2005年7月28日

知識の渋滞を抜け出すために

知識習得の高速道路化という現象

インターネットの普及や、安価に使える論文データベースの普及に伴い、他の人の知識の成果物の参照が、極めて容易になった。

他の人の技術を自分の参考にするのが容易な業界、とくにプログラマーの業界では、このインターネットの普及により、学習の高速道路化という現象がおきている。

インターネットを経由すれば、他人のコードを簡単に読むことができます。参考にすべきコードはいくらでもあり、その開発者が海の向こうにいようと世界の裏側にいようとわずか数秒でアクセスすることができます。
最高レベルのコードを参考にコードを書けば、自然と最高レベルに近づくのは当然のこと。情報へのアクセスに実質的な限界がないネットの世界では、よりクオリティの高いものがすぐ近くに存在するかもしれないという可能性が常に存在し、それがより高いクオリティを追及するモチベーションとなり得ます。
一方、ネットが普及する以前の環境においては、他人のソースコードを参照する機会などはなかなか与えられず、与えられたとしてもそれがどの程度のレベルなのかどうかを知る術もありません。他を比較対照とするのではなく、過去の自分を比較対照とし成長をしていかなければなりません。その両者の成長スピードに圧倒的な差が生まれるのは当然のことかもしれません。
梅田望夫ネット時代のエンジニアの価値

医師の業界というのは、「手が動かないと仕事にならない」という部分では、まだまだ高速道路化の恩恵というのは十分には発揮されていない。それでも、知識の習得という部分では、高速道路がだいぶ整備されてきている。大学などでは、医局の机に居ながらにして、世界中のほとんどの雑誌にアクセスできる。図書館を踏み台にしていけば、その雑誌の全テキストを参照することも容易。以前では考えられないぐらいに、必要な情報へのアクセスは簡単になってきている。

高速道路の先の渋滞

将棋の羽生名人が、以前「インターネットの普及によって、将棋の世界の何がいちばん変わったか」というインタビューに答え、こう答えたという。

「将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということだと思います。
でも、その高速道路を走り切ったところで大渋滞が起きています」

現在は、将棋が強くなるための情報というのはネット上にあふれており、その気になれば、誰でもプロ将棋士の入門者ぐらい(アマチュア最強クラス)にはなれるのだとか。以前なら、プロになるまでの道は徒歩で歩いていくしかなかったものが、今ではその入り口までは高速道路がひかれている状態。ところが、そこから次の一歩を踏み出すためにはどうすればいいのか、そこの部分の正解が分からず、大渋滞になっているのだという。

高速道路の出口から抜け出るのは難しい。後ろからも高速道路を駆け抜けてくる連中が皆どんどん追いついてくるから、自然と大渋滞が起きる。最も効率のよい勉強の仕方、しかも同質の勉強の仕方で、皆が高速道路をひた走ってくる。結果として、その一群は、確かに一つ前の世代の並のプロは追い抜いてしまう勢いなのだが、そうやって皆で到達したところ、一定のレベルのところで大渋滞が起きている。

高速道路がひかれる前の病院

ほんの10年程前まで、新しい知識というものは、上級生から学ぶしかなかった。

まだインターネットもろくに整備されていない時代。文献検索などもちろん出来るわけもなく、なにか調べ物をしようと思ったら、図書館に出向いて医学中央雑誌のデータベースをあたるしかなかった。

今度やる手術を教科書で調べておこうなどと思っても、まずAmazonがない。医学書を売っているような大きな本屋は当時近くになく、本を買おうと思ったら、医学書の行商の本屋さんに連絡を取って、本を持ってきてもらう。

どんな本がいい内容なのか、世間で評判のいい参考書は何なのか。ネットの掲示板がない時代は、すべて先輩からの口伝で教科書を選ぶしかなかった。今でこそ売れている「ワシントンマニュアル」なども、当時はまだまだ世間ではマイナーな教科書だった。

医者になるにはどんな情報が必要で、それをどうやって調べればいいのか。当時の答えは、「とにかく上級生の知識と業とを盗んで、自分のものにする」のみ。日本の研修医の誰もがそれをやっていた。

臨床研修の高速道路化と知識習得の渋滞

今は違う。インターネットを見れば、何が一番定評のある教科書なのか、すぐ分かる。教科書を買うまでもなく、今ではネット上にいろいろな教科書が無料で公開されている。自分がこんなものをはじめた頃は、まだそんなに多くの情報はなかったけれど、いまではずっと優れた情報が、いくらでも簡単に手に入る。

手技を身につける必要はあるけれど、知識の習得のスピードについては、現在の研修医は、10年前の我々の世代に比べて格段に速くなれる条件がそろっている。

一方で、「最近の研修医は覇気がない」という声は、相変わらず聞かれる。自分もいつもそう言っている。学生の頃からインターネットにアクセスできるのが当たり前の世代。知識の習得スピードは、自分達の頃とは比較にならないぐらい、すばやい人たち。どんな化け物がる来るのだろうと、数年前までは戦々恐々としていたが、もう慣れた。

何年経っても、どんな便利なツールが出現しても、新人はやはり新人のまま。みんな新人研修医のレベルで足踏みして、そこを飛び出して、中堅層に突っ込んでくる奴がなかなかいない。

高速道路の先の渋滞現象どころか、新人レベルから次の一歩を踏み出す部分で、すでに研修医に「渋滞」がおきている。

医者の仕事なんて、結局のところは手が動かないと話にならない。現在は、なまじ調べ物が簡単に出来るようになったものだから、「先輩から盗む」なんていう、面倒な技術は廃れてしまった。ところが、病院で実際に役に立つ知識を得るには、この技術こそが大事で、そのノウハウを失った研修医は入り口のところで足踏みをしてしまう。

この渋滞現象から抜け出すには、どうすればいいのだろうか。

開発者の棋力がプロ並みだからといって、プロ並みの強さの将棋プログラムが作れるわけではない。その大きな理由は2つある。1つには、コンピュータ上のプログラムとして表現できる知識がそれほどリッチではないということである。もう1つの理由は、量が質に直接結びつくという性質である。
重要なのは理由の一つ目である。この部分の理論的研究にブレイクスルーが出なければ、「高速道路を抜けたあとの渋滞」くらいのところまではいけるかもしれないが、将棋プログラムがトッププロと雌雄を決するほどの存在になることはできないのではないか。
My Life Between Silicon Valley and Japanより引用

コンピュータプログラムの世界でも、同じようなことがおきている。医師が相手にしているのは、コンピュータープログラムではなく人間だ。初心者同然の人間を、プロに仕立て上げるノウハウについては、医療業界にはそこそこのノウハウがある。

渋滞を抜け出す方法

高速道路を走ることを知っている新人は、言いかたを変えれば自分の足で歩くことを知らない。

ネットでクリック一つで情報を集めることは得意でも、一方で湿っぽい人間関係の中から、自分にとって有益な情報を取り出す知恵、他人の知識や技量を「盗む」やり方については、あまり経験がない。

渋滞を抜け出すには、高速道路を降りたらすぐに、自分の足で歩き出すしかない。自分の足で効率よく歩くための方法は、高速道路が引かれる前に、そこを歩いてきた人たちの知恵というものが参考になるかもしれない。

知識習得の3段階

  • 手順を理解するのではなく、暗記する
  • 手技のリズムを把握する
  • リスクの回避と、あえてリスクをとる場所を理解する

まずは理解でなく暗記から

手術や手技を覚える場合、大事なのは手順を理解することではなく、手順を覚えるということだ。

覚えるというのは、文字通り暗記する。例えば手術の手順などでは、手術の参考書に書いてある切開の順番、そこで使う道具の名前、その道具で切ったり分けたりする組織の名前を、すべて暗唱できるようにする。理解しようと思ってはいけない。ただただ暗記する

暗記というのは単なる労働。理解するというのは知的な作業。研修医は、手術前日などに手術書を読んで、手術の手順を「理解」しようと思うが、これは間違いだ。やったこともないものを、読んで理解できるわけがない。大事なのは暗記することだ。手術の手順を暗記することで、実際の手術を見たときに、効率よく「理解」ができる。

研修医は、理解を優先しようとして失敗する。大昔、手技は体で覚えろと教わった。

まず体験=>ひたすら体験=>そのうなんとなく理解=>手順を体で覚える

これでは、患者さんの命がいくつあっても足りない。理解のほうが暗記に優先するという考え方では、理解に至るまでの道程が、長くかかりすぎる。

これに対して、暗記を優先して、それから体験させるという考え方は、研修医の頭の中に「理解のための概念ツール」を作ることを第一の目標にする。全ての手技を丸暗記する必要はなく、実際暗記が必要なのは、手術なら最初の3つぐらい。あとは、応用が利くようになる。

まず手順の暗記=>体験=>概念ツールを形成=>次の体験がすばやく理解できる

理解のための概念ツールとは何か

過去に天才といわれている数学者の計算能力は高い。これについて、以下のようなことが考えられているのだそうだ。

基礎的な計算能力については、脳には生まれつきビルトインされた専用回路がいくつもある。しかし、数学的天才はこの数のモジュールの性能が高いから、天才であるというわけではない。先天的な数学能力というよりも、後天的に身につけた「概念ツール」とでも言うべきものを持っているため、計算能力が高くなったのだという。

  • 計算の天才マーティン・ガードナーは777の二乗を計算するとき、まず777に23を足して計算しやすい800にした。彼は100までの二乗ならば答えを暗記していたので23の二乗は529だとすぐに分かった。 そこで、(777+23)×(777-23)+529=(800×754)+529 を計算し、603729という答えを瞬時に計算した。

  • 累乗計算の世界記録保持者ウィム・クラインは100桁の数の13乗を2分以下で行うことができるという。彼は150までの整数の対数を丸暗記してこの計算に用いている。

  • 伝説のインドの天才数学者ラマヌジャンは、貧乏で進学できなかった子供時代、一人で分厚い数学の辞典「純粋数学および応用数学における基本結果概要」にでてくる5000の公式、方程式を丸暗記していた。

膨大な量の答えの暗記、計算の分割方法の知識は、数学者の計算速度を飛躍的に高める文化概念ツールとして機能している。日本の珠算の上級者は暗算のときに頭の中でソロバンを動かすらしいが、これもツールの例といえる。
Passion For The Future: なぜ数学が「得意な人」と「苦手な人」がいるのか

数学の天才達と、普通の人との間には、生物学的な隔たりは、それほど大きくはない。一方、数学の概念ツールを持っている人と、そうでない人との差は歴然としてしまう。

「手術書を丸暗記する」という行為は、実際の手術を理解していく上で、実に有効に機能する。

現在やっているのかどうかは分からないが、自分たちが研修を受けた病院では、「シャドーオペ」という練習があった。何か手術の術者をやる場合、部長の前でシャドーオペが出来ないと、メスを握らせてもらえない。

これは一種の面接試験なのだが、部長と自分、2人が向かい合った状態で座り、「はじめてください」の部長の声で、研修医が手術の手順を暗誦する。

患者は虫垂炎の患者です。(腰椎麻酔後)皮膚をイソジンで消毒後、アルコール綿球で脱色。その後ドレープをかけます。手術はMcBuney切開で行います。まず右手に20番ナイフを持ち、臍下部右側より正中方向に向かって4cm皮膚を切開。その後筋層をケリーで分け(このあたり忘れた…)、腹膜に到達します。腹膜はミュークリッツ鉗子で左右を挙上後、腹膜内に腸管がないことを確認してから11番ナイフで切開、腹膜に筋鈎を入れ、術野を展開します……(以下略)。

……この後ピンセットを腹腔内に入れてあたりをつけ、大腸のテニアを引っ張って、虫垂に達する。さらに虫垂を切離して、最終的に閉復するまで大体15分、何も見ないで暗誦しながら、手は手術をする「振り」をする。

実際の「本番」では、前立ちの先生からの「あれ切って、ここを結紮して」という指示に従えば、手術は勉強してなくても出来る。前もってシャドーをやらされても、最初のうちは指示がないと何も出来ないのは同じ。

暗記をして変わってくるのは、、2回目以降の手術のときだ。術者の慣れの速さ、そして助手として全く違った手術に入ったときにも、不思議と手が動くようになる。

虫垂炎や開腹胆摘、ヘルニアといった短い手術をいくつか、シャドーをやらされた後に執刀すると、今度は「血管の結紮」とか、「腹壁の切開」とか、「肝臓の剥離」といった一般的な手術の手順が分かってくる。そのときにどんな道具を、どの順番で出せばやりやすいのか、何に気を配らなくてはならないのかといったことが、頭の中にモジュール化されて格納される。これが医師の概念ツールと呼ぶべきものになる。

一度こうなると、他の手術にも体が反応するようになる。上司の助手として手術に入っても、「お前、気が利くな」と誉められることが多くなり、結果としてより多くの経験が手に入る。

いくら手術書を一生懸命読んでも、それを理解しようとしてはダメだ。音声化して覚えていない記憶は、現場に入ると飛んでしまう。結局、手術室で1から理解しなおさなくてはならなくなり、貴重な現場体験の機会を無駄にしてしまう。

とにかく暗記し、頭の中に手技や手術のスタートからゴールまでの道順を叩き込む。そのうえで、体験を通じて理解する。これが第一段階。

手技のリズムを理解する

手技の手順をマスターしたら、今度は手技を「うまく見せるように」努力する。

手技の上手下手は、見るだけで結構分かる。だらだらとした手技は、端から見ていて上手く見えない。急いでばかりの手技もまた、イライラしているように見えるだけで決して上手には見えない。

手技にはリズムがある。早くやってもいいところはすばやく、慎重にやらなくてはならないところはゆっくりと。動きのメリハリをつけると、下手な手技でも上手に見える。

上手に見える手技と、上手な手技というのは本質的には同じものだ。

急ぐところはどこなのか、ゆっくりやるところはどこなのか。手技のリズムを見つけるということは、手技の手順を覚えた後の次の段階だ。

研修医が手術を理解するということは、幅5cmぐらいの細い道を歩くようなものだ。

同じ細い道でも、転んでも安全な場所、落ちたら大怪我をするような危ないところ、離れたところから見れば場所によって変化に富んでいるのがわかる。ところが、手術をはじめたばかりの研修医は、最初は足元の細い道に集中するのがやっとだ。安全な場所だろうが、危険な場所だろうが、平坦な道のようにしか歩けない。

こうした研修医は、慣れた人から見ると危なっかしい。危険な場所なのに、なぜかお気楽に歩いているように見えたり、逆に安全なところなのに、やたらとおっかなびっくり歩いて見えたり。研修医は、単に目の前の道から足を外さないのに必死なだけだ。自分の居る場所が「どんな」所なのかなんて、まだ想像もつかない。

だんだんと歩くのに慣れてくると、安全なところはすたすた歩けるようになり、危険なところは、そこが危険な場所だったことにはじめて気がつく。こうしたことに気がついた研修医の手技には、リズムが生じる。同じリズム、同じ危機感を共有してくれる人と手技をやると、教えるほうも気分がいい。

一方、リズムのない初心者、リズムをつけないで、ただただ足を早くすることだけに努力する研修医はその努力の仕方を間違っている。どこが危ないのか分からないから、危ないところでも突っ走る。上司の顔は真っ青になる。

大げさなリズムをつけた手技は、傍目にはなんとなく「謙虚さ」が欠けているように見える。リズムが平坦で、なおかつ急ごうとする研修医はたいていまじめで、何とか上級生に追いつこうというモチベーションは高いのだが、やはり何か間違っている。

上手な人の手技を見ていると、その術者の思考が変わったときにリズムが変わるのがわかる。

例えばPTCA中に、上手な人が「この病変は固い」と思うと、そのときからワイヤー操作のリズムが全く変わる。最初は何かを探るような、ゆっくりとした動きであったのが、次の瞬間から病変をつつきまわすような、試行錯誤を高頻度で繰り返すような動きに変わる。

こういう動きをいきなり真似しても怒られるだけなのだが、上手な人のリズムをみて、その裏にある考え方を想像する練習をすると、手技が上手に見えるようになる。そのうち本当に上手になるかもしれない。

越えてはいけない線を理解する

リズムの話題を続ける。

どんな手技にも、「今ならやり直しが効く」という局面が絶対にある。それが見えない奴は手技をやってはいけないし、それが見えるならば、回避不可能な事故以外は絶対に防ぐことができる。

このラインを超えるということは、そこに行く前と後とでは、リスク回避の作戦が全く異なってくるということだ。リスクに対する対策を考えられるようになるのはベテランへの最終段階だが、その前に、「どこが帰還不可能点」であるのか、見えるようにならなくてはいけない。

例えば、外科手術の場合は、消化管を切る瞬間がそうだ。切った後は術野が不潔になり、危機回避の操作がぜんぜん違ってくる。

消化管の手術は、消化管を切断することなく,すべての血管根部露出,リンパ節郭清を完成させるよう努力する。そうすれば、手術の最終局面に至るまで、「引き返せる状態」を保ったまま手術を進めることができるからだ。消化管さえ開かなければ、そのまま傷を閉じれば患者さんは手術前の状態に戻せる。一方、消化管を一度切ったら最後、その瞬間以後は傷口は「不潔な」状態として対処しなくてはならない。治療を最後まで行わないと、もはや傷を閉じられない。

PTCAをやる場合は、1回目のバルーンの拡張時が、帰還不可能点だ。この前なら、引き返せる。これをやった後は、もう絶対にワイヤーを抜いてはいけない。

帰還不可能点がどこなのかは、見ていればすぐに分かる。

それでも、ただ分かるのと、感情を共有するのとは、次元の違う話だ。帰還不可能点を超えるということは、泥沼に足を踏み出す覚悟ができたということだ。医者は基本的に臆病で、修羅場をくぐった人ほどもっと臆病になる。ここを越えるとき、慣れた人ほど「覚悟する」。術者が覚悟しているとき、助手がヘラヘラしていると、むかつく。そんな奴とは、一緒に仕事をしたくなくなる。

引き返せない恐ろしさ、先の見えないところに入っていく恐ろしさは、実際にドツボにはまらないと絶対に分からないと思うけれど、とりあえずは恐ろしそうなふりでもしてくれると、「こいつ、いい奴だな」ぐらいには思われるかもしれない。

リスクをとる場所を理解する

正しい手技が上手にできるようになって、はじめてベテランの人の手技の上手なところが見えてくる。

それと同時に、ベテランがやる治療手技や手術というのは、教科書とはしばしば異なっているのに気がつく。慣れた人の手技は、しばしば下品に見える。実際、ベテランの外科医は手術中、自嘲気味に「このやり方は下品なんだけどね…」といいながら、ちょっと無茶な手の動かし方をする。

治療手技には、教科書的な正しい手順と、リスク回避が一人で出来るようになって、初めて「正しい」といえる手順とがある。後者の手順は、ベテランが取る手順で、何らかのリスクがある代わりに、早い。

ベテランと新人との一線を画する画期的なアイデアは、リスクの考え方に求められる。

医療の現場では、速さというのは救命率に直結する。

リスクは避けなくてはいけない。それでも、ゆっくりやっていたのでは、時間の経過とともに、救命率はどんどん悪くなる。何かのリスクをとることで時間の短縮がはかれ、さらに自分の技量に照らし合わせて、そのリスクが正確に、かつ十分小さく見積もれるなら、リスクを取る価値が出てくる。リスクをとるのと、単なる無謀とは、全く違う。

実際問題、現場では常に何らかのリスクを取る選択をしている。だから医療事故が起こる。一方、「正しい」やり方をやっていたのでは、正しい治療は成功しても、患者は死ぬ。

上手い人の手技を見て、何が手抜きで、何がリスクを取っている戦略なのか。また、そのリスクを取れるためにはどんな技量を磨かなくてはならないのか、そんなことを理解できると、ベテランへの道はあと一歩だ。

そしてベテランへの道

運良く(悪く?)修羅場に立ち会うことがあったら、そこで見ておくべきものは、ベテランがどう振舞うかだ。単なる経験者と、ベテランとを分けている違いは、患者の急変時にはっきりと現れる。

予期しなかった急変が起こったとき、セミプロは頭が真っ白になり、とりあえず出来ることから片っ端から対処をはじめる。本当のベテランは、「そこで立ち止まって考える」。

戦場で立ち止まって、冷静に考えるのは非常に恐ろしいことだ。下手をすれば、弾があたって死ぬ。死ぬのはみんな怖いから、戦場ではとにかく目の前の敵に銃を撃ち、みんな戦う。弾さえ撃っていれば、きっと誰かが何とかしてくれる。そう思って無心に弾を撃つ。

とりあえず出来る細かいことを一生懸命やり、本質的な治療手段を考えることから敢えて目をそらしてしまう。「これだけ頑張ってるんだから、患者さんはきっとよくなる。」これではリスク管理ではなく、単なる信仰にしかすぎない。それでも、思考停止した主治医は、手を動かすことしか出来ない。

主治医の思考が停止したら、患者さんは死ぬ。非常にシンプルな論理なのだが、やはり急変時に冷静に行動するのは難しい。

急変の修羅場で冷静さを失わずに、あえて原点に立ち返って原因を考えられるようになるにはどうすればいいのか。あるベテランは「勇気だ」といい、別のベテランは「単に慣れの問題」とこともなげに言う。

たぶんこのあたりが初心者がベテランへと育っていくための最終局面なのだが、自分はいまだにこの壁を越えられない。10年とぼとぼ歩いてだいたいこのあたりまでは来たけれど、ここから先が分からない…。

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2005年7月26日

認識のスケール

何が知りたいのか、状態や経過をどういう空間軸、時間軸で把握したいのかによって、検査の有用性というものは全く変わってくる。

たとえば、「心不全」という一つの病態を把握するのに、現在よく使われるのが、心エコーと血液中BNP濃度だ(他にも聴診や問診、胸部単純写真やスワンガンツカテーテルといった検査があるが、話を単純にするために無視)。

心エコーとBNP測定、心不全という状態を把握するのに、どちらが優れた検査だろうか。

心エコーは何でも分かる

エコーの進歩はめざましい。

ほんの15年ぐらい前まで、心臓の画像を作ることすら出来なかった心エコーは、現在では気合を入れれば冠動脈の評価まで出来る。もちろん限界はあるけれど。

動いている心臓を詳しく評価するという面では、心臓超音波検査は、他の検査の追随を許さない。

心臓の筋肉の収縮性。全ての心臓の弁の機能の評価。血液の流れ。体格などの問題で超音波が入らないような人を除けば、エコーで「見えない」心機能は無いようにすら思える。

一方、心エコーではどう評価しても「正常」な人なのに、臨床症状は「心不全」という人が存在する。自分だって一応は循環器の端くれ。「拡張障害」なんていう言葉は一応知っている。それでも、そうした目で見ても、やはりエコー上は心機能のパラメーターは正常。で、そういう人に「心不全」の内服を飲んでもらうと、心不全じゃないはずなのに症状が改善したりする。

BNPは数字だけ

血液中のBNP濃度というのは、血液検査の値にしかすぎない。心臓が漠然と「悪く」なるとその数値が上昇し、「良く」なると減少する。

BNPが上昇しても、その原因は全く分からない。心筋の機能不全なのか、弁の異常なのか。あるいは、心筋梗塞でもおこしたか。

原因はわからなくても、その人の心臓が「良い」のか「悪い」のかだけは、この検査はかなり鋭敏に分かる。

何がおきているのか全くわからなくても、息苦しさがあって、BNPの高い人に心不全の内服薬を飲んでもらうと、症状が軽快する。実際、この判断基準だけで心不全の患者さんをコントロールすると、しっかりと診察してから薬を調節するより、患者さんの予後が良くなるというデータもある。

医者の頭なんか、使うだけ無駄。BNPさえあれば、循環器内科医なんて要らない。

マクドナルドの混雑を評価するには?

詳しい検査が、なぜ大雑把な検査に劣るのだろうか?

認識のスケールが違うからだ。「心不全かどうか」という認識のスケールは、かなり「大きい」。心臓の機能を左右するのは、心筋の収縮力だけではない。弁の機能。血液中酸素濃度。血液粘稠度。様々な要因の総合が、「心不全」という病気を左右する。

個々のパラメーターを測る検査はたくさんある。心エコーは、こうしたものの大部分を個別に評価できる。ところが、部分をいくら集めても、全体には決してならない。「全体」を評価するには、全体を評価するための検査を選ぶ必要がある。

たとえば、ドライブスルーつきのマクドナルドの混雑具合を評価するには、どんな検査を行うのが正しいだろうか。

ファーストフード店が混雑する理由はいろいろある。

  • 客(車)の数が多い
  • 道が狭くて入りにくい
  • 受付がトロい
  • 料理を作るのが遅い
  • 会計係が適当で、客が出て行けない
  • 出口が大通りに面しているので、車が混雑する

心エコーで心機能を評価するというのは、ちょうどマクドナルドの店の中に入って、あれこれ観察するようなものだ。

店の中にいれば、店のことは全部分かる。誰が責任者なのか、誰が律速段階になっているのか。ところが、店の中で見ていても、店の外の原因、例えば道路の設計や、車の量などといった問題は分からない。また、誰もが少しずつ原因になっている場合、「店が混雑している」ということすら分からないかもしれない。

一方、BNPを測定するという行為は、そのマクドナルドを店の外から観察して、入り口に出来る渋滞の長さを測定する行為に例えられる。

混雑の原因は、渋滞を見ても何もわからない。それでも、「その店が混雑しているのかどうか」、何かの改善策が必要なのかだけは、見ればすぐに分かる。

検査というのは、着目する空間スケールが大きくなればなるほど、より信頼性に富んだ評価が可能になる。もちろん、細かな原因を調べるためには、空間スケールを小さく設定しなくてはならないが、今度は総合的な判断が不可能になる。

進路相談の質問はどうするのが正しいか

どこの科にいくのがいちばん「いい」のか、多くの研修医の間で話題になっている。

○○科にいった先輩は大変らしい、あそこ科の先生方は、楽しそうに仕事をしている。

多くの研修医は、自分の知っている上級生が、実際に勤務している科が「どう」なのか、そうした意見を総合して自分の行きたい科を選ぶ参考にしている。

では、「どの科が一番いいのか」という疑問に対して、「先輩の科は、どうですか?」という質問は、正しい答えを返してくれるだろうか?

検査の正しさというのは、注目する空間スケールと、検査のの解像度(たとえば年収が知りたいのか、雰囲気みたいなものまで、情報なら何でもいいのか)により左右される。正しい空間スケール、正しい解像度の検査を選択しないと、正しい答えは見つからない。

「どの科が一番いいのか」という質問は、かなり大雑把な質問だ。その答えを知るためには、たぶん「先輩は、どこの科が一番うらやましいですか?」と全ての科の医師に聞いて回り、そのアンケートを集計するのが一番正しい方法だ。

人間、誰しも自分の選択を全否定はしたくない。

自分の勤務している科にしても同様だ。当然ながら欠点はある。それでも、一方でいい面もきっとある。

  • 給料は安いけれど、やりがいはあるよ。
  • 拘束時間は長いけれど、それだけ重症の患者さんが歩いて帰ってくれる。
  • 仕事は大変だけれど、僕達が頑張らないとね…

人は他人の芝の青さをうらやむ。面白いもので、他人の芝の評価は「青さ」だけ。きれいに見えるかどうか、庭全体を見て、ごく大雑把な評価を下す。一方で、自分の家の庭の評価は複雑だ。

家の庭には池があるけれど、芝生の植生は今ひとつ。
確かに石ころの多い庭だけれど、木の生い茂り具合は家の庭のほうが上。

自分の評価は微視的に、他人の評価は巨視的に行うのが人間の習性ならば、「誰もがうらやむ科」というのは、その科の医師がどう思おうと、現時点での「正解」なのだろう。

今このアンケートをやったら、絶対に名前が挙がらないのが産科と小児科、次に内科と外科だろう。名前が挙がるのは、やはり眼科か皮膚科か。

眼科の先生方とか、みんな人当たりが良くて、仕事が楽しそうで、早く帰れて汚い仕事がない。おまけに病院内の黒字部門で政治力が強くて、肩で風切ってかっこよく廊下を闊歩している。

内科医が、病院の片隅のカレースタンドで遅い昼飯(何年もメニューは一緒)をぼそぼそ食べてる横で、昼休みに外にランチに行ってきた眼科の先生方は、近所に出来た高級イタリアンレストランの品定めに忙しい。

眼科が外履きの革靴を履いている一方で、検査途中に抜けてきた内科医は、血まみれの便所サンダルに裸足…。

うらやましいな…

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2005年7月25日

自然というエンジニアのやりかた

なぜコードを最適化するのですか?
   「……そこにコードがあるから。」

エンジニアは常に最適な設計を目指す

エンジニアは、たとえ見返りが無くても最適解を目指す。このモチベーションこそが、人間社会をここまで繁栄させた原動力だ。

一方、自然界の生き物を作ってきた「エンジニア」は、そう考えない。

自然界は、とりあえず、他の競争者よりも少しだけ優れたものを作って送り出し、さっさとシェアの拡大に走る

人間のエンジニアというのは誠実だ。彼らが設計したものは、たいていの場合に信頼できるもので、どんな状況においても優れた性能を発揮する。社会に送り出された製品も、日夜改良を続けられ、バージョンアップされる。

自然はそんなことはしない。作りっぱなしで、進化の袋小路に入って絶滅する生物なんてゴロゴロいる。作り出す製品も「適当」だから、病気になる。人間の体がよく出来ているなんて、正常な人しか見ていない人の戯言だ。患者さんを診察していて「何でこんな余計な機能、つけたんだろう?」などと首をひねることは、医者をやっていれば日常茶飯事だ。

完璧主義者の作る製品というのは、どんな状況でも最適な性能が保証できるまでは、市場に出回ってこない。このため、実際に製品が出来上がってくるのはしばしば遅れる。それでも、人間世界であれば、よりすぐれた性能というのは、後発品の不利を補って余りある。

自然界と人間社会との違い

自然界で優れているものというのは、その環境局所での適応度に優れているということだ。製品が、世界で一番優れた品質である必要は無いし、また自然は世界一を目指さない。

細かく見れば、環境というのは、一歩でも動いた時点で全く異なることは珍しくない。

全ての環境で常に最適な適応を果たす生き物はいない。環境が変われば、その環境を支配する生き物が違うのは、ごく「自然」なことだ。

自然は常に変化する。一方で人間社会は変化を好まない。

もちろん人間社会も変化をするが、たとえ少々環境が変わっても、たとえばその会社や設計者に対する信頼性、広告技術や値段など、製品のシェアを左右する要素は山ほどある。

人間は環境の変化を嫌う。経済の変化や新しい技術、法律の改正といった「環境の変化」が身の回りに生じても、こうした環境以外の価値観のパラメーターは、劇的な変化を抑制する方向に働く。

その点、自然界の競争はシビアだ。環境は刻一刻と変わる。ある環境で、たとえある動物が主流を占めたとしても、「その動物が主役になった」という事実がまた環境を変える。次の日には、その環境の覇者には天敵が出現したり、その動物に寄生する寄生虫が跋扈したりして、覇者の地位は他の生物にとって代わられる。

新しい環境には、それが技術的なものであれ、自然の力でなされたものであれ、まずは局所的に最適なものが、とりあえずの主流を占める。

たとえ世の中にもっと優れた生き物がいたとしても、競争相手がいない隙に、その環境内に普及して、確固たる地位を占めてしまえば、「シェアを取った」という強みが生じる。劣った生物は、よりすぐれた種に対してこの武器で対抗する。

環境内で独占的な地位を占めるということは、もしかしたら欠点になるかもしれないが、うまくいけば、技術的により優れた競争相手が現れたとしても、十分対等に渡り合えるようになるかもしれない。

最適化のサイクルは弱点も作る

自然というゲームの勝者というのは、必ずしも絶対的基準で最高の存在ではない。

例えば、人間の手のかかっていない自然界では、抗生物質に耐性を持つ、多剤耐性菌というのは成長が遅く、野生の菌に比べれば必ずしも「最適」なものではない。

細菌の強い、弱いという基準の本質は、分裂速度が速いか遅いかが全てだ。

過去数千年にわたり、細菌はより速い分裂速度を目指し、自分の代謝系を変化させてきた。そうした進化の結果、非常な勢いで増殖できるようになったのが、現在の野生の細菌だ。

環境内で独占的な地位を持つようになった細菌は、非常に洗練された代謝システムを持ち、すごい勢いで増殖する。一方、その経路は「最適化」されているので、何の遊びも迂回路も無い。このため、野生の細菌、たとえば肺炎球菌には、ペニシリンなどの抗生物質が面白いように効く。

一方、薬物に耐性を持った細菌というのは、代謝経路が野性株のものとは微妙に異なっていたり、薬物の代謝や排泄の経路を持っていたりする。これは、人間の目から見ると「優れている」ように見えるけれど、自然界での分裂競争では、劣っている。

例えば、F1マシンの中には、バッテリーも、発電機も搭載されていない。エンジンをかけるには、外からエンジンを回してやらないといけない。レース中、一度でもエンジンが止まれば、F1マシンはもはや自力で動くことすら出来ない。それでも、F1マシンというのは地上最速の車であり、だれもそれを見て「劣っている」とはいわないだろう。

薬剤耐性菌の場合も同様で、いろいろな代謝回路を持っているというのは、自然界というサーキットでの分裂競争では、余計なものになりこそすれ、有利になる部分は全く無い。

ところが、こうした「余計な部品」が、病院という特殊な環境では武器になる。分裂の早い細菌、代謝経路に何の迂回路も持っていない、「遊び」の少ない細菌は、真っ先に医者に殺される。抗生物質による選択圧が働く環境では、こうした薬剤耐性という性質は、有利に働く。

F1グランプリのルールが毎回変わったら、参加チームからは抗議が殺到するだろう。ところが、自然界は、こうしたルール改定を平気でやる。文句をいってもムダだ。このため、生き物は、自分達の「種」の多様性を高めることで、環境の変化に対抗しようとする。

一つのルールに最適化するということは、その競争に必要なもの以外を切り捨てるということだ。切り捨てて身軽になった体は競争に有利になる。ところが、最適化を進めると、今度は、多様性、ルールが変わったときの対応能力がなくなっていく。

ルールが変わらない前提ならば、「最適化」という行為は見返りを保証してくれる。一方、ルールが将来変更されるのが前提ならば、最適化をはかる力で、ほかのことを考えたほうがいいのかもしれない。

人という種の多様性

自然のルールは変わる。人間ですら自然の気まぐれからは無関係ではいられない。人間もまた、種の中に、多様性を持たせることで不測の事態に対処する。

鎌形赤血球症という病気がある。重篤な溶血性貧血をおこす疾患で、DNAの異常が原因で生じる。日本人にはまれ。死亡する例もあるため、生きていく上では、あるいは人間という製品の「性能」という意味では、不利な人たちだ。

ところが、このDNAを持っている人たちは、マラリアに対して自然耐性を持っている。このため、流行地域では、この病気のDNAの持ち主は、非常に有利な立場になりうる。実際、熱帯地方には、この病気の患者さんが多い。

同様に、エイズについても、現在自然耐性を持つ人がいることが分かってきている。

自然界で生き延びるのに必要なのは、局所的な長所があること、この一点のみだ。絶対的に優れている必要はなく、とりあえずまわりよりも少しだけ優れていれば、それで十分だ。マラリアに対する耐性、エイズに対する耐性を持った人間は、絶対性能でいったら多くの人間よりも劣っている。それでも、こうした人たちは、それぞれの病気の流行地域では、絶対的な長所を持っている。

もちろん、より大きな環境スケール、長い時間軸では、絶対的な性能がものをいうかもしれない。それでも、その効果は局所的なものよりはずっと小さい。

努力して成長するのは生物として正しいのか?

生きていく上で、リスクはできれば減らしたい。努力するだけで報われるならば、こんなに楽なことはない。

どの世界においても若い人たちが嫌になる気持ちは理解できる。周りの全員が同じことをやろうとしたら、努力が報われる確率は低くなってしまう。今の時代の大変なところだ。
何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続してやるのは大変なことであり、私はそれこそが才能だと思っている。
Passion For The Future: 決断力より羽生名人のことば

情報化社会では、個人の才能はすぐに全国、全世界の統一ランキングのどこかに位置づけられてしまう。それはやる気を削ぐ。
かつては見える世界が適度に小さかったので、その中で上り詰めることができ、その後で次の世界・目標が見えるようになっていた。
HSKI's: 世界を分割すれば目標が立てやすいより引用

努力した人は必ず報われる」。人間社会では、「絶対的に性能がいいものが、最後は勝つ」とまだ多くの人が信じている。成績のいい奴、走るのが速い奴、絶対性能の高い人物は賞賛される。コツコツと努力して、地道に自分を最適化させたものは、最終的には必ず報われるはず。学校でもそう教えられた。

努力したら報われるという信念は、数億年来の悪夢のような生存競争を勝ち抜いてきた人類の、「もうこれ以上の競争はいやだ」という悲鳴のようなものかもしれない。生存競争というルールには、努力という概念は存在しない。勝敗を左右するのは「引きの強さ」のみ。

努力をするという行為は、生き物として本当に正しいのだろうか?

自然界は努力をあざ笑う

コツコツ努力する生き物といったらセミの幼虫だが、あんな生存戦略をとったものだから絶滅しつつある。

地底に長い間いるうちに、地上の環境は変化する。幼虫の、何年にもわたる努力を迎えてくれるはずの世界はアスファルトで固まり、蝉の努力は報われない。

自然はセミを救うだろうか。そんなことはしない。自然はセミを切り捨てる。自然の神様に意思があったとしても、アスファルトを貫く強い幼虫に進化させるよりは、ゴキブリが樹液を吸う習慣を身につけるほうが圧倒的に簡単だ。セミの居場所は、他の生物に取って代わられる。

自然の製品には、バージョンアップの概念はない。「樹液を吸う昆虫」というニッチは、セミがいなくなれば一匹分の空白ができる。自然は空白を嫌うが、この空白には、ほかの生き物はいくらでもいる。蝉の抜けた空白はすぐに埋められる。セミのなく声は聞こえなくなるかもしれないが、樹液を出す木は相変わらず昆虫でにぎわうだろう。

競争は多様なルールを生む

自然界の生き物は、環境が変わったら、とにかくすばやく拡大して、成長することだけを考えている。大事なのはスピードだ。まごついていると、目の前で環境はどんどん姿を変える。

たとえば日当たりのいい空き地が出来れば、まずはその環境に最適化した雑草や低木が生い茂る。このことは環境を変える。動物が増え、低木は食べられる。
今度はこの環境に最適化した大きな木が環境を代表する種となり、さらに森林が発達するにつれて、下層部に到達する日光の量は減少し、光条件が悪い状況でも成長可能で、他の植物よりも成長する力の強い種が幅を利かせていく。

環境は刻一刻と変わる。環境が変わる前に幅をきかせていた種は、自分が成長するにふさわしい場所を求めて去っていき、そこにできた空白に、また新たな種が覇権を握る。

どの種も「コツコツと努力する」ことなどしない。そんな時間があったらまず自分が有利な環境を探し、そこで増殖することを考える。何かの種がそこに適応することで、その行為自体がその環境を変え、変わった環境に最適化した種がまたニッチを占めるように適応していく。

進化を通じて、ある特定の生物集団がその場所に適応するほど、その場所での競争は激しくなる。競争が激しくなった結果、その種にとっての環境は、居心地が悪くなる。適応度は低下してしまい、他の生息場所のほうがより好ましくなる場合もある。

競争を嫌った一派は他の生息場所を求め、同時に自分をそのフロンティアに向けて最適化させる。

新しい分野を開拓して利益を得ようとする競争の結果、環境には多様性が現れる。競争は、多様性を下げるのではなく、むしろ上昇させる。

競争が激しくなれば、それだけ世界の多様性は増す。一方、競争に勝つということは、「競争に勝つための機能」以外の余計なものを捨てることだ。競争に特化した生物というのは、競争の果てに環境が変わると、もうそれに対処するだけの「遊び」が残っていない可能性がある。

「いい医師になる」努力は正しい行為か?

努力するというのは、とても純粋な行為だ。純粋なあまり、その努力はしばしば「余計なもの」を削ぎ落としてしまう。いい医師になる努力は、その人が目指す環境に、自分をを最適化してくれる代わりに、外乱に対するもろさを増してしまうかもしれない。

努力して、他の人には及びもつかない技術を得、病院という社会の中で独占的な地位を占めれば、名声は上がる。一方、独占的な技術を迂回する手技の発達、ものの価値観そのものの変化というものは、競争に打ち勝った医師の努力を無に帰してしまうかもしれない。

競争に勝つことが必ずしも勝利することにつながらなくなる時代

医師の世界は競争社会だ。誰もが何かの分野で日本一、世界一を目指して競争している。一番になりたいというのは、受験競争世代の人間の本能だ。だから日本の医療レベルは、そこそこ高い。

日本一を目指すためには、有名な施設での厳しいトレーニング、長い期間の研鑚、そして厳しい競争を勝ち抜かなければならない。そうした研鑚の果てにまっているのは、必ずしも栄光に包まれた世界ではないかもしれない。

たとえば、激しい競争を勝ち抜いて得た技能が、何らかの高度な機械に依存しているとき、たとえば放射線治療の専門医や高度な機械が必要な手術手技などは、そもそもその機械がある施設に行かないと、自分の持ち味が生かせない。

高度な機械を置いている病院は少ない。高度な技量を備えた医者は、その機械への依存性故に、技能が安く査定されたり、最悪機械がない施設では、自分の専門技能が全く発揮できないということが生じうる。

どんな分野でも、スタープレーヤーになるのはとても格好がいい。スター選手になった先生方はいい人たちばかりで、研修医は誰もがそうした先生方を目標に、将来の夢を見る。

スターはかっこいい。でも、その「」は一人分しかない。

スター以外の医師は、その他大勢だ。努力の量は、スターと2番手とは、そんなに大差はないかもしれない。それでも、「その他」にに認定された専門家は、安く査定されたり、自分で思っていたほどには努力が評価されなかったりする。

努力という生存戦略にすがる種は、自然界では滅亡するものと相場が決まっている。

多様性の時代、努力が評価されない時代。時代が変わるということは、生存競争のルールがかわるということだ。

組織が重要だったのは,どの組織にいたかによって手にできる情報やリテラシが違っていた時代,相手の個別の記事にアクセスするコストが充分に高く,第三者による権威付けが必要だった時代の産物に過ぎない.
これからは経歴よりも何を書き,何を行い,ひとからどう評価されているかに直接アクセスされ,それによって人生の可能性が大きく変わってくる時代に入った.
さまざまな憂鬱とわたしより引用

ルールは変わる。大きな病院で働いていた。○○先生の弟子。こうした「箔」を何年もかけてとっても、それをとったときにはその価値がどうなっているのか、誰にも予想できない。

ルールがかわるならば、生存戦略をかえなければならない。過去の戦略にしがみついた奴は、この世界から滅ぶしかない。

「努力が報われる」という不自然な環境への最適化を進めるほど、その環境が変わったときの影響は大きい。長い期間、長すぎる期間の努力は、しばしば環境の激変という悲劇的な報いを受ける。

技術を極めて、あとから満を持してやってきたところで、そこに何も残っていなければそれまでだ。

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2005年7月23日

魔法使いの弟子

魔術は「場」の力を借りる技術

一人でできることというのは限られる。重症の患者さんの治療。何か特別な治療手技。医療に限らずどんな業界でも、大きなことをやろうと思ったら他の人の助けがいる。

人は集まって「場」を作る。数人の集団から、病院や会社などの組織、村や町といった、もっとつながりの薄い集団。こうした人が集まった「場」というものは、うまく働きかけると、まるで一つの人格を持ったかのように動く。

「場」というものには、単なる個人の集まり以上の力がある。いろいろな人が働く病院という組織。会社や、もっと大きな社会。「人の力を借りる」ということは、「」の力を引き出すということだ。これは、自分の身の回り数人に声をかけるというスケールから、病棟を動かす、病院全体に働きかける、社会現象を引き起こすといった大きなスケールまで、とても守備範囲の広い言葉だ。

場の持つ力を借りる方法

人の集団、あるいは場所の持つ力を引き出す方法は、古くから研究されてきた。

古いところでは、シャーマンの呪術。中世の黒魔術や白魔術。現代の政治家のプロパカンダや、広告代理店の打つあらゆる広告手段。最近のコマーシャルだって、もとをたどれば魔術の流れをくむものだ。

魔術や呪術はオカルトではなく、人の集まる場所の力を効率よく引き出すための洗練された技術だ。現在の広告手段は非常に巧妙になったけれど、その方法論は、魔術が現実に行われていた時代とそう変わりは無い。

黒魔術と白魔術

魔術の方法論というのは、黒魔術と白魔術、大きく2種類に分類できる。

黒魔術は悪、白魔術は善。黒魔術は悪魔と契約して、白魔術は聖なる者と約束する。黒魔術は油断すると魂を持っていかれるけれど、白魔術は安全。

ステレオタイプ的に語られる魔術の方法はこんなものだが、実際はそんなに単純なものじゃない。この2つの魔術は、単に約束を交わす相手が神様か、悪魔かの違いだけではなく、もっと多くの部分で異なっている。

黒魔術の方法論

黒魔術は、術者が何かの代償を払い、その力を利用して場の力を借りる。

身近なところでは、失恋した女性が髪を切るという行為がある。髪を切って、外観を変えることで、その人の周囲に「何か」があったことを知らせている。髪の毛を代償に、「何かあったらしい」という噂は廻り、相手の男への非難という形を取って、「呪い」が成就する。

中世のサバトの儀式や、日本の丑の刻参りなどの呪いの儀式というものも、儀式自体に力があるのではなく、その儀式を他の誰かに見てもらうのが目的だ。

あいつ、○○を呪ったらしい。

こうした噂は村を廻る。小さな集落なら、誰がその呪いの相手なのか、黙っていてもわかる。それからしばらく、呪いの対象となった人がちょっと転んだり、けがをしただけでも「呪いのせいだ」という噂は続く。呪われた本人も嫌な気分になることが続き、結果として呪いは成就する。

呪いをかけた本人の評判は落ちる。最悪、集団から村八分にされる。それでも、本人の評判を代償に、呪いは成就する。

何かを代償にして、集団の持つ「場の力」に訴えるという方法論は強力だ。代償さえ払えば、どんな目的であっても何らかの効果を期待できる。代償さえ払えば、悪魔というのは実に誠実で頼りになる。呪いをかける人の技量に関係なく、呪いというのは代償を払った分だけ成就する。

白魔術の方法論

ある程度成熟した集団には、その力を引き出すためのシステムというものが存在する。白魔術の術者は、そのシステムに自分の目的を訴え、願いを成就させる。

宗教というのは、集団の力を引き出すためのシステムの代表的なものだ。「神様がこうおっしゃった」という言葉は、現在でもものすごい数の人を動かす。

自分のやりたいことが、その「システム」が志向する目的に近いときは、この方法はうまくいく。願望を訴えるシステムが、例えば「神様」だったりしたときは、その力は極めて強力で、願いが成就しても何の代償も求められない。術者の目的が世界平和とか、誰かの幸せといったものであれば、こうした願いは比較的容易に、誰でも成就させることができる。

一方で、集団が作る意識というのは頑固で、制御が難しい。

例えば「学校の先生」というのも、教室の生徒の力を引き出すための一種のシステムだが、「嫌な奴に罰を与えてほしい」と先生に願ったところで、やってくれるのはせいぜい説教ぐらい。自分の代わりにぶん殴ってくれるような親切な先生はまれで、先生の説教はかえって状況を悪化させる。

神様の力も、その力を借りてお金を集める、選挙に勝つといった話になると、「自分の目的」と「システムの目的」が乖離しはじめる。自分の願いをシステムの目的に合わせるには、それを作っている集団を説得しなくてはならない。

集団意識を説得するには、術者に相当な技量が要る。「あの人は教義をゆがめて、自分の目的に利用している」などと悪い噂が立ってしまうと、術者はその名声を失う。

そうなると、やっていることはもはや黒魔術と変わらなくなる。だから、白魔術の術者というのはしばしば「ダークサイドに堕ちる」。

最適な方法は状況で変わる

黒魔術的な方法と、白魔術的なアプローチ、どちらがより効率的なのかは、自分が存在している場所の忙しさや、マンパワーによって変わってくる。

投入できる人的なパワーに限りのある、忙しい市中病院では、どういった症例に、どういう人材を使えるのかという規則がかなり厳密に組み立てられている。

市中病院でみんなの力を借りるには、その病院にある規則を速く理解するのが重要だ。自分が4人の人手がほしくても、そこでは伝統的に3人しか割けないなら、「4人」と声高に叫ぶ前に、3人で同じことをやる努力をする。どうしても4人ほしいなら、「患者さんのため」には4人という人数がいかに大切か、「患者さんのための努力」「病院として正しい行動」を、自分の思惑にかなうように歪めることを考えなくてはならない。

大学病院でのアプローチは逆だ。大学の人的なリソースの量は、市中病院のそれに比べれば無限といっていいほどに豊富であり、その気になればどんな治療手段をも可能にする。

一方で、大学病院の職場というのは小さな組織の巨大な集まりなので、何かの目的のために一体となって動くということがありえない。

この巨大な組織の力を引き出すためには、とにかく声を大にして「自分に協力してくれ」と叫ぶしかない。大声を出すだけ、あるいは怒り狂うだけで人はついてくる。混沌とした巨大組織から自分の思惑通りの力を引き出すのは、容易である一方、力を行使する術者に何らかの犠牲を要求する。叫んだり、怒ったりするのは疲れる。「変な奴」認定された医者は、そのうち誰からも相手にされず、放り出される運命にある。

第3の方法

技術は進歩する。儀式の方法、説得の技術。派手なプレゼンテーション手法。広告代理店というのは、現在の魔術師だ。

魔術師は、新しいやりかたを模索する。

黒魔術的な自由度の高さを持ちながら、その成就にごくわずかな代償で済み、その効果は神様が本気を出したときの白魔術のそれに匹敵する方法。そんなものが編み出されつつある。

そうした新しい方法で、最近行われた代表的なものは、湾岸戦争の時に報道された「原油まみれの黒い水鳥」の写真なのではないかと思う。

oiledbird.jpg

この写真は、アメリカの「やらせ」であったことがほぼ定説になっているが、今までの戦争プロパカンダとは少々趣が違う。

従来の戦争広告は、もっと具体的なメッセージを流した。

「イラクはこんなに悪い連中だ」「米軍には正義がある」

力強いメッセージを声高に叫んだり、そうした叫びを裏打ちするようなデマを流したりというのが、戦争広告の常套手段だった。

ウソはいずれはばれる。戦争がはじまったとき、真っ先に失われるのは真実だ。現代では、そんなことは誰だって知っている。知っているから、少々の宣伝を流したぐらいでは、「世論」というもの、集団の意識というものは動かない。

今回の戦争宣伝で使われたのは、人間ではなく油まみれのトリ一匹だ。

トリが「イラク侵攻は正しい」などと叫ぶはずも無いのに、世間はそう叫んでいると信じ、戦争の正義を支持した。これもやらせだとすぐに批判の声はあがったが、実用的には十分な期間、この鳥は世論を引っ張ることが出来た。

何か願い事をするとき、悪魔に願うならば代償が必要で、神様に願うならば、その「意志」に従う願いしか聞いてもらえない。

第3の方法は、「聖なる者をかん違いさせればなんだって出来る」ということだ。騙すなんてとんでもない、みんなそう信じていた。でも、やってみたら結構簡単で、その方法論も確立しつつある。今はきっとそんな状況だ。

神様の行動を制御する

神様の判断というものは、その存在を信じる人たちの判断の平均値、集団知による判断だ。

集団知というものは、判断しなくてはならないものが理解しやすいものであった場合、極めて正確にその是非を判断する。集団の中の誰かが、ある願いに激しく心を動かされても、人数が多くなると、その熱狂が他の人に波及する可能性は低い。集団知の下す判断、神様の思考というのは常に無難なところに落ち着き、一方向に引っ張られるということはない。

ところが、集団知による判断には盲点がある。誰にも善悪の判断がつかないものが提出されると、その判断力を容易に失ってしまうのだ。

ある集団の成員ひとりひとりの正答率が平均して50%以上であるとき、答えの平均が正解である確率は、集団の規模が大きくなるほど100%に近づいてゆく。
一方で、成員それぞれの正答率が(平均して)50%を下回る場合、答えの平均が正解である確率は、集団が大きくなればなるほどゼロに近づいてしまうのだ。

集団に知はあるのか?より引用

原油まみれの水鳥を見せられた世間は、一種の思考停止に陥った。

それをはじめて見せられたとき、誰もがそれをどう判断していいのか分からなかった。そこには具体的な願望というものが何もなく、あったのは強い印象と、漠然としたイメージだけ。世論は、ここから2つのメッセージを読み取った。

  • 動物虐待はかわいそう
  • 原油流出は環境によくない

思考停止状態になった集団意識は、容易に暴走する。この写真の持つメッセージに当時の政治状況を加えることで、一羽の水鳥の写真は米軍をイラクに侵攻させる原動力になった。

漠然としたイメージを用いた世論誘導の方法は、ますます巧妙になり、またその結果も制御可能なものになってきている。

未来はどこに行くのか

ところで、目的と、それを実現する力とを同居させた人間には、昔から何らかの罰則規定が加えられるのが物語の約束事だ。その目的の善悪には関係なく、力と願望とを両方持った人間は、何らかの形で滅ぼされる。

自分のもつ力に奢ることなく、ただただ宇宙全体の平和だけをを望んだ シスの皇帝パルパティーンですら、最後は「正義」を自称する緑のトカゲとその手下に謀殺されてしまった。

世界を自由に操る力を手にした広告代理店は、いずれ滅ぼされるのだろうか?

たぶん、彼らの立場は安泰だ。広告代理店は、魔法から得られるお金に興味はあっても、その魔法が生み出す結果には興味はない。もしも広告代理店が世界に何かを望むとすれば、彼らが志向するのは穏やかな混乱が永遠に持続する社会だ。

誰かが世界を統一した、平和な世の中ぐらい広告代理店にとって退屈な世界はない。誰もが満ち足りて穏やかに暮らす世の中で、コマーシャルを夢中になってみる奴などいるわけが無い。

真偽の定かでない物語が世界を無数に駆け巡り、誰もが複数の情報ソースを持つのが当たり前になる近未来、「擦り傷以上、死亡以下」の制御された争いが常に続く社会というのは、広告業者にとって住み心地のいい社会、多様性と調和との平衡状態がずっと続く社会だ。

そういう社会は、結構幸せな社会かもしれない。少なくとも、「世界政府が統治する、争いも競争もない世界」なんかよりはよほど健全で、面白い世界だろう。

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2005年7月19日

組織崩壊までの4段階(再掲)

社会にはいろいろな組織がある。病院や会社といった組織。「内科」「医療界」といった、いくつもの施設が集まった、さらに大きな組織。どんな組織にも創業者たる代表がいて、その人、あるいはその組織の求心力に引き寄せられて人が集まり、組織を作る。

病院をはじめとする組織が誕生してから、それが崩壊するまでの間には、その求心力の根源が4段階に変化する。

すべての組織が同じ段階からスタートするわけではない。

組織のできかたは、組織により様々に異なる。一方、組織の崩壊のしかたは、どんな組織でも大体同じような経過をたどる。組織を崩壊する方向に進めるのは簡単だが、組織崩壊の過程を元に戻すには大変な苦労がいる。

夢の時代

民間の組織は、誰かの夢から始まる。

やる気のあるリーダーが、自分の実現したい夢を周囲に語り、それに賛同した人たちが集まって、組織が生まれる。

その世界に同じことを考えている競争者は少なく、一方リーダーの夢を心待ちにしていた人は多い。

どんな団体でも、黎明期はそのようなものだ。全く新しい世界での仕事、多くの人が考えたことも無かったサービスというのは世界から歓迎され、またそれに関わる人々は周囲から尊敬される。

仕事に対する報酬は「ボランティア」同然。非常にきつい仕事内容は、毎日が学園祭前夜とも形容されるが、その熱狂もまた学園祭前夜のそれ。

1日中集中力を保つためには、かなりの体力が必要です。あまり慣れていないと、昼過ぎくらいには頭がボーっとしてきてだんだん作業が進まなくなります。これにはトレーニングが必要で、何度も続けているとだんだん集中力の持続時間が長くなってきて、夜まで作業をイーブンペースで続けられるようになってきます。
それに加え、僕自身は集中力がきちんと続くように、毎日運動をして体を鍛えています。それと、こういうときは昼に1回昼寝を入れるようにしています。こうしてこつこつとトレーニングしつつ取り組んでいくと、10時から19時までの9時間をフルに活用して最大の生産性を発揮できるようになってきます。
jkondo(はてなの社長さん)の日記

忙しくてきつい仕事に文句をいうスタッフはおらず、チームのモラルは高い。

リーダーの夢がスタッフを引っ張りつづけている間、あるいはスタッフの誰かが体を壊すまでの間、この夢の時代は続く。

名誉の時代

リーダーの「夢」がある程度軌道に乗り、仕事がルーチン化すると、組織は安定期に入る。

初期からのメンバーの中にはリーダーの夢に飽きてくる者も出るが、この間に組織が築き上げた名声に名を連ねるのは気分がいい。ほとんどのスタッフは、当時からそのまま居着いている。

名声が築かれた組織には、そこで働く名誉に引かれて、新しい人が集まってくる。

組織は大きくなる。

リーダーだけでは、組織を全て把握するのが不可能になった頃、新人スタッフの中には、創業者と直に話したことのない人が出てくる。

組織の運営には、初期のリーダーとは別の人、「専門家」を自称する人があれこれ口を出し始める。彼らは組織の名声に自分の名前を刻もうと画策し、ときに初期のメンバーを批判する。

  • あなたがたのやり方は非効率的
  • 情熱だけで人を引っ張るやり方は古いんですよ
  • この会社も、将来へのステップアップを考える時期です

こうした意見に違和感を訴える初期メンバーは、「専門知識も無いのに反対だけする奴」として批判される。

非専門家」と名指しされた初期メンバーの中には、組織を離れるものが出始める。創業当時のメンバーがいなくなっても、組織自体はまだまだ大きくなる。それでも、組織からは「何か」が失われ、その名声はだんだんと衰えていく。

組織の名声が衰えていくと、その求心力は落ちる。

  • 「訴訟されると人生が終わる」
  • 「裏切るとこの組織から放り出すぞ」

名声の段階も末期に差しかかると、組織は恐怖を用いることで、求心力を保とうとする。

「その組織にいる名誉」がなくなり、「組織から放り出される恐怖」が、もはやモチベーションになりえなくなったとき、組織は崩壊の次の段階に進む。

お金の時代

創業者の夢が切り開いた世界が成熟してくると、「二匹目のドジョウ」を狙う競合する組織がいくつも出現する。そうした組織は、後を追うものの強みで、勢いがある。

後発組みに比べて、最初の組織には勢いの衰えが目立つ。もはやそこには名誉ある開拓者の姿はなく、競合組織にパイが食われるのをおびえる巨人の姿しか見えない。

後発組織のトップが、「ダビデとゴリアテ」の例えを引き合いに出して取材に答えているとき、最初の組織は例外なくゴリアテに例えられるようになる。

自分のいる組織の名声が衰えてしまうと、人はそこで働く意義を、働くことにより得られるお金に求める。

もう冒険はこりごりだ。ここは大きく古く、鈍くなったけれど、まだまだ給料だけはいい。それだけでも、この施設で働く価値はある。

組織のメンバーのモチベーションは、進化を志向するよりは現状を維持する方向に発揮される。

この段階になると、団体の創世期からのメンバーが別の団体を作っていたりしている。

かつての仲間が今では競争相手。中の人は、自分の組織を他からの視点で眺めることができるようになり、自分の居場所に、周囲からの評判の悪い部分が目に付くようになる。

患者からの感謝なし。家族からの評価なし。世間の評価は最悪でもはや賤業。
訴訟のリスクを常に抱えていて裁判官の印象も最悪。
こんな状態で金以外の何を信用しろと?

組織のモラルは低下する。トップは自己保身に走るようになり、幻滅した部下は、他のもっと見返りの大きい組織へと移っていく。

組織やチーム全体の志気が低下すると、そこから出て行くのは、組織で最も優秀な人たちだ。

彼らが一番不満を抱えていると同時に、転職できる可能性も高いからだ。優秀でない人たちは、給与に不満はあっても、今の組織を辞めると行き先がないことを自覚している。

優秀な人材が逃げ出せば、組織全体の生産性は低下する。生産性が低下すれば、残った人たちの仕事は増え、時間当たりの報酬は減少する。ますます労働条件は悪化し、その組織には魅力がなくなっていく。

高邁な精神などDQN患者の前では消し飛ぶ
こんな人を救うために医者になったのかと
しかしそれでも仕事 それが仕事

あくせく働くことが馬鹿らしく思える頃、お金すらも、スタッフのモチベーションたり得なくなる。

余暇の時代

もはや働くこと自体が「バカらしい」と考える人しかいなくなった組織は、死に体となる。

モチベーションのすべては「定時に帰ること」「余計な仕事を増やさないこと」にささげられる。 この段階になってしまうと、もう黒字を作ってくれる人はごく小数になってしまう。

競争の激しい業界では、経営が成り立つことは期待できず、組織は崩壊する。

一方で、この状態になっても潰れる心配のない団体が存在する。

地方公務員、郵便局員などの組織は、最初からこの段階から組織が生まれ、そのまま継続している。

こうした集団は、余暇の多さが立派なモチベーションたりうる。何もしたくない人にとっては、「何もしなくてもいい」組織というのは最高の職場だ。

公務員組織は、誕生当時から永遠に近い寿命を保証されている。

人間の作る3つのシステム

組織のこうした経過というのは、ソフトウェアの進化の過程によく似ている。

「UNIXの考え方」という本より引用。全ての優れたシステムというのは、以下のような3つの成長段階を経るという。

  • 第一のシステムは、小さなグループが創造力を駆使して短期間で作り上げ、柔軟性に欠け機能は限定されているが、標準的なシステムよりも性能が良く、無駄なくすばやく動く。
  • 第一のシステムの成功に触発され、第二のシステムが作られる。「第二のシステム」は多くの人の心をとらえ、商業的に成功するが、最悪のシステムである。第一のシステムの成功に乗り遅れた「専門家」が、自らのコードや考えを組み込もうとするため開発グループは肥大化し、それとともに機能も肥大化する。それとともに第二のシステムはリソースを消費し、ゆっくりとしか動かなくなる。
  • 第二のシステムの重さに皆が嫌になった頃、第三のシステムが現れる。この頃には、最初の開発グループはもういない。第一のシステムのコンセプトは常識になり、しかも開発者には十分な開発期間があるので、第三のシステムは再びリソースを消費せず、すばやく動くシステムとなり、理想的なシステムとなる。
  • 第三のシステムを作るには、第一、第二のシステムを作る以外の方法は無い。

開拓者組織が崩壊しても、そこにはリーダー達が作った「ニッチ」が残っている。

恐竜時代、恐竜たちは巨大な生態系を作ったが、その進化の過程で絶滅した。

それでも、世界はそのまま残っている。恐竜の作ったニッチには、すばやく賢い哺乳類が生まれ、また新たな競争が始まり、生態系が作られる。

「恐竜」に依存していた生物は、その世界ではもはや生きていくことは出来ないけれど、その世界にはまた、新たなニーズ、新たな顧客が掘り起こされている。世界は恐竜時代とは一変するが、遠目にはそれが地球であることは変わらず、歴史は続く。

夢を見たことのない人たちに夢を語る資格などない

現在の研修医養成制度の悲しいところは、余暇の段階にある組織のえらい人たちが「夢」を掲げて、研修医に安価な労働力になってくれることを期待している部分だ。

個々の病院のリーダーの先生は、夢でもって人を引っ張った人たちが大勢いた。

夢を見たことの無い役人には、そうした人たちが語る「夢」というのが、「人を安価に使える便利な言葉」であるとしか理解できない。

「夢」というのは便利な道具。どれ、自分達も使ってみよう。

研修医制度に何の夢も持っていない人たちが形だけの「夢」を語ったところで、腐った夢には誰も寄り付きはしない。

臨床研修制度、地域医療の枠組み。こうした制度や組織、かつてはいくつもの病院が夢を掲げて研修医を育て、派遣した世界は、もうすぐ腐る。古い組織が滅んで場所が空けば、そのニッチに新しい制度や組織が生まれる。そうなるのはきっと、そう遠くないはずだ。

こんなときだからこそ、医師の自治組織、夢の語り手としての大学病院の意義というものが、もっと見直されてもいいはずなのだが。いまは大学病院に残る研修医は馬鹿者扱いされているみたいだが、それでも自分は、大学という組織の底力みたいなものを信じたい。

意気込んだ割には何の反響も無かった文章。不憫なので再掲。ネタもないし。

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2005年7月18日

産科の崩壊の雪崩

思考実験

  1. ゴムか何か、変形可能な材料で出来たサラダボウルのような容器の中に、玉を1つ置く。
  2. 何もしなければ、玉はボウルの底で静止している。ボウルの中心はちょうど底に当たる場所なので、少々外乱を加えた程度では、玉はすぐにボウルの中心へ戻る。
  3. 何人かがかりで、ボウルの縁をゆっくりと引き伸ばし、その形を半球状のボウルから浅い皿、ついには平面にまで引き伸ばしてしまっても、上手にやれば玉は中心から動かない。
  4. さらに、引き伸ばされたボウルを裏返してみる。
  5. 裏返ったボウルは、あたかもドームのような形になる。ボウルのそこにあったはずの玉は、今ではドームの頂点に位置している。それでも、慎重にやれば玉は中心から動かず、玉は相変わらず静止している。

ボウルの底と、ドームの頂点。場所は変わっても、玉が静止しているという意味では同じ。

違いは、「何か」がおきたときの変化に現れる。

玉がボウルの底にあったときは、少々ゆすったぐらいでは、玉はすぐにもとの位置に戻る。よほどのことが無ければ、玉がボウルの外から飛び出すことはありえない。

一方、ドームの頂点にある玉は、ごくわずかな刺激が加わっただけで動き出す。1度動いた玉は、世界の果てまで転がり落ちつづけ、二度と中心に戻ってくることは無い。

この数年で産科におきたことは、たぶんこんなことだ。

産婦人科が減っている

ほんの3程年前、岩手の大きな市の産科が撤退し、1つの町が「子供の産めない町」になった。

当時自分は某東北地方の小さな病院にいて、このニュースは医局でも話題になった。その時の会話は、「あと10年もすれば、このあたりで産科なんかやる人いなくなっちゃうよね」といったもの。あの頃から、誰もが産婦人科はヤバいと思っていた。それでも、この東北地方の話題は特殊なものだと思っていたし、「あと10年」という感覚は、危機感としてはそんなに強いものではなかった。

当時の病院にも産科はあり、ベテランの産婦人科の先生が1人で頑張っていた。医局の誰もが、産科の大変さは目の当たりにしていたが、それでも当時の認識はこんなものだった。

自体は予想をはるかに越えて早く進んだ。

当時、「あと10年」と思っていた事態は、まだまだ7年以上を残して既に現実になっている。某匿名掲示板では、未来予測はたいてい悲惨なものが主流を占める。当時から、医者はみんなネットに繋がっていたけれど、それでもここまで早い進展を読んではいなかったような気がする。

今、まさに雪崩をうって、産科が撤退している。自分のいる県でも、もう県内の南1/3では子供が産めなくなった。端の方とはいえ関東地方だ。医者の絶対数だって、そこまで悲惨なぐらいに少ないわけでは決して無い。それでも産科は撤退する。子供の生める町は、毎年のように増える。

ボウルが裏返ったのはいつか

ほんの3年程度の間で、何が変わったのだろうか?

勤務条件自体は、当時も今も、それほど大きな変化があったとは思えない。出産の数、合併症妊娠の数なども、たぶんそんなに激変は無い。

訴訟リスク?たしかに大きな要因かもしれない。それでも、産科には昔からこうしたリスクはつきもので、リスク承知で仕事をしなくてはならないのは今も昔も変わらない。この数年で、産科を取り巻く環境を激変させるような、何か大きな訴訟があったわけでもない(と思う)。

いずれにしても、はっきりと「これ」という、誰もが納得できる原因というのは見つからないような気がする。

たぶん、事態は3年どころか、もっと前から始まっていたのだと思う。

前のボウルの例えでいくと、産科がまだまだ進歩段階で、患者も医者もリスク承知で頑張っていた時、大体昭和60年代は、ボウルはまだまだボウルの形をしていた。もちろんお産にはトラブルがつきもの。ボウルはよく揺れたが、「玉」である産婦人科医は、なんだかんだいってもまた中心に戻ってきた。

お産が安全になった頃、多分10年ぐらい前から、ボウルの縁はだんだんと引き伸ばされ、ボウルは平面に近くなった。

  • 産科医を雇うのは高コストだ。人件費はバカにならない。1施設あたりの人数を減らし、当直回数を微妙に増やす。
  • お産は医療からサービスへ。水中出産、自宅分娩、様々なバリエーションを選択可能なように。合併症が出たら、大きな市中病院の産科へ押し付け。
  • 市中病院での分娩はサービスが悪くて味気ない。助産院や個人病院での分娩がトレンドに。市中病院の産婦人科は、いつしか不採算部門になり、事務方の対応が微妙に冷たくなる。

こうしたできごとは、すべて「ボウル」の縁を下げ、ボウルをボウルから平面へ、さらに半球へと変形させる力となった。

「玉」の当事者である産科医は、たぶん縁がだんだん下がっていくのをもっと前から知っていた。それでも仕事はやってくる。病人が来た以上は、ボウルの中心に居て働かなくてはならない。

世界の中心に止まることはだんだんと難しくなっていっても、外から見れば玉は中心から動かない。「ならばもっと縁を引っ張ってやれ」コストを気にする人たち、経営者やサービスの受け手の患者は、こう考えた。

ボウルが平面となり、何かの臨界を越えて半球になったのが、たぶん今から5年ぐらい前。3年前の岩手での撤退がニュースで報じられた頃、たぶん「玉」は動いたのだろう。

ボウルを元の形に戻すのは不可能

一度転がった玉は、勢いを増すことはあってもそれをとどめることはきわめて難しい。

病院というのはネットワークを作っている。

どこかの町の総合病院の産科が吹っ飛ぶと、その病院では救急患者が取れなくなる。        
↓
↓
救急患者が取れなくなった町の開業医は、リスクの受け手がいなくなるので分娩を扱うことをやめる。
↓
↓
町全体で子供が生めなくなり、その町の妊婦さん数百人が隣町の総合病院へ。
↓
↓
隣町の産科もギリギリでやっている。そこの仕事もハードになり、やがてその病院も吹っ飛ぶ。
↓←いまココ
↓
3番目の町の総合病院には、今までの3倍の患者が押し寄せ…(以下略)

この雪崩を食い止めるには、どこかの市に巨大な産科のセンター病院を作って、そこで崩壊のカスケードを食い止めようという議論がよくやられる。でも、これはまず不可能だ。ベテランの産婦人科医を一人、当直付きで雇おうと思ったら、最低でも1年あたりフェラーリ1台分ぐらいの予算がかかる。産科のセンターなどをつくろうものなら、その予算はゴミ処理場のような高価な設備を作る予算以上に莫大なものになる。

ゴミ処理センターをどこの自治体が作るのか、いろいろな県でもめている。あれは、どこかに作ってもらって、それを利用させてもらったほうが、はるかに「お得」だからだ。

産科のセンターだってことは同じ。

何しろ人の命がかかっていますから。よもや、うちの町の患者さんを断るようなまねはしませんよね…

各自治体の思惑は、こうした施設をどこに押し付けるかが全てだ。

リスクの感じかたは変えられるかもしれない

ところで、仕事に感じるストレスというのは、その仕事に伴うリスクをどう感じるかで大いにされる。

たとえ自分の置かれた地面がドームだからといって、乗っているのは玉ではなく人間だ。

地球上に乗っかっている全ての人は、みな球の上の住人だ。それでも、そこから転げ落ちるストレスなど、誰も感じていない(重力が…とかの突っ込みはしないで下さい)。

産科の場合、「万が一」をどう想定するかでリスクの感覚は大いに異なる。

自分がかつて研修を受けた病院では、お産を年間800人程度受けていた。当時の産科の常勤は2人。一人は病院長兼任。時々当直だけ来て下さる非常勤の医師はいたが、ほとんどのお産は、救急を含めて 実質2人でまわしていた。その下に、素人同然の研修医が数人。

自分が研修を受けた10年前、それでも当時の産婦人科の雰囲気はそんなに絶望的なものではなく、「産婦人科がやばい」という意識も研修医には無かった気がする。

確かに、当時のベテラン医師というのは超人的な人たちだった。それでも、超人といえど人間だ。手足は4本しかないし、ご飯も食べれば夜は寝る。彼らだって普通に家には帰っていた(2日に1回、午前3時ぐらいに…)。それでも産科は普通に回せていた。

当時と今とで、何が変わったのかと言えば、リスクに対する考え方だ。実際問題、訴訟などのリスクは、今も昔も一緒。もちろん今のほうが厳しいが、それだけで現在の産科総崩れ状態を説明しきるには無理がある。変化があったのは、悲惨な経過をたどった症例、悲惨な経過をたどった医師や施設の情報が、以前に比べて格段に容易に入るようになったことだ。

「状況」という漠然としたものを自分がどう感じるのか、それを判断をするための情報は、身近な人からはえられない。判断の材料になるのは、遠くはなれた人の体験談だ。身近な人は、自分の事を全部知っているから、世界の外からの情報を提供してくれない。

病院という社会は狭くて忙しい。横のつながりはほとんど無い。自分のおかれている立場というのは極楽なのか地獄なのか、そんなことすら、ほとんどの医師は自分だけでは判断できない。

一つの施設にいる産科医の数など、多くてせいぜい5人ぐらい、普通は3人だ。ニュースで流れる悲惨な訴訟症例、潰れた産院の噂。そうした情報を耳にしたとき、集団の誰か一人が「悲惨だ、辞めたい」と思ったとき、その意思というのは、医師の属する社会が狭ければ狭いほど、他の医師に伝わりやすい。

銭湯の中では、湯船の中で同じ温度を共有していても、それを熱いと感じるかどうか、「水を入れる」という行動に移すかどうかは、そのとき湯船に浸かっている人数によりかわってくる。

湯船に一人しかいなければ、熱いと思えば水を入れればいい。

一方湯船に20人も入っていれば、黙って入っている他の19人に遠慮して、「熱い」と感じる自分の感覚を疑うようになる。

意思決定の前に多くの相手の行動や意見を考慮すればするほど、その中の一人から受ける影響は減る。誰もが大勢に注意を払っている状況では、単独で行動する人は、誰の意思にも影響を与えることが出来ない。

社会に雪崩的な変化を起こす条件というのは2つある。

  • 個人個人のつながりが、あまり密でないこと
  • 変化を起こすための閾値が十分に低いこと

あまりにも密接につながったネットワークは、人がいっぱい入った湯船のようなものだ。誰かが「何か」を感じても、それが全体につながって雪崩を起こすことは少ない。

マスコミの産婦人科叩き、事務方の冷たい態度、お産という行為自体に100%の成功を求めるプレッシャー、そうしたものは、医師が「行動」に移る閾値を限界まで下げてしまった。この限界を元の位置に戻すには、もはや莫大なコストがかかりすぎて、多分不可能なのではないかと思う。

情報公開は雪崩を止めるか

雪崩を止めるもう一つの方法は、ネットワークのつながりを密にすることだ。

「湯船」に漬かっている医師が3人しかいないからいやな予感がそのまま共有されてしまう。情報を公開して、同じ浴槽の中にいる人間の数を100人とか1000人とか、極端に多い数にすれば、「いやな予感」は本当に「いや」なのかどうか、周りを見て考える余裕ができる。

ほんの数年前まで、今と同じような給料、同じようなリスクで産科医は普通に働いていた。そんな中でも「いい」条件のところと「悪い」条件のところは絶対にある。

情報が見えないと、人は自分を疑う。他人の芝が青く見え、自分の居場所が醜く見える。

以前働いていた病院では、「事務方に対する嫌がらせ」として、医師全員の給与明細をみんなで医局に張り出した。誰が不当に多くもらっているのか、誰が働きの割に報われないのか。全てをオープンにすると、自分の立ち位置がよく分かった(一般内科がダントツで少なかった…)。

同じことを日本中でやる。個々の病院の「忙しさ」の程度、給料、当直回数などをネットで公開する。多くの医師が、自分の置かれている状況、それに対する自分の考えかた、状況の受け止めかたをblog等で公開する。自分が今働いている施設は、全日本レベルで見て「どう」なのか、全ての医師が自分の太刀位置が分かるようにする。

「情報共有」を大組織全体でやることの意義とその裏にある怖さは、個々人の実力や仕事ぶりが、発信される情報を通して、どんどんガラス張りになっていくことである。そしてそれによって、情報が淘汰され、ひいては人が淘汰されていくプロセスにつながっていくことなのである。 My Life Between Silicon Valley and Japan :「情報共有」という組織原理

情報を公開するということは、自分の環境に順位がつくということだ。そこには必ず勝者と敗者とが出現してくる。その順位を見て、自分がいい所だと思っていた場所が、実はゴミ山同然だった事に気が付いてしまう医師も出るかもしれない。一方で、悲惨だと思っていた自分の状況が、案外そうでもない事に気がついた医師は、思い直してそこに留まるかもしれない。

自分の順位をどう受け止めるのか、それは個人の価値観次第だろう。いずれの方向に行くにせよ、お互いの情報が明らかになれば、「わけの分からない雰囲気」に飲まれた産科崩壊の雪崩は止まるのではないか。

どこまで効果があるのか分からないけれど、コストがゼロであるという利点は大きいと思う。

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2005年7月17日

いまSARSが再燃・流行したら、治療法は?

現在、もしSARSがひろがったら医師はどういう治療法をするでしょう。
国立感染症研究所 の治療の項目を見てください。

http://idsc.nih.go.jp/disease/sars/GDID-04.html

これが国の機関の答えです

内科開業医のお勉強日記よりそのまま転載。

…ショックだった。

ISDCって、前はもっと活動的な機関だと思ったのだが…。

最後の流行は去年の5月だから、まあたぶん大丈夫なのだろうけれど。

感染症情報センターホームページの「情報は日々更新されています。」の文字が空しい。

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2005年7月15日

競争の中で自分を見失わないために

「医者なんて一生勉強だよ」とよく言われるのだが、別に医業に限ったことではなく、持てる知識や技術を駆使して仕事にあたる以上、どんな職でも一生勉強に違いない。

研修制度が義務化され、すでに一年以上がたつ。制度の受け止め方やこなし方といったスタイルは十人十色でまちまちだ。さっきのビルの話に当てはめれば2階建ての民家を建てるのが精一杯だったり、50階くらいまで建てたのに途中で投げ出してしまったり、途中で倒壊してしまったり……。そんな中、いきなり100階建てのビルを建てようとする研修医がいたりすることもある。

ある内科医の独り言 100階建てのビルを建てるには

臨床医になるというのは、自転車の乗りかたを覚えるのによく似ている。

世の中にはどんな自転車があるとか、どんなかっこいい乗りかたがあるなどという情報は、「自転車に乗る」という当面の目標に対しては、なんの役にも立たない。

外国製のすばらしい自転車、プロのサイクリストの本などをいくら読んでも、それを学ぶことで自転車に乗れるようになるわけじゃない。

それどころか、そんな情報は、自転車を乗る上では有害になることもある。

同級生や隣近所の人で、上手に自転車を乗りこなしている人を見ると、自分も自転車に乗りたい、もっとうまくなりたいと思う。これは自然で、有益なことだ。自分の手の届く範囲で、自分が将来そうなるであろう未来の話を聞くのはモチベーションを高める効果がある。

一方で、もっともっと上手な人の話、オリンピック級のサイクリストは英才教育であそこまで行ったとか、海外の競技用自転車のカタログを見て、気に入ったモデルを見たら到底手の出る価格じゃなかったとか、そういう手の届かないところにあるものを見てしまうと、人は絶望する。

そんなことよりも、さっさと誰かに後ろから支えてもらって、実際に自転車をこいでみること、曲がりなりにも自分の力で走ってみると、体のバランスのとりかた、気持ちのおきかたといった、どうでもいいようでいて、自転車に乗る上では結構重要なコツを覚えていく。

実際に自転車に乗ることを体験してみて、競輪選手に近づくこととか、いい自転車を手に入れることなんかではなく、「自転車に乗ること」それ自体を楽しめるようになったなら、その人は結構幸せな自転車乗りになれるかもしれない。

医者になるというのは、結構苛酷な受験勉強をくぐりぬけないといけないので、どんな医者も、多かれ少なかれ競争の意識というものを持っている。

競争を続けていく人生では、周りの状況がリアルタイムで入ってくる現在というのは、苛酷な社会だ。

100年前だったら、村で一番笛が上手かった奴は、それを誇りに生きていけた。
50年前だったら、都会に出て行って、自分と同等以上に上手い人と会う。  
現在では、CDを聞き、インターネットで世界中の情報を見て「絶望する
イチバンにはなりようのない世界。
上には上がいる。それは昔から一緒だ。
しかし、世界で一番上の情報が、いきなり目の前にさらけ出される。
階段を何段登ればそこに追いつくのか?

目端の利く人間は、自分が到達できる範囲を目ざとく目測して、その結果絶望する。
3ToheiLog: キレるより引用。

競争に淫した研修医は、「一番じゃなければ意味がない」と思うかもしれない。

一番じゃなければ何番でも同じと考える人は、昨日よりも少し順位を上げた自分を誉めることをせず、「今日も一番になれなかった」自分に絶望する。

病院の中とか、内科の中。そういった、自分の順位がはっきりしてしまう場所は、まだまだ絶対に一番になれない研修医にとっては、あるいは居心地が悪いのかもしれない。

内科で「順位を上げる」ためには、とにかく論文を読んで勉強するしかない。

世界中の「机上の知識」の量に圧倒されると、病棟で生活していくうえでは欠かせない知識、たとえば医局の空気を読んだり、病棟スタッフに気を配ったり、ご飯を食べられるときには必ず食べたり、疲れているときは上司の目を盗んででも寝なくてはいけないといった知識を蔑視するようになり、またそうした知識を駆使して生き残っていく自分を卑下してみたりといった行動が見られることがある。というか自分がそうだった

なまじネットが普及してくると、数年前までは手の届く数人でしかなかった「同級生」という概念が、気がつくと全日本レベルにまで拡大する。日本中を見るとすごい同級生がいる。自分で書いた本を出版してみたり、ネットで日記を公開しては大人気を博したり。もちろん学会に論文を書いたりなんて、もう遠いどこかのやんごとなき方々の話。

そんな連中を横に見ながら、汗まみれになって手を抜きながら当直を繰り返して、とにかく一日一日をミス無く生き抜くのに汲々としている自分、なんてかっこ悪いんだと結構絶望したりした。大体、同級生の中でも出来の悪いほうだったし。

届かない未来に絶望しないで何とかやっていくには、卑怯な方法だけれど「下を見る」のがいちばん簡単だ。研修病院なら、周りを見れば「過去の自分」がそこら中でこんな格好 _| ̄|○ をしている。

点滴が入らない、重要な所見を見落とした。自分が通ってきた失敗は、翌年の連中もまた繰り返す。現在の自分が、去年の自分に何か有益なプレゼントが出来たら、もっとすごい同級生が世界中にいたとしても、自分も少しだけほめられてもいいような気がしてくる。

下級生を教えること、自転車を支えて背中を押してやることというのは、永遠に続く競争社会の中で、自分の今立っている位置に何らかの価値を見出す役にたっている、ような気がする。

ところで。医師の成長のアナロジーに、自転車は今ひとつだ…。

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2005年7月14日