2015.04.07

Hello world!

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2009.02.18

内科におけるローブの法則

  1. 今していることが有効なときにはそのまま継続する
  2. 今していることが有効でないときには中止する
  3. 何をすべきか分からないときには何もしない
  4. 治療方針の決定を外科医に任せない

「内科診療シークレット」という本の第一章冒頭に書いてある。

作者の人は、間違いなく4番を言いたかったのだと思う。

2009.02.10

クッキングチャートの文法

“Cooking For Engineer” – BluePillの別宅 で紹介されていた、 料理の手順をチャート表示するやりかたが面白すぎる。

「NSチャート由来だろう」なんてコメントがついていたけれど、たしかによく似ている。

クッキングチャートは、フローチャートみたいな条件分岐を捨てた代わりに、縦軸に料理の材料、 横軸に時間をそれぞれ展開することに成功していて、料理の手順は、 材料と、時間と、それぞれの意味を併せ持った場所に展開することが出来て、 料理の手順を一望できる。

おおもとのサイト には、様々な料理の手順が公開されていて、 この表示方法にも、一種の文法みたいなものが設定されている。

2008-12-01 – BluePillの別宅 には、 このチャートの描きかたが記述されている。この方はエクセルか何かで書いているみたいだけれど、 大本のサイトは、HTML のテーブル環境で書いているみたい。LaTeX で同じことが出来そう。

で、材料を、特定のタイミングで、特定の手順で処理していくと、料理が出来上がる。

患者さんの治療というものは、本来まずは症状があって、怪しそうな場所から順番に調査して、 どこかのタイミングで、「病名」という正解を「発見」するものだから、そもそも料理みたいな 手順が出来たらおかしいんだけれど、実際問題、病名も、症状も、患者さんの体が取り得る状態も有限だから、 手順をまとめることは、不可能ではないはず。

具体的には、正しい病名の決定をあきらめて、「分からないけれど、当面死なない」状態を目指す。

  • 「ある症状を持った患者さん」というものが、料理でいうところの料理名になる
  • 料理の材料に相当するものは、「その症状から考えられる致命的な病名」に置き換える
  • 料理の手順だとか、料理方法に相当するものは、検査だとか、あるいは治療、 抗生剤を使うとか、CTスキャンを撮る、翌朝まで絶食を指示するとか、そういうものになる
  • 治療という行為は、だから「致命的な病名を、特定の手順で、特定のタイミングで処理していくと、 分からないけれど死なない状態にたどり着く」ための方法論と定義される

ある程度現実的に、総合医というものを考えるなら、こういう定義しないと厳しいと思う。

以下文法。

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これが基本的な書きかた。「材料名」と「分量」に、それぞれ「致命的な病名」と「特徴」が入る。

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一番上の行、「オーブンを温める」みたいな記述は、「点滴をとる」だとか、「心電図モニターをする」だとか、 あるいは「挿管の準備をしてもらう」「救急カートを用意する」みたいな手順が入る。鑑別診断をかける前に、 全ての患者さんに対してやっておくべきこと。

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ある程度複雑な表。「横書き」と、「縦にした横書き」を組み合わせたほうが見やすい気がする。「縦書き」は、 読むリズムがなんか違う気がする。LaTeX なら、rotatebox 環境で何とかなりそう。

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罫線の「欠け」は、「塩を振る」みたいな、このタイミングで、ちょっと考慮すべき、みたいな 感覚で使えばいいのかもしれない。

わかりやすいレシピ帖 – so what?@hatenaで紹介されていた、 古い料理の教科書のレイアウトは参考になる。。こういうの作りたい。

2009.02.07

自由診療のこと

  • 極めてまれなできごと
  • 相手の気が動転している

こんな条件がそろっている場所には、ビジネスチャンスが転がっている。

葬儀の記憶

父親が亡くなった夜、大学出入りの葬儀社の人たちが駆けつけてくれた。

いい人たちだった。父親のことを悼んでくれて、「全部任せてください」なんて。

800万円のコースを指定された。

どう考えたって、うちにそんな金額払えるわけがなかったんだけれど、 大学出入りの業者の人が、「このぐらい」なんて断言したところで、 それを拒否する根拠は、自分たちは持ってなかった。

みんな茫然自失していて、葬式の日はもちろん、目の前に迫っていたから、 「とりあえずちょっと、考えさせてください」なんて答えるのがやっとだった。

一晩考えた。

「やっぱり申しわけないのですが、うちでは800万円なんて払えません」なんて、 情けない思いで頭を下げたら、コースの内容は変えないで、 その場で150万円割引してくれた。

たくさんの人が来てくださって、親戚からも援助をいただいて、 収支がやっとぎりぎりになって胸をなでおろしたのは、もうずいぶん昔。

大黒柱がいなくなって、これから先の生活だって見えないときに、何でだか人生始まって以来の出費。 香典袋を集計する手が汗まみれになったのをよく覚えてる。

葬儀にだって「相場」があるのだろうけれど、当時も今も、相場なんて分からない。 「先生ならこれぐらいです」なんて、800万円という金額を示されたけれど、 これは果たして「ボられた」のか、それとももしかしたらいい業者さんに巡り会えて、 ボランティア同然の値段で、葬儀を仕切っていただけたのか。

自由診療という宝の山

癌の塞栓療法をする先生がいて、ホテルをワンフロアぶち抜いたクリニックで、 先生一人で朝から晩まで、診療に忙しいらしい。

テレビで「癌に単身で戦いを挑む医師」として、好意的に取り上げられていた。

癌が成長するには必ず栄養血管が必要になるから、塞栓療法を行って、 それを潰せば、癌は「小さく」なる。どんな癌でも小さくなるし、転移癌でも効果がある。

一時期いろんな施設で試みられたのだけれど、小さくはなっても、特定の癌をのぞいて、 延命効果が証明されなかったから、今では廃れてしまったやりかた。 保険も効かない。

番組では、誰もウソは言っていなかった。

  • その先生は「癌が小さくなる」とは言ったけれど、「直る」とは言っていなかった
  • 患者さんは「先生の治療は効果がすぐに実感できるんです」とインタビューに答えていた。 塞栓物質を注入した血管はその場で潰れるから、たしかに効果は目に見えた
  • 「治療途中で亡くなる方いらっしゃいます」と言っておられた。 相手にするのは末期の患者さんばっかりだったから、5年先にどうなるのか、誰も興味が無さそうだった
  • 治療がうまくいった人は癌が小さくなって、そのときは元気になる。 「先生に救っていただきました」なんて、インタビューで答えていた

延命優先の、今の西洋医学の範疇では、進行癌の患者さんにできることはほとんどない。 この先生が販売しているのは、「治癒」ではなくて、「腫瘍が小さくなった」という満足感 だから、そういう意味で、正しいビジネスだし、誰も損はしていないはず。

ものすごくまれな出来事で、当事者が動転している場所には、ビジネスチャンスが転がっている。

そもそもが「まれ」な出来事を集めるコストが馬鹿にならないから、 こんな商売ができる場所なんて実世界にはほとんどないんだけれど、 医療の業界には、たぶんこんな場所がたくさんある。

今の病院はどこも赤字だけれど、「延命させる」というルールを無視していいのなら、 大学だとか、地域の基幹病院だとか、黒字を生み出すやりかたは、たぶんいくつも考えられる。

宝の山はあちこちに転がっているのだけれど、今はルールがあるから、そこを掘れない。 宝の山を狙っている企業はたくさんあるから、業界が自由化したら、医療はたぶん、 別の何かに変貌するんだろう。

自由化の未来

医療が自由になると、業界は間違いなく面白くなる。

多様な需要と、それに応えるいろんなサービス。自由化した医療はメリットばっかり。

伝統的な、つまらないルールに縛られた医療は終わり。これからはもっと面白い場所で、 優秀な人たちが自由なビジネスを展開するようになる。

「健康な病人」なんて揶揄される、今の医療に不満を持っているような人たちには、 たぶん多様な選択枝が約束される。

ところが病気が悪くなって、期待がしぼんで「延命」に収斂すると、 患者さんはとたんに「つまらなく」なる。自由世界では、売るほうだって買い手を選ぶ。 つまらない人たちは、伝統的な、つまらない医療現場へと放り出されて、 自由な医療は、きっともっと面白い患者さんを探しはじめる。

魅力的になりたくて、美容形成外科医の門を叩く患者さんがいる。 美容形成外科医は「鼻が高くなる」ことは保証するだろうけれど、 その人が魅力的になるとか、その人が「いい顔」になるとか、そんな結果は保証できない。

自由世界では、価値が多様化する。

安かったものが「改良」されて高価になったり、「治る」「延びる」を期待して購入してみれば、 それは「小さくなる」とか、「下がる」だったり。

老人ビジネスとか健康ビジネス、自由診療とかアンチエイジングが栄える近未来、 医療というのはもはや、奇跡でも何でもなくて、単なるインフラ。

土台を維持する技術はもう十分成熟したから。今は次のステージ、目鼻の利く人が、 土台の上にどんなビルを建てるのか、あれこれ思案している段階。

他人様の商売をくさすつもりはないんだけれど、それでもやっぱり、 商売始めた以上、「つまらなくなったら放り出す」のだけは勘弁してほしいなと思う。

ビルの上にいると見えにくいかもしれないけれど、みんながビル建てようと殺到して、もうインフラはガタガタなんだから。

2009.02.06

自分の体験で話すと刺さる

誰かを説得するときには、「こうするのが正しい」をやってもうまくいかないけれど、 「僕は自分がかわいいからこうしているよ」みたいな言いかたをすると、伝わる印象を持っている。

教育したい人

同業者にも、愛想いい人と、愛想の対極みたいな外来対応をする人がいる。

愛想の対極に走る人も、別に患者さんが憎くてしょうがないとかじゃなくて、やっぱり「いい医者」 になりたいと願ってる。そういう人たちは、患者さんというものを、「教育」すべきものだと思っているから、 みんなその人たちなりのポリシーもって、厳しい外来をやっているみたい。

自分たちだって客商売だし、主治医に怒られるのが大好きな患者さんなんて、たぶん少ない。 愛想はないよりあったほうがよくて、少なくとも研修医のうちは、 「僕は将来厳しい外来をやる医者になるんだ」なんて考えてる奴は、たぶんいない。

研修期間を終えて、病院中から「先生」なんて呼ばれるのが当たり前になってくると、 人によっては、「教育」意識が芽生えてくる。こういうのを放置しておくと、 たいてい厳しい外来をやるようになって、「腕」がそれについてくればいいんだけれど、 そうでない医師は、たぶんどこかで地雷を踏んで、患者さんもろとも、人生を棒に振る。

価値観は伝わらない

身を守るためには、愛想はやっぱり大切だから、最初はたぶん、どこの病院も「愛想のいいサービスを」みたいな 教えかたをするはずなんだけれど、「それが正しい」みたいな価値は伝わりにくくて、 相も変わらず、愛想の対極みたいな外来対応する医師が、毎年一定数生産される。

こういうのは、厳しい外来をやる本人も、その頃には信念もって固まってるから、 「教育してあげるのが正しい医療」なんて思い込んでる若い人に、サービス業を説いても、 「こいつは汚れた欺瞞野郎だ」みたいなレッテル貼られて、無視される。

一番簡単なのは、フォーマットかけてから価値観上書きすることなんだろうけれど、 今の時代、クリーンインストールは怒られる。

「丁寧な応対した方がいいよ」なんて教えるときには、個人的にはだから、 すごく利己的な理由で、自分はこうしているよ、なんて言いかたをする。

「サービス」は、「患者さんのため」などではなくて、自分の身が世界で一番かわいいから、 かわいい自分の身を守りたいから、自分なりの結論として、こういう対応をして、 今のところ生き残っているよ、なんてやりかた。

「こう思っている自分」だけは否定できない

「患者さんは大切」という価値は、そう思う人と、もしかしたらそう思わない人がいる。

「これが患者さんのため」なんて価値は、もっと意見が割れる。

自分がかわいくない人は、たぶんうちの業界には、そもそも入ってこない。 だからこそ、「かわいい自分」という価値から話を始めると、研修医に「刺さる」気がする。

もしかしたらそんな態度は、密かに「こんな奴にだけはなりたくない」と思われてるのかもしれないけれど、 「教育」という営為は、受けたほうからのフィードバックが来ないから、どんなやりかたが正しいのか、全然見えない。

だからこういう考えかたもまた、あくまでも仮定でしかないのだけれど、 「自分はこういう立場で、こう考えて、こう振る舞っている」という言葉は、 その人の中で真実だけれど、「こうするのが正しい」を誰かに強要するのは、 なんというか、言葉のどこにも真実がない。

内的な真実が、ほかの誰かにとって再現可能であるかどうかは分からないけれど、 可能性としての真実が宿ってるぶん、「こうあるべき」を強要するよりも、 説得可能性が高いと思う。

「物言わぬ上司」の力

初めて離島に飛ばされた昔。何でもできる気分でいたのに、「普通の肺炎」で 外来に来た患者さんと対峙して、薬を処方できなくなった。

「それができる」ことと、「それを決められる」こととの断絶について。

いつも上司がいた

当時たしか3年目ぐらいだったから、その頃にはもちろん、 肺炎の人なんて100人以上診療していたはずなんだけれど、本土にはいつも上司がいた。

研修の後半は、基本的には自分で指示を出していたのに、島に一人で放り出されて、手が固まった。 今までは要するに、「上司が黙ってみてる」というのが、強力な承認装置として働いていて、 それがなくなって島に飛ばされて、目の前にいる、一見典型的な肺炎の患者さんが、 本当に「典型」と認識してもいいのかどうか、確信できなくなった。

研修医はたぶん、「正しさ」を、「上司に怒られない」ということを通じて理解する。

だからいきなり一人で放り出されたそのときは、たぶん「正しいこと」がなんなのか、 いくら教科書に「正しい」と書いてあっても、確信が持てなくなってしまう。

一人ぼっちで決断して、後ろ盾なしで経過を見て、やっぱり大丈夫と納得する、 これを繰り返さない限り、「ほどほど」だとか、「いつもの」みたいな、 自らを安心させるような感覚は、身につかない。

場を作ること

外科医はそういうものを、「場を作る」なんて表現する。

患者さん見て、病気想像して、切開線決めて、進入ルートを決める。全部考えて決める。 研修医の頃は、それが「当たり前」と思ってるから、「場を作れる」ことがどれだけすごいことなのか、想像が及ばない。

虫垂炎を切るだけなら、上司の指示があれば、1年目の研修医でもできる。 上司が黙ってみててくれるなら、3年ぐらいの経験を積めば、診断から治療まで、 一応一人でこなせるようになる。

ところが新しい病院に一人で飛ばされて、じゃあ虫垂炎の患者さんが来て、 その人を治癒に導くためには、やっぱり10年たってもまだ、経験が足りない。

「今自分が遭遇しているこの状況は、典型的なやりかたで対処可能である」と認識するためには、 本当は、あらゆる例外ケースを体験しないといけない。

それはもちろん無理だから、やるべきは、「これは典型だろう」という先入観を形成して、 結果として大丈夫たった、という、不完全な成功体験を積むことなんだけれど、 それにしたって時間がかかる。

「虫垂炎は素人でも切れる」だなんて、たぶん3年目ぐらいまで、研修医はそんなことを考える。

「最低でも回盲部切除ができるようになっておかないと、虫垂炎が切れるとは言えない」だなんて、 7年目ぐらいになって、いくつかの病院で経験を積んだ外科医は、ある日いきなりハードルを上げる。

できることと決められること

今の研修制度は、恐らくはあらゆる決断機会を奪われたままに進められて、 一定年次を超えたとたん、「君もう一人前だから」なんて、ほかの病院に放り出される。 昔はそれでも5年ぐらいあった研修期間は、来年からはもしかしたら、1年間に短縮される。

研修医はたぶん、「黙っている上司」の存在に気付かないまま、いきなり独り立ちを強いられる。 もちろん体は動かないだろうし、だから臨床続けられなくて、内科外科から人がいなくなってるんだろう。

「それができる」ことと、「それを決断できる」こととの間には、たぶん7年目ぐらいを境に、 必要な経験年次の断絶がある。「できる」ための経験はそんなにいらないけれど、 「決める」ための必要経験は莫大で、量を積まないと、決断なんてできない。

「技術の継承」が断絶するもっと早いタイミングで、たぶん「決断の継承」が断絶して、 内科外科は、実質死に体になると思う。

あと7年ぐらい先の話。

2008.04.02

気道確保のやりかた

近頃読んだ、気管内挿管しやすい姿勢の作りかたに関する文章が面白かったので、 表ページの気道確保と初期のCPR という文章を一部改定しました。

最近多用している挿管ポジションの作りかたと、当院で使っている 「ガムエラスティックチューブ」という挿管補助に使用する道具について。

どちらのやりかたも、ここ2ヶ月ぐらい試していますが、個人的にはいいかんじです。

訂正すべき箇所などありましたらご指摘いただければ幸いです。

4月3日追記:コメント欄で間違いを指摘していただいた部分を訂正しました。

2008.04.01

latex2html の設定

LaTeX の設定でドツボに嵌った時のメモ。

TeX は、インストーラーを発表してくださった方がいて、 今回の導入は楽勝…なんて思ってたら、LaTeX2html の導入で 完全につまづいた。

「これ」という原因は、正直よく分からないんだけれど、 「こうしたら動いた」という記録。

反省点

やっぱりTeX は、 /usr/local/ に展開しないとドツボに嵌る。 素人がうかつにディレクトリ変更しようなんて考えると、ろくなことにならない。

TeX インストーラーは、TeX のファイルを C:/tex/ というフォルダに 展開するように設定されている。

市販されているLaTeX の教科書は、どれもUNIX の伝統を引きずってるのか、 ファイルの展開先を C:/usr/local/ に展開することを想定している。

フォルダの開窓が無駄に深くなるのが嫌だったので、インストーラーの デフォルト設定でインストールを行ったのだけれど、PDF 作成までは 問題なく動くのに、html 作成になると全然駄目。

いくつかのサイトで、「悪いこと言わないから C:/usr/local/ にしとけ」 みたいな記載があって、やっぱりそういうもんだろうな、と反省した。

TeX のインストール

TexXインストーラセットアップマニュアル を利用させていただいて、インストールフォルダ名を C:/usr/local/ に変更する。ダウンロードするファイルは全部。 dviout、GhostScript、GSView もそれぞれダウンロード。最新版で大丈夫。

GhostScript、GSView をインストールするときにはインストールフォルダを 尋ねられるので、両方ともC ドライブ直下にしておく。ここをProgram Files みたいな 空白を挟んだフォルダ名にしてしまうと、やっぱりトラブルになるらしい。

WinShell のインストール

TeX 用のエディタは、結局WinShell に。もっと優れたものがあるみたいだけれど、 使っている人が一番多くて、情報が検索できるので楽。

WinShell のダウンロード&インストール&各種設定 に従って、それぞれのTeX プログラムの設定を行うだけで、 とりあえずTeX ソースを処理->dvi ファイル作成->PDF 変換->PDF 閲覧までは 問題なくいける。

奥村先生の設定 とは微妙に違うけれど、どちらに従っても大丈夫。今回TeX を何度か入れなおす 羽目になったから、どちらも試したけれど同じように動いた。

LaTeX2html の設定

何回入れてもめったに動作しないソフト。。

Windows にLaTeX2html を導入する方法は、北海道教育大学の 阿部先生のページが標準みたいになっていて、このページもまた、 TeX のインストール先を /usr/local/ にすることを前提にしている。

ちゃんと分かっている人なら、このあたりアレンジしても大丈夫なんだろうけれど、 今回は見事にドツボった。

TeX 一式を /usr/local/ に展開したあと、 l2h に 書かれているとおりにファイルをダウンロード、LaTeX2html のインストールを 行い、やっとうまく…いかなかった。

阿部先生のデフォルト設定だと、画像はPNG で保存する設定になっているのだけれど、 何度やっても pnmtopng.exe というプログラムのエラーが出て止まってしまう。

2回入れなおしてあきらめて、PNG 画像の代わりにGIF 画像を用いるように 設定を変えて、やっと動くようになった。

東北大学大学の岩熊先生のページで、そのあたりの設定が 公開されている。LaTeX2HTML に従い、l2h2002-2w32137patched 内にある prefs.pm を書き換える。

具体的には 228行目を $prefs’GIF’ = 1; 232行目を $prefs’PNG’ = 0; とすることで、 デフォルトでGIF 画像が選択されるようになる。

このあとコマンドプロンプトを開き、 c:\tmp\l2h2002-2w32137patched から config PREFIX+c:\usr\local\latex2html[改行]を実行、さらに install [改行] でインストールが完了する。

やっとエラー無く動いた。

WinShell との統合

これもまたコマンドライン叩くの面倒なので、WinShell でクリック一発作業ができるよう に設定を試みた。

阿部先生のパッケージ内には、l2h.bat というバッジファイルが作られているので、 これをWinShell に組み込む。

WinShellの[オプション]->[ユーザー指定プログラム]で、 今回は Tool 2 を LaTeX2html にした。 プログラム名 html 、exeファイル名 C:\l2h\tool\l2h.bat、コマンドライン “%s.tex” として、[オプション]->[表示]->[ユーザー設定] からユーザー指定プログラム を呼び出して、タスクバーに html というボタンを作成できる。

あとはボタンクリックでLaTeX2html が起動するので、すべての作業をWinShell 上で行うことができる。

デフォルトの設定だと、見栄えが好みと違うので、あとは LaTeX2HTMLのオプション に従い、l2h.bat を書き換えたり、dot.latex2html-init ファイルを 書き換えて対応する。

スタイルファイル

とりあえず昔作ったTeX の文章をPDF 変換して、html として公開可能なところまでは、 すべてWinShell 上でできるようになった。

それでもまだ、200ページを超えるTeX 文章をhtml変換しようとすると止まってしまう。 これは以前から同じ症状で、パソコンのスペックが足りないためかとも思ったのだけれど、 やっぱりうまくいかない。

同じ文章を半分に分割すれば、2つのhtml ファイルを作ることは可能だから、 ソースに致命的なエラーがあるようにも見えない。

何かまずいことやってるのか、LaTeX2html の限界なのか。誰か教えてください。。

2008.03.30

技術の欺瞞 広告の欺瞞

技術や企画、営業や広告、それぞれの職種には、たぶんそれぞれ持つべき 欺瞞のスタイルというものがある。 欺瞞を捨てた、全方向的な「よさ」を追求した先には、魅力的なプロダクトは生まれない。

「いい」製品と、魅力的な製品というものは異なっていて、商品の魅力というのは、 たぶん技術職と営業職の、欺瞞ベクトルの「ずれ」が作り出す。

Thinkpad を買った

新しいThinkPad を買った。自分みたいな素人には「速い」ということしか分からないし、 今使ってるぶんには何の不満も無いけれど、キーボードの印象がずいぶん変わった。

前使ってたA30 というモデルは、IBM 時代の製品。IBM が中国に買収されて、 「ThinkPad はもう終わりだ」とか言われる前、ThinkPad といえば質感の高い高級品という ブランドイメージがまだ残ってた頃。ノートパソコンはまだまだ高級品で、当時30万円近くした。

A30 は重くて固くて、キーボードを押した感覚も、しっかりしていながら粘るような、 たしかに自分は高級な製品使ってるんだな、と実感できるような感触。気に入ってたけれど、 打ち続けると結構疲れた。

今度買ったT61 は、もう4 世代ぐらい先に進んだ製品で、 薄いし軽いし、なんとなく「ありがたみ」に欠ける印象。

筐体の造りなんかはしっかりしているし、キーボードのしっかり感なんかは むしろ向上しているのだけれど、 キーを押した感触が何だかパシャパシャしていて、安いというか、ありがたみが薄いというか。

昔のThinkPad のほうが、キーを押したときの感触が滑らかで、わずかに重たい感覚。 今のキーボードはカサカサした、乾いた感触で、キーを押し下げる圧力が軽い。

「打っていて疲れない」という、キーボード本来の性能は、たぶん新型のほうが優れている気がする。 新しいThinkPad のキーボードは、軽く打てるししっかりしているし、メーカーの人達が 「改良しました」なんて言うとおり、道具としての使いやすさは、こちらのほうが上なんだろう。

新型は打ちやすくなったその代わり、何となく、自慢できる方向とは 乖離してしまった印象。道具として使いやすい、打ちやすいキーボードと、 誰か別の人に自慢して、その人から「これいいね」と言われるキーボードとは、 たぶん違うんだと思う。

新しいThinkPad は、だから道具としては十分満足して使っているんだけれど、 誰かに自慢したいとか、ものすごくいい物を買った充実感とか、そんなものは案外薄い。

スカイラインGTR のこと

日産が作ったスーパーカー「スカイラインGTR」を販売する人達は、あれを「いい車でしょう?」なんて 紹介してはいけないんだと思う。

今度のGTR は、開発した人のインタビューを読んでも「最高の車を目指しました」みたいなコメントが 並んで、それを売る人達もまた「いい車でしょう?」なんて。たしかにすごい性能の車なんだろうけれど、 何のゆがみも内包しない「よさ」という価値には、何だか魅力を感じない。

R32 型GTR が販売された頃の本を読むと、GTR を開発した人達は、 とにかく「レースに勝つ車」を作ろうとしていた印象。 誰も「よさ」なんか目指してなくて、当時のグループA 規約の範囲内で、 ほとんど反則に近いやりかたで、「勝つ」ことだけを想定していた。

あれを販売する人達も、想定外の化け物を送られて、 案外困ったのだと思う。「いい車でしょう?」なんて無批判に言い切るには、 当時のスカイラインは何だか不気味な印象。「うちの技術屋がとんでもない怪物作ってしまいまして…」 なんて売りかたするしかないような。

結果として、R32 は大成功したけれど、あとに続いたスカイラインは、 R32 よりも性能はよかったにもかかわらず、先代を越える魅力で語られらなった。 技術職と営業職の「ずれ」というものが、R32の魅力を生み出していたのだと思う。

欺瞞が魅力を作り出す

魅力というのはたぶん、製品の「よさ」が事後的に作り出すのではなくて、 製品を開発した人と、それを販売する人とが持つ欺瞞のベクトルがずれた場所に発生する。

思ったこと素直に伝える、欺瞞のないメッセージには力が無い。 訴える力が強い人達は、たぶんそれぞれ独自に作り出した欺瞞のスタイルを持っていて、 ある程度意識的に、それを運用している。

そもそも欺瞞が無かったり、技術者と営業との欺瞞ベクトルが一致してしまうと、 そのプロダクトは「つまらなく」なる。 それがたとえ「いい製品」であったとしても、つまらない製品は、自慢できない。

技術者と営業職と、大雑把にお仕事を分けると、 それぞれの職種に要求される「欺瞞の使いこなしかた」は 異なっていて、その異なりかたも、メーカーとか、人種で共有され、 引き継がれるべき文化なんだと思う。

日本人なら、技術者は常に「完成度はまだ中途で、まだ改良の余地がある」と言わなきゃいけないし、 それを販売する人達は、「うちの技術馬鹿どもが暴走しまして…」と顧客に謝らないといけない。 たとえどんなにいい製品でも、日本人は「いい製品でしょう? 」なんて言っちゃいけない。

アメリカの技術者なんかは、むしろ何作っても「これが自分の考える最高の製品だ」なんて 胸張るし、それを売る人達は、額に青筋浮かべながら、 苦虫噛み潰した笑顔で「いい車でしょう ? 」と言わなきゃいけない。

シェルビー・マスタングとか、ダッジ・チャージャーとか、 何だかもう、乗るだけで頭悪くなりそうで、ものすごく魅力的。技術者が全方向的な馬鹿車作って、 営業の人が、それを何の衒いもなく「すばらしい車ができました」と言い切るのは、 アメリカ車にだけ許された欺瞞のスタイル。

性能は、もちろんスカイラインGTR のほうが上なんだろうけれど、 こんなアメリカンスポーツが好きな人達にとっては、馬鹿みたいな排気量であったり、 燃費の悪さとか、音のうるささとかそんなものこそが魅力。たぶん10年たっても同じ車を乗り回して、 やっぱり「これ馬鹿でしょう?」なんて、みんなに自慢してそう。 限定生産品だから手が出ないけれど、乗れるものならものすごく欲しい。

トヨタのレクサスなんかは、やっぱりこのへん間違ってるんだと思う。

トヨタの技術者が全力注ぎ込んでるのは、やっぱりベースになった乗用車のほうであって、 レクサスで売ってるのは、それをきれいに仕上げて値段を上げた車。

「限られた予算に機能を詰め込む」のはまさに技術で、それは日本のお家芸だけれど、 「浮かせたお金で「きれい」を乗っける」のは、何となく技術屋としてかっこよく見えなくて、 中の人達もたぶん、「暴走する技術者」としてでなく、 「企画の人に言われるがままに仕事しました」というイメージ。

レクサスの販売店は、たしかに丁寧。非の打ち所の無いいい車を並べて、「いい車でしょう ?」なんて。 「いい」物を「いい」と表現することは、もちろん全然間違いではないんだけれど、 欺瞞の無い言葉は響かない。予定通りに作った「いい」車というのは、 「既製品を薄めて膨らませて、200 万円上乗せしてみました」なんて思惑が透けて、 なんだかつまらない。

トヨタ自動車には、電気レクサスのエンジンをヴィッツのボディに押し込んだ 「リアルチョロ Q」開発してほしい。そんな動く危険物を力ずくで販売して、 「いい車でしょう?」 なんてやってくれたら、もう一生ついていくから。

2008.03.29

正しい技術は驚きを生まない

ウルルン滞在記だったか、レポーターが未開の地を訪れるテレビ番組で、 ジャングルで昔ながらの狩猟生活をする人たちが取材されてた。 族長の住居には電話線が引かれていて、族長は電子メールで「注文」を受けていた。

おそらく「通信」というのは、かなり昔から人類が共通に持っていた発想であって、 それが文字や狼煙みたいなものであっても、インターネットみたいな ものであっても、それが「通信」という考えかたの延長線上に乗っている限り、 適応するのは案外簡単なのかもしれない。

番組の中では、族長は電子メールを使っていたけれど、 その人がたとえばAmazon の通信販売を利用できたりするのかどうか、 ぜひとも見てみたかった。

電子メールによる情報交換と、ネット世界での買い物。それを支える技術は、 どちらも同じような発達を遂げたものだけれど、発想は別物。 メールは通信の延長上にあるけれど、ネット取引は「顔を見たことがない相手を信用する」という、 たぶん未開民族の人たちが経験したことがない振る舞いを前提にしていて、 族長は戸惑うような気がする。

便利な技術と驚く政治

士郎正宗が描く未来世界は、ところどころで的を外しているにもかかわらず、 それでもなお、すごくリアルに見える。

あれはたぶん、登場人物がみんな、そこにある未来技術を「当たり前」のものとして生活している世界を 描写しているからなんだと思う。小説で未来世界が描かれるときに、発達した技術の「すごさ」が 強調されると、なんだか昔のSF 映画みたいな、陳腐な印象になってしまう。

すごい技術のすごさというのは、その世界にいない、読者の目線からみたすごさなのであって 未来世界に住む人が、そんな技術を見てすごいと感じたり、「すごい技術」なんて表現するのは、 どこかおかしい。

youtube とかustream みたいな動画配信技術は、 ちょっと前までは夢だった。手塚治虫の未来漫画では、テレビ電話が欠かせないインフラとして 登場してたし、まだ光回線がそれほど普及していなかった頃、NTT が光のデモを行うときには、 「インターネットで動画が見られます」をやるのがお約束だった。

技術は進歩して、動画を簡単に配信できる youtube が登場したけれど、 夢だったはずの未来技術は、すぐに当たり前のものになった。 たぶん誰もが「便利だな」とは思ったけれど、 「すごい時代になったものだ」とか、「未来はここにある」とか、 そんな感想はもてなかった気がする。

あれを見て感激した人というのは、むしろインターネットの技術を相当に深く理解している人であって、 ただのユーザーである自分達は、そのすごさが想像の延長線上にあった時点で、 それ以上驚くことができなかった。

これから先、インターネットがもっと進歩して、スタートレックみたいな 等身大 3D 画像を送れるようになってもなお、 一般ユーザーは、「ああそうか」としか思えない気がする。 そこにあるのは「便利な超技術」ではあるけれど、人々に驚きをもたらして、 生活を一変させるような、そんなものとはどこか違う。

驚きはむしろ、社会制度が作り出す。

「明日から銃の所持を解禁します」なんて宣言を政府が出したら、 世界は一変すると思うし、日本中の「普通の人」が、「すごい時代になったものだ」と驚く。 銃なんて、もう100年も昔から変わらない技術なのに。

新しい技術なんかを作らなくても、決まりごとを変更すれば驚きが生まれるし、 今あるものの見かたを少し変えるだけで、社会は簡単にひっくり返る。

救急ネットワークのこと

現場に着いた救急車が、その場所から最適な施設を探せる病院検索システム。

システムを回すために大切なのは、「すべての病院がネットワークに前向きに参加すること」であって、 ネットワークの信頼性とか匿名性とか、技術的な側面は、システムの成否を左右しないし、 技術の進歩それ自体は、成功を生む力にはなり得ない。

秘匿性とか信頼性が問題になっているその時点で、そのシステムの運用には、 社会制度上の問題が内包されている。制度の問題を技術で解決するのは困難で、 莫大なコストがかかる。

病院を検索するだけならば、ネットワークには、公開情報を流すだけでも 十分にシステムを回せるはず。

その日に当直する医師の名前とか、その人の専門領域なんかは、 病院に行けば公開されているものだし、患者さんの氏名とか住所、 現在の病状みたいな個人情報は、「現場の救急隊を信用する」という 考えかたがみんなに共有されれば、それをネットワークに流す必要が 発生しない。

病院が首尾よく見つかったところで、実際に搬送するときには、 お互い必ず電話で確認するから、たとえネットワークが腐ったところで、 実はあんまり困らない。これもまた、「腐ったら昔ながらのやりかたをする」 という振る舞いを、みんなで共有すればいいだけだから。

情報は自由になりたがるし、弱いところを持ったネットワークは、 必ずそこから壊れてしまう。そんな本能みたいなものを押さえつけるにはお金がかかるし、 一生懸命技術を開発しても、やっぱりうまく行かない。

完璧に隠すやりかたを考えるよりも、隠さないですむ方法論考えるとか、 信頼性を高めるよりも、信頼性を必要としないやりかた、技術を進歩させるやりかたよりも、 政治的な解決目指したほうが正解に近いケースというのは、たぶん多い。

技術を極めて、今までの習慣を変えないやりかたするよりも、技術が成し遂げてきたことを 放棄するような振舞いかたを考え出して、それをみんなで共有するやりかたをしたほうが、 少なくとも安価にすむし、技術が守ろうとしてきた何かが突破される危険も減る。

政治力を振るえる立場にいる人達こそは、やっぱり政治的な解決のエレガントさ、 強力さを、もっと信じるべきなんだと思う。

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