2009.02.18

内科におけるローブの法則

  1. 今していることが有効なときにはそのまま継続する
  2. 今していることが有効でないときには中止する
  3. 何をすべきか分からないときには何もしない
  4. 治療方針の決定を外科医に任せない

「内科診療シークレット」という本の第一章冒頭に書いてある。

作者の人は、間違いなく4番を言いたかったのだと思う。

2009.02.10

クッキングチャートの文法

“Cooking For Engineer” - BluePillの別宅 で紹介されていた、 料理の手順をチャート表示するやりかたが面白すぎる。

「NSチャート由来だろう」なんてコメントがついていたけれど、たしかによく似ている。

クッキングチャートは、フローチャートみたいな条件分岐を捨てた代わりに、縦軸に料理の材料、 横軸に時間をそれぞれ展開することに成功していて、料理の手順は、 材料と、時間と、それぞれの意味を併せ持った場所に展開することが出来て、 料理の手順を一望できる。

おおもとのサイト には、様々な料理の手順が公開されていて、 この表示方法にも、一種の文法みたいなものが設定されている。

2008-12-01 - BluePillの別宅 には、 このチャートの描きかたが記述されている。この方はエクセルか何かで書いているみたいだけれど、 大本のサイトは、HTML のテーブル環境で書いているみたい。LaTeX で同じことが出来そう。

で、材料を、特定のタイミングで、特定の手順で処理していくと、料理が出来上がる。

患者さんの治療というものは、本来まずは症状があって、怪しそうな場所から順番に調査して、 どこかのタイミングで、「病名」という正解を「発見」するものだから、そもそも料理みたいな 手順が出来たらおかしいんだけれど、実際問題、病名も、症状も、患者さんの体が取り得る状態も有限だから、 手順をまとめることは、不可能ではないはず。

具体的には、正しい病名の決定をあきらめて、「分からないけれど、当面死なない」状態を目指す。

  • 「ある症状を持った患者さん」というものが、料理でいうところの料理名になる
  • 料理の材料に相当するものは、「その症状から考えられる致命的な病名」に置き換える
  • 料理の手順だとか、料理方法に相当するものは、検査だとか、あるいは治療、 抗生剤を使うとか、CTスキャンを撮る、翌朝まで絶食を指示するとか、そういうものになる
  • 治療という行為は、だから「致命的な病名を、特定の手順で、特定のタイミングで処理していくと、 分からないけれど死なない状態にたどり着く」ための方法論と定義される

ある程度現実的に、総合医というものを考えるなら、こういう定義しないと厳しいと思う。

以下文法。

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これが基本的な書きかた。「材料名」と「分量」に、それぞれ「致命的な病名」と「特徴」が入る。

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一番上の行、「オーブンを温める」みたいな記述は、「点滴をとる」だとか、「心電図モニターをする」だとか、 あるいは「挿管の準備をしてもらう」「救急カートを用意する」みたいな手順が入る。鑑別診断をかける前に、 全ての患者さんに対してやっておくべきこと。

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ある程度複雑な表。「横書き」と、「縦にした横書き」を組み合わせたほうが見やすい気がする。「縦書き」は、 読むリズムがなんか違う気がする。LaTeX なら、rotatebox 環境で何とかなりそう。

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罫線の「欠け」は、「塩を振る」みたいな、このタイミングで、ちょっと考慮すべき、みたいな 感覚で使えばいいのかもしれない。

わかりやすいレシピ帖 - so what?@hatenaで紹介されていた、 古い料理の教科書のレイアウトは参考になる。。こういうの作りたい。

2009.02.07

自由診療のこと

  • 極めてまれなできごと
  • 相手の気が動転している

こんな条件がそろっている場所には、ビジネスチャンスが転がっている。

葬儀の記憶

父親が亡くなった夜、大学出入りの葬儀社の人たちが駆けつけてくれた。

いい人たちだった。父親のことを悼んでくれて、「全部任せてください」なんて。

800万円のコースを指定された。

どう考えたって、うちにそんな金額払えるわけがなかったんだけれど、 大学出入りの業者の人が、「このぐらい」なんて断言したところで、 それを拒否する根拠は、自分たちは持ってなかった。

みんな茫然自失していて、葬式の日はもちろん、目の前に迫っていたから、 「とりあえずちょっと、考えさせてください」なんて答えるのがやっとだった。

一晩考えた。

「やっぱり申しわけないのですが、うちでは800万円なんて払えません」なんて、 情けない思いで頭を下げたら、コースの内容は変えないで、 その場で150万円割引してくれた。

たくさんの人が来てくださって、親戚からも援助をいただいて、 収支がやっとぎりぎりになって胸をなでおろしたのは、もうずいぶん昔。

大黒柱がいなくなって、これから先の生活だって見えないときに、何でだか人生始まって以来の出費。 香典袋を集計する手が汗まみれになったのをよく覚えてる。

葬儀にだって「相場」があるのだろうけれど、当時も今も、相場なんて分からない。 「先生ならこれぐらいです」なんて、800万円という金額を示されたけれど、 これは果たして「ボられた」のか、それとももしかしたらいい業者さんに巡り会えて、 ボランティア同然の値段で、葬儀を仕切っていただけたのか。

自由診療という宝の山

癌の塞栓療法をする先生がいて、ホテルをワンフロアぶち抜いたクリニックで、 先生一人で朝から晩まで、診療に忙しいらしい。

テレビで「癌に単身で戦いを挑む医師」として、好意的に取り上げられていた。

癌が成長するには必ず栄養血管が必要になるから、塞栓療法を行って、 それを潰せば、癌は「小さく」なる。どんな癌でも小さくなるし、転移癌でも効果がある。

一時期いろんな施設で試みられたのだけれど、小さくはなっても、特定の癌をのぞいて、 延命効果が証明されなかったから、今では廃れてしまったやりかた。 保険も効かない。

番組では、誰もウソは言っていなかった。

  • その先生は「癌が小さくなる」とは言ったけれど、「直る」とは言っていなかった
  • 患者さんは「先生の治療は効果がすぐに実感できるんです」とインタビューに答えていた。 塞栓物質を注入した血管はその場で潰れるから、たしかに効果は目に見えた
  • 「治療途中で亡くなる方いらっしゃいます」と言っておられた。 相手にするのは末期の患者さんばっかりだったから、5年先にどうなるのか、誰も興味が無さそうだった
  • 治療がうまくいった人は癌が小さくなって、そのときは元気になる。 「先生に救っていただきました」なんて、インタビューで答えていた

延命優先の、今の西洋医学の範疇では、進行癌の患者さんにできることはほとんどない。 この先生が販売しているのは、「治癒」ではなくて、「腫瘍が小さくなった」という満足感 だから、そういう意味で、正しいビジネスだし、誰も損はしていないはず。

ものすごくまれな出来事で、当事者が動転している場所には、ビジネスチャンスが転がっている。

そもそもが「まれ」な出来事を集めるコストが馬鹿にならないから、 こんな商売ができる場所なんて実世界にはほとんどないんだけれど、 医療の業界には、たぶんこんな場所がたくさんある。

今の病院はどこも赤字だけれど、「延命させる」というルールを無視していいのなら、 大学だとか、地域の基幹病院だとか、黒字を生み出すやりかたは、たぶんいくつも考えられる。

宝の山はあちこちに転がっているのだけれど、今はルールがあるから、そこを掘れない。 宝の山を狙っている企業はたくさんあるから、業界が自由化したら、医療はたぶん、 別の何かに変貌するんだろう。

自由化の未来

医療が自由になると、業界は間違いなく面白くなる。

多様な需要と、それに応えるいろんなサービス。自由化した医療はメリットばっかり。

伝統的な、つまらないルールに縛られた医療は終わり。これからはもっと面白い場所で、 優秀な人たちが自由なビジネスを展開するようになる。

「健康な病人」なんて揶揄される、今の医療に不満を持っているような人たちには、 たぶん多様な選択枝が約束される。

ところが病気が悪くなって、期待がしぼんで「延命」に収斂すると、 患者さんはとたんに「つまらなく」なる。自由世界では、売るほうだって買い手を選ぶ。 つまらない人たちは、伝統的な、つまらない医療現場へと放り出されて、 自由な医療は、きっともっと面白い患者さんを探しはじめる。

魅力的になりたくて、美容形成外科医の門を叩く患者さんがいる。 美容形成外科医は「鼻が高くなる」ことは保証するだろうけれど、 その人が魅力的になるとか、その人が「いい顔」になるとか、そんな結果は保証できない。

自由世界では、価値が多様化する。

安かったものが「改良」されて高価になったり、「治る」「延びる」を期待して購入してみれば、 それは「小さくなる」とか、「下がる」だったり。

老人ビジネスとか健康ビジネス、自由診療とかアンチエイジングが栄える近未来、 医療というのはもはや、奇跡でも何でもなくて、単なるインフラ。

土台を維持する技術はもう十分成熟したから。今は次のステージ、目鼻の利く人が、 土台の上にどんなビルを建てるのか、あれこれ思案している段階。

他人様の商売をくさすつもりはないんだけれど、それでもやっぱり、 商売始めた以上、「つまらなくなったら放り出す」のだけは勘弁してほしいなと思う。

ビルの上にいると見えにくいかもしれないけれど、みんながビル建てようと殺到して、もうインフラはガタガタなんだから。

2009.02.06

自分の体験で話すと刺さる

誰かを説得するときには、「こうするのが正しい」をやってもうまくいかないけれど、 「僕は自分がかわいいからこうしているよ」みたいな言いかたをすると、伝わる印象を持っている。

教育したい人

同業者にも、愛想いい人と、愛想の対極みたいな外来対応をする人がいる。

愛想の対極に走る人も、別に患者さんが憎くてしょうがないとかじゃなくて、やっぱり「いい医者」 になりたいと願ってる。そういう人たちは、患者さんというものを、「教育」すべきものだと思っているから、 みんなその人たちなりのポリシーもって、厳しい外来をやっているみたい。

自分たちだって客商売だし、主治医に怒られるのが大好きな患者さんなんて、たぶん少ない。 愛想はないよりあったほうがよくて、少なくとも研修医のうちは、 「僕は将来厳しい外来をやる医者になるんだ」なんて考えてる奴は、たぶんいない。

研修期間を終えて、病院中から「先生」なんて呼ばれるのが当たり前になってくると、 人によっては、「教育」意識が芽生えてくる。こういうのを放置しておくと、 たいてい厳しい外来をやるようになって、「腕」がそれについてくればいいんだけれど、 そうでない医師は、たぶんどこかで地雷を踏んで、患者さんもろとも、人生を棒に振る。

価値観は伝わらない

身を守るためには、愛想はやっぱり大切だから、最初はたぶん、どこの病院も「愛想のいいサービスを」みたいな 教えかたをするはずなんだけれど、「それが正しい」みたいな価値は伝わりにくくて、 相も変わらず、愛想の対極みたいな外来対応する医師が、毎年一定数生産される。

こういうのは、厳しい外来をやる本人も、その頃には信念もって固まってるから、 「教育してあげるのが正しい医療」なんて思い込んでる若い人に、サービス業を説いても、 「こいつは汚れた欺瞞野郎だ」みたいなレッテル貼られて、無視される。

一番簡単なのは、フォーマットかけてから価値観上書きすることなんだろうけれど、 今の時代、クリーンインストールは怒られる。

「丁寧な応対した方がいいよ」なんて教えるときには、個人的にはだから、 すごく利己的な理由で、自分はこうしているよ、なんて言いかたをする。

「サービス」は、「患者さんのため」などではなくて、自分の身が世界で一番かわいいから、 かわいい自分の身を守りたいから、自分なりの結論として、こういう対応をして、 今のところ生き残っているよ、なんてやりかた。

「こう思っている自分」だけは否定できない

「患者さんは大切」という価値は、そう思う人と、もしかしたらそう思わない人がいる。

「これが患者さんのため」なんて価値は、もっと意見が割れる。

自分がかわいくない人は、たぶんうちの業界には、そもそも入ってこない。 だからこそ、「かわいい自分」という価値から話を始めると、研修医に「刺さる」気がする。

もしかしたらそんな態度は、密かに「こんな奴にだけはなりたくない」と思われてるのかもしれないけれど、 「教育」という営為は、受けたほうからのフィードバックが来ないから、どんなやりかたが正しいのか、全然見えない。

だからこういう考えかたもまた、あくまでも仮定でしかないのだけれど、 「自分はこういう立場で、こう考えて、こう振る舞っている」という言葉は、 その人の中で真実だけれど、「こうするのが正しい」を誰かに強要するのは、 なんというか、言葉のどこにも真実がない。

内的な真実が、ほかの誰かにとって再現可能であるかどうかは分からないけれど、 可能性としての真実が宿ってるぶん、「こうあるべき」を強要するよりも、 説得可能性が高いと思う。

「物言わぬ上司」の力

初めて離島に飛ばされた昔。何でもできる気分でいたのに、「普通の肺炎」で 外来に来た患者さんと対峙して、薬を処方できなくなった。

「それができる」ことと、「それを決められる」こととの断絶について。

いつも上司がいた

当時たしか3年目ぐらいだったから、その頃にはもちろん、 肺炎の人なんて100人以上診療していたはずなんだけれど、本土にはいつも上司がいた。

研修の後半は、基本的には自分で指示を出していたのに、島に一人で放り出されて、手が固まった。 今までは要するに、「上司が黙ってみてる」というのが、強力な承認装置として働いていて、 それがなくなって島に飛ばされて、目の前にいる、一見典型的な肺炎の患者さんが、 本当に「典型」と認識してもいいのかどうか、確信できなくなった。

研修医はたぶん、「正しさ」を、「上司に怒られない」ということを通じて理解する。

だからいきなり一人で放り出されたそのときは、たぶん「正しいこと」がなんなのか、 いくら教科書に「正しい」と書いてあっても、確信が持てなくなってしまう。

一人ぼっちで決断して、後ろ盾なしで経過を見て、やっぱり大丈夫と納得する、 これを繰り返さない限り、「ほどほど」だとか、「いつもの」みたいな、 自らを安心させるような感覚は、身につかない。

場を作ること

外科医はそういうものを、「場を作る」なんて表現する。

患者さん見て、病気想像して、切開線決めて、進入ルートを決める。全部考えて決める。 研修医の頃は、それが「当たり前」と思ってるから、「場を作れる」ことがどれだけすごいことなのか、想像が及ばない。

虫垂炎を切るだけなら、上司の指示があれば、1年目の研修医でもできる。 上司が黙ってみててくれるなら、3年ぐらいの経験を積めば、診断から治療まで、 一応一人でこなせるようになる。

ところが新しい病院に一人で飛ばされて、じゃあ虫垂炎の患者さんが来て、 その人を治癒に導くためには、やっぱり10年たってもまだ、経験が足りない。

「今自分が遭遇しているこの状況は、典型的なやりかたで対処可能である」と認識するためには、 本当は、あらゆる例外ケースを体験しないといけない。

それはもちろん無理だから、やるべきは、「これは典型だろう」という先入観を形成して、 結果として大丈夫たった、という、不完全な成功体験を積むことなんだけれど、 それにしたって時間がかかる。

「虫垂炎は素人でも切れる」だなんて、たぶん3年目ぐらいまで、研修医はそんなことを考える。

「最低でも回盲部切除ができるようになっておかないと、虫垂炎が切れるとは言えない」だなんて、 7年目ぐらいになって、いくつかの病院で経験を積んだ外科医は、ある日いきなりハードルを上げる。

できることと決められること

今の研修制度は、恐らくはあらゆる決断機会を奪われたままに進められて、 一定年次を超えたとたん、「君もう一人前だから」なんて、ほかの病院に放り出される。 昔はそれでも5年ぐらいあった研修期間は、来年からはもしかしたら、1年間に短縮される。

研修医はたぶん、「黙っている上司」の存在に気付かないまま、いきなり独り立ちを強いられる。 もちろん体は動かないだろうし、だから臨床続けられなくて、内科外科から人がいなくなってるんだろう。

「それができる」ことと、「それを決断できる」こととの間には、たぶん7年目ぐらいを境に、 必要な経験年次の断絶がある。「できる」ための経験はそんなにいらないけれど、 「決める」ための必要経験は莫大で、量を積まないと、決断なんてできない。

「技術の継承」が断絶するもっと早いタイミングで、たぶん「決断の継承」が断絶して、 内科外科は、実質死に体になると思う。

あと7年ぐらい先の話。

2008.04.02

気道確保のやりかた

近頃読んだ、気管内挿管しやすい姿勢の作りかたに関する文章が面白かったので、 表ページの気道確保と初期のCPR という文章を一部改定しました。

最近多用している挿管ポジションの作りかたと、当院で使っている 「ガムエラスティックチューブ」という挿管補助に使用する道具について。

どちらのやりかたも、ここ2ヶ月ぐらい試していますが、個人的にはいいかんじです。

訂正すべき箇所などありましたらご指摘いただければ幸いです。

4月3日追記:コメント欄で間違いを指摘していただいた部分を訂正しました。

2008.04.01

latex2html の設定

LaTeX の設定でドツボに嵌った時のメモ。

TeX は、インストーラーを発表してくださった方がいて、 今回の導入は楽勝…なんて思ってたら、LaTeX2html の導入で 完全につまづいた。

「これ」という原因は、正直よく分からないんだけれど、 「こうしたら動いた」という記録。

反省点

やっぱりTeX は、 /usr/local/ に展開しないとドツボに嵌る。 素人がうかつにディレクトリ変更しようなんて考えると、ろくなことにならない。

TeX インストーラーは、TeX のファイルを C:/tex/ というフォルダに 展開するように設定されている。

市販されているLaTeX の教科書は、どれもUNIX の伝統を引きずってるのか、 ファイルの展開先を C:/usr/local/ に展開することを想定している。

フォルダの開窓が無駄に深くなるのが嫌だったので、インストーラーの デフォルト設定でインストールを行ったのだけれど、PDF 作成までは 問題なく動くのに、html 作成になると全然駄目。

いくつかのサイトで、「悪いこと言わないから C:/usr/local/ にしとけ」 みたいな記載があって、やっぱりそういうもんだろうな、と反省した。

TeX のインストール

TexXインストーラセットアップマニュアル を利用させていただいて、インストールフォルダ名を C:/usr/local/ に変更する。ダウンロードするファイルは全部。 dviout、GhostScript、GSView もそれぞれダウンロード。最新版で大丈夫。

GhostScript、GSView をインストールするときにはインストールフォルダを 尋ねられるので、両方ともC ドライブ直下にしておく。ここをProgram Files みたいな 空白を挟んだフォルダ名にしてしまうと、やっぱりトラブルになるらしい。

WinShell のインストール

TeX 用のエディタは、結局WinShell に。もっと優れたものがあるみたいだけれど、 使っている人が一番多くて、情報が検索できるので楽。

WinShell のダウンロード&インストール&各種設定 に従って、それぞれのTeX プログラムの設定を行うだけで、 とりあえずTeX ソースを処理->dvi ファイル作成->PDF 変換->PDF 閲覧までは 問題なくいける。

奥村先生の設定 とは微妙に違うけれど、どちらに従っても大丈夫。今回TeX を何度か入れなおす 羽目になったから、どちらも試したけれど同じように動いた。

LaTeX2html の設定

何回入れてもめったに動作しないソフト。。

Windows にLaTeX2html を導入する方法は、北海道教育大学の 阿部先生のページが標準みたいになっていて、このページもまた、 TeX のインストール先を /usr/local/ にすることを前提にしている。

ちゃんと分かっている人なら、このあたりアレンジしても大丈夫なんだろうけれど、 今回は見事にドツボった。

TeX 一式を /usr/local/ に展開したあと、 l2h に 書かれているとおりにファイルをダウンロード、LaTeX2html のインストールを 行い、やっとうまく…いかなかった。

阿部先生のデフォルト設定だと、画像はPNG で保存する設定になっているのだけれど、 何度やっても pnmtopng.exe というプログラムのエラーが出て止まってしまう。

2回入れなおしてあきらめて、PNG 画像の代わりにGIF 画像を用いるように 設定を変えて、やっと動くようになった。

東北大学大学の岩熊先生のページで、そのあたりの設定が 公開されている。LaTeX2HTML に従い、l2h2002-2w32137patched 内にある prefs.pm を書き換える。

具体的には 228行目を $prefs’GIF’ = 1; 232行目を $prefs’PNG’ = 0; とすることで、 デフォルトでGIF 画像が選択されるようになる。

このあとコマンドプロンプトを開き、 c:\tmp\l2h2002-2w32137patched から config PREFIX+c:\usr\local\latex2html[改行]を実行、さらに install [改行] でインストールが完了する。

やっとエラー無く動いた。

WinShell との統合

これもまたコマンドライン叩くの面倒なので、WinShell でクリック一発作業ができるよう に設定を試みた。

阿部先生のパッケージ内には、l2h.bat というバッジファイルが作られているので、 これをWinShell に組み込む。

WinShellの[オプション]->[ユーザー指定プログラム]で、 今回は Tool 2 を LaTeX2html にした。 プログラム名 html 、exeファイル名 C:\l2h\tool\l2h.bat、コマンドライン “%s.tex” として、[オプション]->[表示]->[ユーザー設定] からユーザー指定プログラム を呼び出して、タスクバーに html というボタンを作成できる。

あとはボタンクリックでLaTeX2html が起動するので、すべての作業をWinShell 上で行うことができる。

デフォルトの設定だと、見栄えが好みと違うので、あとは LaTeX2HTMLのオプション に従い、l2h.bat を書き換えたり、dot.latex2html-init ファイルを 書き換えて対応する。

スタイルファイル

とりあえず昔作ったTeX の文章をPDF 変換して、html として公開可能なところまでは、 すべてWinShell 上でできるようになった。

それでもまだ、200ページを超えるTeX 文章をhtml変換しようとすると止まってしまう。 これは以前から同じ症状で、パソコンのスペックが足りないためかとも思ったのだけれど、 やっぱりうまくいかない。

同じ文章を半分に分割すれば、2つのhtml ファイルを作ることは可能だから、 ソースに致命的なエラーがあるようにも見えない。

何かまずいことやってるのか、LaTeX2html の限界なのか。誰か教えてください。。

2008.03.30

技術の欺瞞 広告の欺瞞

技術や企画、営業や広告、それぞれの職種には、たぶんそれぞれ持つべき 欺瞞のスタイルというものがある。 欺瞞を捨てた、全方向的な「よさ」を追求した先には、魅力的なプロダクトは生まれない。

「いい」製品と、魅力的な製品というものは異なっていて、商品の魅力というのは、 たぶん技術職と営業職の、欺瞞ベクトルの「ずれ」が作り出す。

Thinkpad を買った

新しいThinkPad を買った。自分みたいな素人には「速い」ということしか分からないし、 今使ってるぶんには何の不満も無いけれど、キーボードの印象がずいぶん変わった。

前使ってたA30 というモデルは、IBM 時代の製品。IBM が中国に買収されて、 「ThinkPad はもう終わりだ」とか言われる前、ThinkPad といえば質感の高い高級品という ブランドイメージがまだ残ってた頃。ノートパソコンはまだまだ高級品で、当時30万円近くした。

A30 は重くて固くて、キーボードを押した感覚も、しっかりしていながら粘るような、 たしかに自分は高級な製品使ってるんだな、と実感できるような感触。気に入ってたけれど、 打ち続けると結構疲れた。

今度買ったT61 は、もう4 世代ぐらい先に進んだ製品で、 薄いし軽いし、なんとなく「ありがたみ」に欠ける印象。

筐体の造りなんかはしっかりしているし、キーボードのしっかり感なんかは むしろ向上しているのだけれど、 キーを押した感触が何だかパシャパシャしていて、安いというか、ありがたみが薄いというか。

昔のThinkPad のほうが、キーを押したときの感触が滑らかで、わずかに重たい感覚。 今のキーボードはカサカサした、乾いた感触で、キーを押し下げる圧力が軽い。

「打っていて疲れない」という、キーボード本来の性能は、たぶん新型のほうが優れている気がする。 新しいThinkPad のキーボードは、軽く打てるししっかりしているし、メーカーの人達が 「改良しました」なんて言うとおり、道具としての使いやすさは、こちらのほうが上なんだろう。

新型は打ちやすくなったその代わり、何となく、自慢できる方向とは 乖離してしまった印象。道具として使いやすい、打ちやすいキーボードと、 誰か別の人に自慢して、その人から「これいいね」と言われるキーボードとは、 たぶん違うんだと思う。

新しいThinkPad は、だから道具としては十分満足して使っているんだけれど、 誰かに自慢したいとか、ものすごくいい物を買った充実感とか、そんなものは案外薄い。

スカイラインGTR のこと

日産が作ったスーパーカー「スカイラインGTR」を販売する人達は、あれを「いい車でしょう?」なんて 紹介してはいけないんだと思う。

今度のGTR は、開発した人のインタビューを読んでも「最高の車を目指しました」みたいなコメントが 並んで、それを売る人達もまた「いい車でしょう?」なんて。たしかにすごい性能の車なんだろうけれど、 何のゆがみも内包しない「よさ」という価値には、何だか魅力を感じない。

R32 型GTR が販売された頃の本を読むと、GTR を開発した人達は、 とにかく「レースに勝つ車」を作ろうとしていた印象。 誰も「よさ」なんか目指してなくて、当時のグループA 規約の範囲内で、 ほとんど反則に近いやりかたで、「勝つ」ことだけを想定していた。

あれを販売する人達も、想定外の化け物を送られて、 案外困ったのだと思う。「いい車でしょう?」なんて無批判に言い切るには、 当時のスカイラインは何だか不気味な印象。「うちの技術屋がとんでもない怪物作ってしまいまして…」 なんて売りかたするしかないような。

結果として、R32 は大成功したけれど、あとに続いたスカイラインは、 R32 よりも性能はよかったにもかかわらず、先代を越える魅力で語られらなった。 技術職と営業職の「ずれ」というものが、R32の魅力を生み出していたのだと思う。

欺瞞が魅力を作り出す

魅力というのはたぶん、製品の「よさ」が事後的に作り出すのではなくて、 製品を開発した人と、それを販売する人とが持つ欺瞞のベクトルがずれた場所に発生する。

思ったこと素直に伝える、欺瞞のないメッセージには力が無い。 訴える力が強い人達は、たぶんそれぞれ独自に作り出した欺瞞のスタイルを持っていて、 ある程度意識的に、それを運用している。

そもそも欺瞞が無かったり、技術者と営業との欺瞞ベクトルが一致してしまうと、 そのプロダクトは「つまらなく」なる。 それがたとえ「いい製品」であったとしても、つまらない製品は、自慢できない。

技術者と営業職と、大雑把にお仕事を分けると、 それぞれの職種に要求される「欺瞞の使いこなしかた」は 異なっていて、その異なりかたも、メーカーとか、人種で共有され、 引き継がれるべき文化なんだと思う。

日本人なら、技術者は常に「完成度はまだ中途で、まだ改良の余地がある」と言わなきゃいけないし、 それを販売する人達は、「うちの技術馬鹿どもが暴走しまして…」と顧客に謝らないといけない。 たとえどんなにいい製品でも、日本人は「いい製品でしょう? 」なんて言っちゃいけない。

アメリカの技術者なんかは、むしろ何作っても「これが自分の考える最高の製品だ」なんて 胸張るし、それを売る人達は、額に青筋浮かべながら、 苦虫噛み潰した笑顔で「いい車でしょう ? 」と言わなきゃいけない。

シェルビー・マスタングとか、ダッジ・チャージャーとか、 何だかもう、乗るだけで頭悪くなりそうで、ものすごく魅力的。技術者が全方向的な馬鹿車作って、 営業の人が、それを何の衒いもなく「すばらしい車ができました」と言い切るのは、 アメリカ車にだけ許された欺瞞のスタイル。

性能は、もちろんスカイラインGTR のほうが上なんだろうけれど、 こんなアメリカンスポーツが好きな人達にとっては、馬鹿みたいな排気量であったり、 燃費の悪さとか、音のうるささとかそんなものこそが魅力。たぶん10年たっても同じ車を乗り回して、 やっぱり「これ馬鹿でしょう?」なんて、みんなに自慢してそう。 限定生産品だから手が出ないけれど、乗れるものならものすごく欲しい。

トヨタのレクサスなんかは、やっぱりこのへん間違ってるんだと思う。

トヨタの技術者が全力注ぎ込んでるのは、やっぱりベースになった乗用車のほうであって、 レクサスで売ってるのは、それをきれいに仕上げて値段を上げた車。

「限られた予算に機能を詰め込む」のはまさに技術で、それは日本のお家芸だけれど、 「浮かせたお金で「きれい」を乗っける」のは、何となく技術屋としてかっこよく見えなくて、 中の人達もたぶん、「暴走する技術者」としてでなく、 「企画の人に言われるがままに仕事しました」というイメージ。

レクサスの販売店は、たしかに丁寧。非の打ち所の無いいい車を並べて、「いい車でしょう ?」なんて。 「いい」物を「いい」と表現することは、もちろん全然間違いではないんだけれど、 欺瞞の無い言葉は響かない。予定通りに作った「いい」車というのは、 「既製品を薄めて膨らませて、200 万円上乗せしてみました」なんて思惑が透けて、 なんだかつまらない。

トヨタ自動車には、電気レクサスのエンジンをヴィッツのボディに押し込んだ 「リアルチョロ Q」開発してほしい。そんな動く危険物を力ずくで販売して、 「いい車でしょう?」 なんてやってくれたら、もう一生ついていくから。

2008.03.29

正しい技術は驚きを生まない

ウルルン滞在記だったか、レポーターが未開の地を訪れるテレビ番組で、 ジャングルで昔ながらの狩猟生活をする人たちが取材されてた。 族長の住居には電話線が引かれていて、族長は電子メールで「注文」を受けていた。

おそらく「通信」というのは、かなり昔から人類が共通に持っていた発想であって、 それが文字や狼煙みたいなものであっても、インターネットみたいな ものであっても、それが「通信」という考えかたの延長線上に乗っている限り、 適応するのは案外簡単なのかもしれない。

番組の中では、族長は電子メールを使っていたけれど、 その人がたとえばAmazon の通信販売を利用できたりするのかどうか、 ぜひとも見てみたかった。

電子メールによる情報交換と、ネット世界での買い物。それを支える技術は、 どちらも同じような発達を遂げたものだけれど、発想は別物。 メールは通信の延長上にあるけれど、ネット取引は「顔を見たことがない相手を信用する」という、 たぶん未開民族の人たちが経験したことがない振る舞いを前提にしていて、 族長は戸惑うような気がする。

便利な技術と驚く政治

士郎正宗が描く未来世界は、ところどころで的を外しているにもかかわらず、 それでもなお、すごくリアルに見える。

あれはたぶん、登場人物がみんな、そこにある未来技術を「当たり前」のものとして生活している世界を 描写しているからなんだと思う。小説で未来世界が描かれるときに、発達した技術の「すごさ」が 強調されると、なんだか昔のSF 映画みたいな、陳腐な印象になってしまう。

すごい技術のすごさというのは、その世界にいない、読者の目線からみたすごさなのであって 未来世界に住む人が、そんな技術を見てすごいと感じたり、「すごい技術」なんて表現するのは、 どこかおかしい。

youtube とかustream みたいな動画配信技術は、 ちょっと前までは夢だった。手塚治虫の未来漫画では、テレビ電話が欠かせないインフラとして 登場してたし、まだ光回線がそれほど普及していなかった頃、NTT が光のデモを行うときには、 「インターネットで動画が見られます」をやるのがお約束だった。

技術は進歩して、動画を簡単に配信できる youtube が登場したけれど、 夢だったはずの未来技術は、すぐに当たり前のものになった。 たぶん誰もが「便利だな」とは思ったけれど、 「すごい時代になったものだ」とか、「未来はここにある」とか、 そんな感想はもてなかった気がする。

あれを見て感激した人というのは、むしろインターネットの技術を相当に深く理解している人であって、 ただのユーザーである自分達は、そのすごさが想像の延長線上にあった時点で、 それ以上驚くことができなかった。

これから先、インターネットがもっと進歩して、スタートレックみたいな 等身大 3D 画像を送れるようになってもなお、 一般ユーザーは、「ああそうか」としか思えない気がする。 そこにあるのは「便利な超技術」ではあるけれど、人々に驚きをもたらして、 生活を一変させるような、そんなものとはどこか違う。

驚きはむしろ、社会制度が作り出す。

「明日から銃の所持を解禁します」なんて宣言を政府が出したら、 世界は一変すると思うし、日本中の「普通の人」が、「すごい時代になったものだ」と驚く。 銃なんて、もう100年も昔から変わらない技術なのに。

新しい技術なんかを作らなくても、決まりごとを変更すれば驚きが生まれるし、 今あるものの見かたを少し変えるだけで、社会は簡単にひっくり返る。

救急ネットワークのこと

現場に着いた救急車が、その場所から最適な施設を探せる病院検索システム。

システムを回すために大切なのは、「すべての病院がネットワークに前向きに参加すること」であって、 ネットワークの信頼性とか匿名性とか、技術的な側面は、システムの成否を左右しないし、 技術の進歩それ自体は、成功を生む力にはなり得ない。

秘匿性とか信頼性が問題になっているその時点で、そのシステムの運用には、 社会制度上の問題が内包されている。制度の問題を技術で解決するのは困難で、 莫大なコストがかかる。

病院を検索するだけならば、ネットワークには、公開情報を流すだけでも 十分にシステムを回せるはず。

その日に当直する医師の名前とか、その人の専門領域なんかは、 病院に行けば公開されているものだし、患者さんの氏名とか住所、 現在の病状みたいな個人情報は、「現場の救急隊を信用する」という 考えかたがみんなに共有されれば、それをネットワークに流す必要が 発生しない。

病院が首尾よく見つかったところで、実際に搬送するときには、 お互い必ず電話で確認するから、たとえネットワークが腐ったところで、 実はあんまり困らない。これもまた、「腐ったら昔ながらのやりかたをする」 という振る舞いを、みんなで共有すればいいだけだから。

情報は自由になりたがるし、弱いところを持ったネットワークは、 必ずそこから壊れてしまう。そんな本能みたいなものを押さえつけるにはお金がかかるし、 一生懸命技術を開発しても、やっぱりうまく行かない。

完璧に隠すやりかたを考えるよりも、隠さないですむ方法論考えるとか、 信頼性を高めるよりも、信頼性を必要としないやりかた、技術を進歩させるやりかたよりも、 政治的な解決目指したほうが正解に近いケースというのは、たぶん多い。

技術を極めて、今までの習慣を変えないやりかたするよりも、技術が成し遂げてきたことを 放棄するような振舞いかたを考え出して、それをみんなで共有するやりかたをしたほうが、 少なくとも安価にすむし、技術が守ろうとしてきた何かが突破される危険も減る。

政治力を振るえる立場にいる人達こそは、やっぱり政治的な解決のエレガントさ、 強力さを、もっと信じるべきなんだと思う。

2008.03.27

Thinkpad 覚え書き

Thinkpad A30 という、7年来使ってきたノートパソコンを買い換えた。 T61 という新型。

初期設定のメモ書き。

Windows XP の設定

Windows XP は、買ったままで使うとなんだか軽快感に乏しいので、余計な機能を止めた。

WindowsXPの設定方法を公開しているサイトを参考にして、 余計な機能をOFF にしたり、「マイドキュメント」のフォルダを、ディレクトリ直下に移動したり。

代表的な設定ツール窓の手、 もう少し細かい設定を行ってくれるtuneapp をダウンロードして、それぞれなんとなく軽くなるように設定した。

クリックひとつでできる設定ばかりで、レジストリを編集するとか、 怖いことは一切やっていないけれど、ずいぶん軽快に動くようになる。

日本語入力の設定

標準で入ってくるのはIME 2002。巷ではATOK 2008の評判がすごくいいみたいだけれど、 昔からMS-IME を使っているので、しばらくこのまま。

標準のままだと医学用語が全滅する。幸いにして、さまざまな医学辞書を公開している方がいるので、 それを使わせてもらう。どれがいいのかは分からないけれど、 たとえばIME 医学辞書なんかは、 辞書のインストールまですべて行ってくれるので便利。

これで「気管内挿管」とか「胸膜癒着術」みたいな単語が一発変換できるようになる。

Word を使わなければ関係ないんだけれど、XP になってからのIME には、 「ナチュラルインプット」というよく分からない機能がついてくる。挙動が不審なのと、 IME 同士で変換を引き継いでくれないのか、意図した入力ができないことがあったので、 この機能は使えないほうがありがたい。

IME 日本語入力システムの使い方、を参考に、 IME の[詳細なテキストサービスを使用しない]オプションをOnにする。 (追記:これをやったらtwit で日本語入力ができなくなった。理由がわからないけれど、今は元に戻している。)

これで大体、Windows2000の頃と同じような感覚で入力ができる。

キーボード配列

初めてパソコンを買った頃、どうしてもブラインドタッチができなくて、キーボードを見ながら キーを打つ癖が抜けなかった。いつまでもこれではしょうがないので、 キーボードを OEA 配列に変更して、 キーを見たって何を打ってるのかわからない状態を2 週間も続けたら、やっとブラインドタッチを覚えられた。

その反動で、いまだに通常のQWERTY キーボードが打てなかったりする。

キーマップを変更するソフトはたくさん発表されているけれど、やっぱり 窓使いの憂鬱 が一番使いやすい。 設定が難しいソフトだけれど、ユーザーが多くて、いろんなユーザーが 独自のキーマップを発表していて、他人様の成果物をもらいやすいのが最大のメリット。

自分でキーマップを書かなくても、「窓使いの憂鬱」「OEA 配列」で検索をかければ、 公開されている設定が見つかる。テキストファイル形式だから、導入するのは簡単で、 事実上あらゆるキーに役割を割り振れるので、慣れるととても便利。

LaTeX の導入

理系のワープロ「LaTeX」も、今ではインストーラーが公開されて、導入するのが本当に楽になった。

「TeX インストーラ3 」セットアップマニュアルに やり方が公開されているので、このとおりに従えば大丈夫。

その代わり、無数のソフトがダウンロードされて、 インストールが完了するまで3 時間近くかかかるので注意。 途中で「導入に失敗しました」という表示が出て止まっても、インストーラーをもう一度起動しなおすと、 足りないファイルだけ再度取りに行ってくれる。

LaTeX 一式、ゴーストスクリプト、DVIOUT を各々入れて、あとは入力ソフト。

昔はAkasha を使っていたけれど、いい機会だから何か別のもの探してみる。

別途LaTeX2HTML を導入しないといけないんだけれど、まだやっていない。

以前の環境では、l2hのとおりにやってうまく行ったけれど、 まともに動かせるようになるまですごく大変。

その他ソフト

  • Sleipnir:ブラウザ。インターネットエクスプローラーの 代わり。たくさんの窓を開かなくてすむので便利
  • JTrim:画像変換ソフト。色を補正したり、切り取ったりサイズ変えたり。 とにかく動作が速いので、昔からこればっかり。学会発表に使う資料作るぐらいなら、PhotoShop とか必要ない
  • Lhaplus:解凍ソフト。DLL ダウンロードする手間要らないので便利。.rar の ファイルを解凍するときだけ、時々うまく行かなくなる
  • Open Office:新しいOffice をまだ買っていないので、しばらくこのまま。 Office 2000 を高機能にしたイメージ。普通に使えそうなら、買わないでこのまま使うかも
  • Twit:Twitter 用の日本語クライアント。 これを「スタートアップ」フォルダに入れておいて、一日中立ち上げっぱなしにしている
  • サクラエディタ:エディタ。人によって好みはさまざまだろうけれど、自分は昔からこればっかり
  • ZakuCopy:クリップボード拡張。この文章みたいなリンク集が一瞬で作れるから本当に便利
  • avast! 4 Home Edition:無償で使えるアンチウィルスソフト。 今まで使っていたのはAntiVirという、やはり無償公開されているアンチウィルスソフトだったけれど、 こちらのほうがなんとなく軽快そうな印象

速いパソコンのこと

そもそものきっかけはニコニコ動画。最近になって高画質化して、 それと同時にパソコンの負荷が大きくなって、今まで使っていたノートでは、 まともな再生ができなくなってしまった。

速いノートパソコンに買い換えて、ニコ動は快適になったし、 今までなら立ち上げることすらできなかった、重たいメガデモなんかがヌルヌル動く。

普段ゲームをすることはないから、パソコンの速さがもたらす恩恵は、 せいぜい動画再生ぐらいだと思っていたけれど、単にインターネットを覗いてるだけでも、 パソコンの性能は地味に利いてくる。

普段使っているのはタブブラウザ。「お気に入り」をフォルダごとに分けておいて、 一度に20ぐらいの窓をいっぺんに開いて、片端から見ていくやりかた。 今まで使ってたパソコンだと、これをやった後の待ち時間がかかったり、 タブを切り替えた後、ページが表示されるまでに、ずいぶん時間がかかったり。

今のページはどこも重たくて、それでも一つ一つのページを順番に見ているぶんには、 古いパソコンでも困らないけれど、たくさんのページを一度に開くときには、 回線の速さよりも、むしろパソコン自体の性能が律速段階になる印象。

発表の準備に Power Point 使ってたときには全然不自由してなかったのだけれど、 遊びの文章、たくさん読んで、ちょっと調べて書き飛ばす、こんな文章を書くときには、 コンピューターパワーは、あればあるだけ快適だった。

これでもっとたくさんの文章を読めるはず。

2008.03.21

夢は描いた瞬間から陳腐化する

ニュース番組で、岐阜大学の救急医療情報共有支援システム「GEMSIS」が特集されていた。

「サンダーバード」に発想を得たプロジェクトで、数年がかりで取り組んでいて、 これが完成した暁には、救急医療の問題解決に役立つらしい。

開発するのに数千万円かかってて、完成にこぎつけるまであと5000万円、 数年後の普及を目指してて、各病院に設備を入れるのに、30億円かかるんだという。

報道されてたのと同じことやればいいなら、今すぐにでも無料でできるなと思った。

報道されてた機能

GEMSIS のネット情報は少なくて、全容はどうなっているのか分からない。 単なる情報共有のシステムなのか、それとも救急医のモチベーションを維持するための、 政治タームのお話まで含んでるのか。

GEMSIS の機能はこんなかんじ。報道されてたぶんと、ネットで検索した部分。

  • その日に救急業務が可能な医師は、IC カードを通じて、システムに自分を登録する
  • すべての医師について、得意分野が記入されていて、救急隊はそれを検索できる
  • マップ情報とも連動していて、救急車からマップを検索して、一番近い施設を探せる
  • どうも音声認識機能も搭載しているらしい
  • 人工知能でな何かやることも想定しているらしい

GEMSIS が目指しているのは、要するに救急隊が現場に到着したその時点で、 近隣施設の空きベッド、そこに今いる医師の専門領域が一覧できて、 搬送先を決定できるようなシステム。音声認識とかAI で何をしたいのかが 今一つ謎なんだけれど、大筋は外してないと思う。

これだけの機能を統合するのに要するお金が5000万円。 ソフトと端末を近隣施設に配布するのに 要するお金が、30億円。

今あるネットサービス組み合わせれば、同じ機能を無料で作れる。

つくりかた

たぶん「はてなダイアリー」を使うだけで実現できる。

  1. 県内のすべての病院に「はてなダイアリー」の無料ユーザーになってもらう
  2. 各病院は毎日、その日に勤務する医師と、その人の専門領域を日記に書く
  3. 「狭心症」とか「胃癌」とか、医学用語は県内で共通のものを使用するよう、取り決めておく
  4. 「日記」の題名は、「○○県 ○○病院 GEMSIS」として、日付のあとには「内科○○医師 胃癌、異潰瘍…」なんて文字が並ぶ
  5. はてなダイアリーにはキーワード機能がある。患者さんの病名を「GEMSIS」という単語と一緒にキーワード検索すると、その日にその病名を記載した病院が、検索ワードリストに並ぶ
  6. 「はてな」はマップ機能とも連動している。救急車が今居る場所を住所で打ち込めば、近隣施設の検索は簡単

検索機能とマップ機能は、だいたいどこのサービスも、似たようなものを提供してるから、 たぶん「はてな」にこだわらなくても大丈夫。

すべて自前でやるなら、各病院がWeblog を同じ型式で書いて、 あとはそれを「Google blog 検索」で日付指定検索すればいい。今のGoogle は、 新しいエントリーを上げて15秒もすれば登録されるから、それで十分なはず。 GEMSIS なんて言葉は珍しい。たとえば「GEMESIS 岐阜県 胃潰瘍」なんて言葉で、 日付を指定して検索をかければ、その日に胃潰瘍を受け入れ可能な病院を リストアップすることができる。

スケールを全国区にしても、題名に「○○県」を入れておけば、 地域限定で検索をかけるのは簡単。Google マップに病院を登録するには 広告料がかかるだろうけれど、毎年それを支払っても、 たぶん30億円には届かない。

何を利用するにしても、ごく簡単な書きかたを取り決めるだけで、システムそれ自体は 今からでも稼働できる。お金はたぶんかからないし、 かけたとしても、たぶん年間数百万円オーダーでいける。 国内の日記サービスは、それでもときどき落ちるけれど、 google 先生は「全人類」相手にするサービスだから丈夫。 国内の救急施設2000ぐらい、いきなり増えても誤差範囲。

音声認識とAI 機能が、何をするものなのかがよく分からないけれど、 「救急医療情報共有支援システム」に相当する機能は、いずれにしても安価に作れる。 Web サービスは無料な分、「落ちた」ときに文句は言えないけれど、無料なんだから、 冗長性はいくらだって重ねられる。はてなはよく止まったけれど、はてなとgoogle が 同時に止まったことはないはず。

偉い人たちは、何か新しいことやるときに、 システム全部スクラッチする考えかたやめたほうがいいと思う。

「良心回避」の仕組み

妄想の域を出ないけれど、あのシステムはたぶん、 当直医が嘘を書きはじめた時点で、システムごと腐って終わる。

あのシステムで行くと、得意分野を「なし」と書いたり、 「末梢肺野病変診断における細径気管支鏡」とか、ものすごく狭い専門領域を書いてしまうと、 その医師はシステムから認識されなくなる。

救急輪番制は、「その日に空きベッドを確保する」ことにお金が発生するシステムだから、 死ぬほど働いても、寝当直しても、病院が受け取るお金は変わらない。

あのシステムはだから、「参加する医師全てが良心的で正直」であることを 前提にしてる時点で、なんだか無理あるなと思う。

道徳と良心を説いて、医師を正直にすることは難しいけれど、 「医師が正直に振舞わざるを得ない」システムなら、たぶん実装できる。

「医師には正直者がいない」ということを前提にシステム組むなら、 「得意分野」を入力するのは患者さんであるべき。

おなかが痛いときによく診てくれたとか、頭痛の原因突き止めてくれたとか、 「いい医師」を演じた医師の振舞いは、患者さんからシステム側に「密告」されて、 「いい医師」の専門分野が勝手に広がっていくようなシステム。 それを防ぐためには、その医師が「悪い医師」を演じる必要があるけれど、 それをやると今度は人気が落ちて、収入が減ってしまう。

GEMSIS の先生がたがどこまで想定しているのかは分からないけれど、 「医師から良心を引きずり出す」うまい構造を考えているのなら、 ぜひとも実現してほしいなと思う。

夢は描いた瞬間から陳腐化する

大学にいた頃、病院にLAN の回線が整備されて、インターネット接続が当たり前になった。

下級生に、掲示板とか Wikiなんかを利用して、みんなで情報共有を行うように勧めた。 もちろん自分は、スーパーユーザー権限で上から覗いて遊ぶつもりだったから、 「システム作るし、サーバースペースも貸すよ?」とか水向けたんだけれど、 彼らは結局、何も作らなかった。

「存在しない」と言ってたわりには、その学年のネットワークはよく動いてて、 誰か上級生の失言は、翌日にはすべての下級生が共有してたし、他科の笑い話とか、 みんな本当によく把握してて、大分振り回された。

2年ぐらい経って落ち着いて、結局「ない」はずのネットワークの正体は、 中心を持たない、携帯メールの伝言ネットの形をとって実装されていることが分かった。

本当に優れたものをインフラとして利用している人達は、 もはや「自分達がすごいものを使っている」という意識すら持たない。

自分なんかはその当時、ネットワークには中枢になるインフラが欠かせないと信じてたし、 中心を持たない、自己創発ネットワークなんて夢のまた夢だと信じてたけれど、 実のところ「夢」はとっくに実現していて、自分の真横でそれは普通に動いていて、 それを使っている当人達は、それがすごいことすら思ってなかった。

GEMSIS のシステムは、「サンダーバード」から発想したのだという。

サンダーバードのシステムは、 情報にノイズが乗ったり、システムが落ちたりすることなんて想定されてない、 誰もが良心的で正直で、仕事に対して宗教的な熱意を持ってた60年代の夢。

時代は進む。情報の純粋性を追求するやりかたは、 ノイズだらけの情報から欲しいシグナルを選択するやりかたへ。 システムの硬さを極めるやりかたは、不安定なシステムを複数重ねて、 冗長性で確保する考えかたへ。

今はもう、「落ちる」ことを想定しないシステムはありえないし、構造的に失敗する可能性のある、 良心みたいなあやふやなものに依存したシステムは、間違いなく腐って失敗する。

大学の救急教室の人達は、もちろん何年も前から試行錯誤を繰り返してきたんだから、 たぶん何か、「安いやりかたができない理由」を見つけたんだろうけれど、 できればその経過を教えてほしいなと思う。

「お金かからなくて、2年後じゃなくて明日から始められる代わり、 30 億円かけられないやりかたありますけれど、いかがなもんでしょう ?」なんて、 だれかが提案したとき、上の人達はどんな振舞いをしたんだろう ?

2008.03.19

インターフェースの身体性

「有限性、適応性、自律性を持った構造化インターフェース」としての、身体の面白さについて。

身体が生む小さく浅い世界

人工知能は計算的に「深い」アルゴリズムを使うから、外乱に対して弱い。

入力のわずかな変動が、出力においては大きな、予測不可能な変動を生んでしまう。 計算的に深いプログラムは、ノイズの少ない、シミュレーション世界では上手に 機能するけれど、実世界では役に立たない。

大きすぎる問題は、解くことができない。実世界という、あいまいで変動幅の大きな問題は、 AI にとっては要求される計算量が莫大になりすぎてしまう。

対象とする問題を強引に「小さく」できるなら、計算量をそれだけ減らすことができる。

「脳単体」としては存在し得ない人間の脳は、「身体」というインターフェースを介して世界と接する。 身体は、知性と世界との界面に介在して、脳からみた見かけ上の世界を、 小さくすることに成功している。

身体は物理的な制約を持っている。

水晶体を通じて網膜に入ってくる情報量は莫大だけれど、 網膜は情報の削減を行っている。網膜には「見たいものしか見えない」制御が かかっているし、眼球に対して全く動かないものは、認識され難い。

関節の自由度や軟らかさ、手足の長さのようなパラメーターは、 身体を、「こう歩くしかない」ありかたでしか効率的に歩けないよう束縛している。 スライムみたいな構造に比べれば、人体というのは圧倒的に不自由だけれど、 動作の制御に要する計算量は、それだけ少なく済んでいる。

脳から見た世界は、AI とは異なっている。身体を持たない、莫大な情報量を持った 実世界と、直接対峙することを強制されるAI と違って、身体を通じて脳から見える世界というのは、 少ない情報量と、少ない制御で介入可能な、「小さくて浅い」構造になっている。

人工知能研究者が志向する「実世界で動く AI」は、 本物の脳に比べて、最初から不利な条件を背負わされている。

差分抽出器としての身体

身体という構造は、世界から与えられる「外乱」によって変形して、 それまでの形と、外乱を加えられた後の形とを比較した「差分」を抽出する。

身体が行う「動作」は、たぶん関節の差分情報として記録されている。

何か動作を行う際には、中枢は、その差分情報を身体に入力する。 身体は、今ある環境に対して自らを安定させようと適応するから、 身体がおかれているた環境と、中枢から送られた差分情報とは、身体を通じて統合され、 新たな状況に適応した結果が、「動作」として出力される。

最も簡単な「身体系」として、筋肉と健、関節を仮定する。

  1. 筋肉の役割を持ったモーターに、腱の代わりにバネをつないで、 関節にそれらを固定しただけ。関節には角度センサーがついていて、 モーターは、関節の角度を一定に保つよう、センサーからフィードバックを受ける
  2. 外から関節を曲げると、バネが引き伸ばされて、関節は曲る。センサーは角度の変化を出力する。 モーターに差分情報が入力されて、関節は元の形に戻ろうとする
  3. 中枢は、「角度の差分情報」として、動作を指示することになる。モーターは動いて、 関節に加わる力と、バネの張力とが安定した時点で、関節の角度が決まる
  4. バネを持った、モーターの力に上限がある「関節」は、バネに加わる張力が最小になるよう、 状況に応じて自らの形態を変化させる

いくつかの関節を統合して、これらに周期的に「差分情報」を 加えていくと、歩行が発生する。足に入力される歩行情報は、環境が変化しても変わらないのに、 関節は状況に適応するから、外からそれを見ると、 あたかも複雑な制御を行っているかのように見える。

「学習」もまた、身体という差分抽出器を通じて行うことができる。 動作を「差分情報の集積」として直接記述するのは困難だけれど、 リハビリテーションのように、身体を外部から動かせば、 身体はそこから差分情報を抽出して、中枢に記録する。

外乱から差分を抽出して、差分から動作を創造する。 身体というものは、こんな双方向性を持っている。

身体は、実世界から与えられる外乱と、中枢からの指示とを区別できないし、 またその必要もないのだと思う。

知性にとって身体とは何か

恐らくは知性を表現する、あるいは感じるためには、 身体というものが欠かせない。「ソラリス」みたいな、 「身体を伴わない知性」を作るのは難しいし、 そんな存在が本当にいたところで、人にはそれを認識できない。

身体を持たない、純粋な人工知能は、世界を記述可能なものとして規定して、 実世界に存在するすべての情報を「見える」ものとして取り込もうとしする。 AI の振舞いを細かく制御するほどに、情報の粒度を上げるほどに情報は増えて、 計算量はますます多くなる。

身体を持つロボットにとって、制御装置から見える「世界」とは「身体」。 ロボットは、身体を上手に動かすことだけを目的にすればいいから、 制御の対象は記述可能で、しかも十分に小さい。

視覚や触覚も、「身体的な何か」を通じて知覚される。

眼球は画像を認識するために、常に細かく振動していて、画像は動作を通じて 知覚されるし、触覚もまた、「なぞり動作」を通じて、はじめて知覚され、出力される。

外界とのインターフェースに「身体的な構造」を記述することが、きっと役に立つのだと思う。

何かのサービスを提供するときなども、外乱に対して安定な状態を志向する、 自律的な、適応的な、そんな構造を仲介させることで、ユーザー側からも、 こちら側からも、「身体インターフェース」を介して同じ立場でやりとりができる。

そんなサービスは、ユーザー側からは、恐らく「知的に」見えるはずだし、 サービスを提供する側からは、顧客がどんな振舞いをしようとも、 予期せぬ出来事が原理的に発生しない。

身体に相当する構造を持たない組織とか、職業は、たぶんインターフェース部分でのトラブルを 避けられない。医療とか、教育とか、あるいは「役所仕事」に代表される業界にはこの構造が 欠けていて、ユーザー側からそれを見ると、すごく頭が悪く見えるし、こちら側もまた、 ユーザーの振舞いを予想できないから、トラブルを回避できない。

ロボット工学の人達がいくら頑張ろうとも、身体は本来、医療が独占している分野。 新しい考えかたとかサービスのありかたなんかは、あるいはこれから、 きっと整形外科医あたりから出てくるのだと思う。

2008.03.15

錯覚が知性を感覚させる

フランスのテレビ番組「シューティングゲームの歴史」の中で、 プレイヤーの人が「弾幕を介して、開発者の人とコミュニケーションしている」なんて喋ってた。

チェス専用のコンピューター「ディープブルー」と対戦したロシアのチェスチャンピオンは、 「相手は機械なのに、まるで異質な知性と対決しているようだった」と感想を漏らした。

知性について。

知的であること知性を感覚すること

自閉症の人は、しばしば十分な知性を持っているにもかかわらず、 「空気を読む」とか「相手の感情を読む」とか、相手に心理を観測するのが苦手なんだという。

自閉症の動物行動学者がいて、人間の感情は分からないのに、 動物がどうしてそんな行動をするのかはよく分かるんだという。 実際に動物を安心させる道具を設計したりして、自分の観察を実証している。 その人はたしかに知的であって、たぶん嘘もついていないんだけれど、 やっぱり人間の感情のことは、よく分からないらしい。

知性とか、感情は、それ自体として「ある」のではなくて、 それを観察した当人の、頭の中に「発生する」。

「本物の」知性は存在しない。知性というものはたぶん、「錯覚という感覚」を経由して、 初めて観測される概念だから。

「チューリングテスト」の勝利戦略

「ある機械が知的かどうか」を判断する試験、「チューリングテスト」をパスした機械は、 まだ存在しない。人工知能を研究する人達の目標。

コンピューターの能力どれだけ向上しても、それだけではたぶん、 テストにパスすることはできない。

「知性」というものは、観測者の中に発生する。 観測を必要としない、「知性それ自体」 はそもそも存在しない。

知性を感じさせる、チューリングテストに合格する機械を作る戦略には、 「機械の性能を上げる」やりかたと、「知性を感覚する閾値を下げる」やりかたとがあって、 後者抜きの戦略をいくら追求しても、その延長線上に「勝利」はない。

どれだけすごい機械を作っても、すごさが観測者にとって既知になった時点で、 知性の感覚閾値は極めて高くなる。「コンピューター」という概念が人類にとって 既知になった現在、性能向上戦略は、勝利にほとんど貢献できなくなっている。

表情の役割

ソニーが作った音楽ロボット「Rolly」には、「顔」に相当するパーツがない。 イラストレーターの安倍吉俊氏が、「Rolly には顔か、顔を連想させる何かを 設定すべきだった」なんて書いておられた。

目や口は、目や口は、コミュニケーションの本質ではないけれど、 人間は恐らく、そんな記号を発見することで、 「これはコミュニケーションを行うものなんだ」という思考をはじめる。

機械が発信するシグナルは、単なるノイズにしかすぎないけれど、 それが「機械がコミュニケーションを求めている」と認識されたとき、 その人はきっと、機械の中に知性を見出す。

機械にとって、「顔」というものは必要ないけれど、それを観察する人間側にとっては大切。 「顔を持っている」存在を前にすると、恐らく知性を認識する閾値が下がる。

知性は「ある」のではなく、「錯覚」される。 機械の絶対性能は、知性の有無には関係ない。

対話は日常をフックする

「シーマン」とか「アイドルマスター」みたいな、対話要素が入ったゲームから 知性を感覚するのは不可能だと思う。 形態素解析が完璧になって、プレイヤーが自分の言葉で喋れるようになってもなお、 プレイヤーはたぶん、「よくできた機械と喋った」という認識を越えることはできない。

対話みたいに高度な技術を作らなくても、シューティングゲームとか、 コンピューターを相手にしたチェスみたいな、単純なメディアから知性を見出す人はすでにいる。 コンピューターチェスに知性を見出したのは、グランドマスターただ一人だけれど、 弾幕のむこうに「必死さ」とか「殺意」とか、「何か」を感覚した人は、たぶんけっこう多い。

状況設定が大切なんだと思う。

スタンフォードの監獄実験みたいに、適切な環境と、その状況における役割さえ 与えられれば、人間はいくらだって卑屈になれるし、残忍になれる。

最強のコンピューター「ディープブルー」を前にしても、ほとんどの人は、 そこから知性を見出せない。チェスが相当に上手な人であっても、 やっぱりたぶん、「強いコンピューターですね」という感想しか出て来ない。

ディープブルーに知性を見出したグランドマスターと、それ以外の多くの人とを分けたのは、 「人類代表」という状況設定。ディープブルーと対戦したグランドマスターは、 たとえ本人がそう望んでいなくても、みんなから勝手に「人類代表」の状況を押し付けられて、 文字どおり人類の希望を背負って戦ってた。

それは日常生活ではありえないから、たぶん「錯覚」の閾値は大きく下がっていたはず。 ディープブルーはたしかにすごかったのだろうけれど、恐らくそれだけでは知性は感覚されない。 知性に大きく貢献したのは、ディープブルーそれ自体よりも、「人類対コンピューター」という状況だった。

対話は日常をフックする。対話メディアを用いたコミュニケーションは、 だから観測者を日常から引き離せないから、「コンピューターに知性はない」という 常識が観測者を縛って、知性の感覚閾値を引き上げてしまう。

日常を取り払って、「本気」に引きずり込まれる状況設定をちゃんと作れれば、 知性を感覚する閾値は大きく下がる。シューティングゲームみたいに、 絶望的な役割をプレイヤーに割り振ったり、ドーム没入型ディスプレイみたいに、 プレイヤーの周辺視野に至るまで「乗っ取る」ことができたなら、 ごく単純なシグナル交換は「コミュニケーション」と認識されて、 誰もがそこに知性を見つけるはず。

「錯覚閾値」の考えかた

知性は要するに、実体を持った「アルゴリズム」としてのみ存在する。

アルゴリズムは動作しないと観測できない。アルゴリズムに状況が 入力されて、下された判断が、状況に投影された影絵として観測される。

観測されたアルゴリズムの投影は、さらに観測者により「錯覚」を受けて、 そこで初めて、知性の有無が査定される。

人工知能に取り組む人達は、アルゴリズムの改良に邁進する。知性にとっては、 それはもちろんもっとも大切なものだけれど、他にもやるべきことはある。

アルゴリズムが投影される「状況」を記述して、観測者の「錯覚閾値」を下げるやりかた。

知能が高い自閉症の人は、錯覚閾値が高すぎるから感情が読めない。 その代わり、状況を正確に読めるから、「動物の感情」は分からなくても、 動物を正しく行動させることはできる。

ディープブルーと対峙したグランドマスターは、相手が統計を利用したコンピューターだと 分かっていてもなお、人類代表という状況設定が錯覚閾値を下げて、そこに知性を見出した。

「認識」と「錯覚」とは、たぶん区別ができない。

音は本来「耳」が知覚するものであって、「それが鳴っている」という知覚はすでに錯覚。 視覚も同じ。「見ている」場所は網膜であって、「そこ」という考えかた自体、 頭の中に描いた世界に、網膜からの入力を無理やり当てはめて、錯覚を行っている。

人類の運命背負ったセカイ系の状況設定とか、周辺視野まで乗っ取った没入ディスプレイとか、 会話や顔グラフィックを介さないシグナル交換というものは、 全て「錯覚を誘発する」ベクトルに乗っかる何かであって、 恐らくそんなやりかたの延長線上に、「知性の認識」があるんだと思う。

2008.03.13

「恋愛シューティング」実装案

カトゆー家断絶の中の人が、twitter で「恋愛SLG 」 という言葉を使っていた。「恋愛STG」はないのかな、と思って検索したら、案外なかった。考えた。

状況設定

AI とプレイヤーとが共同して、コミュニケーションしながら敵のボスを破壊する。

パイロットをプレイヤーに設定するのは難しい。 それは伝統的なシューティングの文法だけれど、それをやってしまうと、 「機械に任せるぐらいなら自分で避ける」というプレイヤーの声を無視できなくて、 AIを導入する必然性がなくなってしまう。

「AIとの共同戦闘」という状況にある程度の必然性が出てくるのは、 人工衛星のオペレーション。

地球に近いとき、人工衛星は、 ある程度のマニュアル操作が可能だけれど、火星探査機のプロジェクトになると、 地表から信号送って、探査機が応答するのに8分近くかかる。リアルタイムの操縦なんて 望めないから、人工衛星は周囲の状況を読んで、ある程度自分で行動しないといけない。

シューティングゲームのお約束で、「敵」は地球外から攻めてくる。 地球守ってた軍隊は、とりあえずなす術もなく破壊されてしまう。

自機になるのは、人類の最後の希望託した無人戦闘機。プレイヤーは開発担当の科学者となって 地球に残り、自機の操縦と、搭載されたAIの教育とを担当する。

ゲーム開始の段階では、敵兵器に関するデータとか、 敵の思考回路みたいなものは何一つ明らかになっていない。 AI は、最初はほとんど白紙の状態で、敵との戦いを通じて「教育」する必要がある。

ゲーム開始直後、自機が地球軌道近くにいるときには、プレイヤーは普通に自機を操縦できる。 軌道上で、敵の最前線部隊と戦いながら、プレイヤーは自機を操作して、同時にAI を教育する。

敵の本拠地と目される場所は、火星軌道の先。自機が地球を離れていくと、 操作にはだんだんと遅延が生じて、敵弾を避けたり、適切なタイミングで武器を使ったりといった ことが難しくなる。プレイヤーはだから、後半面になると大雑把な操作しかできなくて、 最後はひたすらに、AIに応援メッセージを送ることになる。

プレイヤー設定

8方向レバー3ボタン。自動連射のショットボタンと、「良し」、「ダメ」のメッセージをAIに送るためのボタン。

ボムはAIの判断。プレー開始前にAIを選択可能で、臆病なAIを選ぶと、ちょっと危険な状況になると ボムを消費されて、大変だったりする。

前半面では、プレイヤーは自機を操作しながら、AI の教育を行う。AI は自動的に弾避けを 行うけれど、それが戦略的に正しければ「良し」を、間違っていれば「ダメ」のメッセージを送って、 犬に芸仕込むときみたいに、AI に正しい避けかたを教えこむ。

AI には「機嫌」パラメーターがある。「良し」を連発すると元気になって ショットのパワーが上がるけれど、「ダメ」を連発すると拗ねたり落ち込んだりして、 ショットのパワーが激減したり、機体制御を放棄したりする。

後半面でAIが拗ねるとゲームがつらくなるし、ほめちゃいけないところでAI の御機嫌を 取りすぎると、AI はどんどん馬鹿になる。

機嫌がよくなりすぎたAIは、どうでもいい場所で勝手にボム消費したり、 ボスを目の前にした頃になって息切れしたりする。 教育も大切だけれど、テンション管理はもっと大切。

AI の設定

AI のオート避け機能は、たとえば自機の周囲 10 ドットに「縄張り」を設定して、 その中に弾が入ったら発生する。一定の待ち時間のあと、進入方向の反対側、 あるいは直行する方向に、一定距離だけ、自機が勝手に移動するイメージ。

ゲーム開始時点で、AI は複数の候補から選択可能で、それぞれのAI には「性格」が設定されている。

「臆病な」AI は、「縄張り」が大きく設定されていて、敵弾が近づいたらすぐ逃げ出す。 プレイヤーは教育を通じて、AI に勇気を持たせると、縄張りはだんだんと小さくなって、 「ドット避け」ができるようになる。

「おっとりした」AI は、敵弾が縄張りに入ってから、自機が動作するまでの時間が遅い。 動きが緩やかだから、こんなAI には、人間側プレイヤーの意志を伝えやすいけれど、 後半面になるとつらくなる。反応時間が早くなるように鍛えないといけない。

「方向音痴」の AI は、敵弾が近づいてきたとき、正しい方向に避けられない。 正しさは、周囲の弾幕密度と、プレイヤーがレバーを倒した方向を利用して、 ベイズ予測みたいなやりかたで決定されるけれど、実際の自機の動作は、 ここにランダムな偏差が加えられる。鍛えると、だんだんと偏差が減って、 正しい動きができるようになる。

「がさつな」AI は、敵弾を避けるときの動作量が大きい。 ちょっと避ければ十分なところでも大きく動いてしまうから、地形に追い込まれやすいし、 プレイヤーの意図を伝えにくい。鍛えると動作は必要最小限に、「おしとやかな」AIに成長する。

AI には他に「切れやすさ」と「テンションの高さ」というパラメーターがあって、 それぞれ「駄目」を連打されたときの拗ねやすさと、「良し」を連打されたときの テンションの上がりやすさに相関する。両方高いと、キレやすくてハイになりやすい、 すごく扱いにくいAI になるし、両方低いと、素直な性格になるけれど、 いざというときに「良し」を連射しないと、ショットパワーが上がらなかったりする。

こんなパラメーターを AI に実装すると、「おっとりして方向音痴」、 「気が回るけれど落ち込みやすい」、「臆病な小動物」、 「無個性」みたいな、AIの性格設定が作れる。

共感要素

作戦機体の生還は考慮されていない。

自機には片道分の燃料しか積んでいないし、ラスボスは固くて、 最後は自爆しないと倒せない。

プレイヤーは、AI とコミュニケーションしつつ、AI を成長させつつ、 事態をAI にとって最悪の状態へと追い込んでいくことになる。

AI の「個性」は、戦いの状況と、プレイヤーのボタン操作により創発され、 変化する。データは常に地球側に送信されているから、 ゲーム開始直後に自機が撃墜されたときには、 AI は地球でよみがえり、事実上不死になっている。

ゲームには、いくつもの「帰還不可能ポイント」が設定されている。

面が進むほどに電波は遠くなって、データにはエラーが生じてしまう。 帰還不可能ポイント越えるごとに、「五体満足で帰れる」状態は「首から下を捨てれば帰れる」になり、 そのうちデータを満足に送ることもできなくなって、最終面に入った頃には、 撃墜されるとAI の個性は全て失われ、「死んで」しまう。

プレイヤーが熟達するほどに、自機AI の生還可能性は落ちていくけれど、 AI はもちろんそんなこと知らないから、叱られれば落ち込んで、 ほめられれば機嫌を直したり、喜んだりはしゃいだりする。

最後は「2010 年」風味。

硬すぎるラスボスを前に、「博士」であるプレイヤーは、AI に「特別な攻撃」を指示する。

直前になって、AI からは最後の通信が入る。

「博士。私は死ぬのですか ?

プレイヤーが「そのとおりだ」と答えれば、 AI は「本当の事を教えてくれてありがとう」というメッセージを 残して、笑顔で自爆する。

プレイヤーが「そんなことはない。データは回収できる」と嘘をつくと、 AI は「博士を信じています」なんて、泣き笑いの顔を見せながら、やっぱり自爆する。

言葉を介さないコミュニケーションのこと

言葉や台詞などなくても、感情の交換は十分にできると思う。

機械とのコミュニケーションを物語の核にするやりかたとして、人型ロボットを 登場させるとか、喋る戦闘機を設定するのは分かりやすいけれど、つまらない。

感情は本来、相手から伝えられるものではなくて、自らが対象に「投影」して、「発見」される。

状況設定さえ上手にできれば、メーターの数字やボディのきしみ、動きの切れ、 ショットのパワーみたいな要素を変化させるだけで、プレイヤーはそこに「感情」とか「根性」 みたいな表情を読み取って、機械とコミュニケーションをはじめる。

火星探査プロジェクト「マーズポーラーランダー」は、探査機が着陸寸前まで行ったのに、 火星上空で故障して、墜落した。NASA の人達は、必死になってポーラーランダーの信号拾おうとして、 どこかの天文台が、ありえないタイミングでポーラーランダーの「声」を受信した。

結局それは間違いだったんだけれど、あのときの NASA の技術者は、 絶対にポーラーランダーを擬人化して考えてた。墜落して、 半身不随になりながらも火星の地表から地球を探して、 必死の思いで「自分は生きてここにいる」というメッセージを送信する ポーラーランダーを想像して、泣きそうな思いで通信ログ読んだと思う。

このゲームは終盤、最後の帰還不可能ポイントを越えるところで撃墜されれば、 プレイヤーはもう一度、AIと最初からやりなおせるし、自爆命令なんて出さずに済む。 全人類の運命と、AI の運命との選択を、プレイヤーがわずかでも悩んだら、 きっと面白い体験ができるはず。

2008.03.12

アートとクラフト

「クラフト」というのはまず素材があって、そこから何が作れるのかを考える立場。

「アート」というのは、まず作りたいものがあって、その表現手段として、 素材が選択されるやりかた。

技術はたぶん、「アート」から始まって「クラフト」へと移行する。 成熟して、確立した技術が、今度は「素材」となって使われるようになる、 そんな流れがあるんだと思う。

ボブの絵画教室

アメリカの画家ボブ・ロスは、「アーティスト」ではないんだそうだ。

人気番組だった「ボブの絵画教室」の中で、ボブは「簡単でしょう?」を くり返しながら、すごいスピードで風景画を仕上げていく。 30分ほどの番組なのに、出来上がった風景画はたしかにすばらしくて、 何よりも筆を動かすボブの手に迷いがなくて、あの番組それ自体が芸術なんだと思ってた。

ボブ・ロスの絵画はきれいで、絵を描く行為それ自体にも娯楽としてのおもしろさが 備わっているのに、伝統的な芸術家は批判するらしい。

ボブの絵画は、あくまでも表層的な手法できれいな絵を描くやりかたであって、 画家の内面に、何か描きたい物があって、それを表現しているわけではないから、 あれは「クラフト」ではあっても、アートではありえないのだと。

「そんな立場を取らないと食べていけない人がいる」というのは、何となく理解できるけれど、 そんな芸術なら、とりあえず自分はいらないかなとも思う。

中国には、芸術家の贋作で生計を立てている村がある。

村一番の「ゴッホ名人」が取材を受けて、カメラの前で「ひまわり」を描いていた。 もう何百枚も同じ絵を描いているからなのか、筆には迷いがなくて、 素人目にはいかにも「ゴッホっぽい」、スタジオの専門家も「いい絵ですね」なんて コメントしてた。

「ゴッホはいいですね。描きやすくて

工芸作品としてのゴッホは、「ゴッホ名人」のこの言葉がすべてなんだと思う。

芸術作品としてのゴッホの付加価値は、あの時代だったとか、奇行が目立ったとか、 自殺したとか、あとはもうひとつ、あんな作風を初めて作ったとか。

芸術を評論する人達は、バックグラウンドの付加価値にはあんまり言及しないけれど、 作家としてのゴッホを理解してるのは、ゴッホに何億円もの値札をぶら下げて大儲けする評論家なのか、 何百枚もの「ひまわり」を描きつづけている「ゴッホ名人」の中国人なのか。

ゴッホが今生きてたら、やっぱり中国人と握手する気がする。

頭を使うと予後が悪くなる

近所で開業している先生から、心臓悪くした人がよく紹介される。

みんな同じように血圧高くて、同じようにちょっとだけ血糖高くて、 たいてい腰痛持ち。みんなまるで、判で押したように同じような患者さんなのに、 処方される薬はみんな違う。

入院依頼があって入院してもらって、たいていの場合、薬を全部止めると治る。

心臓治療に使う薬は、この10年ぐらいでほとんど確立している。原疾患が 心筋梗塞だろうが弁膜症だろうが、拡張型心筋症だろうが、使う薬は全く同じ。 薬もよくなって、適当に出しても何となく効いてくれるから、量を調整する必要もない。

自分が普段心不全の患者さんに出している薬は、9割までが全く同じ処方で、 量も同じ。調整する人もほとんどいない。頭使って頑張ると、 病棟が混乱するので、最近はかなり意識的に、頭を使うことを放棄するようにしているけれど、 結局それで問題は生じない。

自分が診察している患者さんは、だから点滴も一緒で、飲んでいる薬も全く同じだから、 原理的にはトラブルが発生しない。患者さん間違えても、同じ薬が行くはずだから。

それでも他人様が作ったクリニカルパスを受け入れるのにはものすごい抵抗があって、 ちょこちょこ書き替えては顰蹙買ったりしているのだけれど。

アートとクラフトのこと

技術は発見されて成熟して、確立したあと、今度は「素材」となって、 次世代の技術者に立ちはだかる。

素材化した技術を前にした技術者は、「アーティスト」として、素材を制圧する道を選ぶのか、 それともクラフトマンとなって、素材を受け入れ、素材に使われる道を選ぶのか、 そのとき自らを試される。

クラフトを志向する技術者は、素材に敬意を払う。確立した、「つまらない」技術を組み合わせて、 信頼性の高いプロダクトを作ろうと努力する。クラフトを極めていくと、 出来上がる製品は「ばらつき」が少なくなって、より「つまらなく」、 より「ありきたりな」、あたかも機械で作ったような方向へと進化する。

アートを志向する技術者は、何よりも「内なる情熱」を持ちつづけないといけない。 アーティストには、まず作りたいものがあって、その情熱に動かされる形で 素材を「制圧」して、素材上の何かを作らないといけない。大切なのは 「未踏」であって「未知」であることだから、もちろん信頼性なんてないけれど、 新しさが受け入れられれば、その技術者もゴッホになれる。

恐らくはもっとも無残な状態が、芸術引き受けるだけの才覚ない人が、 工芸品で十二分に間にあっている場所で、「芸術家」を気取ることなんだと思う。

それが素人絵画なら、ただのかわいそうな人で済むけれど、 医療みたいな現場では、「芸術家」はしばしばとんでもない失敗をしでかす。

ベテランはベテランなんだからこそ、「医療は本来ものすごくつまらない事のくり返しなんだ」 ということを、自ら認めるべきだと思う。

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