2005年5月16日

価値観の多様性を認めるということ

多様性がマイブームだ。

ローテーション研修制度。ガイドライン中心の診療。

どちらもお上が「あるべき研修医、あるべき診療基準」を示して、「何が正しく、何が間違いか」、「どちらが優れていて、どちらが劣っているのか」を決定し、順位づけしようとしている。

一つの解答、一つの価値観しか無い世界には進歩は訪れず、やがて滅びる。

物事の進歩の鍵になるのが多様性を認める考え方で、他人の価値観を無限に肯定する立場を取れれば、自分の周りはもう少し平和になりそうな気がしてくる。

多様性を認める考えかたと、ガイドライン医療のような一つの回答しか認めないような考え方とは、一見すると対立概念のようにも見えるのだが、立ち位置によって見えかたは変わってくる。

考えかたに多様性を認める立場からすれば、世界の中に一つの考えに固執する集団がいても、「それもまた一つの立場」として容認してしまう。

一方で一つの正解、一つの立場しか認めない人たちからすれば、多様性を認めようとする立場の人たちは異教徒でしかなく、彼らと自分達とは「対立している」ように見える。

外野から見ると(これはすでに多様性を認める立ち位置なのだが)、無用なエネルギーを使わない、多様性を認める立場の人は、戦う前から勝っているように見える。

一方で、勝ち負けにこだわっている自分というのは、すでに世界に何らかの「正解」を求めてしまっている。世界に一つの解答しか認めない側に立ち位置を置いてしまっている。

価値観の多様性を認める立場と、一つの正解の元に何らかの順位をつけてしまう立場と、完全にどちらかに身をおくことは非常に難しい。

「どちらか」という2元論的な対立が頭に浮かんでしまう時点で、自分はすでに世界に多様な価値観があることを容認していないのだろうか?

「価値観に無限の多様性を認める」立場はなかなかにかっこよさげに見えるのだが、自分のような人間が多様性を語ったところで、しょせんはファッションか?

実際のところ、2元論的な世界から抜け出して悟っている人は、どんな考え方をするのだろう…。

コメント

かっこいいですよね。
ヘルシングからは引用ばかり。

アンデルセン神父…

>感動的な治療

病気:「治したいんだろ?勝機はいくらだ? 千に一つか、万に一つか。億か?兆か?それとも京か?」

医者:「それがたとえ那由他の彼方でも、俺には充分に過ぎる!!」

こんなやつでしょうか?

よくわかります。技術と文化の違いでしょうか?個人的には治療の評価は美しいか美しくないか、あるいは感動的か感動的ではないかで判断する方が幸せな気がします。医療文化論者ですね。

コメントありがとうございます。
医学と言う方法論の中では「結果の多様性」は原則として許されないので、やはりプロセスの多様性でしょうか?

こんなことをあれこれ考えるようになったのは、「ガイドラインから外れている」というだけで、患者に平気で死刑宣告してしまうEBM厨の発言がきっかけなので、これは結果の多様性とも取れますが…。

はじめまして、先生はプロセスに関しての多様性を考えているのですか?それとも結果についてですか?同じ様なことを最近考えています。クリニカル・パスをどう理解するのが最も現場にとって幸せなのかを考えています。答えは出ていませんがキーワードは「多様性」だと感じています。

コメントする