあるような気がする。

2005.08.20

勝利条件は何なのか

強いだけでは競争に勝てない

豊富な資金、莫大なマンパワーや技術。何かの競争をするときには、こうしたものはとても大きな武器になるけれど、勝負はそれだけでは勝てない。

勝負には、必ずルールがあり、ルールごとに勝利の条件というものが違う。 勝利の条件が何なのか、それを満たすためには何をするのかが最適なのかが決定できれば、 勝負の最適戦略というものが決定できる。

勝負事は、明確な目標に最適な戦略というものが加わって、初めて確実な勝利が手に入る。「実力」などというものは、勝負に勝つための必要条件ではあっても、十分条件にはなりえない。

負けるけど勝つ戦略

1995年のアメリカズカップ(150年以上続くヨットレースの最高峰)、日本は優勝候補とも言われながら敗退した。 当時の日本の造船技術は世界最高クラス。ニッポンチャレンジの資金力もまた、参加国の中で もっとも強力だった。 前回参加時の成績と経験。豊富な資金力と技術力。こうしたものを持ち合わせていながら、1995年の 日本はセミファイナルで11戦全敗し、この年の勝負を終えている。

日本はなぜ負けたのか。クルーの問題、艇の設計のミスなどいろいろ言われているが、 敗因として挙げられていた中で面白いと思ったのは、日本のチームは、アメリカズカップの 勝利条件を読み間違えていたという指摘だ。

この年に優勝したニュージーランドブラックマジックは、非常に極端な設計思想の船だった。 特定の気候条件ならば、他の船に大差をつけて勝利する。一方で、その操縦性は悪く、 平均すると、必ずしも「早い」船ではなかったという。

日本のシンジケートの持ち込んだ船は、どんな気候条件でも早い、操縦性に優れた船だった。 この艇は、どんな条件でも他の船に遅れをとることがない。ところが、 負けない船は必ずしも勝つ船ではなかったという。

アメリカズカップのルールでは、勝てる勝負を絶対に勝たないと、優勝できない。

動力に「風」という不安定なものしか使えないヨットレースでは、「負けるけど勝つ」艇でないと、 他の船に差をつけることが出来ない。ニッポンチャレンジの艇は優等生過ぎて、 「負けないけど勝てない」船に仕上がっていた。

「負けない」船では相手との差がつかない。僅差になると、挑戦2回目という日本のクルーの弱点が出てしまう。結果として、日本は全ての勝負を僅差で落とし、敗退してしまった。

同じような例でよく引き合いに出されるのは、F1グランプリだ。これもまた、負けるけれど勝つ設計 の車でないと、勝負にならない。グランプリは、上位6位以内に入らないと、ポイントがつかない。 7位以降は、リタイアしてもポイント0という意味では同じ。このため、「優勝するか、リタイアか」 という車のほうが、必ず完走するけれど勝てない車よりも、絶対に強い。

負けないことが大切な場合

逆に、「負けない」ことを第一優先にしないと勝負に勝てない場合もある。

第2次世界大戦当初、世界を席巻したゼロ戦は、向かうところ敵無しだった。 非力なエンジンにもかかわらず、限界まで軽量化した機体は運動能力に優れ、 ベテランパイロットが操縦したゼロ戦は、大活躍した。 ところが、どんなベテランであっても、一定の確率で被弾する。防御の弱いゼロ戦は、 被弾が致命的となることが多く、ベテランパイロットが多く亡くなってしまった大戦末期には、 ゼロ戦が活躍できる場面はほとんど無くなってしまった。

アメリカの戦闘機は、ゼロ戦とは逆の設計思想だったらしい。鈍重で、大きな機体を、 強馬力のエンジンで駆動する。今のアメ車のような戦闘機。

大きな機体というのは、弾があたっても落ちにくく、また製造がしやすい。

戦争という消耗戦では、戦争が終わったときに生き残っている兵士が多いほうの国が「勝者」になる。勝利条件は、とにかく生き延びることだ。

ベテランの生還率が高く、また補給が容易な戦闘機というのは、消耗戦が続く場面では 強みになる。開戦当初は押されていても、相手の体力がなくなってくる後半戦では、 「負けない」戦略が有利になってくる。

生態系での最適戦略

自然界での生存競争というのは、延々と繰り返す勝負に、さらに「相手と協調する」という 選択肢が加わる。

相手を裏切れば自分が得をするが、今度は相手に裏切られるかもしれない。お互い協調すれば 安心だが、今度は利益を独り占めできない。

こんなルールを延々繰り返し、一番多くのポイントを稼いだ種が勝者だ。

こうした「囚人のジレンマ」ルールでは、どんな戦略が最適なのか。

アクセルロッドの行った「繰り返し囚人のジレンマ」実験は、生態系の生存戦略の最適解に答えを出している。

アクセルロッドは、コンピューターシミュレーションでの「囚人のジレンマ」ゲームのコンテストを行い、世界中のゲーム理論家から戦略を募った。第1回目のトーナメントでは15戦略、第2回目のトーナメントでは63戦略がエントリーし、どんな戦略がもっとも有効なのかを競い合った。

この2回のトーナメントを勝ち抜けたのは、「しっぺ返し戦略」と呼ばれる方法論だった。この戦略は簡単で、最初は「協調」し、以降は前回相手の出した手をそのまま出すというもの。

この戦略は、最初に裏切られれば100%負ける。しかし、このゲームのルールは「再戦」があるので、ゲームの中で稼げる総ポイント数は多くなる。

いろいろな戦略を、総当たりで1対1対戦をしてみると、「しっぺがえし戦略」は、他の多くの戦略に対して「大きくは負けず」、「平均すれば最も多いポイントを稼ぐ」ため、最終的には勝利する。

興味深いのは、しっぺ返し戦略は直接対戦では他の戦略に一度も勝てなかったのに、「総合得点」では1位になったことだ。

生態系での生存競争に近いルールでは、その場の「勝負に勝つ」ことすら、生存競争に打ち勝つためにはそんなに大事ではない。

協調が可能なルールの元では、全ての種が自分の生存を追及した結果、結局は協調行動を選んだ種が支配的になる。このシミュレーションの結果は、自然界で見られる他種どうしの協調行動を説明するモデルとして、しばしば用いられている。

医療現場での戦略

我々の業界でも、戦略が予後を左右する。

病名が決まれば治療は同じ。教科書ではそうだ。それでも、現場ではやはり「戦略」の優劣は予後を左右し、「うまい」医者と「下手な」医者の差というのは、厳として存在する。

病気の治療というルールには、再戦という概念も無ければ、病気と協調するという概念も無い。どちらかというとスポーツのルールに近く、勝負は常に1回だ。

細かいルールは、病気ごとに全て違う。

  • ある病気では、大差をつけて勝たないと、「勝利」と認定されない。
  • 別の病気では、たとえば半年の勝負で最終的に51対49でも、ポイントが多いほうが「勝者」だ。

勝利目標が「大差をつけること」ならば、どこかでギャンブルに出ないと絶対に勝てない。敗血症の治療などがそうだ。一刻も早く、ためらい無く抗生物質を落とさないと、勝負はどんどん不利になる。

一方、勝負のゴールが「僅差で勝つ」ことならば、物量の投入が必須になる。持久戦で勝負するには、どちらがより多くの「物量」を持っているのかが勝負の全てだ。例えば劇症型心筋炎。どこまで「えげつない」治療をためらい無く継続できるか。主治医の心が折れたらそのときが負けだ。頑張っても非常に厳しいけれど。

同じ病名、同じ薬を用いるときでさえ、その戦略が異なるときもある。たとえば抗がん剤による化学療法は、従来型の「攻め」の治療法とは別に、「守り」の戦略というものが考えられている。

従来「攻め」の戦略

抗がん剤が腫瘍細胞と正常細胞とを見分けているのは、その分裂速度だけだ。正常細胞であっても、白血球や毛髪といった分裂の早い細胞は、抗がん剤の悪影響を受ける。抗がん剤を使っている限り、こうした副作用はどうしても見られるし、抗がん剤を大量に用いれば、腫瘍は無くなっても白血球もいなくなる。

従来型の抗がん剤治療というのは、治療の目標を「腫瘍のせん滅」に置く。腫瘍を消すための抗がん剤の濃度というのは、大体決まっている。治療戦略の最適化の目標は、いかに副作用を少なく、抗がん剤の血中濃度を上昇できるのか。いろいろな治療戦略が考えられてきたが、作用と副作用、どうしてもその間にはギャンブル的な要素がある。なかなかブレイクスルーが出ない。

「守り」に重点をおいた腫瘍治療

一方、同じ抗がん剤を使った腫瘍治療でも、その治療の目標を「腫瘍のせん滅」ではなく、「腫瘍の成長阻止」におく考え方が生まれてきている。

たとえ癌細胞が体の中にあっても、成長しなければ生体は死なない。腫瘍をせん滅するのに必要な抗がん剤の量は大量だが、成長を抑えるために必要な抗がん剤は少量で済む。この考え方から生まれた治療戦略は、抗がん剤を少量ずつ、長期間(生きている間ずっと)にわたって投与する。

この考え方で抗がん剤を使うと、薬剤は腫瘍そのものではなく、腫瘍が作る栄養血管に対して効く。血管の細胞は正常細胞だから、癌細胞よりよっぽど薬が良く効くし、耐性もつきにくいらしい。

こうした方法は、従来とは治療の目標自体が違うので、以前のものさしではその優劣が判断できない。従来流の治療戦略は、その効果の評価に「腫瘍がどれだけ小さくなったか」を使う。「守り」の方法論で抗がん剤を使っても、腫瘍は小さくならない。この方法は、「攻める」発想から見れば、効果の無い治療だ。

でも患者は死なずに長生きする。僅差の判定勝ちを拾いに行く治療戦略だ。

まだまだマイナー(私が不勉強なだけか?)な方法論だけれど、考えていることは「正解」に近い気がする。サリドマイドが多発性骨髄腫に効果があった、というNEJMのペーパーあたりから、こうした方法は徐々に取り上げられるようになってきている。

目標の無い戦略はありえない

「勝つ」にはどうすればいいのか。どういう戦略を取るのがもっとも正しい方法なのか。

多科にまたがる複雑な疾患の患者さんの治療方針を合議で決定するとき、ドツボにはまるのが 「誰も目標を示せない」という事態だ。

この患者さんの治療目標というのは、「どんなに侵襲的なことをやっても、とにかく生かす」なのか、 「いい人生だった。といって安らかに見送る」のが目標なのか、治療する科が複数になると、 このあたりが見えなくなってくる。

誰もがゴールを決められないとき、それぞれの専門家は、お互い勝手に「最適化」をはじめる。

外科は「自分たちが最適と思う」手術を行い、それは内科から見れば必要な手技が行われていなかったり、逆に過度に侵襲的なものであったり。内科は内科で、外科から見れば不本意な透析を勝手にオーダーしてみたり、いつのまにか山のような内服薬を処方していたり。

誰もが勝手に最適化をはじめると、総合的な治療戦略はめちゃくちゃになる。船頭が多くなると、船はどこに流れるか分からない。誰もが勝手に舵を切り始めた「船」の行き場は、たいていは黄泉の国だ。

  • 「勝ちに行く」なら、徹底して勝てる治療を考える。「守りに入る」なら、たとえば7日間守れれば、その間に白血球数を増加できるとか、ガンマグロブリンが効いて来るとか、待つための明確な目標を定める。
  • 攻めるなら、いらないものは徹底して捨てる。一方守るなら、とにかく物量を投入できるよう、最大限の準備をしないと持久戦で負ける。

このあたりの目標設定をちゃんとやらないと、正しい戦略というのは絶対に生まれてこない。研修医の頃は、患者オーダーの欄に「作戦」という項目を書くよう教育された。EBMに基づいたガイドラインとかいう狂った宗教が日本を席巻してから、病名が決まれば、作戦は自動的に決まるようになり、医者は戦略というものを決定できなくなった。

集団戦をやるときは、誰か一人、声の大きな医者が統率しないと、専門家の集団による治療というのはその力を発揮できない。

目標のない最適化、中途半端な戦略というのは、きっとお互いを不幸にする。

2005.08.18

児童百科事典という本があった

保育園(家のあった地域は6年保育だった)から小学校に上がるかどうかの頃、家に帰るといつも読んでいたのは百科事典だった。

児童百科事典というのは、当時は百科事典の編集と出版に命をかけていた平凡社が、1959年に出版した子供向けの百科事典だ。

地味な本だった。

自分が読んでいた、1970年代当時ですでに10年落ち。箱は粗末な茶色のボール紙、装丁こそ少々立派だったもの、カラー印刷やマルチメディアなど、まだまだ夢だった時代。子供の喜びそうな漫画のキャラクターなど一人も居らず、見た目は「大人向けの」百科事典そのもの。

百科事典と名前がついているぐらいだから、文章の量も多い。児童百科事典は、A4の百科事典サイズで、全24巻あった。全部並べると、1.5m近く。1冊1冊の本は重くて、ガキが持つには危ないぐらい。実際、本棚の高いところから本を抜こうとして、何度もけがをした。

この百科事典が画期的なのは、編纂した人たちが、この24巻を子供に本気で読ませようと考えていたところだ。

子供向けの本というのは、普通は親のために書かれる。子供が好むものなんて、大人にはわかりっこない。親にアピールすれば、事典は売れる。派手なカラー写真や、「教育的」な内容、わかりやすそうなキャラクターや、読みやすい大きな活字。お子様ランチだ。

児童百科事典は、本格的だった。内容はといえば、大人の百科事典そのもの。文学や科学、医学の知識、印象派の歴史から爆弾や火炎瓶の作り方まで、なんでも載っていた。小項目の百科事典だから、タイトルは全てアイウエオ順。ピカソの伝記の後に、ピクリン酸(爆弾の原料)の化学式が平気で記載される世界。

ところがこれが面白い。自分の興味のある無しにかかわらず、ランダムな知識がどんどん頭に詰め込まれる毎日。24巻、何回読んだか分からない。もう性格が歪む歪む。

自分がものを読めるようになった当時、この事典は出版されてからもう15年経っていた。内容が古すぎるということで、後年学研の児童百科事典を買ってもらったが、これがなぜか、どうしようもなくつまらなかった。

当時はガキだったから、文章のよしあしなんて、もちろん分からない。でもつまらない。見た目もきれいで、カラー写真満載の新しい事典は開かれることなく、「古いからもうやめなさい」といわれながらも、いつも「児童百科事典」を手にとっていたのを覚えている。

児童百科事典を編纂したのは、瀬田貞二という人だ。

児童文学の世界では有名な方で、「児童百科事典」の編集長を務めた後にフリーになり、「ホビットの冒険」「指輪物語」「ナルニア国ものがたり」など多数の児童文学を翻訳したり、また何冊もの児童小説を書いている。

この百科事典が作られていた頃、同じ平凡社の別のブースでは「世界大百科事典」という大人向けの百科事典を編集中で、当時母親がここに勤めていたそうだ。自分はこの頃、まだDNAにもなっていない。

児童百科事典を編纂していた人たちというのは、当時の出版社の中でも変わり者扱いされていたらしい。50も過ぎたおじさんばかり、肩書きも学歴も立派な人たちが、1日中シャボン玉を作ってみたり、竹を削って竹とんぼを作ってみたり、といったことを延々繰り返していたらしい。

編集部の誰かがシャボン玉を吹くと、みんなが集まって、子供の目線ではそれがどう見えるのかを観察する。で、その驚きや感動、大きなシャボン玉を作るコツといったものをまとめ、「セッケン」という小項目の文章を作る。

徹底して子供の目線から文章を書くというスタイルは、どこかディズニーランドを作ったときのコンセプトに似ている。当時の社内でも、「すごいことをやっている人たちがいる」という話はあったようで、後年自分が生まれたとき、母親は古本屋を回って、絶版になったこの事典を仕入れてきたのだそうだ。

児童百科事典は売れたらしい。出版された当時は百科事典ブームで、その中でも画期的な事典と評価されたらしいが、結局改定されることなく絶版になった。

この百科事典の編集長だった瀬田貞二本人も、刊行後しばらくして会社を去っている。

邪推するに、後年もっと「親御さん受け」する競合他社の百科事典を相手に、この事典をもう一度編纂しなおすだけの体力は、会社にも編集部にも残っていなかったのではないだろうか。百科事典を刊行するのに4縲鰀5年、他の会社の「子供向け」百科事典などは、もっとお手軽に出来て、しかもきれい。

インターネット時代、今ではこんな出版物の企画自体、絶対に通らないだろう。

出版という行為にものすごいマンパワーと時間を注ぎ込むのが許された時代。この事典の製作にまつわる話というのは、きっと面白いものがたくさんあるはずなのだが、これだけネットが広がっても、何もでてこない…。

現物は今でも実家にあるのだが、誰か当時の話、ご存知ありませんか?

現役で編集された方は、おそらく全員亡くなっているだろうけれど…。

2005.08.16

子を奪われた母は子に奪われる

子供は親のすねをかじる。だらしのない子供は、大きくなってもかじりつづける。気合の入った子供は、皮膚を食い破り、筋を貪り、骨を割って骨髄まで啜る。

南の島では、戦争で子供を亡くした親御さんには、毎年終戦記念日になると見舞金が配られるのだそうだ。

戦争で亡くした子供の人数あたり、大体100万円前後らしい。

もともと助成金がなければ誰も住まないようなところ。島に産業と呼べるものは、道路整備や土木関係しかないので、成人した子供は親を捨て、本土の都会へと出かける。本土に向かった子供の全てが成功するわけも無く、金銭的に切羽詰った子供は、親のもとに送られてくるお金のことを思い出す。

島で医者をやっていた頃(大体10年ぐらい前)。毎年この時期になると、路上に老人が放り出された。

夜になると、島を救急車がパトロールして、行き場のない年寄りを、病院に連れてくる。

この時期になると、急に増える親の貯金を奪いに、関西の都会から子供が島に帰ってくる。なけなしの貯金を守るため、子供と親とは喧嘩になり、体力的に不利な親は路上に放り出される。子供が貯金を全額見つけ出すまで、もう自分の家には入れてもらえない。その間、親は病院で預かる。

子供が本土に帰る頃、訪問看護の人と一緒に家に戻った老親は、めちゃくちゃにされた自分の部屋を見て、黙って泣くのだそうだ。

島の年寄りの暮らしは厳しい。

島全体が高齢化しているので、もうお互いに助け合うのも難しい。そろそろ一人暮らしは難しいから、ホームへ入所を、と水を向けると、結構簡単に同意してくれる。

幸い生活保護の申請は簡単に通るので、経済的な問題は解決。後は子供の同意だけ…という段になると、件の子供に電話をして同意を取り付ける必要が出てくる。

そのときに「YES」という返事がもらえることは、めったに無い。

ホームに入所するとき、島に身内がいない人だと、後見人が必要になる。慰霊金は、この人の管理に入ってしまい、子供はお金を奪いに行けなくなる。生保も同様。結局、実の子供の同意が得られないまま、年よりは不便な一人暮らしを強いられる。

親孝行な子供を持った親も悲惨だ。

老親と一緒に暮らす、「親孝行な」一家では、今度は親の年金が一家の主要な収入源になる。

仕事の無い島、道路工事が一段落つくと、もう働き口など残っていない。親が寝たきりになろうが、ものを言わなくなろうが、その人、あるいは「それ」が死んでしまうと、もう家族の収入が亡くなってしまう。

誤嚥を防ぐための胃瘻、オムツかぶれを防ぐための人工肛門、膀胱婁、ペースメーカー。生き物の摂食と排泄のための穴が、全て同一平面状に集まった寝たきり年寄りは、「ここまでやるか」というぐらいのケアを受けながら、毎月十数万円のお金を稼ぎ出す。

お金は人を豊かにするけれど、お金の無い状態は、簡単に人を鬼にする。

2005.08.12

変えないことが武器になる

そのイノベーションは望まれているのか

新しい手術方法、新しい処方。クリニカルパスや電子カルテ。病院は、毎日進歩している。

どんな進歩も「患者さんのため」。業界でもっともいかがわしいお題目は、ここでも大活躍だ。

変化を許容できない個人や組織は、やがて淘汰される。

「同じ所にとどまろうと思うなら、全速力で走りつづけなさい」

赤の女王だってそう言っている。全てのものが、その場にとどまるために全速力で走り続ける現代社会。進化を継続しつづけていかなければ、競合者においていかれる。

より侵襲の少ない手術方法。より効果の期待できる処方。より効率的で、「患者さんのためになる」様々な方法論。こうしたものは、病院がその競合者に競り勝っていくための有効な武器になる。

では、そうした進化を望んでいるのは誰だろうか?

病院の「中の人」は進化など望んでいない。みんな力を抜いてラクしたい。タダでさえ忙しい日常、電子カルテなんて、もう迷惑そのもの。システムのAdmin権限が手に入ったら、すぐにでもデータごと消去してやるのに。

進化の受益者たる患者さんはどうか?この人たちもまた、「進化」なんか望んでいない。患者さんが望んでいるのは、病気が良くなることだ。その方法が「進化」しようがしまいが、直るなら何でも支持するし、そうでないなら興味がない。

進化はリスクを伴う

方法論を進化させる、あるいは新しい薬を用いるということは、今までのやり方を捨てること、未知の領域に足を踏み出すということだ。

進化には、常にリスクが付きまとう。

進化することで、動物は変化する環境に対応する。進化できなかった生き物は、淘汰される。進化した生き物は栄える。一方で、進化の結果滅んだ生き物も、また多数存在する。

それでも生き物はリスクをとって生き延びる。動物と環境、お互いの関係は、進化論の時間軸では、刻一刻と変化する。今うまくいっているからといって、それを続けるだけでは絶滅する。気候が変われば、あるいは植生が変われば、その環境で最適な戦略はどんどん変わる。

製造業の業界では、毎日のように業務の改善を行う。少しでもムダを取るように、同業他社との競争に打ち勝つためには、常に進化を続けなくてはならない。

こうした「改善」の結果、製造業の業界では、しばしばエラーが生じる。日々の進化はエラーの増加を招く。進化のスピードが速ければ、それだけエラーの割合も高くなり、システムの信頼性は落ちる。

エラーの確率が、サービスの受け手の許容範囲内であったとき、そのシステムの進化は受容される。進化に伴い、一時はエラーが増えるかもしれないが、それに伴う競争力の増加、サービスの向上というのは、そのリスクを補って十分に余りある。進化を続けるシステムには支持が集まり、企業は栄える。

人間社会では、サービスを提供する企業と、それを受け取る顧客との関係は、毎日のように変化する。進化に伴うリスクは、種の生存には欠かせないものとして受容される。

「変わらない」ことが武器になるとき

業界全体が成長を志向しているとき、進化というのは歓迎される。一方、サービスの受け手がそうした成長を行わないか、望まないとき、サービスの提供者が一方的に「成長」しても、誰も喜ばない。

動物の進化の時間軸というのは、数千万年単位だ。一方で、社会の変化、あるいは経済の変化のスケールは数年単位。その時間軸は全く違う。医療を取り巻く環境がどんなに変わっても、医療の受益者は常に人間。社会や経済の変化のスケールから見れば、人体など全く静止しているに等しい存在だ。

静止している者は、維持を望むことはあっても成長は望まない。ほしいのは成功するための方法ではなく、失敗しないための方法だ。相手が変化しないなら、「上手くいっているものは変えない」という方法論も「あり」になる。

イノベーションが歓迎されるためには、エラーが受容されなくてはならない。

絶対に成功することが義務づけられた業界では、変化は歓迎されない。むしろ変化をしないことが信頼性を高める可能性がある。顧客の成功要求が高まってくると、進化によるサービスの向上よりも、その進化に伴うリスクの増加のほうが問題視されるようになる。

例えば、ロケットの業界がそうだ。打ち上げに失敗すれば、人は亡くなるし国の面子も潰れる。ロケット打ち上げというシステムに対する信頼性には「絶対」が要求される。

ロケット工学の世界というのは、通常の企業のそれとは全く違った方法論を取る。

信頼性の高さで評価されているロシアのロケットは、ここ20年の間、設計を変えていないらしい。基本設計を変えていないというレベルでなく、それこそロケットの性能には影響しないようなボルト一本の規格に至るまで、何も変えないらしい。

NASAのスペースシャトルにしても同様、一時、スペースシャトルの部品が形式が古すぎて製造中止になってしまったというニュースが流れたが、あれもまた、新しい部品を使わない設計方針のためだ。

信頼性を高めるための設計には、常に一世代前のもの、「枯れた」部品や方法論が使われる。

部品や方法論は日々改良され、進化する。コスト的にも、性能的にも、新しいもののほうが有利だ。新しいものに対する古いもののアドバンテージは、その部品が過去に「使われてきた」という事実、信頼性が高いということだ。

旧態依然としたものとして語られている方法論や、技術といったものも、信頼性に対する需要が極端に増して来ると、今度はその古さがメリットとして語られる。要求される成功率が「絶対」に近づくと、こうした価値観の逆転が起こる。

医療はまだまだ発展途上で、技術的に「枯れた」といえるほどの進歩を遂げた分野はごく一部だけれど、それでも一部の分野はすでに「枯れた」技術の世界に入ってきている。いずれにせよ、闇雲な改良や合理化は、ろくな結果を生まない。

デッドコピーの大切さ

古い世代から受け継いだ技術や方法論は、往々にして古臭く、鈍重に見える。野心ある若手には、上の人たちの古臭いやりかたが醜く写る。いろいろなものが「進化」し、その進化が失敗するときは、たいていこうした若手の暴走や妄想がきっかけになる。

海外のいろいろな技術を輸入して、それを改良するのは日本のお家芸と言われているけれど、ほんの40年程前までは、そんなことは全然無かった。

自分の父親は大学の技術者だったけれど、若手だった頃に最初にやらされたことは、海外から輸入した工作機械のデッドコピーだったそうだ。

まだまだ海外製品のほうが圧倒的に優秀だった頃、日本の技術者はそれをコピーする以外に工作機械を作る術を持たなかった。実際に機械を部品単位までばらしてみると、当時若かった大学技術者達には、その設計の中に「不合理」に見える部分がいくつもあったそうだ。 若手としてはそれを「改良」する。で、基本設計は海外メーカー、それに日本の技術者の「改良」が加わった工作機械は、見事に動かなかったそうだ。

一見不合理に見える設計、改良の余地があるように見える部品というものにも、それを「改善」しようとして失敗して、初めて見えてくる「合理性」がある。

うまくいっているものが「なぜ」うまくいっているのか、それを学ぶのは非常に難しい。

現在うまくいっているものというのは、過去に失敗を繰り返して、「ダメ出し」が済んでいるからうまくいく。うまくいっている原因を調べようと思ったら、その失敗の歴史を振り返る以外に無い。手痛い失敗の黒歴史は往々にして隠され、またそれを知るベテランは引退していく。技術は受け継がれず、若手はうまくいっているシステムを「改良」して、また失敗の歴史は繰り返す。

ある薬の話

最近、某社の注射薬の剤形が変更になった。

今までのものは、1アンプルの大きさが20ml。20mlというと、病院で使う分には結構大きなサイズだ。もともとは脳梗塞に使ったりする薬なので、患者さんには1日6アンプルぐらい使う。両手で持てるギリギリのガラスアンプルの山はたしかに危なく、また良く割れた。

これが最近改良され、1アンプルあたりの薬用量は変わらず、アンプルの大きさが2mlになった。薬の濃度は、実に10倍だ。

今までの大きなアンプルは、実は結構便利な面もあった。この薬を6アンプル、大塚の5%ブドウ糖水の250mlボトルにめいっぱい詰め込むと、ボトルの中の空気を抜くと、ぎりぎり全容量が入る。もう1mlたりとも余計には入らないので、量の間違いが絶対に起こらない

脳梗塞の薬は、量を間違えると効果が無かったり、最悪脳出血を招いてしまい、薬の中でも事故のリスクが高い。

今まで発売されていた大きなガラスアンプルは、「絶対に量を間違えようが無い」という、極めて優れた長所を持っていた。今回の改良で、この巨大アンプルのメリットは失われた。アンプルは小さくなった。小さなアンプルの注射薬は、病院内にはいくらでも転がっている。こいつは危ない。見た目が同じアンプルなど7つでも8つでも指摘できる。間違えやすく、それでいて濃度10倍。

同じ間違えた薬を静注するにしても、20mlならばちょっとした覚悟がいる。静注する前に、本当にそれでいいのか、ラベルぐらい確かめる。注射薬の量と、打つときの覚悟は逆比例する。2mlアンプルなら、「間違えてちょっと静注しちゃいました」はいくらでも起こりうる。

患者は進化など望んでいない。我々もまた、こうした進化なんか望んでいなかった。

ただただ長生きしたい。地雷を踏まずに定年まで仕事をしたい。それだけなんだ。

コンポーネントの流用は信頼性と進化を両立させるかもしれない

それでも社会は変化する。顧客の要求は、毎日のように変化する。信頼性の高いシステムも、時代の流れはその鈍重さをあげつらい、競争力を失ってしまう。かといって、下手に「進化」すれば、今度は致命的なエラーの発生が恐ろしい。

信頼性と柔軟性、この両者の両立をはかるには、「ありものの技術の組み合わせ」というのが鍵になるかもしれない。

スペースシャトルは、その莫大なコスト、有人飛行に対する需要の低下といった時代の流れに取り残され、淘汰されようとしている。

NASAが次の世代のスペースシャトルとして考慮中のものは、現在のシャトルのコンポーネントを流用している。

NASAの新型CEV発射ロケットはスペースシャトルの構成部品を最大限使用する

まずCEVだが、完全使い捨て物資専用宇宙船の先端に4縲鰀6名が搭乗出来る小型の人員輸送専用の宇宙船がドッキングされたユニット・システムで帰還時には人員輸送専用宇宙船だけが大気圏突入しパラシュート降下する。 (中略)NASAの計画を見る限り一番有力なのが、これまでのシャトルの位置に新型CEVを搭載した案。ET(外部燃料タンク)の下部にシャトルのメインエンジン(SSME)を4基配置し、さらにETの上部に第二段目として「サターンV」ロケットの第2段、第3段に使用された「J-2S LOX/LH2エンジン」が搭載され、CEVを打ち上げる。 NASAの憂鬱より引用

新型ロケットとは言っても、70年代のロケットの部品の寄せ集め。その代わり開発期間は短縮され、以前から用いられている技術の信頼性は引き継がれる。

NASAの新型ロケットは、あえて古い部品を多数流用することで、システム全体の信頼性を落とすことなく、時代のニーズに合わせたシステムへの進化をはかっているように見える。

ロケット業界では、「うまくいっているものは変えない」のが原則だが、シャトルは幸い、ロケット全体が、分割可能な設計になっていた。このため、システム全体がいくつかのコンポーネントとして独立しており、その流用が簡単だった。

今うまくいっているシステムというのも、いつかは時代に取り残される。うまくいっているうちに、それがなぜうまくいっているのか、そのシステムが、どこでコンポーネントに分割できるのかを考えておくと、イノベーションと信頼性の両立が可能かもしれない。

古い割にうまくいっているシステムには、宝の山が眠っている。

追記:「変革によるデメリットは確定的で、変革によるメリットは不確定である」って事だ。

2005.08.10

水と油を混ぜる方法

水をかけると全てのものは変化する。

種は芽を出し、金属は沈んで錆びる。砂糖は溶けるし砂は泥になる。

粉をまとめるには、水を加えて「こねる」必要があるけれど、あまりにも性質の違うものを水でまとめると、収拾がつかなくなる。

チームは性質の違う粒子の集団

いろいろな分野の専門家が集まった組織というのは、いろいろな性質を持った粒子の集まりだ。小さな粒子がただ集まっただけでは、それは単なる粉の山でしかない。粉の山に、少量の水を加えてうまく「こねる」と、それは団子のように一つにまとまる。

ところが、水を入れすぎると、各々性質の違う粒子は、その「専門性」を発揮しはじめる。水に浮く奴。沈む奴。溶けてなくなる奴。水は、粉の山をまとめる反面、粒子一つ一つの違いを際立たせる。水を入れすぎた粉の山は、ついには水の力で分離してしまう。

チームに水を加えるという行為は、予算を増やすとか、締め切りを延ばすとか、そういったもの。構成員各々の持ち味を生かす状況を与えるということだ。

ところが、特定の専門家が活躍しやすい条件というのは、組織の和を乱す原因にもなる。集められた専門家全員が「足りていない」時、不足しているなりにチームはまとまる。そこに「水」を加えれば、粒子である一人一人の自由度は大きくなる。そのとき、組織の生産性は上がるだろうか?

自由度の大きくなったチームというのは、その分結束が弱くなる。専門家がその専門性を発揮できる条件が整うほど、お互いのわずかな差異が浮き上がり、その維持は難しくなる。集団は瓦解し、目的は達せられない。

成功した映画やプロジェクトは、大抵の場合は厳しい予算やスケジュールの制約のなかから生れる。

低予算で驚異的なヒットを飛ばした映画監督が、莫大な予算を得て作った次回作は、しばしばどうしようもないものになる。その原因というのは、たぶん「水の与えすぎ」によるチームの崩壊だ。もちろん、その莫大な予算を消化しきって名作を作る監督もいる(2001年を撮ったキューブリックとか…)。それでも、莫大な量の「水」を有効に使い切って組織をまとめる、損な腕力のあるリーダーはまれだ。

たとえ「水を入れすぎた」環境であっても、その水がぐらぐら沸き立つ熱湯であれば、かき混ぜられて均一に見える。これが冷水ならば、その温度に応じて粒子は析出し、きれいに分離してしまう。条件の厳しい環境、例えばプロジェクトの到達目標が非常に高いとか、失敗が絶対に許されない状況などでは、専門性の違うもの同士がその個性を発揮しても、チームはけっこううまくまとまる。

性質の違う人たちを集めてチームを作るときは、ある程度予算が厳しかったり、あるいは達成しなくてはならない目標が厳しいほど、人はまとまり、プロジェクトは成功する。

いろいろな分野の専門家集団である病院組織などは、全ての医者が条件の悪さにブーブー言いながら働いているときが、いちばんまとまっているかもしれない。

専門技能が優れているという言葉には、2種類の意味がある。

  • 絶対的な技能が高い人
  • 与えられた条件の中から、自分に出来る最適解を提出できる人

両方とも兼ね備えた専門家もいるが、どちらか一方を持っている人は結構いる。

どちらの技能がより現場から要求されているのか、もちろん状況により異なるが、より「潰し」が利くのは後者の能力だ。こうした能力を持った専門家というのは、チームで仕事をするには欠かせないだろう。

水と油を混ぜるには

水と油とは、決して混ざらないもののたとえとしてよく使われる。

この2種類を何も使わないで「混ぜる」には、両者を凍らせて、分子の可動性を無くして、「粉」にしてしまい、物量的に混ぜてしまえばよい。出来上がるのは冷たい粉の山であり、どの粉が水で、どの粉が油なんだかも良く分からない。だが、とりあえずは水と油は混ざっている。

温度が高くなってくると、この粉の山は溶け始める。分子は動き始め、水は水の、油は油の「専門性」を主張し始め、ついには分離してしまう。

医療の現場で水と油といえば、医者と患者との関係だ。

医療の予算もマンパワーも冷え切っていた頃、医者と患者という2種類の「粒子」は、雑多な粉の山のようなものだった。風でも吹けば飛んでしまうような山ではあっても、粉山はそれなりにまとまっていた。

景気が良くなり、暖かくなって粉の山が溶け始めると、お互いの粒子はその「専門性」を発揮しはじめる。

  • 医者は学問としての医療の専門性を追求しだした
  • 患者は顧客としてサービスの向上を主張しだした

もともと性質の違ったものどうし、条件が整うほどお互いの差異が浮き上がり、今では完全に2層に分離している。

一度分離してしまったものを、再び混合する方法はあるのだろうか?

もう一度凍らせるのは、一番予算がかからないけれどたぶん無理だ。一度暖かい環境を知ってしまった粒子、「液体として振舞う**」自由さを知ってしまった粒子は、もう絶対に元には戻りたくないだろう。

水と油とを混合するのによくやられているのが、「乳化剤」を投入する方法だ。例えばマヨネーズは、卵という乳化剤を投入して水と油を混ぜている。世の中で売られている化粧品も同様。界面活性剤や乳化剤の力で、2種類の物質をまとめている。

医療の業界でこれをやっているのが、アメリカではやってきている「家庭医」や「ホスピタリスト」だ。

家庭医は未来の医師像か

彼らは専門医と患者をつなぐ救世主なのか?

そうは思わない。家庭医や病棟医は絶対滅ぶ。googleに取って代わられる。患者と専門医とをつなぐことだけが家庭医の仕事ならば、技術さえ進歩すれば人間がやらなくても機械がやってくれる。

医者の仕事は、あくまでも患者を治すことだ。他の医者に紹介状を書くことじゃない。

コンテンツとコミュニケーション、コンテンツの価値の低下が言われて久しいけれど、人と人とをつなぐという仕事は、将来的には機械で代用できる仕事だ。それが1年後なのか、100年後なのかはわからないけれど。

イギリスや中国は、このあたりを割り切って考えているふしがある。イギリスではNP(ナーシングプラクティショナー)、中国では「裸足の医者」(もはや死語)という準医師の制度があり、本当の医者がやる仕事、特に「家庭医」的な仕事を補間しようとしている。結構いい制度にも思えるのだが、化粧品の界面活性剤一つでこれほど騒ぐ日本では、実現はちょっと難しい。

アメリカの家庭医は、ちょうど「映画監督」のような立場を目指しているように思える。いろいろな分野の専門家に声をかけ、人を集めるところまでは将来機械で置換可能としても、監督抜きでの映画製作は考えられない。しかし、最近までの日本の医療というのは、素人が監督抜きでホームビデオを撮っていたような世界だ。そこにいきなり、ハリウッドで大作を撮れるような「監督」が大挙乗り込んできても、それこそ予算がいくらあっても足りないだろう。

「何でも診る家庭医」を目指すアメリカでも、最近は「紹介状専用ワープロ」と化している家庭医も増えてきたという。訴訟が深刻になり、どんな些細なことであっても、自分の責任で診察を終了することが出来なくなった。患者を自分で診察しても、最後は専門家への紹介状を持たせて帰す。

分離した液体をまとめるのは、いずれにしても楽じゃない。

趣味で医者をやる時代

紛体を十分細かくして、下から空気を吹き込むと、その挙動は液体と同様になる

循環流動層というらしい。セメントの原料の攪拌に使われている方法だが、これをやると、水を加えなくても、粉体があたかも液体のように振舞うという。

これを上手くやれれば、低予算と十分なアクセシビリティの両立が可能になるような気がする。

どんな構図になるのかは読めないけれど、「粒子を細かくする」工程にあたるのはネットワークの進化、医師一人一人の個人事業主化、「空気」に当たるのは、医者がやるボランティアだろうと考えている。

たぶん将来、医者が余暇の時間を利用して、「医師のボランティア」を趣味にする時代が来る気がする。ちょうど、プログラマーの人たちが、仕事とは別にフリーウェアを作るように。

根拠は無いけれど。

2005.08.08

外科の「真意」を意訳する

ベルリン(ロイター) 外国語辞書を出版するドイツのランゲンシャイト社がこのほど、男女間のコミュニケーションをより円滑なものにするため、男性の言葉の真意を「訳す」辞書を発売した。 ランゲンシャイト社によると、男性は日常生活で、女性の半分程度しか言葉を発さない。そのため、男女間で理解しあうことが困難になるのを防ぐため、辞書の発売を思い付いた、としている。 辞書の中では、カップルで買い物に出掛けた時、男性が「それ似合わないよ」と言うのは、「高すぎる」という意味、と指摘。逆に「それ買いなよ」というのは、「もう帰りたい」という催促、などと紹介している。

CNN.co.jp : 男性の「真意」を訳する

病院内でコミュニケーション不足といえば、内科と外科だ。

  • 「手術は無事成功した」==>「後は内科で」
  • 「とるべきものは全て切除できたと思う」==>「内科転科でお願い」
  • 「治療の8割方は終了した」==>「だから内科転科」
  • 「今週退院予定なんだよね」==>「外来は内科で」
  • 「今週、手術混んでてさ…」==>「忙しいから転科」
  • 「手術したところはきれいなんだけれど、熱があるんで見てくれる?」==>「面倒なので内科で」
  • 「ドレーンの管理はこっちでやるから、血圧の管理をお願いできないかな?」==>「ついでに転科と外来フォローも」
  • 「外科的な治療は終了したので、後は全身を見れる先生で」==>「ドロドロになったから内科で」
  • 「俺ら、切るだけしか出来ないからさ、…」==>「治療方針立てられないから内科で」
  • 「○○(内科の部活の後輩)、後はお前が何とかしろ。」==>「分かってるよな。

内科はいろんな科から頼りにされる。

その割には、みんなあまりありがたがってくれない。むしろ当然だと思ってる。

他科が患者を診る ↓ ↓ 自分達だけで診て悪くなる ↓ ↓ どんどん具合が悪くなる ↓ ↓ 知能障害をおこす ↓ ↓ 転科転科転科転科ァァァァ!!!どこでもいいから転科!! ↓ ↓ 内科が呼ばれる ↓ ↓ 転科 (゚Д゚)ウマー

さすがにもう勘弁してほしい。

2005.08.07

ピラミッドを登ると世界は狭くなる

砂漠の中のピラミッドが林立する世界。

大学を卒業して医者になり、どこかの病院に就職して、特定の分野の専門家になるということは、 このピラミッドを登っていくということだ。

卒業したばかりのとき。右も左も分からない状況で砂漠に放り出された研修医は、まずどうしていいのか分からない。先輩達を見てみると、みんなどこかそのへんのピラミッドを登り始めている。この世界のルールというのは、とにかく地面よりも高く上ることが「正しい」らしい。

研修医も先輩方に負けじと、見える範囲で自分に上りやすそうなピラミッドを見つけ、そこをよじ登り始める。なぜ登らなくてはならないのか、登ると幸せになれるのか、誰も教えてくれないけれど、とにかく登る。

登り始めて数年。まだほんの数段のピラミッドを登ったときには、ピラミッドの一辺はまだまだあまりにも大きい。自分の登り始めたピラミッドの大きさというのは、個人の身長に比べるとあまりにも大きく、その頂上がどこにあるのか、全く分からない。

上り始めて10年。だいぶ高いところまで上ってくると、そこから見える世界というのは非常に広かったことに気がつく。研修医だった頃、砂漠に放り出されたばかりだった頃、世界というのは自分が地面から見渡せる範囲でしかなかった。

高いところに登ると、世界はどんどん遠くまで見えてくる。

研修医のころ自分が世界と思っていた範囲はいかに小さいものであったのか。世界には、こんなにも多くのピラミッドが林立していたのか。いろいろなものが見えてくる。

「見える世界」というのは、登れば登るほど大きくなる。一方で、ピラミッドを登っている個人にとっては、「自分の生きる世界」というのは、自分の登っているピラミッドのことだ。

その段を上るほどに、ピラミッドの一辺の長さは小さくなり、頂上がその医師の視線に入ってくる頃には、 自分が登ろうとしている世界は予想可能になってくる。

ピラミッドの頂点というのは、ただ一つの石にしかすぎない。角錐世界というのは有限で、頂上がどこにあるのか分かってしまえば、自分がそこにいけるのか、後何年したら、大体どの場所にいられるのかが予想可能な世界だ。

積み重ねた年月は、人を不自由にする。

予想可能な世界ほどつまらないものは無い。自分が登ろうとしているピラミッドの世界が狭くなるほど、自分の目に入る「本当の世界」の広さが大きくなってくる。「外に出たい」。医師はしばしばキャリアを放り出し、ピラミッドから飛び降りて砂漠を走り出す。

下が砂とはいえ、運が悪ければ足を折る。別のピラミッドを登るにしても、また1からやり直しだ。上から下を見ると、砂漠に落ちて動けなくなっている奴、元気に走り出している奴、そのままそこに止まって、家など作っている奴、いろいろな連中が見える。

飛び降りた連中が本当に幸せなのか、自分のいるところはもう結構な高さなので、声は聞こえず、尋ねることも出来ない。世界の広さを実感しようと思ったら、自分が今いる高さから飛び降りるしかない。

それが本当にステキな経験なのか、それとも一生もので後悔するような愚かな行為なのか、こればっかりはダイブしてみるその瞬間までは分からない。

「飛び降りた奴、うらやましいな、自分もいつか、地面を駆けてみたいな」。そう思いつつ、今年も1段階段を上る。ピラミッドの高い所に登れば登るほど、自分の世界は予測可能になり、一方で飛び降りるのは怖くなる。

カテ屋は振り返ってはいけない」。関西方面の病院に行った先輩の上司は、以前こう教えてくれたそうだ。本当は、余計なものなど見ないで、さっさと階段の足を進めるのが正しい選択なのだろう。

結構な高さまで来た。これ以上登ったら、飛び降りれば確実に足を折る。

自分はまだ間に合うのか? 地面は固いんだろうか。

2005.08.05

技術は消費されるが芸術は賞賛される

「なぁ…知ってたか?。パリのルーブル美術館の平均入場者数は1日で4万人だそうだ。 この間、マイケル・ジャクソンのライブをTVで観たが、あれは毎日じゃあない。ルーブルは何十年にもわたって毎日だ…。開館は1793年。毎日4万人もの人間がモナリザとミロのビーナスに引きつけられ、この2つは必ず観て帰っていくというわけだ。スゴイと思わないか?」 「スゴイというのは数字の話か?」 「そうではない…すぐれた画家や彫刻家は自分の魂を目に見える形にできるというところだな。まるで時空を越えた『スタンド』だ…」

行為の中の芸術と技術

全ての行為には、技術的な側面と芸術的な側面とがある。

たとえば手術がそうだ。技術的に対等な術者であっても、芸術的に優れた術者と、そうでない術者とでは、実際に手術を受けた患者さんの満足度は全く違う。

手術後の顔貌を予想しなくてはならない美容外科医、手術後の患者さんの歩行イメージを想像しながら「骨切り」のラインを設定しなくてはならない整形外科医などは、術者の「芸術」の素養が、そのまま手術の出来不出来を左右する。

技術重視。芸術重視。芸術と技術の要素の割合は診療科で様々だが、どんな技能であっても、何かしらの芸術的な要素というのは必ず存在する。

技術は消費される

技術者は論文を書く。技術は、常に再現性が求められる。新しい技術を発明したとしても、その手順をまとめて、他の誰かが再現できなければ、それは「技術」とは認められない。

新しい論文、新しい技術は、あっという間にコピーされ、名声は、それを発案した人の手から奪われる。

工業製品は、そのオリジナリティーを問われない。WindowsがMacのコピー品であることは誰もが認めている(Winユーザーでも)が、それでもみんなWindowsを使う。論文から生まれたもの、技術から生まれた製品の存在意義は、便利に使えることだ。それを作ったのが誰なのかなど、だれも気にしない。

技術が陳腐化するスピードは、ますますその加速度を増している。

技術者は、つねに新しい発明が求められる。過去にすばらしい技術を開発した人は、次の機会にも大ヒットを飛ばすことを要求される。過去の技術の改良品など認められない。その分野は、すでに他社製品で「汚染されている」。

新しい技術が生まれれば、市場にはすぐにその劣化コピーが大量に出回る。オリジナルな製品は汚され、技術者は発言力を奪われ、やがて市場から忘れられてしまう。

芸術はオリジナルが大切にされる

工業製品と芸術作品、この両者を厳密に区別することは困難だ。芸術作品は、その中に技術的な要素と芸術的な要素とをあわせもっている。

世の芸術作品もまた、コピーを作るのは簡単になっている。それでも、コピーがいくら出回ろうと、オリジナルの作品の価値というのは全く落ちない。

芸術作品は、その「芸術度」が高くなるほど、人は実物を求め、コピーでは満足しなくなる。

たとえば、「モナリザ」や「ミロのビーナス」のコピーを、自宅の床の間に飾る人は少ない。 技術的には、単なる油絵であり、単なる石像。オリジナルに限りなく近いコピーを作るのは簡単だ。 どんなに精巧なコピーであっても、それが日本の床の間にあるのなら、誰でもコピーだと分かる。 それを飾るのは、ちょっと恥ずかしい。

コピーが飾られても満足度が高く、またコピー品にも所有の喜びがあるのは、もっと「親しみやすい」、技術の度合いの高い作品。例えばいわさきちひろの絵本であったり、ラッセンのリトグラフであったり。

ミロのビーナスが居間に飾られていても客が引くだけだが、こうした親しみやすい作家のポスターやリトグラフというのは、他人の家においてあっても、素直に「いいな」と思える。

コピーを持っている作家であればなお、近くで回顧展などが開催されれば、みんな見に行く。引越しのときなどに画集をなくすことはあっても、好きな画家の名前を忘れることは無い。

評論家は技術者を叩く

評論家は、技術者の失敗を叩いて人気を得る。

技術者が作った製品は、世の中を少しだけ便利にするかもしれない。そうなったら、その翌日からはその状態が「当たり前」になる。進歩が止まれば技術者は無能と罵倒される。技術者が何か失敗すれば、その人は人生を失うまで叩かれる。

失敗した技術者を叩く評論家は、「市民の声」を代表するヒーローだ。

彼らは技術者が嫌いだが、芸術家には敬意を払う。

自称「患者の代表」が医者を叩いたり、病院を廃業に追い込んだりするとと、世間はその人を賞賛する。一方、ダヴィンチに批判的な人間が、モナリザを「駄作だ」と破り捨てたりすれば、国際問題に発展するだろう。

技術者の作る製品と、芸術家の生み出す芸術作品。両者の「何が」違うのかを厳密に定義するのは難しいが、その評価は正反対だ。

芸術は査定を拒む

例えば、いわさきちひろとダヴィンチ、ピカソといった画家の作品を並べ、誰が一番上手なのかを比べる行為に意味があるのだろうか?

過去の芸術家のうち、誰の構図が一番正確か。だれの筆圧が、番均一なのか。誰が一番画材に金をかけていたのか。こんなものをいくら比べても、作品を見る人たちのスタンスはぶれることはない。

「好きか、嫌いか」。統計は、芸術作品を査定するためには何の役にも立たない。

技術と芸術というのは、その評価の次元が違う。

技術は数字で表現できる。芸術は査定を拒む。

工業製品は、その優れた点を数字で説明される。技術者の作品は数字で解剖され、その発明者とは何の関係も無い人たちに査定され、叩かれ消費される。

芸術は、査定を拒む。「分かる」人たちは、評論家がなんと言おうとその作家を賞賛するし、何百年たっても、オリジナルは大切にされる。

技術者の暗黒時代

技術者は名前を隠す。もちろんペーパーには名前が載る。それでも、研究から生まれた成果に、研究者のサインが入ることはまれだ。

例えば瀬戸大橋。当時世界最大だった芸術的な吊り橋が完成したとき、その開通式のテープを切ったのは地元の政治家だった。その橋の完成には、様々な技術的なチャレンジ、技術者のドラマがあった。橋を完成させた技術者の一人は、開通式のその日、橋のそばの駐車場の整理に駆り出されていたという。

当時大絶賛された件の橋は、今では赤字を垂れ流すバブルの遺産としてマスコミに叩かれ、批評家は技術者を批判して、名誉と賞賛を得た。

医療の世界にも、「EBM屋」という人たちがいる。彼らは現場の医者を叩く。統計を操り、現場の医者がいかに愚かしいかを喧伝し、世界の医療を正しい方向に導く市民のヒーローだ。

彼らの愛する統計学は、医療という行為を数字で査定し、単なる技術の枠に押し込んで消費する。あの人たちは、統計は好きでも、医者、あるいは医療という行為は嫌いなのだろう。

工業製品はコピーされ、消費され、技術者は批判される。芸術作品はオリジナルが大事にされ、成功した芸術家は幸せになれる。

同じ人間が作ったものなのに、両者の扱いはずいぶん異なる。

この両者を隔てるものは何なのか。芸術家は答えを出している。

工業製品だって芸術になる

1917年、ニューヨーク最初のアンデパンダン展に出品を乞われたマルセル・デュシャンは、彼の作品「レディ・メイド」のひとつ、「泉」と名付けた既製品の便器を出品しようと企てた。

しかし、単なる便器でしかない「泉」は、当然予想されたように、展示を拒否された。デュシャンはそのことをまとめて新聞に意見広告を出し、芸術とは結局何なのかを問うた。

デュシャンのこの作品は、もっともインパクトのある芸術作品を決めるアンケートで、見事1位に輝いたという。このアンケートの結果は、2位はピカソの「アヴィニョンの娘たち」で、3位はアンディー・ウォーホルの「Marilyn Diptych」だったという。

デュシャンの出品した便器は、既製品なので今でも買える。デュシャン自身のサインは入っていないけれど。

既製品の便器と、デュシャンの「泉」。この両者を隔てているのは3つの点だ。

  • 芸術家は作品にサインをする。「泉」には、R・MUTT と、デュシャンが記したサインが入っている。
  • デュシャンは、買った便器に「泉」という題名をつけた。単なる工業製品であっても、芸術家が名前を付けると、それは「作品」となる。
  • 名の知れた芸術家が便器を出品し、それが会場から拒否され、撤去されたという一連の事件は、それ自体が「アート」として賞賛された。芸術は、作品ではなくそれに伴う物語にも価値が見出される。

評論家が「工業製品」と貶める技術を、芸術に昇華するのは簡単なことだ。

技術者はサインし、題名をつけ、適当な「伝説」をその作品に付加する。技術者は芸術家に昇格し、製品を作る人も、それを受け取る人も、どちらも幸せ。批評屋は失業。

芸術面を前面に出す医療

病院はかつて、その技術力を数字にして公表した。手術の成功率、ベッドの回転率。平均在院日数や、外来患者数。そうした数字に医療評論家は喜び、病院は数字で査定されて消費され、医者も患者も不幸になった。

医者は技術者。医療は技術。その定義のしかたは、本当に正しいのだろうか。

北里大学(研究所病院のほう)の美容外科が大繁盛している。今は外来は2ヶ月待ち。予約も取れないぐらいの状況。たぶん大黒字。

美容形成外科という分野は、もともと芸術的な要素が強い科だ。たとえ手技的に完全であっても、手術が終わってみないことには、患者さんの満足度というのは分からない。何をもって「成功」というのか、「いい美容外科医」とはどんな人のことを指すのか、数字で説明するのは難しい。

数字で説明できない分野は、技術の分野からは疎んじられる。美容外科医は大病院で働くことは少なく、市場のニーズはあっても、誰もどこが信頼できるのか分からなかった。

こうした空白地帯に、美容形成という分野に「大病院」という付加価値を付けることに成功した北里病院は、市場で大成功をおさめている。

「大きな病院が美容形成をやると上手くいく。」 これは技術の領域の問題だ。再現性がある。

もしもこんなことを信じる病院があるならば、たぶん失敗するだろう。

今北里大学の美容外来にかかっている人たちは、「北里の美容外科」にかかりたくて、予約を待っている。単なる「大きな病院の美容外科」にかかりたいわけじゃない。オリジナルがほしいから、コピーが嫌だから、わざわざ東京まで出向く。この価値観は、工業製品ではなく芸術作品に対する価値観だ。

技術は共有、伝達が可能だが、芸術はそれが不可能で、競争者が存在できない。

もともと、医療という行為は技術と芸術、2つの面を持っている。技術は学べる。どんな手技でも、誰でもある程度のところまではいける。

一方、そこから先に進めるのは、限られた人たちだけだ。どこの大病院にも、もはや「マエストロ」とでも呼ぶしかないような技術を持つ人、診断の名人や手術の名人、何かの手技の達人といった医師は、必ずいる。誰でも、その人たちと同じことは出来る。でも、その人自身にとって変わることは、誰にも出来ない。

医師は自分達を技術者であると定義するから、こうした芸術性を声高に宣言することを好まない。

真のベテランと、その直前の人。技術的にはほぼ同等でも、どうしても超えられないわずかな差。この差こそが、一部のベテランの手技を「芸術」にしているのだが、その技術面だけしか見ないなら、その差は誤差範囲だ。

芸術のセンスのない評論家、国立病院の事務みたいな医療を芸術と認めたくない人たちは、そもそもこの差が分からない。だから数字に逃げる。数字は医師以外の人たちに美味しく利用され、寄生虫にたかられた病院は潰れていく。

芸術家はアートを「アートである」と宣言して生き延びる。

病院も、こうした医師の芸術面をもっと評価するべきだと思う。自分の施設の医師は、なぜ特別なのか、その人がその人になるためにはどんなドラマがあり、何がその専門家をして「芸術家」たらしめているのか。その物語を発信することで、医者と患者はもう少し幸せな関係を築けるかもしれない。

世界のスケールをめぐる世代間抗争

ところで、ベテランが「芸術家」化した世界というのは、それぞれの分野の特定の専門家に患者が集中し、勝者はますます栄える世界だ。専門的な技能を持つ者、権威のある者は幸せになれるが、いろんな分野をそこそここなす医者には、住み心地は悪いかもしれない。

一般内科医が生き延びやすい環境というのは、世の中のルールがコロコロ変わる不安定な環境、全ての技術が数字で査定され、ネットワークを通じて共有され、消費される、そんな社会。

昔ながらの徒弟制度、師匠を頂点としたピラミッドが林立する世界では、ピラミッドを登れない一般内科医は、いつまでも地面を這いずり回るしかない。一般内科が志向するのは誰もが地面を歩く社会だ。ピラミッドは崩れて平地になり、フリーマーケットのように、いろいろな人が少しずつ、技術を持ち寄り共有する社会だ。

  • ネットワークの力で、社会の変化を加速させようとする一般医
  • 個人のサインの力、物語の力で、社会の変化の速度を抑えて延命をはかる専門医

他者に査定されることを拒否する「芸術家」化したベテランと、世の中の技術の全てを査定して、単なる数字として消費し尽くそうとする、新世代の医師との世界観をめぐる争い。

どちらが世界に支持されるのか。どちらが「患者さんのため」になるのか。いずれにしても、「自分」という商品の価値を、必要なときに発信できない奴は、今後真っ先に淘汰される。単に「いい医者」でありさえすればよかった時代は終わり、自分が「どう」いい医師なのかをプレゼンテーションする能力は必須のものになるだろう。

医療は技術か芸術か。

われわれの神々もわれわれの希望も、もはやただ科学的なものでしかないとすれば、 われわれの愛も、また科学的であっていけないわけがありましょうか?

全ての医師は、いつかこうした問いによって、自分のとるべき立場を試されることになる。

一般内科医を目指すなら、答えはもちろんYesだ。

2005.08.02

専門性のジレンマ

専門医栄光の時代

どうせ医者にかかるなら、ちゃんとした専門医にかかりたい。現在ほとんどの人がこう考えている。 医者も患者も、専門医を目指す時代だ。

誰もが専門家を目指す。卒業当初の医者は、誰もが「一般医」という名の、 何も出来ない人間に過ぎない。誰もが「何者か」になりたい。ただの人では終わりたくない。

目標とするのは専門医だ。専門医になれれば、自分は何かの分野の 第一人者になれる。専門医になれれば、きっと幸せになれる。

医師は何かの分野の専門家になるために自分を磨き、修行する。 専門医になるのは大変だ。莫大な勉強量、症例の多い、忙しい病院でのハードなトレーニング。 専門医は、長い修行時代の代償として、周囲からの名誉と賞賛とを得る。

専門医の時代だ。一般内科に価値を見出す患者は少ない。

適当な治療など誰も望まない時代。患者さんは、その人が熱心であればあるほど、 自分の病気についていろいろ調べる。いい解答を探すには、より広い世界を探し回らないと いけない。インターネットは、それこそ世界中から最高の医者を探してくれる。

病気に対する最高の解答は、つねに専門医への受診だ。

専門医は「強い」のか

一般内科医と専門医、生態系ではネズミと鷹のような関係だ。

一般内科が狭い地面の片隅でウジウジ生き延びているのを尻目に、専門家はより高いところから、 より広い世界を見下ろし君臨する。ネズミと鷹が勝負したら、結果は見えている。ネズミは常に、 鷹のエサだ。

鷹の目から見れば、世界は広大で不変のものだ。少々林が無くなろうが、新しいビルが増えようが、 空から見ればわずかな変化。戦争当時じゃあるまいし、都市が一晩で焼け野原になるような変化は、 そうめったにおきるものじゃない。

一方、ネズミにとっての世界というのは、狭くて変化の激しい場所だ。昨日まで台所の隅に 転がっていたチーズが無くなれば、世界のエサ事情は一変する。ネズミは明日を信じていない。 今目の前にある食べ物が、明日そこに残っていると信じるネズミは、それのなくなった世界に 絶望して、飢えて死ぬ。

世間では、ネズミはどんどん増えている。一方、鷹は絶滅が心配されている。

世界は本当に広いのか

生物は、自分が認識した「世界の大きさ」に最適化された生存戦略を取る。 どの動物の世界認識が正しいのか、生物ごとの共通の「ものさし無し」にそれを論じるのはナンセンス だけれど、答えは出る。

生き延びた生き物の世界認識が、生物学的に一番正解に近い。

恐竜時代、世界を席巻したのは恐竜のような大きくて強い生き物だった。世界は何万年単位で 大きな変化がなく穏やかで、「世界は大きい」という認識にあわせた生存戦略が正解だった。

恐竜が絶滅して、大型動物の保護が叫ばれている現在、世界はどんどん「小さく」なっている。

世界が小さいという場合、経済的に不況になっているという意味と、いわゆる「世間は狭い」と 実感しやすくなっているという意味と、両方に取れる。生態系から見た場合、この両者の意味は 同じだ。

世界というのは、小さくなるほど専門特化した種が生き延びにくくなる。世界のエサの総量が 減少する、情報の伝達が早くなって、特殊化した種が特殊でいられる期間が減少する。 いずれにしても、世界は「小さく」なり、専門特化した種には生きにくい状態になる。

専門医というのは、「大きい世界」に最適化された優先種だ。

専門医が相手にする患者さんは、特別な病気、重篤な病気の人ばかりだ。患者さんの特殊性が 高くなるほど、専門医のありがたみは増す。 一方、医師の専門性が増せば増すほど、対象となる患者さんの人口あたりの患者さんの数は減る。

その代わり、専門医が相手にする世界は広大だ。「医療」という世界が十分に広くて豊かなら、広い世界から、患者さんはどんどん集まる。

専門医は増えている。まだまだ専門医の栄光の時代は続く。 世界は十分に広くて、豊かだ。本当だろうか。

世界が縮むと強い個体は不利になる

生物の多様性というのは、世界の生み出すエネルギーにより影響を受ける。生産性が非常に高い環境では、エネルギーの供給があまりにも潤沢なため、環境の不均一性が失われる。

局所の環境がいくら変わろうと、世界のどの部分もエサの量は豊富。競争の条件は単純になる。「地の利」の影響は少なくなり、競争に勝つのは常に強い個体だ。大きな世界では、少数の優先種のみが生存できる。専門家の時代だ。

一方で、世界の生み出すエネルギーの量というのは、その生産と消費のスピードにより影響を受ける。

  • 生産量が減少する
  • 消費のスピードが速まる

どちらかがおこれば、世界のエネルギーの量は減る。世界の局所ごとに、そのエネルギーの大きな場所、小さな場所の不均一性が増してくると、場所場所で生存競争のルールは変わってくる。

生き延びるための競争は激しくなる。生存競争は、個体としての性能以外に、「その場所」にいかに適応しているか、地の利をいかに生かせるかという要素が効いてくる。 大きな世界に特化した生き物は、その地位を維持するのが難しくなる。

トンネルの先に光はあるのか

専門医になるためには、長い修行が必要になる。それでも、現在はまだ、 「長い修行の後には専門家として活躍できる」ということが、ある程度は保証されている。

世界は変わらない、「大きな世界」はいつまでも続くという保証がないと、 誰も専門家への道なんか怖くて歩めない。専門医の繁栄が存続するには、 環境の安定性というものは欠かせない。

現在はインターネットの時代。クリック一つで世界中から専門医を検索できる時代だ。

世界は大きく不変なのか?多分逆だ。経済的には、現在は過去以上に繁栄している。 ところが、世界の流れはますます速くなっている。大量に生み出される世界のエネルギーは 一瞬で消費される。世界はますます小さく、不均一な方向に向かっている。

明日の世界が今日と同じだなんて、今では誰も信じていない。 ましてや、数年の厳しい修行の後にも、その技能が確実に役に立つなど、信じているのは 医者ぐらいだ。

変化する世界を前提にすると、「専門化する」という行為は危険なものだ。

専門家は、大きな病院にいて、他の誰もが知らない知識を操り、特殊な機械を操作して、 一般内科には真似の出来ない奇跡を起こす。

ところが、その専門性が特定の機械依存、施設依存の専門医というのは、 環境全体の生産性が低くなってきて、環境の多様性が増してくると、 その専門性がかえって不利に働く。

世界に十分なエネルギーがあるとき、専門性を持った医師は大きな病院からのオファーが殺到する。 その人の専門性を最大限に発揮できるよう、病院側も努力する。高価な機械が搬入され、 そこには多くの患者さんが集まる。

ところが、世界が広くない場合、世界の生産性がそれほど高くない場合、専門家を招くということは、 病院にとってはリスクの高い決断になる。自分の病院にわざわざ専門家を招かなくても、 少し離れたところに同じ施設がある。その人が来て、本当に収益が増えるのか、その人の 技能は、何年経っても「専門的」でありつづけるのか、小さくなった世界では、誰も予想できない。

同じ専門家でも、トッププレーヤーは、どんな時代になっても最強でありつづける。 世界の大きさの影響を受けるのは、2番手以降だ。

世界が小さくなってくると、トッププレーヤー以外は、ナンバー2から駆け出しの専門医まで、 同じ条件での競争を強いられる。同じ専門家同士、売りにする技能は同じ。専門家を迎えられる病院が 少なくなってくると、そこには競争が生じる。腕で勝てない医師は、当然「価格の安さ」を売りに する。専門家同士の競争は、しばしば価格競争の悪循環に陥る。

もちろん、「中途半端な何でも屋」の給料というのはもともと安い。それでも、自分に投資した時間が 少なければ、長い目で見た総収入、自分の生活に対する満足度みたいなものは、そこそこ高い。

価格競争に陥った専門医は悲惨だ。長い修行時代、ひどい条件を我慢して、その先の栄光を夢見て、 待っていたのは安売り競争。もともと専門医を志す人の「幸せのハードル」は高い。 下から見れば十分とも思える条件でも、専門医は「負け」と感じるかもしれない。

専門技能は消費される

それでも、何の技能も持っていないよりは、何かの専門性を持っていたほうが、 自分にとっての「売り」が増えるかもしれない。とくに、その専門技能が人気があって、 患者さんも多いならば。

ところが、小さな世界では、すばらしい技能というのはありがたがられず、消費される。

ある技能に「価値がある」と認められれば、そこにはたちまち競合者が参入する。 競争は激化し、唯一の技術は消費され、「改良」され、その世界には 「第一人者」が乱立する。

世界が大きかった頃、コミュニケーションのスピードが今ほど早くなかった頃、 新しい技能を学ぶには時間がかかり、それを知っていることはその人にとっての「売り」になり得た。

例えばお産の鉗子分娩。鉗子を使ってお産を介助する技術は、ヨーロッパのある産科医一族の 秘中の秘だった。この技術を知っているというだけで、この一族は2世代に渡り、その地域の産科 の権威者でいられた。今では、新しい技術が新しくいられるのは、よくもって3日といったところだ。

技術は、それが技術である以上、伝達可能でコピーが可能になる。そのコピーはあるいは 劣化コピー、海賊版なのかもしれない。それでも、患者さんからは、何がオリジナルで、 何が優れているのかなんて、絶対わからない。

専門技術でなくても同じだ。医者同士だって、科が違えばどの医師が「優れて」いるのか、 よほど親しくならなければ分からない。

よい専門技術は、必ず消費され、いつかは「専門」でなくなる。専門家が専門家でいられる期間は、 近年ますます短くなっている。

最後は本人の度量の問題

それでも、専門医というのは医者という世界を代表する人たちだ。なんだかんだ言っても、 やはり専門家というのはかっこいい。学会で皆の尊敬を集めるのは、いつだって、何かの分野の 専門家だ。

専門家が専門家でいられる期間は短く、またその競争は激しい。

専門医は、その専門分化が進めば進むほど、その人の幸福のハードルは高くなり、一方でその競争は激しく、競争から去るときの選択の幅はますます狭くなる。

医療の世界というパイは大きくなっているのか、あるいは縮んでいるのか、本当のところは分からない。

大きなスケールでの世界の動きというのは、誰にも予想できない。たとえば地球の温暖化にしても、ある学者は、たかだかここ数千年の話だと一笑に付すし、一方では「地球はこのまま暖まる」と深刻に受け止める意見もある。地球が暖まるのか冷めるのか、まだ分からない。

世界の趨勢というのは、短期的な予想はついても、長期的な動きについては情報が少なすぎて分からない。また、どんな微細な変化も、長期的に多大な影響を与える可能性があり、話をややこしくする。

それでも世界は小さくなると思う。いちどできた人のつながりは、必ず世界を小さくする。弱い繋がりひとつできただけで、世界の大きさというのは非常な影響を受けるのだから。コミュニケーションの技術が発達するにつれ、世界はどんどん小さくなっているように見える。

専門医を目指すということは、自分が最適化する世界観を「大きいもの」だと設定することだ。 自分が活躍するにふさわしい世界を、どこまで大きいと認識できるのか、この大きさというのが、 要はその人の人間の大きさなのだと思う。

自分は小さな世界への最適化を志す。