2005.06.24
報われない医療過誤防止の努力
人間という生き物はばらつきが大きくて、同じことをやっても、トラブル無く上手く行く人と、どんなベテランがやっても上手くいかない人とは確実に存在する。
安全を求める努力は自壊する
治療に関するトラブルというものは避けようがない。それを減らすことはできる。それでも、トラブルを減少させるには莫大なコストがかかる。
トラブルを減らし、安全性を高めるためのコストというのは完全を求めるほど高くなる。技術的なブレイクスルーを脇に置くと、安全率80%のものを90%に引き上げるには、そんなにお金がかからなかったりする。一方で、安全率99%のものを99.9%にまで引き上げるには、莫大なコストがかかる。後者の0.9%のコストにかかるコストは、前者の10%にかかるコストに比べると10倍以上になることも珍しいことではない。
こうしたコストをいくらかけても、患者さんの安全に対する満足度は、医者がかけたコストほどには上昇しない。
医師は割合でものをみるが、患者は絶対数でものをみる。1000例中10例のエラーを出していたのを1例にまで下げられたとき、医療者側は10分の1に減ったことを喜ぶが、患者側はたったの9例しか変わらないことを嘆く。
医師は失敗に注目するが、患者は成功例に注目する。医師にとって10が1に減ったのはすばらしいことだが、患者にとって990が999になっても、誤差範囲。
失敗を減らす医師の努力は報われることはない。
事故の確率が減れば減るほど、1回の事故における医療者側のダメージは増していく。医学の進歩の結果、いくつかの治療の安全度は向上し、成功率は高まったが、一方で医師は「常に成功すること」を求められるようになった。安全で、確立された治療であるほど、医者にとっては危険で、できればやりたくない治療になる。特にそれが、失敗すると致命的な合併症が生じるような手技であれば。
どんな治療であっても、それが世の中に出現した当初は危険なもので、また全ての人に適用できる治療にはなりえない。治療の対象となる患者さんは、「生きるか死ぬか」といった人ばかり。新しい治療手段は成功率も低い。最初のうちは、成功率の高そうな患者さんをセレクトして治療を行う。
この時期の医師-患者関係は、医者にとっては楽なものだ。
その新しい治療手段を適用しなかったら、患者さんの命が危うい。しかし、その治療はまだ始まったばかりで、成功率は必ずしも高くない。ギャンブルだが、賭けてみる価値はあるかもしれない。医師も必死になり、成功すればお互い大満足。
同じ病気で苦しんでいる人は、この時点では世の中に大勢いる。それでも、100匹の魚を釣った漁師は、「海の中にはまだ一万匹いるのに」とは思わない。100匹もつれれば、その日の収穫としては十分満足。海の中の一万匹に思いをはせるのは、また今度。治療を確立した第一世代の医師は、十分満足したまま現場を離れ、歴史に名を刻む。
治療が確立してくると、その治療の有効性が世間に認知されるようになる。患者は殺到し、その治療には柳の下のドジョウを求める医師も集まる。安全率はだんだんと向上する。安全性の向上とともに患者数も順調に上昇し、その治療はその分野の覇権を握る。その治療を行う医師達は、医療のある分野に一大帝国を築き上げる。
覇権を握った医師達には全ての利益が集まるが、一方でその帝国を維持していくための責任が生じてくる。医師の責任は増し、その治療が適応になる全ての患者を治療する義務が生じる。大きくなった帝国には反乱分子も増える。犠牲の上に築きあげられた、標準的な治療を批判して、アガリスクや霊芝を売り抜ける連中。治療を行う医師に患者を紹介するだけ紹介して、利益は全部持っていってしまう頭のいい医師。覇権を握らなくとも、栄えるすべはいくらでもある。帝国を担っている医師には、いつしか責任だけしか残らなくなる。
覇権を維持するのがバカらしいと皆が思うようになった頃、帝国は瓦解する。医者は去り、新しい治療手技が台頭してくる……そんなわけにはいかない。お産はどうする?カテは?脳出血の治療は?
このまま行くと、お互いが不幸になる。
安全から安心へ
医者がいくら努力しても、それが誉められないから皆嫌になる。みんな屈折しているから、いまさら国から「安全メダル」みたいなものをもらったところで、誰もうれしくなんか思えない。病院には人が集まる。世間様の空気ぐらい、白衣を着てても分かる。
医者の努力がなぜ報われないのか?おそらくは、医療者と患者とで、求めるものが違うからだ。
患者の求めているのは「安心」なのに対して、医者が追求しているのは「安全」だ。
「安心」という言葉は、なにか口先だけのような響きがあって、技術者たる医者からすると、安心を追求するのはなにか邪道な気がする。一方で「安全」というのは数字で表せ、統計に乗る。医者はこっちに命をかける。
安全と安心の方法論
安全と安心とでは、それを改善するためのやり方が違う。
前者を改善するには、ひたすらに一次防衛ラインを強化するしかない。上手くいかないものは全て失敗にカウントされる。失敗の確率は、限りなくゼロに近づけることを求められる。
一方で安心感をもたらすためのアプローチとは、失敗を生じた際の「次の一手」を考えておくことだ。失敗の危険は一定レベルで残るにしても、致命的な結果は回避するルートを常に考えておく。
安全を追求したシステムというのは、コストがかかり、小回りが効かない。失敗が許されないから、逆に失敗が起きたときに回避手段がない。この方向でいくら努力しても、患者さんの安心感は増すことが無い。
安心なシステムというのは、たぶんシステム全体の動作や原理が、ユーザーの目に見えること、たとえ何かトラブルが生じても、何らかの回避手段が用意されていることが、ユーザーにはっきり認識されていることなのだと思う。
(スペースシャトル)ディスカバリー号の窓の保護カバーが脱落して耐熱タイルを傷つけたことに対するNASAの広報スタッフの対応に感心していた。トラブルが発覚して報道陣が駆けつけると、広報スタッフがすでに何人も待ちかまえていて、記者の一人一人に現状がどこまでわかっていて、次に誰がどこでどうするという話を手際よく伝えていたとのこと。
広報スタッフの一人一人に与えられている説明可能な権限の範囲がじつに手広く、しかもお互いに横の連携がとれていてよどみがない。直前に打合せをして「何をどこまで話してもよい」という調整をしてあるのだろうけれど、それにしてもすばやい、とのこと。日本だったらこのような場合、「それについては何時何分から説明会を開きますので、それまでお待ちください」という回答しかもらえない、という。
このあたり、忙しい少数のスタッフと、患者さんと自由に話すことを許されない研修医でつくる現状のチーム医療というものは、医者-患者相互の信頼や、安心感を壊す方向に働いてしまっている気がする。
「安全」であるシステムは「安心」であることが多いが、100%そうではない。たとえ安全が保障されているものでも、安心感は得られないものも多い。
一方で、安全でなくとも安心なシステムというのは考えられないものだろうか?何か失うものが出てきても、生命を失う事態を回避する手段が明示されているならば、安全は完璧でなくとも安心は得られるのではないだろうか?
システム全体の安全率を高める方向と、システムの透明性を高めたり、回避手段を整える方向とは、両方ともお金がかかる。それでも、安全率が高まれば高まるほど、後者のコストは相対的に安くなる。
産科医でもないのにいつもお産を引き合いに出すが、昔の医者は急変時の回避能力が高かった。ほんの10年前まで、まだまだお産というのは命がけの要素が入っていたけれど、その時代をくぐってきたベテランは頭の切り替えが早い。
お産がトラブルに陥るとき、母体の命とトレードオフの関係にあるのが子供の命であったり、次回の妊娠が可能になるかどうかであったりと、主治医はかなり重い決断を迫られる。決断までに許される時間は数分単位で、決断が遅れると共倒れになる。
こうした修羅場をくぐってきた人たち、ちょうど今スタッフになっている人たちは、トラブルを起こしたときの次の一手、その次の一手の具体的なイメージを、かなり具体的に持っていて感心させられる。こうした人たちと一緒に仕事をしていると、たとえトラブッても大丈夫という「安心感」を感じる。
このあたりのイメージ力が、自分達の世代とベテランとの決定的な差になっていて、同じ患者さんを持っていても、相手に与える安心感、信頼感がぜんぜん違う原因になっているように思う。
修羅場を切り抜けるすべを皆が身につければ、きっと患者さんの安心感は向上する。
何とかしてこの「修羅場を乗り切る知恵」みたいなものを学びたいと思ってはいるのだが、安心した若手は悪いことから覚えていく。手技はアクロバチックなところ、派手なところから受け継がれ、大事なことはなかなか覚えられない。
こんにちは。トラックバックしていただいたようで恐縮です。さすがmedtoolz先生は洗練された文章をお書きになるものだと感心しました。 「安心」と「安全」という語句にまで言及されている点はさすがとしかいいようがありません。イマイチつかみにくい文章を単に書き殴っているだけで、とても人様の目に触れることなど勿体ない駄文ばかりですが、またの機会にでも是非いらしてください。
Posted at 2005.06.24 5:06 PM by どくちる
差し出がましいまねしてすいません…。 先生のところのトラックバックエントリーが、どうにも卑猥なもの だったので、こんなものを書いてみました…。 今後もよろしくお願いします。
Posted at 2005.06.24 5:13 PM by medtoolz
あらためて読みの鋭さに感服しました.
で,後半のベテランについてです. そのベテランの先生がたが,相次いで開業していますね. 理由は過労であったり訴訟からの逃避であったり. 特に本文で例に出された産科では,スキルフルな産科医だった先生の開業先が「レディスクリニック」だったりします.当然お産は扱いません.
ベテランの経験知ばかりに頼るのもどうかとは思いますが,一方でそういった高度な技術が本来必要なところからまず流出していくという事態こそ,「安心の追求」の結果なのですよね.
で人材とスキルを同時に失った現場は,過労と訴訟にさらされると. そんな中に飛び込む若手など誰もいません.
こういう状況が引き起こされることに,世間の矛盾を感じます.
Posted at 2005.06.24 9:00 PM by 匿名
いつも勉強させられてます。ありがとうございます。
「昔の医者は急変時の回避能力が高かった」のは、 乱暴な言葉でいうと「それだけたくさん失敗して=殺してきたから」という側面が大きいのではないでしょうか。 幸か不幸か医者一家に育った私は、体感としてそう思えるのです。 (私の親族が私同様出来が悪くてヤブだっただけかもしれませんが)
Posted at 2005.06.24 9:29 PM by GONRYO
コメントありがとうございます。 名無し様。
GONRYO様
Posted at 2005.06.24 11:45 PM by medtoolz
いつか先生がおっしゃってた、すべての先端医療の行き着く先は「産科」ってやつですね。先生の考えは現代日本医療の問題点を鋭くついていますね。みんなが何となく感じてたことを見事に文章化されてると感心します。
Posted at 2005.06.25 12:44 PM by ひらた
ひらた様、コメントありがとうございます。
Posted at 2005.06.25 8:31 PM by medtoolz
安全ではなくて安心へというのが面白いですね。 TBさせていただきました。安心のためにはmedtoolzさんはどちらを選ぶのか?お聞かせください。
Posted at 2005.06.28 6:15 AM by 加藤眞三
加藤先生、コメントありがとうございます。 トラックバック先の問題ですが、自分なら過誤の報告はしないでしょうね…。 想定される範囲内の「過誤」であれば、それに対して適切な回避手段が講じられれば「過誤」にカウントする必要は無いのではないか?というのが本稿の趣旨でもありますし。
Posted at 2005.06.28 5:07 PM by medtoolz
「修羅場を乗り切る知恵」みたいなものを学びたいと・・・
その世代の人とはなすと思いますが その知恵は実地あるいは実地をへたものの言葉から得たものであり、 現在のように「実地で経験することが悪」の時代では到底かなわぬと思います。 今の出産は危険が少しでも臭えば全てカイザーです。 これがなぜかを考えていただければ縲怐@ と思います。 今は色々な状況を「引き起こす(手を繰り出す)」こと自体が悪とされてしまうのです。 産科の手技はどんどん退化しています これが復活することももうないでしょう。
Posted at 2005.07.8 2:48 PM by 名無し
コメントありがとうございます。 ベテランの経験知の伝達は不可能とのご意見、たしかにそのとおりなのですが、 そう簡単に諦めるわけには行かないのです。たしかに手技は衰退し、失われた 技術も増えています。それでも、まだまだ医師を頼りにする人がいる以上、 こうした人たちを前にして「僕出来ません」では、やはりプロではないのです。 お客をバカと罵り、現状を投げ出す前に、もう少し出来ることはあるのではないか、 甘いかもしれませんが、まだそんなことを考えています。
Posted at 2005.07.8 6:51 PM by medtoolz