2005年5月30日

その勉強に意味はあるのか

若い頃はよく勉強した。

早く上から認められたい。同級生に差を見せつけたい。周囲から「すごい奴」とはやしたてられたい。

勉強は患者さんのため?正しい治療のために知識をつける?そんなことはどうだっていい。知識は力だ。力さえあれば、発言力が強くなる。周りだって、自分の言うことを聞くしかない。

研修医になったばかり、知識も手技もダメな人間が、ようやく少しだけ病棟の仕事ができるようになってくる3年目。やっと自分の時間ができた。それでも、生活の場所は病院だけ。まだまだ上司がいないと自分では何もできず、なによりも、周囲の「尊敬」ってやつが一向に自分のところにこないのが気に食わない。その患者のCV、入れたの俺だぞ。

モチベーションというのは不思議なもので、目的が具体的なほど、動機が不純なほど人は力が発揮できる。誰かを見下してやりたい、怖い上級生を悪し様に罵ってやりたい。こういった動機は本当に強い。患者さんが早くよくなるため、自分が腕を磨いて、地域に少しでも貢献したい。こんなヌルい動機で勉強が続けられるやつ、本当にいるのか?

で、3年目。小さな病院だったので、手に入る論文雑誌など英文ばかり。NEJMは結構簡単な英語が多くて、画像も多くて読みやすい。Lancet?やたらとフォントが小さくて気取った文章ばかりだけど、なんか権威があるらしい。こんな程度の知識しかなかったけれど、とにかく目に付く論文を、飽きもせずに読んでいた気がする。

知識を集積するのは切手の収集などに似ていて、珍しい話題の論文、大規模スタディなどはコピーして保存する。ノートパソコンなんて持っていなかった。コピーの山は、山根一真流の袋ファイルに入れて保管する。袋が増えると、自分の知識の量を眼で確認できて、うれしくなる。ポジティブフィードバックがかかって論文を読む量は増え、袋はどんどん数が増す。今でも部屋の壁1面は、全部袋ファイルで埋め尽くされている(もはやただのゴミの山なのだが、もったいなくて処分できない)。

これだけ勉強したのだから、自分はきっとどこの病院に行っても大丈夫。

民間病院から大学病院に移るとき、自分の背中を押してくれたのは壁一面の論文の山だった。で、その自分の空虚な自信を裏切ってくれたのもまた、こいつら袋の山だった。

目的を伴わない、あるいは体験を伴わない知識というのは、現実に直面するとクソの役にも立たない。論文のコピーというのは紙だけに、文字通りトイレットペーパーにもなりはしない。

本当に当たり前のことなのだが、勉強が楽しい(たぶん、本当は楽しくなかった)時にはこんなことにも気がつかなかった。

目的の無い、単なる知識のための知識を溜め込んだ頭というのは、ちょうど初期の「Yahoo!」のような、知識のポータルサイトと化す。誰に何を聞かれても大丈夫。「その領域には、こんな論文があってね…」などと、ありがたいものでも取り出すかのように、袋からコピーの束を出せば、他人から尊敬される。

インターネットがまだ今ほど発達していなかった頃、知識のある場所を知っているということは、知識の活用のしかたを知っているのと同じぐらい大事なことだった。例えば肺炎の治療を調べようと思った場合、今ならgoogleでもPUBMEDでも、適当に検索すればいくらでもデータが出てくる。昔は、「肺炎の治療」のいい論文はLancetの99年8月号に出ている、ということを知っていることに、大きな意味があった。

自分の研鑚を積んでいく上で、知識に走るのか、手技に走るのか、この両者は昔は対等な立場だった。

知識というのは、知識それ自体、あるいは知識の活用のしかたには意味があっても、知識を知っている人には何の価値もないのだが、情報の流れが現在ほど早くなかった頃は、「知識を知っている人」にもそれなりの存在価値があった。というか、当時は神に思えたスタッフは、本当は「知識の使い方を知っている人」だったのだが、当時もっとばかだった頃の自分は、それが「単に知識を持っているだけの人」との区別がつかなかった。

現場で役に立つのは、あくまでも「この治療、やったことがあるよ」とか、「このレジメンでケモすると、大体5日目あたりが怖いよね…」とか、そういった体験談。

自分が施設を替わったときというのは、ちょうどPDFファイルの流通が一般的になり始めた頃。論文は、図書室でコピーするものではなく、ダウンロードして印刷するもの、さらにはハードディスクに溜め込んでおいて、必要なときには画面で読むものへと変貌する真っ只中だった。

本物のインターネット時代になり、論文というものは、他人からもらうのではなく自分で検索するものへと変わった。人間の頭なんかより、googleのほうがよっぽど確かで、UpToDateな情報を提供してくれる。知識のある場所を知っていることには何の意味もなくなり、気が付いたら自分の費やした時間は、単なる無駄な時間と化していた。おかげで、カテの操作やワイヤーワーク、今でも同級生に追いつけない。

前の病院からの引越しのとき、自分を新しい病院でのヒーローにしてくれるはずだった論文の山はゴミの山になった。この4年間、その袋から何かを取り出したという記憶は全く無い。

勉強をしたいと思ったら、まずはその知識を得る目的はなんなのか、よく考えてみることだ。特にその動機の中に変な競争意識が入っているとき、無駄な時間を使ってしまっている可能性がある。

「プロレスはスポーツ競技というよりはサーカスに近いんだ。対決じゃなくて協力するものだから、相手より優位に立つ必要が無いんだよ。ステロイドなんか使わなくたって何も問題は無いんだ。」 ---WWEの英雄、カート・アングル

ドーピングしたってしょうがない。知識というのは、一人でコソコソ得るものではなく、皆で協力し合ったり、あるいはみんなに公表して共有して生きた知識に育て上げるものだ。

つまらない功名心、競争意識から生じる勉強の動機というものからは、本当につまらない知識しか得られない。

2005年5月28日

ハトがハトでいるために

タカ派とハト派のゲーム理論。

「タカ派の戦略->どちらかが大怪我して動けなくなるまで徹底的に戦う。
「ハト派の戦略」->自分より強そうだなと思ったら、すっと引き下がる。

集団の中でタカ派とハト派が共存したらどうなるか。普通に考えると、戦わない選択肢をとるほうは滅んでしまうと考えるが、そうではないらしい。

ゲームのルールは以下のとおり。

●タカ派とハト派が戦うケースでは、必ずタカ派が勝つ(10点もらえる)。
●ただし、敗者のハト派は引き下がるので、ダメージを受けない(0点)。
●タカ派同士、ハト派同士が戦うケースでは勝率50%になるが、タカ派同士は徹底的にダメージを与えるので負ければ50点失い、勝てば10点もらえる。
●ハト派同士の戦いはダメージを受けないので、負けても0点。勝てば10点。
●そのかわり、なかなか決着がつかないので、ハト派は時間的ロスが生じる(-3点)。

このルールでグループ内のタカ派とハト派を競わせると、タカ派28%、ハト派72%の集団になった時点で均衡状態が生じるという。

理論と現実社会とは違う。実世界でのハトにだって、プライドぐらいある。タカから喧嘩を売られるとつい買ってしまう。攻撃力が低いので、タカとハトとの争いは常にタカが勝つ。ゲーム理論なら、このときのハトのダメージはゼロ。実際には、負ければ誰でもくやしい。ハトのダメージは絶対にゼロにはならない。

集団は、当初は理論どおりにハトとタカとが共存するが、そのうち傷ついたハトが一羽、また一羽と脱落していく。幸い、医局には毎年人が補充される。新しいハトがまた補充され、医局は再び安定を取り戻す。

実世界で、ハトが安定してハトとして生き延びるためには、徹底して戦いから引かなくてはならない。ゲームのルールの中で、ハト派の最大のメリットは、つまらない争いのダメージが「ゼロ」であるという点に尽きる。争い事が生じたとき、自分自身にダメージを残さないためには、ハトはタカ以上にすばやく動く必要がある。

もともと、どう考えてもハトよりタカのほうがすばやい。彼我の機動力の差を覆すには、相手の動きを読むしかない。集団の中では、ハト派の数は多い。ハトがハトとして生きていくためには、お互いの情報交換を密にすることで、タカの攻撃を出し抜くことができるかもしれない。

集団の中において、タカは集団に進歩をもたらし、ハトは安定をもたらす。

ハトの仕事は、タカの餌になることだけではない。ハトが集団の中にいることには何かの意義があるはずだし、またそうでなければハトなんかやってられない。

医療の現場においては、タカが新しい治療で持って病気に切り込む一方、ハトはタカが興味のない症例、「当たり前すぎてつまらない」症例を黙々とこなし、病棟の雰囲気を保つ。

ハトにも、どうしても戦わないといけないときがある。立場こそ違え、お互い技術を持った医者の集団だ。治療の方針の大勢はタカ派が決め、たいていはそれで上手くいく。それでも患者さんがうまく治らないとき、ハトが何とかしなくてはならない。

タカの出した治療方針自体を否定すれば、ハトは即座にミンチにされる。自分へのダメージを最小限に、何とか治療方針を変更するにはどうするか。タカの出したプランを生かしたまま、何とかしてハトの考える結論に誘導することを考える。

同じ患者さん、同じ疾患を治療しても、ハトの考える治療プランと、タカの考える治療プランとは違う。同様に、ハトの考える患者さんのゴールと、タカの考える患者さんのゴールも、また異なる。たいていの場合、タカは侵襲的な治療、完全な治癒を目指す。タカから見れば、ハトのプランは「ヌルい」。ハトのゴールも「それでは、患者さんを治療したことにならないよ」と一蹴される。

物事が上手くいかないとき、人はその戦略を否定されると怒り出すが、ゴールを変更されても結構大丈夫なことが多い。負け戦のとき、将軍は「この作戦を止めて、撤退しよう」とは言わない。代わりに、「後ろ向きに進軍」という言葉を使う。

集団の中でハトが生き残り、そしてハトの役割を果たすためには、患者さんにトラブルが生じた場合に備え、常に「ハトの考えるゴール」への持っていきかたを考えておく必要がある。普段はそうしたプランが日の目を見ることはほとんど無い。だが、タカのプランが一度上手くいかなくなったとき、タカが熱くなる前に別の目標を示せなければ、集団の中にハトが存在する意義は無い。

ハトでいるのも、結構大変なんだ。

2005年5月25日

リスクを求める人々

誰だって死にたくない。いい目を見たい。

どうやったら生き残れる可能性が高まるのか?どういう生存戦略がもっとも効果的なのか?
取りうる戦略は、問題となっている状況のリスクにより異なってくる。

生き残るための戦略は、リスク最小戦略と利益最大戦略との2つに分類される。

リスク最小戦略とは、リスクが最小になるものを選ぶ戦略。これは保守的な戦略で、状況が安定しているときには、こちらの戦略がとられる。代表的な考え方は、「みんなでやれば怖くない」、 「良い解に近いところには、良い解が存在する」という方法論。常にみんなと同じ行動をとってみたり、なにか良い解答が見つかったら、その周りを集中的に探索したりする。

安定した状況の代表は、医師国家試験だ。国試の対策には、リスクを最小化するための戦略がとられる。問題は公開されないとはいえ、基本的にはどういった内容が問われるのかは事前に公開される。問題の攻略手段とは、すなわち国試対策の勉強であるが、これは他人と同じ教科書、同じ学習方法をとったほうがリスクが少ない。国家試験は資格試験であって、競争試験ではない。あえてリスクを犯して高得点を狙い、他人を出し抜く必要性は薄い。

問題となっている状況が、文字通り生存競争であった場合、他人と同じことをやっていたのでは全滅の可能性がある。営業職で、受注額下位3人が脱落するといった状況、あるいは今までの環境を規定していたルールが変わり、何が最適解なのか誰も知らない状況など。後者の状況で迷走しているのは、ローテーション制度で揺らいでいる大学病院だ。

状況が安定せず、生存の危機が目の前にリアルに実感できる場合、リスク最小化戦略をとっても生き延びることは難しい。状況が競争になっているとき、とくに、生き残るのが上位何パーセントなのかすら分からないときは、とにかく上位に入れる戦略を取るしかない。このとき取られるのが利益最大戦略で、これは少々のリスクを犯しても、利益が最大になるような戦略をさす。

安定した状況というのは、すなわちリスクを犯さなければ生き残れる環境である。その状況では、人はなるべくリスクを犯さず、その中で少しでも利益の多い方法を探る。方法論は集中化し、皆が同じようなことを考え、同じように振舞おうとする。

一方で、状況が不安定になると、生存の戦略は多様化する。他人と同じ事をしていては生き残れない。このままいくと絶滅することだけは見えてしまうので、人は今までと違う道を無理に探すことになる。環境の変化の結果、常に一定の数が絶滅するが、その前に多様化を志向しているため、生き残った人の方法論は、新しい環境に順応するために進化したものになっている。

問題が安定した、今までの方法論で解決可能なものであれば、人はリスクよりも安定を目指す。一方で問題がまだまだ安定していないものならば、人はリスクを取って進化の道を探る。

では、「病気」という問題はどうなのだろうか。何を持って「安定」といい、何を持って「不安定」というのか。

病気という問題に対峙しているのは医者ではなく患者。患者さんにとっての問題の安定/不安定は、結局のところ自分の主治医の意見を信じられるのかどうかにかかってくる。

今は情報が多い。疾患の進行が遅い病気、とくにまだ「治癒」が難しい病気は、患者さんがいろいろな情報を調べる。目の前の主治医がどんなに正しいことを言っていても、患者さんが手に入れる情報が増えれば増えるほど、主治医の意見は多数決の中に埋もれ、相対的に軽くなる。

患者さんにとっての病気の問題は不安定になり、その不安定さは患者さんに利益最大戦略を選ばせる。

何をやればいいのか分からないなら、一番効果の高そうなものを。
こうして患者はアガ○スクに走る。天下の大マスコミだって新聞の1面で絶賛。
目の前のしょぼくれた主治医の意見よりも、みのさんの話はよっぽど身にしみる。
以前思いっきりテレビでスイカが腎臓にいいと絶賛されたとき、日本中の透析患者のKが一瞬バカ上がりした。

疾患の進行が急激な病気、治療法がそれなりに確立している病気なら、患者さんは主治医の言葉を信じるしかない。

何だかんだと批判されても、西洋医学はリスクが少なくなる方向に進化してきた。とりあえず、主治医に任せるしかないか。
実際問題、心筋梗塞の患者さんから「私のガイディングは、DCカーブを使ってください」とか、まだ言われたことはない。

リスク最小戦略と利益最大戦略。「状況」の捉え方はともかく、生き物としては正しい戦略だ。

実際のところ、ア○リスクが「絶対に」ガンに効かないなんて誰も証明できないし、西洋医者のマスコミ批判と朝日新聞の医者たたき、10年ぐらい経ったら、「やはり、新聞社は正しかった」という結論に落ち着くかもしれない。

では、「個性的なお産」を求める人々というのは、一体なんなのだろう。

お産は、西洋医学の誕生よりも前からずっと行われてきた行為だ。時代の進歩とともにお産の成功率は上がり、かつては母子共々「生きるか、死ぬか」だったお産は、試行錯誤の結果安定期に入っている。

鉗子分娩や吸引分娩、帝王切開から消毒にいたるまで、全ての手技はつまるところ進化の賜物だ。こうした手技が完成するまでの間に犠牲になった人は数え切れないぐらいだろうし、同時に闇に葬られた手技や試行錯誤の数も、また同様だろう。

現在のお産という状況は、完全に安定化している。もちろん避けようの無いリスクはまだまだ多いが、とりあえず医者の言うことさえ聞いていれば、かなり安全にはなっている。皆と同じ方法論をとっていれば、生き残る確率は非常に高い。あえてリスクを取る意味合いはないように見える。

某病院の産科が、「当院では水中出産は行いません」という告知を行った。

現在のところ当院としては水中出産には否定的です。
自然分娩のひとつの方法として広まっているような面もありますが、
人間は陸生動物であり水中で出産することは「自然」ではありません。
水中出産は自然分娩ではありません。

自然に行えば問題なく分娩されるのに、
わざわざ危険な状態に身をおくようなことをする必要はないと考えるからです。


わざわざ言わなくてはいけないぐらいに問い合わせが多いのだろうが、個性的な分娩というやつを求める人たちは、自分が死ぬかもしれないなんて、全く考えていないのだろう。

リスクを取る必要が無い状況で敢えてリスクを取り、何かあったら医者のせい。こういう戦略、人である以前に、生き物としてどうなのだろう。

2005年5月24日

「患者のため」というロジックボム

市中病院で働くのにはコツがいる。市中病院は組織がしっかりしていて、チームでの作業がやりやすい。その病院のルールの中で働いているかぎりは、周りの人が自然に手伝ってくれるので、物事がスムーズに動く。ところが、長い歴史のある病院には厳格なルールが出来上がっていて、自分のやりたいことを勝手にやるのが難しい。

大きな病院組織で自分の好き勝手を通そうとするとき、役に立つのが「患者さんのため」という言葉だ。

「この状況ではこうしたほうが患者さんのため」。一見反論の余地のないありふれた言葉のようでいて、そこにはどんな意味を含ませることもできる。医者の意見に説得力があれば、「この病院ではこうすることになっている」という、現場の反対意見など簡単に覆すことができるだろう。

大きな組織といえば大学病院だが、大学で「患者のため」というフレーズが飛びかうことは少ない。これは別に、大学が患者さんのことをまったく考えていないというわけではなく、大学病院という組織が専門科ごとに全く独立した組織であることに起因する。大学病院というところは、大きな一つの組織というよりは、50床程度の小さな病院が集合している組織なので、医者個人個人は好き勝手に働ける。誰も手伝ってくれないけれど。

ルールは破るためにある。医者という仕事をやっていると、ルールどおりに動いたのでは上手くいかない状況などいくらでもある。結果として、市中病院で長く働いていると、「こうしたほうが患者さんのため」というフレーズは何度も引っ張り出される。何が患者さんのためなのか。この定義は、そのときの医者のアイデアに合わせて歪められる。

「患者さんのため」という言葉は、医療者として働いていくうえでの世界暗示(オリジナル・ランゲージと読んでください…)だ。医者として働いていく上でこれほど大事な言葉は無く、一方でこれほど価値のあいまいな言葉もまた無い。

何が患者のためなのか。頑張ることか、看取ることか。ステロイドを使うことなのか、あえて使わないことなのか。研修医が様々な状況を体験していく中で、「患者のため」の意味はどんどん変化する。

研修医を教える際、「こうするのが患者さんのため」というフレーズは禁忌である。

本来は「この状況では僕はこう考える」、せめて「俺がエビデンス、やりかたはこうだ」と教えなくてはいけないのだが、ベテラン同士、あるいは他の職種の人との折衝の中で「患者のため」を多用していると、ついつい研修医にも同じ言葉を使ってしまう。この言葉は研修医の判断の基準を書き換え、そこにロジックボムを仕込んでしまう。

ロジックボム とは... 一定の条件が満たされると動作を開始して破壊活動を行なうウイルス。実行条件には日時や起動回数、インストールされているソフトの種類といったものが設定される。また一定の期間中、特定のホストにDoS攻撃を行なうものもある。「論理爆弾」とも呼ぶ。
これはいわば教育のバグなのだが、仕込まれたロジックボムは、ちょうど研修病院を卒業した後、他の病院に移ったときなどに発現する。

自分に仕込まれたロジックボムの例としては、たとえば喘息急性期の気管支拡張薬の投与がそうだ。

自分が研修した頃、救急外来の当直は上級生とペアを組んで行っていた。上級生とはいってもジュニアレジデント、今から10年も前なので「エビデンス」なんていう言葉も流行っておらず、教育といったら自分の経験の伝達がほとんど。

当時の救急外来には、「喘息重積発作の患者に気管支拡張剤の投与は禁忌」という話がまことしやかに伝わっており、夜間の重症発作の患者さんの治療手段は酸素投与とステロイドの静注のみ(ステロイドを積極的に使うこと自体、まだまだ珍しかった時代だ)。1年生が吸入の準備を使用ものなら「患者さんを殺す気?」などと怒られた。

今から思うと、挿管の必要なぐらいの重積発作の人にのんびりと吸入をやっていたレジデントがいて、その人がスタッフから怒られ、その言い伝えが変化して「重積発作に吸入すると患者が死ぬ」に行き着いたのだと思う。その上級生が、研修医に喘息のイロハを教える頃には「患者のためを思うなら、吸入はダメ」になる。

「患者のため」という言葉と抱き合わせになった知識は、半端でなく頭に刷り込まれる。こうしたゆがんだ知識は絶対的なものとして刷り込まれ、急変などで治療者の頭が熱くなっているときに爆発する。

論理爆弾が発現した医者は融通が利かなくなる。患者に吸入するのかしないのか。ここで看取るのか頑張るのか。すぐ手術室に行くのか救急外来で処置をするのか。消毒にはイソジンを使うのか、あるいはヒビテンか。医者同士の価値観の些細な違い、場合によっては治療の本質と全然関係ないところでお互いに譲れず、喧嘩になる。患者さん大迷惑。

「患者のため」という言葉とともに、若い頃に頭の深いところに突っ込まれたいろいろな価値観は、その間違いや歪みを自分で訂正することができない。

小児期に暴行された記憶はしばしば忘れられ、成長してから全く別の症状として出現する。トラウマは、その重要な性質として、「自分自身の存在を隠す」ということがよく言われる。そのため、自分の意志の力だけで直すことはなかなか難しい。

「患者のため」という言葉とともに仕込まれた爆弾もまた、頭の深いところに隠れる。まわりから「君の考えかた、変わってるね」と穏やかに指摘されても、変わっているのは指摘した相手のほうにしか見えない。爆弾を爆弾と認識するには、とにかくいろいろな価値観の医者と出会い、一緒に仕事をするしかない。明らかに自分とは違ったロジックで行動する医師の下で、「自分なら看取るな…」と思うような患者が元気になったのを見ると、初めて自分の中に爆弾の存在を疑えるようになる。

あとは自分の知識のどこが爆弾なのか。とにかく全ての知識を一度教科書や文献で確認して、さらに患者さんで新しい考えを実体験して訂正する。

自分の場合、爆弾撤去に5年ぐらいかかった。結果として出来上がったのが、2004病棟ガイドとして表ページに公開している文章。あれは、昔自分が学んだ判断の基準とはかけ離れている部分がいくつもある。まだ全てを検証し終えているわけではないけれど、複数の教科書に記載があったものは、自分の知識を爆弾認定して、文献どおりの記載を優先している。まだ爆弾を掘り起こしただけ。解体はこれから。

「ここのところ、変ですよ」という指摘、いただけるとありがたいです。

2005年5月21日

全体を把握する

研修をさせてもらった病院では、まずは部分の専門家になることを求められた。

細い血管にも点滴が取れるようになること、必要な時にCVラインを取れること。気管内挿管、心臓マッサージといった救急手技。そして疾患ごとの治療方法や、薬剤の使い方といった知識。

効率はよかった。数をこなせばどんな手技でも(たぶん)すぐに上手くなる。自分は成長の遅いレジデントだったが、それでもたぶん、同世代の大学研修医の平均よりは、少しだけ手技は上手だったような気がする。CVラインは1年目、内視鏡は1年目の後半。カテは2年目。たぶん、今でも同じだと思う。

教育は、レジデントをまとめてカンファレンスを行う。抗生物質の使いかた、胸部単純写真の読みかた。医学教育の分野では有名な先生方が定期的に来てくれては、いろんな知恵を授けてくれた。

手技が身についたり、知識が増えてきたりすると自信がつく。何でもできる気になってくる。実際問題、2年目も後半に入ると、入院患者さんの手技に関することで上司の助けを借りる機会はほとんど無くなる。

「もしかして、内科極めた?」こんな阿呆な考えがレジデントの頭をかすめる頃、当院では他の病院への出張業務の機会が回ってくる。

行き先は田舎の小規模病院。救急車も1日に数台。病棟も「ヌルい」病名が並ぶ。「こんなところ楽勝、せいぜい手技の練習でも使用かな。」こんなレジデントの根拠の無い自信は、勤務1日目から打ち砕かれた。

まず患者さんを外来で診ても、どういう人を入院させていいのか全く分からない。軽症そうでも原因の分からない人、重症そうでも、カルテを診ると前から同じ症状でかかっている人。なんとなく入院させたほうがよさそうなのだが、じゃあ入院させて何をするのか?

いままでは「判断」というのは上司の仕事だった。入院させて検査をする、具合が悪そうだから入院する。具合の悪い人なんかみればすぐ分かる。レジデントの頃はそう思っていたが、実際には全く見ていなかった。「入院させなきゃいけないほど具合が悪いって、具体的にはどういう人なんだ?」。

具合が言い、悪いという判断は、結局のところ経験の積み重ねの中から平均値を作り、それを基準にするしかないと分かったのは後になってから。見れば分かるなんて思っていて、実は就職してから2年間、「見る」ことなんか一度もまじめにやっていなかったことを知るのは、自分が一人ぼっちの主治医として現場に立たされてからはじめて気がついた。

もちろんガイドラインは手元にある。でも、実際にガイドラインどおりに仕事をしたことなんか一度も無く、全て「上司の命令で」動いていただけ。いくら文献が手元にあっても、経験の裏打ちの無い知識なんて自分を全く助けてくれない。

自身満々だったのは1日目だけ。以後はそこの病院長に泣きつき、様々な判断の助言に乗ってもらった。

3ヶ月もすると、曲がりなりにも入院から退院までの患者さんのマネージメントをするということが分かってきて、一人でもいろいろな判断をすることができるようになった。この後、勉強をするときの意識は相当変わったように思う。

患者さんを外来で診察して、何らかの目的で患者さんを入院させ、検査や治療を行った後、再び外来でフォローする。

こうした一連の流れの全体像を研修初期に把握するというのはとても大切なように思うのだが、一方でこうした教育は近年、非常にやりにくくなっている。

実際問題、自分の尻一つ拭けない研修医を医者のいない病院に放り出すこと自体、今の時代なら許されないことだろう。医療という仕事にしても分業化が進み、「一人で全部やった」という経験を持っている医師はたぶん30以下の医者にはほとんどいないのではないか。

患者さんの入院のインディケーション、ベッド管理、写真の読影、血液検査の機械を自分で動かす。医者としての仕事はもちろん、機械の整備やベッド調整、電話の受け答えまで何でも自分も手伝わないと終わらない環境で仕事をするのは、10年前までは結構当たり前の光景だった。

市中病院での研修を終えて大学に入って分かったのは、いわゆる「専門研修」として批判されている、その科の領域のみ研修をしているレジデントなんで、自分と同世代よりも若いやつらだけだったということだ。

大学でスタッフとして働いている人たちは、自分の入った科は循環器であったが、誰もが胃カメラや気管支鏡、果てはポータブルのレントゲンの機械の動かしかたや血球カウントの方法まで、若い頃は何でもやらされた人たちばかりだった。

自分の受けてきた「総合的な」臨床研修とは何の事は無い、現役のベテラン医師はみな同じような成長のしかたをしていた。そうした何でもやったことのある(できるのとやったことがあるのとはぜんぜん違うのだが、それはまた別の話)ベテランがそこら中にいて初めて、専門領域のみ学習する「大学の」研修システムが成り立っていたわけだ。

現在ローテーション研修システムが導入されて、これでめでたしめでたしになるかといえばそんなことは無い。いろいろな科をローテーションすることで、断片的な知識を得る機会は間違いなく増えるはずなのだが、一方で「医学の全体像」みたいなやつを把握する機会は絶無になる。

じゃあ「全体」というものを教えればいいじゃないか、という議論が出てくるが、たぶんこれをカンファレンス型式で教えることは不可能で、全体を見ようと思ったら「全部自分でやる」しかない。それこそ、自分の責任でミスをして、患者を殺してトラブルを起こすところまで。

生きているヒヨコを一匹、ジューサーにかける。スイッチを入れて5分も回せば、たぶんジューサーの中には羽の混じったピンク色の気色悪い液体が出来上がっている。スイッチを入れる前とあととで、ジューサーの中身には変化は無い。では、ヒヨコと液体との間で、失われたものは何だろうか?
この答えが全体とか、構造とか、宗教家なら魂とか、ニューエイジ好きなら「ホロン」とか答えるものなのだろうが、いずれにしても出来上がった液体をいくら眺めても、そこから生きているヒヨコを想像するのは不可能だ。

ヒヨコをヒヨコだと把握するには、卵から飼いはじめて一緒に遊び、最終的にそれがニワトリになって死ぬまで付き合うしかない。

今のローテーション制度は、いうなれば「ヒヨコジュース」の一気飲みを強要させるようなもの、と批判したら言いすぎだろうか?

2005年5月20日

傾聴という万能薬

設計者の発言: モデリングセッションに必要な能力「共感力」を読んで考えたこと。

「初めて吉野に花見に行ったのだけれど、千本桜ってのは誇張じゃないんだね。すごいなあ、あれは。」

春の休み明けに読者の友人がそんなことを言ったとする。それを受けて、読者は以下の6つの発言のうちのどれをいかにも言いそうだろうか。自分の会話のクセを思い出しながら考えてみてほしい。

1:桜の季節じゃなかったけど、吉野には3年くらい前に行ったなあ。
2:後醍醐天皇とか天武天皇にゆかりの深い歴史スポットだよね。
3:でもこの季節だとクルマの渋滞がひどくなかった?
4:千本桜くらいだと毛虫もすごいだろうな。千匹どころじゃない。
5:いいなあ。オレなんてまた土日とも仕事だったよ。
6:へえ、そんなにすごかったんだ。ドヒェーみたいな?

この例のように感情的要素が強調された発言に対しては、まずは「そこに込められた感情を認める応答」、すなわち「6番」の類型で応えると、対話を気持ちよくすすめられるようになる。

相手の話を聞く際に大事なことは、「あなたの話を興味深く聞いています」というメッセージを常に送りつづけることで、そのための方法論として上記のようなことに気をつけるのはとても大事。ところが実際に医者が患者の話をまじめに聞くことなどまれで、受け答えはしばしば上記の「1〜5番」のようなことをやってしまっている。

外来などでは時間が無い上、患者さんは少なくとも自分のところまでは歩いてこられる程度に元気な人が多いので、下手に「共感的理解」などやろうものなら、話が終わらず外来がパンクする。このため、今までも話の的をわざと外し、言外に「あなたの話には興味はないんですよ」とメッセージを送ることはよくやる。同僚からも「あんたは人間をなめてる」と怒られる。

内科に入院中の患者さんとはお話をする時間も増えるのだけれど、こうした「共感」の関係を作ってしまうと、主治医側が非常に疲れる。医者を長くやってきて(それでもほんの10年だ)、仕事に手を抜くことを覚えてくると、患者さんの心理に共感するのを本能的に避けるようになっている自分に気がつく。

口では饒舌に患者としゃべり、また患者さんの話をよく聞く医者を演じていても、また実際に患者さんと交わす言葉の量なら自分は研修医以上だと思うのだけれど、この数年は共感的な態度で人の話を聞く機会は減っている。

もっともこれは仕事をしている科の問題もあり、循環器内科に入院する患者さんは、基本的にはよくなって退院する人が多いので、心理学的なフォローについてはある程度手を抜いても致命的な問題にはならない。少なくとも、今の病院にはもっと上級の医師がいるので、自分ひとりが手を抜いても一応大丈夫。

普段やりなれていないからなのか、たまに「共感的理解」を心がけて人の話を聞くと、非常に疲れる。前のサイトから再び引用。

ユーザが、どんなやり方を工夫したかを説明してくれたとする。その発言には、かつてうまくいったときのユーザの喜びやプライドといった感情が込められている。その感情を無視するのはもったいない。「すばらしいアイデアですね。それがうまくいったときはどんな気持ちでした?」。ユーザは生き生きとそのときのことを語ってくれるだろう。

これを実際にやってみると、非常に体力を消耗する。話をする相手が「感情を込める」タイミングを読むのが非常に難しい。患者さんの話を聞いている間中、ずっと集中していないと絶対に見逃してしまう。

合いの手の入れ方も、外すと非常にわざとらしくなるし、「反復法」でオウム返しに反応を続けていても、タイミングを間違えると非常にアホな雰囲気になり、気まずくなる。

テクニックに走らず、自分の「本能と誠意」で相手に対応しようとすると、たいていは「共感的理解」とは外れた返事をしてしまい、結局傾聴の意味がなくなってしまう。かといって、問題を精神科に丸投げにしても、「じゃあ、主治医のあんたはなんなんだ」と自問自答してしまい、これもまた疲れる。

根っこの部分で人間に興味のない奴が「共感的理解」なんておこがましいのかもしれないが、精神科の医者が「疲れた、疲れた」と言いながら5時には帰ってしまうのは、やはりサボっているのではなくて体力を使うからなのだろう。

「共感的理解」と「傾聴」は、心理学的なテクニックの基本ではあるし、またどんな人にも万能薬的に作用する、副作用が無い、とまさにいいこと尽くめなのだけれど、現場ではもっと強い効果を期待したくなることがある。余命がもう残り少ない人、心理的にではなく、物理的に苦しんでいる人などでは特に。

「先生、もうこんなにやせてしまって…」 「食べたいんだけれど、ご飯が食べられないんです…」
こうした訴えに対していくら話を聞いても、「そうですねえ…」以外の返答は怖くてできない。

ただでさえ病気で入院している患者自身、そこに持ってきて「やせてしまった」「ご飯が食べられない」自分というのはなんて駄目な奴なんだ、という否定的な自己イメージでダブルパンチを食らってしまった人に、ただただ話を聞くだけというのはいかにも弱い。

米国の選挙では、相手の候補者からネガティブキャンペーンを張られた場合はすぐに切り返すのだそうだ。

今回の大統領選挙では、「馬鹿なブッシュ」のネガティブキャンペーンが民主党サイドから大々的に行われた。
これに対して、共和党サイドは「Charm Bush」(お茶目なブッシュという意味か?)というキャンペーンを張り、馬鹿だけれど暖かいブッシュに対して、頭はいいけれど冷酷なケリーという逆宣伝を行った。
以前の選挙で、選挙民の良識を信じ、こうした馬鹿げたネガティブキャンペーンに無視を決め込んだ候補者は、大差で落選したことがあるのだそうだ。

今の選挙のは人間の「良識」というものを否定し、「人というのは騙されやすく、また非常に騙しやすい」という方法論で大成功をおさめている。

次元は違うけれど同じ人間を相手にする仕事として、カウンセラーは「人の心の強さ」というものを信じている立場だと思う。「人間の心は強い」、「思いを吐き出させることで、心の自然な回復を促すことができる」というのがカウンセリング、特に傾聴を行う人の方法論だ。

こうした方法論は、体が病気になっている人にも通用するものなのだろうか?

体が弱ると、自分の悪い面ばかり見てしまう。

カウンセリングを行い、認知のゆがみを取ることで、悪い部分だけはでなく、いい部分を見られるようにするというのがカウンセラーの基本戦略だが、末期がんの人に「いい部分を見ようよ」と説得するのは相当難しいのではないだろうか?

実際の方法論は全く分からないし、半端な知識を持った人間がやることではないと一応理解はしているつもりなのだが、患者さんの認知のしかたを治療者が積極的に書き換えるというのは、ありえない方法論なのだろうか。

また例によって「洗脳」とか「自己啓発セミナー」とか、そういった分野の方法論を引っ張り出すことになるのだろうが、病気で弱った人の「認知の形を変える」ことは、たぶんそんなに難しいことではない気がする。

実際問題、末期ガンの人の財産を騙し取る健康食品販売業者などはまさにこれをやっている。みぐるみはがされ、体の具合がどんどん悪くなっていても、患者さん自身は「この薬の進歩に貢献できた」とそれなりに満足感を持っていたりする。この期に及んで「いやそれはあなたが騙されたんですよ」などと「認知のゆがみ」を正しても、それこそ一生恨まれかねないので、やらないけれど。

結果としてその人は業者にだまされても、その人は確かに一定の満足を得ているように見える。

自分は精神科の研修は全く受けておらず、心理学も大学の教養ではるか昔にかじっただけ。だからこのあたりの話題はすでに精神科が何年も前に通過しているものなのかもわからないし、そもそも全くのヨタ話なのかもしれない。

今このあたりの分野、どうなっているのか、誰か教えてくれませんか?

2005年5月17日

平等な競争の病理

一つの病棟内でも、ベッドの状況判断をする役、急変時にとりあえず突っ込んでいく役、他科との交渉役など、同じ兵隊の位の医者同士でも役割は分担される。

患者さんの急変時もそうだ。そのとき居合わせた医者が、同じ仕事に殺到したら患者は死ぬ。挿管をする奴、心マをする奴、ラインを取る奴、指揮をする奴などいろいろなポジションを分担するから、CPRは効率よくすすむ。

うまく回ってる組織では、みんなが別々の仕事をしている。

例えば営業ならば、自分がA社の担当ならば隣はB社の担当であり、それぞれ条件が微妙に違う所で競争している。自分がA社をしくじって、隣の奴がB社の受注をとったって、すぐに能力の差とにはならない。たとえ上司がそう見たって、心の中では「B社なんてのはライバルのX社が競合してないから楽なもんだよ」とか思える。さらに、役職やら年次やら学閥やらいろいろな関係性に囲まれていて、そのからみ具合はみんな違うのだ。(圏外からの一言より引用)

忙しい一般病院では、みんなで仕事を分担しないと業務が回らない。同じポジションに2人を置く余裕は無く、運営をする側も何とかして医者を効率よく働かせようと(言い換えれば血の一滴まで絞り尽くそうと)一生懸命考える。忙しい病院では、何も考えなくても病院内での自分の立場、自分の役割というものが上から降ってくる。

自分の存在意義、「自分ならでは」という立ち位置があると、組織の中でも安心して働ける。うまくいっている病院では競争意識は減る。別に勉強しない、というわけではなく、同じ立ち位置に2人以上の人間が乗ることが無いので、相手を出し抜く必要が無くなる。

病院組織のなかで、唯一競争を強制させられるのが研修医だ。

それでも以前はまだよかった。「医局」という医者集団の中に入ることで、研修医には「○○科」の人間という、最低限の立場が与えられた。

貴様らは人間ではない
両生動物のクソをかき集めた値打ちしかない!
貴様らは厳しい俺を嫌う
だが憎めば、それだけ学ぶ
俺は厳しいが公平だ 人種差別は許さん
黒豚、ユダ豚、イタ豚を、俺は見下さん
すべて

平等に価値がない!


医局の名の元に、全ての研修医は平等だ。どんな研修医も、医局の責任で1人前の医者に育てなくてはならない。同級生同士の間で競争はあっても、学生の延長だ。今まで一緒に過ごしていた仲間なら、強制された競争のプレッシャーも何とか我慢できる。医者同士の頭の中なんて、そんなに変わりはしない。
クソまじめに登る努力するこたぁない!
神様に任せりゃケツに奇跡を突っ込んでくれる!
一生懸命頑張ろうと、適当に手を抜こうと、3年も経てば誰もがそれなりの医者になる。努力して競争するのは、それからだ。

ローテーション制度が導入されてから、競争のプレッシャーは余計に激しくなった。入局を前提としない現行のシステムでは、研修医が取替え可能な部品になる。医局としては2年間品定めをしてから、欲しい奴だけ勧誘できる。この間、研修医には「○○科の人間」という立ち位置さえ与えられない。

自分の存在意義をアピールするには、何とか他の奴との差をみせつけるしかない。「アピール」とはどうやったらできるのか。その模範解答すら与えられない中での競争は、結局のところお互いの潰しあいになる。

たしかにルールは公平だ。同じ科のローテーション、周り順も基本的には任意。ローテーションごとにチームは変わり、機会は均等。全てが研修医の際限の無い潰し合いを助長するのに最適な条件だ。

統一されたルールのもとでの競争は、少数の勝者と大量の敗者を生む。競争により人間をふるい落とすシステムは、優秀な奴らを選抜する必要がある時には非常に有効な手段になる。

自衛隊のレンジャー、米軍のグリーンベレー。こうした特殊部隊の人員は、全て競争の勝者だ。

それでも、特殊部隊だけで戦争はできっこない。必要なのは大量の兵隊だ。戦争をやるなら、まずは1人前に戦える兵士を大量に養成し、その上で必要があれば、エリート部隊を作るのが基本だろう。

素人同然の研修医を競争にさらしても、優秀な医者など生まれるわけが無い。生き残るのは、他人の足を引っ張るのが上手な奴、上司に気に入られるのが上手な奴。まじめがとりえの奴なんか、真っ先に潰される。少なくとも今自分が研修医に戻ったら、真っ先に潰しに行く。

競争を生き残る奴は少数。「製品」として外病院に流通できる奴の総数は減る。

それでもまだ、今の制度がこのまま何年も続く保証があるのなら、そのルールに最適化された人の数は増えていくだろう。どんな抗生剤にも、必ず耐性菌は出現する。研修医だって生き延びる。研修医一人一人の個性は様々だ。何年もの間、ローテーション制度というルールが変わらず施行されつづけるならば、学生時代にどう振舞えばいいのか、卒業してからどういう進路が正解なのか、そのルール下での最適解は必ず出現する。

ICUでの耐性菌を減らす方法論の一つに、第一選択の抗生剤を季節ごとに変更するという方法論がある。ルールがコロコロ変ると、そのルールに最適化された細菌が増殖しにくくなり、結果として耐性がつきにくくなる。現行のローテーション制度も、すでに見直しの動きが出てきている。

先が見えないならば、全て自分の責任で行動するしかない。どういった行動が最適なのかわからないなら、自分以外の周りの人間を攻撃する以外にやれることは無い。

自分で選択したことの結果に対しては、自分で責任をとる、これは「自己責任」の原則だ。リスクヘッジを個人の責任で行わなくてはいけないローテーション制度。セーフティーネットたる医局制度は、すでに厚生省の肝いりで骨抜きにされた。

失敗したときのリスクが高い状況では、リスクに対する対処能力の高い人、プライベートな相互扶助組織(人脈、学閥、閨閥など)の支援が期待できる人はお互いに集まり、リスクの回避能力をより高めようとする。

研修医集団の上位2割ぐらいの成績優秀な奴ら、部活の先輩のバックアップが期待できる奴らは群れる。あぶれた奴らは潰れるしかない。

誰もが「勝ち組み」はどこだと探し回り、自分だけは得をしようと必死になる。当たり前だ。やらなきゃ潰れるんだから。何のために医師免許を取ったんだ。

こんな状況で、誰が好き好んでリスクの高い科になど就職するというのだろう…。

循環器内科では今も入局者募集中です。

2005年5月16日

価値観の多様性を認めるということ

多様性がマイブームだ。

ローテーション研修制度。ガイドライン中心の診療。

どちらもお上が「あるべき研修医、あるべき診療基準」を示して、「何が正しく、何が間違いか」、「どちらが優れていて、どちらが劣っているのか」を決定し、順位づけしようとしている。

一つの解答、一つの価値観しか無い世界には進歩は訪れず、やがて滅びる。

物事の進歩の鍵になるのが多様性を認める考え方で、他人の価値観を無限に肯定する立場を取れれば、自分の周りはもう少し平和になりそうな気がしてくる。

多様性を認める考えかたと、ガイドライン医療のような一つの回答しか認めないような考え方とは、一見すると対立概念のようにも見えるのだが、立ち位置によって見えかたは変わってくる。

考えかたに多様性を認める立場からすれば、世界の中に一つの考えに固執する集団がいても、「それもまた一つの立場」として容認してしまう。

一方で一つの正解、一つの立場しか認めない人たちからすれば、多様性を認めようとする立場の人たちは異教徒でしかなく、彼らと自分達とは「対立している」ように見える。

外野から見ると(これはすでに多様性を認める立ち位置なのだが)、無用なエネルギーを使わない、多様性を認める立場の人は、戦う前から勝っているように見える。

一方で、勝ち負けにこだわっている自分というのは、すでに世界に何らかの「正解」を求めてしまっている。世界に一つの解答しか認めない側に立ち位置を置いてしまっている。

価値観の多様性を認める立場と、一つの正解の元に何らかの順位をつけてしまう立場と、完全にどちらかに身をおくことは非常に難しい。

「どちらか」という2元論的な対立が頭に浮かんでしまう時点で、自分はすでに世界に多様な価値観があることを容認していないのだろうか?

「価値観に無限の多様性を認める」立場はなかなかにかっこよさげに見えるのだが、自分のような人間が多様性を語ったところで、しょせんはファッションか?

実際のところ、2元論的な世界から抜け出して悟っている人は、どんな考え方をするのだろう…。

2005年5月13日

それは患者であって人ではない

やることは決まっている。たぶんこの病気だ。経過も理学所見も、まず間違いなくその疾患を示唆している。すでにその病気に対して正しい治療は開始され、後数時間もすれば症状は落ち着くはずだ。

それでも本当に正しいことをしたのか。自分の下した決断は合っていたのか。実は診断名を間違えているのではないか。自分よりももっと上手くやれる医者は大勢いるのではないか。何年経っても悩まずに仕事をすることはできない。

急変患者を診察するのは、戦場で殺し合いをするのにどこか似ている。

何度やっても患者さんの「先生苦しい…」という声に慣れることはなく、いつまでたっても自分のやったことは正しいと、確信が持てない。

医師は常に患者を完全に治療することを期待されている。判断はすばやくなされなくてはならず、じっくりと考えているだけの時間は無い。医師の判断は、たとえそれが正しいものであったとしても患者に利益を与えるとは限らず、とくにその判断が正しくなかった場合、患者さんが死んでしまうことだってありうる。かといって、ためらってばかりいては結局のところ患者さんは死んでしまうかもしれない。

やらなければやられる。かといってやったところで、助かるとは限らない。

急変患者に立ち会った医師は、こうしたジレンマの中で何らかの決断を下し、患者さんの病気の治療方針を立てなくてはならない。冷静な判断などできる状況ではない。それでも冷静な判断をしなくてはならい。

急変に当たったときは焦る。ましてや、目の前に苦しんでいる人がいて、その人から「苦しい」と言う声を聞いたときには。何とかしなくてはならない。だが自分のやったことが目の前の人を本当に「何とか」してくれるのか、あせっているときは一向に確信が持てない。何とかして、平常心に返らなくてはならない。

医学的な決断は、「苦しんでいる人」に対してはためらいや逡巡を生じる。一方で「患者」に対してならば、医師はためらいなく自分の治療プランを実行できる。

目の前のそれは「患者」であって「人」ではない。

急変に当たって何をしていいのか分からなくなったとき、苦しんでいる人間を「患者」にしてしまえば、医師は現実に立ち返って冷静に考えることができる。

何らかの手技を患者さんに対して行うことは、医師が現実に戻るための有効なスイッチとなる。

自分の場合、スイッチは気管内挿管だ。

医者の目の前が真っ白になるような急変をした患者さんは、ほとんどの場合、何らかの気道の確保が必要になる。気管内挿管をすることで、まずは患者さんの「苦しい…」という声を聞かなくて済む。気道さえ確保してしまえば、バイタルさえ許せば十分な沈静もかけられる。

目の前の「苦しんでいる人」は、舞い上がった医者の頭でもどうにか治療できる「患者」へと、徐々に近づいていく。

気管内挿管を成功させたという医師の体験もまた、医者の頭を冷静にしてくれる。小さな成功体験の積み重ねは、急変に行き当たった医師が忘れていた自分の技術に対する信頼、経験に対する信頼を思い出させてくれる。

冷静になった頭は、正しい治療方針を決定したり、あるいはすでになされている治療の流れが正しいことを確認してくれ、医師はようやく落ち着いて治療を続けることができる。

この現実に立ち返るスイッチは、研修を受けた病院で違ってくる。

スイッチがCVラインの人もいる。動脈ラインを取ることで、現実に戻ろうとする医師もいる。

ICUなどでさまざまな科の医師が合同で仕事をする際、最終的には気管内挿管、CVライン、動脈ラインなどは全て入ることが多いが、どの順番で入れていくのかは、主治医によってかなり異なる。どの順番で手技を行っていくのか、みんなが自分が正しいと思う中で、この順番をめぐって喧嘩になることすらある。

ちゃんと調べたわけでないので単なる当て推量なのだが、この順番というのは、主治医が研修医時代に手技を習った順番に等しいのではないだろうか。

人間、焦っているときは本能的に自分の原体験に立ち返ろうとする。焦った医師は、研修医の頃から今までの期間の経験を思い出すことで、現実的な思考に戻ることができる。

修羅場になればなるほど、きっと研修医時代の経験というものが生きてくるのだと思う。

2005年5月12日

早く心臓が止まればいいのに

この患者さん、早く心臓が止まらないかな。そうなれば、自分にも何をすればいいのか分かるのに。
ACLSコースの受講を終了した新人研修医は、しばしばこうした不埒な考えをもって救急外来に降りてくる。

苦しんでいる人を診察するのは恐ろしい。まず苦しんでいる原因がわからない。原因が分からないから、何をしていいのかも分からない。分からないものは、怖い。

患者さんに会うのが怖いと、いつまでたっても救急外来の雰囲気に慣れない。患者さんは教科書どおりの主訴や所見でやってくることはほとんど無く、診察に時間がかかるならば怒声が飛んでくる。患者さんに会うのはますます怖くなる。

ACLSコースは、新人医師が急患に当たるときの「ためらい」や「恐怖」を、非常に効果的に取り去ってくれる。

救急外来に来る患者さんの中で、間違いなく一番重症なのは心肺停止の患者。こうした患者に対してまずどう行動し、次に何を考えればいいのか。教科書どおりの手順は「まず何を考え、それから行動する」。ACLSコースでのCPRプロトコールは、この逆だ。まず「どう」行動すればいいのかを教えてくれる。

もちろん理論も教える。しかしACLSの教育の本質は、最終日に行う「メガコード」と呼ばれるシミュレーションだ。目の前には心肺蘇生用のリアルな人形。周囲からはモニターの音。自分が何かすれば、それはすぐに患者さんのモニター波形の変化となって現れる。そういった環境の中で、インストラクターが一言「どうしますか?」。その瞬間人形はまるで実際の人のように見え、非常に緊張する。

こうしたシミュレーションで教育を受けると、実際の心肺蘇生での緊張感をかなり正確に想像できるようになる。リアルなシミュレーションで訓練を受けると、本当のCPRのときにもためらい無く体が動く。

戦争で兵士が敵と遭遇したとき、意外なほど多くの兵士が「撃たなければ殺される」という状況になっても発砲しないことは、以前から問題になっていた。

第二次世界大戦では、アメリカ兵は15から20%しか敵に向かって発砲していなかったという。発砲しようとしない兵士達は別に逃げ隠れしているわけではなく、むしろもっと危険な任務、通信や救護、仲間の救出といった任務を買って出る傾向があったという。それでも敵に対して発砲はしない。日本兵の突撃を受けたときでさえ、やはり同様の割合の兵士が発砲しようとしなかったという。

大戦後、この低い発砲率は問題になり、様々な訓練方法が工夫された。朝鮮戦争からベトナム戦争に至り、この兵士の発砲率は20%台から95%にまで引き上げられた。


兵士の発砲率を引き上げたのは、巧妙に作られたシミュレーション型式の射撃訓練だ。

以前の兵士は草地に腹ばいになって、丸い標的を撃っていた。ところが、実際の戦争では「丸い標的」を持っている敵などいない。

現在の兵士はタコツボの中に何時間も立ち、定期的に現れるヒト型の的を、反射神経で撃つ練習をする。丸い的ではなくヒト型の的。当たると血が吹き出るようなものも使われる。ためらいなく的を撃ちぬいた兵士は賞賛され、命中率によっては休暇の日数が増えたりする。

殺人行為の慎重なリハーサルを積むことで、兵士は必要なときにためらいなく撃つことができるようになる。

ACLSの訓練も、これに似たところがある。リアルなシミュレーション、行動の条件づけの強調、メガコードを上手くこなした研修医はインストラクターから賞賛され、終了時には終了証が手渡される。

急変が生じたときにはまず現場。この原則は今も昔も同じなのだが、現場に着いても何をしていいのか分からない研修医は、現場に突っ込むのに非常な恐怖にかられる。ところがACLSを学んだ後は、「心肺停止」の患者に限っては体が動く。急変の鉄火場は訓練どおりの動きで乗り切ることができ、汗まみれでCPRをした後は、まるでスポーツでもしたかのような爽快感が残る。

このCPR後の妙な高揚感は、ACLSコースの終了後の合格証書をもらった時の高揚感、受講中に行われる懇親会での連帯意識がCPRに伴ってフラッシュバックするからではないかと邪推するのだが、いずれにしてもACLSという訓練コースはいろんな意味でよくできている。

ところが救急外来には、心臓が止まっていない人、心臓が止まりかけてはいるが動いている人もたくさん来る。こうした人たちに対しては、ACLSでの訓練は無力になる。「早く心臓が止まればいいのに」。この非常に矛盾した感情は、受講後2週間ぐらい続く。

それでも、対応できる疾患が心肺停止一つとはいえ、何をしていいのか分かれば、CPRの修羅場でも自分にできることが見つかる。その場で存在意義を見出せる人は、そこで安住できる。救急外来の研修の初期にACLSを受講した研修医は救急外来が好きになり、楽しく勉強できるようになる。

ACLSの講習を終えた後は自分がとても成長した気がするのだが、実際には心臓が止まった人を戻すよりも、心臓が止まりかけている人を止まらないようにするほうが何倍も大変で、また学ばなくてはならないことが多い。ACLS合格はゴールではなく、いわば救急外来のパスポートのようなもので、現場の勉強はそこから始まる。

去年の研修医が、そろそろACLS受講。皆さん頑張ってください。

2005年5月 6日

同意書を取るときの注意

セールストークの方法論から。検査同意書をすばやく取るために普段気をつけていること。

議論/論争は避ける

議論は理性の働きを活発にするので、迅速な判断を妨げる。
相手の体験に合わせて話題を選ぶ。相手の話に逆らわないようにする。

患者の正面に立たない

人間の正面というのは自己主張の領域で、商談や説明のときにここに立ってしまうと対決の関係になってしまう。できれば相手の横、少なくとも相手の目線の正面から少し外した場所に座るようにする。「商談はお客の脇で行え」という言葉もある。

同じ脇でも、左右で意味は異なる。

患者さんの右の脇は権威者の領域なので、検査の説明など、権威をもって行う必要があるものは患者の右側で行うと、信頼感が高まる。一方左脇は服従者の立ち位置で、この場所に立つと相手の意思を尊重します、という姿勢を示すことができる。診察は通常、患者の左脇に立って行う。一般の商談時にも、お客の左側に立つのが原則である。

患者の後ろでは何もしてはいけない

コルゴ13でなくとも、誰でも緊張する。後ろで動くと、患者に恐怖を与える。背後から近づいたり、声をかけたりするのは避けなくてはならない。特に複数の研修医をつれてムンテラにいくと、必ず後ろに回る奴が出てくる。

ムンテラ部屋に移動するとき、絶対に患者を尾行しない。後方に立たれると相手は不快に思う。せかされているような印象を与えてしまう。車椅子を押すときは例外。

目線の高さをあわせる

医者の目線が相手よりも上だと圧迫感を与えてしまう。患者さんが寝ているときはベッドサイドでしゃがんだり、座っているときは自分も座ったりして、相手よりも目線を下げる努力をする。

相手よりも「つらい」姿勢をとる

患者よりも悪い椅子を選んで座る。相手が座っていたらしゃがむ。相手が体を起こしていたら壁に寄りかかって無理な姿勢を作る。相手に「すまない」という感情を与えられると、話を早く切り上げられる。

遠くから挨拶をする

挨拶は患者の5-6mぐらい手前で一度会釈し、相手に自分の存在を認識してもらってから一歩前に出て、「はじめまして」と挨拶する。いきなり相手のテリトリーに侵入すると、警戒心を増してしまう。

全部やるとムンテラ時間が3割がた短くなる。

2005年5月 5日

外来患者の見分けかた

久しぶりに会った友人から、「お前、誰だっけ?」と言われると非常に凹む。

相手の顔を覚えるのはコミュニケーションの基本。相手に顔を覚えてもらえないのは自分が相手にとって重要でないから。

顔を覚えてもらえない外来患者さんは、主治医にとって「重要な」人間になろうと一生懸命話し、外来の流れを遅くする。忙しい外来、一生懸命しゃべる元気があるなら、早く薬を受け取って次の患者さんに代わって欲しい。主治医のこうした思いは簡単に見透かされ、その人は二度と外来に来なくなる。

医師の外来患者数は多い。10年目の内科の医者で普通は200人ぐらい。20年選手の部長クラスになると、外来で受け持つ患者数は1000人近くになる(以前に900人まで数えて大体2/3ぐらいだったと聞いたことがある)。

人間の記憶にはかぎりがある。幸い医者にはカルテがあるので、その人が「どんな」人なのか、カルテに書いておけばその場で思い出すことができる。その人が「どんな」人なのか、それを形容する本質、患者さんのことを思い出すのにもっとも有用な情報とは、何だろうか。

患者さんその人をその人たらしめているのは、その病名や病気の経過、病態などではない。

外来でカルテを見てから患者さんを思い出す際、医者はまずカルテの病名と処方を確認し、その患者さんのステレオタイプを作る。

「20年の経過の心不全」「34歳の喫煙歴のある喘息」。同じような患者さんは外来患者さんの中にはたくさんいる。まだそこには「○○さん」という名前は入らず、顔の無いマネキンのような虚像が頭の中に出来ているにすぎない。

その虚像を実像にし、ステレオタイプを○○さんという血の通った人間に変換しているのは、カルテの端々に記載された細部の情報だ。

「息子さんが最近怪我をした」 「このところ犬の調子が悪くて心配」 「家の塗り替えが4月にようやく終わった」 「自宅が山間部なので、昨日の雨はすごかった」
患者さんを実体化するのに大切な情報は、こうした一見些細な日常生活の断片だ。

物事の本質は細部に宿る。ベテランの医師は、こうした一見病気とは関係のない、どうでもいい事柄をカルテに記載し、患者さんを思い出す。

人間である患者さんを、病名と経過だけの顔のない人形として扱っても、コミュニケーションはうまくいかない。患者さんの会話からこぼれ落ちた、こうした細かい事柄をカルテに記載していくことで、目の前の患者さんその人の人となりが記録でき、患者さんとの会話を円滑に行うことができる。

ベテランのスタッフドクターは忙しいので、カルテの記載はしばしば簡略になる。病気に関する事項を省き、こうした細部だけを記載されたカルテは引継ぎの時に困るのだが、同じ病院で働いたレジデントであれば、処方内容さえわかれば結構何とかなる。

そのスタッフ全てがいなくなった後は、もう最悪だが…。

2005年5月 4日

遺伝子治療の未来はどっちだ

遺伝子治療が実用化するということは、近い将来先生方の仕事の大半はなくなるということです。 たとえば糖尿病や喘息の症状を訴えた人が先生方の外来に来たとする。 先生方のやることは2つ。われわれの元に電話して、必要な遺伝子を作ってもらうこと、そしてそれを外来で注射することです。それだけで、患者さんの病気は一生再発しない。 遺伝子の研究者が描く未来の治療というのは、こんなものです。 内科医の仕事は無くなります。
遺伝子のえらい先生が病院に講演に来てくださったとき、こんな話を聞かされた。病院スタッフ一同、特に内科は憤り、「遺伝子治療がどんなに普及しようが、奴の作った遺伝子だけは絶対に使わねえ」と誓い合ったのを覚えている。

研究者が何かの研究を続けて生活していくにはお金が必要だ。

日本の場合、研究者のためにお金を出すのは国だ。さまざまな分野の研究者は、自分たちの研究している学問が成就したらどんな未来が待っているのか、毎年のように夢にあふれたプレゼンテーションを行っては、科研費の獲得にいそしむ。

医者も研究活動をする。医学研究にもいろいろな分野がある中で、そのビッグマウスぶりでは遺伝子の研究者の右に出る者はいない。相手にする患者のパイは人類全体。研究が成就すれば、外傷以外の病気はこの世から無くなる。脳梗塞や心筋梗塞の画期的な治療の研究など小さい小さい。

研究者の価値を決めるのは、その人の持っている夢の大きさと確実さだ。夢を語れない人のところには人もお金も集まらない。遺伝子治療は、少なくともその夢の大きさだけはどんな研究分野にも遅れをとることはない。

一方でこんな話もある。

遺伝子治療を成功させるには、病気の原因遺伝子を特定しただけではぜんぜん足らない。実際に生体で遺伝子を発現させるということは、それが極めて正しい場所、正しいタイミングでなされないと何の意味もない。現在の遺伝子の研究者は、その部分には目をつぶって、ひたすら遺伝子の発見のみに意識を集中している。

遺伝子を正しい場所、正しい時間にも発現させる「乗り物」にあたるものをどうやって作ればいいのか、誰も分からない。どの研究者も「いつか誰かが作ってくれるだろう」と目をそむけながら、とりあえず自分にできる、すぐに業績になる研究テーマにいそしんでいる。

遺伝子の乗り物を作るのは難しいらしい。

この難しさは、「新幹線のスピードを今の10倍にしよう」などという、お金さえ無尽蔵にかければ何とかなりそうなものとは違い、「タイムマシンを作ろう」という行為に近いという。必要な遺伝子をどうやって標的細胞まで運び、それをどうやって正確なタイミングで発現させるのか、まだその構想も十分に作られていないらしい。

遺伝子治療の現状は、タイムマシンが実現したらどういったことができるのか、業務のモデルをあれこれ考えて将来に備えているようなもので、肝心のタイムマシンの製作に取り組んでいる研究者は少ない(らしい)。

バラ色の未来を掲げて失敗に終わったプロジェクトは、他の分野にはいくらでもある。シグマ計画、第5世代コンピュータ。核融合などももしかしたらそうなるのかもしれない。

「失敗」と名指しされたプロジェクトをやっていた人には反論があるかもしれない。そのプロジェクトからは様々な技術が生まれた、結果として当初の目的は果たせなかったが、人類の進歩には貢献でき、予算をかけただけの成果はたしかにあった、など。それでも当初の「夢」は実現されることは無く、会話するコンピュータ、無尽蔵に使える核融合エネルギーなどはいまだに形が見えてこない。

遺伝子治療の対象である遺伝子を使った診断技術自体は、すでに実用の領域に入っている。特定の病気に対しては、「治療」も行われるようになっている。それでもまだ、本来の遺伝子治療の目標である「注射一本で全ての治療は完治」のモデルは一向に生まれてこない。

遺伝子治療関係の自分の知識は、3年ぐらい前で止まってしまっている。実際にラボに携わった経験も無く、全ては研究していた人からの伝聞のみ。それでも実際にゲノムを触っている大学院生を、上のような話をしてからかっても、「それは全くの見当外れですよ」といった反論は返ってこない。

遺伝子治療の未来はあまり明るくないのか?
単に自分が全く相手にされていないだけなのだろうか?

2005年5月 1日

何に使うのかわからない薬

研修医 先生、どうしてここでミラクリッドを使うのですか?

ICUスタッフ ミラクルだから。


ミラクリッドの使いかたの説明としては、これ以上に適切な説明を知らない。

特にICUに入ると、ミラクリッド、フサン、FOY、FFP、ステロイド、免疫グロブリンといった、普段の病棟業務ではあまり目にすることも無い薬剤が大量に投与される。

もちろん、ここの薬剤には「これでないと」という使い方をされるケースもあるが、たいていの場合、こうした薬をどういった患者さんに使うのか、誰にも明確な基準を説明できないことが多い。

ICUを担当するのは集中治療医。集中治療医にはリアリストが多いので、理論的な効果が期待できても、効果が体感できない薬は使わない。

膵炎にFOY、敗血症に少量ステロイドあたりまではまだまだ理論と実践とが一致しているのだが、腎不全にミラクリッド、敗血症にフサン、わけのわからないショックにとりあえずガンマグロブリン、ARDS急性期にフサンやミラクリッドあたりになると、話はかなりあやしくなってくる。

とりあえず、たしかに「効いている」感触めいたものはある。しかし何がどう効果が出ているのか、どの基準で薬を始め、どうなったら薬を中止してもいいのか、明確な正解は誰も知らない。

例えば循環器の領域なら、t-PAをどういった患者さんに用いるべきなのか、どういった人には禁忌なのかといった問いには明確な解答がある。だが、そうしたガイドラインを作るのに投入された患者さんの数は3万人以上。病名も心筋梗塞1種類のみ。

ICUに入室してくる患者さんの病名は様々で、問題が一つですむ人などほとんどいない。数万人単位の症例を検討することなど夢のまた夢。この世界では、いわゆるEBMに相当する思考回路は例外が多すぎて使い物にならない。逸話的な症例報告の集積、自分の経験の積み重ねをもとに、1例1例手探りでやっていくしかない。

このあたりがEBMでゴリゴリに理論武装した内科医と、集中治療医がしばしば大喧嘩になる原因だと思うのだが、そもそも「効いた、効かない」の判断の基準が違うのだから当たり前だ。

ある治療手段が効果が無い場合、「EBMに乗っからない患者が悪い」とあきらめるのがEBMを信仰する医者、何も考えずに次の治療手段を始める(考えるわけではないのがポイント)のが集中治療医だ。

EBM野郎が「EBMの神様が効果なしと決めたんだから、治療は撤退」と宣言しようとするまさにそのとき、集中治療医はもう次の「エビデンスの無い」薬を落とし始めている。ICUの医師には、なぜか武闘派が多い。「余計なことするな!」とEBM屋が気色ばんでも、集中治療医のほうが圧倒的にフィジカルが強い。お互いの立場の違いは健全な議論に発展することは無く、「あのICUに入ると殺される」という陰口のみが跋扈する。

ミラクリッドやフサン、FOYや免疫グロブリンといった薬剤は、こうした立場の違う医師同士の板ばさみにあい、今ひとつ立ち位置がはっきりしない。こいつらは本当に「効く」薬なのか、それとも単なる高価なだけの「水」なのか。

個人的には、以前はこうした薬剤は意地でも使わなかったのだが、病院を移ってからはしばしば用いるようになっている。

市中病院->大学病院の雰囲気の変化、個人プレーが可能な市中病院と、様々な医師の意見の総意でないと治療方針の決まらない大学病院との違い、FOYを使わなかったということで敗訴になった医療訴訟などがあり、こうした薬剤の「社会的な」適応範囲はこの数年でかなり広がった。

自分の中では、こうした薬剤は、「患者の時間を止める」作用を期待して使うものと理解している。

患者の問題がショックであろうが、敗血症であろうが、DICであろうが、大量のステロイドなり、ミラクリッドなりをとりあえず落としておくと、だいたい15分ぐらいは病気の進行と、体の反応(有害/無害を問わない)とを止めることができる。

この15分を維持するのに必要なコストは莫大で、たとえば免疫グロブリンを大量に使おうものなら給料数ヶ月分が吹っ飛ぶ。薬を使うタイミングもシビアで、問題が生じたごく初期でないとこうした薬は仕事が出来ない。使おうかどうしようかと逡巡している間にも、これら薬剤が有効に効く時間は終わりに近づいていく。

こうした薬の効果は一瞬で、その時間を過ぎれば問題は振り出しに戻るだけ。そういう意味ではやはり、何の意味も無い薬ではある。だが、その時間に何かの価値を見出せるなら、使う価値があるかもしれない。

15分間あれば結構いろいろなことができる。侵襲的な検査を行う、ICUを出て、CTやMRIを撮影しに行く、自分よりももっと優秀なスタッフをコールする。

要は、得られた時間を有効に使う作戦を立てられるかどうかだ。