2005年2月28日

臨床研修2題

本日をもって貴様らは研修医を終了する
本日から貴様らは医学の探究に身を捧げる臨床医である
兄弟の絆に結ばれる
貴様らの潰れるその日まで
どこにいようと全ての医師は貴様らの兄弟だ
多くは地方病院へ向かう
ある者は二度と戻らない
病棟業務に明け暮れデートもままならず
非常勤の職を食いつなぐだけの人生かも知れない
だが肝に銘じておけ
医師は倒れるまで働く
そのために我々は存在する
だが医学は永遠である
つまり―――貴様らも永遠である!


批判ばかりされた研修医は 後輩イジメをおぼえる
殴られて大きくなった研修医は キレることをおぼえる
笑いものにされた研修医は 陰口をたたくことをおぼえる
皮肉にさらされた研修医は 嘘をつくことをおぼえる

そして

激励をうけた研修医は 自己過信をおぼえる
寛容に出合った研修医は 自信喪失をおぼえる
賞賛をうけた研修医は 勘違いすることをおぼえる
フェアプレーを経験した研修医は 彼我の実力差を噛みしめる
友情を知る研修医は 嫉妬をおぼえる
安心を経験した研修医は それを失う不安をおぼえる
可愛がられ抱きしめられた研修医は
他人を騙して上手に使うことをおぼえる

2ちゃんねるコピペ。
2割ぐらいは真実だ。

2005年2月27日

車に轢かれた動物のお菓子

[ロサンゼルス 26日 ロイター]車に轢かれた動物の形をしたお菓子の販売中止を動物愛護団体が求めていたが、このお菓子を販売しいていた米クラフト・フーズ社では団体の要求に従うと発表した。

こんなの。轢殺された蛇と、背中にタイヤの跡。

gumy.jpg

全景。

gumy1.jpg

ものの是非はともかく(個人的には大好き)、こんなものを本当に製品化して販売するメーカーのエネルギーに脱帽。単なる冗談なのか、「こどもの本性は残忍なもの」というのを熟知した上での決断なのか。

2005年2月26日

介護はどこへ向かうのか

慢性疾患の高齢者の介護は家族にとっては大変な負担である。不景気な世の中、みんなぎりぎりのところで生活している。身内にこうした人がいると、その人が倒れたときの家族の負担は莫大なものになる。どうすれば家族の負担を最小限に出来るのか。病院側からみた介護の理想解は明らかだ。

内臓の不自由な人は、身障者か特定疾患を取らせて療養型病院へ

家族にお金のあり余っている人は老人病院/老健

マンパワーに余裕のある家族は、立場の弱い人に泣いてもらって在宅介護

身内に政治家か福祉課の人がいるうちは、急性期病院で長期入院

どの選択肢が一番いいのかは明らかだ。医療を提供する側から見て、一番やって欲しくない方法をとればいい。急性期疾患を診る市中病院に長期間入院しているのが一番「正しい」方法だ。

回答は、一部の人は最初から知っている。社会的な立場の強い人であればなおさらだ。

力のある人にはお金もQOLもついてくる。誰かのコネクションを使って急性期病院に長く置いてもらう患者さんは、その人の年金を家族が丸々使える。自分達は何もしなくてもいいので、家族の顔も明るくなり、身なりも華やかになる。家族の持ってくる患者用のバスタオルも、ノーブランドのものから「Renoma」だったり「組曲」だったりといった、少し上等なものに変わってくる。

人的資源も経済力も無い家族は悲惨だ。数少ない家族の誰かが犠牲になって、その人をずっと看つづけるしかない。たとえ身内が大勢いても、助けが得られるのはむしろ例外的だ。

昔、7人兄弟の末の妹さんがずっと一人で面倒を見ていた女性が脳梗塞で入院したことがあった。残りの6人の兄弟の方も皆いい人で、医療者の置かれている状況をよく理解してくれていた。患者さん本人には結構大きな障害が残ったものの、何とか落ち着き退院の目処がついた。

「こうした人は自宅で診るのが一番です」
「後はわれわれが、自宅で本人のめんどうをみます」

兄弟の方々はみなこういってくれたが、面倒を見ている末の妹さんだけはなぜか反対。

妹さんから話を聞くと、「残りの人たちはお金も出さずに口だけ出してくる。自分はもう20年も介護を強要され、嫁にもいけなかった。」と。

このため、今後の介護方針について長男さんと相談をしたところ、今後誰が見ていくのかについて家族会議をひらき、何とかしますとのこと。

会議は開かれ、6対1で今までどおり妹さんが一人で見ることになった。順調に退院日が決まったので、我々も何も口を挟まなかったが…。

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2005年2月25日

納得と理解とは違う

脳梗塞など、後遺症の残った患者さんの家族に退院のムンテラをする際、家族の人たちは「ずっとこの病院において下さい」と頭を下げてくる。

家族の人たちもいろいろ考えている。もちろんずっといられるわけもないことは分かっているし、一方で自宅に連れ帰ると自分達の生活が台無しになってしまうことを非常に恐れている。

結局、何をどう話しても、結論は長期療養型の病院を紹介する以外の道は無いのだが、この結論をいくら理を尽くして説明しても、素直に納得してくれる家族はほとんどいない。

自分の考えてきた最良の結論以外の方法を受け入れることは、負けることだ。人間は誰も、負けたくない。自分が一晩考えて出した結論を、目の前にいる白衣の人間が、偉そうに否定してきたらどう思うだろうか?

「ああ、先生の言うとおり自分の考えは間違いなんだな」と心から納得する人などいるわけが無い。口ではどう言おうと、「このバカ、俺の言っていることが分からないんだろうか?」と、自分の思いをもっと声高に語ろうとするのが普通の人の反応だ。

退院後の患者の介護をするのが自分達でなければ、話はもっとスムーズに進む。一応専門家である医者が「正しい」方法を説明すれば、家族は通常すぐに理解してくれ、納得してくれる。

一方、利害関係がもろに絡んでくる患者の家族との話は別だ。話を理解してくれることと、それを納得してくれることとの間に超えなくてはならない山は非常に高い。

この山を越えるための方法には大きく2つある。「そこには山がある」ということを家族の方自身に納得してもらう方法と、山自体を力ずくて削ってしまう方法だ。

前者はある意味正攻法で、正しいことをそのまま言っても相手が納得しないとき、あるいは納得できないため、理解も放棄しているときにわざと外した結論を示してみる。

「○○さんの場合はこういう選択肢もある、こういう選択肢も考えられます」と、およそ現実味の無い選択肢を並べてみると、そのうち相手のほうから「こんな方法はだめなのですか?」と切り出してくるときがある。相手の話に従うように結論をコントロールできると、納得と理解とが同時に得られる。

自分達の弱い立場を洗いざらい白状してしまうのもひとつの方法である。医者は必ずしも強い立場ではなく、別に退院にも何ら強制力は持てない、しかも長期間入院患者を抱えていると、最後は厚生省からクレームが…と愚痴モードに突入すると、「要は、悪いのは○泉内閣なんですね」と相手が同情して妥協案を示してくれる。

重要なのは家族の面子を潰さないように話を持っていくこと、そして家族に自分達がしっかりしないと、目の前のこいつ(医者)だけには頼れないな、と思わせることである。

こうした方法は、あまりやりすぎると医師が知能障害をおこしているように見えるので注意が必要。だいたい、相手をだまして結論に導いてやろうなどとあざといことを考えると、一瞬で相手に悟られる。医師ほどそうした相手の心の動きに鈍感な奴はおらず、また総じて医者という人種は交渉は下手だと心得るべきだ。

全ての交渉ごとは相手の納得なくしては終了できない。言い換えれば医者側が相手を一方的に論破することなどあってはならず、常に相手の助力あっての交渉の結論なのだと肝に命じることである。

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2005年2月24日

EBMの活用方法

EBMという概念は、某巨大掲示板のような場所で使われると、相手にとって迷惑この上ない武器になる。

その発言のエビデンスレベルはどのぐらいなの? 反論するけど、NEJMのバックナンバーぐらい全部読んでるよね? そんな治療、ガイドラインのどこにも書いてないんだけどEBM分かってる? ガイドラインにも言及されていないような瑣末的なことを、ここで論じてなんになるの?

強弁、論点のすり替え、相手への罵倒やラベリングといった議論の流れを破壊するためのテクニックは、
「EBM」という言葉をかぶせるだけでよりいっそうパワーを増し、他愛のない議論に燃料を注ぐのに非常に役に立つ。

別に実世界の議論ではないのだから、負けたってかまわない。

こんな議論に論文引っ張って、なにマジになってんの? EBMって要は、アメリカ人の言うことなら何でも正しいっていうことだよね。
議論に負けそうになったら、こんな捨て台詞を残して回線を切れば、次に接続したときにはもう他人だ。前回の負け戦のことは忘れて、また別の議論に火を注げばまた楽しめる。ネット上の論戦のような遊びは、傍観者をきめこむよりも当事者として議論を楽しんだほうが得だ。

どうせお互い匿名なのだし、ベテラン、新人の区別などできっこない。相手を傷つける心配などせずに資料をぶつけていくこともできるし、負けそうになっても相手から変な情けをかけられることもない。

実世界で顔をつき合わせて行う議論では、意見がぶつかることが生じた場合には必ず「落しどころ」をどこへ持っていくかを探らなくてはならない。病棟で喧嘩になると仕事が進まないので、そもそも意見がぶつかる機会自体が少ないが、意見がぶつかることそのものを由としない風潮からは進歩が生まれない。

MedLineなどのデータベースがどこでも利用できるようなり、論文の引用は飛躍的に便利になった。

自分が学生の頃は、まだインターネットなど大学内で1回線つかえるかどうかの時代。論文の検索はIndex Medics(もはや死語)という雑誌をひたすらめくって、自分の専門分野を検索する。医師になった先輩が症例発表などをする前には部の下級生が集められ、図書館で各自IndexMedicsの割当を決められて検索の手伝いをするバイトなどがあったものだ。今は同じことがクリックひとつでできる。

情報が飛躍的に早く入るようになった分、他の分野で何がスタンダードになっているのかがわかりにくくなった。教科書を参照すればもちろん書いてあるのだが、せっかく最新論文が手に入るようになったのだから新しい情報が欲しくなる。

周りに聞ける先生がいなかったとき、ネット上で行われる議論で引用される論文は参考になることが多い。もちろん誰もが匿名だから、こうした情報の信憑性については自己責任の世界になる。特に、新しく得られた情報を臨床の現場にフィードバックするときには非常な注意が要る。

今は大きな病院にいるのでそんなこともなくなったが、内科が自分しかいないような状況では「最新の」治療や知識を現場で用いるのには非常な不安があった。

読んだ論文は本当に正しいことを言っているのか。 その論文の掲載雑誌はメジャーなものなのか。 そもそも英語論文を翻訳した自分の英語力はそんなに信頼できるものなのか。

こんなことを考えてしまう時点で、すでに新しい治療手技を病棟で試す気力は失せ、分からないことは「今日の診療指針」に頼ることになる。

エビデンスとは対極にあるような内容の本だが、記載はすべて日本語、どんな検査をして、どんな治療薬を処方すればいいのかまで書いてあるので、そのとおりにやれば一応の治療は可能、日本で臨床医をやっている人が自分の名前を出して書いているので、最悪失敗しても本のせいにできる。

この本を馬鹿にするのは「EBMを実践する医師」になるための通過儀礼のようなものだが、分からない患者を治療しなくてはならないとき、これほど頼りになるものもない。まわりに相談する相手がたくさんいる現在の環境になってからは、ほとんど開くこともなくなったが。

2005年2月23日

経験を物語として伝える

自分の経験を下級生に教えるには、カンファレンスよりも医局でのバカ話のほうが効果があるという話。


むかし、不信の病にとりつかれた王がいました。自分の妃すら信じることができないので、次々と妃をめとっては、翌朝殺してしまうのです。

この王のもとへシェラザード姫が嫁いできました。その夜姫は、王におとぎ話を語りはじめましたが、朝になるとやめてしまいました。「続きはまた今夜.....」。続きが聞きたくてたまらない王は、もう一日姫を生かしておくことにしました。

こうしてシェラザード姫は、夜な夜な王に物語をきかせ、語ることで生き延び、生き延びるためにまた語るのでした。

シンドバッドの冒険、アリババと40人の盗賊、魔法のランプ…。千と一夜にわたって語り続けられた数々の物語、それが千夜一夜物語『アラビアンナイト』なのです。

千と一夜が明けた朝、王の病はすっかり癒え、姫との間に子も生まれていました。姫を愛し、よく国を治め、幸せに暮らしました。

インターネットによる文献検索が全盛の時代である。いままで言い伝えられてきた「造影検査中に患者の鼻が詰まりだすと、その直後アナフィラキシーショックがおきる」などといったフォークロアは、「エビデンスが無い」の一言で破壊された。上級生の昔のバカ話にも、研修医の興味は薄れつつある。

今の研修医には時間が無い。1つの科をローテーションする時間は3ヶ月しかない以上、吸収する情報は整理されたもの、純粋なものだけが好まれ、先輩の過去の体験談など見向きもされない。

どうせそんな昔話など、1例報告でしょう?大体先輩、EBMって言葉知ってるんですか?僕達あと1ヶ月で病棟移りますけど、その話覚える必要あります?

昔話をだらだらする医者はのろまに見える。不純物の多い情報は好まれない。情報の純化に伴い、臨床現場でのさまざまな知識は抽象化され、切り捨てられる。

現在では、面白い言い伝えは無駄なもの、学問的でないものとされ、後輩には伝えられない。

こんなにすごい症例を治した、こんなに困難な場面をこうやって切り抜けたといった体験談は、それだけで最高に面白い物語であり、また後々役に立つ知識として自分に残る。なのに、それが抽象化された知識の羅列になったとたんにつまらなくなり、同時に臨床の現場で何の役にも立たない知識になってしまう。

物語が抽象化される段階で切り捨てられるものはなんだろうか。

生きているヒヨコをジューサーにかける場面を想像してほしい(グロですいません…)。


ジューサーの中で生きていたヒヨコは、我々がスイッチを入れると同時にこなごなになり、やがて羽と肉と血液の混合物になる。

スイッチを入れる前と後とで、ジューサーの中身は全く変わっていない。液体になったヒヨコは液体だから扱いやすく、応用も自在…そんなことはない。

その液体はもはやヒヨコでもなんでもなく、ただの血と肉の混合物だ。では、中身が変わっていないのに、スイッチを入れることで失われたものとはいったいなんだろうか。


人により、その答えは「構造」であったり「生命」であったり、宗教家は「魂」といったりするかもしれないが、いずれにしても目で見て分かる物質的なものが何一つ変わらなくても、失われるものは存在する。
知識を抽象化するという行為もまた、これと同じことをしている気がする。

知識というのはそれが正しいものであるのは大前提であるが、正しい場所、正しいタイミングで行使されなくては何の意味も無い。

いくつもの物語が集まり、それが抽象化されて知識となり、さらにそれが集まって教科書になっていく過程の中で、こうしたタイミング的なもの、時間的な要素は失われる。

そうした抽象的な知識は有名なジャーナルの名前で飾り立てられ、それを覚えることで何でも出来そうな気すらする。だが実際には、抽象化の過程で失われたものというのはあまりに大きく、ありがたげな論文をプリントアウトして手元に保管しておいても、その内容が臨床の現場の武器になる日は来ないこともしばしばである。

失敗すると死につながるような職業、炭鉱とか、猟師といった危険な仕事をする人たちは、さまざまな知識を物語の形で次の世代に伝えた。若手は熟達した人と時間を共にし、そこで語られる昔話を頭に刻みながら、いざというときに備えた。

こうした方法はしばしば非常に効率が悪く、また昔話の分け前に預かれない若手には不公平なシステムにもなりうる。

今のEBM全盛の風潮からは、自分のつたない臨床経験からも明らかに直感に外れる意見が「正しい知識」として伝えられ、またそれに反論できる空気が作られにくい。

この流れは必ずゆり戻しが来ると信じているが、そのときに有用な物語を伝承している医師はどれだけ残っているのだろう。

2005年2月22日

Clie滅亡…

Slashdotより。

SonyがClieの新機種投入を断念したとの発表がpc watchに掲載された。現行機の生産も今年 7月で終了となる予定。 既存ユーザのサポートについては「保証書記載のとおり、出荷終了後6年間行なわれる。
、、、 _| ̄|○... 。

もう下級生にはPalmデバイスをすすめられなくなってしまった。

Tungsten|cを購入してから本当に便利に使ってはいるものの、さすがに電子手帳初心者に使ってもらうのはかなり厳しい。

せめて、TJ25かTH55だけでも継続販売してくれないだろうか。

Palmはこのまま滅ぶんだろうか。初心者の参入を許さない道具は、そのうち誰も使わなくなってしまう。PalmJapanが復活してくれるか、CJKOSを同梱した中国版のPalmを安く輸入してくれる業者があれば、あるいは予後は違ってくるかもしれない。

個人的には洋物Palmしか使っていないので、そう不自由はしないのだが。もはや日常業務に欠かせないものになっているだけに、今後仲間が増えないと非常に困る。

どんな形であれ日本に残って欲しいものだ。

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一般内科医とひじきとの悲しい関係

小学生の遠足のとき、ガキ共が皆弁当箱を広げた情景を想像してほしい。

ガキだけに好き嫌いはさまざまだ。卵焼きが好きな奴、ハンバーグが好きな奴、いろいろいるがしょせんはこどもの味覚だ。なんでも好きな奴なんてそう多くは無い。

どんな奴の弁当にも必ず入っているのが「ひじき」だ。こいつはこどもがどんなに嫌がっても、お母さんは必ず弁当の一角にこいつを入れる。しかし、これが心から好きな奴はそんなに多くないはずだ。

この集団の中に、普段は地味な奴が一人いると仮定しよう。

こいつが、このときとばかりにいいところを見せようと、「僕、ひじきが好きなんだぞ」と周りの連中に宣言したとする。

「じゃあ、ひじきあげるからハンバーグ頂戴」 「僕卵焼き欲しい」 「僕ソーセージ」

しょせんはガキだ。何でも食べられる奴を素直に賞賛することなどありはしない。余計な宣言をした奴は「ひじき君」などと適当なあだ名をつけられ、ひじきで真っ黒になった自分の弁当箱を涙目で見つめるはめになる。

一般内科の立場も、ひじきの山を見て泣く子供と同じだ。

下手に「何でも診れます」などと宣言しようものなら、他科から紹介されるのは自分達がもてあましている患者、食事の取れなくなった高齢の寝たきり患者、行き場の無い褥瘡+発熱の患者、腎不全に心不全を合併した超高齢の患者などなど。各専門科ではそれ以上やることの無い、一方で「治癒」を目指すには問題点が多すぎる患者はどこの科にもいる。

「専門科としてはやれることはないから、あとは一般内科の先生よろしくね」

この言葉は、要は一般内科を体のいい後始末係としか思っていないわけだ。

「一般」とか、「総合」とか言う言葉にあこがれる奴は実は結構いる(と信じている…)。ただ、そうした連中は、本当は卵焼きもハンバーグもソーセージも何でも食べるのが好きなだけなのに、気がつくと「ひじき好き」のレッテルが貼られて自分の弁当箱にはひじきの山が出来てしまう…。

こうなるのがいやで、総合野郎は内視鏡やカテの陰に隠れる。自分も本来は一般内科だが、今はカテ屋を隠れ蓑にして手の届く範囲で細々と総合屋をやっている。当院にも「総合診療部」はあるが、そこは最初からドロドロの重症患者は拒否している。リラクセーションとか、漢方とか、なにかそんなことをやっているみたいだ。

総合診療屋として生き残っていくのは難しい。悪いことに、総合診療の分野で有名な先生の自己アピールのしかたも、末端でこそこそ一般屋をやっている奴を日の当たる世界に出しにくくしている。

一般内科を公言して、そのとおりに一般/総合内科をやっている先生方は確かにすごい。うらやましい。だが、彼らの総合診療のアピールのしかたはこうだ。

いいのか?俺はひじきでも食っちまう男なんだぜ (C) 阿部高和

他科がこれを聞いてうらやましいか?こういった話をきいても、よその科からは「どうぞどうぞご自由に」以外の返事は返ってこない。

大事なのは「ひじきのおいしさ」「ひじきを食べることの大切さ」を世に知らしめることで、ひじきを食っている自分のすごさを声高に宣言することではないだろう。

欧米で一般内科を専攻して帰ってきた先生には、すごい人たちが大勢いる。一方で、彼らのやっていることは、無理をすればどの科にも出来ることの延長にすぎない。

一般内科独特のものの考えかた、「総合的に」人を診るとは結局どういうことなのか、問題点のこじれた患者、行き場の無い患者を楽しく診るにはどういう技術が必要なのか。「患者さんと心を通わせる楽しさ」なんていうのではだめだ。それは大人の言い分だ。「だってハンバーグのほうがおいしーんだもーん」などとバカ全開で反論してくるガキ共を納得させる理屈を作らないと、一般内科は絶対に広まらない。

高齢化に伴い、誰もが診たがらない患者の数はすごい勢いで増えている。何か「ひじきの画期的においしい食べかた」に相当するものが見つかれば、この業界は一気に参入者が増える。なにせみんなが嫌っている分野だ。競争相手など誰もおらず、一方世界に何人などという奇病と違ってパイの大きさは無限に大きい。この分野のパイオニアになれればもう人生左団扇だ。

そんなことを考えながら数年、いまだに「ひじきのおいしい食べかた」は見つからず、自分は相変わらずカテの影でこそこそと一般内科的なことをやっている。だれかいい方法を考えついてくれないだろうか。

2005年2月21日

手に職のついた医者

研修医を育てるにはお金がかかる。研修医の手技には無駄が多く、一方給料だけはきっちり持っていかれる。

自分が研修をさせてもらった当時、研修医が自分の食い扶持を自分で稼げるようになるまで最低3年、その間に病院が持ち出すお金は一人当たり2000万円程度と教えられたことがある。当時は何を大げさなとも思ったが、今考えるとたしかにそのぐらいのお金はかかっているのだろう。それでも多分、他の業界で戦力になる人材を作るのに比べれば安上がりだ。

今の研修医には、大学病院の医局に入って一生をそこに所属して過ごすなんていう考えは全然無い。自分が研修医の教育を受けた頃は、大学を離れて外の病院で研修を受ける奴など変わり者扱いであったが、今では大学病院に残る連中が負け組み扱いだ。

卒業生の関心は、「どういうキャリアを積めば最も効率がよいか」であって、どこか大きな医局に研修医として入り、そこでずっと一生勤め上げようなんて気はこれっぽっちもない。

研修医を迎える側からは面白くない話ではあるが、正しいのは今の研修医のほうだ。大学病院が10年後にどれだけ生き残っているのか、自分達が15年目を迎える頃、どこかの病院で独り立ちした医者としての就職を考える頃に大学医局制度がどの程度残っているのかなど誰にも分からない。

そんな中で最後まで信じられるのは、自分の実力だけだ。「手に職をつけた」奴は、どんな状況になっても生き残れる。問題はこの「手に職」がついた状態というものを誰も定義をしてくれないところで、○○病院で研修をした、留学歴がある、認定医などの資格をもっているといったことは重要ではあっても、それが全てではないような気がする。

「手に職がついた状態」とはどういうことか。とりあえずはどこの病院にいっても、そこで自分の力だけで病棟運営、外来運営を事故無くこなせる状態と定義したい。必要な能力は、他科の医師と話し合いつつ現場で困ったことを何とかする能力、分解すると「コミュニケーション能力」と「問題発見・解決能力」の2つになるだろう。

現在、そうした能力を身につけさせてくれる施設はあるのだろうか。答えとしてはもう無くなった、あるいは昔はそうした経験を身につけさせてくれる施設があったというところだろうか。

小さな医局で全員が集まっていた時代、臨床研修医の教育というものは先輩達からの口伝が主なものだった。ワシントンマニュアルなどまだまだ日本ではマイナーで、サンフォードの抗生物質ガイド(「熱病」の漢字のやつ)など誰も知らなかった頃だ。EBMに基づいた標準的な治療法など誰も知らず、病棟の患者で何か問題があったら、先輩医師のアドバイスを仰ぐ以外に方法が無かった。

先輩医師にしても、エビデンスに裏打ちされた完全な解決策など知る由も無い(得意分野は別)。自分の過去の経験から、「こうしたら上手くいった」というものを探し出し、それを教えてくれる。そのものずばりの知識であることはめったに無く、それが100%正しいなどという確証もあるわけでも無い。

じゃあ文献を調べれば…という意見も必ず出るだろうが時代を読んで欲しい。たかだか10年前とはいえ、パソコンといえばWin3.1の時代。データベース化した論文検索など出来るわけも無く、「文献を調べる」といえば週末に図書室にこもることを意味していた。目の前の問題に対して文献でその解決法を探る方法論は、本当に最近の話だ。

こうした口伝えによる不完全な経験の伝達は欠点だらけだ。しかし、不完全な知識の中から自分の抱えている問題点に関する情報をピックアップする技術、与えてもらった情報から現実的な回答を作り出す技術はかなり鍛えられたと思う。

自分の探し出した「回答」が正しいものなのかどうかは、患者さんが決めてくれる。間違っていれば当然悪くなる。入院患者が悪くなれば病院が傾くので、先輩方も必死だ。ヌルい意見を吐こうものなら徹底的にやり込められたし、また正しいものの考えかた、絶対にやってはいけないことなどを熱心にそういうのをたたき込んでくれた。

技術の進歩と共に人間関係はどんどん希薄になり、一方で情報の入手は極めて容易になった。

新人に対して鉄拳制裁したり、怒鳴りとばしたりする先輩医師はほぼ絶滅した。さらにローテーション制度が導入されるようにになって、研修医にそこまで手間をかけて教育する施設はほぼ無くなった。

研修医はそこそこの性能で安く量産できるようになった一方、独立した、手に職のついた医者になるための教育を受けさせてくれる病院は本当に少なくなった。

今は、どこの病院に就職しても、それだけで世の中を渡っていける技術など身につかない。「手に職」が欲しかったら、自分で盗み取るしかない。

これは結局のところ、ローテーション研修時代を終えたら、大昔の無給医局員時代に戻って、どこかの病院で10年近く丁稚奉公を続ける以外に独立した医師になどなれないということになるのだが、そこまで悲惨な思いをしなくても、もう少し何かいい方法があるような気がする。

このあたりは状況に埋め込まれた学習という本に詳しい。

例えば女系家族で助産婦業を引き継いでいく一族を調べると、全然「職業教育」をしている様子がないのに、いつの間にか助産婦の仕事を覚えている。そうかと思うとある肉加工職人組合では、職場研修をちゃんとやっているのに、そこで簡単な仕事にこき使われるばかりで肝心の仕事が覚えられない。

どうしてこうした差が生じるのかを考察していくと、前者は(周辺に)参加させてもらって、先輩の体験談を聞かせてもらっているのに、後者は覚えるべき仕事をドアの向こうでやっていて、見よう見まねの見習者としてすら参加させてもらっていないという結論にたどりつく。

医療の業界も分業化が進み、他科に何かコンサルテーションを行っている際にはその科に任せ、自分達は彼らの仕事には参加しないで他のことをしている、ということはよくある。

上級生と下級生との関係も同様で、人間関係が希薄になった昨今、ずっと一緒に考えて行動することが本当に減り、病棟で1日に数回顔を合わせては上級生のオーダーを下級生が受け取り、自分に出来る範囲の仕事を黙ってやるという仕事が増えた。

今の希薄な人間関係に慣れてしまうと、また昔のように「ずっと一緒」の状態になるほどの体力が自分に残っていないことに気がつく。人から情報を得るにはエネルギーが要る。キーボードを少し叩くだけで情報が手に入るようになると、人と人とのコミュニケーションはうっとおしい。ましてや、3ヶ月ごとに初対面の新人が来るのだからなおさらだ。

インターネットやパソコンの普及は、医者の仕事スタイルを大きく変えた。分業化が進み、情報の共有もわざわざ同じ場所に人が集まる必要も無くなった。一方、技術を使う人間の頭の中まではそう大きくは変わらない。情報が容易に入手できる一方、個人同士での情報伝達の機会は激減した。これを何か別の方法で補わなくてはまずいということは皆わかっているのだが、まだ何をすれば一番正しいのかは誰も正解を知らない。技術はすさまじい勢いで進歩したが、それを運用する側は必ずしもそうなっていない。

このままの状態は、お互い絶対にいいことがないとは分かっているのだが、何かよい解決策は無いだろうか。

2005年2月20日

ポール・グラハム論法

ポール・グラハム論法より。

論文は小数の専門家によってしか読まれない。ごく一部の論文は世の中に大きな影響を与えるが、残りの大半はほとんど影響を与えない。正確に言えば、博士号の取得であるとか、大学内の昇進・雇用の維持であるとか、学会の存続であるとか、そういうことには役立つ。

一方、ソフトウェアやサービスの形で外に出されたハックは、論文よりも多くの人の手に届きやすい。ユーザは実際にそれを使って役に立てることができる。既存のソフトウェアへのパッチも役に立つ。ここで、何らかの形で「外に出された」という点が重要である。ハックするだけでは自分以外の役には立たない。外に出してはじめて価値が生まれる。

読んでいて元気が出てきた…。

大学医局員としてはそれではいけないのだろうけれど、臨床の方法論をあれこれ考える以外に興味の無い人間としては、こういう考え方がだんだんと普及してくれるとありがたい。

もっともプログラムひとつ満足にかけない医者としては、「ハック」の形で世の中に問えるだけのものを作るのは非常に大変なのだけれど。

2005年2月19日

臨床の型の伝達

当院には昔、外来見取り稽古というものがあった。

救急外来をローテーションするレジデントは、1日のうち決まった時間は外来をやる上司の後ろに黙って立ち、ひたすら外来の様子をうかがったり、上司の処方箋書きを手伝ったりする。

下級生からの「あまりにも理不尽な時間だ」という声に押されて廃止されてしまったが、自分達が外来を回すようになった頃、当の下級生から「外来をどうやっていいのか分からない、カンファレンスをやってくれ」との声が聞かれるようになり、「見取り」の意味は結構大事だったのだなと思い直した。

見取り稽古というのは弓道部(他の武道でもあるのだろうか?)時代によくやっていた練習のひとつだが、要は師範の弓構えから残心、弓倒しまでの型、息合いといったものを皆で黙ってみている。べつにそんなに格好のいいものではなく、「今日僕見取り稽古」といっては道場の座敷で寝そべるための口実に使ったりもするのだが、まじめにやると参考になることも多い。

どんなものであっても、熟練した人の型というものは、その人の技量を凝縮したものである。最初のうちはなぜそうなるのかは分からなくても、同じ動作を何度もやっていると、自分がなれてきた頃にその意味がわかってきたりする。たとえ入門したばかりの人であっても、型を反復練習することで基本動作が自然に身につく。

外来をひたすら眺めるという練習もこれと同じことだ。

外来業務にはマニュアルに相当するものは無い。医学的な判断の領域なら、教科書にするのも可能であるが、外来の仕事の半分以上は患者さんとのコミュニケーションだ。医者の性格は全員違う。同じ疾患を診るにしても、ドクターごとに会話の流しかた、検査の出しかた、患者さんへの説明のやりかたといったものは皆違う。

ただ、そういったものを見続けることで、自分の中に応用できそうなスタイル、武道で言うところの「型」に相当するものがだんだんと出来上がってくる。

型のひとつの特徴は、型の意味をすべて理解する以前に反復することがもとめられる点にある。意味がわからないとしても、それを繰り返し反復し、身体に技として身につけることが求められる。型は、その型の効用を身をもって知っている人間が、それをまだ知らない人間に対して強制力をもって習わせるもので、そもそもが教育的概念である。

外来の基本的な流れを「型」として学習することで、研修医はコミュニケーションの流れというものを理解するようになる。こうしたものさえ出来てしまえば、あとは自分の性格にあわせて外来のスタイルを作っていくことも出来る。外来をひたすら見るという行為は、べつに上司の外来スタイルをデッドコピーするのが目標なのではなく、最初はコピーからスタートし、慣れてきたらコピーから自由になるのが最終目標である。

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2005年2月18日

暗黙知の伝達

親切な説明や、詳細なマニュアルなどで伝えられるものだけが知識ではない。

例えばある人間の顔を表現する場合、当人の顔が目の前にあれば「この顔だ」と説明できるが、その風貌を言葉だけで他人に伝えることは困難である。例えば誰かに自転車の乗り方を説明する場合、どんなに詳細に相手に説明したとしても、実際に自転車に乗って見せてみないかぎりは相手は自転車に乗ることは出来ないだろう。

こうした「認識」「身体的技術」などにかかわるスキルは、(例えば自転車の乗り方なら)ペダルへの足の乗せ方、体重の移動の仕方などの細かな要素によって構成されるが、それをいくら詳細に語ったとしても、自転車の乗り方のすべては絶対に伝わらない。説明をした当人は、確かに自転車の乗り方を知っている。スキルを習得している人間は何事かを“知っている”はずだが、しばしばそれは“記述不能な知識”になっている。こうした知識を暗黙知という。

暗黙知は、我々が経験を通して獲得した知識である。そのため、暗黙知は「経験知」とも言い換えられる。なぜそれは言葉では説明できないのだろうか?
 
経験知は、教科書や授業を通じて得ることが出来る記述可能な知識とは異なっている。経験知は、それを得た人の体験と密接に結びついている。経験を通して得た知識は、「なぜそうなったのか」の知識化を経ないで経験者の頭に蓄積されている。

人は「なぜ上手くいかないのか」を考えることはあっても、上手くいっている物事に対して「なぜ上手くいくのか」を考えることは少ない。このため、経験を通して得られた知識は記述可能な知識に変換されること無く、経験の集積として蓄えられてしまう。

こうした暗黙知を積極的に新人に伝えて成功したのが、日本ロシュという会社である(過激なMRが多いことで有名)。

この会社では、営業職の売上に非常なばらつきがあることに頭を痛め、どうやったらトップセールスマンのノウハウを他の営業に伝えられるかを検討した。結果、「営業ノウハウ」の「暗黙知」に関して、それを過度に形式的に言語化、デジタル化しないで、「暗黙知」を「暗黙知」のまま伝える方法を選択したという。具体的には若手の営業マンが現場に行く際、全社600人から選ばれた社長直属のトップセールスマンが同行し、その場の体験を通して若手に自分のノウハウを伝えさせた。

彼らエリート部隊はまず現場のMRマニュアルの廃棄を指示し、以後は現場でのコーチング、実際にいっしょに働き、体験を共有する形で自分達のノウハウを若手に伝え、最終的に2-5%の営業成績の向上をみたという。

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2005年2月17日

情報を壁に貼る

CPRの手順、病棟でよく使う薬の作りかた、病棟で行われる代表的な化学療法のレジメンなどは、それを大きな紙に書いて、ナースステーションやERの壁に貼っておくと便利である。

壁紙に情報を張ることには以下のようなメリットがある。

うろ覚えによるミスをなくし、記憶のエラーを強力に訂正してくれる。

不必要なオリジナル処方を作ってエラーを誘発する、厄介な医者の抑止力になりうる。

CPRなどの緊急事態で、チームの意思統一が非常にやりやすくなる。


忙しい野戦病院的なところでは、どこでもたいてい壁という壁は張り紙だらけだ。注射薬を作るスペースには処方や配合禁忌のポスターが、ERに行けばACLSの手順や見逃されやすい頭痛の鑑別疾患、頸椎損傷時のステロイド大量療法のレジメンなどがべたべたと貼り付けてある。

こうしたものは誰かが指導して貼らせたわけではなく、各科の医師や看護師が、単に便利だからという理由で自然発生的に張り紙が増えていく。

いい習慣だな、と思って以前から便利に使っていた張り紙だが、最近になってすべて撤去された。

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2005年2月16日

ベッドサイドに情報を集める

入院患者の病気に関する情報、処方内容や病歴、臨床経過、温度板といったさまざまな情報は、すべて入院している患者さん本人のものだ。

自分の持ち物を離れたところに放置する奴はいない。病院ではなぜか、カルテや検査結果、病棟オーダーといった情報は患者さんの手を離れ、ナースルームで管理されている。

カルテを置く位置はどこがベストだろうか。正解は多分、患者さんのベッドサイドだ。

現状の病棟運営システムでは、ナースルームに情報を集約する。この方法は効率が悪い。

医師/看護師の業務は、すべて入院患者を診察してから何かを判断、オーダーや記録を行うか、あるいは「○○さんに心電図モニターをつけてください」などとお願いをする。

何人かの患者さんを診察してから廊下を歩いている間にも、記憶はどんどん薄れる。ある患者さんについて「とてもいい考え」が浮かんでも、ナースルームまで歩くまでの数分間、その記憶を常に保持するのは極めて難しい。結果、「あれもしよう、この検査も入れよう」などと患者について考えていたことの何割かは実行されること無く、医者は再びベッドサイドにいったときに、患者の顔をみて忘れ物を思い出す。

情報の伝達が遅いのも問題だ。患者さんを診察してから何かのオーダーが通るまでには、診察->ナースルームに帰る->オーダー用紙に記入->ナースが受ける->ベッドサイドへ->オーダーが実行されるといったプロセスを経なくてはならない。病棟ナースが巡視したときに医師の出したオーダーを読んでいるとは限らず、患者さんにしてみれば「医者が出て行って、看護師が来てくれたのに何もしてくれなかった」ということになる。

全ての情報をベッドサイドにおけば、こうした問題は解決する。全てとは、文字通り全てだ。枕元には病名と患者名を大きく記載、ベッドの足元にはカルテとオーダー用紙を常に開いておく、ベッド下には今までとった検査や画像をすべて保管する。

こうすることで、医師と看護師との情報の共有はリアルタイムでなされる。もちろんオーダーが読まれるまでにはタイムラグがあるが、誰かが枕もとまできたときにはいやでもオーダーが目に入る。少なくとも、「巡視に来たが、そんな指示は知らなかった」ということは無くなる。

患者さん自身をカルテの1ページとして扱うことで、医師の記憶喪失に伴うミスは減る。何しろ目の前で診察した瞬間にオーダーが書ける。不必要なアイデアが増えるという可能性もあるが、記憶の欠落はアイデアの重要さには関係なくランダムに生じる。カルテにノイズが増える欠点よりも、必要な情報が欠落することがなくなる利点のほうが上回る。バイタルサインや過去のカルテもそこにあれば、患者さんをいきなり引き継がなくてはならないような状況であっても話の通りは早くなる。

患者さんのプライバシーは無くなる。他の主治医どころか、廊下を歩いている一般の人にまで病名やカルテは見放題。癌の告知を受けたくない人、実は大変な重症の人などでも、目の前に自分のカルテが転がっていれば見てみたくもなるだろう。

無茶なシステムの提案に見えるだろうが、実際に運営した実績がある。災害医療の現場だ。

阪神大震災当時、病院が崩壊した状況で応援の医師が全国から集まり、被災民の救急医療に当たった時のこと。当時の病院は水道も止まり、ナースステーションも文字通り潰れてしまい、また職員の数が圧倒的に足りなかったため、病棟に入院した患者については「一瞬でも手の空いた医者がその隙に回診する」というルールであったという。

眠るひまも無いほど忙しかったため、患者さんと病名など一致するはずも無い。このためカルテは患者さんのベッドサイドに置いてあり、診察した端からカルテにオーダーを書き込んでいく。看護師さんも普段は救急外来に駆り出されているため、手が空いたら病棟に駆け込み、片っ端からオーダーを受け付けていく。

医療スタッフは全国から交代でやってくる。みんな現場に出ているので引継ぎなど出来るわけも無く、ベッドサイドに患者名と問題点、「ここまでやったら退院」「こうなったら後方病院へ搬送」といった大雑把な方針を書いておくルールになっていたらしい。

自分がまだ学生だった頃の話なのでうろ覚えだが、プライバシーの問題はさておき、職員の時間が全く足りない現場で、ミスを生じる可能性を最小限にする方法として、この方法は非常に有効だったらしい。

従来型のカルテの改良品としての電子カルテは、こうした経験の延長には無い。

患者さんの情報を呼び出すには、いちいち患者名を「クリック」しなくてはならない時点で、情報共有のリアルタイム性は失われる。ベッドサイドに全ての情報をぶちまけておく方法は、誰かがベッドに近づくだけで否が応でもオーダーが目に入ってくる。

こうしたことを技術的に実現するのは簡単なはずだ。患者さんのベッドに近づいたらオーダーが勝手に起動するとか、電子メールよろしくオーダーが入った瞬間にベッドに一番近い職員のPDAにアラーム音が入るなどが考えられる。

ただ、こんなことをしなくても、ベッドサイドでオーダーを出したときにベッドに旗でも立てるようにすれば、全く同じ機能がローテクで実現できる。巡視中に旗の立っているベッドにいけば、目の前にオーダーが書いてある。

現在、無線LAN内臓の電子オーダーシステムを毎日怒りに震えながら使っているが、100BASE-TのEthernetを導入しているにもかかわらず、温度板と看護記録とを呼び出すだけで56kモデム時代のアダルトサイトよりも遅い。こんなものに画像つきの電子カルテを載せた日には回線がパンクするのは目に見えているが、数年以内に導入予定らしい。

仕事の効率を考えたら狂っているとしかいいようが無いのだが、医療情報部の方針はかわらない…。

電気仕掛けは加速度的に早くなるので、後10年もすれば回線のボトルネックも解消するのだろうが、現在はまだまだ使えない。

従来型の伝票システムでさえ十分効率的に運用されているとはいい難い。効率アップのアイデアも、まだまだいくらでもありそうだし、何よりもこれ以上の無駄金を使うことなくシステムを改良できる点で、捨てたものではないと思うのだが。

2005年2月15日

NYPD No.1ネゴシエーター最強の交渉術

NYPD No.1ネゴシエーター最強の交渉術

以前から興味のあった分野の、ようやく本命的な内容の本が出版された。

紹介もとのサイトの内容を見ると、以前元ネタにしたものよりはマニュアル色は薄そうだが、日本語訳されたものの中では間違いなく一番内容が濃い本だろう。

しかし周囲を探しても、どこにも売っていない…。Amazonで注文するしかないか?

2005年2月14日

TRIZという考えかた

専門家に求められているのは、「こうしたことがあるからこのことが生じ、この結果が出る」、言い換えれば原因から結果が出る道筋を説明することではない。

実際の人間の生活の中で求められるのは、結果をどう起こさせるかの道筋である。

教えたり、物事の理解をするという道筋と、これから望む結果を起こそうと試行錯誤していく道筋は順番が逆になる。

大学では誰もが前者の方法論を学んで社会に出てくるが、全く逆の手順で物事を考える訓練はなされておらず、また実際に必要な考え方の道筋は、学んできたものとは全く逆なのだということすら教育されていない。

何か望む結果を起こそうと、その道筋を探っていく過程で役に立つのは今までの成功経験である。だが、こうすれば上手くいく、という学校で学んだ理論だけでは不十分で、「こうしたら失敗した」「同じような問題点は過去にこうした形で解決されたことがある」という知識を持っていないと、実際に望んだ結果にたどり着くことは難しい。

経験値の低い医師が何か臨床上の問題点に突き当たった場合、例えば腎障害のある心不全患者に利尿薬を使う場合、水を引くと腎臓が潰れ、一方水を入れると肺水腫が増悪するなどの状況に直面した場合、どちらの治療を選択するのか、あるいは何か他の手段を用いて両者をまとめて解決できるのか、といった発想を一人で行うのは難しい。もって経験の浅い医師の場合、そもそも「患者の具合が悪い」ということは分かっても、何がジレンマになっているのか、何が一番の問題になっているのかすら見えてこない。

十分な経験を積んだ医師であれば、自分の過去の経験から同じような問題で悩んだ症例を引っ張り出し、まずはその経験にしたがって似たような治療手段で患者を診ていく。

この「問題になっている場所を探す」->「過去の症例バンクから似たようなケースを探す」->「解決策を施行する」という専門家の思考回路は、医師の世界では専門家と同じだけの経験を積まないと身につけることが出来ない。

エンジニアの業界は違う。「TRIZ」というツールがある。

TRIZは、 「発明問題解決の理論」という意味のロシア語名称の略号を英語綴りにしたものであり、 発音は英語のTreesと同じである。

旧ソ連で1946年に、 海軍の特許審査員G.S. アルトシュラー(当時20才) が、 多数の特許の中には似た発想や類似の考え方が、別の分野で/別の時代に/別の問題で適用されていることに気付いた。

"独創的" な発明にも自ずからパターンがあるという認識から、優れた特許から発明のパターンを抽出し、 それを学ぶことによって、 誰でも発明家になれるだろうと考えた。

彼はこの発想をスターリンに提案するが、その結果反体制的であるとして強制収容所に送られる。その後も、当局の抑圧の中で、彼は特許の研究から発明の原理を抽出し、技術の新しい見方と技術課題に対する問題解決の技法をつくり上げていった。

彼は特許の事例を多数集めて、 「発明の原理」 (発明のアイデアのポイント) を抽出し、さらにそのような発明をするための方法 (彼は「発明のアルゴリズム」と呼んだ) を考え出し、 その方法を他の問題に適用して有効性を検証していった。

もともとは工学分野の発想なので、このまま医学の分野に持ってきても何の役にも立たないが、方法論は非常に面白い。

TRIZの一番大切なのは、どういう効果が欲しいのかというところから物理法則を見直し、この効果が欲しいならこの法則を使えばよい、と何らかのツールを使えば示差は可能であると主張している点である。本来、工学や医学といった実学をやっていた人たちはみなこのことを知っていたはずなのに、なまじ「科学的な」解釈ばかりが先行し、自らの思考の幅を狭めていった。

代表的なのが心不全のベータ遮断薬療法で、従来「心不全患者は、悪くなると脈が速くなる」という素朴な観察に対して、「脈を遅くするベータ遮断薬を使うと心不全がよくなる」という結果が得られていた。ところが80年代に入り、薬理学者が「ベータ遮断薬は心不全に禁忌」という「科学的な」声明を出して以後、心不全患者に対してベータ遮断薬は用いられなくなり、ACE阻害薬の紹介までの何年間かは心不全患者に対して有効な投薬が事実上行われなくなった時期が存在する。

実際、ベータ遮断薬の拡張型心筋症患者への効果を「科学的に」証明しえたMDCtrialの考察には、自分達の研究はリバイバルであって、発見ではないといった旨が記載されている。

EBM全盛の昨今、確かに効果があった薬が科学的に無効と断じられることが増えてきた。この流れは必ずゆり戻しが来ると信じているが、それまでどれだけの経験が「科学的に」潰されるのか、結構怖い。

病院ローカルの秘伝的なものはどのベテランも持っているはずなので、それを何らかの手段で共有できると面白いことになりそうなのだが。

2005年2月13日

ペアプログラミングの概念を用いた臨床研修

研修医の教育は面倒くさい。スタッフも、シニアレジテントも、研修医の教育に割く時間はもう1ナノ秒足りとも増やしたくない。一方、研修医の成長には誰もが期待している。早く1人前の戦力になって、病棟業務をより軽快にこなして欲しい、自分達が日々行っている戦いに、一刻も早く「味方」として参加して欲しいと皆心から願っている。

目的

  • 臨床研修の効率を現在以上に上げる
  • 現在のローテーション研修制度に対する変更は最小限に
  • 上級生の負担は一切増やさない



具体的な方法

  • 研修医を常に2人ペアで行動させる。
  • 1つの科に8人ローテーションしてくるなら「8人」とカウントするのではなく「4ペア」とカウントする。
  • 受け持ち人数は一人当たりの数は同じ、1ペアあたりの数は2倍になる。
  • ペアの行動は常に一緒。患者の搬送から検査への参加まで「分業」は原則禁止。
  • カルテはペアの片方が全部書く。もう一方は監督。2人の業務分担は数日ごとに入れ替える。
  • 科のローテーションは全員入れ替えではなく、ペアの片割れごとに半期ずつ行う。
  • 科を変わるたびにペアを組む研修医は変える。



これにより以下のメリットが期待できる

  • ペアで作業するのでミスが減る。
  • 2人がかりで作業するので、作業時間はむしろ短縮する。
  • 常に相手方がいるので士気が保たれやすく、だらだらする時間が減る。
  • ペアを半数ずつ入れ替えることで引継ぎ時のトラブルが減り、また科の情報伝達がスムーズに行われる。
  • 同級生同士のペアは対話ができるので、仲間はずれになって「潰れる」研修医が減る。

ペアプログラミングとは何か

ペアプログラミングは2人のプログラマが1台のコンピュータに向かい、同じ設計を共同作業でこなすものである。ペアの一人をドライバーと呼び、データの入力や設計の書下ろしを行う。もう一人をナビゲーターと呼び、ドライバーの作業の監視、戦術の欠陥、エラーの有無などを監視する。

この方法は、効率のよいプログラム技法として紹介され、注目されている。ペアプログラミングはほとんどのパートナーで成功する。誰と働いても問題を起こすような研修医でなければ、問題はまず生じないし、ペアをローテーションすることでそうした問題も回避できる。

研修医側のメリット


「このタイミングであの上級生を呼び出すのは禁忌」「この検査の時には必ずこう突っ込まれるので注意」といった、その病棟でしばらく生活していると分かってくる暗黙の知識は、ペアで研修を行うと非常に効率よく伝達される。上級生側も同じことを突っ込んでも答えられてしまうので、研修医にはまた新しいことを教えなくてはならず、結果として上級生-研修医間の知識の伝達も活発になる。

研修医がパートナーと作業すると、お互いの監視状態になるためモチベーションが上がる。一方がカルテを書く間、もう一方はその記載内容に間違えが無いかどうか、カルテのアセスメントに問題点が無いかどうかを監視しているので、結果としてカルテ記載のスピードと、カルテの品質とは共に向上する。ペアの両方が結託して手を抜くことも当然起こりうるが、研修医でそうした負のモチベーションが働くことは少ない。

ペアで行う研修は、相手のスケジュールに対して自分も気を使わなくてはならない。これは一方では不要なストレスが増える可能性があるが、遅刻の減少、だらだらといつまでも病院に残って仕事をしない研修医の減少といった効果も期待できる。相手のスケジュールに対して気を使うということは、仕事に自分で締め切りを作ることにもつながり、仕事に対する集中力が増す。おそらくは、研修医が病院に居残る時間は、ペア研修を導入することで若干減少するだろう。

研修医の集団を2人ずつのペアで分けることで、ペア同士の対話を行うことが強制されることになる。このため、特定の誰かが仲間はずれにされたり、また声の大きな特定の人間の意志が常に採用されるといった、集団の悪影響を抑えることが出来る。

パートナーがいると、一人のときよりも発言する勇気がつく。自分の意見は果たして正しいのだろうか、実は自分以外の人間にはすでにあたりまえのことで、質問することは恥ずかしいのではないだろうかといった不安は、パートナーと相談することで解消できる。結果、講義中に講師から「何か質問はありませんか?」と問われたときも、前のほうの2-3人が寂しく手を上げるだけといった光景が無くなり、上級生との質疑応答がより活発になる。

パートナーと一緒に仕事をすると、自分が知らないことを「知らない」と素直に認めることが出来る。研修医が上級医のオーダーを理解できないまま「分かりました」と言ってしまい、トラブルになることは珍しくないが、ペアが入ればお互い相談できる。ペアの2人とも理解していない問題ならば、それは上級生のオーダーが悪いのだ。「もう一度、説明してください」と下級生が素直に言える環境は、医療ミスの減少につながる。

一方が方針決定と実行、もう一方が監視者とい役割分担のあるペアを組むことで、研修医は自分の方針を常に相方に説明できなくてはならない。何か問題に突き当たっていたとき、それを解消する効果的な方法のひとつは誰かに自分の思考過程を説明してみることで、ペアで仕事をすると研修医の頭の中が整理されやすくなり、知識を誤って記憶することが減る。

ペアを組む相手を時々変えることで、そのペアが持っていた知識が次のペアに伝達される。ペアは半期ごとに変更されるので、結果として研修医の誰かに伝えられた知識は学年全体に急速に広がっていく。

病棟側のメリット

カルテの記載が高品質になる。カルテを書くモチベーションが「上司から怒られないため」になっている場合、カルテの記載内容は形式的なものになり、記載はだんだんと手を抜かれる可能性がある。ペアで研修している場合、研修医のカルテの記載は相方に対する「見栄」の要素が入ってくるため、記載内容はより豊かになり、病棟業務が効率よくなる可能性が期待できる。

キーパーソン損失のリスクが減る。要領のいいレジデントがいてくれる間は、ほとんどの病棟業務が口頭指示でいけるようになる。自分の研修医が何かわからないことがあっても、「あいつに聞いとけ」の一言でほとんどの業務が済んでしまう。こうしたレジデントが他科にローテーションしてしまった後の病棟は悲惨で、下手をすると上級生まで「これ、どうやるんだっけ…」と頭を抱えてしまうこともしばしばである。研修医にペアで研修をしてもらうことで、こうしたキーパーソンの知識はペアに伝えられ、「あいつがいてくれたときは楽だったのに…」と上司が嘆く機会が減る。

新人トレーニングの時間が減る。病棟業務の大まかな流れ、患者さんの紹介や病気に対する説明といった時間は、上級生にとっては本来無駄でしかない時間だった。ペアの半分ずつを入れ替える研修システムを導入することで、新人トレーニングは研修医どうしでなされるようになる。同級生同士の情報伝達は質問が自由に出来るので、上級生があれこれ指図するよりも確実で、正しい情報が伝えられる可能性が高い。

ペアを上手に維持していくための方法

効率的なペアは、常にしゃべっている。沈黙は、ペアが正常に機能していない危険信号である。上級生は研修医のペアが正常に機能していることを常に確認し、間違ってもペア同士のお喋りに水をさすようなまねをしてはならない。

共同で作業しているペアは生意気になる。研修医同士とはいえ、2人集まると勇気も知識も2人分になるので、上級生にとっては「厄介な質問」が増えてくる。このときに上司が怒るとすべてが台無しになるので、注意が必要である。

ペアの作業分担を決めるのは、上級生の役割である。ペアを組んだ研修医が気を利かせようと思い、一人が病棟の雑務をこなしている間にもう一人が上級生の検査を手伝いにくるようなことをするかもしれないが、これを認めてはならない。そうしてもらうことでたとえ上級生の仕事量が減っても、あくまでも常にペアで行動してもらうことを優先させなくてはならない。

例えばペアで10人のカルテを書くような場合、5人ずつの分業を許してはならない。1週間ごと、あるいは3日ごとと時間を区切り、一人がドライバー役、もう一人は監視役とお互いの立場を守ることを徹底させなくてはならない。実行者としての立場を手放さない「目立ちたがり」の研修医に対して、上級医はある種の強制力を発揮する必要があるかもしれない。

研修医の功績は、すべてペアの功績である。個人の努力を評価してはならない。どちらか特定の個人を持ち上げるような言動は控えなくてはならない。

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2005年2月12日

医師の独り立ち

研修医を育てるにはお金がかかる。研修医の手技には無駄が多く、一方給料だけはきっちり持っていかれる。

自分が研修をさせてもらった当時、研修医が自分の食い扶持を自分で稼げるようになるまで最低3年、その間に病院が持ち出すお金は一人当たり2000万円程度と教えられたことがある。当時は何を大げさなとも思ったが、今考えるとたしかにそのぐらいのお金はかかっているのだろう。それでも多分、他の業界で戦力になる人材を作るのに比べれば安上がりだ。

一人の医師が病棟の戦力として数えられるようになるとはどういうことか。外科には手術手技の上手下手がかかわってくるため話が違ってくるが、内科であれば必要な医学知識を身につけているのは当然として、一人の力で患者さんを退院まで持っていけるだけの能力を身につけることだと思う。

上司から言われたタスクをこなすだけなら、研修医でも出来る。大事なことは患者さんの問題が何なのかを発見して、患者さんの問題点を専門家にプレゼンテーションし、必要な助言/治療を患者さんに施してもらい、患者さんの問題点を解決していく能力を身につけているかどうかである。

そういった能力が身についていれば、その医師はたとえ病院を替わっても診療を続けることが出来る。新しい病院で患者さんについて分からないことがあっても、「自分はこの部分が分かりません」とプレゼンテーションする能力があれば、他科への紹介状ぐらいはかけるだろう。

こういった問題発見/解決の能力、プレゼンテーション/コミュニケーションの能力というのは、現在の高度にシステム化された臨床研修システムではなかなか身につかない。患者さんの問題点はたいてい上司に発見され、研修医はその指示を受けるのみ。評価されるのは上司の指示をすばやく実行する能力なので、自分で問題点を発見する訓練はなかなか出来ない。

では、そういう能力を身につけさせてくれる病院はあるのか?昔はあった。

昔、少なくとも自分達が研修医として就職した頃までは、大学病院/民間病院を問わずに、人の少ない小さな病院に内科医として赴任しなくてはならない機会があった。自分ではそこそこに仕事が出来ると思い込んで自信がついた頃、そういった周囲に相談する人もいないような状況に放り出されると、全くといっていいほど何も出来ない自分に初めて気がつく。新人医師のプライドと小賢しい問題回避能力は完膚無きまでに粉砕され、ただでさえ人の少ない病院で周囲に迷惑をかけながら、医師はだんだんと自分の流儀を身につけ、独り立ちしていく。

現在はそんな機会は無い。医療従事者に対する世間の目は厳しくなり、新人が一人で診療を行う病院などは苦情が殺到して成り立たなくなる。また、そういった厳しい機会に晒された新人がそのまま凹んで、気がついたら医局を辞めていた…などということが相次ぐようになり、「いきなり厳しい病院に放り出す」ということが出来なくなってしまった。

現在、そうした能力を身につけようと思ったら、自分で上司から盗んで覚えるしかない。いまさら徒弟制の復活を唱えるのはアナクロかもしれないが、やはり独り立ちしたいと思ったら、どこか尊敬できる上司のいる病院にもぐりこみ、文字通り丁稚奉公して生活を共にし、自分と上司とを隔てている知識を盗むしかない。

医師免許を持っている人は増えているが、一人でお金を稼げる、即戦力になる医者の数はむしろ減っている。

職人の世界というのは従来、無給に近い丁稚奉公を10年近く続けないと一人前としては認められなかった。かつては医師の世界もまさに丁稚奉公の世界で、10年近くかけてやっと駆け出しの医師として世の中に出してもらえた。

しかし、何かを作る職人を育てるためには、その間何度も失敗を重ねる必要がある。他の業界であれば、初期の失敗作というのも一人前の職人になったときにはいい思い出になるかもしれない。医師の場合、失敗作とはすなわち屍体だ。思い出になどしていいわけがない。「医者は○人殺して一人前」という言葉は冗談ではなく真実で、やはり医師という仕事もどうしようもなく職人的な世界である。

この数年、臨床研修は研修医に失敗経験をさせない方向で進化してきた。これは患者さんの安全を考えれば当然のことなのだが、一方で急変に対して手も足も出ない医師が増えているように思う。

「患者さんの安全を確保しつつ、どうやったら新人に失敗経験を積ませられるか、民間の病院ではそれが非常に難しい。自分は、シミュレーション的な技術が何らかの助けになるように思う。」
自分が研修をさせてもらった病院を辞めるとき、去り際に病院長が述懐しておられたが、いまはどうしているのだろう。

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2005年2月11日

フォネティックコード

業務にかける予算と、業務の確実性とは比例する。

現在の日本の医療行政は、これだけ少ない予算とマンパワーの割には高い信頼性を維持していると思うのだが、世間様は許してくれない。

何とかお金と人手をかけずに過誤の機会を減らす方法を、以前からあれこれ考えているのだが、そのうちの一つがこれ。口頭指示を確実に伝達する方法。

「半筒」と「3筒」を間違えた医療過誤のニュースがあったが、臨床の現場がスピード勝負である以上、口頭による指示は今後ともなくなることは無い。

複数人数による確認、オーダー用紙に文章で書かないと指示を受けないことを徹底する、バーコードリーダーを導入して患者さんの間違えをなくすようにする、といった教科書的な対策案は、潤沢な予算やマンパワーが無いと、実現するのは難しい。

無線以外に連絡のとりようが無い業界では、口頭指示があたりまえになっている。この人たちはどうしているのだろうと思い、調べていったらフォネティックコードという単語に行き着いた。
 

 
《万国共通用語》
  A(アルファ)=ALFA
  B(ブラボー)=BRAVO
  C(チャーリー)=CHARLIE
  D(デルタ)=DELTA
  E(エコー)=ECHO
  F(フォックストロット)=FOX-TROT
  G(ゴルフ)=GOLF
  H(ホテル)=HOTEL
  I(インディア)=INDLA
  J(ジュリエット)=JULIET
  K(キロ)=KILO
  L(リマ)=LIMA
  M(マイク)=MIKE
  N(ノヴェンバー)=NOVEMBER
  O(オスカー)=OSCAR
  P(パパ)=PAPA
  Q(ケベック)=QUEBEC
  R(ロメオ)=ROMEO
  S(シエラ)=SIERRA
  T(タンゴ)=TANGO
  U(ユニフォーム)=UNIFORM
  V(ヴィクター)=VICTOR
  W(ウィスキー)=WHISKY
  X(エックスレイ)=X-RAY
  Y(ヤンキー)=YANKEE
  Z(ズールー)=ZULU

0/ZERO
・1/WUN
・2/TOO
・3/TREE
・4/FOWER
・5/FIFE
・6/SIX
・7/SEVEN
・8/AIT
・9/NINER
・ ./Dayseemal
・100/Hundred    
・1000/Tousand


軍隊やパイロットの仕事など、無線以外に連絡のとりようが無く、また確実な情報伝達が出来ないと命にかかわる仕事をしている人たちは、無線連絡のときに上記のような方法で単語を伝え合う。

アルファベットというのは似た発音の文字が多いため、正しく伝えるのが結構大変で、周囲ノイズが多い状況などでは通常の発音では確実に伝わらない可能性がある。こんな時に有効なのがフォネティック・コードと呼ばれるもので、無線通信時のノイズの中でも相手に確実に伝えることを目的として考案されたものである。

具体的には、対象のアルファベットを頭文字に持つ単語で英文字を伝える。例えば「PROTEUS」だと「Papa Romeo Oscar Tango Echo Uniform Sierra(パパ ロメオ オスカー タンゴ エコー ユニフォーム シエラ)」になる。

フォネティックコードの歴史は古く、軍事用、電信電話会社用、航空用などいくつかの種類があるらしいが現在は統一されている。

日本では、自衛隊式の数字の呼称が有名。例えば12時30分から作戦を開始する、という連絡は「ヒトフタ、サンマル、状況開始」となる。


1 = ヒト
2 = フタ
3 = サン
4 = ヨン
5 = ゴ
6 = ロク
7 = ナナ
8 = ハチ
9 = キュウ
0 = マル

こういったものを導入すると、前記の半筒と3筒の間違えは生じにくくなる。

ただ、医療現場でこれをやると、病棟の雰囲気が「吉野家」の店内のようになってしまうのが欠点か。

2005年2月10日

不公平な臨床研修

厳しい研修医生活の中にも楽しいことはある。

治療のための手技、手術への助手としての参加、勉強になる症例の受け持ち、先輩医師からの実戦的な知識の伝授などなど。病棟の雑用係としての忙しい生活の中で、しばしば教科書では学べない興味深い体験が転がり込んでくる。

複数の研修医がひとつの病院で臨床研修を行っている場合、こうした「御褒美」は公平に与えられることはなく、たいていは特定のレジデントの総取りになる。どの科をまわっても、楽しい経験、貴重なレクチャーはチームの特定のレジデントに対してのみ行われ、「負け組み」に回った研修医にはそうした機会は決して回ってくることはない。

上級生から常にかわいがられている研修医はずば抜けて優秀なのか?そんなことはない。研修開始直後のレジデントの「優秀さ」など計りようが無いし、だいたい上級生はそこまでレジデントに関心など持っていない。

こうした「御褒美」が研修医の優秀さに対して対価として与えられるものならば、運動会の景品よろしく1位の人間にはこれだけ、2位の人間にはこれだけ、と不公平は残るものの、1位の奴が景品を総取りすることなどあり得ない。一方実際の臨床研修での「景品」の不公平さは運動会どころではなく、このことからも上級医師がなんらかの「優秀さ」を尺度にレジデントに褒美を与えているわけではないことが分かるはずだ。

かわいがられるレジデントとそうでないレジデントとを分けるものは、恐らくは研修のごく初期のわずかな立ち位置の違いだ。

臨床研修開始の初期にわずかだけ積極的であったレジデント、上級生から聞かれた質問の答えをたまたま知っていたレジデントは、次に何かイベントがあったときに声がかかる可能性が高くなる。1回でも場数を踏んだレジデントは、仕事の流れを知っているので上級生にとっては「便利な奴」になり、ますます多くの声がかかる。

こうしたことが何回か続くと、わずかであったはずの実力の差が徐々に本当の力の差になり、力のあるレジデントにはますます多くの声がかかり、そうでないレジデントに「彼、おとなしいよね」などと陰口が聞こえるようになる頃にはその差は挽回不可能なものになる。

こうした勝ち負けを、研修の最初からコントロールするのはきわめて難しい。

研修医に対する評価には、どうしてもランダムな要素が加わる。積極的な性格の研修医でも、上級生が声をかけたときに「あいついい奴だ」と思われるか、「うぜえ」と思われるかは声をかける医師によって全く違う。上級生が同じ質問をしても、聞いた人によって、想定していた回答は全く違っていたりする。

このあたりの話は、カオス理論でよく登場する「バタフライ効果」というものに似ている。ランダム性の強いルールでの競争は、初期の小さな変化に対しての影響が非常に大きくなり、結局誰も結末を予想できない。

ならば運を天に任せるしかないのか?それも人間としてどうかと思う。個人の努力が報われないなら、ルールを変えればよい。自由競争を離れ、運動会のような厳密に管理されたルールを導入してしまえば、少なくとも「親の総取り」的な不公平さは回避できる。

自分達が研修医だった頃、例によって「負け組み」を突っ走っていた自分は同級生に協定を持ちかけた。

「自分の科のローテーションが終わったら、自分のメモ帳を無条件でコピーして全員に配る」

自分の休暇中にすべてワープロ(死語)で打ち上げてみんなに配ることと引き換えにこの条件をのんでもらい、研修開始から6ヶ月たった頃、休暇を取った自分の手元には、自分だけでは手に入らなかった知識の山が出来上がっていた。

今にして思えば下らない、胃潰瘍の患者にはどんな食事をオーダーすべしとか、肺炎患者の採血は何日おきにすれば怒られないとか、そんな内容のものばかり。そんなものでも当時の自分には非常に貴重なものであったし、また自分はそんな知識すら持っておらず、また与えられなかった。

こうした資料をもとに、自分もやがて上級生からいろいろ教えてもらえるようになり、2年もするとそれなりに病院での立ち位置を見つけることができたが。

現在ワープロどころか学生時代からノートパソコンを持っているのは当たり前になり、コピーして配っていた資料などはネットで簡単に公開できる。情報の共有は現在の病んだ研修システムに風穴を開けるための強力な武器になる……はずなのだが、あまりそうしたサイトが見られないのはなぜなのだろう。

Wikiなどは、まさに情報の共有のためにあるようなアプリケーションなのだが…。

自分で書いているマニュアル類は、TeX型式から直接HTMLを出力しているため、Wikiとは相性が悪くてWiki化は出来ないでいる(LaTeX->Wikiのコンバーターがあればいいのだがまだ見つからない。)。FreeStyleWikiなどであればPDF出力機能もあり、研修医の情報共有に最適なツールになると思う。

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2005年2月 9日

シンプルなワーファリンの使いかた

Initiation of warfarin therapy in elderly medical inpatients: A safe and accurate regimen

平均85歳の高齢者に以下の方法でワーファリンを開始したところ、致命的な出血(別にワーファリンが効きすぎたわけではないらしい)を生じた1例をのぞいて大きな合併症を呈することなく、7日以内にワーファリンの維持量を決定することができたという。

Day午前10時にINR の採血午後6時にWarfarin(mg) を内服
Day 0Do not measure4
Day 1Do not measure4
Day 2Do not measure4
予想されるワーファリンの維持量(mg)
Day 3<1.35
1.3 ≤ INR < 1.54
1.5 ≤ INR < 1.73
1.7 ≤ INR < 1.92
1.9 ≤ INR < 2.51
INR ≥ 2.5INRが2.5以下になるまでワーファリンを中止し、以後1mgから再開

要は連日4mgを投与し、投与4日目のINRの値で以後のワーファリンの維持量がほぼ決まるというもの。

この値は73%の患者でほぼ正確な維持量となり、95%の患者で誤差1mg以内で維持量を予想しうるという。

ワーファリンの開始量が少なく、採血の回数も少ないために結構便利かもしれない。しばらくこれでやってみるか?。

2005年2月 8日

正しいことだけがすべてではない

他科と共同で患者さんを診療していると、時々出くわすのが「正しい」治療を振り回す先生である。

EBMという(ひどく誤解されている)概念が出回ってから余計にひどくなったが、「ガイドラインからは先生の処方は無意味です」「その検査のエビデンスは何ですか?」と、自分の意見を通したいとき、相手の意見をさえぎりたいときに2言目には「エビデンス」という忌まわしい単語が出てくる。

EBM大好きな先生方は、基本的には正しいことを言っている。彼らの言わんとすることは論文にもなっており、全くの見当違いを強弁しているのとはわけが違う。

しかし、その意見表明の仕方が拙劣に過ぎ、全く不要な喧嘩を引き起こしている。議論の目的は患者さんを治すことで、相手を打ち負かすことではないはずなのだが、そうした人たち相手に少々こちらの意見を述べようものなら「EBM!EBM!!」の狂信的な連呼が始まり、議論はなかなか落しどころまでたどり着けない。

彼らが患者さんに対して全面的に責任を負ってくれることは決してない。相談に乗ってもらったことを後悔する頃にはお互い疲れきっており、「2度と相談なんかするものか」という気分になる。

正しい」だけでは、意味がないのだ。正しいことを叫ぶだけなら、子どもでも出来る。自分の意見を相手に聞いてもらいたいならば、それなりのテクニックが必要だ。

何かその患者さんに対して相手が明らかに間違えた事をしている場合、自分にもっとたしかな知識があって、自分の意見を聞いてもらうことで患者さんがよくなりそうなとき、「先生、そんな腐った治療はさっさと止めて、○○使いませんか?大体その治療、なんかエビデンスあるんですか?」などとやったら(またそうするのは楽しいんだ‥)、相手は意地になって自分達の治療に固執するだろう。相談を受けることは二度となく、結局不利益をこうむるのは患者さんだ。

悪いのはエビデンスのない治療に固執した医師である。しかし、結果としてこの人の態度を改めさせることに失敗し、患者さんの治療が改善される機会を失わせた責任は、拙劣な叱りかたをした医師にある。

結果をださなければ評価されないのが社会というものだ。「正しい」知識を勉強している先生であっても、自分にかかわった患者さんの予後改善にその知識を生かせないのならば何の意味もない。

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